2013年11月11日

信仰と科学史 Oldroyd, Geohistory Revisited and Expanded

David Oldroyd (2010) Geohistory Revisited and Expanded, Annals of Science, 67:2, 249-259

Rudwick, Worlds Before Adam の書評です。

 ラドウィックは長年に渡って、歴史科学としての地質学の出現を研究してきた。ラドウィックはこれを、コペルニクスやダーウィンの革命に匹敵する重要性をもつ科学革命だと主張している。この革命には、「時間の発見」と歴史的観点からの地球研究の出現が含まれている。1780年から1820年のあいだに、「地球の理論」は廃れ、経験的方法による地球の研究が前面に出た。この変化は、人間の歴史を研究する手法が輸入されたことで手助けされた。筆者もかつて示唆したように、地球の研究は「歴史化」されたのである。

 ラドウィックの2つの本は連続的な議論を提供しており、その内容は「地史学の出現」とでも名付けられるような一冊の大著になるはずである。ラドウィックはこの本でハットン、ド・リュック、スミス、キュヴィエ、バックランドに言及し、前著の糸を拾い上げていく。

 私の以前の心配は再発した。ラドウィックの見方ではハットンの業績は歴史的ではなく理論的であるため、彼は地質学の進歩の物語から除かれてしまっている。ラドウィックの見方では、ハットンの永遠主義は同時代の人々には受容不可能だった。
 スミスは含まれる化石によって地層を区別し関係づける考えを展開したが、彼の関心は構造にあったため、彼は「地球構造学者」の役を割り当てられてしまった。ラドウィックによると、スミスの同時代の人々は彼の仕事を、地球構造学の名のもとに実践されてきたものの変わり種だとみなしたという。この予期せぬ解釈は、しかしもっともらしい。

 ラドウィックはド・リュックの見方においても普通と違っている。ラドウィックのド・リュックに好意的な新しい見方は、彼をノアの洪水以前と以後の2つからなる歴史の見方の代表者とみなすことで達成されている。そして洪水以後では彼は現在主義の立場をとっていると言うが、彼の洪水後の時間の測定は聖書的であるため、疑わしいと筆者は考える。
 ド・リュックは洪水以前については、地殻が仮説的な地下の穴に崩落したなどという信じがたい考えをもっていた。しかもド・リュックは、当時の地質学者にはあまり高く買われていなかったようだ。それゆえ筆者は、ド・リュックが地質学の「歴史化」における重要人物であるとするラドウィックの説明は問題だと考える。

 キュヴィエを地質学史の重要人物であるとすることには何の問題もない。
 スミスもブロンニャールもキュヴィエも、歴史的に解釈できる結果を形成するために経験的情報を集めて作られた生層序学の原則に基づいて地質図を作成した。すなわち、出来事は垂置の原理と調和して年代順に配置される。しかしラドウィックの観点では、キュヴィエとブロンニャールの業績は地史学的観察を含む一方、スミスは地球構造学をしていたという。この違いはどこから来たのか?

 ラドウィックによれば、化石はスミスの層序学に、肉眼岩石学だけでは得られない正確性を与えていた。しかし、堆積した時代の環境に興味を持っていたブロンニャールやキュヴィエは、それ以上のものを化石から得ていたのだという。
 しかしそうだとしても、堆積物の海成/淡水成を示すキュヴィエの断面図を除いて、キュヴィエとブロンニャールのパリ盆地の地図とそこから演繹される構造は、スミス的地球構造学者やキュヴィエ的地史学者からも同じように得られる。だとしたら、違いは操作的な違いではなく、観察者の心の中や、観察者が発見をどう解釈するかという部分にある。

 ラドウィックが作ろうとしている区別は偽のものなのだろうか? 筆者はそうは思わない。キュヴィエは脊椎動物の化石の調査で、「存在条件」に気をつけていた。彼がパリの地層を調べているときに興味を持っていたのも「存在条件」だったのである。単なる構造や配置ではなく、過去のものの在り方について考えていたことは違いを生む。ただ、キュヴィエはそれにもかかわらず「地球構造学的」という言葉を使い続けていたので、「地球構造学的」と「地史学的」のあいだにハッキリした線を引くことには躊躇いがある。

 キュヴィエから先に進んで、ラドウィックは1845年頃までの地質科学の歴史を詳細に説明する。このころまでに、アガシーの氷河時代の理論が「標準的」「模範的」地質科学を困らせていた。ただラドウィックの研究は、英国、フランス、イタリアが主なので、ドイツや他の地域が不当に扱われているという批判は有り得るかもしれない。
 ラドウィックのストーリーは、地質科学が「歴史化」されたあとの数十年間に何があったかを展開していく。1822年には、過去を解釈するために使える現在からの経験的証拠についてのフォン・ホフの論考があり、現在主義の地質科学のための原材料となった。そして話題はライエルの業績の詳細に移っていく。層序学的には若い層の上を流れる溶岩の蓄積によってエトナ山が形成されたことを考えることで、ライエルが地球の年齢の長大さを推し量る議論は根本的であるし、すべての創造論者や若い地球論者はこれを読んで欲しい。

 ラドウィックが呼ぶところの「統計的古生物学」に基づいて、ライエルが打ち立てた第三紀の再分割も根本的に重要だった。分割はデエーのコレクションを用いて、地層の中の現代の種の割合に基づき決められた。パリでライエルが会ったプレボーは、現在因の役割を強調し現在主義を擁護していた。ライエルは現在主義を拡張し、斉一説にした。たとえライエルが過去と現在は本質的に違うとは考えていなかったとしても、彼の仕事は歴史的であったということを、ラドウィックは正しく強調した。ライエルのシステムは非方向的で、地球の起源についての考えは彼が自ら課した権限の向こう側にあった。ライエルは種の起源についてもあまり言うことはできなかった。キュヴィエが仮定した大災害については、地球の一部で堆積が止まっていたと想定することで説明された。それゆえどこの地域でも、層序学的記録には必然的にギャップがあった。

 ライエルの地史学的に安定したシステムは、洗練されたこじつけだと呼ばれ得たかもしれない。ライエルは、方法論的に、現在を過去への鍵として使おうとしたし、実際これを第三紀において「統計学的古生物学」を用いてもっともらしく達成した。第二紀と第三紀の間の大きな古生物学的ギャップは、堆積が途絶えた長い期間によって説明された。第二紀でも第一紀でも、第三紀と同じアプローチが使われた。陸地の上昇や堆積、循環主義、マグマの貫入などの考えはハットンから引き継がれた。

 図1の場合、第一紀の地層が歪められており、ライエルが第三紀で使ったような地史学的調査方法は適さない。ライエルの方法は全ての岩石には適用できないにも関わらず、一般的に適用可能であるように主張されることができた。
 また、ハットンの循環主義はうわべ上ではライエルの地質学と矛盾しなかった。しかし、地球の最古の岩石は適切に判読されなかったため、永遠主義という心配の種は取り除かれた(PrimariesはライエルによってHypogene rocksと書き換えられた)。このことで、斉一説と、それと矛盾するように思われる岩石証拠は和解させられた。

 しかしライエルの斉一説地質学と並行して、フーリエが数学的に議論したような、地球冷却説も存在した。この説はフォン・ブーフの仕事を拡張し、後にエリー・ド・ボーモンが発展させた「地球の理論」を支えた。地球の内部が液体であることと、地球の冷却を信じることで、地球が収縮することで時々しわくちゃになるのだと考えることができた。ある者はこれに基づいて、「何が何を折りたたんだか」を明らかにすることで、地質構造的な層序学も発展させることができた。そこで19世紀前半の地史学は、2つの相補的な形式(生層序学と「構造層序学」)に基づいた。ラドウィックは、18世紀末に歴史化された地球科学が地球の理論から分離したことを描いたが、19世紀前半にはそれら2つが歩み寄ったと見ている。『地質学原理』に表明されているように、ライエルの考えも「地球の理論」を構成していた。

 ラドウィックはアガシーの氷河時代の理論で物語を終えたが、これは適切だった。というのもこの理論は、ライエルら地球の温度の安定性を好む人々にも、フーリエやエリー・ド・ボーモンら地球の冷却を考えている人々にも、深刻な問題をもたらしたからである。地史学はアガシー後の新しい始まりを必要としていた。


 この本の内容を十分に議論するスペースは無いが、たとえば1820~40年の詳細は立派に編まれている。しかし筆者はこの本の結論部分にコメントしたい。この本は地質学への社会的・政治的・宗教的文脈についても考察している。この本のサブタイトル The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform は、その頃の地質学的調査の背景となった、1832年の英国での選挙法改正法の問題も示唆している。かつてラドウィックは地質学者たちの認識様式と彼らの社会的文脈を非常に直接的なやり方で関連づけようとしていたが、後にそのような直接因果的な結合は立証できないと考えるようになった。しかしラドウィックは社会的コンテクストに興味を持ち続けており、この本にもそれが表れている。またラドウィックはウィッグ史観や時代遅れのヒストリオグラフィーの反対者であり、科学者兼歴史家というよりも科学史家になったといえる。

 またこの本の最後で、ラドウィックは自身のキリスト教信仰を認めており、科学と宗教のあいだに対立はないと述べる。そして、コンフリクト命題は無神論原理主義者の論者によって助長された誤謬であるという。このように言うとき、ラドウィックはリチャード・ドーキンスのような人物を想定しているのだろう。ひょっとすると、筆者もラドウィックの視界に入っているのかもしれない。そこで筆者はこの問題について少し述べておきたい。

 この本の主題の一つは、19世紀の地質学者たちは主にキリスト教信者であったため、トップランクの地質学者たちの中では、科学と宗教のあいだに真の対立は無かったというものだ。それだけでなく、新しい地史学的アプローチはユダヤ教・キリスト教の伝統と両立するものであり、このことは地史学研究の登場に「強くポジティブな」役割を果たしたのだという。その伝統は世界を、固有の歴史を持つ、一連の偶然的な出来事の産物と考えることに合ったものであった。そして、その歴史を解き明かす地史学者の仕事は、聖書歴史家のしごとに類似していた、と示唆している。

 しかし、聖書には預言者のことが多く書かれており、新約聖書は旧約聖書の預言が実現されたことを示すものでもある。このことは19世紀の地質学の歴史研究と調和しないように筆者には思われる。また聖書では、人間の過去は予め定められた計画の展開であり、予め決定された未来へわかりやすい方法で向かうように書かれている。それに、キリスト教は現在を過去の鍵として用いないし、むしろ逆である。このような意味で、19世紀の地質科学とキリスト教のあいだには「対立」があったし、それが無かったのは地質学者たちがキリスト教の大部分を無視したからである。さらに思い切って言えば、ラドウィックはド・リュックやバックランドなどのキリスト教信者の役割を大きく扱い、ヴェルナー、ハットン、ラマルクのような理神論者を小さく扱いがちである。

 バックランドについてすこし述べたい。バックランドは、古典や神学や富や力のとりでであるオックスフォード大学に地質学を導入しようとしていた。だから、彼が就任式の講義で、地質学が聖書の伝統に一致することを示そうとしたことは驚くに値しない。彼はそれを示そうとして、ノアの洪水をキュヴィエの「大災害」の最後のものだと特定した。

 またバックランドは、Kirkdale洞窟の骨の様子から、そこに動物がかつて住んでいたのであって、氾濫で洞窟に押し込まれたのではないと考えた。一方で洞窟内の堆積物の層は氾濫を示唆していた。図2で、Aは泥、Bは泥の堆積以前に形成された石筍、CとDとEは泥の堆積以降に形成された石筍である(DとEは同時形成)。しかしバックランドは、氾濫による泥の堆積以降に経過した時間は小さいことを主張しようとして、洪水後の鍾乳石の量が限られていることに言及した。しかし、図2の石筍の厚さを見れば、泥の堆積後に経過した時間はそれ以前よりも長いと考えられる。それゆえ、泥の堆積はかなり昔のことだったはずなのだ。それにもかかわらず、バックランドはこの洞窟調査から、地質学的に最近のことである聖書の洪水を推測する。

 バックランドはキュヴィエの考えを、旧約聖書の人間の歴史を同じくらいに絶対的真理とみなした。キュヴィエもバックランドも、洪水以前の人間の遺物が見つかるとは信じなかった。バックランドはこの問題で決して譲歩せず、いくつもの重要な証拠を軽快に切り捨てた。バックランドは彼の信念に固執し、部分的には宗教的信念とキュヴィエの権威に基づいた。

 言い換えれば、キリスト教信者の地質学者にとって人間の起源は真の問題をもたらしたのである。バックランドはそれを誤魔化したり嘲笑したりした。ライエルは単に人間を、種の起源や絶滅などの一般化の例外とした。ライエルも含めダーウィン以前のほとんどの人物は、人間や知的生命の起源についての自然論的な見方を持っていなかったのである。しかし、科学と宗教の衝突はダーウィンの登場までは真に熟していなかったとは言えるだろう。筆者にもし、時間とエネルギーと資源と、ラドウィックのように2つの本を書く技術があったなら、ド・リュックとバックランドの説明を除けばそう大きく違わないものができただろう。

 ラドウィックはこの本の始めと終わりで「無神論原理主義者」に言及しているが、これは矛盾語法である。無神論者に聖なるテクストなどはない。有神論者も無神論者も宇宙がどのように生まれたかを知らないが、これは信仰によって解ける問題ではない。無神論者は、神が存在する論理的可能性を認めるが、反対する証拠の強さのために、そのような考えに乗らないのである。無神論者を原理主義者というのは間違っている。それに対して、全ての信者は根本的には原理主義者である。そして彼らの多くは、たくさんの時間とエネルギーを彼らの見方を他の人に押しつけることに費やすのである。

 ラドウィックは素晴らしい2冊の本を書いた。しかし大聖堂や美術作品がそうであるように、あまりに多くの科学史の偉大な業績が形而上学的に無意味な基礎の上につくられている。ラドウィックの偉大な本を、我々はその基礎となっている形而上学的コミットメントなしでは持つべきでないということは十分有り得る。しかし、存在の本質について異なった見方を持つ我々がばかにしてあしらわれるのは悲しいことではないか。