2012年12月23日

世界大戦における生物化学兵器 Grunden, "Chemical and Biological Warfare"

AIKOM生と共同の授業「科学思想史演習Ⅱ」の12/14の回で用いたテキストをまとめてみました。

Walter E. Grunden, Secret Weapons and World War II: Japan in the Shadow of Big Science, Chapter 5: "Chemical and Biological Warfare"

この章では、第一次・第二次世界大戦中の日本及び列強諸国における生物化学兵器開発について論じられている。生物化学兵器の歴史は古代にまで遡ることができるものの、それらが兵器として重要な地位を占めるまでには、近代科学としての化学や生物学の発展や、化学産業や衛生学の進歩が必要であった。第一次世界大戦で初めに化学兵器を用いたのはフランスであり、次いでドイツが盛んにこれを用い、イギリスやアメリカもこれに続いた。しかし、強力な化学兵器を使った際に同じく化学兵器で報復される可能性に対する危惧が、化学兵器の大規模な使用を抑止していた。

第一次大戦後の1925年には、国際連盟においてジュネーヴ議定書が作成され、生物化学兵器の使用が禁止されたが、アメリカや日本などは条約を批准しなかった。また、この条約では禁止されるのは使用のみであり、研究開発は禁止されなかった。その上結局、これを批准したイタリアは1935年にはエチオピアで化学兵器を用い、ジュネーヴ議定書は化学兵器の使用を防ぐ役割を果たせなかった。両大戦間期には列強諸国はそれぞれ化学兵器の開発を進めており、特にアメリカとイギリスは協力してこれを行なっていた。第二次大戦では、第一次と同じく報復に対する危惧が抑止力となった。

日本は第一次世界大戦で化学兵器の実戦使用を体験しなかったが、ヨーロッパでの報告などから情報を得て、小泉親彦の尽力のもとで研究開発に着手するようになった。当初の日本の化学兵器研究は防衛手段に焦点が当てられていたが、のちに攻撃手段としても研究されるようになった。生産拠点としては大久野島が使われた。日本の化学兵器研究はかなりの部分をドイツなどの外国の援助に頼ったものであったが、第二次大戦で戦闘において最も化学兵器に頼ったのも日本であった。しかし日本は報復の恐れなどからアメリカに対しては化学兵器を用いず、専ら中国に対して用いた。

日本は第二次大戦中、生物兵器において世界で最も進んでいた国家であった。比較的安価で大規模に生産できる生物兵器は、資源に乏しく工業や科学の力で劣る日本によく適していた。日本で生物兵器の研究開発を中心となって進めたのは石井四郎であり、1930年に彼の計画は当時大佐となっていた小泉親彦によって承認された。石井は満州が生物兵器の開発に適した環境だと考え、そこに複数の研究所を設立した。石井の率いる731部隊は、平房の巨大な研究所が最大の拠点としつつ、アジア各地で活動を展開した。彼らの研究は、捕らえた人間に細菌を感染させる人体実験や、病原菌を広める爆弾の開発などを含んでいた。この部隊では上層部のごく一部しか研究開発の実体を把握していなかった。731部隊の研究の結果は、実戦で生かされることは少なかったが、多くの国では出来なかった人体実験によるデータに基づいていたため非常に高いレベルにあり、アメリカの研究にも極めて有用だと指摘された。731部隊の関係者は東京裁判にかけられることもなかった。

2012年12月10日

応用科学 Robert Bud. 2012. "Introduction." Isis 103: 515-517.

Robert Bud. 2012. "Introduction." Isis 103: 515-517.

科学は、イデオロギーと呼ばれるものとは似ていないかもしれないが、科学についての語りは、イデオロギーと呼ばれるものとしばしば似ている。この特集では、「応用科学 applied science」「純粋科学 pure science」「技芸 art」「科学技術 technology」といった言葉が使われてきた過程や、こういった言葉の意味が議論され、変化してきた過程に注目する。この特集は、2009年の科学史学会の年次総会で行われたセッションから生まれた。

社会は「応用科学」「純粋科学」「技芸」「科学技術」などといった言葉によって科学を管理してきた。またこのような分類の仕方は、知識と活動の境界や、文化的あるいは経済的資源の配置などについての公共圏での議論を促進してきた。

分類の仕方自体についても公共圏で議論がされており、それは科学と社会に関わる様々な諸相を映し出している。過去には、歴史家たちはこういった議論をあまり扱ってこなかった。しかし、このような議論について調査することは、単に言葉の装いを観察することとは違うのだということを、我々はますますよく認識するようになってきた。

政治哲学者のスキナーは、言葉の用法がどのようにイデオロギーを支えるかについて調査してきたが、彼の研究は科学史の分野ではあまり引用されていない。ドイツ語圏で概念史(begriffsgeschichte)を提案しているコゼレックなども、概念として機能する言葉の組に固有の性質を調査してきた。リヒターやパロネンなどによるこの分野の豊かな発展は、示唆に富んでおり、この特集の更に先へと進む調査を喚起するだろう。この研究が焦点を当てる根本的な問題は、現象の変化する姿や、現象を捉えようとする概念の歴史性、そしてこれらの概念を表現する言葉の意味の曖昧さだ。

概念史のキーコンセプトは、概念を近隣の考えたちとの地図の中に位置づけようというものである。そこで、この特集の5つの論文では「応用科学」「純粋科学」「技芸」「科学技術」といった概念について、18世紀から20世紀にかけてのイギリスとアメリカを対象として調査する。これらの言葉は語源学によって解明されるが、しかし語源学に還元可能なものではない。

アレキサンダーの最初の論文は、フォアマンの最近の論文に焦点を当て、シンポジウムの焦点となる問題と時代をフレーミングする。次のルーシャの論文は、ローランドの1883年の講演「純粋科学の請願」を文脈に入れ、「純粋」「応用」という言葉の意味を調査する。筆者(バッド)自身の論文は、「応用科学」という言葉と概念が、いかにしてフランス語とドイツ語からの翻訳を経てイギリスに持ち込まれ、混成されたかを示す。さらにグッディは、T.H.ハクスリーが1880年に「応用科学」に対して警告を発した講演「科学と文化」を踏まえ、19世紀後半から20世紀初頭のイギリスでの「純粋科学」「応用科学」の語の振興を、新しく専門職業化した科学者たちによる自己拡大の過程として論じる。最後にシャッツバーグは、「技芸」と「科学」の対話がいかにして「純粋科学」と「応用科学」と「科学技術」の対話に道を譲ったかという問題に焦点を当てる。

これらの論文は、科学史の公共圏に貢献することを意図しており、これらが学識ある旺盛な議論を促進することがあれば幸いである。