2013年3月31日

ライエルとオーヴェルニュの地質学 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 18

Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of ReformWorlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform
M. J. S. Rudwick

Univ of Chicago Pr (Tx) 2010-05-15
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Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 253-66.


Ch.18 ライエルとオーヴェルニュの地質学(1827-28)

18.1 スクロープのオーヴェルニュ研究とライエル

ライエルは『クォータリー・レヴュー』の最後の連載(1827)において、スクロープの新しい本『中央フランスの地質学についての報告』(1827)をレビューした。スクロープは、過去幾度も繰り返された火山の噴火によってできた地形は、河川による絶え間ない侵食の歴史を示していると考えており、大洪水も海の侵入も否定していた。ライエルもスクロープの見解を支持し、さらにそれをスクロープが言及していない生命史の領域にまで拡張した。ライエルは現在因を地質学的説明に用いることに自信を見せ、多くの地質学者を、現在の地球上の法則を無視して説明のつかない現象に頼っているとして非難した。
スクロープやライエルは長大な時間を想定したことで、人間はかなり後になって登場した存在となり、世界における人間の地位を脅かしてしまった。しかしライエルによれば、人間は理性を持っており、それによって人類以前の太古の歴史まで知ることができるのだから、人間がこの世界で重要な存在でないということにはならない。
なお、ライエルのこのレビューについて、師であるバックランドは反対しなかった。

18.2 地質学の改革者としてのライエル

ライエルのこのレビューは、新しく書こうとしていた本の予行演習でもあった。この本は当初は一般向けを想定していたが、ライエルは考えを変え、地質学を改革するような高いレベルの本を目指すことになった。ライエルはこの本で、過去における原因は現在因と同じであることを強調し、現在因の使用を推進するつもりであった。ライエルによれば、過去と現在の原因は同じと考えるのが普通であって、立証責任はそれらが異なると考えている人々の側にある。しかし、物理法則の場合と複雑な地質学的法則の場合とでは事情が異なるという批判もあった。なお、ライエルは聖書に基づく見解の人々と一緒くたにされないように、「現在因」にactual causesではなくmodern causesなどの言葉を用いていた。
1828年の春に、ライエルはマーチソン夫妻と共にフィールドワークに行く機会を得た。その旅程では、最初にフランスの中央高地に行くことになっていた。

18.3 ライエルの目で見たオーヴェルニュ

ライエルはロンドンを発つ前から旅先の地域に関連する研究を集めて勉強していたし、パリでは現地の地質学者から情報を集めていた。また、地元のナチュラリストの協力に依存していた部分も大きかった。それゆえ、ライエルらは自分たちの目で調査地域を見たときにも、すでに他の研究者の影響を受けていた。最初の調査地域であるオーヴェルニュでライエルは、スクロープや現地のナチュラリストであるクロワゼやジョベールが書いてきたこと(おだやかな侵食作用が働いていること、化石の動物相の変化がゆっくりであること、大洪水を示す証拠がないことなど)の正しさを認めた。
オーヴェルニュを発った頃のライエルのノートには、地質学の説明における歴史的思考の必要性について書かれている。その例としてライエルは、多くの街が山の上に作られているのはむかし敵に攻められにくいようにしたからであり、ある谷間が不毛の岩でいっぱいなのはむかし溶岩が流れてきたからだと述べている。
また、キュヴィエによる絶滅の説明(突然の海の侵入)を否定した代わりに、生物種には個体と同じように、理由はわからないが本質的に定まった寿命があるのではないかというブロッキのアイデアについて書いている。

18.4 結論

ライエルのこの調査旅行は、ダーウィンのビーグル号航海にも相当する重要なものであるため、このあとに続く2章の大部分もここに費やすことにする。

2013年3月28日

植物学者ダーウィン アレン『ダーウィンの花園』

ダーウィンの花園―植物研究と自然淘汰説ダーウィンの花園―植物研究と自然淘汰説
ミア アレン Mea Allan

工作舎 1997-01
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ミア・アレン『ダーウィンの花園』羽田節子・鵜浦裕訳、工作舎、1997年

チャールズ・ダーウィンの伝記ですが、彼の植物学者としての面にスポットライトを当てた一冊です。400ページ近い本でぎっしり書いてあるので文章量はそこそこありますが、読み物風で楽しく読めました。

特に、『種の起源』発表以降のダーウィンの植物研究に比較的大きい分量が割かれています。メモ程度に、それらの章のタイトルとキーワードを並べておきます。

10章 大移動 ・・・ 植物地理学、氷河の南下
11章 風変わりなおかしな事実の億万長者 ・・・ 『ランの受粉』
12章 つる、鉤と巻きひげ ・・・ 『攀援植物の運動と習性』
13章 人類の素晴らしい実験 ・・・ 『家畜および栽培植物の変異』、強力遺伝
14章 植物界の殺戮 ・・・ 『食虫植物』
15章 ダーウィンのヒーロー ・・・ 『他家受精と自家受精の効果』
16章 正当な結婚と不当な結婚 ・・・ 『同種の植物における花の異型』、自家不和合性
17章 植物の運動と睡眠 ・・・ 『植物の運動力』、屈光性

2013年3月25日

増田芳雄『植物学史 ――19世紀における植物生理学の確立期を中心に――』

植物学史―19世紀における植物生理学の確立期を中心に植物学史―19世紀における植物生理学の確立期を中心に
増田 芳雄

培風館 1992-05
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増田芳雄『植物学史 ――19世紀における植物生理学の確立期を中心に――』培風館、1992年

1 『Planta』からみた植物学の変遷
ドイツの植物学専門誌『Planta』の変遷について書かれた章です。1955年までは掲載論文は全てドイツ語でしたが、1956年にはじめて英語論文が現れ、1975年以後はすべての論文が英語になっています。論文の著者も元々はドイツ語圏の人が殆どでしたが、60~70年代に世界中から投稿されるようになり、国際的な性格を帯びてきたことがわかります。研究分野を見ても、植物学の様々な分野の論文が掲載されていたのが、60年代以降には大部分が植物生理学に関するものとなり、当時の植物学の様相を窺い知ることができます。

2 19~20世紀の植物学 ―ザックスとペッファーの時代
19世紀のドイツにおいて植物学の近代化を押し進め、多くの重要な門下生を輩出したのがザックス(Julius Sachs)とペッファー(Wilhelm Pfeffer)でした。ザックスは実験植物生理学を確立した人物であり、その門下にはペッファー、F・ダーウィン、ド・フリース、松村仁三らが居ました。植物生理学の物理化学的基盤を確立したペッファーは、門下生がさらに多く国籍も多様であり、コレンス(Carl Correns)、ヨハンセン、三好学、柴田桂太らが居ました。オーストリアのウィーン大学では、ウンガー(Franz Unger)に始まり、ヴィースナー(Julius Wiesner)や仙台にもやって来たモーリッシュ(Hans Molisch)を含むウィーン学派が形成され、独特の細胞生理学の伝統をつくっていました。
初期の東京大学では教授の多くは外国人でしたが、植物学教授はアメリカに渡った矢田部良吉が務めました。谷田部門下で留学してペッファーのもとでも学んだ三好学は、帰国後に植物学第二講座(植物生理学)の教授となりました。柴田桂太など初期の日本の植物生理学者はほとんどが三好門下で、かつドイツに留学した人々でした。日本の分類学は矢田部や松村任三とその門下によって築かれましたが、大学教育を受けなかった牧野富太郎も著しい貢献をしました。東北大学農科大学(後の北海道大学農学部)では細胞学者の坂村徹が植物生理学教授になりました。また、坂村が札幌の農科大学で行なっていたコムギの細胞遺伝学的研究は、木原均に引き継がれました。

3 成長生理学
成長生理学とホルモン学はダーウィンローテルト(Vladislav Adolphovich Rothert)、フィッテイング(Hans Fitting)らの光屈性に関する先駆的研究によって基礎が築かれました。この基礎のもとに、ボイセン=イエンセン(Peter Boysen-Jensen)が光の刺激はゼラチンを通過することを発見し、パール(Arpad Páal)は刺激伝達物質があると考えてそれを相関担体と呼びました。これらの研究に基づき、1926年にウェント(Fritz Warmolt Went)がオーキシンの分離に成功しました。この後、成長生理学の研究の中心地はカリフォルニア工科大学の生物学教室に出来上がっていきます。

4 植物の分化
顕微鏡の改良を経て、1838年に植物学者シュライデンによって(そして動物学者シュヴァンによって)細胞説が提唱されました。フォン・モール(Hugo von Mohl)は細胞分裂の観察によってこれに実験的基礎を与えました。ネーゲリ(Carl Nägeli)は哲学的思想が観察に先行する傾向がありましたが、デンプン説やミセル説を発表して細胞構造の研究に貢献しました。『植物学教科書』の著者でもあるシュトラスブルガー(Eduard Strasburger)は、『細胞形成と細胞分裂』に細胞分裂の過程を詳細に記しました。

5 植物学の源流と展開 ―18世紀から20世紀へ
リンネ、ツンベリ(Carl Peter Thunberg)、ビュフォン、ラマルク、ド・カンドル(Augustin-Pyranus de Candolle)、ヘイルズ(Stephen Hales)などの業績が紹介されている章です。

2013年3月24日

ゴオー『地質学の歴史』 第13章~第16章(完結)

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、242-320ページ。

13 原初の時代
1830年代から40年代には、石炭紀より古い岩層の研究が熱心になされ、イギリスのアダム・セジウィックロドリック・マーチソンらが重要な業績をあげた。先カンブリア時代の岩層を調査して生命の痕跡の有無を確かめる研究もされるようになり、最終的に1894年にそれが発見された。
19世紀には地球の年齢も一つの争点であったが、学者たちはすでに数十万年や数億年、あるいは数兆年といった長い期間を話題にするようになっていた。19世紀末にケルヴィン卿が熱の研究から2億年以内という数字を導いたことは地質学者にも衝撃を与えたが、アンリ・ベクレルキュリー夫妻によって放射能の研究がなされたことで1909年に決着がついた。1917年以降は、放射性崩壊を用いた年代測定が可能になった。

14 地殻の破砕
エドゥアルト・ジュースは、1909年まで26年間をかけて完成させた大著『地球の相貌』で、現在主義と激変説の総合に努めた。ジュースはド・ボーモンと同様に地球の冷却による収縮を信じていたが、ヨーロッパの形成の説明でド・ボーモンの「山系」説を塗り替える業績をあげた。フランスで19世紀末に活躍したマルセル・ベルトランはジュースの視点を引き継ぎ、ヨーロッパの形成を複数の山脈が連続的に並置された過程として論じ、ヘルシニア山脈などを命名した。一方この頃、偏光顕微鏡や化学分析の手法が浸透し、岩石の研究も発展していた。

15 漂移する大陸
1912年、アルフレート・ヴェーゲナーは海岸線の一致や動物相、化石の植物相や構造地質学などの根拠に基づいて大陸漂移の説を発表した。これに反対する人々の一部は、動物相や植物相の類似を説明するためにジュースの理論に基づいて、かつて存在したいくつかの陸橋が陥没したのだと主張した。しかしこの頃には、造山における平行運動の大きさが認識されたことや、放射能の発見で永年冷却説が崩壊したことによって、陸橋陥没説の土台となる地球収縮説自体が追い込まれていた。また、19世紀後半に発展したアイソスタシーの理論(山の質量を補償する「根」の存在)は、陸橋が陥没するような事態は起こらないことを示唆した。ヴェーゲナーは、海洋底や大陸の下部を構成する物質の上を、大陸塊が筏のように移動することを想像していた。しかしその移動の原動力については説明できず、また滑動に必要な流動性も地震波の観測から否定されたため、多くの地質学者は懐疑的であった。

16 海の誕生
1950年代には磁性鉱物を含む溶岩の研究が行われ、地磁気が時代によって逆転してきた歴史が明らかになり、1950年代末には、海嶺の中央から広がる磁気の縞模様が発見された。1962年にアメリカのハリー・ヘスによって海洋底拡大説が発表され、1960年代後半にこれらの研究を総合してプレートの運動を説明する論文が複数現れた。こうしてヴェーゲナーの業績は再評価されるようになったのである。

2013年3月23日

ゴオー『地質学の歴史』 第10章~第12章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、182-241ページ。

10 化石とともに
18世紀末にジャン=アンドレ・ドリュックは、地層をそこに含まれている動物相によって区別できることを示し、化石の層序学的役割を発見した。ドリュックはまた、これを説明するために生物変移説を唱えた。1810年、フランスのアレクサンドル・ブロンニャールは海成層と淡水成層の互層を発見し、一回きりの海の退却を唱えてきた人々に衝撃を与えた。キュヴィエはこれを手がかりに、複数の急激な環境変化が特定の動物相を消滅させてきたことを『地表革命論』などで主張した。新しい動物相の登場について、キュヴィエの説明は慎重であったが、後継者たちは反復的創造を想定した。また、キュヴィエとブロンニャールが1808年に最初に発表した『パリ周辺の鉱物学的地理試論』は、各地層は含まれる化石によって異なることを示唆した。1832年にキュヴィエが死ぬ頃には、生層序学は岩相層序学に取って代わりつつあった。イギリスの土木技師ウィリアム・スミスは1816年、『生物化石によって同定された地層』を発表し、地質年代を区分した。

11 過去の世界と現在の世界
ライエルの『地質学の原理』は1830年から1834年にかけて出版された。ライエルの斉一説は、地球の歴史に関する連続主義の面と、定向主義あるいは進化主義に対立する定常主義(世界の外観は安定的であった)の面を持っていたといえる。ドリュックは「現在原因」という言葉を作り出し、現在主義を批判した。ライエルを後に「近代地質学の父」とすることになる理論は、実はこの頃には常識的な古いやり方だとみなされていた。ライエルが唱えた漸進的な動物相交代は化石に低い価値を与えるものだったのにも関わらず、ライエルは層序学に注目していたと言えるだろう。一方、激変論者の説は化石に高い価値を与えるものであり、彼らは生層序学の創始者となる。

12 世界を築く激変
水成説では歴史の歩みは退行的であり、地球には未来が失われているのに対し、激変説は徐々に地球が築かれていくモデルだと言える。継起的隆起の効果は、1820年代までのレオポルト・フォン・ブーフの火山研究で最初に示された。鉱山技師のエリ・ド・ボーモンは、山の継起的隆起が海中の生命を混乱させたと考えることで「革命」を説明した。また、ド・ボーモンは隆起の原動力を地球の永年的冷却だと考えた。実際、1827年にルイ・コルディエが地下温度測定結果から、深部ほど温度が高くなる勾配があることを示し、この勾配はフーリエの地球の緩慢な冷却の計算結果に対応していた。ここで水成説は完全に敗れたと言える。ただし、ド・ボーモンの説は「五角形の網目」論という誤りも抱えていた。
一方、1820年代以降、石炭系、白亜系、ジュラ系、三畳系などの岩層が次々に命名され、さらにアルシッド・デサリーヌ・ドルビニーによって階に分けられ、生層序学が急速に発展していた。ただし、ドルビニーは反復的創造を支持したことで多く非難された。1830年代、生物の形態と特定の生活環境とが対応していることが理解されはじめ、示準化石と示相化石が区別されるようになった。遠洋の動物相についても、遠洋探検が知識を与えるようになった。19世紀中頃には、地質学の概説書や手引書も多く書かれていた。

ゴオー『地質学の歴史』 第7章~第10章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、126-181ページ。

7 歴史家ビュフォン
18世紀のビュフォンは地球の冷却に基づく理論を構築しました。ビュフォンは『地球の理論』においては水成論の立場をとっていましたが、『自然の諸時期』では火成論者となり、各「時期」を固有の現象で特徴づける理論を展開しました。すなわち、第一期には太陽への彗星の衝突で惑星が生まれ、第二期には地球の固まった物質がガラス質の塊となり、第三期には水が大陸を覆い、第四期には水が引き火山が活動し、第五期には動物の移動があり、第六期には大陸が分離した、といった具合です。ビュフォンは『創世記』の物語に見せかけ上では従っていましたが、実際には尊重しておらず、世界にはるかに長い年齢を与えていました。しかし、ビュフォンは法則を先行させたために化石や地層といった古記録の観察を軽視し、歴史的な研究からは遠ざかってしまいました。

8 産業に仕えて
18世紀には石炭の消費が急速に増大し、地層の知識が必要とされ、鉱山学校が創設されました。ドイツのアーブラハム・ゴトロープ・ヴェルナーは鉱物の分類の業績で著名となり、その学問をゲオグノジーと名付けました。ヴェルナーは水成説の代表的論者であり、花崗岩なども堆積物とみなし、地層の順序は堆積の順序であると考えました。また、世界中の地層が同じように配置しており、どの種類の累層も柱状図の中で一つの位置にしか登場しないはずだと信じていました。水成論者たちは、明確に反現在主義の立場をとっていたといえます。

9 地下の火
スコットランドのジェイムズ・ハットンの著書『地球の理論』は1795年に出版されました。ハットンは火成説の代表的論者であり、花崗岩の起源を火に求めました。ハットンの理論体系は地下の火の作用を重視するもので、地層の隆起や山の形成、堆積物の固化、液状花崗岩の地層への貫入はすべて地下の火によるものだと考えました。彼の説は固化については誤りでしたが、花崗岩については比較的正しい理解をしていたといえます。ただしハットンの理論には、水成説にあったような歴史的関心は欠けていました。

2013年3月22日

ゴオー『地質学の歴史』 第4章~第6章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、71-125ページ。

4 神の作品
16世紀の末からは、人間の起源へ遡ろうとする試みが盛んになっていました。聖書の記述に基づいて推定される世界の年齢はせいぜい4,5千年でしたが、それは世界が急速に年老いたからだと考えられました。14~16世紀に相次いだ悲惨な出来事は、加速的な老いの証拠であり、人々に世界の終わりは近いと感じさせていました。
17世紀には山を、醜悪で人間の障害となるものだと捉え、それゆえ神の怒りによる大洪水に由来するものだと考える議論がありました。一方で、人間にとっての山の有用性や必要性を説く議論もあり、18世紀にはこちらが主流になります。山が人間のために必要なものなら、山は大洪水の産物であるはずがなく、創造の際に造られたのだということになります。

5 科学の誕生
17世紀のニコラウス・ステノは化石が生物起源であることを断定し、地層累重の原理や、傾斜した地層もかつては水平線に平行であったという原理を唱えました。ステノは聖書的な世界の年齢にとらわれていた点に限界がありましたが、化石を堆積相の決定(海成or陸成)に使えることに気付き、「遺物」に基づいて地球の歴史を明らかにできるという道を開きました。ロバート・フックやライプニッツも、化石を失われた生物種のものだと考えました。

6 山はいかにして誕生したか

カイロ駐在のフランス領事であったブノワ・ド・マイエは、短年代の説を捨てた上で、海水準は低下し続けるという説を『テリアミド』という著作で述べていました。このような説によれば、最古の堆積物は最も高い山の上にあることになります。18世紀後半にはモンブランが登頂されるなど、アルプス山脈やピレネー山脈が科学的関心にも基づき調査されていました。リンネは友人のセルシウスの理論を採用し、世界の幼年時代には1つの島以外は水没しており、1つの種につき1カップルまたは1個体が島に収容されていたとしました。一方、イタリアの神父ラッザロ・モーロは、海水準の低下がそのように大きかったはずはなく、それ以上の高さの山で化石や地層が見られるものは火山活動によって隆起したのだと唱えましたが、18世紀には水成説の方が優位な立場にありました。

2013年3月21日

『植物の変異と進化』第1章 Stebbins, Variation and Evolution in Plants, Ch. 1

Variations and Evolution in Plants (Biological)Variations and Evolution in Plants (Biological)
George Stebbins

Columbia Univ Pr 1950-06
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G. Ledyard Stebbins, Jr., Variation and Evolution in Plants (New York: Columbia University Press, 1950), 3-41
Ch. 1 Description and Analysis of Variation Patterns 

進化学者は生物の分類体系を知らなければならない。しかし生物の分類は、変異する形質の数が多すぎるために簡単ではない。そこで体系学者たちは、鍵となるような形質に注目して分類を行う。標本整理だけのためならこれで十分だが、進化に目を向ける体系学者は、次の3つのことをしなければならない。1つ目は他の形質にも目を配ること、2つ目は形質や形質間関係の変異を量的に測定すること(統計学や生物測定学の方法が理想的)、3つ目は変異パターンの原因となる要素を部分的にでも分析すること、特にどのくらいが環境要因でどのくらいが遺伝要因なのかを知ることである。このためには、遺伝学、細胞学、生態学などから知見を集結しなければいけない。

1つ目(pp.8-13)。維管束植物の分類は従来、外的な形態学に基づいてきた。しかし進化学の目的のためには、解剖学的、組織学的、細胞学的な形質にも着目する必要がある。こういった研究が進化学・系統学に役立つことは、先行する多くの業績の例から確かめられる。組織学的、細胞学的な形質は、伝統的な方法である外的な形態学や花序よりも正確な類縁性を示し、系統決定に役立つ。花粉粒や、表皮、特に厚壁細胞の研究が良い例である。染色体、血清診断、地理的分布や生態学的関係性などの知見も生かさなくてはいけない。倍数性の研究は、外的な形態学や地理的・生態学的分布と結び付けることで、進化のプロセスの仮説を立てることができる。

2つ目(pp.13-21)。記述的な体系学においても、変異を量的に測定しなければいけない。ある種類の形質はランダムだが、ある種類の形質は地理的パターンとの規則性があるだろう。効率的に情報を得るために3つの方法が多く試みられており、①分布に地理的規則性がある1つ2つ程度の形質に注目する方法、②形態学的形質間の関係性を図表や統計学的手法で研究する方法、③少ないサンプルでできるだけ多くの形態学的・生理学的形質を研究する方法(pp.20-21)である。植物園のサンプルは、その採集方法等の問題で十分適さない場合があり、local population sampleと呼ばれるようなサンプルが良い。データの処理では、平均、標準偏差、変動係数、カイ二乗検定などが用いられる。図表や写真の用い方にも工夫ができる。

3つ目(pp.21-27)。変異パターンの分析では、高等植物に対して主に移植、後代検定、人工交雑などの方法が用いられている。大きかったり長寿だったり高価だったりする樹木等はこういった方法が難しくなるが、自然の自発的な実験を参考にすることができる。すなわち、2つの近縁な種が同じ地域に存在し、かつ中間的な個体がなければ、2つの種のあいだに隔離メカニズムが働いていることになる。

変異に関して、理解しておかなければならない原則がいくつかある。まず、変種、亜種、種、属などといった分類学的な存在は、単純なひとまとまりの単位ではなく、集団の複雑なシステムである。次に、どんな集団も、ある形質については一定で、一方である形質については不定である。そして、集団どうしの間には特定の形質について不連続性がある。 

この他に、pp.28-29では変異の研究を、地学研究のアナロジーで説明しています。pp.32-41では、変種、亜種、型、種といった分類学用語や、ホモ、ヘテロ、生物型、純系、集団といった遺伝学用語について説明しています。

ゴオー『地質学の歴史』 第1章~第3章

地質学の歴史地質学の歴史
ガブリエル ゴオー Gabriel Gohau

みすず書房 1997-06
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ガブリエル・ゴオー『地質学の歴史』菅谷暁訳、みすず書房、1997年、15-70ページ。

1 発端
古代人の地質学は日常的観察に依拠していた。古代人は紀元前から化石に気付いており、海から遠く離れた場所で発見された貝殻の存在が問題となっていた。これについてエラトステネスは、地中海の海面がジブラルタル海峡の開通によって低下したのだと考え、ストラボンは、地震や噴火や海底の隆起による海面上昇や、陥没や地滑りによる海面低下が原因だと唱えた。
アリストテレスや逍遥学派は世界を永遠だと考えていたが、一方でストア学派は世界の再生を信じていた。この対立には、19世紀初めの激変論者と斉一論者の論争に通じるものがある。プラトンの穏やかな激変説は、地震や洪水によって地上が滅ぼされると説いていたが、これは主要な関心が道徳にある議論である。

2 世界の中心にて
紀元後、教会はアリストテレスの永遠の世界の説を拒絶し、プラトン主義と折り合いをつけた。教会は、人々の注意を異教徒の知である科学から逸らそうとしていた。アリストテレスの思想がキリスト教世界に徐々に浸透した13世紀も、それは宗教的伝統に反したものであった。
中世では占星術が浸透しており、月下界の現象を月上界の天体が支配していると考えられていた。当時知られていた最も大きな周期は、天球上で恒星がゆっくり回転する3万6000年(現代でいう地球の歳差運動)であり、これが地球の歴史が循環する期間とされていた(古代人の循環的思想の影響)。このことは地球の歴史を考える上での大きな制約となっていた。
地球の歴史の循環について、10世紀のアラブ世界では水成説的な考え方と、火成説的な考え方が対立していた。14世紀のビュリダンは、地球の歴史を3万6000年から数億年以上に延長し、陸は侵食されるにつれ軽くなって隆起し、海底は堆積物が貯まると沈降すると考えることで循環を説明した。ビュリダンの影響はレオナルド・ダ・ヴィンチにも見て取れる。

3 地球はいかにして形成されたか

コペルニクス、ガリレオ、デカルトらによって、地球は世界の中心という立場を追われた。このことで地球は特権的地位を失うと同時に、地獄の存在する卑しい物体という身分も放棄した。デカルトの地球モデルでは、地球は恒星と同じ性質の中心火を持っており、地球の起伏は地殻の陥没によって形成される。

2013年3月19日

『植物の変異と進化』序文 Stebbins, Variation and Evolution in Plants, Preface

Variations and Evolution in Plants (Biological)Variations and Evolution in Plants (Biological)
George Stebbins

Columbia Univ Pr 1950-06
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G. Ledyard Stebbins, Jr., Variation and Evolution in Plants (New York: Columbia University Press, 1950), ix-xi

短いですが重要そうなことが書いてあるのでひとまずここだけでまとめ。2つ目の前提は跳躍説との、3つ目の前提は定向進化説との決別ともいえるでしょうか。

ここ20年は生物進化論にとって大きな転機であった。今では進化論者の仕事は、進化の方向や速度を決める要因や過程を明らかにすることとなっている。本書は植物界、特に種子植物についての進化の総合的アプローチの経過報告として書いたものである。また、本書の大部分は1946年のJesup Lectureに基づくものである。

本書では3つの前提がある。1つ目として、進化は、集団内での個体変異、交配集団における変異体の分布や頻度(小進化)、集団の分離や分岐(大進化)という3つのレベルで捉えられなければいけない。それぞれのレベルでの支配的進化過程は、個体変異では突然変異や遺伝子の組み換え、小進化では自然選択、大進化では選択の効果と隔離のメカニズムである。2つ目に、どのレベルにおいても進化は小さな変化の積み重ねによるものであり、大きなジャンプによるものではない。3つ目に、これらの変化の速度や方向は一定ではなく、進化は漸進的なオポチュニズムである。進化は環境の変異と遺伝的な可変性の相互作用の産物として描ける。

伊藤元己『植物の系統と進化』

植物の系統と進化 (新・生命科学シリーズ)植物の系統と進化 (新・生命科学シリーズ)
伊藤 元己 太田 次郎

裳華房 2012-05-26
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伊藤元己『植物の系統と進化』 裳華房、2012年

読みました。
植物の形態や生活環についての基礎的知識を説明しながら、化石植物にも触れ、最新の分子系統解析に基づき、陸上植物をメインに系統の解説をしています。

2013年3月18日

伝記:ステビンズ Smocovitis and Ayala, "George Ledyard Stebbins"

Vassiliki Betty Smocovitis and Francisco J. Ayala, "George Ledyard Stebbins," Biographical Memoirs 85 (2004)

ステビンズの『植物の変異と進化』は、ドブジャンスキー『遺伝学と種の起源』、マイヤー『系統分類学と種の起源』、シンプソン『進化のテンポとモード』と並び、進化の総合説として知られるようになった著作であり、他の本の内容範囲を植物に広げた。これら4冊はすべてコロンビア大学のJesup Lectureの成果である。1941年にJesup Lectureを担当したアンダーソン(Edgar Anderson)は、『系統分類学と種の起源』の植物学バージョンを書くように依頼されたが、これを果たさなかったので1947年にステビンズが招かれ、講義の副産物として『植物の変異と進化』が生まれた。ステビンズの調査は主に野外で行われ、実験室では採集した標本の染色体数を決定したり、交雑の有無を調べたりした。

ステビンズは上流中産階級のプロテスタントの家の生まれであり、両親は博物学にアマチュア的興味を持っていた。ステビンズは3歳の頃には既に植物に興味を示しており、また突然怒りを爆発させる性格や、手工の不器用さも幼い頃からのものであった。学校は全て私学に通い、名門校Cate Schoolでは植物学者のRalph Hoffmannと出会い、大学は兄のHenryと同じハーバード大学に進学した。大学で専攻を植物学に決め、大学院ではMerritt Lyndon Fernaldに教わるが、ステビンズは彼を時代遅れと嘲り、むしろKarl Saxの細胞遺伝学的研究に興味を惹かれた。博士課程ではE. C. Jeffreyと共にAntennaria属の大胞子形成・小胞子形成の解剖学的・細胞学的研究に着手するが、JeffreyはT・H・モーガンのような遺伝学的研究に強く反対していたため、ステビンズとは諍いになった。ステビンズはSaxとの交流を深め、さらに遺伝学に傾倒していった。

1930年のケンブリッジでの国際植物学会議に出席し、アンダーソンやIrene Manton、C. D. Darlingtonに出会った。博士号取得後の4年間をコルゲート大学で過ごし、ここではPercy Saundersと共にボタン属の雑種の染色体研究を行った。1935年、バブコック(Ernest Brown Babcock)に招待されてカリフォルニア大学バークレー校に着任し、クレピス属の研究に加わった。バブコックらのクレピス属の遺伝学的研究は、T・H・モーガンらのショウジョウバエの研究に張り合おうとするものであった。1938年にステビンズとバブコックはアメリカのクレピス属についての論文で倍数体複合のアイデアを示し、先駆的な業績とみなされた。さらに1940年、1941年、1947年にも倍数性に関する論文を発表している。

1939年にステビンズはバークレー校の遺伝学の部門に異動した。この頃、ドブジャンスキーや新しい動きを見せた生物系統分類学者たちとの関係のために、ステビンズは進化への興味を深めていった。1930年代中頃からサンフランシスコ湾周辺では進化学が盛んになり、ステビンズは特にJ・クラウゼン、David Keck、William Hieseyらの仕事を注意深く追っていた。ドブジャンスキーはステビンズにとって最も重要な進化学者であったといえる。

1950年に『植物の変異と進化』を発表し、自然選択を強調しつつも、ドブジャンスキーの影響で遺伝的浮動や非適応的進化も認めた。しかし、この本がソフトな遺伝(ラマルキズム)などの進化メカニズムを否定したことにも大きな意義があった。また、ドブジャンスキーやマイヤーの生物学的種概念を支持したが、それは植物ではうまくいかなかった。ステビンズの2番目に重要な著作は1974年の『顕花植物:種レベルより上での進化』である。

1950年にデービス校の遺伝学部門に移り、1963年までそこで主任教授を務めた。ステビンズは進化学の教育にも強い関心を持っており、“科学的創造論”とも活発に戦った。また、初期の環境保護論者の一人でもあった。1973年に退職したが、その後も研究活動や客員教授などを続け、2000年に亡くなった。

2013年3月15日

進化論の総合と植物学 Stebbins, "Botany and the Synthetic Theory of Evolution"

The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New PrefaceThe Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface
Ernst Mayr

Harvard University Press 1998-02-15
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G. Ledyard Stebbins, "Botany and the Synthetic Theory of Evolution," in The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface, ed. Ernst Mayr and William B. Provine (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1998), 139-152 

植物学における進化論の総合の第一人者であるステビンズが、総合説の成立と植物学について振り返っている文章です。『植物の変異と進化』など、ステビンズ自身の業績についてはあまり触れていません。

植物学は総合説に対して3種類の貢献をしたといえる。総合に必要な事実の発見、植物学における実際の総合、そして総合説を受容したことである。

遺伝学は、モーガンらによる業績を除く全ての重要な事実が高等植物の研究から解明された。ここではメンデル、ド・フリース、ヨハンゼン、ベートソン、ニルソン=エーレ、イースト、ベリング(J. Belling)、マクリントック、ダーリントン(Cyril Dean Darlington)らの名前を挙げることができる。植物遺伝学者のバウア(Erwin Baur)はキンギョソウと近縁植物の研究を行い、植物における総合の第一人者と成り得る存在であったが早世した。

スウェーデンのチューレソン(Göte Turesson)は192231年に発表した研究で、植物学者が総合の前に直面する3つの基礎的問題に取り組んでいた。1つ目は既にヨハンゼンによって始められていた、遺伝子型変異に対する表現型変異の重要性の問題であり、このことは生殖質が体細胞組織から分離されていない植物では重大な問題であった。分子生物学の発展(the molecular revolution)までは獲得形質の遺伝を否定する理論的根拠は無かったが、一方でルイセンコなどのいかさま師を除き、獲得形質の遺伝を実証できた研究者もいなかった。ボニエ(Gaston Bonnier)は低地植物を高地に移植すると高山性の植物になったことから、環境操作によって植物を別の種に変えられると主張し、クレメンツ(Frederic Clements)も同じ実験をしていたが、実際には高山植物と交雑していた可能性がある。チューレソンは、観察可能な表現型変異には遺伝的要素による部分と環境要素による部分があることをはっきりさせた。J・クラウゼン(Jens Clausen)もボニエの説を否定した。

2つ目は種内での変異のパターンの問題である。チューレソンの立場は類型学的であり、種はさらにはっきり異なった生態型に分かれており、中間地域では複数の生態型が混合しているのだと考えていた。しかし、ラングレット(O. Langlet)の作ったスウェーデンの地図は、マツの形質の変異が生息地域の気候をそのまま反映していることがわかるものであり、チューレソンの立場が誤っていることを示すものであった。

3つ目は生殖隔離、種分化の問題である。このことについて、チューレソンはあまり自ら実地調査することはしなかったが、生態型、生態種、共同種、相互交雑可能個体群というヒエラルキーを確立した。しかしこのヒエラルキーは、植物に対してはあまり客観的な概念には成り得なかった。カーネギー研究所のJ・クラウゼン、D. D. KeckM. W. HieseyのチームはカリフォルニアでCalifornia tarweedを用いて生殖隔離の問題に取り組み重要なデータを得たが、クラウゼンは詳細が理解されるまで発表しようとせず、研究結果が出版されたのは1951年になってからだった。同時期のイギリスでは、種分化の問題について新たな一般的法則を発見した植物学者は居なかった。ロシアのE. N. Sinskaiaは生態型や系統について、地理的なものと同所的だが異なる生態学的地位を占めるものをはっきり区別した。またロシアのH. B. Zingerはアマナズナの研究で適応放散の最も良い実例を示した。

倍数性も植物の種分化における重要な基盤である。LutzGates1907年と1909年にド・フリースの変異したアカバナが通常の倍の28本の染色体を持っていることを実証し、同質倍数体の最初の発見者となった。イギリスのキュー王立植物園で作られたプリムラ・キューエンシスも種分化の形態としての倍数性の研究に貢献することになる。デンマークでは1917年にØjvind Wingeが倍数性について理論的説明をしていたが、第一次世界大戦のために同質倍数体を所持するイギリスと連携することができなかった。Wingeの理論の証明は、1925年にR・クラウゼン(Roy Clausen)とグッドスピード(Thomas Harper Goodspeed)が複二倍体の雑種を作ったことでなされた。さらに木原均はコムギの倍数性の研究を行い、ゲノムの概念を確立し、はじめて同質倍数体と異質倍数体を区別した。木原に続いて多くの倍数体の実例が確かめられ、こういった研究は種の起源が実験室や庭で確認できることを分類学者や植物遺伝学者に示すことで総合に貢献した。

一方で、ド・フリースやヨハンゼン、さらに植物学者ではないがモーガンやベートソンなどの、反自然選択説的な立場の理論は総合を遅らせていた。ヨハンゼンは熱帯や亜熱帯の風景を見ずに、きちんとした純系の豆が広がるデンマークの風景ばかりを見ていたためにこのような立場になったのではないだろうか。

全ての情報を総合して植物の種分化と進化についての一貫した理論を作るような試みは、『植物の変異と進化』以前にはJ・クラウゼン、KeckHieseyによるごく短い論文しかなかった。しかし、特定の植物について原理を考慮するなどした重要な業績はいくつかあり、組織学を用いつつイネ科を3つのグループに再編成したN. P. Avdulovの研究、バブコック(Ernest Brown Babcock)のクレピス属の研究、アンダーソン(Edgar Anderson)の戻し交配の研究などがある。 

1930年代から40年代に、シンプソンやレンシュが動物学で行ったようなことを植物学者が行えなかったのは、種より上のレベルで考えていた人々が形態学者と解剖学者しか居なかったからであろう。彼らは自然選択説に反対しており、形態の変化と環境の変化を結び付けることができなかったのである。


【メモ:チューレソンのヒエラルキー】
ecotype 生態型
ecospecies 生態種  不完全な生殖隔離障壁により分離されている集団
cenospecies 共同種、集合種  完全な生殖隔離障壁により分離されている、生態種の集まり
comparium 相互交雑可能個体群、コンパリウム  雑種第一代は生まれるが不稔であるような共同種の集まり

2013年3月7日

近代経済と近代科学、オランダ視点 Cook, "Moving About and Finding Things Out"

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Harold J. Cook, "Moving About and Finding Things Out: Economies and Sciences in the Period of the Scientific Revolution," Osiris 27 (2012): 101–132.

一般に広く受け入れられている見解として、「科学の勃興が近代の経済的発展を起こした」という考え方がある。たとえば著名な経済学者のサックスの議論によれば、欧米社会の近代化やイギリス帝国の台頭は、産業革命に伴う経済構造の変化に起因しており、そして産業革命はそれに先んずる科学革命によって引き起こされたものである。また、科学革命によって、世界を研究して物を造り出し改良する文化的背景が生まれ、経済発展に繋がったのだと主張する論者たちもいる。こうした見解は本当に正しいのだろうか? 実際には、むしろ経済と科学はお互いにお互いを生み出す関係にあり、共に発展してきたのである。

近代経済の発展のために不可欠であった条件は、取引コストを下げるような社会的・制度的変革であった。こうした新しい経済が鮮明に現れ出た地域はなんといっても低地三国であり、注目に値する。オランダ共和国では、レヘントと呼ばれる主に商人出身の都市統治者たちが、技術革新を進める刺激となるような制度を作って成功していたし、また彼らが力を持ったことで、オランダでは商人たちが尊重するようなタイプの知識が重要視されるようになった。様々な人々が入り混じるオランダ市場の商人たちにとっては、品物等について信頼できる記述がなされることが重要であった。それゆえ彼らが尊重した知識は事実問題(matters of fact)と呼べる類の知識であり、彼らは原因についての深い推論よりも、経験に直結した詳細な物質的記述を重視しており、この気風が科学の発展につながった。また、この時期のオランダでは商人や職人にも読み書きや計算の能力が必要とされたし、支配層の商人の資金援助で多くの学校や大学ができ、識字率は大きく上がっていった。当時は科学技術と商業の双方で活躍した人が多く、二つの場が密接に結び付いていたことが窺える。

交易の場は情報のやり取りの場でもあった。オランダはヨーロッパだけでなく、貿易によって南北アメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアの諸地域をも結びつけた。オランダは貿易の中心地になることで、同時に科学・技術に関する情報やアイデアの流通の中心地、集積地ともなったのである。こうした文化間での情報のやり取りの中では、理論的な事柄や哲学的な概念は伝わりにくかったが、事実問題は理解されやすかった。「科学は普遍的な知識である」という言明はむしろ、事実問題が文化的・言語的な壁を越えて理解されやすい性質の情報であったため、それが普遍的な知識として想像されるようになったのだというふうに捉え直すことができる。

「なぜ中国で科学革命は起こらなかったのか」というニーダム・クエスチョンについては、中国では官吏が支配層にあり商人が力を持てなかったことや、そのために事実問題を評価するような制度的な準備ができていなかったことが関係しているだろう。ヨーロッパの船が世界中で海上貿易を行うようになった時期と、科学の出現の時期が重なっていることは偶然の一致ではない。科学の礎を築いたのは、世界中を動き回り、物を相手にして経験から知識を得て、様々な人々と交流して知識を共有する商人たちであったのだ。


追記
本論文については、坂本さんが批判的記事をブログに載せられているのでリンクを貼っておきます。
オシテオサレテ: 近代経済と近代科学 Cook, "Moving About and Finding Things Out

2013年3月4日

進化論の総合と植物学 Mayr, "Botany: Introduction"

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Ernst Mayr

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Ernst Mayr, "Introduction," in The Evolutionary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, With a New Preface, ed. Ernst Mayr and William B. Provine (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1998), 137-138

植物学は進化論の総合において、あまり重要な役割を果たさなかった。その理由として、植物学は動物学にない二つのハンディキャップに直面していたことが挙げられる。一つは、標本を調査する研究者と野外で調査する研究者とが別々で分かれていたことである。もう一つは、植物の遺伝の仕組みが動物のそれに比べて複雑であり、倍数性や遺伝子侵入、単性生殖、細胞質遺伝、表現型可塑性などといった現象が理解されるのを待たなければならなかったことである。また、植物種の複雑性のため、種概念について研究者たちが統一された見解をとることができなかった。

植物学における標本の採り方についてmass collectionsの概念を推進したのはW. B. Turrill, Norman Fassett, Edgar Andersonらで、特にAndersonは個体群の概念を植物学者たちに広めることに貢献した。そして何よりも、Stebbinsの『植物の変異と進化』が植物学に進化論の総合をもたらした。

日本人と西洋人の日本植物研究 大場秀章『江戸の植物学』

江戸の植物学
江戸の植物学
大場 秀章

東京大学出版会 1997-10
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大場秀章『江戸の植物学』東京大学出版会、1997年

江戸時代の植物学について、貝原益軒、小野蘭山などに特に注目する一方で、ケンペル、ツュンベルク、シーボルトなどのヨーロッパ出身の学者にも注目し、両者の比較を試みる本です。

江戸時代の本草学の隆盛の背景には、戦乱が収束して人々が健康や長寿を願うようになったことがある。江戸時代初期の本草学者たちは、日本の植物が中国のそれと異なるとは考えておらず、それゆえ明時代の李時珍の『本草綱目』(1596年)を踏襲し、これに日本の植物を当てはめていく文献学的研究が中心であった。貝原益軒の代表的著作『大和本草』(1708年)も、『本草綱目』に載っている植物について、知り得た全知識を開陳するような形で補筆している部分が多い。しかし『大和本草』では、『本草綱目』や他の中国の書籍に載っていない植物については「和品」として記載することで、中国にない日本の植物を発見する業績となった。

益軒と同時代のケンペルは、ウプサラ大学に学んだ後、スウェーデンの外交使節団の一員として日本に2年間滞在した。ケンペルは『廻国奇観』(1712年)の中で日本の約400の植物について取り上げ、ヨーロッパの植物と比較しながら説明している。益軒の関心がどちらかといえば植物の利用に重点を置いていたのに対し、ケンペルは植物自体の特徴を詳細に記述しており、植物の観察力には大きな差が覗える。のちにリンネはこの『廻国奇観』に基づいて日本の植物を命名してもいる。

8代将軍の徳川吉宗の時代には、人参などの薬草を国産化する施策のため、本草学者たちが多数登用されるようになった。江戸時代を代表する本草学者である小野蘭山も晩年に仕官し、『本草綱目啓蒙』(1803~06年)によって日本における『本草綱目』研究を完成させた。これまでの研究における植物の名称の異同を正したことも大きな業績である。蘭山の植物観察やその表現は、『大和本草』に比べて極めて精度が高くなっており、この間の本草学の進歩を窺わせる。しかしその記述の的確さは、ケンペルに比べればなお及ばない。

蘭山が活躍している時代に来日したツュンベルクは、ウプサラ大学でリンネの弟子となった人物であった。ツュンベルクの『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』はリンネの分類体系に基づいたもので、現代の植物学にも通じる完成度の高い著作である。しかしこの著作が日本の学者に注目されるのは遅くなり、江戸時代の日本ではリンネの分類体系はまったく浸透しなかった。日本では「種」の認識がなく、自然分類法ではなく『本草綱目』以来の人為分類法を採り続けた。また当時の日本には、標本を保存することで後の研究者による再検討を許したり、最初に発見した人のプライオリティを重んじたりといった発想もなかった。

日本の植物への興味を抱いたドイツ人医師のシーボルトは、オランダ人を装って1823年に来日した。出島に植物園を建設して生きた植物を収集し、絵師としては川原慶賀を雇った。帰国の際にはシーボルト事件に巻き込まれつつも、最終的には大量の生きた植物と押し葉標本を持ち帰ることに成功した。植物学者のツッカリーニの協力のもと、シーボルトもまた『フロラ・ヤポニカ』(1835年)というタイトルの著作を出版した。二人の植物学的記述は、現代の研究に比べても遜色のないものである。

本草学者の伊藤圭介は来日中のシーボルトに教えを受け、ツュンベルクの『フロラ・ヤポニカ』を贈られた。圭介はこの本をもとに『泰西本草名疏』(1828~29年)でリンネの植物分類体系を紹介し、本草学者から植物学者へ転生した。圭介門下の賀来飛霞(かく・ひか)は最後の本草学者ともいうべき人物で、圭介と共に東京大学小石川植物園に勤務したが、彼らは欧米由来の近代植物学と対峙する孤立無援な立場にあった。ケンペル、ツュンベルク、シーボルトら外国人研究者が収集した標本に基づく欧米での組織的研究は高度であり、明治時代に文献輸入に制限がなくなると、それらを継承した矢田部良吉、松村任三らの植物学者に研究で凌駕されるようになってしまった。しかし、日本の植物をリンネの分類体系の中に位置付ける際に、本草学の蓄積が大きな貢献を果たしたことは間違いない。

2013年3月3日

藤田祐「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」

藤田祐「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」、2004年

先日、藤田祐先生から論文「自然と人為の対立とその政治的含意 ――T・H・ハクスリーの進化社会理論――」を戴いたので読ませていただきました。藤田先生、ありがとうございました。


ハクスリーは1893年に行った講演「進化と倫理[ロマーニズ講演]」の中で、<宇宙過程>と<倫理過程>という考え方を示した。ハクスリーによれば、<宇宙過程>は人間の事情に関わらない進化の過程であり、<倫理過程>は文明と倫理の発展過程である。1894年に出版した「進化と倫理 プロレゴメナ」では、<宇宙過程>の内部での<倫理過程>の進行を、<自然の状態>の中に<人為の状態>を築く庭造りに例えている。人が庭を放置していれば増殖によって生存競争が発生してしまうが、人為的な力を用いれば庭の中での増殖を制限して生存競争を取り除くことができる。ハクスリーはこのアナロジーで、<倫理過程>は常に外部の<宇宙過程>の力に常に晒されておりそれに抗う過程であること、人間社会と自然のあいだには対立関係があることを示唆している。 【1-i, 1-ii】

この<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、異なるレベルのもう一つの対立、すなわち人間精神における自然的な本能と人為的な良心の対立と密接に結びついている。生存競争によって獲得された人間の自然本能は動物的で利己的なものであり、社会を発展させるためには良心によってこれを抑制しなければならない。つまり、人間は社会においては外部の自然に抗い、精神においては内部の自然に抗う、二重の闘いを行なっているのである。この闘いは完全に勝利する見込みはない永遠の闘いである。しかし、ハクスリーは<自然>と<人為>はどちらも社会にとって必要なものであり、両者のバランスがとれるのが望ましいという両義的な価値判断をしている。 【1-iii】

ハクスリーが1888年に発表した「人間社会における生存競争」は貧困問題について論じたものである。ここでハクスリーは、マルサスの『人口論(初版)』に代表される、自然を道徳的な規範として、また統一性・完全性を持つ秩序としてとらえる見方を批判し、自然は道徳には関わりのないものだと結論する。さらにハクスリーは、進化と進歩を同一視する発展論的見解もダーウィン進化論に基づいて批判している。自然に目的や道徳的意味を見出だすことはできないから、道徳的目的を持つ人間社会の基礎原理にはならない。ハクスリーの<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、このような自然観に基づいているといえる。 【2】

人間社会もまた自然の一部といえるが、ハクスリーは人間社会を自然と区別することが有益だと考える。社会は自然での生存競争を脱出し、平和を実現するために成立したもので、道徳的目的を持っている。自然と社会の対立は、ハクスリーのいう<自然人(natural man)>と<倫理人(ethical man)>の対立と平行している。しかし<倫理人>も、<自然人>の持つ本能を受け継いでいる。ハクスリーは、<自然人>の生殖本能がマルサスの人口圧を生み出し、貧困をもたらして生存競争を引き起こし、人間社会を崩壊させるのだと論じる。 【3】

ハクスリーは、この貧困に対する解決策は諸国間の産業競争に勝つことだと考えた。そして、産業競争力を高めながら労働者を困窮させないためには生活環境や知的・道徳的環境を改善しなければならないとして、公的な科学技術教育の必要性を訴えた。これは公教育を認めない強硬な個人主義教育論に対しての批判となっている。

ハクスリーは1891年の『社会の病気と最悪の治療法』の前書きにおいて、<アナーキーな個人主義>と<統制社会主義>の双方を有害だとして批判した。ハクスリーの<自然の状態>と<人為の状態>の対立は、個人主義と社会主義の対立と密接に関わっている。個人主義は社会を自然に委ねるものであり、一方で社会主義は人為によって社会を完全にコントロールしようとするものであるといえる。人為によって自然に抵抗することは必要だが、人為が自然を完全支配するのは不可能であり、それを目指すのは有害だとハクスリーは考えた。ハクスリーの立場は、自然と人為に対して両義的であり、個人主義と社会主義の中道を行くものであったといえる。 【4, 結論】