2013年1月20日

「西洋科学」概念の誕生 Elshakry, "When Science Became Western" 【Isis, Focus:グローバル・ヒストリー】

Marwa Elshakry. 2010. "When Science Became Western: Historiographical Reflections." Isis 101: 98-109.

Isisの「科学のグローバル・ヒストリー」特集の論文の一つです。

坂本さんの簡潔なまとめ(西洋科学の西洋外での成立 Elshakry, "When Science Became Western")もありますので、ぜひそちらもご利用ください。


要約の要約

この論文では、「西洋科学」という概念が西洋世界の外でどのように発展してきたかを明らかにする。19世紀に西洋から中国やエジプトに入ってきた科学は当初、その土地の伝統的学問と混合する、シンクレティズム(混合主義)の状態になった。しかしやがて、西洋では科学は単一であり欧米で生まれたものだという認識が広まり、一方で中国やエジプトではそれぞれの土地の学問と西洋から来た科学を分断して認識するようになり、「西洋科学」という概念が生まれた。学問としての科学史は西洋科学を科学の唯一の終着点とみなし、非西洋科学を西洋科学の基準や範疇を当てはめて研究している。


要約

この論文は、「西洋科学」という概念がどのようにして「近代科学」に相当するものとして成立したのかを問うことで、科学についての構成主義と相対主義の二重の苦境を脱出する道を試みるものである。また付随して、科学史という学問はそのカテゴリーや範囲をどのように形作ったのかについても問う。そのために、ヨーロッパの外側の人々が「西洋科学」をどのように捉えたのか、またその理解がどのように彼らの考えや実践を、また信仰などの他の知の領域を、変えていったのかということについて考察する。

Science Globalized

「近代的」かつ「普遍的」かつ「西洋の」科学はどのようにして生まれたのだろうか? 19世紀において科学という概念には、技術の総体という捉え方と、自然哲学という捉え方が混在していた。ヨーロッパの軍事的・技術的な優越は、前者の捉え方に訴えかけて、世界中で科学の有効性の証拠となっていた。一方、後者の捉え方に対する訴えかけは、世界中の様々な知的伝統と科学を調和させる役目を果たしていた。

知的伝統の変化の様子は、弾道学や工学や医学などが重要な地位を占めた、中国の開港場やエジプトの都心に見ることができる。

エジプトの例をとってみると、1815年から軍事や官僚政治の改革が行われ、医学や音楽や地理学や翻訳の学校が軍や技術官僚のエリートを教育していた。教師は、ヨーロッパ出身の外国人も居れば、ウラマー(伝統的なイスラム的学問を修めた知識人)も居り、生徒たちは新しい技術的な分野と、古典的な科目を並行して学んだ。ヨーロッパから持ち込まれた技芸や科学は、伝統的学問と調和するとみなされた。しかし1876~1878年のthe Eastern Crisis以降、役人や知識階級たちは科学についてそれまでとは異なる語り方をするようになり、科学特有の手法や歴史、経験的で論理的な知を重要視するようになった。

中国でも、西洋の干渉が学問の刷新をめぐる議論を促進させ、伝統的学問の知的・組織的結びつきを変革していた。特に西洋科学が役立つ知識として関心を呼んだのはアヘン戦争(1849-1852)の頃だった。エジプトの場合と同様に、洋学として分類された新しい学問は当初、伝統的学問を強化するものだと考えられた。

一方、宣教師たち(特に英国・米国のプロテスタント)もまた、中国と西洋の学問のあいだの概念的連関について強い興味をもっていた。彼らも「西洋科学」という言葉を最初に使った人々であり、中国での科学の翻訳に大きな役割を果たした。例として、中国初の科学雑誌を創刊したジョン・フライアーなどが挙げられる。

宣教師たちが西洋科学を伝えた過程は、シンクレティズム(混合主義)であったといえる。例えば中国では当初、「格致学」という言葉が伝統的な中国の科学と西洋科学を併せて指すのに使われた。しかしその後、伝統的な中国の学問と西洋科学とがはっきり区別され、scienceは「科学」と訳し、natural philosophyの意味では「格物」という言葉が使われるようになった。

アラビア語圏では宣教師たちは、知に関する幅広い意味をもっていたilmという言葉を、科学を意味する言葉に変化させ、信仰の領域と区別することに成功した。

以上のように、中国でもアラブでも、新しい学問はしばしば伝統的な知や信仰の言葉で、あるいはその延長にある言葉で理解された。19世紀に最もわかりやすく科学者の象徴であったダーウィンの読まれ方は、このことをよく示している。中国の厳復はT・H・ハクスリーの『進化と倫理』を儒教や道教の倫理的議論の化身として捉えたし、アラブでもほぼ同様であった。この例でもわかるように新しいものは、古いものの言葉や概念を利用して説明された。

The Undivided Truth

第一次世界大戦の始まる前から両大戦間期にかけて、科学の新しい国際的イデオロギーが形作られ、宣教師や技術官僚によるシンクレティズムの方法は、新しい直線的な科学史の構築に道を譲ることになった。

科学史家のサートンは科学史を通して、彼が「新ヒューマニズム」と呼ぶ独自の国際主義を展開した。彼は、科学こそが人種や国籍や宗教によらず全ての人に分かち合われ得る普遍的な真実への道であると考え、合理主義を信奉した。一方、宗教的信仰については不合理な偏見だとして敵対視した。

中国で、「近代的な」「西洋の」科学という観念が、「伝統的」科学から区別されはじめたのもちょうどこの時代であった。1920年代から30年代にかけては、唯物論的哲学への批判から、生命についての科学や哲学に関する論争が巻き起こり、西洋科学と中国科学の概念的隔たりが大きくなった。この論争は結局、中国科学は西洋科学を補完できるという認識に至った。

中東でもこれと似た事態が起こっていた。コーランの解釈に、tafsir ‘ilmiという科学評釈のジャンルが登場し、近代科学を補完し強化するような土着の伝統を探す動きが生まれた。第一次世界大戦後になると、世界中の多くの知識人は、前の世代を魅惑した科学主義に対して用心深くなっていった。1930年代には「イスラム科学」が強調されるようになり、知と信仰の分離を主張していた科学普及者のイスマーイール・マズハルも、結局はこの流れに乗ることになった。

それゆえ、西洋科学を一般化しようという考えの登場が、逆説的に中国科学、アラビア科学、イスラム科学といった概念の形成を助けたことになる。学問としての科学史が、欧米において単一で統一された科学という観念を生んだのに対し、その他の世界では、それぞれの地域に固有の科学を制度化しようという試みが進んでいた。

Eastern Dawns and Golden Ages

サートンやニーダムのように、古代から近代にかけての東洋文明が果たした貢献を論証しようとする科学史家も居た。しかし西洋科学の成功と繁栄の物語が作られてしまったことで、東洋の側は、沈滞や衰退といった言葉や、「東洋は何がいけなかったのか?」という疑問の形で語られるようになってしまった。

サートンの科学史研究でも、大文明の繁栄と衰退への関心が目立っている。歴史家のアンリ・ピレンヌが『マホメットとシャルルマーニュ』で、イスラム勢力の繁栄が地中海世界を分断し、西ヨーロッパ世界を成立させたと主張したのに対し、サートンは東洋の知恵の流入が西洋を形作ったと論じ、また経験科学は西洋だけによって生まれたのではなく、西洋を父親とし東洋を母親とするものだと主張した。

「科学革命」という概念の登場は、科学の発展における西洋文明の特殊性を説明することを容易にした。「科学革命」という言葉は1939年にアレクサンドル・コイレによって造られたが、17世紀の根本的転換というアイデア自体は1931年のサートンの著作に既にみられる。「科学革命」のアイデアは、「なぜ中国では長きに渡って科学が発展してきたのに、西洋近代科学に近いものを生み出すことができなかったのか」を問うニーダムの研究につながった。

このように西洋科学との関係で語られるようになった東洋科学は、技術的知識に重きが置かれた。ニーダムなどの初期の科学史家たちは、東洋科学の貢献として専ら数学的・経験的な手法に沿っていた場合ばかりを取り上げ、またシンクレティズムの世代とは異なり、自然哲学的な側面を非科学とみなすか無視していた。

このような傾向は、ヨーロッパの外における科学史研究にも強い影響を与えた。例を一つ挙げると、アラビア語圏における占星術、錬金術、護符などの研究は非常に少ない。我々が科学のグローバルヒストリーから学べる最大のことは、なぜある種類の知は他の知よりも重大となったのか、ということであろう。

西洋科学という概念は、さまざまな知を単一の歴史的目的論に押し込めてきた。我々は科学という概念の歴史化の過程で何が失われたかを認識することで、本当のグローバルヒストリーの記述の仕方を知るようになるだろう。

水島司『グローバル・ヒストリー入門』

水島司『グローバル・ヒストリー入門』山川出版、2010年

グローバル・ヒストリーが従来の世界史と異なる点として、5つの特徴が挙げられる。第一に、あつかう時間が長い。第二に、対象となるテーマや空間が広い。第三に、ヨーロッパ世界の歴史や、近代以降の歴史が相対化されている。第四に、異なる諸地域間の相互連関が重視される。第五に、あつかわれている対象が、疫病、環境、人口、生活水準など、従来の歴史学では取り扱われることの少なかったものであることが多い。

従来のヨーロッパ中心主義の歴史研究では、ヨーロッパとアジアを先進性と後進性という二分法で認識することがしばしばなされてきた。こういった研究におけるアジア理解は、アジア史研究が明らかにしてきた史実とは無縁なステレオタイプな認識であるとして批判を受けた。また二十世紀半ばからの東アジアの高い経済成長も影響し、ジョーンズ『経済成長の世界史』、ポメランツ『大いなる分岐――中国、ヨーロッパと近代世界経済の成立』、フランク『リオリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー』など、アジアの発展を評価する研究が活発になっている。また、速水融はヨーロッパとアジアとでは発展の性格が根本的に異なるとして、前者の産業革命(industrial revolution)に対して、後者は勤勉革命(industrious revolution)であると論じた。

環境に関わる分野では、グローバル・ヒストリーの展開に大きな影響を与えた、マクニール『疫病と世界史』などの疫病に関連する研究がある。ダイアモンド『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる謎』など、自然科学者からの人類史へのアプローチもある。ウィリアムス『森林枯渇――先史から地球の危機まで』、リチャーズ『限りのないフロンティア――近世環境史』なども有名である。

移動と交易に関する分野の研究も盛んであり、作物、商品連鎖、ファッション、世界市場などのテーマが、ときには統計を多く用いて論じられてきた。さまざまな地域がどのようなまとまりをもってどのようにつながっていたかという観点から、世界史の全体的な把握を可能にする世界システム論もあり、特に海域世界については代表的な研究がいくつもなされている。