2013年11月11日

信仰と科学史 Oldroyd, Geohistory Revisited and Expanded

David Oldroyd (2010) Geohistory Revisited and Expanded, Annals of Science, 67:2, 249-259

Rudwick, Worlds Before Adam の書評です。

 ラドウィックは長年に渡って、歴史科学としての地質学の出現を研究してきた。ラドウィックはこれを、コペルニクスやダーウィンの革命に匹敵する重要性をもつ科学革命だと主張している。この革命には、「時間の発見」と歴史的観点からの地球研究の出現が含まれている。1780年から1820年のあいだに、「地球の理論」は廃れ、経験的方法による地球の研究が前面に出た。この変化は、人間の歴史を研究する手法が輸入されたことで手助けされた。筆者もかつて示唆したように、地球の研究は「歴史化」されたのである。

 ラドウィックの2つの本は連続的な議論を提供しており、その内容は「地史学の出現」とでも名付けられるような一冊の大著になるはずである。ラドウィックはこの本でハットン、ド・リュック、スミス、キュヴィエ、バックランドに言及し、前著の糸を拾い上げていく。

 私の以前の心配は再発した。ラドウィックの見方ではハットンの業績は歴史的ではなく理論的であるため、彼は地質学の進歩の物語から除かれてしまっている。ラドウィックの見方では、ハットンの永遠主義は同時代の人々には受容不可能だった。
 スミスは含まれる化石によって地層を区別し関係づける考えを展開したが、彼の関心は構造にあったため、彼は「地球構造学者」の役を割り当てられてしまった。ラドウィックによると、スミスの同時代の人々は彼の仕事を、地球構造学の名のもとに実践されてきたものの変わり種だとみなしたという。この予期せぬ解釈は、しかしもっともらしい。

 ラドウィックはド・リュックの見方においても普通と違っている。ラドウィックのド・リュックに好意的な新しい見方は、彼をノアの洪水以前と以後の2つからなる歴史の見方の代表者とみなすことで達成されている。そして洪水以後では彼は現在主義の立場をとっていると言うが、彼の洪水後の時間の測定は聖書的であるため、疑わしいと筆者は考える。
 ド・リュックは洪水以前については、地殻が仮説的な地下の穴に崩落したなどという信じがたい考えをもっていた。しかもド・リュックは、当時の地質学者にはあまり高く買われていなかったようだ。それゆえ筆者は、ド・リュックが地質学の「歴史化」における重要人物であるとするラドウィックの説明は問題だと考える。

 キュヴィエを地質学史の重要人物であるとすることには何の問題もない。
 スミスもブロンニャールもキュヴィエも、歴史的に解釈できる結果を形成するために経験的情報を集めて作られた生層序学の原則に基づいて地質図を作成した。すなわち、出来事は垂置の原理と調和して年代順に配置される。しかしラドウィックの観点では、キュヴィエとブロンニャールの業績は地史学的観察を含む一方、スミスは地球構造学をしていたという。この違いはどこから来たのか?

 ラドウィックによれば、化石はスミスの層序学に、肉眼岩石学だけでは得られない正確性を与えていた。しかし、堆積した時代の環境に興味を持っていたブロンニャールやキュヴィエは、それ以上のものを化石から得ていたのだという。
 しかしそうだとしても、堆積物の海成/淡水成を示すキュヴィエの断面図を除いて、キュヴィエとブロンニャールのパリ盆地の地図とそこから演繹される構造は、スミス的地球構造学者やキュヴィエ的地史学者からも同じように得られる。だとしたら、違いは操作的な違いではなく、観察者の心の中や、観察者が発見をどう解釈するかという部分にある。

 ラドウィックが作ろうとしている区別は偽のものなのだろうか? 筆者はそうは思わない。キュヴィエは脊椎動物の化石の調査で、「存在条件」に気をつけていた。彼がパリの地層を調べているときに興味を持っていたのも「存在条件」だったのである。単なる構造や配置ではなく、過去のものの在り方について考えていたことは違いを生む。ただ、キュヴィエはそれにもかかわらず「地球構造学的」という言葉を使い続けていたので、「地球構造学的」と「地史学的」のあいだにハッキリした線を引くことには躊躇いがある。

 キュヴィエから先に進んで、ラドウィックは1845年頃までの地質科学の歴史を詳細に説明する。このころまでに、アガシーの氷河時代の理論が「標準的」「模範的」地質科学を困らせていた。ただラドウィックの研究は、英国、フランス、イタリアが主なので、ドイツや他の地域が不当に扱われているという批判は有り得るかもしれない。
 ラドウィックのストーリーは、地質科学が「歴史化」されたあとの数十年間に何があったかを展開していく。1822年には、過去を解釈するために使える現在からの経験的証拠についてのフォン・ホフの論考があり、現在主義の地質科学のための原材料となった。そして話題はライエルの業績の詳細に移っていく。層序学的には若い層の上を流れる溶岩の蓄積によってエトナ山が形成されたことを考えることで、ライエルが地球の年齢の長大さを推し量る議論は根本的であるし、すべての創造論者や若い地球論者はこれを読んで欲しい。

 ラドウィックが呼ぶところの「統計的古生物学」に基づいて、ライエルが打ち立てた第三紀の再分割も根本的に重要だった。分割はデエーのコレクションを用いて、地層の中の現代の種の割合に基づき決められた。パリでライエルが会ったプレボーは、現在因の役割を強調し現在主義を擁護していた。ライエルは現在主義を拡張し、斉一説にした。たとえライエルが過去と現在は本質的に違うとは考えていなかったとしても、彼の仕事は歴史的であったということを、ラドウィックは正しく強調した。ライエルのシステムは非方向的で、地球の起源についての考えは彼が自ら課した権限の向こう側にあった。ライエルは種の起源についてもあまり言うことはできなかった。キュヴィエが仮定した大災害については、地球の一部で堆積が止まっていたと想定することで説明された。それゆえどこの地域でも、層序学的記録には必然的にギャップがあった。

 ライエルの地史学的に安定したシステムは、洗練されたこじつけだと呼ばれ得たかもしれない。ライエルは、方法論的に、現在を過去への鍵として使おうとしたし、実際これを第三紀において「統計学的古生物学」を用いてもっともらしく達成した。第二紀と第三紀の間の大きな古生物学的ギャップは、堆積が途絶えた長い期間によって説明された。第二紀でも第一紀でも、第三紀と同じアプローチが使われた。陸地の上昇や堆積、循環主義、マグマの貫入などの考えはハットンから引き継がれた。

 図1の場合、第一紀の地層が歪められており、ライエルが第三紀で使ったような地史学的調査方法は適さない。ライエルの方法は全ての岩石には適用できないにも関わらず、一般的に適用可能であるように主張されることができた。
 また、ハットンの循環主義はうわべ上ではライエルの地質学と矛盾しなかった。しかし、地球の最古の岩石は適切に判読されなかったため、永遠主義という心配の種は取り除かれた(PrimariesはライエルによってHypogene rocksと書き換えられた)。このことで、斉一説と、それと矛盾するように思われる岩石証拠は和解させられた。

 しかしライエルの斉一説地質学と並行して、フーリエが数学的に議論したような、地球冷却説も存在した。この説はフォン・ブーフの仕事を拡張し、後にエリー・ド・ボーモンが発展させた「地球の理論」を支えた。地球の内部が液体であることと、地球の冷却を信じることで、地球が収縮することで時々しわくちゃになるのだと考えることができた。ある者はこれに基づいて、「何が何を折りたたんだか」を明らかにすることで、地質構造的な層序学も発展させることができた。そこで19世紀前半の地史学は、2つの相補的な形式(生層序学と「構造層序学」)に基づいた。ラドウィックは、18世紀末に歴史化された地球科学が地球の理論から分離したことを描いたが、19世紀前半にはそれら2つが歩み寄ったと見ている。『地質学原理』に表明されているように、ライエルの考えも「地球の理論」を構成していた。

 ラドウィックはアガシーの氷河時代の理論で物語を終えたが、これは適切だった。というのもこの理論は、ライエルら地球の温度の安定性を好む人々にも、フーリエやエリー・ド・ボーモンら地球の冷却を考えている人々にも、深刻な問題をもたらしたからである。地史学はアガシー後の新しい始まりを必要としていた。


 この本の内容を十分に議論するスペースは無いが、たとえば1820~40年の詳細は立派に編まれている。しかし筆者はこの本の結論部分にコメントしたい。この本は地質学への社会的・政治的・宗教的文脈についても考察している。この本のサブタイトル The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform は、その頃の地質学的調査の背景となった、1832年の英国での選挙法改正法の問題も示唆している。かつてラドウィックは地質学者たちの認識様式と彼らの社会的文脈を非常に直接的なやり方で関連づけようとしていたが、後にそのような直接因果的な結合は立証できないと考えるようになった。しかしラドウィックは社会的コンテクストに興味を持ち続けており、この本にもそれが表れている。またラドウィックはウィッグ史観や時代遅れのヒストリオグラフィーの反対者であり、科学者兼歴史家というよりも科学史家になったといえる。

 またこの本の最後で、ラドウィックは自身のキリスト教信仰を認めており、科学と宗教のあいだに対立はないと述べる。そして、コンフリクト命題は無神論原理主義者の論者によって助長された誤謬であるという。このように言うとき、ラドウィックはリチャード・ドーキンスのような人物を想定しているのだろう。ひょっとすると、筆者もラドウィックの視界に入っているのかもしれない。そこで筆者はこの問題について少し述べておきたい。

 この本の主題の一つは、19世紀の地質学者たちは主にキリスト教信者であったため、トップランクの地質学者たちの中では、科学と宗教のあいだに真の対立は無かったというものだ。それだけでなく、新しい地史学的アプローチはユダヤ教・キリスト教の伝統と両立するものであり、このことは地史学研究の登場に「強くポジティブな」役割を果たしたのだという。その伝統は世界を、固有の歴史を持つ、一連の偶然的な出来事の産物と考えることに合ったものであった。そして、その歴史を解き明かす地史学者の仕事は、聖書歴史家のしごとに類似していた、と示唆している。

 しかし、聖書には預言者のことが多く書かれており、新約聖書は旧約聖書の預言が実現されたことを示すものでもある。このことは19世紀の地質学の歴史研究と調和しないように筆者には思われる。また聖書では、人間の過去は予め定められた計画の展開であり、予め決定された未来へわかりやすい方法で向かうように書かれている。それに、キリスト教は現在を過去の鍵として用いないし、むしろ逆である。このような意味で、19世紀の地質科学とキリスト教のあいだには「対立」があったし、それが無かったのは地質学者たちがキリスト教の大部分を無視したからである。さらに思い切って言えば、ラドウィックはド・リュックやバックランドなどのキリスト教信者の役割を大きく扱い、ヴェルナー、ハットン、ラマルクのような理神論者を小さく扱いがちである。

 バックランドについてすこし述べたい。バックランドは、古典や神学や富や力のとりでであるオックスフォード大学に地質学を導入しようとしていた。だから、彼が就任式の講義で、地質学が聖書の伝統に一致することを示そうとしたことは驚くに値しない。彼はそれを示そうとして、ノアの洪水をキュヴィエの「大災害」の最後のものだと特定した。

 またバックランドは、Kirkdale洞窟の骨の様子から、そこに動物がかつて住んでいたのであって、氾濫で洞窟に押し込まれたのではないと考えた。一方で洞窟内の堆積物の層は氾濫を示唆していた。図2で、Aは泥、Bは泥の堆積以前に形成された石筍、CとDとEは泥の堆積以降に形成された石筍である(DとEは同時形成)。しかしバックランドは、氾濫による泥の堆積以降に経過した時間は小さいことを主張しようとして、洪水後の鍾乳石の量が限られていることに言及した。しかし、図2の石筍の厚さを見れば、泥の堆積後に経過した時間はそれ以前よりも長いと考えられる。それゆえ、泥の堆積はかなり昔のことだったはずなのだ。それにもかかわらず、バックランドはこの洞窟調査から、地質学的に最近のことである聖書の洪水を推測する。

 バックランドはキュヴィエの考えを、旧約聖書の人間の歴史を同じくらいに絶対的真理とみなした。キュヴィエもバックランドも、洪水以前の人間の遺物が見つかるとは信じなかった。バックランドはこの問題で決して譲歩せず、いくつもの重要な証拠を軽快に切り捨てた。バックランドは彼の信念に固執し、部分的には宗教的信念とキュヴィエの権威に基づいた。

 言い換えれば、キリスト教信者の地質学者にとって人間の起源は真の問題をもたらしたのである。バックランドはそれを誤魔化したり嘲笑したりした。ライエルは単に人間を、種の起源や絶滅などの一般化の例外とした。ライエルも含めダーウィン以前のほとんどの人物は、人間や知的生命の起源についての自然論的な見方を持っていなかったのである。しかし、科学と宗教の衝突はダーウィンの登場までは真に熟していなかったとは言えるだろう。筆者にもし、時間とエネルギーと資源と、ラドウィックのように2つの本を書く技術があったなら、ド・リュックとバックランドの説明を除けばそう大きく違わないものができただろう。

 ラドウィックはこの本の始めと終わりで「無神論原理主義者」に言及しているが、これは矛盾語法である。無神論者に聖なるテクストなどはない。有神論者も無神論者も宇宙がどのように生まれたかを知らないが、これは信仰によって解ける問題ではない。無神論者は、神が存在する論理的可能性を認めるが、反対する証拠の強さのために、そのような考えに乗らないのである。無神論者を原理主義者というのは間違っている。それに対して、全ての信者は根本的には原理主義者である。そして彼らの多くは、たくさんの時間とエネルギーを彼らの見方を他の人に押しつけることに費やすのである。

 ラドウィックは素晴らしい2冊の本を書いた。しかし大聖堂や美術作品がそうであるように、あまりに多くの科学史の偉大な業績が形而上学的に無意味な基礎の上につくられている。ラドウィックの偉大な本を、我々はその基礎となっている形而上学的コミットメントなしでは持つべきでないということは十分有り得る。しかし、存在の本質について異なった見方を持つ我々がばかにしてあしらわれるのは悲しいことではないか。

2013年9月29日

迷子石に関する3つの説 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 34

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 501-16.


Ch.34 迷子石を説明する(1833-40)

34.1 地質学的洪水を拡張する

 洪水説も他の学説と同じように時代と共に変化してきた。1830年代には、バックランドも含め、地質学でいう洪水は聖書に出てくる洪水とは関係ないという合意が得られていた。
 この時代の洪水説は主に3種類の経験的根拠に支えられていた。1つ目の根拠は侵食の特徴で、通常の現在因によっては説明できないと思われていた。しかし、谷の地形は多種多様で、下にある岩盤の構造との関係も様々であることから、単一原因による説明を追求することは無益だという暗黙の合意が得られていた。たとえば、オーベルニュの谷は長期間の水流による侵食で形成されたのだろうと洪水論者さえもが考えていたが、一方でU字谷の形成を説明するには猛烈な河流の作用が適していると考えられていた。2つ目の根拠は巨礫粘土などの堆積の特徴であった。
 しかし、3つ目の根拠である巨大な迷子石は、以上の2つの根拠よりもずっと強烈かつ重要であった(図は81ページと184ページ)。迷子石のそばの基岩にはひっかき跡があり、平らにされたり磨かれたりしており、地質学的に新しい時期に例外的な出来事があったと考えなければこのことを説明するのは難しかった。
 20年ほど前、ジェームズ・ホールはエディンバラの迷子石を津波で説明し、フォン・ブーフはアルプスからジュラに動いた迷子石を洪水で説明した。しかしこれらの例は、1820年代に実証された、スカンディナヴィア半島の岩がバルト海やドイツの平野を越えて運ばれた例に比べれば、ずっと規模の小さいものであった。1830年代にも迷子石に関する報告が相次ぎ、推測される洪水の大きさに驚きの声があがった。
 スウェーデンの地質学者、ニルス・ガブリエル・セフストレームはブロンニャールの研究成果を拡張して、迷子石の場所とそのひっかき跡の方角を描き込んだ地図を作製し、迷子石たちのひっかき跡が特定の方角を向いていることを示した。セフストレームはこの原因を、深さ500mもあったと考えられる巨大な洪水(petridelaunic flood という言葉が用いられた)で説明した。セフストレームの論文の抜粋はドイツ語と英語に翻訳され、1838年の完全出版前にヨーロッパじゅうで知られるようになった。セフストレームはpetridelaunic floodで説明できる小さめの迷子石と、他の何らかの理由で説明されるべき大きめの迷子石を区別していた。セフストレームやフォン・ブーフは、大きな迷子石を単なる洪水で説明することの難しさを認識していたのだった。泥のような濁流の洪水を想定しても、スカンディナヴィアからバルト海を越え、バルト盆地から北ドイツの平野に押し上げられた迷子石を説明できるとは思えなかった。


34.2 迷子石と氷山

 これらの洪水説の他で唯一妥当な説は、プロイセンのナチュラリストであったヴレーデが30年ほど前に唱えた、迷子石は海水面の高い時期に流氷に埋め込まれて漂流してきたのだとする説に由来していた。しかし、地質学的に新しい時期に北ドイツの平野が海に沈んだという証拠はなかったし、長年に渡って地質学者たちは流氷や氷山の役割を軽視してきた。
 ただしライエルは違っていた。ライエルは『地質学原理』の初版で、アルプス山脈の氷河が岩を積み、それが砕けたときに堰き止められた湖の中で漂流する氷山となり、やがて堰も決壊して低地に流れ出てきたのだという説明をした。1840年の第6版では氷河に関する1章を追加して、迷子石の分布は流氷や氷山の漂流とそれに続く地殻の上昇で説明できると説き、大量の実例を挙げて自説を補強した。
 地殻は上昇したり下降したりし続けるものだと思っていたライエルにとって、海水面がかつて高かったと想定することは何の問題もなかった。岩を含んだ氷山が漂流しているという報告は多くあったので、これも現在因として扱えた。氷山が非常に長い距離を漂流するということも知っていた。ライエルは、地殻の一部がほんの少し昇降しただけでも海岸線は大きく変わるはずであり、それに伴って局所的な気候も大きく変わるので、氷山が南に大量に漂流してきた時期もあったのだと考えた。しかしライエルは、低地の迷子石だけでなくアルプス山脈の迷子石にまで同じ説明を適用したので、地殻の極めて大きな上昇を仮定することになってしまった。さらに、巨礫粘土などの表層堆積物もひとまとめにして漂積物(drift)と呼ぶべきだと提案した。
 ダーウィンはライエルの説に沿った形で、地質学的に新しい時期に、スコットランドで2200フィート(670m)以上の地殻上昇があったはずだと考えた。ダーウィンはチリで1300フィートの上昇を確認していたのでこれに納得していたが、そのような地殻上昇は他に証拠が無いため、他の地質学者たちは懐疑的であった。ライエルの説明は巨大な津波や泥流による説明に比べればまだ納得できるものの、多くの問題があると考えられていた。


34.3 巨大氷河の復元

 迷子石を説明する3つ目の説は、スイスの土木技師イグナツ・ヴェネッツによる研究に端を発する。この研究でヴェネッツはモレーンなどの堆積物の分布を観察して、アルプスの氷河の範囲は歴史的に変動してきたという結論を下し、スイスの気候や氷河に関する分野の賞を1822年に受賞した。この結論は少なくともスイスじゅうの同業者には知られるようになった。そのうちの一人である地質学者のジャン・ド・シャルパンティエは、ヴェネッツとフィールドワークを重ねるうちにこの説に納得し、後に地質学新婚旅行でやって来たライエルにこの説を話した。シャルパンティエは、迷子石は荒れ狂う大洪水で説明するには規則正しすぎると言い、氷河の突端の下では基岩が滑らかになっており、そこには氷河に含まれる岩によるひっかき跡が残っていることから、迷子石は氷河の遺物なのだと主張した。シャルパンティエは、今ある氷河から遠く離れ標高も高いローヌ谷の土地でもこのような跡を発見したため、極めて巨大な氷河がかつてこの地域を覆っていたことを想定しなければならなくなった。しかしシャルパンティエは、地球は徐々に冷却されてきたという説を当然のこととして受け入れていたため、過去の気候が今よりずっと寒かったという可能性を考えもしなかった。その代わりに、アルプスの標高が今よりずっと高かったという説を採用したため、ライエルには嘲笑されてしまった。
 1833年、ヴェネッツの論文がようやく完全な形で出版されたことでシャルパンティエの自信は強まり、翌年にシャルパンティエはヴェネッツの考えを前進させた論文を発表した。しかしスイスでの反応は薄かったので、1835年に論文をパリに送ったところ、ドイツ語と英語に翻訳されてヨーロッパじゅうの地質学者の知るところとなった。シャルパンティエは極めて広い地域がかつて巨大な氷河に覆われていたことを想定しており、にわかには信じがたいだろうが観察された証拠に基づいている、ということも本に書いている。
 シャルパンティエは消えた氷河の地史学的復元と、氷河拡大の因果的・地球物理的説明をはっきり区別しており、前者はフィールドでの証拠に、後者は推測に基づいていた。アルプスが上がったり下がったりしたことは、エリー・ド・ボーモンの説に従い、地球の冷却による地殻の急上昇とその後の陥没によって説明した。
 シャルパンティエの理論はこのように、現在因に基づく部分とそうでない部分があったが、ローヌ谷のみならずアルプスの他の地域にも適用できる潜在能力があり、今まで見つかってきた他の迷子石もシャルパンティエの理論で再解釈することができた。しかし、地質学者たちがこの説を妥当とみなすかどうかはまだわからなかった。実際、この説をたとえばスカンディナヴィアの迷子石に適用するためには、スカンディナヴィア山脈がかつてアルプスより高かったと仮定しなければならず、それは有り得そうもないことであった。現代に近い時代の地史の復元は、依然として問題のままであった。

『地質学原理』の完成 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 25

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 363-77.


Ch.25 ライエルの『地質学原理』の完成(1832-33)

25.1 ライエルの講義

 『原理』第二巻出版後の1832年の春、ライエルはキングス・カレッジ・ロンドンで講義コースを開き、地質学会の学者や教養ある人々が集まった。最初の無料講義は2回行われ、300人以上が出席したが、それ以降の有料講義を聴くためにお金を払ったのは70人も居なかった。
 講義は地殻の構造やそれを構成する岩石についての伝統的な要約から始まったが、「第一紀」は多くの異なる時代から成り立つ上に、地球の起源についての証拠を何も提供しないためその名に値しない、という非伝統的な主張もした。しかしライエルは、空間と時間、天文学と地質学のアナロジーを用いることで、彼が明らかに採用している永遠主義を、人知の限界の問題に縮小してその立場を無毒化した。いわく、我々にできることに比して創造の力はあまりに巨大なので、宇宙の果ては存在するが、我々はそれを観測できない。これと同じように、地球の始まりが存在しても、我々がそれを知り得ないのは自然なことである、というのである。さらに、ヒューウェルに従い、各生物種を造りだすのは惑星を造る以上の創造の力を必要としたはずで、地質学は天文学以上に神の御業の偉大さを示す学問だと述べた。このように自然神学的な物言いをすることで、彼は地質学を大学のイングランド教会的環境にとって口当たりの良いものにした。しかし一方ではセジウィックに従い、聖書の細々とした記述との整合性を取ろうとするのは馬鹿馬鹿しいとも述べた。
 この後、ライエルは残りの講義を『原理』最終巻の概略を説明するのに使った。まず現在因の原理を説明し、第三紀のヨーロッパを主な例として用いた。ライエルのシチリア島での調査は、フィールドワークが進むにつれ、未発見の“あいだの時代”が見つかっていくだろうことを示唆していた。このことは、岩層や化石の不連続性は、単に不完全な記録や不完全な知識に因るに過ぎないかもしれないことを意味している。化石記録が不連続に出現するのは、生物の変化が全世界的であるのに対し地層の堆積は局所的になされたためでもある。また、侵食は書物の焼失のように堆積物の記録を破壊する。ライエルはあらゆる種類の激変論を痛烈に批判した。
 また、ライエルはキュヴィエの逝去に触れ、彼の業績を称えると同時に、フランスの組織化された科学に対してイギリスの科学は政府の支援が欠けており、衰退しているという意見を述べた。
 デエーの研究が念頭にあるライエルは、第三紀の年代決定に最も適しているのは海棲の軟体動物の化石だという。この講義においてライエルは初めて公の場で、自らの地史の概略を明らかにする。彼は「沖積世」「新鮮新世」「古鮮新世」「中新世」「始新世」の時代区分を用いて第三紀の地史を描いた。化石が現代の世界と近いほど、時間的にも現代に近い時代だということになっており、このような枠組みは大洪水を否定する一方で歴史の連続性を肯定している。ライエルはシチリア島やエトナ山の例を出しつつ、第三紀の地史を詳述した。
 この講義コースはキングス・カレッジ・ロンドンで1833年にもう一度開かれるが、大学の女性禁止の方針などの影響や、内容が目新しさを失ったこともあって受講者は少なかった。一方、平行して行われた王立研究所での講義はより易しいレベルで行われ、多くの受講生を集めた。どちらの講義でも、宗教的な批判は起きなかった。ライエルの講義は、30年前のキュヴィエの講義がそうであったように、ライエル自身の『原理』第三巻の予告編となっていた。『原理』の二巻目までがよく売れていたことでライエルは自信をつけ、この後は収入源も自分の地質学の普及も、専ら本の著述業に頼るようになる。


25.2 大陸での幕間

 1832年の講義コースを終えたライエルは旅に出る。ドイツで結婚し、妻と共にスイス、北イタリア、フランスをめぐる旅程の中で、彼は大陸の学者たち(初めて会う人々も、既に知っている人々も)と交流し、またフィールドワークも行った。


25.3 ライエルの『原理』の最終巻

 ロンドンに戻ってきたライエル夫妻は新居を構えた。ライエルは収入源として『原理』の売上も気にしており、専門家でない一般の人々も読めるようにしておく必要があったため、最終巻には用語解説がつくことになった。
 この最終巻は1833年の春に出版されることになる(二つの並行した講義コースの前)。第二巻の口絵に描かれていたエトナ山の絵は第三巻の内容と関連しており、第三紀の地史と現代の世界との決定的なつながりを担っていた。最初の章からライエルは、激変論者たちを激しく攻撃した。現在因の使用が適切であることを実証するために、最終巻の目標は地史の再構成に絞られた。


25.4 ライエルの地史の方法

 最終巻の序盤は、地質学的出来事の並びを再構成する方法について書かれている。ライエルはここで第三紀に焦点を当て、彼の地質学の試験台としている。
 第三紀の盆地が局所的であるのに対し、第二紀の岩層は広く一体的であることをライエルは次のように説明している。最初、ヨーロッパの全域は海面下に沈んでおり、この時期の堆積物で第二紀の層はできた。その後、ヨーロッパは海面の上に出て、ときどき局所的に海面下に沈んだときに第三紀の層はできたのである。
 この連続的なモデルは次に、漸進的な絶滅と新種の導入の仮説に結び付けられる。海面下に沈んで化石が形成される時期はときどきしかやってこないので、第三紀の連続した地層が異なる動植物層の化石を含んでいることになるのである。ライエルは考古学的なアナロジーを持ち出して、激変は幻覚に過ぎないのだと力説する。
 次の2章分は地質学者たちが相対年代を決定するのに用いる基準に関して書かれている。化石も地層累重の法則も、確実に信頼できる証拠とはならない。しかし、海棲の軟体動物は貝殻の豊富さと保存されやすさ、そして広い分布のために、最も信頼できる化石だといえる。ライエルの方法は、特定の岩層に特徴的な化石に注目するスミス流の方法に異を唱えるものであったといえる。
 こうしてライエル流の地史の方法が示された今、最後に残った課題は第三紀の地史を詳細に再構成することであった。

地質科学における視覚言語の出現 Rudwick, The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840

Martin J. S. Rudwick, “The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840,” History of Science 14 (1976): 149–95.

1 イントロダクション
 絵や図や地図などの視覚的素材は、地質学史において実際の重要性にも関わらず軽視されてきた。このことは、科学史という学問が計算能力や言語能力を重視する教育環境において形成されてきたことと関係しているのだろう。医学史と技術史は視覚的素材を軽視しないという点で例外となっていることも、この説を裏付けている。この論文は、視覚的素材が重要な役割を果たしてきた歴史を論じることで、それらが地質学史において重視されるようになるための一助となることを目指している。
 18世紀の地質学(に相当する分野)では挿絵の使用が非常に少なかったが、1830年代にはこの状況は一変していた。地質学という学問がディシプリンとして確立したのと同じ時期に視覚言語も登場したのである。1800年前後の数十年のあいだに、アクアチント、木版画、鋼板印画、石版画などの技術が大きく発展したことが、地質学にも役割を果たしただろう。
 地図の読み方でさえも実践によって習得しなければならない技術であるように、新しい表現方法は新しい認知方法を要求する。さらに、こういった視覚的コミュニケーション方法の背後には、そのルールや慣習を暗黙のうちに承認している共同体がある。それゆえ、地質学における視覚言語の歴史的発展は、新しい科学の概念が適切に表現されるようになった過程としてだけではなく、地質科学者たちの自己意識的共同体の成長の反映としても研究する価値がある。地質学は多様な種類の視覚表現を含んでおり、科学一般における視覚コミュニケーションの発展を考える上でも有益なケース・スタディとなるだろう。


2 素材と技術
 本や記事の中に出てくる挿絵だけではなく、絵単体で流通したものなど、他にも様々な形態の視覚的素材が存在したことも忘れてはならない。そこで、18世紀の地質学の本や記事における挿絵の不足が、これらによって埋め合わされていたのかどうかという問いを立てることができる。筆者はこの問いに対する答えは否だと考えているが、今のところ推測的である。また、18世紀の「地質学者」たちは19世紀初頭の継承者と同程度の量のスケッチや図を描いていたのだろうか、という問いも立てられる。19世紀初頭の地質学者たちがフィールドスケッチを描く上でなかなかの能力を持っていたことは、当時彼らの社会階級で(特に山の景色や化石などロマンチックな対象の)絵を描くことが流行していたことと関係している。
 18世紀後半に自然史の著作の挿絵に使われたのは主に銅版画だったが、高い費用がかかったので、その使用は著者が最も重要だと考える部分に限られていた。たいていの場合唯一の挿絵は口絵であり、それは著者が本全体の要約になっていると考えるものになっていたのである。しかし、経済的な理由では説明のつかないこともある。たとえばオラス=ベネディクト・ド・ソシュールのVoyages dans les Alpes(1779-96)には挿絵が非常に少ないが、冗長に過ぎる文章を少し削れば出版費用を増やさずに挿絵を増やすことができたはずだ。18世紀末の旅行者ナチュラリストたちは、地形的な現象について視覚的認知を得ているときでも、それを殆ど言葉だけで伝えることを考えていたのではないだろうか。
 銅版画は線画には向いていたが、自然史の標本や地形を描くにはまったく不十分だった。また、ナチュラリストや画家の繊細な認知も、実際に彫刻家が彫るものの中には伝わらなかった。版画は本文とは別に刷られるため、本の最後か製本者の都合の良い場所に挿入されてしまうという問題もあった。19世紀初めに台頭するアクアチントは地形の描写に適していたが、同じ問題を抱えていた。
 それに比べて、石版画の発明は自然史科学にずっと大きな影響をもたらした。石版画は彫刻家を必要とせず、段階的な濃淡などをずっと正確に描くことができた。しかし石版画もすぐには広まらず、科学的な目的で広く使われるようになるのは1820年代になってからであった。ロンドン地質学会の紀要は、旧シリーズの最後の巻(1821)ではすべて彫刻術による挿絵が使われていたが、新シリーズの最初の巻(1824)からは大部分が石版画で刷られるようになり、彫刻術の3分の1の費用で高い品質の挿絵を載せるようになった。しかし、他の地質学研究関係の定期刊行物は依然として専ら彫刻術を使っていた。
 銅版画の銅に代えて鉄を用いる鋼板印画の貢献はこれに比べると小さかったが、彫刻術の利点を活かすことができ、少ない挿絵を安く大量に刷るのには適していた。ライエルの『地質学原理』の口絵も鋼板印画によるものだった。
 この時代の最後の技術革新は木版画の発展であった。木版画はその繊細さでは石版画に劣るものの、小さな線画などに適しており、また普通のゲラに組み込んで本文と同じページに載せることができた。木版画も普及に時間を要したが、これは地質学者たちというより出版者たちの態度の問題であったようだ。『地質学原理』の第1巻(1830)と第3巻(1833)、デ・ラ・ビーチの1831年の著作と1835年の著作を比べると、それぞれ前者に比べて後者で木版画の使用が急増しており、この頃から地質学関係の安めの本で木版画が普及していく。
 非常に重要なことに、はじめての地質学専門の定期刊行物であるロンドン地質学会の紀要は1811年の発行開始当初から、彫刻術の高い費用にも関わらず挿絵を豊富に使っていた。学会の指導的メンバーに視覚的コミュニケーションの重要性を認識していた人物が居たと考えられる。

(copper engraving=銅版画、steel engraving=鋼板印画、lithograph=石版画、wood engraving=木版画、と訳しました。石版画のみ、engravingではない。)


3 地質図
 現代の地質学に慣れた人間は見落としてしまいがちだが、地質図はとても複雑で抽象的で形式化された表現である。地質学史家たちは地質図の重要性を強調する点で正しいが、筆者はそれが視覚言語という側面から研究されるべきことを示したい。歴史に関心のあった古い世代の地質学者たちは、地質図の発明者が誰かという論争に労を費やしたが、筆者はそういった「激変説」的なヒストリオグラフィーを、もっと「斉一説」的なもので置き換えてみたい。
 かつて地図作成法の制約は、複雑で抽象的な地質学的情報のやり取りを大きく阻害していたと言える。たとえば、Carte minéralogique de la France(1780)は街や村や川の流れの情報は詳細に描けているが、地形については外形がケバ線で描かれているのみであり、これは地形を誤解させる描写方法である。この時代の地図の貧弱さは、当時の旅行者ナチュラリストたちの視覚コミュニケーションに対する態度を反映しているのだろう。
 地質図的情報が描かれた初期の地図のすべては、採鉱や実用目的の調査と関係していた。現代の地質図につながる系譜を追うなら、その出発点はAtlas et Description minéralogique de la France(1780)であろう。この地図ではスポット・シンボルを用いて、採石場や鉱床、岩石の露出部など、様々な鉱物が見つかった場所を大量に示している。これは下に横たわる基岩の一様さを示そうとしたものではないが、結果として単なる分布図には留まらなくなっている。シャルパンティエ(Johann Friedrich Wilhelm Charpentier)のMineralogische Geographie der Chursächsischen Lande(1778)はこれと同じ慣例に基づいているとみなされるべきだが、水性塗料でスポット・シンボルの散乱を補足しており、スポット・シンボルのあいだの地域の土壌や植物の下には関連する岩があるはずだという、暗黙の信念があったことを示すものである。
 キュヴィエとブロンニャールのCarte géognostique(1811)はこの慣例が発展したものとして捉えられる。スポット・シンボルは捨て去られ、地図に塗られた色は地下の三次元的構造を暗示的に指し示している。おそらくはこれと独立して、英国のウィリアム・スミスも三次元的構造を二次元の地図に描く巧妙な方法を作っていた(1815)。ロンドン地質学会の創立メンバーの一人であるジョージ・グリーノウが1920年に発表した地図は、経験主義的に過ぎたため概念的には時代遅れになっていたが、スミスの地図と共に他の地質学者たちの原資料となった。しかし、1815年以降の地図のめざましい進歩の中では、スミスではなくキュヴィエやブロンニャールに由来する慣例が使われていた。トーマス・ウェブスターが1814年から発表し始めた地図はキュヴィエの慣例に基づくもので、ウィリアム・コニベアやジョン・マカロックもこれに続いた。こうしてフランス式の慣例が英国でも採用され、地質学の標準的視覚言語として国際的に理解されるようになったのである。
 ニコラス・デマレが描いたオーベルニュの火山岩の地図(1779)は、18世紀の地図の「分布的」な意図を越えている点でユニークであった。この地図作成法上の例外は、デマレのねらい(歴史的に火山活動が相次いできたという証拠を示そうとした)が特異であったことと関係しているのだろう。19世紀初頭には、地質図や地質図断面図が可能にした新しい構造認識的な目標が、今度は因果的時間的説明によって超越されていくことになる。ここに至ってデマレの地図のような、理論的なテーマを持った地図が多く出現することになるのである。


4 地質断面図
 地質断面図も地質図と同じく、率直な観察とはかけ離れた視覚言語であり、それゆえ特定の歴史的環境で構築されなければならなかった。実際、1920年代より前の時代では地質断面図は非常に少ない。科学自体が自己意識的なディシプリンとなった時代にはじめて、地質断面図は地質学の視覚的レパートリーの標準的一部分になったのである。
 初期の断面図は二つの遠く離れた文脈で発見される。地質学的情報を持つ18世紀の断面図の殆どは、鉱物地理学の文脈で出てくる。これらは円柱型の簡単な図で、特定の場所についてのものもあれば、その地域全体の地層の順番を一般化して表現したものもある。しかしこれらはスポット・シンボルにより伝えられる情報を拡張した程度のものに過ぎない。また、初期の横に広がる断面図の殆どは、実際の採鉱の文脈から出てきたものだった。1809年以降には、褶曲や断層などの構造的複雑性を故意に省略した円柱型断面図が登場するが、これは概念的にきわめて大きな意義のある達成である。1830年までにはこういった断面図の潜在能力が認知され、異なる地域の円柱図が並列される図が出てくるに至るが、これは層序学に不可欠な相関図の起源といえる。
 もう一つの文脈は、宇宙起源論の理論を描いた図である。17世紀の例としては、ニコラウス・ステノ、アタナシウス・キルヒャーなどが図を描いている。18世紀になると、経験的な地層断面図と結び付いた宇宙起源論も出てくるようになる。たとえばジョン・ホワイトハーストのOriginal state and formation of the earth(1778)では、各地層が平行になって傾いているという理論的仮定に従い、限られた地表の証拠から推定したダービーシャーの地質断面図が描かれている。ジョン・ファレイの地質断面図もよく似ており、この二人の地質断面図は製図の影響を受けていることが覗える。ウィリアム・スミスのSections(1817-19)は同僚であったファレイとほぼ同じスタイルで描かれている。以上の英国での地質断面図の伝統が示すように、地質学の複雑な現象を解釈する構造的アプローチは、実用的な採鉱や鉱物調査といった社会的文脈において、工学的実務に関わっていた人物によっていち早くなされたことがわかる。
 しかし同様の構造的志向は、異なる文化的背景からも出現した。パリ地域の地質についてのキュヴィエとブロンニャールの業績の中にも、横断型の地質断面図が含まれていた。キュヴィエとブロンニャールの地質断面図の慣例はすぐにロンドン地質学会に採用され、メンバーたちもスミスやファレイの業績ではなく、方法論的に優れたフランスの業績を手本とするようになった。1830年代初頭までに、横断型の地質断面図は地質学の視覚言語の一部としてどこででも確立されるようになった。1830年にデ・ラ・ビーチは、地質断面図を鉛直方向に引き延ばすことの危険を指摘してもいる。
 1830年頃以降、ブロンニャール、バックランド、ライエルなどによって、様々な理論的あるいは「理想的」地質断面図が出版されていく。これらは全て横断型地質断面図の慣例を踏まえていながらも、地殻の「理想的」部分を表現し、異なる岩石間の関係やその時間的・因果的説明を描いていた。
 エリー・ド・ボーモンがRévolution de la surface du globe(1929-30)で使っている地質断面図は、水平方向が地質学的なタイムスケールも表現しており、彼の理論を説明している。地質断面図という表現方法の柔軟性を示す例といえよう。


5 風景画
 18世紀当時の「地質学」分野の本や記事の挿絵は、標本の絵を除くとほとんどが特定の地域の風景を描いたものであったが、これらは少数の例外を除くと粗雑なものであった。ここには、当時の美術的伝統の様式上の限界や、地質学的興味の対象が美術にとって馴染みの薄いものであったことが関係している。
 地形学的視覚言語の伝統の源は、社会的な地位は低い、記録資料的な地形画の伝統にあった。この伝統には、航海に付き従った画家ナチュラリストたちや、貴族の土地や大邸宅を描いたり本を売ったりして稼ぐ地形画家たち、軍の調査や航海図に付属する地形画の描き方を教えていた人々などが属していた。この伝統が地質学に果たした重要性は、19世紀初頭の地質学的業績に載せられた挿絵のいくらかから察することができる。たとえば、地質学的に有益なウィリアム・ダニエルの絵や、ロンドン地質学会の公式製図者となったトーマス・ウェブスターの絵も、当時の航海図を補足していた海岸の崖の風景画と多くの類似点を持っている。
 1820年までに、正確な風景画の地質学的使用はごく普通のことになった。記録資料的地形画の伝統の写実主義的な性格は、ロンドン地質学会の初期のメンバーたちの経験主義的理念に訴えるところがあったようだ。
 しかしどんなに無害な「記録資料的」風景画でも、ある種の理論的内容を内包することは避けられなかった。そして19世紀初頭の地質学的風景画では、それまで暗黙のうちに潜んでいた理論的内容がより明示的に表れはじめた。海岸の崖の風景画は特によく描かれていたが、構造的特徴が強調されるようになり、偶発的な特徴は単純化され、色使いも見たままの色というより、岩の種類に従った慣例的な色が使われるようになっていった。このような形式化が進んだことで、海岸の崖の風景画はときには地質断面図と見分けがつかないようなものにさえなっていた。海岸の崖の風景画は、形式化されていたとはいえ、推測的な外挿を必要とする地質断面図に比べれば直接的観察に近かった。そのため、形式化された海岸の崖の風景画は、横断型地質断面図が受け入れられ、まだ見ぬ実体の妥当な表現として信用されるようになるための概念的橋渡しの役割を果たした。
 このような地質学的地形画の慣例は、崖などを含まない普通の風景画にも拡張されていった。たとえばスクロープは、Memoir on the geology of central France(1827)で慣例的な色使いなどを用い、鮮烈な印象を与える死火山の火口や溶岩流などを描いた。スクロープはさらに地形画の慣例を抽象的で理論的な方向に発展させ、理想化された溶岩流の風景などを描き、言葉による結論を視覚的に補完した。この影響をすぐに受けたライエルは、『地質学原理』の口絵でスクロープの技術を用いている。
 しかし、このような形式化された地質学的風景画はその後あまり用いられなくなった。おそらくは、この頃には幅広い読者が、地質図や地質断面図などのさらに形式化された視覚言語を読めるようになっていたからであろう。


6 結論
 18世紀末から19世紀初頭の「地質学」的著作における挿絵の質的・量的発展は、部分的には経済的・技術的な言葉で説明可能だが、また一方では、自己意識的な新しい科学の発展と平行する、新しい種類の視覚的表現の発展を反映してもいる。宇宙論、鉱物学、自然史、採鉱など、様々な分野の伝統が総合され、知的目標と組織を得た。しかしこの複雑な歴史的過程の本質的要素は視覚言語の形成にあった。
 地質学の視覚的表現は、多様な社会的・認識的な源に由来する。それらは抽象化と形式化の中で発展し、ますます理論的な意味を持つようになっていった。筆者が作った図25は、地質学における視覚言語の相互関係と発展を表現したものだ。
 筆者が分析した視覚的コミュニケーションが言葉の形に還元できるかどうか問うことは不毛で、歴史家は新しい科学としての地質学の登場において視覚言語が決定的な特徴であったことに注意すれば十分だ。その重要性を覆い隠しているのは、科学史の非視覚的な伝統だけなのである。

2013年5月22日

『植物の変異と進化』第2章 Stebbins, Variation and Evolution in Plants, Ch. 2

Variations and Evolution in Plants (Biological)Variations and Evolution in Plants (Biological)
George Stebbins

Columbia Univ Pr 1950-06
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久々の更新。少し前に書きためていたものです。かなり読みにくい日本語になっています……


G. Ledyard Stebbins, Jr., Variation and Evolution in Plants (New York: Columbia University Press, 1950), 42-71
Ch. 2 Examples of Variation Patterns within Species and Genera


2章 種内・属内での変異パターンの例

 進化の個々の要因について考える前に、変異のパターンについて検討しよう。変異のパターンには、①種内のレベル、②種より大きいレベル、という2つのレベルがある。この2つのレベルを分けるのは、変異が連続的または部分的にだけ不連続的であるかそうでないか、隔離機構が鋭い不連続を形作っているかそうでないか、といった点である。

☆生態型の概念
 種内での変異のタイプは規則性をもち、特に生態学的状況への適応との関係性をもつ。そのため、近年では生態型の概念に注目が集まっている。チューレソンによれば、生態型は「生態種や種の遺伝子型の、特定の生息地に対する応答によって生じた産物」であり、ありふれた広く分布する種で特に多くみられるという。Clausen, Keck, and Hiesey(以下C・K・H)もこれを北米で確かめた。多くの研究者は、同種内の変異は生息地の違いと関係していると考えている。ここで、①どのくらいまで異なる生物型が異なる生態型として区別されるのか、②生態型と多型種(あるいはRassenkreise、動物学で発展)の関係は何か、という疑問が生じてくる。生態型がどれほどはっきりしたものかについては議論があるが、植物でも動物と同じように多くの種が、それぞれの生態学的環境に適応した遺伝子型のグループに分けられることは間違いないし、それらは部分的な不連続によって分かたれる。しかし広く分布する種はたいてい相当な数の生態型をもち、連続的になるため別個の生態型を認識することが難しい。

☆生態型的・クライン的変異
 それゆえ、種内の多くの変異はハクスリーが定義した「補助的分類学原理」を用いて「クライン」として描ける。クラインは植物ではよく見られるが、形質の組み合わせを扱い、形質の相関や不連続を探ることを目標にしているシステマティクスの普通の方法では、クラインを明らかにできそうにない。クラインの例は、Langlet、C・K・H、Olmstead、Böcherなどの研究に見られる。
 種内変異をクラインで扱う方法は、レースや亜種といった概念を用いる方法に比べて、個々の形質を扱って選択などの原因を分析できる点や、連続的な量的形質を扱える点などが長所である反面、広い調査を行った後でないとクラインが認識できない点、選択は形質の組み合わせにかかるので勾配を強調しすぎると変異の全体像を見失う点などの短所もある。
 クラインと亜種の関係性はクラインの形質次第である。クラインが連続的であればそのクラインを形成する形質は区分の基礎となることができないが、クラインがある地域で急勾配となるようなタイプであればできる。連続的でむらのない気候・生育環境ではクライン的な生態型が優勢であるが、不連続的で多様な気候・生育環境は分化を促しはっきり区分できる生態型が形成される。チューレソンが指摘したように、他家受粉、特に温帯の風媒受粉の植物では、連続的な遺伝的変異が見られる。交配集団が大きく、巨大な遺伝的変異の貯蓄の中から選択が行われるので、植物はその地域の環境に密接に適応し、環境の連続・不連続性をはっきり反映する。一方、近くの個体との受粉、特に自家受粉を多く行う植物では、コロニー内で一体性、コロニー間でははっきりとした違いを示す生態型となる傾向がある。クラインと生態型は相互に排他的な概念なのではなく、同じ問題にアプローチする異なる方法であるといえる。クライン的変異は適応を決定する形質に存在し、それゆえ生態型の基礎を形成することもあるが、特に明らかな適応価のない形質にも見られる。対応して、生態型的変異は複数のクラインによって形成されることがある。Gregorが強調したように、どちらのアプローチも種内の変異を理解するのに助けとなる。

☆生態型と亜種
 生態型の概念と、多型種(Rassenkreise)は2つの点で異なる。まず、①亜種はおもに見分けがつく違いに基づくが、生態型は環境への応答に基づいて区別され、はっきりした形態上の違いをもたないことがある。C・K・Hによると、亜種は1つまたはいくつかの生態型で構成されている。生態型は、環境による変形のために、同じ環境に移さないと判別できないことがある。環境による変形は動物では植物より少ないので、動物学者たちはシステマティクスの術語以外に遺伝生態学のタームを使う必要がなかった。次に、②生態型は生態学敵、適応的概念だが、亜種は形態学的、地理的、歴史的な概念である。地理的地域がそれぞれ違った生態学的状況をもつ限り、生態型は亜種に等しい。一つの亜種は一つの共通の起源を持ち地理的に連続して分布するが、生態型はそうとは限らない(チューレソンの調査地図)。生態型概念の定義については議論も多い。

☆種や属のレベルでの変異
 種のレベルを含む変異では、集団や集団システムの間に大きな生理学的/遺伝学的障壁をもち、変異のパターンはその障壁の大きさや集団の多様性の大きさに依存する。何人かの植物学者たちは、種や種のグループを隔離機構の発達度で特徴づける術語を作ってきた。チューレソンのecospeciesは稔性や活力を損なわずに交配できるシステムで、ほぼ分類学の種に一致する。チューレソンのcenospeciesはなんとか稔性を残して交配できる範囲のecospeciesから構成されている。Danserのcompariumは、直接あるいは仲介を通して交配できる範囲のcenospeciesから成り、これは属の大きさに近い。集団内の遺伝的多様性、不連続性は集団次第で様々である。

☆キンポウゲ科内でのパターン
☆キジムシロ属内での変異パターン
☆カシ属
☆キク科内でのパターン
☆イネ科
種の境界は、標本の研究だけではなく、交配の実験を体系的に行った後でないとわからない。これらのパートでは、実際にいくつかの科や属について、先行研究を数多く引用しながら、また、ここまでで紹介した概念等を用いながら考察を行う。

☆一般的結論
 ここで調査したうち、4つの属・亜属の中では、均質か、変異があっても多型ではない種が大部分であった。しかしいくらかの種は地理的に隔てられた亜種をもっていた。またおおおよそこれらの属では、遺伝的多様性は同一の環境で育てた場合に区別できる変異の形で存在するので、これらはチューレソンの意味での生態型であるが、地理的な広がりの中で形態的な違いを区別できるわけではないので亜種ではない。一般に認められた種は、生殖的隔離の障壁によって常に隔てられており、これら障壁は様々であるが、F1世代の交配における花粉や種子の部分的または完全な不稔がもっとも一般的である。
 残りの6つの属は、多型種と均質な種を同程度の割合でもっている。温和な地域の木の属は、種が広く分布しており多型であるだけでなく、分布地域がほぼ完全に一致している種のあいだで稔性のあるF1世代を形成するという特徴があり、最も発達している隔離機構は生態学的なものだ。
 これらの例からいえることは、あるグループで発展した、種に関する基準を、無批判に他のグループに当てはめてはいけないということである。グループ間で生活の様態が大きく異なっている場合はなおさらであり、このことは特に植物学者によって認められた種を動物学者が再解釈する試みや、植物学者が彼らの種の基準を動物に用いようとする試みについていえる。進化やシステマティクスの一般的原理は、可能な限り異なったグループの植物や動物についての幅広い知識に基づかなければいけない。

2013年4月23日

ボウラー『進化思想の歴史』、第1章~第3章

ピーター・J・ボウラー『進化思想の歴史(上)』鈴木善次ほか訳、朝日新聞社、1987年、11-147ページ。

ボウラー『進化思想の歴史』を改めてしっかり読んでまとめていこうと思います。


1 進化の観念――その広がりと意味
 生物進化論は、中世キリスト教世界観に挑戦する、地球の過去に関する研究の一部に過ぎない。これらの研究による新しい世界観は、①時間的尺度の拡大、②変化する宇宙という考え、③デザイン論の排除、④奇跡の排除、⑤自然の中への人間の包含、といった論点に特徴づけられる。進化論の内部では、自然的過程の作用の仕方について、①定常的状態―発展、②進化の内的支配―外的支配、③連続性―不連続性、といった対立点がある。

2 地球に関する初期の理論
 17世紀に現れた新しい宇宙論は、地球の起源について考える枠組みを与えた。アリストテレスの議論では地球と天球は根本的に異なっているため、一方が一方を生み出すなどと考えることは不可能だったが、力学的哲学によれば物質は宇宙のどこでも共通しているため、それが可能となった。ノアの洪水などの『創世記』の出来事を物理学的に説明しようとするトマス・バーネットやウィリアム・ウィストンらの議論は、全知の神はすべての歴史を見通して世界を設計することができるので、いったん宇宙を造ったあとには世界に気を配る必要がないという考えにつながり、自然神学への第一歩となった。
 ナチュラリストたちが化石は生き物であったと確信するようになると、堆積岩がどのように陸地になったのかが問題となった。18世紀の地球理論でも中心的課題となるこの問題に対し、ドゥ・マイエは『テリアムド』で海洋後退説を唱え、一方ニコラウス・ステノやロバート・フック、ジョン・レイは隆起による説明をした。いずれにせよ、地球の年齢を数千年と想定する以上、過去における変化は現在のそれよりはるかに大きな規模であったと考えざるを得ず、激変説の歴史観が導入された。
 ニュートン主義科学は、地球の起源に関する仮説に基礎を与え、ビュフォンの彗星による説明や、カントやラ・プラスの星雲説が生まれた。
 堆積岩が陸地になる経緯について、ベヌワ・ドゥ・マイエとビュフォンは水成説(ネプチューニズム)および海洋後退説の立場をとった。ウェルナーも火山活動や地震の役割を軽視して水成説の立場をとり、鉱物分類体系と結びつけた。フランス革命以降のイギリスの保守的な風潮も影響して、ジャン・アンドレ・デリュックら後期の水成論者によって、ウェルナーの理論は聖書地質学と関わるようになった。一方、火成説(バルカニズム)ではハットンが初めて包括的な理論を構成し、火成説を定常状態という世界観と結びつけた。ハットンの説は地球の歴史を非常に古いものだと考えたため、デリュックなどから宗教上の攻撃を受けた。

3 啓蒙時代の進化論
 18世紀の地質学上の発見は、創造の物語に対する疑問を投げかけた。唯物論者は宗教攻撃を強め、生物の形態の変化を説明する理論が登場した。こういった理論は表面的には現代進化論に類似していたが、18世紀末には他の啓蒙思想の多くと共に消滅していくことになる。
 17世紀後半のナチュラリストたちは、自然界を研究することでそれぞれの種が神の創造物だという信念を補強するだろうと考えており、彼らの議論には、デザイン論、種間関係には存在の連鎖のような構造があること、種のグループ分けをすること、などの特徴があった。
 リンネは、新種の形成はあくまでも雑種化によるものだと主張しており、これは自然界の変化は創造に由来する既存の秩序の中の位置を占めることに他ならないという考えと調和していた。ミッシェル・フーコーによれば、18世紀には生物の体系を開かれたもの(オープン・エンド)として考える理論は現れず、キュビエの分類体系がようやく自然界の固定した秩序という考えを打ち破り、生命の多様性には限界が無いと考えることを可能にした。
 18世紀唯物論者のナチュラリストたちの、生命の起源を創造の代わりに自然法則で説明しようとする理論は、ハーヴィの説いたような(機械論哲学の保守的立場である)先在胚種説(前成説)への対立理論として登場した。胚種の代わりに、各生物個体は物理的な力によって形成されるとしたことで、唯物論者たちは種が固定している保証はないと考えることができた。シャルル・ボネやJ・B・ロビネは、胚種説を存在の連鎖の概念と一体化させ、さらに存在の連鎖を時間化して静的なものから前進的なものにした。
 しかし18世紀には探検によって新しい種が大量にもたらされ、ナチュラリストたちは、生物を存在の連鎖のように一直線に配列することは不可能だと確信するようになっていった。神が意味ある秩序に従って種を創造したという信念に基づき、リンネはそれを明らかにする最初の段階として人為的体系をつくった。リンネによれば、神は一つの属につき一つの種だけを創造したのであり、他の種は主に雑種形成によってつくられる。
 生命の起源を唯物論的に説明しようとする試みは、まずドゥ・マイエの『テリアムド』によって行われ、生命は宇宙のいたるところに存在する胚種から生まれること、あるとき水生生物から対応する陸上生物に変化することなどを説いた。モーペルテュイは『生身のヴィーナス』で胚種説を批判し、『自然の体系』で自然発生説を唱えたが、物質が生命をもった構造をとることを説明するために、粒子が記憶や意思をもつという奇妙な結論に至ってしまった。ジョン・ターバーヴィル・ニーダムと行った実験で密閉加熱したフラスコから微生物の発生を確認したビュフォンも同じく自然発生説をとったが、この問題に対しては「内的鋳型」の概念を導入して説明した。ビュフォンによれば、内的鋳型は宇宙の不変の特徴であるが、造物主の設計によるものである証拠はない。ビュフォンはやがて、近縁の種は共通の祖先に由来するのであり、移住した地域の外的諸条件によって様々に分化したのだと主張するようになった。
 啓蒙期の無神論唯物論者たちは、デザイン論や固定した種の考えを強く批判し、自然自体を本質的に創造的なものだと考えた。ラ・メトリは淡水ヒドラの能力にひきつけられ『人間機械論』を著したが、生命の起源については先在胚種説を離れられなかった。ドニ・ディドロやドルバック男爵は生命の自然発生の過程を開放的なものとして捉え、決められた種の形態しかとることができないというビュフォンの考えから脱却した。
 エラズマス・ダーウィンは詩や『ズーノミア』の中で、神のデザインに由来する生物が、努力の過程で器官を発達させていく進化論を説いた。ラマルクは啓蒙期の唯物論に影響を受けた理論を構築したが、理論を総合した時期には比較解剖学の発展やナポレオン時代の保守的思潮のために啓蒙期の思弁的唯物論は廃れており、またキュビエの策動もあったため、ラマルクの理論を受け継いだ人物は居なかった。

2013年3月31日

ライエルとオーヴェルニュの地質学 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 18

Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of ReformWorlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform
M. J. S. Rudwick

Univ of Chicago Pr (Tx) 2010-05-15
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Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 253-66.


Ch.18 ライエルとオーヴェルニュの地質学(1827-28)

18.1 スクロープのオーヴェルニュ研究とライエル

ライエルは『クォータリー・レヴュー』の最後の連載(1827)において、スクロープの新しい本『中央フランスの地質学についての報告』(1827)をレビューした。スクロープは、過去幾度も繰り返された火山の噴火によってできた地形は、河川による絶え間ない侵食の歴史を示していると考えており、大洪水も海の侵入も否定していた。ライエルもスクロープの見解を支持し、さらにそれをスクロープが言及していない生命史の領域にまで拡張した。ライエルは現在因を地質学的説明に用いることに自信を見せ、多くの地質学者を、現在の地球上の法則を無視して説明のつかない現象に頼っているとして非難した。
スクロープやライエルは長大な時間を想定したことで、人間はかなり後になって登場した存在となり、世界における人間の地位を脅かしてしまった。しかしライエルによれば、人間は理性を持っており、それによって人類以前の太古の歴史まで知ることができるのだから、人間がこの世界で重要な存在でないということにはならない。
なお、ライエルのこのレビューについて、師であるバックランドは反対しなかった。

18.2 地質学の改革者としてのライエル

ライエルのこのレビューは、新しく書こうとしていた本の予行演習でもあった。この本は当初は一般向けを想定していたが、ライエルは考えを変え、地質学を改革するような高いレベルの本を目指すことになった。ライエルはこの本で、過去における原因は現在因と同じであることを強調し、現在因の使用を推進するつもりであった。ライエルによれば、過去と現在の原因は同じと考えるのが普通であって、立証責任はそれらが異なると考えている人々の側にある。しかし、物理法則の場合と複雑な地質学的法則の場合とでは事情が異なるという批判もあった。なお、ライエルは聖書に基づく見解の人々と一緒くたにされないように、「現在因」にactual causesではなくmodern causesなどの言葉を用いていた。
1828年の春に、ライエルはマーチソン夫妻と共にフィールドワークに行く機会を得た。その旅程では、最初にフランスの中央高地に行くことになっていた。

18.3 ライエルの目で見たオーヴェルニュ

ライエルはロンドンを発つ前から旅先の地域に関連する研究を集めて勉強していたし、パリでは現地の地質学者から情報を集めていた。また、地元のナチュラリストの協力に依存していた部分も大きかった。それゆえ、ライエルらは自分たちの目で調査地域を見たときにも、すでに他の研究者の影響を受けていた。最初の調査地域であるオーヴェルニュでライエルは、スクロープや現地のナチュラリストであるクロワゼやジョベールが書いてきたこと(おだやかな侵食作用が働いていること、化石の動物相の変化がゆっくりであること、大洪水を示す証拠がないことなど)の正しさを認めた。
オーヴェルニュを発った頃のライエルのノートには、地質学の説明における歴史的思考の必要性について書かれている。その例としてライエルは、多くの街が山の上に作られているのはむかし敵に攻められにくいようにしたからであり、ある谷間が不毛の岩でいっぱいなのはむかし溶岩が流れてきたからだと述べている。
また、キュヴィエによる絶滅の説明(突然の海の侵入)を否定した代わりに、生物種には個体と同じように、理由はわからないが本質的に定まった寿命があるのではないかというブロッキのアイデアについて書いている。

18.4 結論

ライエルのこの調査旅行は、ダーウィンのビーグル号航海にも相当する重要なものであるため、このあとに続く2章の大部分もここに費やすことにする。

2013年3月28日

植物学者ダーウィン アレン『ダーウィンの花園』

ダーウィンの花園―植物研究と自然淘汰説ダーウィンの花園―植物研究と自然淘汰説
ミア アレン Mea Allan

工作舎 1997-01
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ミア・アレン『ダーウィンの花園』羽田節子・鵜浦裕訳、工作舎、1997年

チャールズ・ダーウィンの伝記ですが、彼の植物学者としての面にスポットライトを当てた一冊です。400ページ近い本でぎっしり書いてあるので文章量はそこそこありますが、読み物風で楽しく読めました。

特に、『種の起源』発表以降のダーウィンの植物研究に比較的大きい分量が割かれています。メモ程度に、それらの章のタイトルとキーワードを並べておきます。

10章 大移動 ・・・ 植物地理学、氷河の南下
11章 風変わりなおかしな事実の億万長者 ・・・ 『ランの受粉』
12章 つる、鉤と巻きひげ ・・・ 『攀援植物の運動と習性』
13章 人類の素晴らしい実験 ・・・ 『家畜および栽培植物の変異』、強力遺伝
14章 植物界の殺戮 ・・・ 『食虫植物』
15章 ダーウィンのヒーロー ・・・ 『他家受精と自家受精の効果』
16章 正当な結婚と不当な結婚 ・・・ 『同種の植物における花の異型』、自家不和合性
17章 植物の運動と睡眠 ・・・ 『植物の運動力』、屈光性

2013年3月25日

増田芳雄『植物学史 ――19世紀における植物生理学の確立期を中心に――』

植物学史―19世紀における植物生理学の確立期を中心に植物学史―19世紀における植物生理学の確立期を中心に
増田 芳雄

培風館 1992-05
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増田芳雄『植物学史 ――19世紀における植物生理学の確立期を中心に――』培風館、1992年

1 『Planta』からみた植物学の変遷
ドイツの植物学専門誌『Planta』の変遷について書かれた章です。1955年までは掲載論文は全てドイツ語でしたが、1956年にはじめて英語論文が現れ、1975年以後はすべての論文が英語になっています。論文の著者も元々はドイツ語圏の人が殆どでしたが、60~70年代に世界中から投稿されるようになり、国際的な性格を帯びてきたことがわかります。研究分野を見ても、植物学の様々な分野の論文が掲載されていたのが、60年代以降には大部分が植物生理学に関するものとなり、当時の植物学の様相を窺い知ることができます。

2 19~20世紀の植物学 ―ザックスとペッファーの時代
19世紀のドイツにおいて植物学の近代化を押し進め、多くの重要な門下生を輩出したのがザックス(Julius Sachs)とペッファー(Wilhelm Pfeffer)でした。ザックスは実験植物生理学を確立した人物であり、その門下にはペッファー、F・ダーウィン、ド・フリース、松村仁三らが居ました。植物生理学の物理化学的基盤を確立したペッファーは、門下生がさらに多く国籍も多様であり、コレンス(Carl Correns)、ヨハンセン、三好学、柴田桂太らが居ました。オーストリアのウィーン大学では、ウンガー(Franz Unger)に始まり、ヴィースナー(Julius Wiesner)や仙台にもやって来たモーリッシュ(Hans Molisch)を含むウィーン学派が形成され、独特の細胞生理学の伝統をつくっていました。
初期の東京大学では教授の多くは外国人でしたが、植物学教授はアメリカに渡った矢田部良吉が務めました。谷田部門下で留学してペッファーのもとでも学んだ三好学は、帰国後に植物学第二講座(植物生理学)の教授となりました。柴田桂太など初期の日本の植物生理学者はほとんどが三好門下で、かつドイツに留学した人々でした。日本の分類学は矢田部や松村任三とその門下によって築かれましたが、大学教育を受けなかった牧野富太郎も著しい貢献をしました。東北大学農科大学(後の北海道大学農学部)では細胞学者の坂村徹が植物生理学教授になりました。また、坂村が札幌の農科大学で行なっていたコムギの細胞遺伝学的研究は、木原均に引き継がれました。

3 成長生理学
成長生理学とホルモン学はダーウィンローテルト(Vladislav Adolphovich Rothert)、フィッテイング(Hans Fitting)らの光屈性に関する先駆的研究によって基礎が築かれました。この基礎のもとに、ボイセン=イエンセン(Peter Boysen-Jensen)が光の刺激はゼラチンを通過することを発見し、パール(Arpad Páal)は刺激伝達物質があると考えてそれを相関担体と呼びました。これらの研究に基づき、1926年にウェント(Fritz Warmolt Went)がオーキシンの分離に成功しました。この後、成長生理学の研究の中心地はカリフォルニア工科大学の生物学教室に出来上がっていきます。

4 植物の分化
顕微鏡の改良を経て、1838年に植物学者シュライデンによって(そして動物学者シュヴァンによって)細胞説が提唱されました。フォン・モール(Hugo von Mohl)は細胞分裂の観察によってこれに実験的基礎を与えました。ネーゲリ(Carl Nägeli)は哲学的思想が観察に先行する傾向がありましたが、デンプン説やミセル説を発表して細胞構造の研究に貢献しました。『植物学教科書』の著者でもあるシュトラスブルガー(Eduard Strasburger)は、『細胞形成と細胞分裂』に細胞分裂の過程を詳細に記しました。

5 植物学の源流と展開 ―18世紀から20世紀へ
リンネ、ツンベリ(Carl Peter Thunberg)、ビュフォン、ラマルク、ド・カンドル(Augustin-Pyranus de Candolle)、ヘイルズ(Stephen Hales)などの業績が紹介されている章です。

2013年3月24日

ゴオー『地質学の歴史』 第13章~第16章(完結)

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、242-320ページ。

13 原初の時代
1830年代から40年代には、石炭紀より古い岩層の研究が熱心になされ、イギリスのアダム・セジウィックロドリック・マーチソンらが重要な業績をあげた。先カンブリア時代の岩層を調査して生命の痕跡の有無を確かめる研究もされるようになり、最終的に1894年にそれが発見された。
19世紀には地球の年齢も一つの争点であったが、学者たちはすでに数十万年や数億年、あるいは数兆年といった長い期間を話題にするようになっていた。19世紀末にケルヴィン卿が熱の研究から2億年以内という数字を導いたことは地質学者にも衝撃を与えたが、アンリ・ベクレルキュリー夫妻によって放射能の研究がなされたことで1909年に決着がついた。1917年以降は、放射性崩壊を用いた年代測定が可能になった。

14 地殻の破砕
エドゥアルト・ジュースは、1909年まで26年間をかけて完成させた大著『地球の相貌』で、現在主義と激変説の総合に努めた。ジュースはド・ボーモンと同様に地球の冷却による収縮を信じていたが、ヨーロッパの形成の説明でド・ボーモンの「山系」説を塗り替える業績をあげた。フランスで19世紀末に活躍したマルセル・ベルトランはジュースの視点を引き継ぎ、ヨーロッパの形成を複数の山脈が連続的に並置された過程として論じ、ヘルシニア山脈などを命名した。一方この頃、偏光顕微鏡や化学分析の手法が浸透し、岩石の研究も発展していた。

15 漂移する大陸
1912年、アルフレート・ヴェーゲナーは海岸線の一致や動物相、化石の植物相や構造地質学などの根拠に基づいて大陸漂移の説を発表した。これに反対する人々の一部は、動物相や植物相の類似を説明するためにジュースの理論に基づいて、かつて存在したいくつかの陸橋が陥没したのだと主張した。しかしこの頃には、造山における平行運動の大きさが認識されたことや、放射能の発見で永年冷却説が崩壊したことによって、陸橋陥没説の土台となる地球収縮説自体が追い込まれていた。また、19世紀後半に発展したアイソスタシーの理論(山の質量を補償する「根」の存在)は、陸橋が陥没するような事態は起こらないことを示唆した。ヴェーゲナーは、海洋底や大陸の下部を構成する物質の上を、大陸塊が筏のように移動することを想像していた。しかしその移動の原動力については説明できず、また滑動に必要な流動性も地震波の観測から否定されたため、多くの地質学者は懐疑的であった。

16 海の誕生
1950年代には磁性鉱物を含む溶岩の研究が行われ、地磁気が時代によって逆転してきた歴史が明らかになり、1950年代末には、海嶺の中央から広がる磁気の縞模様が発見された。1962年にアメリカのハリー・ヘスによって海洋底拡大説が発表され、1960年代後半にこれらの研究を総合してプレートの運動を説明する論文が複数現れた。こうしてヴェーゲナーの業績は再評価されるようになったのである。

2013年3月23日

ゴオー『地質学の歴史』 第10章~第12章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、182-241ページ。

10 化石とともに
18世紀末にジャン=アンドレ・ドリュックは、地層をそこに含まれている動物相によって区別できることを示し、化石の層序学的役割を発見した。ドリュックはまた、これを説明するために生物変移説を唱えた。1810年、フランスのアレクサンドル・ブロンニャールは海成層と淡水成層の互層を発見し、一回きりの海の退却を唱えてきた人々に衝撃を与えた。キュヴィエはこれを手がかりに、複数の急激な環境変化が特定の動物相を消滅させてきたことを『地表革命論』などで主張した。新しい動物相の登場について、キュヴィエの説明は慎重であったが、後継者たちは反復的創造を想定した。また、キュヴィエとブロンニャールが1808年に最初に発表した『パリ周辺の鉱物学的地理試論』は、各地層は含まれる化石によって異なることを示唆した。1832年にキュヴィエが死ぬ頃には、生層序学は岩相層序学に取って代わりつつあった。イギリスの土木技師ウィリアム・スミスは1816年、『生物化石によって同定された地層』を発表し、地質年代を区分した。

11 過去の世界と現在の世界
ライエルの『地質学の原理』は1830年から1834年にかけて出版された。ライエルの斉一説は、地球の歴史に関する連続主義の面と、定向主義あるいは進化主義に対立する定常主義(世界の外観は安定的であった)の面を持っていたといえる。ドリュックは「現在原因」という言葉を作り出し、現在主義を批判した。ライエルを後に「近代地質学の父」とすることになる理論は、実はこの頃には常識的な古いやり方だとみなされていた。ライエルが唱えた漸進的な動物相交代は化石に低い価値を与えるものだったのにも関わらず、ライエルは層序学に注目していたと言えるだろう。一方、激変論者の説は化石に高い価値を与えるものであり、彼らは生層序学の創始者となる。

12 世界を築く激変
水成説では歴史の歩みは退行的であり、地球には未来が失われているのに対し、激変説は徐々に地球が築かれていくモデルだと言える。継起的隆起の効果は、1820年代までのレオポルト・フォン・ブーフの火山研究で最初に示された。鉱山技師のエリ・ド・ボーモンは、山の継起的隆起が海中の生命を混乱させたと考えることで「革命」を説明した。また、ド・ボーモンは隆起の原動力を地球の永年的冷却だと考えた。実際、1827年にルイ・コルディエが地下温度測定結果から、深部ほど温度が高くなる勾配があることを示し、この勾配はフーリエの地球の緩慢な冷却の計算結果に対応していた。ここで水成説は完全に敗れたと言える。ただし、ド・ボーモンの説は「五角形の網目」論という誤りも抱えていた。
一方、1820年代以降、石炭系、白亜系、ジュラ系、三畳系などの岩層が次々に命名され、さらにアルシッド・デサリーヌ・ドルビニーによって階に分けられ、生層序学が急速に発展していた。ただし、ドルビニーは反復的創造を支持したことで多く非難された。1830年代、生物の形態と特定の生活環境とが対応していることが理解されはじめ、示準化石と示相化石が区別されるようになった。遠洋の動物相についても、遠洋探検が知識を与えるようになった。19世紀中頃には、地質学の概説書や手引書も多く書かれていた。

ゴオー『地質学の歴史』 第7章~第10章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、126-181ページ。

7 歴史家ビュフォン
18世紀のビュフォンは地球の冷却に基づく理論を構築しました。ビュフォンは『地球の理論』においては水成論の立場をとっていましたが、『自然の諸時期』では火成論者となり、各「時期」を固有の現象で特徴づける理論を展開しました。すなわち、第一期には太陽への彗星の衝突で惑星が生まれ、第二期には地球の固まった物質がガラス質の塊となり、第三期には水が大陸を覆い、第四期には水が引き火山が活動し、第五期には動物の移動があり、第六期には大陸が分離した、といった具合です。ビュフォンは『創世記』の物語に見せかけ上では従っていましたが、実際には尊重しておらず、世界にはるかに長い年齢を与えていました。しかし、ビュフォンは法則を先行させたために化石や地層といった古記録の観察を軽視し、歴史的な研究からは遠ざかってしまいました。

8 産業に仕えて
18世紀には石炭の消費が急速に増大し、地層の知識が必要とされ、鉱山学校が創設されました。ドイツのアーブラハム・ゴトロープ・ヴェルナーは鉱物の分類の業績で著名となり、その学問をゲオグノジーと名付けました。ヴェルナーは水成説の代表的論者であり、花崗岩なども堆積物とみなし、地層の順序は堆積の順序であると考えました。また、世界中の地層が同じように配置しており、どの種類の累層も柱状図の中で一つの位置にしか登場しないはずだと信じていました。水成論者たちは、明確に反現在主義の立場をとっていたといえます。

9 地下の火
スコットランドのジェイムズ・ハットンの著書『地球の理論』は1795年に出版されました。ハットンは火成説の代表的論者であり、花崗岩の起源を火に求めました。ハットンの理論体系は地下の火の作用を重視するもので、地層の隆起や山の形成、堆積物の固化、液状花崗岩の地層への貫入はすべて地下の火によるものだと考えました。彼の説は固化については誤りでしたが、花崗岩については比較的正しい理解をしていたといえます。ただしハットンの理論には、水成説にあったような歴史的関心は欠けていました。

2013年3月22日

ゴオー『地質学の歴史』 第4章~第6章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、71-125ページ。

4 神の作品
16世紀の末からは、人間の起源へ遡ろうとする試みが盛んになっていました。聖書の記述に基づいて推定される世界の年齢はせいぜい4,5千年でしたが、それは世界が急速に年老いたからだと考えられました。14~16世紀に相次いだ悲惨な出来事は、加速的な老いの証拠であり、人々に世界の終わりは近いと感じさせていました。
17世紀には山を、醜悪で人間の障害となるものだと捉え、それゆえ神の怒りによる大洪水に由来するものだと考える議論がありました。一方で、人間にとっての山の有用性や必要性を説く議論もあり、18世紀にはこちらが主流になります。山が人間のために必要なものなら、山は大洪水の産物であるはずがなく、創造の際に造られたのだということになります。

5 科学の誕生
17世紀のニコラウス・ステノは化石が生物起源であることを断定し、地層累重の原理や、傾斜した地層もかつては水平線に平行であったという原理を唱えました。ステノは聖書的な世界の年齢にとらわれていた点に限界がありましたが、化石を堆積相の決定(海成or陸成)に使えることに気付き、「遺物」に基づいて地球の歴史を明らかにできるという道を開きました。ロバート・フックやライプニッツも、化石を失われた生物種のものだと考えました。

6 山はいかにして誕生したか

カイロ駐在のフランス領事であったブノワ・ド・マイエは、短年代の説を捨てた上で、海水準は低下し続けるという説を『テリアミド』という著作で述べていました。このような説によれば、最古の堆積物は最も高い山の上にあることになります。18世紀後半にはモンブランが登頂されるなど、アルプス山脈やピレネー山脈が科学的関心にも基づき調査されていました。リンネは友人のセルシウスの理論を採用し、世界の幼年時代には1つの島以外は水没しており、1つの種につき1カップルまたは1個体が島に収容されていたとしました。一方、イタリアの神父ラッザロ・モーロは、海水準の低下がそのように大きかったはずはなく、それ以上の高さの山で化石や地層が見られるものは火山活動によって隆起したのだと唱えましたが、18世紀には水成説の方が優位な立場にありました。

2013年3月21日

『植物の変異と進化』第1章 Stebbins, Variation and Evolution in Plants, Ch. 1

Variations and Evolution in Plants (Biological)Variations and Evolution in Plants (Biological)
George Stebbins

Columbia Univ Pr 1950-06
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G. Ledyard Stebbins, Jr., Variation and Evolution in Plants (New York: Columbia University Press, 1950), 3-41
Ch. 1 Description and Analysis of Variation Patterns 

進化学者は生物の分類体系を知らなければならない。しかし生物の分類は、変異する形質の数が多すぎるために簡単ではない。そこで体系学者たちは、鍵となるような形質に注目して分類を行う。標本整理だけのためならこれで十分だが、進化に目を向ける体系学者は、次の3つのことをしなければならない。1つ目は他の形質にも目を配ること、2つ目は形質や形質間関係の変異を量的に測定すること(統計学や生物測定学の方法が理想的)、3つ目は変異パターンの原因となる要素を部分的にでも分析すること、特にどのくらいが環境要因でどのくらいが遺伝要因なのかを知ることである。このためには、遺伝学、細胞学、生態学などから知見を集結しなければいけない。

1つ目(pp.8-13)。維管束植物の分類は従来、外的な形態学に基づいてきた。しかし進化学の目的のためには、解剖学的、組織学的、細胞学的な形質にも着目する必要がある。こういった研究が進化学・系統学に役立つことは、先行する多くの業績の例から確かめられる。組織学的、細胞学的な形質は、伝統的な方法である外的な形態学や花序よりも正確な類縁性を示し、系統決定に役立つ。花粉粒や、表皮、特に厚壁細胞の研究が良い例である。染色体、血清診断、地理的分布や生態学的関係性などの知見も生かさなくてはいけない。倍数性の研究は、外的な形態学や地理的・生態学的分布と結び付けることで、進化のプロセスの仮説を立てることができる。

2つ目(pp.13-21)。記述的な体系学においても、変異を量的に測定しなければいけない。ある種類の形質はランダムだが、ある種類の形質は地理的パターンとの規則性があるだろう。効率的に情報を得るために3つの方法が多く試みられており、①分布に地理的規則性がある1つ2つ程度の形質に注目する方法、②形態学的形質間の関係性を図表や統計学的手法で研究する方法、③少ないサンプルでできるだけ多くの形態学的・生理学的形質を研究する方法(pp.20-21)である。植物園のサンプルは、その採集方法等の問題で十分適さない場合があり、local population sampleと呼ばれるようなサンプルが良い。データの処理では、平均、標準偏差、変動係数、カイ二乗検定などが用いられる。図表や写真の用い方にも工夫ができる。

3つ目(pp.21-27)。変異パターンの分析では、高等植物に対して主に移植、後代検定、人工交雑などの方法が用いられている。大きかったり長寿だったり高価だったりする樹木等はこういった方法が難しくなるが、自然の自発的な実験を参考にすることができる。すなわち、2つの近縁な種が同じ地域に存在し、かつ中間的な個体がなければ、2つの種のあいだに隔離メカニズムが働いていることになる。

変異に関して、理解しておかなければならない原則がいくつかある。まず、変種、亜種、種、属などといった分類学的な存在は、単純なひとまとまりの単位ではなく、集団の複雑なシステムである。次に、どんな集団も、ある形質については一定で、一方である形質については不定である。そして、集団どうしの間には特定の形質について不連続性がある。 

この他に、pp.28-29では変異の研究を、地学研究のアナロジーで説明しています。pp.32-41では、変種、亜種、型、種といった分類学用語や、ホモ、ヘテロ、生物型、純系、集団といった遺伝学用語について説明しています。

ゴオー『地質学の歴史』 第1章~第3章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、15-70ページ。

1 発端
古代人の地質学は日常的観察に依拠していた。古代人は紀元前から化石に気付いており、海から遠く離れた場所で発見された貝殻の存在が問題となっていた。これについてエラトステネスは、地中海の海面がジブラルタル海峡の開通によって低下したのだと考え、ストラボンは、地震や噴火や海底の隆起による海面上昇や、陥没や地滑りによる海面低下が原因だと唱えた。
アリストテレスや逍遥学派は世界を永遠だと考えていたが、一方でストア学派は世界の再生を信じていた。この対立には、19世紀初めの激変論者と斉一論者の論争に通じるものがある。プラトンの穏やかな激変説は、地震や洪水によって地上が滅ぼされると説いていたが、これは主要な関心が道徳にある議論である。

2 世界の中心にて
紀元後、教会はアリストテレスの永遠の世界の説を拒絶し、プラトン主義と折り合いをつけた。教会は、人々の注意を異教徒の知である科学から逸らそうとしていた。アリストテレスの思想がキリスト教世界に徐々に浸透した13世紀も、それは宗教的伝統に反したものであった。
中世では占星術が浸透しており、月下界の現象を月上界の天体が支配していると考えられていた。当時知られていた最も大きな周期は、天球上で恒星がゆっくり回転する3万6000年(現代でいう地球の歳差運動)であり、これが地球の歴史が循環する期間とされていた(古代人の循環的思想の影響)。このことは地球の歴史を考える上での大きな制約となっていた。
地球の歴史の循環について、10世紀のアラブ世界では水成説的な考え方と、火成説的な考え方が対立していた。14世紀のビュリダンは、地球の歴史を3万6000年から数億年以上に延長し、陸は侵食されるにつれ軽くなって隆起し、海底は堆積物が貯まると沈降すると考えることで循環を説明した。ビュリダンの影響はレオナルド・ダ・ヴィンチにも見て取れる。

3 地球はいかにして形成されたか

コペルニクス、ガリレオ、デカルトらによって、地球は世界の中心という立場を追われた。このことで地球は特権的地位を失うと同時に、地獄の存在する卑しい物体という身分も放棄した。デカルトの地球モデルでは、地球は恒星と同じ性質の中心火を持っており、地球の起伏は地殻の陥没によって形成される。

2013年3月19日

『植物の変異と進化』序文 Stebbins, Variation and Evolution in Plants, Preface

Variations and Evolution in Plants (Biological)Variations and Evolution in Plants (Biological)
George Stebbins

Columbia Univ Pr 1950-06
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G. Ledyard Stebbins, Jr., Variation and Evolution in Plants (New York: Columbia University Press, 1950), ix-xi

短いですが重要そうなことが書いてあるのでひとまずここだけでまとめ。2つ目の前提は跳躍説との、3つ目の前提は定向進化説との決別ともいえるでしょうか。

ここ20年は生物進化論にとって大きな転機であった。今では進化論者の仕事は、進化の方向や速度を決める要因や過程を明らかにすることとなっている。本書は植物界、特に種子植物についての進化の総合的アプローチの経過報告として書いたものである。また、本書の大部分は1946年のJesup Lectureに基づくものである。

本書では3つの前提がある。1つ目として、進化は、集団内での個体変異、交配集団における変異体の分布や頻度(小進化)、集団の分離や分岐(大進化)という3つのレベルで捉えられなければいけない。それぞれのレベルでの支配的進化過程は、個体変異では突然変異や遺伝子の組み換え、小進化では自然選択、大進化では選択の効果と隔離のメカニズムである。2つ目に、どのレベルにおいても進化は小さな変化の積み重ねによるものであり、大きなジャンプによるものではない。3つ目に、これらの変化の速度や方向は一定ではなく、進化は漸進的なオポチュニズムである。進化は環境の変異と遺伝的な可変性の相互作用の産物として描ける。

伊藤元己『植物の系統と進化』

植物の系統と進化 (新・生命科学シリーズ)植物の系統と進化 (新・生命科学シリーズ)
伊藤 元己 太田 次郎

裳華房 2012-05-26
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伊藤元己『植物の系統と進化』 裳華房、2012年

読みました。
植物の形態や生活環についての基礎的知識を説明しながら、化石植物にも触れ、最新の分子系統解析に基づき、陸上植物をメインに系統の解説をしています。

2013年3月18日

伝記:ステビンズ Smocovitis and Ayala, "George Ledyard Stebbins"

Vassiliki Betty Smocovitis and Francisco J. Ayala, "George Ledyard Stebbins," Biographical Memoirs 85 (2004)

ステビンズの『植物の変異と進化』は、ドブジャンスキー『遺伝学と種の起源』、マイヤー『系統分類学と種の起源』、シンプソン『進化のテンポとモード』と並び、進化の総合説として知られるようになった著作であり、他の本の内容範囲を植物に広げた。これら4冊はすべてコロンビア大学のJesup Lectureの成果である。1941年にJesup Lectureを担当したアンダーソン(Edgar Anderson)は、『系統分類学と種の起源』の植物学バージョンを書くように依頼されたが、これを果たさなかったので1947年にステビンズが招かれ、講義の副産物として『植物の変異と進化』が生まれた。ステビンズの調査は主に野外で行われ、実験室では採集した標本の染色体数を決定したり、交雑の有無を調べたりした。

ステビンズは上流中産階級のプロテスタントの家の生まれであり、両親は博物学にアマチュア的興味を持っていた。ステビンズは3歳の頃には既に植物に興味を示しており、また突然怒りを爆発させる性格や、手工の不器用さも幼い頃からのものであった。学校は全て私学に通い、名門校Cate Schoolでは植物学者のRalph Hoffmannと出会い、大学は兄のHenryと同じハーバード大学に進学した。大学で専攻を植物学に決め、大学院ではMerritt Lyndon Fernaldに教わるが、ステビンズは彼を時代遅れと嘲り、むしろKarl Saxの細胞遺伝学的研究に興味を惹かれた。博士課程ではE. C. Jeffreyと共にAntennaria属の大胞子形成・小胞子形成の解剖学的・細胞学的研究に着手するが、JeffreyはT・H・モーガンのような遺伝学的研究に強く反対していたため、ステビンズとは諍いになった。ステビンズはSaxとの交流を深め、さらに遺伝学に傾倒していった。

1930年のケンブリッジでの国際植物学会議に出席し、アンダーソンやIrene Manton、C. D. Darlingtonに出会った。博士号取得後の4年間をコルゲート大学で過ごし、ここではPercy Saundersと共にボタン属の雑種の染色体研究を行った。1935年、バブコック(Ernest Brown Babcock)に招待されてカリフォルニア大学バークレー校に着任し、クレピス属の研究に加わった。バブコックらのクレピス属の遺伝学的研究は、T・H・モーガンらのショウジョウバエの研究に張り合おうとするものであった。1938年にステビンズとバブコックはアメリカのクレピス属についての論文で倍数体複合のアイデアを示し、先駆的な業績とみなされた。さらに1940年、1941年、1947年にも倍数性に関する論文を発表している。

1939年にステビンズはバークレー校の遺伝学の部門に異動した。この頃、ドブジャンスキーや新しい動きを見せた生物系統分類学者たちとの関係のために、ステビンズは進化への興味を深めていった。1930年代中頃からサンフランシスコ湾周辺では進化学が盛んになり、ステビンズは特にJ・クラウゼン、David Keck、William Hieseyらの仕事を注意深く追っていた。ドブジャンスキーはステビンズにとって最も重要な進化学者であったといえる。

1950年に『植物の変異と進化』を発表し、自然選択を強調しつつも、ドブジャンスキーの影響で遺伝的浮動や非適応的進化も認めた。しかし、この本がソフトな遺伝(ラマルキズム)などの進化メカニズムを否定したことにも大きな意義があった。また、ドブジャンスキーやマイヤーの生物学的種概念を支持したが、それは植物ではうまくいかなかった。ステビンズの2番目に重要な著作は1974年の『顕花植物:種レベルより上での進化』である。

1950年にデービス校の遺伝学部門に移り、1963年までそこで主任教授を務めた。ステビンズは進化学の教育にも強い関心を持っており、“科学的創造論”とも活発に戦った。また、初期の環境保護論者の一人でもあった。1973年に退職したが、その後も研究活動や客員教授などを続け、2000年に亡くなった。

2013年3月15日

進化論の総合と植物学 Stebbins, "Botany and the Synthetic Theory of Evolution"

The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New PrefaceThe Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface
Ernst Mayr

Harvard University Press 1998-02-15
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G. Ledyard Stebbins, "Botany and the Synthetic Theory of Evolution," in The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface, ed. Ernst Mayr and William B. Provine (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1998), 139-152 

植物学における進化論の総合の第一人者であるステビンズが、総合説の成立と植物学について振り返っている文章です。『植物の変異と進化』など、ステビンズ自身の業績についてはあまり触れていません。

植物学は総合説に対して3種類の貢献をしたといえる。総合に必要な事実の発見、植物学における実際の総合、そして総合説を受容したことである。

遺伝学は、モーガンらによる業績を除く全ての重要な事実が高等植物の研究から解明された。ここではメンデル、ド・フリース、ヨハンゼン、ベートソン、ニルソン=エーレ、イースト、ベリング(J. Belling)、マクリントック、ダーリントン(Cyril Dean Darlington)らの名前を挙げることができる。植物遺伝学者のバウア(Erwin Baur)はキンギョソウと近縁植物の研究を行い、植物における総合の第一人者と成り得る存在であったが早世した。

スウェーデンのチューレソン(Göte Turesson)は192231年に発表した研究で、植物学者が総合の前に直面する3つの基礎的問題に取り組んでいた。1つ目は既にヨハンゼンによって始められていた、遺伝子型変異に対する表現型変異の重要性の問題であり、このことは生殖質が体細胞組織から分離されていない植物では重大な問題であった。分子生物学の発展(the molecular revolution)までは獲得形質の遺伝を否定する理論的根拠は無かったが、一方でルイセンコなどのいかさま師を除き、獲得形質の遺伝を実証できた研究者もいなかった。ボニエ(Gaston Bonnier)は低地植物を高地に移植すると高山性の植物になったことから、環境操作によって植物を別の種に変えられると主張し、クレメンツ(Frederic Clements)も同じ実験をしていたが、実際には高山植物と交雑していた可能性がある。チューレソンは、観察可能な表現型変異には遺伝的要素による部分と環境要素による部分があることをはっきりさせた。J・クラウゼン(Jens Clausen)もボニエの説を否定した。

2つ目は種内での変異のパターンの問題である。チューレソンの立場は類型学的であり、種はさらにはっきり異なった生態型に分かれており、中間地域では複数の生態型が混合しているのだと考えていた。しかし、ラングレット(O. Langlet)の作ったスウェーデンの地図は、マツの形質の変異が生息地域の気候をそのまま反映していることがわかるものであり、チューレソンの立場が誤っていることを示すものであった。

3つ目は生殖隔離、種分化の問題である。このことについて、チューレソンはあまり自ら実地調査することはしなかったが、生態型、生態種、共同種、相互交雑可能個体群というヒエラルキーを確立した。しかしこのヒエラルキーは、植物に対してはあまり客観的な概念には成り得なかった。カーネギー研究所のJ・クラウゼン、D. D. KeckM. W. HieseyのチームはカリフォルニアでCalifornia tarweedを用いて生殖隔離の問題に取り組み重要なデータを得たが、クラウゼンは詳細が理解されるまで発表しようとせず、研究結果が出版されたのは1951年になってからだった。同時期のイギリスでは、種分化の問題について新たな一般的法則を発見した植物学者は居なかった。ロシアのE. N. Sinskaiaは生態型や系統について、地理的なものと同所的だが異なる生態学的地位を占めるものをはっきり区別した。またロシアのH. B. Zingerはアマナズナの研究で適応放散の最も良い実例を示した。

倍数性も植物の種分化における重要な基盤である。LutzGates1907年と1909年にド・フリースの変異したアカバナが通常の倍の28本の染色体を持っていることを実証し、同質倍数体の最初の発見者となった。イギリスのキュー王立植物園で作られたプリムラ・キューエンシスも種分化の形態としての倍数性の研究に貢献することになる。デンマークでは1917年にØjvind Wingeが倍数性について理論的説明をしていたが、第一次世界大戦のために同質倍数体を所持するイギリスと連携することができなかった。Wingeの理論の証明は、1925年にR・クラウゼン(Roy Clausen)とグッドスピード(Thomas Harper Goodspeed)が複二倍体の雑種を作ったことでなされた。さらに木原均はコムギの倍数性の研究を行い、ゲノムの概念を確立し、はじめて同質倍数体と異質倍数体を区別した。木原に続いて多くの倍数体の実例が確かめられ、こういった研究は種の起源が実験室や庭で確認できることを分類学者や植物遺伝学者に示すことで総合に貢献した。

一方で、ド・フリースやヨハンゼン、さらに植物学者ではないがモーガンやベートソンなどの、反自然選択説的な立場の理論は総合を遅らせていた。ヨハンゼンは熱帯や亜熱帯の風景を見ずに、きちんとした純系の豆が広がるデンマークの風景ばかりを見ていたためにこのような立場になったのではないだろうか。

全ての情報を総合して植物の種分化と進化についての一貫した理論を作るような試みは、『植物の変異と進化』以前にはJ・クラウゼン、KeckHieseyによるごく短い論文しかなかった。しかし、特定の植物について原理を考慮するなどした重要な業績はいくつかあり、組織学を用いつつイネ科を3つのグループに再編成したN. P. Avdulovの研究、バブコック(Ernest Brown Babcock)のクレピス属の研究、アンダーソン(Edgar Anderson)の戻し交配の研究などがある。 

1930年代から40年代に、シンプソンやレンシュが動物学で行ったようなことを植物学者が行えなかったのは、種より上のレベルで考えていた人々が形態学者と解剖学者しか居なかったからであろう。彼らは自然選択説に反対しており、形態の変化と環境の変化を結び付けることができなかったのである。


【メモ:チューレソンのヒエラルキー】
ecotype 生態型
ecospecies 生態種  不完全な生殖隔離障壁により分離されている集団
cenospecies 共同種、集合種  完全な生殖隔離障壁により分離されている、生態種の集まり
comparium 相互交雑可能個体群、コンパリウム  雑種第一代は生まれるが不稔であるような共同種の集まり

2013年3月7日

近代経済と近代科学、オランダ視点 Cook, "Moving About and Finding Things Out"

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Robert E. Kohler

Univ of Chicago Pr (Tx) 2012-10-20
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Harold J. Cook, "Moving About and Finding Things Out: Economies and Sciences in the Period of the Scientific Revolution," Osiris 27 (2012): 101–132.

一般に広く受け入れられている見解として、「科学の勃興が近代の経済的発展を起こした」という考え方がある。たとえば著名な経済学者のサックスの議論によれば、欧米社会の近代化やイギリス帝国の台頭は、産業革命に伴う経済構造の変化に起因しており、そして産業革命はそれに先んずる科学革命によって引き起こされたものである。また、科学革命によって、世界を研究して物を造り出し改良する文化的背景が生まれ、経済発展に繋がったのだと主張する論者たちもいる。こうした見解は本当に正しいのだろうか? 実際には、むしろ経済と科学はお互いにお互いを生み出す関係にあり、共に発展してきたのである。

近代経済の発展のために不可欠であった条件は、取引コストを下げるような社会的・制度的変革であった。こうした新しい経済が鮮明に現れ出た地域はなんといっても低地三国であり、注目に値する。オランダ共和国では、レヘントと呼ばれる主に商人出身の都市統治者たちが、技術革新を進める刺激となるような制度を作って成功していたし、また彼らが力を持ったことで、オランダでは商人たちが尊重するようなタイプの知識が重要視されるようになった。様々な人々が入り混じるオランダ市場の商人たちにとっては、品物等について信頼できる記述がなされることが重要であった。それゆえ彼らが尊重した知識は事実問題(matters of fact)と呼べる類の知識であり、彼らは原因についての深い推論よりも、経験に直結した詳細な物質的記述を重視しており、この気風が科学の発展につながった。また、この時期のオランダでは商人や職人にも読み書きや計算の能力が必要とされたし、支配層の商人の資金援助で多くの学校や大学ができ、識字率は大きく上がっていった。当時は科学技術と商業の双方で活躍した人が多く、二つの場が密接に結び付いていたことが窺える。

交易の場は情報のやり取りの場でもあった。オランダはヨーロッパだけでなく、貿易によって南北アメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアの諸地域をも結びつけた。オランダは貿易の中心地になることで、同時に科学・技術に関する情報やアイデアの流通の中心地、集積地ともなったのである。こうした文化間での情報のやり取りの中では、理論的な事柄や哲学的な概念は伝わりにくかったが、事実問題は理解されやすかった。「科学は普遍的な知識である」という言明はむしろ、事実問題が文化的・言語的な壁を越えて理解されやすい性質の情報であったため、それが普遍的な知識として想像されるようになったのだというふうに捉え直すことができる。

「なぜ中国で科学革命は起こらなかったのか」というニーダム・クエスチョンについては、中国では官吏が支配層にあり商人が力を持てなかったことや、そのために事実問題を評価するような制度的な準備ができていなかったことが関係しているだろう。ヨーロッパの船が世界中で海上貿易を行うようになった時期と、科学の出現の時期が重なっていることは偶然の一致ではない。科学の礎を築いたのは、世界中を動き回り、物を相手にして経験から知識を得て、様々な人々と交流して知識を共有する商人たちであったのだ。


追記
本論文については、坂本さんが批判的記事をブログに載せられているのでリンクを貼っておきます。
オシテオサレテ: 近代経済と近代科学 Cook, "Moving About and Finding Things Out

2013年3月4日

進化論の総合と植物学 Mayr, "Botany: Introduction"

The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New PrefaceThe Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface
Ernst Mayr

Harvard University Press 1998-02-15
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Ernst Mayr, "Introduction," in The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface, ed. Ernst Mayr and William B. Provine (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1998), 137-138

植物学は進化論の総合において、あまり重要な役割を果たさなかった。その理由として、植物学は動物学にない二つのハンディキャップに直面していたことが挙げられる。一つは、標本を調査する研究者と野外で調査する研究者とが別々で分かれていたことである。もう一つは、植物の遺伝の仕組みが動物のそれに比べて複雑であり、倍数性や遺伝子侵入、単性生殖、細胞質遺伝、表現型可塑性などといった現象が理解されるのを待たなければならなかったことである。また、植物種の複雑性のため、種概念について研究者たちが統一された見解をとることができなかった。

植物学における標本の採り方についてmass collectionsの概念を推進したのはW. B. Turrill, Norman Fassett, Edgar Andersonらで、特にAndersonは個体群の概念を植物学者たちに広めることに貢献した。そして何よりも、Stebbinsの『植物の変異と進化』が植物学に進化論の総合をもたらした。

日本人と西洋人の日本植物研究 大場秀章『江戸の植物学』

江戸の植物学
江戸の植物学
大場 秀章

東京大学出版会 1997-10
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大場秀章『江戸の植物学』東京大学出版会、1997年

江戸時代の植物学について、貝原益軒、小野蘭山などに特に注目する一方で、ケンペル、ツュンベルク、シーボルトなどのヨーロッパ出身の学者にも注目し、両者の比較を試みる本です。

江戸時代の本草学の隆盛の背景には、戦乱が収束して人々が健康や長寿を願うようになったことがある。江戸時代初期の本草学者たちは、日本の植物が中国のそれと異なるとは考えておらず、それゆえ明時代の李時珍の『本草綱目』(1596年)を踏襲し、これに日本の植物を当てはめていく文献学的研究が中心であった。貝原益軒の代表的著作『大和本草』(1708年)も、『本草綱目』に載っている植物について、知り得た全知識を開陳するような形で補筆している部分が多い。しかし『大和本草』では、『本草綱目』や他の中国の書籍に載っていない植物については「和品」として記載することで、中国にない日本の植物を発見する業績となった。

益軒と同時代のケンペルは、ウプサラ大学に学んだ後、スウェーデンの外交使節団の一員として日本に2年間滞在した。ケンペルは『廻国奇観』(1712年)の中で日本の約400の植物について取り上げ、ヨーロッパの植物と比較しながら説明している。益軒の関心がどちらかといえば植物の利用に重点を置いていたのに対し、ケンペルは植物自体の特徴を詳細に記述しており、植物の観察力には大きな差が覗える。のちにリンネはこの『廻国奇観』に基づいて日本の植物を命名してもいる。

8代将軍の徳川吉宗の時代には、人参などの薬草を国産化する施策のため、本草学者たちが多数登用されるようになった。江戸時代を代表する本草学者である小野蘭山も晩年に仕官し、『本草綱目啓蒙』(1803~06年)によって日本における『本草綱目』研究を完成させた。これまでの研究における植物の名称の異同を正したことも大きな業績である。蘭山の植物観察やその表現は、『大和本草』に比べて極めて精度が高くなっており、この間の本草学の進歩を窺わせる。しかしその記述の的確さは、ケンペルに比べればなお及ばない。

蘭山が活躍している時代に来日したツュンベルクは、ウプサラ大学でリンネの弟子となった人物であった。ツュンベルクの『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』はリンネの分類体系に基づいたもので、現代の植物学にも通じる完成度の高い著作である。しかしこの著作が日本の学者に注目されるのは遅くなり、江戸時代の日本ではリンネの分類体系はまったく浸透しなかった。日本では「種」の認識がなく、自然分類法ではなく『本草綱目』以来の人為分類法を採り続けた。また当時の日本には、標本を保存することで後の研究者による再検討を許したり、最初に発見した人のプライオリティを重んじたりといった発想もなかった。

日本の植物への興味を抱いたドイツ人医師のシーボルトは、オランダ人を装って1823年に来日した。出島に植物園を建設して生きた植物を収集し、絵師としては川原慶賀を雇った。帰国の際にはシーボルト事件に巻き込まれつつも、最終的には大量の生きた植物と押し葉標本を持ち帰ることに成功した。植物学者のツッカリーニの協力のもと、シーボルトもまた『フロラ・ヤポニカ』(1835年)というタイトルの著作を出版した。二人の植物学的記述は、現代の研究に比べても遜色のないものである。

本草学者の伊藤圭介は来日中のシーボルトに教えを受け、ツュンベルクの『フロラ・ヤポニカ』を贈られた。圭介はこの本をもとに『泰西本草名疏』(1828~29年)でリンネの植物分類体系を紹介し、本草学者から植物学者へ転生した。圭介門下の賀来飛霞(かく・ひか)は最後の本草学者ともいうべき人物で、圭介と共に東京大学小石川植物園に勤務したが、彼らは欧米由来の近代植物学と対峙する孤立無援な立場にあった。ケンペル、ツュンベルク、シーボルトら外国人研究者が収集した標本に基づく欧米での組織的研究は高度であり、明治時代に文献輸入に制限がなくなると、それらを継承した矢田部良吉、松村任三らの植物学者に研究で凌駕されるようになってしまった。しかし、日本の植物をリンネの分類体系の中に位置付ける際に、本草学の蓄積が大きな貢献を果たしたことは間違いない。

2013年3月3日

藤田祐「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」

藤田祐「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」、2004年

先日、藤田祐先生から論文「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」を戴いたので読ませていただきました。藤田先生、ありがとうございました。


ハクスリーは1893年に行った講演「進化と倫理[ロマーニズ講演]」の中で、<宇宙過程>と<倫理過程>という考え方を示した。ハクスリーによれば、<宇宙過程>は人間の事情に関わらない進化の過程であり、<倫理過程>は文明と倫理の発展過程である。1894年に出版した「進化と倫理 プロレゴメナ」では、<宇宙過程>の内部での<倫理過程>の進行を、<自然の状態>の中に<人為の状態>を築く庭造りに例えている。人が庭を放置していれば増殖によって生存競争が発生してしまうが、人為的な力を用いれば庭の中での増殖を制限して生存競争を取り除くことができる。ハクスリーはこのアナロジーで、<倫理過程>は常に外部の<宇宙過程>の力に常に晒されておりそれに抗う過程であること、人間社会と自然のあいだには対立関係があることを示唆している。 【1-i, 1-ii】

この<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、異なるレベルのもう一つの対立、すなわち人間精神における自然的な本能と人為的な良心の対立と密接に結びついている。生存競争によって獲得された人間の自然本能は動物的で利己的なものであり、社会を発展させるためには良心によってこれを抑制しなければならない。つまり、人間は社会においては外部の自然に抗い、精神においては内部の自然に抗う、二重の闘いを行なっているのである。この闘いは完全に勝利する見込みはない永遠の闘いである。しかし、ハクスリーは<自然>と<人為>はどちらも社会にとって必要なものであり、両者のバランスがとれるのが望ましいという両義的な価値判断をしている。 【1-iii】

ハクスリーが1888年に発表した「人間社会における生存競争」は貧困問題について論じたものである。ここでハクスリーは、マルサスの『人口論(初版)』に代表される、自然を道徳的な規範として、また統一性・完全性を持つ秩序としてとらえる見方を批判し、自然は道徳には関わりのないものだと結論する。さらにハクスリーは、進化と進歩を同一視する発展論的見解もダーウィン進化論に基づいて批判している。自然に目的や道徳的意味を見出だすことはできないから、道徳的目的を持つ人間社会の基礎原理にはならない。ハクスリーの<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、このような自然観に基づいているといえる。 【2】

人間社会もまた自然の一部といえるが、ハクスリーは人間社会を自然と区別することが有益だと考える。社会は自然での生存競争を脱出し、平和を実現するために成立したもので、道徳的目的を持っている。自然と社会の対立は、ハクスリーのいう<自然人(natural man)>と<倫理人(ethical man)>の対立と平行している。しかし<倫理人>も、<自然人>の持つ本能を受け継いでいる。ハクスリーは、<自然人>の生殖本能がマルサスの人口圧を生み出し、貧困をもたらして生存競争を引き起こし、人間社会を崩壊させるのだと論じる。 【3】

ハクスリーは、この貧困に対する解決策は諸国間の産業競争に勝つことだと考えた。そして、産業競争力を高めながら労働者を困窮させないためには生活環境や知的・道徳的環境を改善しなければならないとして、公的な科学技術教育の必要性を訴えた。これは公教育を認めない強硬な個人主義教育論に対しての批判となっている。

ハクスリーは1891年の『社会の病気と最悪の治療法』の前書きにおいて、<アナーキーな個人主義>と<統制社会主義>の双方を有害だとして批判した。ハクスリーの<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、個人主義と社会主義の対立と密接に関わっている。個人主義は社会を自然に委ねるものであり、一方で社会主義は人為によって社会を完全にコントロールしようとするものであるといえる。人為によって自然に抵抗することは必要だが、人為が自然を完全支配するのは不可能であり、それを目指すのは有害だとハクスリーは考えた。ハクスリーの立場は、自然と人為に対して両義的であり、個人主義と社会主義の中道を行くものであったといえる。 【4, 結論】

2013年1月20日

「西洋科学」概念の誕生 Elshakry, "When Science Became Western" 【Isis, Focus:グローバル・ヒストリー】

Marwa Elshakry. 2010. "When Science Became Western: Historiographical Reflections." Isis 101: 98-109.

Isisの「科学のグローバル・ヒストリー」特集の論文の一つです。

坂本さんの簡潔なまとめ(西洋科学の西洋外での成立 Elshakry, "When Science Became Western")もありますので、ぜひそちらもご利用ください。


要約の要約

この論文では、「西洋科学」という概念が西洋世界の外でどのように発展してきたかを明らかにする。19世紀に西洋から中国やエジプトに入ってきた科学は当初、その土地の伝統的学問と混合する、シンクレティズム(混合主義)の状態になった。しかしやがて、西洋では科学は単一であり欧米で生まれたものだという認識が広まり、一方で中国やエジプトではそれぞれの土地の学問と西洋から来た科学を分断して認識するようになり、「西洋科学」という概念が生まれた。学問としての科学史は西洋科学を科学の唯一の終着点とみなし、非西洋科学を西洋科学の基準や範疇を当てはめて研究している。


要約

この論文は、「西洋科学」という概念がどのようにして「近代科学」に相当するものとして成立したのかを問うことで、科学についての構成主義と相対主義の二重の苦境を脱出する道を試みるものである。また付随して、科学史という学問はそのカテゴリーや範囲をどのように形作ったのかについても問う。そのために、ヨーロッパの外側の人々が「西洋科学」をどのように捉えたのか、またその理解がどのように彼らの考えや実践を、また信仰などの他の知の領域を、変えていったのかということについて考察する。

Science Globalized

「近代的」かつ「普遍的」かつ「西洋の」科学はどのようにして生まれたのだろうか? 19世紀において科学という概念には、技術の総体という捉え方と、自然哲学という捉え方が混在していた。ヨーロッパの軍事的・技術的な優越は、前者の捉え方に訴えかけて、世界中で科学の有効性の証拠となっていた。一方、後者の捉え方に対する訴えかけは、世界中の様々な知的伝統と科学を調和させる役目を果たしていた。

知的伝統の変化の様子は、弾道学や工学や医学などが重要な地位を占めた、中国の開港場やエジプトの都心に見ることができる。

エジプトの例をとってみると、1815年から軍事や官僚政治の改革が行われ、医学や音楽や地理学や翻訳の学校が軍や技術官僚のエリートを教育していた。教師は、ヨーロッパ出身の外国人も居れば、ウラマー(伝統的なイスラム的学問を修めた知識人)も居り、生徒たちは新しい技術的な分野と、古典的な科目を並行して学んだ。ヨーロッパから持ち込まれた技芸や科学は、伝統的学問と調和するとみなされた。しかし1876~1878年のthe Eastern Crisis以降、役人や知識階級たちは科学についてそれまでとは異なる語り方をするようになり、科学特有の手法や歴史、経験的で論理的な知を重要視するようになった。

中国でも、西洋の干渉が学問の刷新をめぐる議論を促進させ、伝統的学問の知的・組織的結びつきを変革していた。特に西洋科学が役立つ知識として関心を呼んだのはアヘン戦争(1849-1852)の頃だった。エジプトの場合と同様に、洋学として分類された新しい学問は当初、伝統的学問を強化するものだと考えられた。

一方、宣教師たち(特に英国・米国のプロテスタント)もまた、中国と西洋の学問のあいだの概念的連関について強い興味をもっていた。彼らも「西洋科学」という言葉を最初に使った人々であり、中国での科学の翻訳に大きな役割を果たした。例として、中国初の科学雑誌を創刊したジョン・フライアーなどが挙げられる。

宣教師たちが西洋科学を伝えた過程は、シンクレティズム(混合主義)であったといえる。例えば中国では当初、「格致学」という言葉が伝統的な中国の科学と西洋科学を併せて指すのに使われた。しかしその後、伝統的な中国の学問と西洋科学とがはっきり区別され、scienceは「科学」と訳し、natural philosophyの意味では「格物」という言葉が使われるようになった。

アラビア語圏では宣教師たちは、知に関する幅広い意味をもっていたilmという言葉を、科学を意味する言葉に変化させ、信仰の領域と区別することに成功した。

以上のように、中国でもアラブでも、新しい学問はしばしば伝統的な知や信仰の言葉で、あるいはその延長にある言葉で理解された。19世紀に最もわかりやすく科学者の象徴であったダーウィンの読まれ方は、このことをよく示している。中国の厳復はT・H・ハクスリーの『進化と倫理』を儒教や道教の倫理的議論の化身として捉えたし、アラブでもほぼ同様であった。この例でもわかるように新しいものは、古いものの言葉や概念を利用して説明された。

The Undivided Truth

第一次世界大戦の始まる前から両大戦間期にかけて、科学の新しい国際的イデオロギーが形作られ、宣教師や技術官僚によるシンクレティズムの方法は、新しい直線的な科学史の構築に道を譲ることになった。

科学史家のサートンは科学史を通して、彼が「新ヒューマニズム」と呼ぶ独自の国際主義を展開した。彼は、科学こそが人種や国籍や宗教によらず全ての人に分かち合われ得る普遍的な真実への道であると考え、合理主義を信奉した。一方、宗教的信仰については不合理な偏見だとして敵対視した。

中国で、「近代的な」「西洋の」科学という観念が、「伝統的」科学から区別されはじめたのもちょうどこの時代であった。1920年代から30年代にかけては、唯物論的哲学への批判から、生命についての科学や哲学に関する論争が巻き起こり、西洋科学と中国科学の概念的隔たりが大きくなった。この論争は結局、中国科学は西洋科学を補完できるという認識に至った。

中東でもこれと似た事態が起こっていた。コーランの解釈に、tafsir ‘ilmiという科学評釈のジャンルが登場し、近代科学を補完し強化するような土着の伝統を探す動きが生まれた。第一次世界大戦後になると、世界中の多くの知識人は、前の世代を魅惑した科学主義に対して用心深くなっていった。1930年代には「イスラム科学」が強調されるようになり、知と信仰の分離を主張していた科学普及者のイスマーイール・マズハルも、結局はこの流れに乗ることになった。

それゆえ、西洋科学を一般化しようという考えの登場が、逆説的に中国科学、アラビア科学、イスラム科学といった概念の形成を助けたことになる。学問としての科学史が、欧米において単一で統一された科学という観念を生んだのに対し、その他の世界では、それぞれの地域に固有の科学を制度化しようという試みが進んでいた。

Eastern Dawns and Golden Ages

サートンやニーダムのように、古代から近代にかけての東洋文明が果たした貢献を論証しようとする科学史家も居た。しかし西洋科学の成功と繁栄の物語が作られてしまったことで、東洋の側は、沈滞や衰退といった言葉や、「東洋は何がいけなかったのか?」という疑問の形で語られるようになってしまった。

サートンの科学史研究でも、大文明の繁栄と衰退への関心が目立っている。歴史家のアンリ・ピレンヌが『マホメットとシャルルマーニュ』で、イスラム勢力の繁栄が地中海世界を分断し、西ヨーロッパ世界を成立させたと主張したのに対し、サートンは東洋の知恵の流入が西洋を形作ったと論じ、また経験科学は西洋だけによって生まれたのではなく、西洋を父親とし東洋を母親とするものだと主張した。

「科学革命」という概念の登場は、科学の発展における西洋文明の特殊性を説明することを容易にした。「科学革命」という言葉は1939年にアレクサンドル・コイレによって造られたが、17世紀の根本的転換というアイデア自体は1931年のサートンの著作に既にみられる。「科学革命」のアイデアは、「なぜ中国では長きに渡って科学が発展してきたのに、西洋近代科学に近いものを生み出すことができなかったのか」を問うニーダムの研究につながった。

このように西洋科学との関係で語られるようになった東洋科学は、技術的知識に重きが置かれた。ニーダムなどの初期の科学史家たちは、東洋科学の貢献として専ら数学的・経験的な手法に沿っていた場合ばかりを取り上げ、またシンクレティズムの世代とは異なり、自然哲学的な側面を非科学とみなすか無視していた。

このような傾向は、ヨーロッパの外における科学史研究にも強い影響を与えた。例を一つ挙げると、アラビア語圏における占星術、錬金術、護符などの研究は非常に少ない。我々が科学のグローバルヒストリーから学べる最大のことは、なぜある種類の知は他の知よりも重大となったのか、ということであろう。

西洋科学という概念は、さまざまな知を単一の歴史的目的論に押し込めてきた。我々は科学という概念の歴史化の過程で何が失われたかを認識することで、本当のグローバルヒストリーの記述の仕方を知るようになるだろう。

水島司『グローバル・ヒストリー入門』

水島司『グローバル・ヒストリー入門』山川出版、2010年

グローバル・ヒストリーが従来の世界史と異なる点として、5つの特徴が挙げられる。第一に、あつかう時間が長い。第二に、対象となるテーマや空間が広い。第三に、ヨーロッパ世界の歴史や、近代以降の歴史が相対化されている。第四に、異なる諸地域間の相互連関が重視される。第五に、あつかわれている対象が、疫病、環境、人口、生活水準など、従来の歴史学では取り扱われることの少なかったものであることが多い。

従来のヨーロッパ中心主義の歴史研究では、ヨーロッパとアジアを先進性と後進性という二分法で認識することがしばしばなされてきた。こういった研究におけるアジア理解は、アジア史研究が明らかにしてきた史実とは無縁なステレオタイプな認識であるとして批判を受けた。また二十世紀半ばからの東アジアの高い経済成長も影響し、ジョーンズ『経済成長の世界史』、ポメランツ『大いなる分岐――中国、ヨーロッパと近代世界経済の成立』、フランク『リオリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー』など、アジアの発展を評価する研究が活発になっている。また、速水融はヨーロッパとアジアとでは発展の性格が根本的に異なるとして、前者の産業革命(industrial revolution)に対して、後者は勤勉革命(industrious revolution)であると論じた。

環境に関わる分野では、グローバル・ヒストリーの展開に大きな影響を与えた、マクニール『疫病と世界史』などの疫病に関連する研究がある。ダイアモンド『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる謎』など、自然科学者からの人類史へのアプローチもある。ウィリアムス『森林枯渇――先史から地球の危機まで』、リチャーズ『限りのないフロンティア――近世環境史』なども有名である。

移動と交易に関する分野の研究も盛んであり、作物、商品連鎖、ファッション、世界市場などのテーマが、ときには統計を多く用いて論じられてきた。さまざまな地域がどのようなまとまりをもってどのようにつながっていたかという観点から、世界史の全体的な把握を可能にする世界システム論もあり、特に海域世界については代表的な研究がいくつもなされている。