2013年4月23日

ボウラー『進化思想の歴史』、第1章~第3章

ピーター・J・ボウラー『進化思想の歴史(上)』鈴木善次ほか訳、朝日新聞社、1987年、11-147ページ。

ボウラー『進化思想の歴史』を改めてしっかり読んでまとめていこうと思います。


1 進化の観念――その広がりと意味
 生物進化論は、中世キリスト教世界観に挑戦する、地球の過去に関する研究の一部に過ぎない。これらの研究による新しい世界観は、①時間的尺度の拡大、②変化する宇宙という考え、③デザイン論の排除、④奇跡の排除、⑤自然の中への人間の包含、といった論点に特徴づけられる。進化論の内部では、自然的過程の作用の仕方について、①定常的状態―発展、②進化の内的支配―外的支配、③連続性―不連続性、といった対立点がある。

2 地球に関する初期の理論
 17世紀に現れた新しい宇宙論は、地球の起源について考える枠組みを与えた。アリストテレスの議論では地球と天球は根本的に異なっているため、一方が一方を生み出すなどと考えることは不可能だったが、力学的哲学によれば物質は宇宙のどこでも共通しているため、それが可能となった。ノアの洪水などの『創世記』の出来事を物理学的に説明しようとするトマス・バーネットやウィリアム・ウィストンらの議論は、全知の神はすべての歴史を見通して世界を設計することができるので、いったん宇宙を造ったあとには世界に気を配る必要がないという考えにつながり、自然神学への第一歩となった。
 ナチュラリストたちが化石は生き物であったと確信するようになると、堆積岩がどのように陸地になったのかが問題となった。18世紀の地球理論でも中心的課題となるこの問題に対し、ドゥ・マイエは『テリアムド』で海洋後退説を唱え、一方ニコラウス・ステノやロバート・フック、ジョン・レイは隆起による説明をした。いずれにせよ、地球の年齢を数千年と想定する以上、過去における変化は現在のそれよりはるかに大きな規模であったと考えざるを得ず、激変説の歴史観が導入された。
 ニュートン主義科学は、地球の起源に関する仮説に基礎を与え、ビュフォンの彗星による説明や、カントやラ・プラスの星雲説が生まれた。
 堆積岩が陸地になる経緯について、ベヌワ・ドゥ・マイエとビュフォンは水成説(ネプチューニズム)および海洋後退説の立場をとった。ウェルナーも火山活動や地震の役割を軽視して水成説の立場をとり、鉱物分類体系と結びつけた。フランス革命以降のイギリスの保守的な風潮も影響して、ジャン・アンドレ・デリュックら後期の水成論者によって、ウェルナーの理論は聖書地質学と関わるようになった。一方、火成説(バルカニズム)ではハットンが初めて包括的な理論を構成し、火成説を定常状態という世界観と結びつけた。ハットンの説は地球の歴史を非常に古いものだと考えたため、デリュックなどから宗教上の攻撃を受けた。

3 啓蒙時代の進化論
 18世紀の地質学上の発見は、創造の物語に対する疑問を投げかけた。唯物論者は宗教攻撃を強め、生物の形態の変化を説明する理論が登場した。こういった理論は表面的には現代進化論に類似していたが、18世紀末には他の啓蒙思想の多くと共に消滅していくことになる。
 17世紀後半のナチュラリストたちは、自然界を研究することでそれぞれの種が神の創造物だという信念を補強するだろうと考えており、彼らの議論には、デザイン論、種間関係には存在の連鎖のような構造があること、種のグループ分けをすること、などの特徴があった。
 リンネは、新種の形成はあくまでも雑種化によるものだと主張しており、これは自然界の変化は創造に由来する既存の秩序の中の位置を占めることに他ならないという考えと調和していた。ミッシェル・フーコーによれば、18世紀には生物の体系を開かれたもの(オープン・エンド)として考える理論は現れず、キュビエの分類体系がようやく自然界の固定した秩序という考えを打ち破り、生命の多様性には限界が無いと考えることを可能にした。
 18世紀唯物論者のナチュラリストたちの、生命の起源を創造の代わりに自然法則で説明しようとする理論は、ハーヴィの説いたような(機械論哲学の保守的立場である)先在胚種説(前成説)への対立理論として登場した。胚種の代わりに、各生物個体は物理的な力によって形成されるとしたことで、唯物論者たちは種が固定している保証はないと考えることができた。シャルル・ボネやJ・B・ロビネは、胚種説を存在の連鎖の概念と一体化させ、さらに存在の連鎖を時間化して静的なものから前進的なものにした。
 しかし18世紀には探検によって新しい種が大量にもたらされ、ナチュラリストたちは、生物を存在の連鎖のように一直線に配列することは不可能だと確信するようになっていった。神が意味ある秩序に従って種を創造したという信念に基づき、リンネはそれを明らかにする最初の段階として人為的体系をつくった。リンネによれば、神は一つの属につき一つの種だけを創造したのであり、他の種は主に雑種形成によってつくられる。
 生命の起源を唯物論的に説明しようとする試みは、まずドゥ・マイエの『テリアムド』によって行われ、生命は宇宙のいたるところに存在する胚種から生まれること、あるとき水生生物から対応する陸上生物に変化することなどを説いた。モーペルテュイは『生身のヴィーナス』で胚種説を批判し、『自然の体系』で自然発生説を唱えたが、物質が生命をもった構造をとることを説明するために、粒子が記憶や意思をもつという奇妙な結論に至ってしまった。ジョン・ターバーヴィル・ニーダムと行った実験で密閉加熱したフラスコから微生物の発生を確認したビュフォンも同じく自然発生説をとったが、この問題に対しては「内的鋳型」の概念を導入して説明した。ビュフォンによれば、内的鋳型は宇宙の不変の特徴であるが、造物主の設計によるものである証拠はない。ビュフォンはやがて、近縁の種は共通の祖先に由来するのであり、移住した地域の外的諸条件によって様々に分化したのだと主張するようになった。
 啓蒙期の無神論唯物論者たちは、デザイン論や固定した種の考えを強く批判し、自然自体を本質的に創造的なものだと考えた。ラ・メトリは淡水ヒドラの能力にひきつけられ『人間機械論』を著したが、生命の起源については先在胚種説を離れられなかった。ドニ・ディドロやドルバック男爵は生命の自然発生の過程を開放的なものとして捉え、決められた種の形態しかとることができないというビュフォンの考えから脱却した。
 エラズマス・ダーウィンは詩や『ズーノミア』の中で、神のデザインに由来する生物が、努力の過程で器官を発達させていく進化論を説いた。ラマルクは啓蒙期の唯物論に影響を受けた理論を構築したが、理論を総合した時期には比較解剖学の発展やナポレオン時代の保守的思潮のために啓蒙期の思弁的唯物論は廃れており、またキュビエの策動もあったため、ラマルクの理論を受け継いだ人物は居なかった。