2019年2月3日

フランス流自然分類法のイギリスへの導入 Endersby, Imperial Nature, Ch. 6

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (Chicago: University of Chicago Press, 2008), pp. 170–194.

第6章 落ち着かせること(Settling)

フッカーにとって1850年代は、自身の仕事や生活を落ち着かせる時期であった。それと同時に、フッカーは植物分類体系に関する混乱も落ち着かせようと試みていた。
リンネの分類体系(性の体系)はシンプルかつ客観的であり広く普及したが、本人も認めていたように、ごく一部の性質だけに基づいている点で人為的な体系であった。より自然な分類を目指す試みは、アダンソン、ド・ジュシュー、ド・カンドルによってフランスで発展し、自然分類として知られるようになった。

一方、イギリスではリンネの分類体系に対する支持が根強く、分類学者たちは植物の構造を研究することに熱心でなかった。大陸のほとんどでリンネの体系が捨て去られたあともこの傾向は続き、イギリスの植物学は遅れていると言われるようになっていった。植物学者のジョン・リンドリーなどはリンネの体系を激しく批判していたが、初学者には有用だという観点から擁護する声も強かった。

リンネの体系を批判する人々も、代わりにどのような体系を支持するかという点ではまったくまとまらなかった。自然分類を主張する主流派のなかでも、具体的な原理についての意見はバラバラであった。同一の人物でさえ時期によって意見が変わってしまい、リンドリーの本は以前の著作と内容があまりにも大きく異なっているとして批判された。1858年から62年までのあいだにはイギリスの植物相に関する本が3冊出版され、どれも自然分類を標榜していたが、ブリテン島に存在する植物種の数について、1708種、1571種、1285種と大きく異なった数を出した。こうした混乱は、リンネの体系を擁護する人々を利していた。

さらに、他の分類体系を主張する人々の存在が混乱に拍車をかけていた。ウィリアム・シャープ・マクリーが提唱した5つ組の分類は広く支持を集めていたし、他にもジョージ・ラックスフォードが提唱した7つ組の分類、エイドリアン・ハワースが提唱した二分法の分類、トーマス・バスカービルが提唱した球状の分類などがあった。こうした理論には典型的な特徴として、人為的な分類に対する批判や、植物間の類縁関係への注目があった。また、ローレンツ・オーケンをはじめとするドイツの自然哲学から大きな影響を受けている傾向があった(→参考:グールド『フラミンゴの微笑』第13章「五の法則」)。

以上のような議論の紛糾は、植物学は指導原理のない非哲学的な研究分野だという印象を広め、その地位を危うくしていた。植物に関心のある一般大衆にとっても、こうした状況は困惑のもととなっていた。また、本国での議論は、植民地のナチュラリストたちにも非常に強い影響を与えており、フッカーにとっては悩みの種であった。

フッカーには、なんとしてもリンネの体系を自然分類に置き換えたかった。というのも、リンネの体系が維持されている限りは、植物分類の研究はより信望のある植物分布や植物生理の研究から切り離されたままだからである。フッカーにとって自然分類は、分類の営みを植物学全体の真ん中に位置づけるための鍵であった。フッカーは自然分類とリンネ式分類の二つの検索表を併用することで、植民地の収集者たちをリンネ式から自然分類に移行させようとした。

同時にフッカーは、自然分類の複雑性を、自らと植民地の収集者たちのあいだに格差を維持するために用いていた。フッカーは自著のなかで分類の複雑性や難しさを強調し、自分には推論をする資格があるが収集者たちにはないということを暗黙裡に伝えようとしていた。これは特にスプリッターたちに対する警告であった。

動物分類の分野では、ヒュー・ストリックランドが分類を安定化させる役割を果たしていた。ストリックランドは、分類に関する議論の仕方を定めるのではなく、意見を言う資格がある人間が誰かを定めて、地方のナチュラリストたちを分類のプロセスから排除することで分類の混乱を収拾していた。フッカーとストリクッランドは、似たアプローチを用いていたといえる。

メモ:リンネ以降の植物分類体系の系譜
①【いわゆる人為分類】リンネ
②【いわゆる自然分類】アダンソン(仏)→ ド・ジュシュー(仏)→ ド・カンドル(スイス)→ ベンサム&フッカー(英)→ ベッシー(米)
③【いわゆる系統分類】(ダーウィン)→(ヘッケル)→ アイヒラー(独)→ エングラー(独)→ メルヒオール(独)の新エングラー体系

2018年12月31日

伊藤圭介『泰西本草名疏』の多言語性 Fukuoka, The Premise of Fidelity, Ch. 2

Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan (Stanford: Stanford University Press, 2012), pp. 53–78.
Ch. 2 “Ways of Conceptualizing the Real: Scripts, Names, and Materia Medica

 
 日本語の「写真」という言葉は、現代ではphotographを意味するものとなっているが、かつては少し異なった意味をもっていた。この言葉は、江戸時代後期に尾張で活動した本草学研究会の嘗百社において、表現が対象物の真に迫っていることを意味する概念として発展し、彼らの本草学研究の基本的な価値観を表すようになっていた。この本では、嘗百社が迫真性についてどう考え、どのように「写真」概念を形成してきたのかを歴史的に追うことで、認識論的な写真史を描き出したい。
 第2章では、嘗百社のメンバーであった伊藤圭介がリンネ式植物命名法を初めて日本に紹介した『泰西本草名疏』(1829)の検討を通して、本草学における翻訳の問題に目を向ける。フーコーによれば、博物学の出現は単に自然界に対する興味関心が人々に芽生えたことによって生じたのではなく、言葉と物の結びつき方に関する一つのエピステーメーの形成に深く関係していた。博物学は言語と切っても切り離せない関係にあり、それゆえに複数の異なる言語の併存に対して本草学者たちがどのように取り組んだのかという問題は本質的に重要である。日本の本草学史は、日本か西洋か、封建的か近代的か、などといった二分法的観点から探究されることが多かったが、ここでは本草学をそうした二分法を超えたところにある複層的で多言語的な知の競技場として見てみたい。
 江戸時代の本草学は、李時珍『本草綱目』(1596)の翻訳から始まった。はじめは中国の本草学がそのまま日本にも適用できることが前提とされていたが、やがてそれを疑う学者たちが現れた。貝原益軒の『大和本草』(1709)は、日本の植物相は中国と異なっているため『本草綱目』の知識はそのままでは必ずしも有効ではないという認識に立ち、自らの経験や知識によって権威ある書物の知識を疑うことを可能にした。これに触発されて、尾張では松平君山の『本草正譌』(1776)や、嘗百社の創立者である水谷豊文の『物品識名』(1809)など、尾張の植物と中国の書物のあいだにある隔たりを埋めようとする著作が続々と現れた。豊文と伊藤圭介は、本草学の知識と実践に安定した基礎を設けるため、リンネ式の分類体系を取り入れることにした。
 圭介は『泰西本草名疏』において、リンネの体系を取り入れる理由を、個々の植物の「真」を探究して患者の治療に活かすためだとしている。圭介の態度は、江戸で活動していた宇田川榕菴の『菩多尼訶経』(1822)と対照的である。榕菴は、リンネの体系に解釈や修正を加えることなくそのまま導入することを目標としていたのに対して、圭介は名称の混乱を解決する手段としてリンネの体系を用いていた。
 『泰西本草名疏』は、大部分の内容をツンベルクの『フロラ・ヤポニカ』(1784)に負っているが、形態や地域などに関する記述を削除し、ラテン語・日本語・中国語の種名だけを記載した。配列はラテン語の種名のアルファベット順であり、このことによって同属内の種の近縁性が視覚的に読み取れるようになっている。ここでは、読者はラテン語の発音や意味を知っている必要はない。圭介はラテン語名を安定した名称として用いることで、名称の混乱を解きほぐしたのである。フーコーの研究はヨーロッパに限られていたが、ここではアルファベットのラテン語名が単に視覚的記号として用いられている、より強い事例を見出すことができる。

2018年9月18日

ジェントルマン科学人と職業科学者のあいだ Endersby, Imperial Nature, Introduction

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (Chicago: University of Chicago Press, 2008), pp. 1–30.


● イントロダクション

 ヴィクトリア朝(1837–1901)は、一般的に科学の職業化が進んだ時代として想像されている。工業化が進み、社会構造が変化し、進歩への傾倒が伝統への信頼にとって代わり、帝国が拡大し、科学が宗教に衝撃を与えた時代なのだから、大学で訓練を受けた科学者たちという新しい集団の台頭がその時代の象徴だというのはわかりやすいイメージだ。しかしこのような一面的な見方は、歴史家たちが近年明らかにしてきた、より豊かで複雑なストーリーを埋没させてしまう。英国で科学に携わっていた人々は、科学によってお金を得ることを立派なことだとはまったく思っていなかったので、職業的科学者の地位を積極的に目指していた人間は数少なかった。彼らは自分たちを私心のないジェントルマンだと思っていて、科学の職人だとは思っていなかったし、ましてやフランスの科学者たちがそうであったような政府の下僕だとも思っていなかった。彼らの多くは、愛好心のために科学をするということに誇りをもっていて、その点において自分たちは金銭のために職業として科学をしている人々よりもまさっていると考えていた。今日では、プロはアマチュアにまさっていると当然のように思われているが、当時はそのようなカテゴリーが定義され取り決められている最中だったのである。エリートである科学の実践者たちにとってのモデルは、知識の探求のために私財をなげうち、国王の友人兼アドバイザーとして帝国に貢献するも、政府の役職には就かずお金も受け取らなかったジョセフ・バンクスのような、18世紀のジェントルマンの理想を体現した人物であった。
 特別に大きな財産をもたなかったナチュラリストたちにとって、金銭的収入とジェントルマンの理想像は難しいジレンマであった。ナチュラリストたちは、帝国のあちこちから標本を集めてくれる協力者たちのネットワークに頼らなければならなかったが、彼らに十分な見返りを与えて懐柔するには名声も必要だったからである。
 本書ではジョセフ・ダルトン・フッカー(1817–1911)に焦点を当てるが、それは、ダーウィニズムの受容、帝国がもたらした帰結、科学専門職の出現という、ヴィクトリア期の科学に関する我々の理解で際立っている三つのテーマが彼の人生で中心的な位置を占めるからである。フッカーは1817年、グラスゴー大学の植物学教授やキューガーデンの園長を務めたウィリアム・ジャクソン・フッカーの子として生まれた。父の友人の力添えで海軍艦艇のエレベス号に乗船し、1839年から43年まで南極探検航海に参加した。帰国後、自ら収集した植物および植民地の協力者たちから入手した大量の標本をもとにして、南極大陸やニュージーランド、タスマニアの植物相について詳述したシリーズ本を刊行した。フッカーはこの業績で得た名声に後押しされてキューガーデンの副園長となることができ、1865年に父ウィリアムが死去するとこれを継いで園長に就任した。フッカーは、名声を損なうことなく職業的科学者の地位に就いた最初の人物の一人であるといえる。その一方、南極探検航海からの帰国後にはダーウィンとの文通も始まっており、『種の起源』出版後には公刊物で自然選択説を擁護した最初の人物となった。ただし、フッカーによる自然選択説の支持は今まで考えられてきたより複雑な問題であり、自然選択説のいくつかの含蓄から距離を置こうともしていた。
 本書では、先述した三つのような多様なテーマを結びつけて描き出すために、ナチュラリストの「実践」に注目する(本書では「実践」を、物質的なものを扱う仕事をする行動というような意味で用いる)。採集や分類といった日常的な実践を詳細に調べ上げることで、いかにしてそうした活動が科学の理論的考察に至るまでを形作ってきたかを示したい。とはいえ、科学の生産様式が科学的概念の内容を決定するという決定論を主張したいわけではない。そうではなく、実践に注目することで科学の性質についてのより良い理解を得られるということを示したいのである。

 科学は職業(profession)なのか、それとも天職(vocation)なのかという問いは、ジェントルマンとは生まれなのか、それとも育ちなのかという問いに内包されていた。科学を志そうとする人が描く将来像は、ジェントルマンのイメージによって形作られたのである。フッカーの父ウィリアムは、受け継いだ土地を売り払って醸造所に投資したが失敗し、ナチュラルヒストリーで生計を立てていくことになる。ウィリアムはグラスゴー大学に教授職を得たものの、こうした職は他にお金を得る手段のあるジェントルマンが務めることが前提となっていたため、給料はわずかなものであった。そのため、ウィリアムは教室の扉の前に立って学生から受講料を集めたり、Gardeners’ Chronicle などに一般向けの記事を書いたりして収入を得なければならなかった。

 フッカーは自分や他人を評すとき、しばしば「哲学的かどうか」という基準を用いた。この「哲学的」という言葉の含意は、ヴィクトリア期の科学界について理解するための鍵になるので、じっくり考えてみたい。
 1868年に友人へ送った手紙のなかで、フッカーは既存の本よりも「哲学的」な、英国の植物をまとめた本を書くと述べており、これは実際にthe Student’s Flora of the British Islands (1870) として出版された。フッカーは「哲学的」という言葉で何を言わんとしたのだろうか。この本はライバルの本と比べて、イラストが無いなどお堅い雰囲気があり、分類に関しては種をまとめる傾向があり、地理的分布を強調している。これらはフッカーのいう「哲学的」の構成要素だったはずだ。
 採集の方法もまた、「哲学的」の要件であった。すぐれた採集のためには、フッカーのいう「体系の哲学」に親しんでいなければならなかった。フッカーのような大都市の分類学者は、自分に代わって世界各地で実際に採集する人々を必要としていた。こうした人々に良い採集をさせるための一つの方策は、植物学の本などの贈り物をすることだったが、そうして技量が向上した採集者たちはフッカーに対してより多くを要求してくるようになるので、厄介な問題であった。彼らはしばしば新種を自分で命名したいと要望してきたが、フッカーはこの要望に十分応えられず、摩擦を生じさせていた。
 「哲学的」の背景には、植物学の地位を向上させようとしていたフッカーらの運動も関係していた。地理的分布の法則を掴めれば、その知識は大英帝国にとって大いに役立つので、植物学の地位向上が期待された。分類の基準を厳密なものにし、採集者たちの仕事を一貫した原則に従わせることも、植物学を物理科学に引けを取らない学問にするために重要な仕事であった。
 「哲学的」の意味を理解するためにもっと重要なのは、フッカーがどうやって生計を立てていたかに注目することである。キュー植物園で常勤の職を得た後、フッカーは「アマチュア」に対して少しの優越感を見せながらも、「プロフェッショナル」であることではなく「哲学的」であることを誇りとしていた。フッカーやその同時代人が使う「プロフェッショナル」という言葉にはネガティブな意味合いがあることを見逃してはならない。
 植物学を真剣に追究している人のことを、フッカーは「プロフェッショナル」ではなく「professed」と表現していた。これは「職業(profession)」というよりも「天職(vocation)」に近い意味合いの言葉で、給料を払われているという社会経済上の地位ではなく、個人の品性(character)を表しており、真理を追究する私心のない人間という印象を与えた。「プロフェッショナル」か「アマチュア」か、という区分は、フッカーが頼みとしている植民地の採集者たちや、ジョージ・ベンサムのような重要な人物を排除することになってしまうので、避けなければならなかった。また、植物学者が自分たちを「professed」と表現するのには、実用的な薬学から植物学を切り離すねらいもあった。
「哲学的」という言葉も、「professed」と同じような役割を果たした。フッカーにとって、自らをちゃんとした分類ができない“愚か者たち”から隔てているのは、自分は哲学的であって彼らは哲学的ではないということだった。
 ヴィクトリア期の科学における「プロフェッショナル」という言葉にひとつの定義を与えるのは不可能に思える。「プロフェッショナル」と表現された人々が、空いた時間をナチュラルヒストリーに費やす法律家や医師だったということもあるのだ。
フッカーを科学の職業化という文脈に位置づけるのであれば、彼がキャリア形成のなかで用いた組織を考慮に入れる必要がある。フッカーの戦略は、自身を組織に適応させつつ、組織自体を自分の目標にかなうように作り直していくというものであった。ダーウィニズムに対するはっきりしない態度も、キュー植物園ハーバリウムの創設者という立場に由来していた。
 ヴィクトリア期は、誰がジェントルマンなのか、ジェントルマンかそうでないかを決めるのは何なのか、ということが不確定になっていった時代でもあった。都市化が進み、ある人物がジェントルマンであるか否かは不明瞭になった。そこで礼儀正しさのような品性も、ジェントルマンであることを示す上で重要となり、「哲学的」であることの一要素となった。
 「プロフェッショナル」かどうかではなく「哲学的」かどうかで人が評価されるということ、つまり収入源ではなく実践や思想や振る舞いが基準になるということは、大きく変化する社会のなかで、様々な種類の人間が自らの道を切り開くために役立った。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実のあいだに、橋渡しをしようとしていたのである。

2018年4月13日

近代科学史に関する論文15本

引き続き、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
春学期に近代科学史の授業で読んだ論文や章の一部をまとめました。

Mary Terrall, “Representing the Earth’s Shape: The Polemics Surrounding Maupertuis’s Expedition to Lapland” (1992)
1730年代のパリでは地球の形状をめぐる論争があり、モーペルテュイらは地球が横長だと主張し、逆にジャック・カッシーニらは縦長だと主張した。この論争はしばしば、新たに台頭したニュートン主義と頑迷なデカルト主義の対立として説明される。しかし、実際の論争の中心となった論点はそのような宇宙論的な問題ではなく、むしろ測定装置の良さや観測の正確性、数学的な取扱いの適切さの問題であった。モーペルテュイは新しい数学的手法である微積分や英国製の装置を高く評価し、かつてジョヴァンニ・カッシーニによって築かれたパリの天文学者の権威に挑戦することになった。モーペルテュイはこの論争を利用して、アカデミーの外部で名を上げることに成功した。

I. Bernard Cohen, Benjamin Franklin’s Science, chs.1–2. (1990)
ニュートンの『プリンキピア』と『光学』は、前者はラテン語で後者は英語で書かれたことに象徴されるように、科学として異なる方向性をもち、別々のニュートン主義的伝統の土台を築いていた。『光学』は、定量的な実験科学の著作であるが、数学をほとんど用いないという特徴がある。フランクリンは『プリンキピア』を読みこなして理解する力をもっていなかったが、『光学』から大きな影響を受け、電気を一種類の流体として説明した。

Robert Fox, “The Rise and Fall of Laplacian Physics” (1974)
18世紀末から19世紀初頭、特にナポレオン皇帝時代の1805年から1815年にかけてのパリでは、ラプラスがその政治力を背景として牽引したプログラムが物理科学に強い影響力をもった。ラプラスの物理学では、熱、光、電気、磁気といった現象が、相互に引力や斥力を働かせる粒子から成る不可秤量流体というニュートン主義的な概念によって説明された。ラプラスのプログラムは、ラプラスとベルトレが中心となり、ビオやポアソンといったアルクイユ会のメンバーや、ゲイ=リュサックなどによって支えられた。しかし、徐々に説明がうまくいかない事柄が増え、フーリエ、フレネル、アンペールらによる対抗理論の提唱もあって、ナポレオン没落以降は衰退した。

Eugene Frankel, “J. B. Biot and the Mathematization of Experimental Physics in Napoleonic France” (1977)
ラプラスとベルトレのプログラムは、新しい器具や技術の使用によって実験物理学の定量化を進め、測定の正確性を向上させ、物理変数間の関係を代数学的に表現し、その結果を不可秤量流体の理論によって説明しようとするものであった。このプログラムのもとで、ジャン=バティスト・ビオは電気、磁気、音、光、熱など、様々な研究分野を転々とした。このプログラムの着想は主にラプラスとベルトレによるが、その着想を具体的な形にしたのはビオの貢献が大きい。

Lawrence M. Principe, “A Revolution Nobody Noticed? Changes in Early Eighteenth-Century Chymistry” (2007)
 これまで、化学史といえば18世紀であり、18世紀の化学といえばラヴォアジェであるという理解がまかり通ってきた。それゆえ18世紀の化学史は、ラヴォアジェによる「革命」を説明するために必要な話題ばかりが集中的に取り上げられてきた。ゲオルク・シュタールの化学のなかでフロギストン説だけが注目され、その他は捨て置かれているのはその一例である。ラヴォアジェ中心の化学史は、目的論的であり視野が狭いという問題がある。
 1675年頃から1725年頃のあいだに起きた変化は、1760年頃から1810年頃の化学革命に匹敵する急激かつ重要なもので、もう一つの革命ともいえる。ボイルとラヴォアジェのあいだの時代にはキミストリー(chymistry)に大きな発展はなかったかのような説明はおかしい。18世紀初頭には、金属変成の術(chrysopoeia)もしくは変成(transmutation)が真剣な研究の領域から排除され、化学やその実践者たちの地位や職業的性格が高まり、顕著な理論的な刷新があった。この時代のフランス科学アカデミーでは、スキャンダルなどによってキミストリーの社会的地位が危うくなっていたため、フォントネルやニコラ・レムリが中心となって金属変成を追放し、キミストリーを再生しようとしたのである。この時点をもって初めて、同義語であった「錬金術」と「化学」が、それぞれ現代的な異なる意味をもつようになった。
 フランス科学アカデミーに所属し、金属変成を熱心に研究していたヴィルヘルム・ホンブルグの研究を綿密に見ていくと、当時のキミストリーがきわめて理論的、体系的で、成熟していたことがよくわかる。我々は、わずかな理論的記述にばかり注目するのではなく、キミストリー最大の特徴である実践に注目し、そこに潜んでいる彼らの思考プロセスを明らかにする必要がある。
 よく普及しているストーリーとして、1675年頃から1725年頃までのあいだに、合理的なデカルト主義の化学がアリストテレス主義・パルケルスス主義の17世紀のキミストリーに取って代わり、さらにそこにニュートン主義の化学が取って代わったというものがある。しかし、重要な化学者のうちに本物のデカルト主義者はいなかった。しばしばデカルト主義者の例として言及されるレムリの化学にさえ、実際のところデカルトはあまり影響を及ぼしていない。また、ニュートンは18世紀の化学の本流を説明する上では不要な名前である。ニュートンの名前は宣伝のために用いられることはあったが、真の影響を及ぼしてはいなかった。デカルト主義とニュートン主義の対立は物理学に見られるが、化学ではほとんど見られない。

John Gascoigne, “Joseph Banks and the Expansion of Empire” (1998)
アメリカ独立革命からナポレオン戦争の終結までの時代の英国では、その帝国主義的政策を一手に担う省庁(植民地省)が存在せず、そのためにジョセフ・バンクスのような政府内に役職をもたない専門家が助言し関与する余地が生じた。バンクスは政府要人とのパイプを活かし、アフリカ協会やロンドン伝道協会といった団体を動かして探検を加速させ、植民地の農業改良に注力し、英国の帝国主義的拡大に寄与した。のちのイギリス第二帝国による植民地政策の性格は、実はこの時期に形成されていたのである。

John Gascoigne, “The Royal Society and the Emergence of Science as an Instrument of State Policy” (1999)
パリやベルリンのアカデミーとは異なり、ロンドンの王立協会は政府から資金援助や指示を受けておらず、その自主性や独立性を誇りとしていた。しかし実際には、王立協会のメンバーは政府中枢の重要人物たちと個人的関係や階級意識で繋がっており、政府に科学関係の助言を与えていた。特に、1778年にジョセフ・バンクスが王立協会の会長に就任してからは、その結びつきが一層強まった。このように非公式な方法で政府の仕事に携わることを可能にしていた寡頭制の政治体制は19世紀に強く批判されるようになり、王立協会はより正式な方法で国家の政策に関与するようになった。総力戦下の1916年になってようやく、政府内に科学を専門に扱う科学産業研究庁が組織された。哲学者と政治家が手を携えるフランシス・ベーコンの理想は、最終的に戦争によって実現したのだといえる。

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (2010)
Introduction
ジョセフ・ダルトン・フッカーは、科学の担い手がジェントルマンから職業的科学者へと変わっていった時代の人物である。フッカーは自分や他人を評すとき、「プロフェッショナルかアマチュアか」ではなく「哲学的かどうか」という基準を用いた。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実の狭間にあったことの表れだと考えられる。
Ch. 10 “Governing” 
1865年にキュー植物園の園長に就任したフッカーには、収入を遺産やパトロンではなく政府に頼る立場でありながら、ジェントルマンを自認するというキメラ的性質があった。キュー植物園自体にも、公によって維持され運営されてきたものであるが、一方でフッカーの父ウィリアムが私的に築き上げてきたものでもあるというハイブリッド的性質があった。キュー植物園は午後の時間帯に一般の人々に開放されていたが、これはフッカーにとって、貧しい人々にも美しい空間を分け与えるというジェントルマンとしての務めであった。1870年代初頭、建設長官のアイルトン(Acton Smee Ayrton)がキュー植物園を一般向けの公園にして研究機能は大英博物館に移管させようとしたことで、キュー植物園の管理権を主張するフッカーやそれに同調したハクスリーやダーウィンらとのあいだにアイルトン論争が生じた。アイルトンは近代的な官僚制を適用して科学をプロフェッショナル化しようとしたのに対し、フッカーらはジェントルマンの科学を維持しようとする立場から抵抗したのである。

Bruce J. Hunt, “Doing Science in a Global Empire: Cable Telegraphy and Electrical Physics in Victorian Britain” (1997)
帝国の文脈は、地質学や植物学、動物学などといった自然史系の分野のみならず、電磁気学の形成にも深く関わった。19世紀後半の英国は、陸上のみならず大西洋海底にも電信ケーブルを敷設して、アメリカ、エジプト、インド、香港、オーストラリアに至るまで、世界中の植民地と英国を電信網で結んで「帝国の神経」とした。この電信網の敷設と運用に膨大な資金と人的資源が投入された結果、英国では電気に関わる単位や規格の標準化や、測定技術の発展が進んだ。また、電磁気現象を「場」の考え方を用いて定式化するファラデーのアプローチは当初支持されなかったが、海底電信ケーブルの問題を扱う上で都合が良いことがわかり、英国で独自の発展を遂げた。ドイツやフランスでは電磁気現象を粒子間の遠隔作用として捉えるアプローチが19世紀を通して支配的であったのに対し、英国では1850年代半ばから「場」のアプローチが台頭し、1860年代から80年代にかけてマクスウェルとその後継者たちによって理論が完成されたのである。マクスウェルの理論は、1888年にドイツのヘルツが電磁波の存在を実験的に示したことで確証されたが、同時に無線電信技術への道が開かれ、英国の情報優位が失われる結果につながったのは皮肉だといえる。

Robert Kargon, “Model and Analogy in Victorian Science: Maxwell’s Critique of the French Physicists” (1969)

19世紀初頭の物理学では、ニュートン主義の立場をとるラプラスやポアソンらの学派が、遠隔作用を働かせる粒子の存在を前提した上で、そこから演繹された現象を実験結果と比較する手法で物理現象の説明を進めていた。一方、実証主義者のフーリエやそれに追随したオームらは、原因ではなく法則のみを追求し、物理学を数学に還元しようとしていた。マクスウェルは、現象から出発しない前者の手法にも、物理的内実を欠いた後者の手法にも満足できず、別の手法として物理的アナロジーをつくる方向に進んだ。こうしてマクスウェルは、ファラデーの電気力線についての論文(1861–62)で有名な渦のモデルを提案したが、これを真の物理学理論だと考えていたわけではない。マクスウェルは、このようなアナロジーをつくることのメリットは、それが何も説明しないことにあると考えていた。渦のモデルが足掛かりとなって完成された論文「電磁場の動力学的理論」(1865)では、アナロジーは姿を消すことになった。

Robert M. Young, Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture, ch.4 “Darwin’s Metaphor: Does Nature Select?” (1985)
ダーウィンはライエルの斉一主義を継承したことで、生物が方向性をもって進化することを地史の定向性から類推することができなくなってしまった。ダーウィンが用いることができたアナロジーは自然選択と人為選択のあいだのそれであったが、このアナロジーによって自然を擬人化したことで、ダーウィンは多くの批判を引き受けることになった。

Robert Marc Friedman, The Politics of Excellence: Behind the Nobel Prize in Science, ch.7 “Einstein Must Never Get a Nobel Prize: Keeping Physics Safe for Sweden” (2001)
アインシュタインの相対性理論は、物理学に限らずそれまでの真・善・美の概念を破壊するものとされて様々な反対に遭った。ドイツでは、真のドイツ科学は実験に基づくと主張するレーナルトやシュタルクが、アインシュタインの理論を形而上学的なユダヤ科学として排撃する動きがあった。ノーベル賞の受賞も、スウェーデンの学術コミュニティ内部の論理によって遅れた。1919年の皆既日食の観測でアインシュタインは世界的な名声を得るに至ったが、1920年の選考では、相対性理論に対して否定的なアレニウスのレポートに賛同が集まり、また長く選考委員を務めてきたBernhard Hasselbergが病気で退職する予定であったため、彼の友人であったギヨームが選ばれた。1921年の選考では、32人の推薦者のうち14人がアインシュタインを推薦したが、王立科学アカデミーやウプサラ大学で権威を振るっていたアルヴァル・グルストランドが強く反対したことで保留となった。最終的には、病死したHasselbergに代わってノーベル物理学賞委員会に入ったCarl Wilhelm Oseenの努力によって、光電効果の法則の発見を授賞理由とすることで1922年にアインシュタインの受賞が決まった。

Robert H. Kargon, “Temple to Science: Cooperative Research and the Birth of the California Institute of Technology” (1977)
Robert H. Kargon, The Rise of Robert Millikan: Portrait of a Life in American Science, ch.4 “The Scientist in Action” (1982)

米国科学アカデミー(NAS)は1863年に創設されていたが、米国の科学研究を組織化するような役割は果たしていなかった。そこで、第一次世界大戦において科学が軍事的に重要となったことを背景として、ウィルソン山天文台を設立した天文学者のジョージ・ヘールの呼びかけのもと、学術・産業・教育・政府の各界から代表者を招いた全米研究評議会(NRC)が1916年に創設される。ヘールと、彼を助けた物理学者のロバート・ミリカン、化学者のアーサー・ノイズの三人は、天文学や物理学や化学といった異なる分野が垣根を越えて協力することが今後の科学にとってきわめて重要だという認識を共有しており、カリフォルニア工科大学(Caltech)をそのような場所に生まれ変わらせようとした。彼らは、科学研究が連邦政府によってコントロールされてしまうことを恐れていたので、NRCの人脈を活かして民間のパトロンを集め、1920年代におけるCaltechの躍進を実現した。しかし、世界恐慌や第二次世界大戦の時期になると民間のパトロンは不十分となり、連邦政府による介入が本格化していくことになった。

John W. Servos, “The Industrial Relations of Science: Chemical Engineering at MIT, 1900–1939.” (1980)

20世紀初頭、マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学者アーサー・ノイズは、学生たちに工学の実践よりも物理学の原則を教えることで、MITを単なる技術学校から基礎科学に基づいた大学へと改革しようとした。一方、同じくMITの化学者であったWilliam Hultz Walkerは、ドイツの化学産業が科学者たちと経営者たちの協力によって飛躍的発展を遂げたことを念頭に、応用科学を重視して産業界との直接的な結びつきを強化しようとした。ノイズは物理化学研究所を、Walkerは応用化学研究所を、それぞれMIT内に立ち上げてプロジェクトを進めていたが、第一次世界大戦が始まると、ドイツからの輸入が途絶えたことで米国の化学産業が急速に拡大し、状況はWalkerに有利となった。ノイズは辞職し、MITの化学は産業界から支援を受けて産業のための実践的な研究をするという、Walkerの路線を突き進んで発展していった。しかし、やがてMITの化学者たちは産業界に主導権を握られている状況に不満を覚えるようになり、また世界恐慌によって産業界がMITへの支援から手を引いたことで、学長のカール・コンプトンは産業界の下僕にはならない方針を打ち出し、MITはかつてノイズが構想した方向性に近づいていった。

2017年12月21日

東アジアの科学史に関する論文15本

現在、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
こちらの秋学期に東アジア科学史の授業で読んだ論文や章のうち、特に印象に残った15本を簡単に紹介します。

Joseph Needham, Science and Civilization in China Vol. 3, “Mathematics and Science in China and the West” (1959)
ニーダム・クエスチョンの問いかけ。ルネサンス期のヨーロッパにおける数学化された自然科学の出現は、なぜ他の地域、特に中国では起こらなかったのか。ニーダム自身は、中国における官僚中心の社会構造とヨーロッパにおける重商主義の違いに注目している。

Qiong Zhang, “Demystifying Qi: The Politics of Cultural Translation and Interpretation in the Early Jesuit Mission to China” (1999)
16世紀末から17世紀初頭、明に渡ったマテオ・リッチらイエズス会の宣教師たちは、宋明理学(Neo-Confucianism)における自然の理論を否定して、代わりに西洋流の理論を普及させようとした。その際に彼らがとった戦略は、中国の古典を曲解して西洋流の理論に引きつけるのと同時に、当時の理論を古典から引き剥がすというものであった。翻訳は善良になされるとは限らず、mistranslationが目標だということも有り得る。

Peter Engelfriet, “The Chinese Euclid and its Chinese Context” (1993)
ユークリッド幾何学がどのように中国語に翻訳されたかを調査すれば、西洋と中国の根本的な文化の違いがわかるだろう……なんていう安直な考え方に対する戒め。現代の我々が当たり前に「西洋的なユークリッド幾何学の理解」だと思っているものは、西洋の数学史のなかでまったく当たり前ではなかった。我々が西洋の文化について抱いている暗黙の前提をまず疑う必要がある。

Yulia Frumer, “Before Words: Reading Western Astronomical Texts in Early Nineteenth-Century Japan” (2016)
オランダ語を読めない高橋至時(1764–1804)が、『ラランデ暦書』(ジェローム・ラランドが著したAstronomieのオランダ語訳)をどうやって理解して『ラランデ暦書管見』を書いたのか。図、表、記号、単位などが重要な役割を果たしていた。翻訳は必ずしも言語的な営みだとは限らない。

Shellen Xiao Wu, Empires of Coal: Fueling China’s Entry into the Modern World Order, 1860–1920, Ch. 3 “Lost and Found in Translation: Geology, Mining and the Search for Wealth and Power” (2015)
米国人宣教医のDaniel Jerome Mcgowanと中国人数学者の華蘅芳による『地質学原理』の中国語訳など、1870年代から80年代の中国における地質学関係著作の翻訳を調査。これらの翻訳は概して質に問題があり、地質学の知識を紹介することには失敗していたものの、科学や工業の文化を伝えることには成功していた。翻訳という営為を、静的な知識の言語間での移植というよりも、より広い文化の導入の一部として捉えようとする章。

Wayne Soon, “Science, Medicine, and Confucianism in the Making of China and Southeast Asia: Lim Boon Keng and the Overseas Chinese, 1897–1937” (2014)
シンガポールで生まれ、エディンバラで教育を受け、中国で科学や医学の教育普及に貢献した華人医師の林文慶(1869–1957)に注目する。西洋科学の中国への伝来は、欧米から日本を通して中国に伝わったというストーリーで説明されることが多い。だが、林文慶のように海外に居た中国系の人々が果たした役割も正しく評価する必要がある。

Fa-ti Fan, “Science in a Chinese Entrepôt: British Naturalists and Their Chinese Associates in Old Canton” (2003)
18世紀から19世紀初頭にかけての広東を、自然史研究のフィールドという観点から分析する。清の対外政策によって欧米諸国との交易は広東に限定されていたため、英国人(多くは東インド会社の所属)による中国自然史の研究は、コンタクトゾーンである広東の都市環境に強く依存することになった。市場、庭、職人、苗木屋、行商人、交易路などといった都市の構成要素や、そこでの日常生活、英国人と中国人の経済的・社会的な関わり方などに注目する必要がある。

Yulia Frumer, “Translating Time: Habits of Western-Style Timekeeping in Late Edo Japan” (2014)
江戸時代末期以降、日本人はどのようにして、西洋式の時計を読み、西洋式の時法を用いることができるようになったのか? もともと江戸時代の日本では、西洋由来の機械式時計が日本の時法に合うように作り変えられて用いられていた。こうした和時計を用いてきた経験と、そのなかで生まれていた様々な習慣が、西洋式の時計・時法の導入において重要な役割を果たした。この導入は、まったく新しい体系を突然に受け入れたのではなく、既存の習慣を徐々に改変していくプロセスであった。

Susan Burns, “The Body as Text: Confucianism, Reproduction, and Gender in Tokugawa Japan” (2002)
17世紀後半~18世紀前半の日本における妊娠や出産をめぐる言説の分析。儒教の宇宙論や倫理と連結した医学のもとで、出産がうまくいったかどうかは、女性が性的な欲望を抑えて貞淑な行いを貫くことができていたかどうかを判断できる根拠とみなされた。こうした言説は「妻」と「売春婦」の線引きを補強するとともに、女性の身体を(男性と異なり)家や国家に関連付けることに寄与した。背景には同時代の「生類憐れみの令」に代表される、自然な生殖を強調する新しい道徳秩序の構築があった。

Jin-kyung Park, “Husband Murder as the “Sickness” of Korea: Carceral Gynecology, Race, and Tradition in Colonial Korea, 1926–1932” (2013)
西洋諸国が「西洋と非西洋」「白人と非白人」という境界線で植民地における支配者と被支配者を画定できたのに対して、日本とその植民地は文化的にも人種的にも近縁で区別が難しく、そのことが日本の役人たちを不安にさせていた。そこで彼らは、植民地の人々を日本人から人種的・生物学的・文化的に区別する必要があった。朝鮮総督府に雇用されていた婦人科医の工藤武城(1879–?)は、1926年から1932年にかけて朝鮮の女性囚人66人を医学的に調査し、朝鮮人の女性には「本夫殺害」(夫殺し)という特有の民族病があると結論づけた。工藤の研究は、科学研究者としての日本と研究対象としての朝鮮という区別を定め、医学によってアジアの人々を救済するという日本の植民地支配のレトリックを支持するものであった。

Ian Jared Miller, The Nature of the Beasts: Empire and Exhibition at the Tokyo Imperial Zoo, Ch. 2 “The Dreamlife of Imperialism: Commerce, Conquest, and the Naturalization of Ecological Modernity” (2013)
20世紀初頭の上野動物園は、日本による帝国主義のプロジェクトを来園者に楽しく示す役割を担っていた。拡大する植民地の「野生」を見せることで、日本人の自然への渇望を生み出し、満たそうという狙いがあった。動物の展示方法は、来園者が動物の様子を近くから見ることができるように、かつ動物が捕らわれているということを来園者が意識しなくて済むように、工夫が凝らされていった。動物園はイデオロギーを自然として表現し、政策を娯楽として見せていた。

Greg Clancy, Earthquake Nation: The Cultural Politics of Japanese Seismicity, 1868–1930, Ch. 5 “A Great Earthquake” (2006)

1891年に起こった濃尾地震の被害を、お雇い外国人、地震学者、新聞社、版画家など、様々な立場の人々がどのように理解し、伝えたのか。それまでの地震と異なり、庶民に属する建築物のみならず、エリート層や国家に属する建築物である西洋建築や線路も大きな被害を受けたことは驚きをもって受け止められ、特に庶民に好まれる版画で強調された。一方、「世直し鯰」に象徴されるように、江戸時代において地震は幸運・不運を再分配する(被災者以外の低い身分の人々や大工などにとっては歓迎すべき)出来事として理解されていたが、濃尾地震においては義援金などを通じて被災者を助けようとする動きが広まり、天皇も存在感を示し、日清戦争に向けて国民国家の確立を準備する出来事となった(Earthquake Nationというタイトルに注目したい)。

Timothy S. George, Minamata: Pollution and the Struggle for Democracy in Postwar Japan, Ch. 3 “Discovering the Disease and Its Cause” (2001)
何が水俣病の真相究明を阻んだのか。経済成長を優先して漁民たちを犠牲にすることを選んだ政治家や役人たち、政府や企業の意向を受けた科学者たち、「中立」であろうとして両論併記を繰り返し、各々の科学者の背後で動いている勢力に対して注意を払わなかったメディア。

Brett L. Walker, Toxic Archipelago: A History of Industrial Disease in Japan, Ch. 4 “Engineering Pain in the Jinzū River Basin” (2010)
イタイイタイ病の環境史。戦争による鉛や亜鉛の需要の増加、採鉱技術の変化、高い技術をもつ鉱夫たちの植民地への流出、できるだけ多くの子どもを産ませようとした政府の方針、肌を日光から隠すことを女性たちに強いた美的感覚など、イタイイタイ病を引き起こした複雑な因果関係の網目を分析。“Engineering Pain”というタイトルにも注目したい章。

William M. Tsutsui, “Landscapes in the Dark Valley: Toward an Environmental History of Wartime Japan” (2004)
第二次世界大戦が日本の自然環境に与えた影響は、必ずしもそれほど悪いものだったとは言い切れず、むしろ良い面もあった。戦争が人間にとって破滅的で悲劇的だからといって、自然環境にとっても同じだと決めつけてはならない。人間中心主義批判とも読めそうな論文。

2017年4月2日

驚異と好奇心 Daston&Park, Wonders and the Order of Nature, 第8章前半

Lorraine Daston and Katharine Park, Wonders and the Order of Nature, 1150–1750 (New York: Zone Books, 2001), pp. 303–316.


第8章 探究の情熱

 1672年にニュートンがヘンリー・オルデンバーグに向けて書いた手紙には、プリズムを通した光の見え方に彼が驚異の念を抱き、それが好奇心につながったのだという経験が記されている。中世の自然哲学や道徳哲学においては驚異と好奇心は縁遠いものであったのだが、ニュートンや初期近代の人々にとって、驚異は好奇心をかき立てるものになっていた。だがこの後、18世紀前半までには、驚異と好奇心は再び分け隔てられていくのであった。

 以上のような変化が起こったのと同時に、かつて素晴らしい哲学的情熱として称賛されていた驚異の念は、無知や無教養の印とみなされるようになった。驚異は、哲学的エリートの情熱というよりも、卑しい大衆の感情として理解されるようになったのである。また、かつて色欲(lust)や高慢(pride)として罵られた好奇心は、公平無私でひたむきなナチュラリストの象徴だと考えられるようになった。好奇心は、色欲や高慢というよりは、物欲(avarice)や強欲(greed)に近いものだとみなされるようになったのである。こうした変化は、自然哲学者たちの研究の対象や手法に影響を及ぼした。

 本章では、驚異と好奇心に関する以上のような変化について論じる。最初に、17世紀に好奇心が色欲の類から強欲の類に変容し、それが好奇心の対象をも変えたことについて説明する。次に、17世紀半ばに驚異と好奇心が自然哲学的な探究の心理において合流したことを説明する。最後に、18世紀前半に驚異が主要な哲学的情熱の座から降格し、一方で好奇心は軽薄さの印から有徳さの証に昇格し、両者が分岐したことについて説明する。


● むさぼる好奇心

 西洋の哲学的伝統において、驚異と好奇心はほとんど2000年にわたって中立もしくは反対の関係にあった。アリストテレスやその注釈者たちにおいて、驚異(thauma)は哲学的探究の始まりであったが、その探究は好奇心(periergia)とは無関係だった。第3章でみたように、アウグスティヌスは驚異を神に対する謙虚さの表現として称賛した一方で、好奇心は色欲や食欲に関連付けて酷評した。アウグスティヌスの議論は長きに渡って大きな影響力をもち続けたが、初期近代になると、旅行者や自然研究者のあいだで好奇心を好ましく見る向きも出てきた。

 初期近代における好奇心は、アウグスティヌスにおける好奇心と大きく違っている。二つの重要な違いがあり、一つ目は色欲から強欲に移行したこと、二つ目は驚異と関連付けられたことである。

 17世紀に好奇心を論じた人物で、アウグスティヌスに比肩しうる名声をもっていたのはホッブズである。ホッブズは、人間を野獣から区別するものは好奇心だと主張し、好奇心を擁護した。ホッブズは、色欲や食欲といった身体的な欲求は満たされれば止むのに対して、好奇心は止むことがないという違いを強調した。このような特徴付けは、好奇心を努力に結びつけた。マラン・メルセンヌも、学者の生活を好奇心に基づいた休みなき探究として捉えた。こうした理解は、好奇心を色欲や食欲というよりも物欲や強欲に接近させた。

 初期近代の好奇心は、贅沢さと関係が深い。メルセンヌは、好奇心は日常生活に不要なものであると考えて、これを贅沢品とみなした。17世紀後半においては、特にフランスで、「好奇心をそそる」ということは「役に立つ」ということとまったく反対の意味だと考えられた。好奇心の無駄さは、アウグスティヌスの伝統では非難の対象であったが、今やその役に立たないということこそが、公平無私であるとして称賛されるようになった。


● 驚異と好奇心がむすびつく

 17世紀半ばにおいて、新しいもの、珍しいもの、普通でないものへの愛着が、好奇心を驚異に結び付けた。だが、この時代の驚異は、アリストテレス的な自然哲学における驚異ではない。アリストテレスの驚異が普遍的なものに関心を向けていたのに対して、この時代の驚異は個物に関心を向けている。

 17世紀の自然哲学者たちのなかで驚異と好奇心が結合したのには理由があった。驚異が注意を引き、好奇心がそれを固定するという役割分担があったのである。さまざまな燐光体についてのボイルの研究の例が示すように、この時代の自然哲学者たちは個物にこだわり、その詳細を大事にした。退屈になったり気が散ったりしても観察対象を見続けるためには、好奇心の働きが必要であった。好奇心が注意を引き続けることで、正確で厳密な調査ができた。

 一方、真実を追究するという目標があっても、驚異の念なしでは対象に注意を向けることは困難であった。フックがどこにでもいるようなハエの観察に関心を抱くためには、顕微鏡でハエを拡大し、驚異を感じなければならなかった。好奇心を刺激するためには驚異が必要だったのである。だが、それと引き換えに観察の対象や方法は制限を受けることになった。

2017年3月23日

古代ギリシアの分割の哲学 Wilkins, Species: A History of the Idea, pp. 9–27.

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. 9–27.

第1章 古典時代――分割による科学


 受け入れられた見方では、種概念の歴史は生物学以前の歴史と生物学以降の歴史に分けられるということになっている。しかし実際には、二つの歴史はかなりオーバーラップしている。それゆえ、我々はむしろ、万物の分類に適用された種概念の歴史と、生物だけに適用された種概念の歴史というふうに分けて考えるべきである。実際、種概念を鉱物にも適用したリンネ(1707–1778)も、生物の場合には鉱物の場合とは少し異なる使用法をしていた。普遍的分類学のリサーチプログラムは、プラトンからロックに至る哲学的伝統であり、そこでは種は本質や定義によって区別されるカテゴリーであった。そして、自然史から生物学が発展したのに伴って、この普遍的分類学の伝統から生じた生物学的分類学のリサーチプログラムが発展していった。

術語と伝統
 ラテン語のspecies、genusは古典ギリシャ語のeidos、genosの翻訳である。そのほか、重要な術語の対応表をp. 11に示した。しかし、これらの術語も歴史のなかで様々な異なった用い方をされてきたことを忘れてはならない。

プラトンのdiairesis
 プラトンは『ソピステス』のなかで、魚釣り術(angling)を例に、diairesis(分割、二分法)として知られる分割の方法を示した(p. 14)。この分割の方法は明らかに恣意的なものである。なお、プラトンは、自然のものについての分類と人工的なものについての分類を区別していない。生物学にプラトンの直接的な影響があらわれるのは17世紀のことであるが、間接的にはもっと早くからあらわれていた。

アリストテレス――分割、genus、species 
 アリストテレスは、genos(genus、類)、eidos(species、種)、diaphora(differentia、種差)という概念を用いた。種は、類と種差によって定められる。このとき、種差は類の定義とは異なる事柄であり、ある類に属するすべての種はその類の定義を満たしている。これらの概念が用いられる対象は生物に限らなかった。
 アリストテレスはプラトンの分割という考え方を拒絶したわけではなかったが、二分法的分類の問題点を指摘した。具体的には、否定による(privative)カテゴリーを拒否し、一つの類を三つ以上の種に分けることを受け入れた。
 しばしば、アリストテレスの分類はすべて絶対的な定義や本質によってなされているといわれる。しかし実際には、生物の器官や特徴については過剰であったり不足していたりすることがあると認めている。また、生物については種差が類と同じ特徴になり得ることも認めている。
 また、アリストテレスのgenosやeidosといった言葉の使い方は、論理学的な著作と生物を扱った著作で一貫していないともいわれてきた。これは、アリストテレスが生物学の文脈でeidosという言葉を用いたと考えるから一貫していないように見えるのである。実際には、アリストテレスは生物学的分類をつくろうとしていたのではなかった。『動物誌』においても、彼は一般的分類をつくっていたのであって、動物は彼がその方法を適用した一つの領域に過ぎなかった。

テオフラストスと自然種
 最初の植物体系学者ともいえるテオフラストス(紀元前370–285)は、アレクサンドロス大王の征服地からギリシャにもたらされた大量の植物標本に対し、アリストテレスの分類の考え方を適用した。特に、植物の種類のそれぞれについて、その本質を解剖学的特徴に基づいて見つけようとした。

エピクロス主義と発生的概念
 原子論者、特にルクレティウス(紀元前99–55)をはじめとするエピクロス主義者たちは、アリストテレス・プラトン的な伝統とは異なる説明をした。種を物質に押しつけられた型だとみなしたアリストテレスと違って、エピクロス主義者たちは物質の性質から生じた型だと考えた。アリストテレスが物質を柔軟なものとみなしたのに対し、エピクロス主義者たちは、物質はそれが形作るものを決定するとみなした。ここには、種の発生的概念(generative conception of species)のようなものが見出だせる。

「ペイリーが生物の起源に関する問いを提起した」というのは神話

Adam R. Shapiro, “Myth 8: That William Paley Raised Scientific Questions about Biological Origins That Were Eventually Answered by Charles Darwin,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 67–73.

神話8「ウィリアム・ペイリーは、ゆくゆくはダーウィンが回答することになる、生物学的起源に関する科学的な問いを提起した」

リチャード・ドーキンスと、ID説の支持者であるマイケル・ベーエは、もちろん進化に関して全く反対の意見を持っているが、ダーウィンの『種の起源』(1859)がペイリーの『自然神学』(1802)を否定したということに関しては共通の理解を示している。ペイリーは複雑な構造をもつ生物の器官の起源を説明しようとして、創造主がいるという結論に至ったが、この議論はダーウィンによって異議を唱えられることになったというのである。

しかしこのような理解はいくつかのレベルで間違っている。まず、ペイリーの議論は生物学的な起源に関する科学的な議論ではなく、神学的な議論であった。そして、ダーウィンはペイリーの議論に納得しなかったものの、彼の目標はそれを否定することではなかった。

『自然神学』の冒頭でペイリーは、もしもある人が野原で石を見かけたら、その石はずっとそこにあったと考えるかもしれないという。ここでいう「ずっと」は、永遠にという意味である。ペイリーが『自然神学』を書いた当時、天文学者たちや地質学者たちは、宇宙には始まりもないし終わりもないという考え方を真剣に検討していた。また、この考え方は何世紀にもわたってキリスト教神学の議論の的であった。

ペイリーは次に、時計を見かけた場合に我々がどのように反応するかについて論じる。ここでも、その時計がどのようにして初めに現れたかが問題なのではなく、時計が今まさに目的を持っているということが問題となる。時計と同様に生物の諸器官も、自然法則を利用している(自然法則に適応している)ように見える。こうしたものが世界に適応しているというまさにそのことが、ペイリーにデザイナーの存在を結論づけさせたのである。

ペイリー自身は世界には始まりがあると考えていたが、それを当然の前提にはしたくなかった。そこで、永遠の世界にも適用できるような議論に留めたのである。

ペイリーの目標は、世界を目的で満たしたデザイナーの存在を単に示すということではなく、そのデザイナーがどのような存在であるかという神学的な問いに答えることであった。ペイリーによれば、自然法則はどこにでも同じ仕方で適用されるので、デザイナーは一人でありそのデザイナーは遍在する(すなわち神である)という。また、宇宙には不要な苦痛がなく、喜びの経験はそれ自体が目的となっているように思われるために、神は善なるものであるという。さらに、この世界は我々が研究によって神の証拠を探求できるようにできているので、神はすべての人々に自身を理解してほしいと望んでいるのだという。

自然では説明できないものの存在を示すことで神の存在を証明するという方法もあったが、ペイリーはそうしなかった。それは、そのような証明方法が私的な知識に訴えることを促し、聖書の解釈についての宗教的対立を正当化してしまうことを恐れていたからである。ペイリーは、自然の観察に基づく公的な知識こそが合意への最良の道だと考え、自然を神学の立脚点にしようとした。

ペイリーの考えでは、最良の社会とは、人々がそれぞれに神から与えられた、生まれながらの性向に従う保守的な社会であった。こうした性向は遺伝的であると考えられた。

ペイリーにとって、自然は神が道徳を示したものであった。生物の諸器官や、異なる生物種のあいだの関係性に訴えることで、ペイリーは神の道徳法則に関する主張をした。ペイリーは自然を説明するために神に訴えたのではなく、神を説明するために自然に訴えたのである。

1830年代にはすでに、ペイリーの議論の紹介のされ方は変わっていた。1836年に出版された『自然神学』の注釈版では、地質学的な知見からすると石が永遠に存在するということはもはや考えられないという注釈が付け加えられた。この時代の読者にとって、始まりの存在はすでに前提となっており、始まり以降にどのような変化が起こってきたのかがリアルな問題となっていた。

ダーウィンは、ペイリーの議論を種の起源に関する科学的議論とはみなさなかったし、それを否定しようともしなかった。『種の起源』のなかでペイリーに言及した唯一の箇所において、ダーウィンはペイリーに賛成している。この箇所でダーウィンは、不要な苦痛をもたらすための器官はないというペイリーの議論を参照して、自然選択が生物に対して悪よりもむしろ善をなすということを論じていた。

2017年3月4日

「進化=突然変異+自然選択」というのは神話 Depew, “Myth 20”

David J. Depew, “Myth 20: That Neo-Darwinism Defines Evolution as Random Mutation Plus Natural Selection,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 164–170.

神話20「ネオ・ダーウィニズムは進化を“ランダムな突然変異+自然選択”として定義する」


1940年代以来、専門的な進化研究は「ネオ・ダーウィニズム」(もしくは進化の現代的総合説)と呼ばれる原理によって導かれてきた。この原理は、メンデル遺伝学とダーウィンの自然選択が融合して生じている。それゆえ、ネオ・ダーウィニズムをランダムな遺伝的変異と自然選択として要約するのは自然であるように感じるかもしれない。しかし、これは適切な要約ではないのである。

歴史を振り返ってみるとこのことがよくわかる。ネオ・ダーウィニズムを生んだのは、生殖系列の要素だけが遺伝するということを示した発生学者のヴァイスマン(August Weismann, 1834–1914)であった。ネオ・ダーウィニズムはダーウィンと異なり、自然選択だけで生物の適応を説明する。1900年における「メンデルの再発見」は、このネオ・ダーウィニズムを支持しただろうと思われるかもしれないが、実際にはそうではなかった。ベイトソン、ド・フリース、ヨハンセンといった初期のメンデル主義者たちは、最初から適応的であるような一跳びの不連続的な突然変異を進化の創造力の源とみなした。だが、それに対してネオ・ダーウィニストたちは、そのような一跳びの突然変異は生物の適応性を破壊してしまうと反論した(これは正しい反論であった)。そのため、遺伝学が突然変異と自然選択の統合を支持するのには数十年がかかったのである。

では、進化の創造力はどこから来るのだろうか。実際には、自然選択は他の要因と組み合わさることで革新的な働きをするのである。遺伝子流動、遺伝的浮動、減数分裂における乗換え、そういった要因との組合せが重要となる。進化とは「突然変異+選択」であるといったような単純な図式化は、進化論に反対するID説論者などによってしばしば利用されるのである。


【コメント】

この章は、科学の歴史に関する議論というよりも、進化論批判に反論する目的で書かれた、科学そのものに関する議論という印象が強い。タイトルが現在形になっているのも、その内容を反映しているといえるだろう。

だが、総合説において「進化=突然変異+自然選択」という図式が乗り越えられたというのはたしかである。自分の研究に引きつけて言えば、ジュリアン・ハクスリーは、「総合説」を象徴する著作である『進化――現代的総合』(1942)において、突然変異と選択だけで進化を説明できるという議論を明確に否定し、「突然変異→組換え→選択」という図式で進化を規定している。進化は、突然変異が現れてそれが生存と繁殖に有利であれば集団内に広まる、という単純なプロセスの繰り返しなのではない。たしかに究極的な変異の源は突然変異であるが、それが生じたときからいきなり生存や繁殖に有利であるというようなことはほとんどない。だから重要なのは、生物の集団が常に豊富な変異を保持しているということであり、有性生殖を含むさまざまな遺伝的メカニズムや集団の流動などによって新しい遺伝子の組合せがつくられる動的な状態が保たれているということである。こうした組換えのプロセスによって新しい遺伝子の組合せが大量に試され、そのなかで生存や繁殖において有利となった組合せが、選択によって広まっていく。自然選択の素材は、組換えを通して提供されるのである。このような理解は20世紀半ば以降の進化学で普及していった。

しかし、1930年代の段階では総合説においても組換えの重要性がよく認識されていなかったということが、マイアによって指摘されている。たとえばドブジャンスキーは『遺伝学と種の起源』(1937)において、突然変異と組換えは二者択一である(それゆえ後者を排して前者を採用する)かのような書き方をしていた。

ではハクスリーは、先述のような理解をどこから得ていたのだろうか。「自然選択」の起源はダーウィンやウォレスに、「突然変異」の起源はド・フリースやモーガンに求めることができるであろうが、「組換え」の起源はどこに求められるのだろうか。ハクスリーが組換えの重要性を説いた『進化――現代的総合』の第4章において、理論的なバックボーンとなったのは、「遺伝的システム」という概念を活用した英国の細胞学者ダーリントンの議論であった。さらに歴史を遡れば、ダーリントンが影響を受けた人物の一人に、交雑説を唱えたオランダの植物学者ロッツィがいる。遺伝子の組合せの変化によって豊富な変異が生じるということに早くから気付いていたのは、ロッツィのようなメンデル主義者だったのではないだろうか。

2017年2月27日

「自然選択以外に種の起源の科学的説明はなかった」というのは神話 Rupke, “Myth 13”

Nicolaas Rupke, “Myth 13: That Darwinian Natural Selection Has Been “the Only Game in Town,”” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 103–111.

神話13「ダーウィンの自然選択は“唯一の選択肢”だった」

ドーキンスに代表される多くの論者たちが、宗教的な種の個別創造説を除けば、自然選択に基づくダーウィンの進化論が採用可能な唯一の選択肢であるかのような議論をしてきた。しかし、進化論をダーウィンの理論と同一視できるというのは神話である。この神話は、構造主義 structuralism(あるいは形態主義 formalism、筆者独自の概念?)の進化論の伝統を無視している。たとえば、この神話から生じている代表的な誤解として、オーエン(1804–1892, ロンドン自然史博物館の設立者)が創造論者だというよく広まった認識がある。実際には、オーエンはダーウィン主義者ではなかったが、進化論者ではあった。構造主義的進化論は、『種の起源』(1859)以前にも以後にも根強く存在した。

構造主義の進化論では、生命の起源や多様な形態の起源は、機械論的であり物理的もしくは化学的な力の作用に帰される。構造主義の伝統は18世紀後半に始まり、自然発生というプロセスを通じて、生命の進化の歴史と、地球・太陽系・銀河・元素の進化の歴史を接続する議論がなされた。宇宙の歴史は、自然法則にしたがう物質の複雑化の過程として描かれ、生命の起源や種の起源は分子的な力に駆動されたプロセスとして理解された。こうした考え方を示した代表的な著作として、フンボルト(1769–1859)の『コスモス』(1845–1862)や、チェンバース(1802–1871)の『創造の自然史の痕跡』(1844)がある。また、生物の形態を説明するのには結晶学が持ち出された。ヘッケル(1834–1919)に代表される学者たちは、生物の形態を数学的に説明できることに注目した。ほかにも、ブルーメンバッハ(1752–1840)やオーケン(1779–1851)、トレヴィラヌス(1776–1837)、ゲーテ(1749–1832)といった人々が構造主義者であった。

では、なぜ構造主義的進化論は忘れ去られて、ダーウィニズムが唯一の進化論であるという理解が浸透したのだろうか。その原因は、構造主義者のほとんどがドイツ人だったことにあると考えられる。ナチス時代には、ゲーテやフンボルトといったドイツのロマン主義や観念論がもてはやされた。第二次大戦後、構造主義的進化論はナチスのイメージと結び付いてしまったことで衰退した。逆に、ダーウィニズムは戦後のドイツにおいて、ナチスのイメージを拭うために好まれたのである。さらには、マイアの『生物学思想の発展』(1982)に代表される、ダーウィン産業の研究がダーウィニズムの存在感をより高めていった。

【コメント】
進化論史の全てがダーウィン(とその「先駆者」)から始まっているかのような歴史記述はおかしい、というのは真っ当な指摘だろう。進化論の歴史はしばしば、ダーウィンの時代には種の起源に関する理論は宗教的なものしか存在していなかったかのように説明されてきた。このような事態は、ダーウィン本人やダーウィンを英雄視した人々の言い分を鵜呑みにした英語圏中心のヒストリオグラフィーから生じている。英語圏の外に目を向ければ、同時代にもダーウィンとはまったく異なるタイプの非宗教的進化論が存在していた。「進化論=ダーウィン」という思い込みのために、交雑による新種の形成を実証しようとしていたメンデルさえもダーウィン主義者だと誤解されてきた。

しかし、本章における筆者の「構造主義(形態主義)的伝統」という概念が何を指しているのかは、いまいちよくわからなかった。この章で挙げられているような人々のあいだの影響関係も明らかにされていない。彼らをこの言葉で一括りにするのは果たして適切なのだろうか。
 

2017年2月16日

「ラマルクの進化論は主に用不用の遺伝」というのは神話 Burkhardt, “Myth 10”

Richard W. Burkhardt Jr., “Myth 10: That Lamarckian Evolution Relied Largely on Use and Disuse and That Darwin Rejected Lamarckian Mechanisms,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 80–87.

神話10「ラマルクの進化は主として用不用に基づいていた。また、ダーウィンはこのラマルクのメカニズムを拒絶した」


生物学の教科書においてラマルク(1744–1829)とダーウィン(1809–1882)の進化論が比較されるとき、ラマルクの理論において主要なメカニズムは獲得形質の遺伝(inheritance of acquired characters)であり、ダーウィンはこれを拒絶して代わりに自然選択を唱えたのであるかのように記述されている。しかし、これらは正しくない。獲得形質の遺伝、すなわち用不用の遺伝的影響は、ラマルクの理論における生物の変化の主要な要因ではなかったし、ダーウィンは用不用の影響の遺伝を固く信じていた。

ラマルクはパリ自然史博物館で無脊椎動物を担当する教授となり、それらを分類するうちに、外的形態よりも内部器官に注目するべきだと考えるようになった。そして内部器官によって区分した分類群は、複雑性が高まっていくひとつながりの系列として整理できることに気づいた。ラマルクは『無脊椎動物誌』(1801)において、多様な動物が存在することの「二つのまったく異なった原因」に言及する。「第一の主要な原因」は、動物を前進的に複雑化させる生命力であり、第二の原因は、多様な環境によって生じる用不用の違いであった。ラマルクは『動物哲学』(1809)において、第二の原因を二つの法則によって定式化しているが、これはしばしばラマルクの理論全体を表現したものとして誤解されている。

ラマルクは獲得形質の遺伝を自分が考えたとも主張していないし、それを実験的に示そうともしていない。用不用の遺伝という考え方は、ラマルクの時代においては当たり前のこととされていたのである。

ダーウィンは、進化の最も主要な要因は自然選択であると考えていたが、獲得形質の遺伝も副次的な要因として固く信じていた。たとえば、家禽化されたアヒルが野生のカモに比べて小さな羽と大きな足の骨をもっていることや、洞窟に住んでいる動物が視力をもっていないことは、用不用の遺伝に帰された。そしてダーウィンは、『家畜と栽培植物の変異』(1868)においてパンゲン説を提唱し、獲得形質の遺伝をもたらす具体的なメカニズムを説明した。だが、ダーウィンはいつもラマルクの理論から距離をとるようにしていた。ダーウィンが用不用の遺伝とラマルクの名前を結び付けたのは、用不用の遺伝では説明できないが自然選択であれば説明できる例を持ち出してラマルクを批判したときだけであった。

【コメント】
(1) ラマルクが用いていた言葉は「獲得形質の遺伝」ではなく「獲得物の転移」。「形質 character」および「遺伝 inheritance」という観念は、ラマルクの時代の生物学にはまだ明確な形で存在しなかった。ラマルクには「適応 adaptation」の概念もない。

(2) 表題の神話がいかにして生まれたのか、という問題はこの章でほとんど扱われていない。ヴァイスマン(1834–1914)が1880年代に生殖質連続説を唱えたことで、はじめて「獲得形質の遺伝」が問題となった(バルテルミ=マドール『ラマルクと進化論』第4章)。

(3) この章は用不用の遺伝の問題に焦点を絞っているが、よくいわれる「ラマルクが進化論の先駆者」という捉え方自体、神話めいたところがあるのではないか。ダーウィンの進化論とラマルクの変移説はまったく異なる。ダーウィンの進化論は(ラマルクよりもむしろ)キュヴィエ(1769–1832)に多くを負っているというフーコーの議論(「生物学史におけるキュヴィエの位置」、『思考集成III』収録)も示唆に富んでいる。

2017年2月14日

「激変主義者と斉一主義者の対立」というのは神話 Newell, “Myth 9”

Julie Newell, “Myth 9: That Nineteenth-Century Geologists Were Divided into Opposing Camps of Catastrophists and Uniformitarians,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 74–79.

神話9「19世紀の地質学者たちは、激変主義者と斉一主義者という対立する二つの陣営に分かれていた」

地質学における論争を説明する方法として、その論争の参加者たちを対立する二つの陣営に分けるやり方が好まれてきた。だがこのような方法ではしばしば、参加者たちの考え方が誤解されたり極度に単純化されたりしている。

18世紀におけるヴェルナー主義者とハットン主義者の対立という説明もその一例である。この説明では、前者はヴェルナー(Abraham Gottlob Werner, 1749–1817)の、岩層は海洋における沈殿物によって形成されたという主張に賛成し、後者はハットン(James Hutton, 1726–1797)の、岩層は地下の火によって形成されたという主張に賛成していたということになっている(水成説論者 Neptunists と火成説論者 Vulcanists)。だが、実際のヴェルナーやハットンの考え方はこのように単純化できるものではないし、ヴェルナー主義者やハットン主義者とみなされてきた人々は、実際には各理論における地層形成の説明よりも実践的有用性に興味をもっていた。

ハットンの中心的概念のうち、三つのものが後の地質学に深い影響を与えた。第一に、地質学的な変化は現在観察できるメカニズム(現在因 actual cause)で説明されなければならないという「現在主義 actualism」、第二に、地質学的説明は現在観察されるのと同じ速度の変化に限られるという「漸進主義 gradualism」、第三に、現在主義と漸進主義に基づいて地質学的記録を説明するのに必要となる膨大な長さの「時間」である。

これらの考え方はすべて、ライエル(Charles Lyell, 1797–1875)の『地質学原理』(1831)において中心的な役割を果たした。ライエルは、過去の地質学的変化はすべて、今日の世界で観察されるのと同じ種類かつ同じ度合のプロセスで説明されると主張した。ライエルはレトリックを駆使して、現在主義と漸進主義を「斉一性 uniformity」という概念に一体化させた。

1832年、『地質学原理』に対する書評でヒューウェル(William Whewell, 1794–1866)は「斉一主義者 uniformitalians」と「激変主義者 catastrophists」という分類を導入した。ここでは激変主義者は、地史のなかで地質学的変化が異なる速度で進んできたことを主張する人たち(=現在主義ではなく漸進主義の反対者)とされていた。現在主義そのものを否定する人はほとんどいなかったのである。一方、ライエルに好意的だったヒューウェルやコニベア(William Daniel Conybeare, 1787–1857)も、ライエルの漸進主義を批判していた。つまり実際のところ、「激変主義者」とみなされてきた人々と、「斉一主義者」とみなされてきた人々は、多くの点において一致した意見をもっていたのである。

斉一主義をライエルや「科学」と同一視し、激変主義を宗教的信仰に基づいた反ライエル的な立場とみなす見方は、ライエルの批判者たちを極度に単純化し、誤解している。実際の対立は、科学と宗教のあいだで起こっていたのではなかった。

【コメント】
付け加えていえば、ハットンやライエルの議論できわめて重要な要素として「定常主義」(=地史には方向性がない!)がある。ライエルの巧妙さは、定常主義(世界観に関する主張)と現在主義(科学的方法論に関する主張)をうまく組み合わせたところにある。筆者のいう漸進主義は、現在主義を地質学的プロセスの種類だけでなく度合にも適用したものであり、「強い現在主義」と捉えることもできる。ライエルの批判者たちは「方向主義(=地史には方向性がある!)」の立場をとっていて、ライエルの定常主義と強い現在主義をどちらも批判していた。
 

「メンデルは孤独な遺伝学の先駆者」というのは神話 Kampourakis, “Myth 16”

Kostas Kampourakis, “Myth 16: That Gregor Mendel Was a Lonely Pioneer of Genetics, Being ahead of His Time,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 129–138.

神話16「グレゴール・メンデルは時代を先取りした、孤独な遺伝学の先駆者だった」

現代の遺伝学の知識をもっている我々は、しばしばメンデルの論文に過剰なものを読み込んでしまう。メンデルは遺伝因子についてではなく、形質について表記しているという点に注意する必要がある。厳密に言えば、メンデルは「分離の法則」も「独立の法則」も発見していない。さらに言えば、遺伝が粒子的であることも発見していない。

メンデルは遺伝の一般理論ではなく、異種交雑で新種は生まれるのかという問題に取り組んでいた。当時、遺伝のメカニズムは生物学の中心的な問題の一つであり、ダーウィン、スペンサー、ゴルトン、ネーゲリ、ヴァイスマン、ド・フリースといった人々が取り組んでいたが、メンデルはこのようなグループの外部にいた。実際、メンデルの論文に「遺伝」という言葉は一度もあらわれていない。

1900年以降におけるメンデル論文の急速な受容は、新しい概念的枠組みが発見された結果である。ゴルトンとヴァイスマンがハードな遺伝という考え方をつくり上げており、また細胞学者たちが形質の発現に関係する粒子が細胞内にあるという見方を支持する証拠を提供していた。

メンデルを英雄視する見方は、実際の歴史を歪めているだけでなく、科学が一般的にどのようになされるかという理解をも歪めている。
また、メンデルの実験はブルノの農業的・社会経済的文脈と関係していた。科学的な問いは、理論的というよりも経済的・技術的な要求から生じることも多いのである。

種概念の本質主義物語を覆す Wilkins, Species: A History of the Idea, Preface & Prologue

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. vii–xii; 1–8.


● Preface

この本の主要な標的は、過去50年間にわたって科学者たちによって築き上げられてきた本質主義(essentialism)の物語である。哲学者は歴史を書くことを好まないし(好むとすれば合理的再構成のようなもの)、歴史家はインテレクチュアル・ヒストリーを書くことを好まないのだが、哲学者も歴史家も書かなければ科学者が書いてしまうのである。本質主義物語を普及させたのは、主にエルンスト・マイア(Ernst Mayr, 1904–2005)であった。

種概念の歴史がとりわけ重要であるのには理由がある。一般的に言って、科学者たちは分野によって異なる距離で「転がってくる霧の壁(rolling wall of fog)」に追われている。たとえば医学生物学(medical biology)であれば、壁との距離は約5年であり、それ以上前の業績は参照されなくなる。しかし分類学は特異な分野であり、壁との距離が例外的に長い。それゆえ、「種とは何か」という問いは歴史的な性格を帯びるのである。

本質主義物語によれば、生物学的分類群については二種類の基本的な考え方がある。一つ目の立場はプラトンおよびアリストテレスに由来し、それによると、あるタイプに属するメンバーは特定の必要十分な形質のセットをもっていることによって定義されるのであり、それらの形質は固定されていて変化することがない。この考え方は、本質主義、類型学的思考(typological thinking)、形態学的思考(morphological thinking)、固定主義(fixism)などと呼ばれている。もう一方の立場では、分類群は変わり得る形質をもった生物の集団であり、その集団はべつの分類群に変容することもある。この立場は集団思考(population thinking)と呼ばれる。

だが、本質主義物語は間違っている。私はこの誤りを、概念史(conceptual history)の方法によって解消したい。私の主張は三点にまとめられる。第一に、本質主義物語は論理的伝統についての誤読に基づいている。論理的種の形相的定義と生物種の質料的形質のあいだには、アリストテレス以来ずっと明確な線引きがされていた。第二に、いつであれ生物種は発生力(generative power)を含むものとして理解されていた。種に関する現在の考え方も、この長い伝統のなかにある。第三に、種の固定性、本質、タイプは、互いに分離された異なる概念である。なお、本質主義が生物学の哲学で攻撃対象となった背景には、ポパーによる方法論的本質主義批判があったと考えられる。


● Prologue

受け入れられた見方


生物学者たちのあいだで受け入れられてきた本質主義物語を代表する論者として、古生物学者のシンプソン(George Gaylord Simpson, 1902–1984)、マイア、生物学哲学者のハル(David Hull, 1935–2010)を挙げることができる。彼らは共通して、以下のような物語を描いている。プラトンはイデア(form)あるいは種(eidos)を、本質をもつものとして定義した。アリストテレスはこれを引き継いで、類(genos)の本質をすべての種が共有するように類を種に分ける方法をつくり上げた。これに基づいて、リンネは種を一定不変で本質主義的なタイプにした。ダーウィンはこの本質主義を乗り越えた。以降のナチュラリストたちは、遺伝学の影響下で生物学的種概念を発見し、種は本質ではなく祖先を共有する集団となった。集団思考は、本質主義に取って代わってきた。

受け入れられた見方の不十分さ

受け入れられた見方はまったく間違っている。実際には、生物種に関する哲学的論点で近代に問題となったものはどれも、アリストテレスからリンネに至る2000年のあいだに既に現れていた。18世紀以降、種概念に関して本当に新しい概念的要素はほとんど登場していない。また、受け入れられた見方では、普遍論争や大いなる存在の連鎖(Great Chain of Being)が無視されている。類型学と本質主義も結びついていたわけではなく、類型学は様々な点でマイアの集団思考と一致していた。

2017年1月12日

アガシーの氷河説はいかなる試みだったか/氷河説の受容はなぜ遅れたのか  Rudwick, “The Glacial Theory”

Martin J. S. Rudwick, “The Glacial Theory,” in The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution (Aldershot: Ashgate, 2004).
※ アガシー『氷河に関する研究』(1840)の英訳(1967)に対する書評。1970年発表。

 アガシーの氷河説の重要性は、今なお十分に認識されていない。その原因の一つは、地質学史家たちがライエルの引いた分断にいまだに洗脳され続けており、その分断のもとでは氷河説は「斉一説」と「激変説」のどちらにもしっくり収まらないことにある。こういった用語は、歴史的分析の道具としては放棄すべきである。
 英訳版に前書きを書いたCarozzi教授は、氷河の作用は斉一説の立派な実例であり証拠も十分だったのにもかかわらず、フンボルトやフォン・ブーフやエリ・ド・ボーモンのような地質学者たちが強硬に反対したのは不思議だと述べている。実際、「氷河期」理論の完全な受容には、アガシー『氷河に関する研究』(1840)の出版後20~30年がかかっている。
 この問題に答えるためには、まず斉一説という用語を明確にする必要がある。ホーイカース教授が指摘したように、斉一説は、地質学的研究の方法としての現在主義と、地史は定常的パターンを維持してきたという科学理論(本来の意味での斉一説)に分解することができる。Carozzi教授のいう「斉一説」とは、前者の現在主義のことを指している。実際、ライエルを含む多くの地質学者たちが、アガシーの現在主義的研究に対しては好意的であった。それにもかかわらず彼らは、アガシーの結論を受け入れようとはしなかったのである。

 Carozzi教授は、氷河説の受容の遅れの原因を、巨大な洪水によって巨礫が移動したという古い信念が一般の人々や科学者たちのなかに深く植え付けられていたという点に求めている。ここで注意しておくべきなのは、洪水説について考えるときには、ライエルによるバイアスのかかった記述を乗り越える必要があるということだ。たとえば、聖書の洪水を地質学的洪水と同一視したバックランドを典型的な洪水論者とみなすのは、イングランドに偏った視点である。バックランドは、地質学的洪水を認めていた人々からさえも、広く批判されていた。また、1820年代頃からは大洪水も局地的であり複数回起こった出来事だと考えられるようになっていた。
 1830年代において洪水説は、科学的地位が高く説明力のある学説であった。大洪水は厳密な意味での現在因ではないが、現代において観察できる現象の度合を強めたものであり、多くの地質学者が採用していた穏健な現在主義とは矛盾しなかった。大洪水の原因も、1830年代にはエリ・ド・ボーモンの理論における山の隆起によって説明されていた。洪水説との対立は、たしかに氷河説の受容が遅れた原因を部分的には説明する。

 だが筆者は、より重要な原因は、(シャルパンティエが自ら述べていたように)当時の定向主義的総合の気運との対立にあったと考える。この総合は、当時の地質学の状況を説明したライエルの説得力ある解釈のために現在ではその存在が見えにくくなっているが、ビュフォンが普及しフーリエが正当化した地球の冷却という考え方を中心にして、地質学から生物学までの成果をまとめ上げようとするものであった。この気運は、ライエルの登場によっても衰えなかった。氷河説は最近の歴史よりもずっと寒い時代を想定するために、定向主義的総合と矛盾せざるを得なかった。

 アガシーは当初シャルパンティエの論文に懐疑的であり、1836年に転向するものの、あくまでアルプスにある迷子石に関してシャルパンティエの見方に同意したに過ぎなかった。アガシーは、ジュラ山脈の迷子石に関してはシャルパンティエとは異なる説明をした。氷河ではなく、巨大な静止した氷床が存在していたと考えたのである。これは何故だろうか。
 ここで念頭に置いておかなければならないのは、アガシーは化石魚類の研究をしていたのであり、地質学と生物学の総合という、この時代に特徴的な目標をもっていたということである。アガシーはキュヴィエの影響を強く受けていたので、過去の動物たちはいずれも住んでいた環境によく適応していたが、なんらかの原因で絶滅したと考える。もし単に氷河が少しずつ拡大していったのであれば、動物たちは南へ移住できたはずなので、絶滅が説明できない。グローバルな規模での突然の氷河期の到来が必要だったのである。そして気温上昇によって氷河期が終わると、新たな環境が出現し、そこに適した動物が現れると考えた。
 しかしアガシーは、自らの説を地球の冷却という理論とも調停しようとしていた。そのためにアガシーが考えだしたのが、気温は氷河期が到来すると急激に下がり、その終わりと共に上昇するが、もとの水準にまでは戻らないというモデルである(図 p.150)。

 バックランドが氷河説に転向したのは驚くべきことではない。バックランドはアガシーと同様、洪積世の動物の絶滅を説明する激烈なメカニズムを求めていたからである。
 バックランドはライエルが氷河説に転向したとアガシーに報告したが、これは楽観的な見方に過ぎていただろう。ライエルが現在主義的でないアガシーの巨大氷床の概念を受け入れたとは考えられないからである。ライエルは、現在因として認められる局地的な氷河については熱心に受け入れていた。しかし、定向主義者たちと同様に(ただし別の理由で)、大規模な気候変動を受け入れることはできなかったのである。
 非常にゆっくりとした「氷河期」の受容は、定向主義と斉一説のあいだにあった鋭い分断の変化を反映している。どちらも、元々想定していたよりも大規模で激烈な気候の変動を受け入れていかなければならなかったのである。

地質学、激動の時代の終わり Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 36

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 534-52.

Ch. 36 未来のために蓄える(1840–45)

36.1 更新世氷河期
アガシーが『氷河に関する研究』(1840)を出版した数か月後、シャルパンティエは『氷河に関する試論』(1841)を出版した。名声はアガシーに奪われたが、最終的に受け入れられた氷河説はシャルパンティエのほうに近かった。ダーウィンは1842年に北ウェールズの丘を再訪し、以前見えなかったものが見えるようになったとして局地的な氷河説には納得した。この頃、北極と南極の探検が進み、報告や図像が届いたことは氷河説に有利に働いた。

36.2 フィリップスとグローバルな地史
地史を化石によって区分するプロジェクトを進めたのはフィリップスであった。フィリップスは1841年に、化石に基づいて古生代・中生代・新生代という三区分とその下位区分を提唱した。一方、カンブリア紀やシルル紀やデボン紀といった区分は、岩石に基づいており局地的なものに過ぎないとして拒否した。読者は、フィリップスの三区分を、人間の歴史における古代・中世・現代と平行関係にあるものとして理解した。

36.3 アガシーと生命の系譜学
生命の歴史に方向性があることはますます明確になっていた。ライエルはこれを疑い続けていたが、そのような立場をとっていたのはライエルと、せいぜいダーウィンぐらいであった。アガシーが描いた魚類の系譜図でも明らかになったように、生命は時代を下ると共に多様化し、「高等」なグループが出現しているように見えた。これは、ラマルクの理論とも調和しない認識であった。

36.4 ヒューウェルの歴史的・因果的な科学

新たに誕生した科学を定義するのは、外部の大学者の仕事であった。ヒューウェルは『帰納的諸科学の歴史』(1837)と『帰納的諸科学の哲学』(1840)を著し、地質学を「古物学(palaeontology)」と「原因学(aetiology)」の結合した学問(palaetiology)として表現した。このような造語は広まらなかったが、地質学の科学としての地位は確立された。

アガシーによる氷河説の提唱 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 35

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 517-33.

Ch. 35 スノーボールアース?(1835–40)


35.1 アガシーのアルプス山脈「氷河期」
迷子石に関する第四の説明は、アガシーによって提唱された。アガシーはシャルパンティエに氷河の痕跡を紹介され、また友人の植物学者であるシンパーの影響も受けて、「氷河期」の考えに至った。1837年、アガシーはスイス自然科学協会の会長講演でこれを説明した。アガシーは、アルプス山脈の氷河がジュラ山脈まで到達していたというシャルパンティエの主張を否定する一方で、アルプス山脈の隆起よりも先に北極から少なくとも地中海沿岸までが氷に覆い尽くされていた時代があったのだと主張した。この状況でアルプス山脈が隆起したことで、静止した氷床が傾き、迷子石がジュラ山脈の山麓まで滑ってきたのだという。その後、気温の上昇によって氷床は溶け、一部に動く氷河が残り、それもやがて後退していったというのがアガシーの説であった。

35.2 氷河期を拡張する
1838年、アガシーはこの理論を学会で繰り返し宣伝したが、納得する地質学者は少なかった。しかし、当初はアガシーを批判していたベルン大学地質学教授のシュトゥーダーは、アガシーに同行して氷河の擦痕を観察したことで転向する。ただし、シュトゥーダーは氷河が極めて広範囲に広がっていたことを想定しており、規模の点ではシャルパンティエと、氷の性質の点ではアガシーと意見を異にしていた。

35.3 英国における氷河期
1840年、アガシーは化石魚類の研究のために英国に渡り、同時に英国の地質学者たちを氷河説に転向させようと試みた。すでにアガシーの発表を直接聞いていてそれに納得し始めていたバックランドの案内でスコットランドを調査し、氷河の痕跡を多く見つけることができた。また、グレン・ロイについても氷河による説明を提供することができた。バックランドの説得により、当初反対していたライエルすらも氷河説に転向した。そしてロンドン地質学会では、アガシー、バックランド、ライエルが発表を行った。しかし、そこに参加していたマーチソン、グリーノウ、ヒューウェルを含め、多くの地質学者はなお懐疑的であった。

2016年12月16日

ライエルを皮肉るデ・ラ・ビーチの風刺画 Rudwick, “Caricature as a Source for the History of Science: De la Beche’s Anti-Lyellian Sketches of 1831”

Martin J. S. Rudwick, “Caricature as a Source for the History of Science: De la Beche’s Anti-Lyellian Sketches of 1831,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。

 風刺画を分析することの重要性は歴史学一般では広く認められてきたが、科学史家たちは十分な注意を払ってこなかった。

 この論文で取り上げるのは、地質学者デ・ラ・ビーチ(1796–1855)が描いた、“Awful Changes” と題された風刺画(図1)である。この風刺画は、バックランドの地質学講義を題材にしていると思われてきた。しかしこの解釈では、バックランドの講義風景を描いた絵のなかにもこの絵が写り込んでいるという事実をうまく説明できない。そこでこの論文では、この絵はバックランドではなくライエルに対する風刺であるという解釈を示したい。

 この解釈の根拠となるのは、デ・ラ・ビーチが自身のノートに描きためていたいくつかのラフスケッチ的な風刺画である。前後に描かれたスケッチなどから判断して、これらはライエルの『地質学原理』第1巻の出版から1年以内に描かれたと考えられる。これらのラフスケッチは、“Awful Changes” を他の地質学者たちに回すまえに、予備的にさまざまなテーマを試していたものだと推測される。

 図3~5のラフスケッチはいずれも、ライエルと思われる人物が他人に色眼鏡や眼帯をつけさせるというテーマで描かれており、ライエルによる地質の観察は理論的前提によって歪められていることを示唆している。図6~7は、ライエルが定向主義的な気候変動の解釈に反対して、大陸の配置が極めて長い時間をかけて変化してきたと主張していたことに対する風刺となっている。図8も、ライエルが地質学的説明のために長大な年月を持ち出すことへの皮肉となっている。図9は、ライエルが沖積層だけでなく洪積層をも現在因だけで説明しようとすることを風刺している。図10は、ロンドンの地質学会の様子を風刺的に描いたものと推測されるが、どのキャラクターが誰に当たるのか、解釈が難しい。そして図12は、“Awful Changes” の下描きとなっている。

 このような一連のラフスケッチの中から登場してきた “Awful Changes” は、ライエルの提唱する地史が循環的なモデルであったことに対する風刺であると考えられる。

2016年12月10日

ライエルはなぜキングス・カレッジの教授を辞めたのか Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33”

Martin J. S. Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。

 ライエルは1831年4月に、28年創立のキングス・カレッジ・ロンドンの地質学教授に就任し、32年と33年の夏に地質学の講義をもったが、33年の10月に早くも辞職してしまった。従来の解釈では、ライエルの辞職は彼の意見が宗教的に異端であったためだと推測されてきた。また、ライエルはこの職を得るとき、自分の意見を正直に述べなかったのだともいわれてきた。

 この論文では、以上のような解釈はライエルの宗教的立場や社会的態度に関する疑わしい想定から生じていることを示唆する。ライエルの活動を「科学 対 宗教」という対立の観点から捉える見解は、宗教から分離され科学に導かれる社会の実現を目指した19世紀後半の論者たちによって生み出された。このような見解は、科学者と社会の関係をきわめて単純化している上、科学の活動を支えた物質的土台の問題や、科学者が自らの考えを広める際の社会的責任の問題を無視している。このような時代遅れのヒストリオグラフィーが放棄されれば、ライエルの活動に関して謎だと思われてきた事柄もすっきり理解することができる。

 ライエルがキングス・カレッジの教授に就こうとした背景には、聴衆を獲得する狙いや経済的な事情があったと考えられる。ライエルは最初セジウィックに接近し、ロンドンの主教でありキングス・カレッジの評議員でもあったブロムフィールドへの推薦を得た。台頭著しい地質学を組み込む必要性が認識されていたことや、有望な若い地質学者としてライエルの名前が既に知られていたこともあって、この推薦は受け入れられた。

 ブロムフィールドらは、科学的議論を妨げようとしていなかった。ただ、教職にある人間が組織の基盤を攻撃しないかを正当に心配していたのである。ランダフの主教であったコプルストンは、評議会のメンバーとしてライエルに(1)人類は地質学的に最近の時代に創造されたか、(2)それより後に全地球的な洪水があったか、という2点を確認した。ライエルは一つ目の点に対しては、種の個別創造なしで済ませるラマルクの仮説を『地質学原理』の続きで明確に批判するつもりであること、また最近の時代における人類の創造と矛盾する証拠はないことを説明した。二つ目の点に対しては、洪水が全地球を覆ったとは考えないが、人間が住んでいた地域が局地的な洪水に遭ったのだろうと答えた。コプルストンは返事で、一つ目の点に関しては満足したが、二つ目の点に関してはライエルの見解が大学の聴衆に与える影響を懸念していると伝えた。しかし、コプルストンは神学的にはリベラルな立場の人物であり、聖書直解主義を遺憾に思っていた。コプルストンはあくまで、科学的研究によってはっきりと確立される前に、早まって信仰を危機に陥れるような変化を聴衆に強制してしまうことに関して責任を感じていたのである。言い換えればコプルストンは、科学者がその権威を利用して、科学自体から厳密には推論できない結論を容易く引き出してしまえることを認識していたのである。人種や知性に関する現代の論争に置き換えて考えれば、このような危機意識は常識的である。

 コプルストンに対するライエルの返答は、ライエルの伝記作家によって不誠実だと非難された。しかし、ライエルがキングス・カレッジでの講義を反キリスト教的な議論に用いようとしたという証拠はない。バックランドの友人であり擁護者であったコニベアが、ライエルに対する留保を取り消すようにコプルストンに求めたことも、もしこの問題を地質学と創世記の対立として捉えれば不可解となる。結局、コプルストンは留保を撤回し、ライエルは正式に教授となった。

 しかし、ライエルは講義が始まる前から既に辞職を考え始めていた。ライエルが関心をもっていたのは主にお金と名声であり、教授としての仕事それ自体ではなかった。ライエルの講義は32年の5月に始まったが、初回の出席者は80名と、期待したよりも少なかった。初回の講義は大成功であったが、受講料を払ってそれ以降の講義に出席する人の数は少なく、ライエルは再び辞職を考え始めた。

 もともとキングス・カレッジでは女性も講義に出席できることになっており、ライエルは当初この方針に反対していた。だが、当時地質学は上流階級・中産階級の女性のあいだで人気があり、出席者のうちで女性が占める割合は高かったので、ライエルにとっては重要な収入源になった。しかしキングス・カレッジの評議会は、女性の参加はアカデミックでないという理由で、女性の出席を認めない方針に転換した。収入が減ってしまったライエルはこれに反発し、辞職の意向を固めた。後任には、ジョン・フィリップスが就いた。

 33年には、キングス・カレッジでの講義と同時期に王立研究所でも講義をもっていた。こちらは女性の出席も認められており、200名以上の出席者がいたが、受講料が安かったためにやはり収入は少なかった。

 ライエルは王立研究所の講義でも、聖書と真っ向から対立するような題材は扱わなかった。また、講義の時期に亡くなったキュヴィエについても、ライエルはその業績を称えている。

 ライエルのノートからは、各講義のために入念な準備をしていたことがわかる。ライエルが辞職したのは、講義のために必要となる時間に対して、得られる収入が割に合わないと感じたからであって、それゆえ『地質学原理』の新しい版が出て収入に目途がついた時点で辞職したのである。

2016年11月25日

動的分類系に関する早田文藏のドイツ語論文 Hayata, “Über das „Dynamische System” der Pflanzen”

Hayata Bunzô, “Über das „Dynamische System” der Pflanzen,” Berichte der Deutschen Botanischen Gesellschaft 49 (1931): 328–348.

1.序文
 この論文では、筆者が1921年の論文で発表した「動的分類系」を説明する。この分類系の基礎は、現在の分類学者たちが前提とするものとは本質的に異なっている。彼らが基礎とするのは、単一の最初の生物から無数の現生種が生じてきたと仮定し、その遺伝的つながりについて枝分かれ状の系統樹を想定するダーウィンの理論である。系統樹の構築は、現在の植物体系学において最も主要な目標となっている。それに対して筆者の仮定は、第一に祖先は現生種と同じくらい多数存在しているということであり、第二に祖先も子孫も互いに上下左右に網状の関係にあるということである。

2.植物の網状関係と跳躍的変化
 最初に、エングラーによる双子葉類の体系を概観してみよう。我々は、離弁花類に属する目を片側(たとえば左側)の列に並べ、合弁花類の目をもう一方の列に並べていく。左側の列のなかでも右側の列のなかでも、それぞれの目はお互いに確かな類似性を示しているのは確かである。しかし、冷静かつ中立的にこの体系をよく見ていると、左側の列にあるそれぞれの目が、同じ高さにある右側の列の目と密接な関係を示しているという思いがけない事実に気付くはずである。いわば織物の縦糸と横糸のように、双子葉類のさまざまな目は、鉛直方向だけでなく水平方向の関係も示しているのである。
 今度は、ディールスによるシダ植物門ウラボシ科の体系を見てみよう。ここでも、異なる分類群に分けられている属が、お互いに密接な関係を示している例を見つけることができる。クリスト(Konrad Hermann Heinrich Christ, 1833–1933)も、Nephrodiumのような形のシダがAlsophilaのような胞子嚢群をもっていたり、Alsophilaのような葉をした種がNephrodiumのような胞子嚢群をもっていたりすることを報告している。
 植物界のさまざまなグループのあいだの関係は、縦と横の両方に広がるという点で、メンデレーエフの周期表における化学元素間の関係を想起させる。もちろん、生物と非生物を比較することに対する批判はあるだろう。しかし、植物における近い属や目のあいだには一般的に、漸進的ではなく突然的・跳躍的な移行が見られる。この事実は、量子論によって説明されるような、化学結合において見出される関係によく似ている。こうした網状関係や段階的移行は、ダーウィンの理論によっては説明され得ない事実である。我々が見るのは漸進的変化ではなくむしろ偶然変異、系統樹的関係ではなくむしろ網状関係なのである。
 ここに挙げた事実を考えるためには、メンデルの法則に言及する必要があるだろう。それによると、種間の相違は因子(Gene)の関与の違いに由来する。2つの種を交配すれば、F1世代では雑種が得られるが、F2世代ではヘテロ接合体とホモ接合体に分離する。後者は、偶然変異の場合の例外を除いて、永続的で変わらない種のように見える。しかし、これらF2世代の個体はその由来についての特徴を何ら示さない。父方の種から生じたのか、母方の種から生じたのか、それとも直接に雑種から生じたのか、わからないのである。それゆえメンデルの法則が正しい限り、分類系の構築に際して必要とされる系統学的方法は欺瞞でしかない。体系学の基準は種の因子組成(因子型:Genotypus)でなければならない。言い換えれば、内的構成(innerer Bau)に関係する類似や相違が根拠でなければならない。たとえ、単一の祖先からいくつかの種が樹木状に枝分かれして生じたと考えても、その祖先自体がまた2つの祖先に由来しているヘテロ接合体である。木の根のように下っていくと、その祖先は、遠く離れた過去においてますます小さな根に裂かれていく。喩えるなら、体系学で採用される普通の系統樹は、地下の根系がなく地上の一つの幹といくつかの枝から成っているようなもので、そのような木は突風が吹けばひっくり返されてしまうに違いない。

3.動的分類系
 内的構成の類似と相違、言い換えれば因子の組成(Zusammensetzung)を植物の体系学に用いるならば、種の分類方法は多種多様であり得る。たとえば、白い花の因子をA、赤い花の因子をa、白い果実の因子をB、赤い果実の因子をb、白い種子の因子をC、赤い種子の因子をcとしたとき、他の因子を考慮に入れなければ、(1)ABC、(2)ABc、(3)Abc、(4)aBC、(5)abC、(6)AbC、(7)aBc、(8)abcという8つの種を分類する方法は3つある。花に注目して(1)(2)(3)(6)と(4)(5)(7)(8)という2つのグループに分ける方法、果実に注目して(1)(2)(4)(7)と(3)(5)(6)(8)に分ける方法、種子に注目して(1)(4)(5)(6)と(2)(3)(7)(8)に分ける方法である。
 筆者の意見では、自然分類とはこの3つの方法の統合であり、それによって完全な体系が得られる。筆者のこれまでの論文では、このようにして構築される分類系を「動的分類系」と呼んでいる。それに対して、これまでの体系学者たちが採用してきた分類系を「静的分類系」と呼んでいる。
 問題となる因子が限られており、それらの因子が3つ以下のグループに属し、[それぞれのグループ内で]因子が数学的に直線的な関係を築いている場合、自然分類は簡単な構造をとり、体系化は一つの方法だけで足りる。このような場合には、自然分類が静的分類系に似てくる。
 たとえば、3つの種の相違が花の色の因子に起因している場合、白い花の因子をa0、淡紅色の花の因子をa1、真っ赤な花の因子をa2とすると、色の度合の関係は直線上[x軸上]に表される(図1)。この場合には、このような静的分類系だけが可能である。
 次に、2つのグループの因子があり、それぞれのグループが3つの対立形質あるいは対立因子をもっている場合を考える。先ほどの例に登場した因子に加えて、白い果実の因子をb0、淡紅色の果実の因子をb1、真っ赤な果実の因子をb2とする。b0、b1、b2をy軸にとり、9つの種に関する平面上の静的分類系をつくることができる(図2)。
 さらに、3つ目のグループの因子としてc0、c1、c2を追加すると、これらをz軸にとって、27個の種に関する空間的な静的分類系をつくることができる(図3)。
 では、4つ目のグループの因子(d0、d1、d2)を追加した場合にはどうすればいいのか。aをx軸に、bをy軸に、cをz軸にとり、三次元の静的分類系をつくることはできるが、この場合dグループの因子が異なる3つの種が同じ点に集まることになる(図4)。同様に、a、b、dの組合せ、a、d、cの組合せ、d、b、cの組合せでも三次元の静的分類系をつくることができる(図5、6、7)。自然分類は、動的な感覚でこれら4つの静的分類系を総合することによって理解される。
 一般に、因子のグループの数をnとし、それぞれのグループにm個の因子が属しているとする。このとき、因子の異なる組合せの数はmのn乗となる。これらを一つの因子の有無で分けると、mのn-1乗個の組合せのグループが2つできる。因子a0に相当する形質をもっている種の数をs1、因子a0をもっていない種の数をt1とすると、m^n=s1+t1が成り立つ。同様に、因子b0についてはm^n=s2+t2の式が成り立つ。このような方法によるグループ化の仕方の数はm.nとなる。自然分類をNsとし、s1, s2, s3, … s(m.n)というグループ群をS、t1, t2, t3, … t(m.n)というグループ群をTとすると、Ns=(m.n×S)+(m.n×T)、またはNs=m.n×(S+T)という式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がm.n個のグループ群(S+T)で把握されるということを示している。また、+という記号も足し算を意味しているのではなく、グループ群Sとグループ群Tは一緒になってグループ化し直されるということを示している。
 すでに述べたように、因子のグループが4つ以上存在する場合には、そのうち3つのグループを選び出して空間的システムに整理することを繰り返し、それら全てを総合的に観ることで自然分類が表現される。3つの因子グループの選び方は、nC3=n/6(n-1)(n-2)通りであり、空間的に表現された部分システムをRsとすると、Ns=n/6(n-1)(n-2)×Rsという式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がn/6(n-1)(n-2)個の部分システムで把握されるということを示している。
 自然分類は動的な仕方でのみ把握できるという筆者の考えを目に見えるような形で表現するならば、図8のような装置で壁に映し出される投影像を想像してほしい。逆方向に回転する2枚の円盤によって映し出される像は動的分類系に相当する。一方、静的分類系は止まっている板の像に相当する。
 最後に、なぜ植物は網状の関係と段階的な相違を示すのかという問いに答えたい。

4.因子分配説(Partizipationstheorie)
 この理論は本来一つのものだが、便宜上、因子相互協力説(Kooprationstheorie)と因子相互分配説(Verteilungs- oder Anteiltheorie)の二つに分けることにする。Kooperationという言葉は、ある種を生みだす際における因子の共同作業を表現している。種や器官を形成するプロセスには、様々な因子が参加している[因子相互協力説]。一方で、異なる種や異なる器官にも、同一の種類(Arten)の因子が、異なる割合であれども関与している[因子相互分配説]。一方の面では、一つの種に対する様々な因子の関与を説く理論であり、もう一方の面では、同一の種類の因子に対する様々な種の関与を説く理論であるから、これを「因子分配説」と名付けたのである。ただし、筆者の理論における「因子」という概念は必ずしも遺伝学の因子概念と同じというわけではなく、より広い範囲の意味をもつ。
 詳細な説明に入る前に、正確ではないがわかりやすい視覚的な表現を示したい。普通の種概念では、種は一つの統一体として表現される。図9では、これを赤いボールや黄色いボールで表現した。しかし筆者の見解では、種は単一の統一体ではなく基本的な統一体のつながったもの(集合体)であり、単色のボールではなく、いくつかの異なるガラス玉の集まりのようなものである。図9の赤いボールは実は図10のような、赤いガラス玉が黄色いガラス玉に対して優勢であるようなガラス玉の集合体である。筆者は、それぞれの種はその本質的な要素においてはまったく同一であり、ただそれらの要素の割合と結合の種類が異なることによって区別されるのだと考えている。色のついたガラス玉、たとえば赤いガラス玉は減ることもあり、そのときはボールの見え方も変わってくる。構成要素が増えたり減ったりすれば、以前は異なっていた種が同じになったり、ある種から異なる新しい種が生じたりする。外観の違いは、構成要素の数量と割合や、それらの組成のされ方(Struktur)の違いに基づいている。構成要素の種類は基本的にすべての植物に共通であり、その意味においてすべての種は等しい。
 筆者の理論をより良く理解するために、読者には力の保存の法則を思い起こしてほしい。保存則によって、世界はその本質においては過去から未来まで同一である。見かけの現れだけが時と共に変化するのであって、本質においては世界には増加も減少もない。
 すべての個体は全体、すなわちこの世界と密接な関係にある。その関係の本質は、あらゆる方向へ向かう網の糸に似ている。これらの糸は、化学における親和力や物理学における引力や磁力とみなすことができる。部分を動かせば、必ず全体も動いてしまうのである。
 すべての個体および種は無数の因子、あるいはファクター(Faktoren)を中にもっている。一方では因子に由来する形質が現れるか潜在するかによって、また一方では支配的な因子の結合や分離によって、個体や種は様々な形態的な現れを示す。それゆえ、個体間の類似や種間の類似は、同一の種類の隠れた因子や支配的な因子の関与、および類似したグループ化に基づいている。
 さらに、因子は潜在状態から支配的状態に、もしくはその反対に移行することができる。個体に存在する全ての因子は、あるときには支配的であるがあるときには潜在している。また、状況に応じてその量や割合を変えることもあるかもしれない。個体や種は、このような因子の変化によって変化していく。しかし、新しい因子が創造されたり生み出されたりすることはないし、存在する因子が消滅することもない。今存在する因子は同一のまま、永遠の過去から無限の未来に至るまで存在し続ける。個体や種の現れは、非常に長い時のなかで変化していく。そうした変化は個体のなかで、あるいは別の個体との交配によって生じる。後者の場合、メンデルの法則に従うときもあれば従わないときもある。それでも、個体はその真の実在においては同一のままである。
 全ての個体や種は、普遍性と特殊性という二つの異なった観点から観察することができる。個体の普遍性は、同一の種類の因子がすべての個体に関与しているという事実から生じる。個体の特殊性は、見かけの現れの相違として現れるが、存在する因子の割合の相違や、因子の結合の相違に由来している。
 宇宙はいわば、無数のガラス玉を伴った果てしない網のようなものである。それぞれのガラス玉は、異なる色をもった網の目の上に存在している。それぞれのガラス玉は別のガラス玉の像を反射するので、観察者の位置に応じて異なった色合いを示すのである。しかしそれらは観察者の目に対する現れ方において異なっているだけであって、実際の存在においては全て常に同じ無色のガラス玉である。反射された無数の様々な色の像(観察者の位置によって見えるものも見えないものもある)を伴ったガラス玉のそれぞれはいわば個体あるいは種であり、各々のガラス玉の上に目に見える像はいわば筆者が語ってきたところの因子に相当する。
 ここまでで、個体もしくは種、および因子の、本質と現れについては分けて考察してきたが、しかし両者は一つにまとめてのみ考えられるのであって、互いに独立なものとしては理解できないというのが、筆者の理論の最も重要な点である。本質と現れは、決してお互いに別々に存在できるわけではない。実在のあるところには、そのために必然的に現れもある。本質と現れは結びついて一つになっている。一方は、もう一方なしでは理解され得ない。
 以上からわかるように、個体や種は単一の性質のものではなく様々な因子の様々な結合によって生じたものとみなされるという第一の理論は因子相互協力説と呼ばれる。そして、個体間や種間の特異性における類似は同一の種類の因子の関与に基づいているという第二の理論は因子相互分配説と呼ばれる。両方の理論が一緒になって因子分配説を形成する。
 因子分配説に従うと、全ての種類の植物は、祖先も子孫も、その本質においては同一である。そして、これだけ多くの異なった種類があるのは、種に含まれる因子が状況に調和するふさわしい一時的な現れと結合を示すためである。因子の割合の相違に基づく構造的(konstitutiv)な相違が、種の形態的な相違を示す。

【メモ】
因子分配説(英:the participation theory、独:die Partizipationstheorie)
因子相互協力説(英:the theory of the mutual participation of the gene、独:die Kooprationstheorie der Gene)
因子相互分配説(英;the theory of the mutual sharing of the gene、独:die Verteilungs- oder Anteiltheorie der Gene)