2013年9月29日

迷子石に関する3つの説 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 34

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 501-16.


Ch.34 迷子石を説明する(1833-40)

34.1 地質学的洪水を拡張する

 洪水説も他の学説と同じように時代と共に変化してきた。1830年代には、バックランドも含め、地質学でいう洪水は聖書に出てくる洪水とは関係ないという合意が得られていた。
 この時代の洪水説は主に3種類の経験的根拠に支えられていた。1つ目の根拠は侵食の特徴で、通常の現在因によっては説明できないと思われていた。しかし、谷の地形は多種多様で、下にある岩盤の構造との関係も様々であることから、単一原因による説明を追求することは無益だという暗黙の合意が得られていた。たとえば、オーベルニュの谷は長期間の水流による侵食で形成されたのだろうと洪水論者さえもが考えていたが、一方でU字谷の形成を説明するには猛烈な河流の作用が適していると考えられていた。2つ目の根拠は巨礫粘土などの堆積の特徴であった。
 しかし、3つ目の根拠である巨大な迷子石は、以上の2つの根拠よりもずっと強烈かつ重要であった(図は81ページと184ページ)。迷子石のそばの基岩にはひっかき跡があり、平らにされたり磨かれたりしており、地質学的に新しい時期に例外的な出来事があったと考えなければこのことを説明するのは難しかった。
 20年ほど前、ジェームズ・ホールはエディンバラの迷子石を津波で説明し、フォン・ブーフはアルプスからジュラに動いた迷子石を洪水で説明した。しかしこれらの例は、1820年代に実証された、スカンディナヴィア半島の岩がバルト海やドイツの平野を越えて運ばれた例に比べれば、ずっと規模の小さいものであった。1830年代にも迷子石に関する報告が相次ぎ、推測される洪水の大きさに驚きの声があがった。
 スウェーデンの地質学者、ニルス・ガブリエル・セフストレームはブロンニャールの研究成果を拡張して、迷子石の場所とそのひっかき跡の方角を描き込んだ地図を作製し、迷子石たちのひっかき跡が特定の方角を向いていることを示した。セフストレームはこの原因を、深さ500mもあったと考えられる巨大な洪水(petridelaunic flood という言葉が用いられた)で説明した。セフストレームの論文の抜粋はドイツ語と英語に翻訳され、1838年の完全出版前にヨーロッパじゅうで知られるようになった。セフストレームはpetridelaunic floodで説明できる小さめの迷子石と、他の何らかの理由で説明されるべき大きめの迷子石を区別していた。セフストレームやフォン・ブーフは、大きな迷子石を単なる洪水で説明することの難しさを認識していたのだった。泥のような濁流の洪水を想定しても、スカンディナヴィアからバルト海を越え、バルト盆地から北ドイツの平野に押し上げられた迷子石を説明できるとは思えなかった。


34.2 迷子石と氷山

 これらの洪水説の他で唯一妥当な説は、プロイセンのナチュラリストであったヴレーデが30年ほど前に唱えた、迷子石は海水面の高い時期に流氷に埋め込まれて漂流してきたのだとする説に由来していた。しかし、地質学的に新しい時期に北ドイツの平野が海に沈んだという証拠はなかったし、長年に渡って地質学者たちは流氷や氷山の役割を軽視してきた。
 ただしライエルは違っていた。ライエルは『地質学原理』の初版で、アルプス山脈の氷河が岩を積み、それが砕けたときに堰き止められた湖の中で漂流する氷山となり、やがて堰も決壊して低地に流れ出てきたのだという説明をした。1840年の第6版では氷河に関する1章を追加して、迷子石の分布は流氷や氷山の漂流とそれに続く地殻の上昇で説明できると説き、大量の実例を挙げて自説を補強した。
 地殻は上昇したり下降したりし続けるものだと思っていたライエルにとって、海水面がかつて高かったと想定することは何の問題もなかった。岩を含んだ氷山が漂流しているという報告は多くあったので、これも現在因として扱えた。氷山が非常に長い距離を漂流するということも知っていた。ライエルは、地殻の一部がほんの少し昇降しただけでも海岸線は大きく変わるはずであり、それに伴って局所的な気候も大きく変わるので、氷山が南に大量に漂流してきた時期もあったのだと考えた。しかしライエルは、低地の迷子石だけでなくアルプス山脈の迷子石にまで同じ説明を適用したので、地殻の極めて大きな上昇を仮定することになってしまった。さらに、巨礫粘土などの表層堆積物もひとまとめにして漂積物(drift)と呼ぶべきだと提案した。
 ダーウィンはライエルの説に沿った形で、地質学的に新しい時期に、スコットランドで2200フィート(670m)以上の地殻上昇があったはずだと考えた。ダーウィンはチリで1300フィートの上昇を確認していたのでこれに納得していたが、そのような地殻上昇は他に証拠が無いため、他の地質学者たちは懐疑的であった。ライエルの説明は巨大な津波や泥流による説明に比べればまだ納得できるものの、多くの問題があると考えられていた。


34.3 巨大氷河の復元

 迷子石を説明する3つ目の説は、スイスの土木技師イグナツ・ヴェネッツによる研究に端を発する。この研究でヴェネッツはモレーンなどの堆積物の分布を観察して、アルプスの氷河の範囲は歴史的に変動してきたという結論を下し、スイスの気候や氷河に関する分野の賞を1822年に受賞した。この結論は少なくともスイスじゅうの同業者には知られるようになった。そのうちの一人である地質学者のジャン・ド・シャルパンティエは、ヴェネッツとフィールドワークを重ねるうちにこの説に納得し、後に地質学新婚旅行でやって来たライエルにこの説を話した。シャルパンティエは、迷子石は荒れ狂う大洪水で説明するには規則正しすぎると言い、氷河の突端の下では基岩が滑らかになっており、そこには氷河に含まれる岩によるひっかき跡が残っていることから、迷子石は氷河の遺物なのだと主張した。シャルパンティエは、今ある氷河から遠く離れ標高も高いローヌ谷の土地でもこのような跡を発見したため、極めて巨大な氷河がかつてこの地域を覆っていたことを想定しなければならなくなった。しかしシャルパンティエは、地球は徐々に冷却されてきたという説を当然のこととして受け入れていたため、過去の気候が今よりずっと寒かったという可能性を考えもしなかった。その代わりに、アルプスの標高が今よりずっと高かったという説を採用したため、ライエルには嘲笑されてしまった。
 1833年、ヴェネッツの論文がようやく完全な形で出版されたことでシャルパンティエの自信は強まり、翌年にシャルパンティエはヴェネッツの考えを前進させた論文を発表した。しかしスイスでの反応は薄かったので、1835年に論文をパリに送ったところ、ドイツ語と英語に翻訳されてヨーロッパじゅうの地質学者の知るところとなった。シャルパンティエは極めて広い地域がかつて巨大な氷河に覆われていたことを想定しており、にわかには信じがたいだろうが観察された証拠に基づいている、ということも本に書いている。
 シャルパンティエは消えた氷河の地史学的復元と、氷河拡大の因果的・地球物理的説明をはっきり区別しており、前者はフィールドでの証拠に、後者は推測に基づいていた。アルプスが上がったり下がったりしたことは、エリー・ド・ボーモンの説に従い、地球の冷却による地殻の急上昇とその後の陥没によって説明した。
 シャルパンティエの理論はこのように、現在因に基づく部分とそうでない部分があったが、ローヌ谷のみならずアルプスの他の地域にも適用できる潜在能力があり、今まで見つかってきた他の迷子石もシャルパンティエの理論で再解釈することができた。しかし、地質学者たちがこの説を妥当とみなすかどうかはまだわからなかった。実際、この説をたとえばスカンディナヴィアの迷子石に適用するためには、スカンディナヴィア山脈がかつてアルプスより高かったと仮定しなければならず、それは有り得そうもないことであった。現代に近い時代の地史の復元は、依然として問題のままであった。

『地質学原理』の完成 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 25

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 363-77.


Ch.25 ライエルの『地質学原理』の完成(1832-33)

25.1 ライエルの講義

 『原理』第二巻出版後の1832年の春、ライエルはキングス・カレッジ・ロンドンで講義コースを開き、地質学会の学者や教養ある人々が集まった。最初の無料講義は2回行われ、300人以上が出席したが、それ以降の有料講義を聴くためにお金を払ったのは70人も居なかった。
 講義は地殻の構造やそれを構成する岩石についての伝統的な要約から始まったが、「第一紀」は多くの異なる時代から成り立つ上に、地球の起源についての証拠を何も提供しないためその名に値しない、という非伝統的な主張もした。しかしライエルは、空間と時間、天文学と地質学のアナロジーを用いることで、彼が明らかに採用している永遠主義を、人知の限界の問題に縮小してその立場を無毒化した。いわく、我々にできることに比して創造の力はあまりに巨大なので、宇宙の果ては存在するが、我々はそれを観測できない。これと同じように、地球の始まりが存在しても、我々がそれを知り得ないのは自然なことである、というのである。さらに、ヒューウェルに従い、各生物種を造りだすのは惑星を造る以上の創造の力を必要としたはずで、地質学は天文学以上に神の御業の偉大さを示す学問だと述べた。このように自然神学的な物言いをすることで、彼は地質学を大学のイングランド教会的環境にとって口当たりの良いものにした。しかし一方ではセジウィックに従い、聖書の細々とした記述との整合性を取ろうとするのは馬鹿馬鹿しいとも述べた。
 この後、ライエルは残りの講義を『原理』最終巻の概略を説明するのに使った。まず現在因の原理を説明し、第三紀のヨーロッパを主な例として用いた。ライエルのシチリア島での調査は、フィールドワークが進むにつれ、未発見の“あいだの時代”が見つかっていくだろうことを示唆していた。このことは、岩層や化石の不連続性は、単に不完全な記録や不完全な知識に因るに過ぎないかもしれないことを意味している。化石記録が不連続に出現するのは、生物の変化が全世界的であるのに対し地層の堆積は局所的になされたためでもある。また、侵食は書物の焼失のように堆積物の記録を破壊する。ライエルはあらゆる種類の激変論を痛烈に批判した。
 また、ライエルはキュヴィエの逝去に触れ、彼の業績を称えると同時に、フランスの組織化された科学に対してイギリスの科学は政府の支援が欠けており、衰退しているという意見を述べた。
 デエーの研究が念頭にあるライエルは、第三紀の年代決定に最も適しているのは海棲の軟体動物の化石だという。この講義においてライエルは初めて公の場で、自らの地史の概略を明らかにする。彼は「沖積世」「新鮮新世」「古鮮新世」「中新世」「始新世」の時代区分を用いて第三紀の地史を描いた。化石が現代の世界と近いほど、時間的にも現代に近い時代だということになっており、このような枠組みは大洪水を否定する一方で歴史の連続性を肯定している。ライエルはシチリア島やエトナ山の例を出しつつ、第三紀の地史を詳述した。
 この講義コースはキングス・カレッジ・ロンドンで1833年にもう一度開かれるが、大学の女性禁止の方針などの影響や、内容が目新しさを失ったこともあって受講者は少なかった。一方、平行して行われた王立研究所での講義はより易しいレベルで行われ、多くの受講生を集めた。どちらの講義でも、宗教的な批判は起きなかった。ライエルの講義は、30年前のキュヴィエの講義がそうであったように、ライエル自身の『原理』第三巻の予告編となっていた。『原理』の二巻目までがよく売れていたことでライエルは自信をつけ、この後は収入源も自分の地質学の普及も、専ら本の著述業に頼るようになる。


25.2 大陸での幕間

 1832年の講義コースを終えたライエルは旅に出る。ドイツで結婚し、妻と共にスイス、北イタリア、フランスをめぐる旅程の中で、彼は大陸の学者たち(初めて会う人々も、既に知っている人々も)と交流し、またフィールドワークも行った。


25.3 ライエルの『原理』の最終巻

 ロンドンに戻ってきたライエル夫妻は新居を構えた。ライエルは収入源として『原理』の売上も気にしており、専門家でない一般の人々も読めるようにしておく必要があったため、最終巻には用語解説がつくことになった。
 この最終巻は1833年の春に出版されることになる(二つの並行した講義コースの前)。第二巻の口絵に描かれていたエトナ山の絵は第三巻の内容と関連しており、第三紀の地史と現代の世界との決定的なつながりを担っていた。最初の章からライエルは、激変論者たちを激しく攻撃した。現在因の使用が適切であることを実証するために、最終巻の目標は地史の再構成に絞られた。


25.4 ライエルの地史の方法

 最終巻の序盤は、地質学的出来事の並びを再構成する方法について書かれている。ライエルはここで第三紀に焦点を当て、彼の地質学の試験台としている。
 第三紀の盆地が局所的であるのに対し、第二紀の岩層は広く一体的であることをライエルは次のように説明している。最初、ヨーロッパの全域は海面下に沈んでおり、この時期の堆積物で第二紀の層はできた。その後、ヨーロッパは海面の上に出て、ときどき局所的に海面下に沈んだときに第三紀の層はできたのである。
 この連続的なモデルは次に、漸進的な絶滅と新種の導入の仮説に結び付けられる。海面下に沈んで化石が形成される時期はときどきしかやってこないので、第三紀の連続した地層が異なる動植物層の化石を含んでいることになるのである。ライエルは考古学的なアナロジーを持ち出して、激変は幻覚に過ぎないのだと力説する。
 次の2章分は地質学者たちが相対年代を決定するのに用いる基準に関して書かれている。化石も地層累重の法則も、確実に信頼できる証拠とはならない。しかし、海棲の軟体動物は貝殻の豊富さと保存されやすさ、そして広い分布のために、最も信頼できる化石だといえる。ライエルの方法は、特定の岩層に特徴的な化石に注目するスミス流の方法に異を唱えるものであったといえる。
 こうしてライエル流の地史の方法が示された今、最後に残った課題は第三紀の地史を詳細に再構成することであった。

地質科学における視覚言語の出現 Rudwick, The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840

Martin J. S. Rudwick, “The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840,” History of Science 14 (1976): 149–95.

1 イントロダクション
 絵や図や地図などの視覚的素材は、地質学史において実際の重要性にも関わらず軽視されてきた。このことは、科学史という学問が計算能力や言語能力を重視する教育環境において形成されてきたことと関係しているのだろう。医学史と技術史は視覚的素材を軽視しないという点で例外となっていることも、この説を裏付けている。この論文は、視覚的素材が重要な役割を果たしてきた歴史を論じることで、それらが地質学史において重視されるようになるための一助となることを目指している。
 18世紀の地質学(に相当する分野)では挿絵の使用が非常に少なかったが、1830年代にはこの状況は一変していた。地質学という学問がディシプリンとして確立したのと同じ時期に視覚言語も登場したのである。1800年前後の数十年のあいだに、アクアチント、木版画、鋼板印画、石版画などの技術が大きく発展したことが、地質学にも役割を果たしただろう。
 地図の読み方でさえも実践によって習得しなければならない技術であるように、新しい表現方法は新しい認知方法を要求する。さらに、こういった視覚的コミュニケーション方法の背後には、そのルールや慣習を暗黙のうちに承認している共同体がある。それゆえ、地質学における視覚言語の歴史的発展は、新しい科学の概念が適切に表現されるようになった過程としてだけではなく、地質科学者たちの自己意識的共同体の成長の反映としても研究する価値がある。地質学は多様な種類の視覚表現を含んでおり、科学一般における視覚コミュニケーションの発展を考える上でも有益なケース・スタディとなるだろう。


2 素材と技術
 本や記事の中に出てくる挿絵だけではなく、絵単体で流通したものなど、他にも様々な形態の視覚的素材が存在したことも忘れてはならない。そこで、18世紀の地質学の本や記事における挿絵の不足が、これらによって埋め合わされていたのかどうかという問いを立てることができる。筆者はこの問いに対する答えは否だと考えているが、今のところ推測的である。また、18世紀の「地質学者」たちは19世紀初頭の継承者と同程度の量のスケッチや図を描いていたのだろうか、という問いも立てられる。19世紀初頭の地質学者たちがフィールドスケッチを描く上でなかなかの能力を持っていたことは、当時彼らの社会階級で(特に山の景色や化石などロマンチックな対象の)絵を描くことが流行していたことと関係している。
 18世紀後半に自然史の著作の挿絵に使われたのは主に銅版画だったが、高い費用がかかったので、その使用は著者が最も重要だと考える部分に限られていた。たいていの場合唯一の挿絵は口絵であり、それは著者が本全体の要約になっていると考えるものになっていたのである。しかし、経済的な理由では説明のつかないこともある。たとえばオラス=ベネディクト・ド・ソシュールのVoyages dans les Alpes(1779-96)には挿絵が非常に少ないが、冗長に過ぎる文章を少し削れば出版費用を増やさずに挿絵を増やすことができたはずだ。18世紀末の旅行者ナチュラリストたちは、地形的な現象について視覚的認知を得ているときでも、それを殆ど言葉だけで伝えることを考えていたのではないだろうか。
 銅版画は線画には向いていたが、自然史の標本や地形を描くにはまったく不十分だった。また、ナチュラリストや画家の繊細な認知も、実際に彫刻家が彫るものの中には伝わらなかった。版画は本文とは別に刷られるため、本の最後か製本者の都合の良い場所に挿入されてしまうという問題もあった。19世紀初めに台頭するアクアチントは地形の描写に適していたが、同じ問題を抱えていた。
 それに比べて、石版画の発明は自然史科学にずっと大きな影響をもたらした。石版画は彫刻家を必要とせず、段階的な濃淡などをずっと正確に描くことができた。しかし石版画もすぐには広まらず、科学的な目的で広く使われるようになるのは1820年代になってからであった。ロンドン地質学会の紀要は、旧シリーズの最後の巻(1821)ではすべて彫刻術による挿絵が使われていたが、新シリーズの最初の巻(1824)からは大部分が石版画で刷られるようになり、彫刻術の3分の1の費用で高い品質の挿絵を載せるようになった。しかし、他の地質学研究関係の定期刊行物は依然として専ら彫刻術を使っていた。
 銅版画の銅に代えて鉄を用いる鋼板印画の貢献はこれに比べると小さかったが、彫刻術の利点を活かすことができ、少ない挿絵を安く大量に刷るのには適していた。ライエルの『地質学原理』の口絵も鋼板印画によるものだった。
 この時代の最後の技術革新は木版画の発展であった。木版画はその繊細さでは石版画に劣るものの、小さな線画などに適しており、また普通のゲラに組み込んで本文と同じページに載せることができた。木版画も普及に時間を要したが、これは地質学者たちというより出版者たちの態度の問題であったようだ。『地質学原理』の第1巻(1830)と第3巻(1833)、デ・ラ・ビーチの1831年の著作と1835年の著作を比べると、それぞれ前者に比べて後者で木版画の使用が急増しており、この頃から地質学関係の安めの本で木版画が普及していく。
 非常に重要なことに、はじめての地質学専門の定期刊行物であるロンドン地質学会の紀要は1811年の発行開始当初から、彫刻術の高い費用にも関わらず挿絵を豊富に使っていた。学会の指導的メンバーに視覚的コミュニケーションの重要性を認識していた人物が居たと考えられる。

(copper engraving=銅版画、steel engraving=鋼板印画、lithograph=石版画、wood engraving=木版画、と訳しました。石版画のみ、engravingではない。)


3 地質図
 現代の地質学に慣れた人間は見落としてしまいがちだが、地質図はとても複雑で抽象的で形式化された表現である。地質学史家たちは地質図の重要性を強調する点で正しいが、筆者はそれが視覚言語という側面から研究されるべきことを示したい。歴史に関心のあった古い世代の地質学者たちは、地質図の発明者が誰かという論争に労を費やしたが、筆者はそういった「激変説」的なヒストリオグラフィーを、もっと「斉一説」的なもので置き換えてみたい。
 かつて地図作成法の制約は、複雑で抽象的な地質学的情報のやり取りを大きく阻害していたと言える。たとえば、Carte minéralogique de la France(1780)は街や村や川の流れの情報は詳細に描けているが、地形については外形がケバ線で描かれているのみであり、これは地形を誤解させる描写方法である。この時代の地図の貧弱さは、当時の旅行者ナチュラリストたちの視覚コミュニケーションに対する態度を反映しているのだろう。
 地質図的情報が描かれた初期の地図のすべては、採鉱や実用目的の調査と関係していた。現代の地質図につながる系譜を追うなら、その出発点はAtlas et Description minéralogique de la France(1780)であろう。この地図ではスポット・シンボルを用いて、採石場や鉱床、岩石の露出部など、様々な鉱物が見つかった場所を大量に示している。これは下に横たわる基岩の一様さを示そうとしたものではないが、結果として単なる分布図には留まらなくなっている。シャルパンティエ(Johann Friedrich Wilhelm Charpentier)のMineralogische Geographie der Chursächsischen Lande(1778)はこれと同じ慣例に基づいているとみなされるべきだが、水性塗料でスポット・シンボルの散乱を補足しており、スポット・シンボルのあいだの地域の土壌や植物の下には関連する岩があるはずだという、暗黙の信念があったことを示すものである。
 キュヴィエとブロンニャールのCarte géognostique(1811)はこの慣例が発展したものとして捉えられる。スポット・シンボルは捨て去られ、地図に塗られた色は地下の三次元的構造を暗示的に指し示している。おそらくはこれと独立して、英国のウィリアム・スミスも三次元的構造を二次元の地図に描く巧妙な方法を作っていた(1815)。ロンドン地質学会の創立メンバーの一人であるジョージ・グリーノウが1920年に発表した地図は、経験主義的に過ぎたため概念的には時代遅れになっていたが、スミスの地図と共に他の地質学者たちの原資料となった。しかし、1815年以降の地図のめざましい進歩の中では、スミスではなくキュヴィエやブロンニャールに由来する慣例が使われていた。トーマス・ウェブスターが1814年から発表し始めた地図はキュヴィエの慣例に基づくもので、ウィリアム・コニベアやジョン・マカロックもこれに続いた。こうしてフランス式の慣例が英国でも採用され、地質学の標準的視覚言語として国際的に理解されるようになったのである。
 ニコラス・デマレが描いたオーベルニュの火山岩の地図(1779)は、18世紀の地図の「分布的」な意図を越えている点でユニークであった。この地図作成法上の例外は、デマレのねらい(歴史的に火山活動が相次いできたという証拠を示そうとした)が特異であったことと関係しているのだろう。19世紀初頭には、地質図や地質図断面図が可能にした新しい構造認識的な目標が、今度は因果的時間的説明によって超越されていくことになる。ここに至ってデマレの地図のような、理論的なテーマを持った地図が多く出現することになるのである。


4 地質断面図
 地質断面図も地質図と同じく、率直な観察とはかけ離れた視覚言語であり、それゆえ特定の歴史的環境で構築されなければならなかった。実際、1920年代より前の時代では地質断面図は非常に少ない。科学自体が自己意識的なディシプリンとなった時代にはじめて、地質断面図は地質学の視覚的レパートリーの標準的一部分になったのである。
 初期の断面図は二つの遠く離れた文脈で発見される。地質学的情報を持つ18世紀の断面図の殆どは、鉱物地理学の文脈で出てくる。これらは円柱型の簡単な図で、特定の場所についてのものもあれば、その地域全体の地層の順番を一般化して表現したものもある。しかしこれらはスポット・シンボルにより伝えられる情報を拡張した程度のものに過ぎない。また、初期の横に広がる断面図の殆どは、実際の採鉱の文脈から出てきたものだった。1809年以降には、褶曲や断層などの構造的複雑性を故意に省略した円柱型断面図が登場するが、これは概念的にきわめて大きな意義のある達成である。1830年までにはこういった断面図の潜在能力が認知され、異なる地域の円柱図が並列される図が出てくるに至るが、これは層序学に不可欠な相関図の起源といえる。
 もう一つの文脈は、宇宙起源論の理論を描いた図である。17世紀の例としては、ニコラウス・ステノ、アタナシウス・キルヒャーなどが図を描いている。18世紀になると、経験的な地層断面図と結び付いた宇宙起源論も出てくるようになる。たとえばジョン・ホワイトハーストのOriginal state and formation of the earth(1778)では、各地層が平行になって傾いているという理論的仮定に従い、限られた地表の証拠から推定したダービーシャーの地質断面図が描かれている。ジョン・ファレイの地質断面図もよく似ており、この二人の地質断面図は製図の影響を受けていることが覗える。ウィリアム・スミスのSections(1817-19)は同僚であったファレイとほぼ同じスタイルで描かれている。以上の英国での地質断面図の伝統が示すように、地質学の複雑な現象を解釈する構造的アプローチは、実用的な採鉱や鉱物調査といった社会的文脈において、工学的実務に関わっていた人物によっていち早くなされたことがわかる。
 しかし同様の構造的志向は、異なる文化的背景からも出現した。パリ地域の地質についてのキュヴィエとブロンニャールの業績の中にも、横断型の地質断面図が含まれていた。キュヴィエとブロンニャールの地質断面図の慣例はすぐにロンドン地質学会に採用され、メンバーたちもスミスやファレイの業績ではなく、方法論的に優れたフランスの業績を手本とするようになった。1830年代初頭までに、横断型の地質断面図は地質学の視覚言語の一部としてどこででも確立されるようになった。1830年にデ・ラ・ビーチは、地質断面図を鉛直方向に引き延ばすことの危険を指摘してもいる。
 1830年頃以降、ブロンニャール、バックランド、ライエルなどによって、様々な理論的あるいは「理想的」地質断面図が出版されていく。これらは全て横断型地質断面図の慣例を踏まえていながらも、地殻の「理想的」部分を表現し、異なる岩石間の関係やその時間的・因果的説明を描いていた。
 エリー・ド・ボーモンがRévolution de la surface du globe(1929-30)で使っている地質断面図は、水平方向が地質学的なタイムスケールも表現しており、彼の理論を説明している。地質断面図という表現方法の柔軟性を示す例といえよう。


5 風景画
 18世紀当時の「地質学」分野の本や記事の挿絵は、標本の絵を除くとほとんどが特定の地域の風景を描いたものであったが、これらは少数の例外を除くと粗雑なものであった。ここには、当時の美術的伝統の様式上の限界や、地質学的興味の対象が美術にとって馴染みの薄いものであったことが関係している。
 地形学的視覚言語の伝統の源は、社会的な地位は低い、記録資料的な地形画の伝統にあった。この伝統には、航海に付き従った画家ナチュラリストたちや、貴族の土地や大邸宅を描いたり本を売ったりして稼ぐ地形画家たち、軍の調査や航海図に付属する地形画の描き方を教えていた人々などが属していた。この伝統が地質学に果たした重要性は、19世紀初頭の地質学的業績に載せられた挿絵のいくらかから察することができる。たとえば、地質学的に有益なウィリアム・ダニエルの絵や、ロンドン地質学会の公式製図者となったトーマス・ウェブスターの絵も、当時の航海図を補足していた海岸の崖の風景画と多くの類似点を持っている。
 1820年までに、正確な風景画の地質学的使用はごく普通のことになった。記録資料的地形画の伝統の写実主義的な性格は、ロンドン地質学会の初期のメンバーたちの経験主義的理念に訴えるところがあったようだ。
 しかしどんなに無害な「記録資料的」風景画でも、ある種の理論的内容を内包することは避けられなかった。そして19世紀初頭の地質学的風景画では、それまで暗黙のうちに潜んでいた理論的内容がより明示的に表れはじめた。海岸の崖の風景画は特によく描かれていたが、構造的特徴が強調されるようになり、偶発的な特徴は単純化され、色使いも見たままの色というより、岩の種類に従った慣例的な色が使われるようになっていった。このような形式化が進んだことで、海岸の崖の風景画はときには地質断面図と見分けがつかないようなものにさえなっていた。海岸の崖の風景画は、形式化されていたとはいえ、推測的な外挿を必要とする地質断面図に比べれば直接的観察に近かった。そのため、形式化された海岸の崖の風景画は、横断型地質断面図が受け入れられ、まだ見ぬ実体の妥当な表現として信用されるようになるための概念的橋渡しの役割を果たした。
 このような地質学的地形画の慣例は、崖などを含まない普通の風景画にも拡張されていった。たとえばスクロープは、Memoir on the geology of central France(1827)で慣例的な色使いなどを用い、鮮烈な印象を与える死火山の火口や溶岩流などを描いた。スクロープはさらに地形画の慣例を抽象的で理論的な方向に発展させ、理想化された溶岩流の風景などを描き、言葉による結論を視覚的に補完した。この影響をすぐに受けたライエルは、『地質学原理』の口絵でスクロープの技術を用いている。
 しかし、このような形式化された地質学的風景画はその後あまり用いられなくなった。おそらくは、この頃には幅広い読者が、地質図や地質断面図などのさらに形式化された視覚言語を読めるようになっていたからであろう。


6 結論
 18世紀末から19世紀初頭の「地質学」的著作における挿絵の質的・量的発展は、部分的には経済的・技術的な言葉で説明可能だが、また一方では、自己意識的な新しい科学の発展と平行する、新しい種類の視覚的表現の発展を反映してもいる。宇宙論、鉱物学、自然史、採鉱など、様々な分野の伝統が総合され、知的目標と組織を得た。しかしこの複雑な歴史的過程の本質的要素は視覚言語の形成にあった。
 地質学の視覚的表現は、多様な社会的・認識的な源に由来する。それらは抽象化と形式化の中で発展し、ますます理論的な意味を持つようになっていった。筆者が作った図25は、地質学における視覚言語の相互関係と発展を表現したものだ。
 筆者が分析した視覚的コミュニケーションが言葉の形に還元できるかどうか問うことは不毛で、歴史家は新しい科学としての地質学の登場において視覚言語が決定的な特徴であったことに注意すれば十分だ。その重要性を覆い隠しているのは、科学史の非視覚的な伝統だけなのである。