2014年12月10日

自然主義的誤謬の歴史を追う Milam, “Introduction” 【Isis, Focus:自然主義的誤謬】

Erika Lorraine Milam, “Introduction,” Isis 105 (2014): 564–568.

Isisの2014年第3号では、自然主義的誤謬をテーマにした特集(Focus)が組まれています。ここでは特集のイントロダクションを紹介します。


 「自然主義的誤謬」という言葉は、G. E. ムーアによって1903年に生み出された。以来、20世紀の学者たちはこの言葉に訴えかけることで自然と道徳の境界線を監視してきた。自然と道徳をそれぞれ完全に独立した領域とみなすことはこうして成功したのである。しかしこのシンプルな言葉は、絡み合う概念(natureとnurture、biologyとculture、bodyとsoul、contingencyとdesignなど)のもつれを様々なやり方でほどこうとしてきた古代ギリシャ以来の歴史を覆い隠してしまう。

 科学史家たちはこれまでに、様々な文化が自然に訴えかけることによって暗黙の社会規範を正当化してきたことを明らかにしてきた。しかし、こういった自然主義的推論に対して警鐘も鳴らされてきたことは、歴史家たちの注目を浴びてこなかった。そこで本特集の各論文は、自然主義的推論に対して疑問が呈された歴史的事例を検証する。これは、自然主義自体の存続について考察する新しい視点を与えるためである。

 現在では「自然主義的誤謬」の一語にまとめられてしまうものを歴史的に追いかけることで、本特集の論文は、そのような自然主義が必然的に誤っているという前提に疑問を投げかける。また本特集は、この言葉自体が様々な政治的立場の人々に用いられてきたことも示している。本特集の論文は、自然主義的誤謬を奇妙で、頑固で、様々な形をもつものとして特徴づけているのである。

2014年11月23日

11月30日の生物学史研究会「進化の総合説再考」と関連文献など

今月30日に、東京大学駒場キャンパスにて生物学史研究会「進化の総合説再考」が開催されます。
http://www.ns.kogakuin.ac.jp/~ft12153/hisbio/meeting_j.htm
この研究会では、来日されるフロリダ大学の科学史家V. B. Smocovitis教授をお招きし講演していただくことになっています。また、その前座として拙いながら自分も研究発表をさせていただけることになりました。もしご参加いただける場合は、以下の登録フォームからご登録いただけると大変助かります。
https://docs.google.com/forms/d/1vkvLLh5xjPPmioLzSfiH5oBbLbVyfy6AktmHVlSA664/viewform?c=0&w=1

Smocovitis教授は進化論史、特に総合説の形成についての歴史研究を専門とされてきました。特に、進化の総合説について画期的なヒストリオグラフィーを提示された著書Unifying Biology(*1)が有名です。このヒストリオグラフィーでは進化論の総合は、「生物学の統合」、すなわち各々のディシプリンがバラバラに存在していた生物諸科学を統一して物理学に匹敵する学問にすることを目指したの動きのなかに位置づけられます。日本語では瀬戸口先生によるUnifying Biologyの紹介(*2)があり、この本の主要な論点が明確に整理されています。

Smocovitis教授は、総合説の形成に大きく貢献した植物学者G. Ledyard Stebbinsをテーマに博士論文を執筆されるなど、進化論の総合と植物学の関係を特に詳細に調査されてきました。植物学における総合説形成の概略については、去年出版されたThe Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thoughtに掲載された記事(*3)でもよくまとめられています。

また日本に関係して、米国の日系人遺伝学者Masuo Kodaniに注目し、戦時下に強制収容された日系人科学者たちが続けていた科学研究について調査された論文(*4)を発表されています。米国が広島に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)に参加したKodaniの活動についても研究されており、The Black Pearl: Masuo Kodani, Genetics in America, and the Japanese American Experienceと題した本を出版される予定のようです。来年1月にもこのテーマに関係する講演をされるようです。
http://www.uh.edu/ethicsinscience/Seminars/Vassiliki-Smocovitis.php

Smocovitis教授は論文の多くをご自身のウェブサイトにPDFで掲載されていますので、それらは以下のアドレスから見ることができます。
http://people.biology.ufl.edu/bsmocovi/Bettys_Website/Welcome.html

(*1)Smocovitis, Vassiliki Betty. Unifying Biology: The Evolutionary Synthesis and Evolutionary Biology. Princeton: Princeton University Press, 1996.
(*2)瀬戸口明久「生物学を統合する――進化の総合説をめぐる新しいヒストリオグラフィー」『生物学史研究』74(2005年)、97–100頁。
(*3)Smocovitis, Vassiliki Betty. “Botany and the Evolutionary Synthesis.” In The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, pp. 313–321. Edited by Michael Ruse. Cambridge: Cambridge University Press, 2013.
(*4)Smocovitis, Vassiliki Betty. “Genetics Behind Barbed Wire: Masuo Kodani, Émigré Geneticists, and Wartime Genetics Research at Manzanar Relocation Center, 1942-1945,” Genetics 187 (2011): 357–366.

2014年11月1日

ヒュー・ミラーにおける科学と詩 O’Connor, The Earth on Show, 第10章(前半)

Ralph O’Connor, The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856 (Chicago: University of Chicago Press, 2007), pp. 391-411.


第10章「ヒュー・ミラーと地質学ジオラマ」(前半)

 ヒュー・ミラーとはいかなる人物か。ミラーは若い頃に様々な職業を経験しており、学校を退学したあと、石工、会計士を経て、スコットランド自由教会と関連していた新聞Witnessの編集者となった。彼は近現代史、民間伝承、古物研究、地質学など過去のことに興味を持っていたが、最大の野望は文学にあった。彼が1829年に出版した詩集はあまり反響を呼ばなかったが、ノンフィクションの分野(歴史、自叙伝、レポタージュ、地誌、宗教・政治に関わる論争、科学的読み物など)で才能を示した。現代では、ノンフィクションを文学とみなさない傾向もあって彼の名は忘れられがちだが、ミラーは当時の英国を代表する文人であった。
 ミラーにとって、風景を人々の目の前に再現するのは文人の務めであった。この目的を果たすため、ミラーはしばしば、「われわれ(ミラーと読者)」がそこに居るかのような、想像上のガイドツアーを描いた。彼の文章は、マンテルやバックランド、ライエルはおろか、同時代の有名作家たちをも凌ぐほど文学的にレベルの高いものであり、中流階級の読書家たちを魅了していた。彼は科学や真実を詩のかたちで表現することに心血を注いでおり、またそのようなアプローチに自覚的であったために、ポピュラーサイエンスの中心的な仕事を成し遂げることができた。


1. 世界の古物の研究家たち

 ミラーの地質学に関する文章で最初のものは、『北スコットランドの景色と伝説』(1835)の第4章であった。この章ではまず、読者はミラーの隣に立って、現在のクロマーティ湾の穏やかな風景を共に観察することになる。ミラーはわれわれに対し、「世界の古物の研究家(antiquaries of the world)」として調査をしようと呼びかける。このような記述によって、ミラーは地質学の崇高さを強調していたのである。
 このあとのミラーの記述は、ディプティク(二つ折りの形になっている絵の形式)のようになっている。クロマーティ湾の同じ場所から見えた光景として、数年前の冬にミラーが目にした寒々しい光景と、太古の時代に熱帯性気候のもとで様々な生物が栄えていた光景が対比されているのである。さらに、この太古の光景が地震や噴火や波や隆起といった、それぞれの要因によって破壊されるさまが描かれる。この光景は、最初に描かれていた現代の明るく穏やかな光景と対比させられる。
 ミラーは自然を描写するのに、人間社会や人工物に関わる比喩表現を用いて意味を吹き込む傾向があった。特にミラーが好んで用いたのは、演劇を想起させる比喩である。たとえば、「幕が上がる」という表現がよく用いられた。実際、ミラーは自然の過去を、連続的な物語というよりも不連続的な場面の集まりとして描いていた。たとえば、『オールド・レッド・サンドストーン』の最後の3章は自然の歴史を描いているが、このような傾向がよく表れている。また、“we are surrounded by …” といった表現はパノラマを想起させる。ミラーは1820年代にエディンバラに建てられたパノラマを訪れて、強い印象を受けていたのである。


2.創造のパノラマ

 1840年代と50年代にミラーは、演出的な技法をさらに発展させていった。バス・ロック(Bass Rock)についての共著(1848年)に書いたエッセイでは、第一紀から現代に至るまでの様々な時代のジオラマを描くことによって、ベースロックの地史を紹介した。ベースロックの輪郭はキャンバスのような役割を果たし、その上に様々な時代の様子が描かれていった。過去に移動したり逆に現代に移動したりする際には、詩が効果的に引用され、新たな場面の「幕を上げる」役割を果たした。霧や暗闇もまた幕の役割を果たしており、場面を転換するのに用いられた。またミラーは、過去の場面でも現在形を用いることで(詩を引用する際にも過去形を現在形に直していた)、読者を過去の世界に引き込んでいた。
 1850年代前半にミラーは、Edinburgh Philosophical Institutionで講義を行っていた。6つの講義の内容が『スコットランドの地質学』で紹介される予定だったが、ミラーが自殺してしまったため、結局は妻Lydiaによって編集された(『ポピュラージオロジーのスケッチブック』)。これらの講義でも、多くのジオラマやパノラマの描写が用いられていた。ミラーは詩を引用する際に大胆な改変を加えることで、地質学的ツアーにふさわしいイメージの詩に仕上げていた。描写されていた古生物学的内容は特別にオリジナルなものではなかったが、迫力ある場面を言葉だけで豊富に描いていた点でミラーは傑出していた。

 当時、詩人のDavid Moirは、地質学が景色から詩的なものを奪っているという批判を展開していた。ミラーは講義のなかでこれに反対し、氷河期初期などの景色を描写した上で聴衆に訴えかけた。このような光景は、十分に詩的なものに満ちているではないかと。ミラーは、近代科学は想像力の活動と反するものではないという。本当に深い知性と想像力を兼ね備えた詩人が現れたならば、その詩人は粘土の層や貝殻の破片のなかに、平凡な詩人が大海原や大空に見出すよりももっと、示唆的で壮大なものを見出すだろうとミラーは述べた。
 その次の講義でもミラーは、科学と詩は対立するというMoirの主張に反対する。ここでミラーが用いるのは、 “spot of time” という詩の手法(回想のなかの回想を辿ることを繰り返す手法)である。この手法によってミラーは自分の回想から出発し、次々と昔の場面に飛び移ってその時々のスコットランドのパノラマを描き、人類と地球の歴史を遡った。このなかでは、人類が登場している時期の場面でも自然の変化が描かれ、また人類が登場しない遠い過去の場面でも人間社会や人工物に関わる比喩が用いられている。ミラーが描いたこのツアーは、科学の世界(地史)と詩の世界(歴史)が連続的につながっていることを感じさせるものであった。
 ミラーによれば、自然は「サイン」によって書かれた銘板のようなものである。それぞれのサインにはそれ自体の重要性があり、読まれたときには心のなかで詩の形になる。そして地質学はこのサインを解読するための鍵なのだという。ポピュラライザーは、このサインがどのようにして詩になるのかを説明するために、自分たちの心のなかで解釈的光景を広げていた。そしてこの想像はしばしば、演劇の形式をとっていたのである。
 自然という銘板を地質学的・演劇的に読むことは、聖書を読むこととよく似ていた。ミラーにとってはどちらも、聖なる歴史と地史、つまり神の意図による神へと向かう進歩の演劇について知ることだったのである。

2014年10月2日

海洋力学と環境問題の接続 Hamblin, "Seeing the Oceans in the Shadow of Bergen Values" 【Isis, Focus:海洋】

Jacob Darwin Hamblin, "Seeing the Oceans in the Shadow of Bergen Values," Isis 105 (2014): 352–363.

 米国の海洋学者レヴェル(Roger Revelle)は、大気中の二酸化炭素の継続的蓄積を示すことになったデータ測定の開始(1957年)に大きな役割を果たしたことで知られている。そこで歴史家たちは環境運動の観点からレヴェルに注目してきたが、骨折りに終わった。というのも、当時のレヴェルは地球環境を守ることに関心を持っていたのではなく、まったく別の問題を追究していたからである。レヴェルらの関心は、海洋力学dynamic oceanographyに基づいていた。海洋力学は、記述海洋学descriptive oceanographyと衝突した学問である。記述海洋学は、データを測定し地図を作って地球物理学的現象の因果関係を解明しようとする。一方、海洋力学はデータ収集を重視するところは同じだが、数学的モデルを構築しようとするところで異なっている。20世紀半ばは、海洋循環の数学的モデルをつくりだした海洋力学が台頭した時代だったのである。

 だが海洋力学は、単に海流の問題を解決する道具だったのではなく、世界中の様々な分野の海洋学者たちに影響した一連の価値観を伴っていたのである。この論考では、これらの価値観を「ベルゲン価値観Bergen values」と呼ぶことにする。というのは、海洋力学者たちは彼ら自身の学問的ルーツがノルウェーのベルゲン地球物理研究所にあると考えていたからである。ベルゲン価値観では、数学的モデルの構築、徹底的なデータ収集、複数のディシプリンの総合、そして予測が重要とされる。

 この論考は、さらなる歴史的研究を必要とするベルゲン価値観の三つの側面に焦点を当てる。第一に、海洋力学者たちは予測のできる科学的問いを立てることを重視し、他の人々の視点を時代遅れだとか非科学的だとして蔑んだが、このような立場の人々の台頭は幅広い海洋学の科学的問いにどのような影響を与えたのか? 第二に、海洋力学者たちが好んだ器具(温度、塩分濃度、潮流の方向、を測定するもの)は海を特定の仕方で解読可能にするものだったが、これは海洋学者たちが海を違った仕方で認識する能力を削ぐものだったのか? 第三に、ベルゲン価値観に基づく研究は莫大なデータを収集し、その多くは科学的問いを解決することに用いられることがないまま蓄積され、しかし今では環境史の研究者たちによって長期にわたる変化を調べるために用いられている。海洋力学者たちの伝統は、考えられていたよりも記述的だったのではないか?


ベルゲン価値観への幅広いリーチ

 海洋力学は単に数学を奨励したのではなく、何が海洋学の名に値するかを再定義していた。このことはたとえば、アメリカ海軍士官で、かつて業績が高く評価されていたモーリィ(Matthew Fontaine Maury)の著しい名声低下によく表れている。記述的測定は海洋学とみなされなくなったのである。海洋学の意味を作り替えようとしていた人々が見習っていたのは、ビヤークネス(Vilhelm Bjerknes)のようなスカンディナヴィアの研究者たちであった。ビヤークネスは、水力学と熱力学を組み合わせて海洋と大気の大規模なシステムに適用していた。また気候学のように、海洋科学に属しながらベルゲン価値観を共有しない学問分野は軽蔑され、海洋力学的アプローチを持ち込む人々が台頭した。
 1950年代までに、欧州と北米の多くの研究所が海洋力学を取り入れ、記述的な仕事を避けるようになっていた。ウッズホール海洋研究所とスクリップス海洋研究所という、米国の二つの主要な海洋研究所も20世紀半ばまでにベルゲン価値観にコミットしていた。ウッズホールは、スカンディナヴィアの研究者たちから影響を受けていた。またスクリップスでは、1936年にビヤークネスの弟子であったスベルドルプ(Harald U. Sverdrup)が所長に就任し、ベルゲン価値観を持ち込んだ。スベルドルプは研究所内での抵抗に遭ったが、所長を継いだレヴェルがベルゲン価値観を引き継いだ。レヴェルが打ち出した遠征は、それ自体海洋循環とは関係がないテーマの場合でも、ベルゲン価値観に深く影響されていた。


海洋を解読可能にする
 科学者たちは、器具や地図や方程式を用いることによって海を「解読可能」にする。海洋学で用いられる器具には様々なものがあったが、海洋力学にとって最も基本的な器具は、深い位置の海水を採取するナンセンボトルと、潮流を測定するエクマン潮流計という、スカンディナヴィアで発明された二つの器具であった。これらの器具によって、温度、塩分濃度、潮流の方向と速度が測定された。
 科学史家にとって難しいのは、これら海洋力学の基本的な測定項目のせいで、科学者たちが海を他の視点で見ることが難しくなっていたかどうかを見極めることである。例として、放射能測定の場合を考えてみよう。1954年にビキニ環礁で行われた水爆実験によって第五福竜丸が被曝したあと、日本の海洋学者たちは太平洋での放射能測定を始めた。人間によって海洋がどれくらい汚染されたかを調べようとしたのである。一方、米国の研究者たちはこれを無意味だとみなした。さらにレヴェルら数人の米国人研究者は、故意に放射能のあるデブリを撒くことで潮流を調べようとした。そのような文脈でしか、放射能を測定することの科学的な意義を見出せなかったのである。
 レヴェルの二酸化炭素の測定もまた、炭素14の測定によって海洋循環を調べようとしたことに端を発していた。レヴェルは時間的な地球の変化ではなく、循環の問題を追究していたのである。しかし結果的に、レヴェルらの論文は地球温暖化という主張に関係することになった。


データ収集は科学ではない
 海洋力学の研究は大量のデータを必要としており、海洋学を以前よりもっと記述的にしたともいえる。米国のストンメル(Henry Stommel)は、1957–58年の国際地球観測年(IGY)のあいだに世界中で行われた研究が、過去の記述海洋学のようであったことに失望したという。多くの科学者は理論を検証するというよりも、ただ単にデータを集めており、また多くのデータで規則的・継続的な収集がされていなかった。
 ソ連の科学者たちはデータ収集を重視しており、特にすぐに印刷できる記述的なデータを好んでいた。ソ連の船には印刷機が積まれていたこともあったという。欧米の科学者たちはこれを嘲っており、IGYではデータセンターに世界中からデータが集められていた。海洋力学者たちはこういったデータが基本的問題を解決するのに不可欠なのだと考えていたが、実際には使われることのないデータが増え続けていた。衛星海洋学が登場してようやく、海洋学者たちはデータ収集の仕事から解き放たれることになった。
 海洋力学の台頭は、かつてなかったほどの大量のデータの蓄積を残した。こういったデータは、環境史家などの研究にとって重要なものとなっている。モデルの構築を追究し、時間的変化を調べるという発想を持たなかった海洋力学が、結果的には時間的変化を研究するための材料を残したのである。

2014年7月27日

神からのサインと気象学 Vermij, “A Science of Signs”

Rienk Vermij, “A Science of Signs. Aristotelian Meteorology in Reformation Germany,” Early Science and Medicine 15 (2010): 648–674.

ヒロ・ヒライ先生の集中講義で担当した論文です。




0. イントロダクション
・ ルターの宗教改革に続く、ヴィッテンベルク大学のカリキュラム改革について。
・ 先行研究:ルターにとって、大学教育を支配してきたアリストテレス哲学は受け入れられないものだった。それゆえルターの神学改革は、自然哲学の総点検と密接に関連しながら進んだ。アリストテレス哲学は、ルター派のメランヒトンが考案した新しい解釈によって、ルターの宗教的原理に適応した。
・ では、ルターはなぜアリストテレスの自然学に反対したのか?
・ 先行研究:① アリストテレス哲学における、「世界は永遠である」「人の霊魂は消滅する」といった主張が、聖書に反していたから
       ② ルターは、道具的目的にかなう範囲では自然的説明を受け入れていたが、哲学は物事の本質について確かな説明をしないと考えていたから
・ どちらも十分な説明とは言い難い。アリストテレスの理論とキリスト教の教義の食い違いはずっと前から知られており、この頃までには一定の解決が見出されていた。しかも、ルターはアリストテレス哲学を、スコラ哲学ほどには拒絶していなかった。先行研究はこのことを説明できない。
・ 核心は別のところにある。16世紀の信心深い思想家は、えてして現代の神学者や哲学者が想像するのとは全く異なった考慮に導かれているものである。
・ それはアリストテレスの『気象論』である。ルターはこの本を、すべてのことが自然的要因で起きるという想定に基づいているという理由であざける記述を複数残している。これらの記述は、彼がなぜ自然学的説明を危険視したのかについての重要な手掛かりである。しかるに、現代の研究者はこれらの記述を無視してきた。
・ ルターが気にしていたのは、抽象的な原理ではなく、神からの「サイン」についての解釈だった。彗星、オーロラ、奇形児の誕生、自然災害、そういったものは当時、宗教的経験の重要な要素であった。これらのサインは、社会や自然の異常や、世界の終わりが近いことを示していると解釈された。そしてルターらの改革派にとって、神は天界からこれらのサインを通して現状のカトリック教会への不同意を表明しているはずだった。
・ この論文では、ヴィッテンベルク大学における自然哲学の改革が、大部分でサインへの関心に基づくものだったことを示す。


1. 気象学
・ アリストテレスは『気象論』のなかで、地球上の様々な現象を蒸気や太陽の影響などで説明していた。そして中世から初期近代の気象学は、つまるところ『気象論』を解釈する学問であった。アリストテレス哲学の受容が進むに伴って、神学者たちは徐々に、世界のすべての出来事を自然的要因で説明できると考えるようになっていった。
・ ルターの時代における気象学の伝統は、超自然的なサインが存在するという信念に直接的に反対するものとなっていた。気象学は、驚くべき現象を否定するのではなく、自然的要因で説明することによって脱神秘化していた。神が世界に積極的に干渉し続けていると信じるルターにとって、アリストテレス気象学は危険な研究分野であった。


2. 驚異の研究
・ 16世紀には、驚異的な出来事に関する記録を集め、昔ながらのパターンに基づいてその意味を解釈することがひとつの研究分野となっていた。
・ 特にルター派にとって、サインを知的な枠組みのなかに位置づけることは重要問題であった。メランヒトンの親友であった文献学者カメラリウスは、過去の彗星とその後の出来事についてのリストを作り、彗星は災害を知らせるものだと解釈した。メランヒトンの娘婿かつ友人であったヴィッテンベルク大学教授のポイツァーは、占いについての本を著した。ポイツァーは、自然に従うふつうの現象と、神や天使や悪魔などの高次の力による現象を区別した。たとえば最終章でポイツァーは、奇形などの逸脱は単なる自然の突然変異であるというアリストテレス流の考えを否定し、より高次の原因があるのだと主張している。また、別の章では流星について、意味をもたないものと、意味をもつ(差し迫った危機を示す)ものを区別している。


3. カリキュラムのなかの気象学
・ ヴィッテンベルク大学での自然哲学のカリキュラム改革において、気象学の改革ははじめから主要な位置を占めていた。
・ はじめのうちは、アリストテレスの本が用いられなくなった。代替としては、詩人ポンターノの詩や、古代ローマのプリニウスの博物誌が用いられた。プリニウスの著作が代替に選ばれたのは、幻影や前触れなど奇跡的出来事を多く登場させており、すべてのことを自然的要因から説明しようとしていなかったからだと考えられる。
・ 16世紀の中頃になると、アリストテレスに新しい解釈を加えることによって、アリストテレスの著作に基づいたカリキュラムを復活させるようになった。メランヒトンが1549年に出版した教科書では気象学はあまり論じられなかったが、その後べつの著者たちによる気象学を中心とした教科書が何冊も出版された。
 ヴィッテンベルク大学のみならず、他のルター派の大学もそれぞれ気象学の教科書を出版していた。これらの教科書は全体構成や議論内容に関して互いによく似ており、また、ポンターノやプリニウスを頻繁に引用するなど、ヴィッテンベルク大学の伝統を引き継いだものであった。
・ これらの教科書はアリストテレスにならっていたが、一方で改革も行っていた。たとえば、アリストテレスの四原因説に関して、かつての『気象論』の解説書は目的因を入れ替えたり隠したりしていたのに対し、新しい教科書では目的因が非常に強調された。目的因はさらに、自然学的なものと神学的なものに分類されることもあった。


4. 神の行為?
・ ルター派の著者たちは、すべての現象が自然的要因から生じるわけではなく、神によって直接的に引き起こされることもあることを強調した。また、どの現象が自然的で、どの現象がそうでないかを論じた。
・ ルター派の教科書は、自然的要因では説明できない現象が観察されているということを強調し、神によるサインとして解釈した。たとえば、空に何らかのイメージがあらわれるという現象である。このような現象は、かつての気象学の解説書で扱われていなかったため、ルター派の著者たちが自由に解釈することができた。
・ それでも、ルター派の著者たちはスコラ学の伝統のなかにあり、過去に自然的な説明をした学者がいる場合にはそれを無視することはできなかった。たとえば、カエルや魚などの雨が降ってくるという現象では、自然的な説明が既に論じられてきていた。そこでルター派の著者たちは、自然的な説明と、神の意図による説明を併記することになった。


5. 結論
・ Leppinは、天界からのサインについて議論したルター派の人々は二つのグループに分かれることを示唆している。片方は自然的な説明を行い、神を自然から閉め出す哲学的・人文主義的な著者たちで、もう片方は、神が自然に干渉するのだと考える聖書重視の著者たちであるという。Leppinによれば、この状況は「世界観の競争」であった。
・ しかしこのような区別は擁護できない。二つの立場による矛盾は、著者たちのあいだというよりも、それぞれの著作のなか(あるいは著者個人の心のなか)にあった。
・ ヴィッテンベルク大学における自然哲学の改革は、自然主義的な哲学を反自然主義的な原理と調和させようとする試みであった。この難しい調和の試みでは、異種の出典や議論を都合よく取り集める、ごちゃまぜに近い手法が用いられており、議論の全体を首尾一貫させるには至らなかった。

2014年4月24日

伝記:エドガー・アンダーソン Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969)”

G. Ledyard Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969),” Biographical Memoirs of the National Academy of Sciences 49 (1978): 3–23.

 アンダーソンは20世紀の植物科学に消えることのない印象を残した。集団における変異を記録する彼の手法は広く普及した。また、ボストンのハーバード大学アーノルド植物園およびセントルイスのミズーリ植物園のスタッフとして、植物を愛する様々な人々や庭師たちとの交流をもった。
 ニューヨークに生まれ、ミシガンで育ったアンダーソンは16歳でミシガン農科大学に入学し、園芸学を専攻した。1919年にはボストンに向かい、ハーバード大学のバッセイ研究所の大学院生としてエドワード・イーストの下で働いた。アンダーソンはタバコの自家不和合性についての遺伝学を研究する一方で、田舎を歩いて野生の植物についても学んでいた。植物学者のDorothy Mooreと出会い、1923年に結婚した。
 1922年に博士号を取得してハーバード大学を離れ、9年間をミズーリ植物園で過ごした。このあいだに、植物集団の変異を見て記録する独創的で効果的な手法を開発していた。またこの時期に、植物の属の複雑性と変異の大きさを意識するようになっていた。Iris versicolorについての研究で、この種が実際は2つの種から成り立っていることを発見し、片方がもう片方から進化してきた過程を分析しようとした。しかしどちらの種の中にも、もう片方の種に進化したと想像できる集団は見出だせなかった。そこでアンダーソンは片方の種がまったく別の種から、不稔で安定した何世代にも渡って同じ特徴を示す複二倍体を生み出す染色体倍加に続く雑種形成によって進化したのだと結論づけた。これは、植物の種が染色体倍加に続く(あるいは伴う)雑種形成によって進化できるのだということを示した最初の実証の一つだった。
 別に調査していたAster anomalusはまったく異なる変異パターンを示しており、単一集団の中に種全体と同じほどの豊富な変異を保持していた。アンダーソンは実験によってこれらの変異の大部分が表現型の変化によるものであることを示したが、繁殖特性は豊富な遺伝子型変異を示し、しかも遺伝子型変異のわりには表現型変異が少なかった。さらに個体はヘテロ接合性が高く、自然受粉によるその子孫は種全体と同程度の幅の変異を示した。アンダーソンは自然集団における遺伝的変異の研究の先駆者であったといえる。
 1929年から30年にかけて、特別研究員としてイングランドに向かい、主にホールデンに指導されつつ、ダーリントンの下で細胞学を、フィッシャーとともに統計学を学んだ。ホールデンに紹介されたPrimula sinensisの変異体について、Dorothea De Wintonと共に分析した。
 1931年から35年までは、アーノルド植物園の樹木管理士としてハーバードに留まった。この時期、Karl Saxと共同で多くの重要な研究を行った。Saxはアンダーソンに、種の起源における染色体変異の重要性を気付かせていた。TradescentiaについてのSaxとの共同研究は、アンダーソンの2つの最大の貢献、すなわち遺伝子移入の概念と、 “hybridization of the habitat” の概念に導いた。
 1935年にミズーリ植物園に戻ってからは、以降の人生をそこで過ごした。Tradescentiaの研究では、環境の物理的条件に関して集団の変異パターンを記録し、また2つの異なる種の同所的出現を記録した。異なる生体適応をもっている2つの種が中間的生息地なしに近くで成長するときはいつでも、2つの種ははっきりと隔たっている。しかし、もし中間的生息地があれば、しばしば見かけ上の雑種に占領される。もし中間的生息地が、元の2つの種のどちらかの生息地に特徴的なものに次第に変化すれば、見かけ上の戻し交配した植物が見つかる。さらに、部分的に異所性の種の場合、種Aの変異パターンは、それ自体が育った地域より、種Bと重なった地域において大きい。アンダーソンはこの現象を「移入をきたす雑種形成」と呼んだ。
 Irisの研究に戻って、アンダーソンはミシシッピ川デルタ地帯の集団の複雑な変異パターンを分析した。ここでアンダーソンは、種間雑種は人間の活動で撹乱された生息地、特に元の種の物理的特徴の組合せが見られる場所において最も豊富であることを見出した。これらの新しい生息地を、 “hybridized habitats” と名付けた。
 この研究は、アンダーソンの最も重要で広く引用された著作『移入をきたす雑種形成』の出版、および同じテーマでの論文一報につながった。さらに、1954年にステビンズと共に「進化の刺激としての雑種形成」という論文を発表した。
 1939年、Paul MangelsdorfとRobert G. Reevesが発表したトウモロコシの起源に関する論文に刺激され、アンダーソンはトウモロコシの研究に踏み出す。この研究の中で散布図を用いる手法を洗練させており(pictorialized scatter diagram)、それは雑種の大群を分析する際に大いに有用なものだった。トウモロコシへの関心から、地理学者、人類学者、考古学者らと関わるようになり、分野横断的な研究も行った。こういった経験は1952年の『植物、人間、生命』の出版につながった。
1954年にミズーリ植物園の管理者となるが、仕事の多さのために1957年に辞職して教育と研究に戻った。しかし1960年代のあいだは病気に冒され、あまり創造的な仕事はできなかった。1969年に亡くなり、1972年のミズーリ植物園年代記で彼の特集が組まれた。またアンダーソンは1954年に、米国科学アカデミーに選ばれていた。
 アンダーソンは現代の植物科学において、創造的で実りある考えを生み出す能力をもった人物であったが、ときどきばかげた仮説を発表してしまう失策もあった。彼は謙虚な人柄であり、若いうちにクエーカーの会員となった、生涯にわたって信仰心の厚い人物でもあった。野心的で攻撃的な一面もあり、知性的に劣っているとみなした科学者を蔑むこともあった一方で、知性と野心のある若い科学者には温かい人物であった。

2014年4月21日

熱帯農業科学を築いた者たち Prieto, “Islands of Knowledge” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】

Leida Fernandez Prieto, “Islands of Knowledge: Science and Agriculture in the History of Latin America and the Caribbean,” Isis 104 (2013): 788–797.


 熱帯農産物の生産と輸出が活発化していた19世紀から20世紀前半における、ラテンアメリカおよびカリブ海の農業科学についての論考です。筆者によれば、これらの地域における農業科学の歴史は、「帝国主義」や「植民地科学」といった観点から、専ら「中心と周辺」のヒストリオグラフィーで研究されてきました。しかしこのような文脈の研究では、それぞれの土地において知識生産に携わっていた多様な主体(たとえばその土地の農業経営者、奴隷、エリート層、外来の学者など)が果たした役割や、それらの地域間のネットワークにおける様々な交換の重要性が見過ごされてきたと筆者はいいます。
 そこでこの論考では、「商品史」「生物交換の研究」「知識交換の研究」という三つの研究分野が紹介されます。これらの研究を概観すると、それぞれの地域で多様な主体が科学的手順を創造し、採用し、適用していたこと、それらの地域間で重要な交換が様々になされていたこと、そしてこうした過程によって熱帯農業科学が形作られ普及していたことが明らかになります。筆者の比喩によれば、それらの諸地域は「知識の島々」だったのであり、島々のネットワークは「科学知識のグローバル諸島」を構成していたのです。このようにして、科学知識にたくさんの多様な中心的場所があって相互作用していたことを認識することで、われわれは「中心と周辺」のヒエラルキーを解体し、新しいヒストリオグラフィーへと進むことができるのです。
(以上2段落は 4/24 に追記しました。)


【1】
 ラテンアメリカとカリブ海における科学と農業の接続は、帝国の拡大の文脈と、リベラルな国民国家の強固化の文脈で近年研究されてきた。これは、それら地域の輸出農産物(コーヒー、カカオ、ゴム、砂糖など)を、ヨーロッパの拡大と世界システムとしての資本主義の発展の鍵として捉えてきたためである。このような「中心と周辺」のヒストリオグラフィーにおける「植民地科学」や「帝国科学」といった術語を越えていくため、この論考では、「中心と周辺(帝国と植民地)」の境界を越える科学的・農学的知識を生み出し普及させた過程に、ラテンアメリカとカリブ海がどのように参加したかを調査する。
 生産をする全ての地域は、「知識の島」として作用してきた。それぞれの島は、「伝統的」な実践と「近代的」な実践が合流する科学的手順を創造し、採用し、適用してきた。これらの島々のあいだの接続の多様性のおかげで、「科学知識のグローバル諸島」と呼べるものが構成されていた。そして、熱帯地方の特産物の生産と貿易が拡張していた19~20世紀は、これらの接続が拡張・深化した時代であり、新しい科学的・農学的知識の導入と採用が必要とされた時代であった。
 この論考では特に、商品史、生物交換の研究、知識交換の研究という3つの分野を扱う。これらの方法論は、有用な分析枠組みを提供してくれるのである。

【2】商品史
 商品史は熱帯地方の農業生産物を、社会経済的・政治的・文化的プロセスにおける主要因とみなし、商品の生産から販売までに生まれる複雑な社会文化的関係を特権化する。そのために、ラテンアメリカとカリブ海の地域は農学的・工業的な知識の単純な受け取り役ではないという考え方が強調される。特に有用なのは「帝国の商品」という題目のもとに集められた研究で、植民地世界でのローカルなプロセスと、その世界経済の発展への影響を分析している。
 たとえば、19世紀中頃のキューバで、砂糖の生産を近代化するために土地所有者に雇われた工学者や専門家たちのグループが商品史で注目されている。これらの人々の多くは、地元の土地所有者たちの要請によって英国や米国、フランスから渡ってきた人々で、蒸気機関を設置し管理する知識や経験を持ち込んだ。しかし彼らの知識は直線的に普及したわけではなく、それは砂糖生産の管理者や奴隷をはじめとした地元の多様なアクターとの複雑な相互作用による、学習と交渉のプロセスであった。それらの主体がみな、工業的知識に貢献したことで、キューバは世界最大の砂糖生産地となれたのである。
 他にも、アメリカ出身の農学者がキューバで育種技術を導入したり、熱帯作物の疫病研究を実施したりした際に、現地の植物学者や農学者の経験や専門的知識が土台になっていたことは、科学者も知識の伝播をする主体となりえたことを示している。オランダの植民地であったジャワ島の砂糖生産者がキューバで発展した栽培システムを取り入れていたことは、グローバルなレベルで農学的知識の拡散があったことを示している。
 一般的に商品史は、社会的関係を生態学的関係以上に特権化するが、ラテンアメリカで農産物の輸出が増大していた時期の農業システムの同質化は、森林破壊や土壌の疲弊といった結果を招いていた。この問題に対して、ラテンアメリカやカリブ海の当局や地元のエリート層、農家、企業などの人々は新しい科学を必要とし、実験をしたり組織をつくったりしていた。科学者だけではなく、こういった地元の人々も環境変化に対応し科学の適用をしていたのである。

【3】生物交換
 生物交換の研究は、帝国や植民地のあいだで植物や動物、病原菌などがどのように移動したかを強調してきた。特に、生態系の同質化や再構成が微生物の広まりに適した環境条件を生み出した道筋に焦点が当てられてきた。そして農業病害虫の抑制と撲滅の必要性のために、国境を超えてグローバルな農学的知識に到達するローカルな知識が生み出された。より一般的に言えば、カリブ海は「長い19世紀」に「“新”コロンブス交換」を経験していた。
 種々の生態学的環境において農産物の生産システムが増大すると、「商品病」が蔓延るようになる。商品病は、政府や地元のエリート層による自由主義の開発戦略の結果としてラテンアメリカとカリブ海じゅうに現れた(このことを「自由主義の疫病」という)。そして発生した病気はそれ自体、新しい知識の生産と普及を招来した。たとえば、19世紀中頃にキューバとジャマイカのココナッツプランテーションで発生した病気はすぐにカリブ海じゅうで蔓延し、キューバ人、スペイン人、アメリカ人など様々な立場の人々によって研究されることになった。
 温帯から熱帯(あるいはその逆)には広がらない知識があるということも、これらの病気の事例から明らかになる。ヨーロッパで開発された、作物の疫病に対抗するためのモデルは熱帯には適さず、ナチュラリストたちは現地で手段を開発しなければならなかった。その一方で、熱帯に属する地域どうしでは知識を共有することができた。
 また、人間の開発によって地球上の様々な地域のあいだで作物の病気が移っていく一方で、それぞれの地域において病気に対抗するための研究がなされた。このような歴史に焦点を当てることで、地球上に農学的知識を生み出す中心的場所が多く存在したことを明らかにできる。
 生物交換の研究はそのほかに、作物とともに伝達した知識に幅広い層の主体が関与していたことも示している。たとえば、奴隷たちがアフリカの伝統的実践を新世界で実践したことで植物学的知識を伝達したことはその一例である。

【4】知識交換
  農学的知識の生産と普及の研究は、ラテンアメリカやカリブ海をグローバル・ヒストリーの議論の中に位置づけるのに用いることができる。そこで浮かび上がってくるのは、ラテンアメリカやカリブ海の「知識の島々」としての姿である。かつての歴史研究の多くはGeorge Basallaの伝播主義を前提としたものであったが、近年の歴史研究はこのパラダイムを突き崩し始めている。
 20世紀初頭には熱帯の諸地域においてサトウキビの疫病が広まり、その疫病に対して抵抗力の強い改良品種が開発され諸地域に普及した。この事例研究のような、疫病と品種改良に関する歴史研究からは、ジャワ島、バルバドス島、サンタクルーズ諸島などを含む各地域が「知識の島々」として機能したことが理解できる。当時、品種改良等の研究は熱帯の各地域でなされており、得られた知識は世界中に広がるネットワークによって伝達されていた。
 現在までの歴史研究では、土着の伝統的な知識が科学に貢献したことは注目されてきたが、土着でない人々によって生み出された知識は注目されてこなかった。ラテンアメリカやカリブ海において、外から移り住んだ人々が生み出した知識に関する研究の重要性が、まだ十分認知されていない。
 ラテンアメリカの科学史の研究は、権力や政治の問題、農業の組織化の問題などを、「科学と帝国主義」「植民地科学と国家科学」といった観点から研究することに集中してきた。そしてその文脈では、特に米国やロックフェラー財団の果たした役割が注目されてきた。今後の研究では、もっと他の様々な主体による組織化が注目されなければならない。ラテンアメリカとカリブ海の農業科学の歴史は、単なる植民地主義と帝国主義の歴史ではないのである。

【5】
 農学的な実践はすぐに広まり各地で採用されていくため、その実践の起源がどこにあったのかをよくわからなくさせてしまう。しかし我々は、知識には複数の多様な中心的場所が存在して相互作用していたことを認識し、「中心と周辺」のヒエラルキーを解体することができる。

科学史のグローバルターン McCook, “Introduction” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】

Stuart McCook, “Introduction,” Isis 104 (2013): 773–776.


 この特集の4つの論考は、近年の科学史におけるグローバルヒストリーの台頭(グローバルターン)が与える影響を、ラテンアメリカの科学の4つの分野について検討するものである。どの論考も、19世紀半ばから20世紀半ばまであたりの時代を扱っている。

 ラテンアメリカは、グローバルヒストリーがどのように国史や地域史を豊かにできるかを探究するための実験室、モデルを提供できる。1500年以降、ラテンアメリカでは人口が激減し、また大量の移民が流入した。そのため19世紀中頃までには、「西洋/非西洋」「植民地開拓者/植民地開拓された側の者」「中心/周辺」などといった二項対立の概念は単純には適用できなくなっている。歴史家はしばしばlocal knowledgeとindigenous knowledgeを同一視するが、ラテンアメリカにおいてはindigenous knowledgeはlocal knowledgeの一種に過ぎないのであり、「クレオール科学」という概念はこの複雑性をよく捉えている。つまり、科学知識は多様なたくさんの層の人々によって共同でつくられたのである。

 従来、ラテンアメリカの歴史家は国民国家を分析の要とし、グローバルは遠景としてしか扱わなかった。また古い世代のグローバルヒストリアンは、ラテンアメリカに歴史上の周辺的地位しか与えてこなかった。より近年のグローバルヒストリーは「中心と周辺」を括弧付きで許容している。グローバルな科学的知識は、中心から最も遠い「周辺」で生み出されることも有りえるのである。

 ラテンアメリカの諸国は、他の地域の国々と比べて比較的早く独立することになったが、国民国家を築く過程で科学を必要とした。一方、エリート層は超国家的な科学のネットワークに国を参加させようとした。Duarteの論考は、国家のための科学と超国家的な科学のあいだの緊張関係を描いている。
 当時、南の国々は“新”コロンビア交換などの似通った様式のグローバル化を経験したため、似通った問題を共有していた。Prietoの論考で扱われている、異なる地域の砂糖生産者たちが様々な交換をしていた事例などはその一例である。
 新しいグローバルヒストリーは、グローバル化を称賛したり、権力の不公平の問題を覆い隠してしまったりする可能性がある。この問題に関して、Rodriguezの論考で “smart centering of Latin America” と呼ばれている議論が求められる。
 ラテンアメリカの科学者たちはしばしば、知識生産における地元の非科学者たちの果たした役割を黙殺してきたし、同様に外国の科学者たちはラテンアメリカの科学者たちの役割を黙殺してきた。これらの沈黙は何を意味するだろうか。すべての科学知識は究極的にクレオールである、という可能性がこの問題から考えられる。
 DuarteやEspinosaの論考では、 “following” という方法論が描かれている。これは何かが世界を動きまわるのを追いかけて、そのときに何が起こっているのかを分析するという手法である。この手法によって、知識の生産や伝達をする主体が何なのかを明らかにすることができ、また権力の問題にも接近できると考えられる。

 これらの新しいアプローチはどれも、構造分析を単純にしたり明快にしたりしない。しかし単純なモデルや物語がないからといって、我々は置き去りにされてしまうわけではない。グローバルターンは我々を導く問題や方法論を提供してくれているのである。

2014年4月11日

ライエルの文章、地質学者の「自由」 O’Connor, The Earth on Show, Ch. 4

Ralph O’Connor, The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856 (Chicago: University of Chicago Press, 2007), 163-187.


第4章 ライエル介入する


 ライエルは、英国の科学に新しい概念(地球が非常に古いことなど)や新しい手法(現在因の過去への適用など)を持ち込んだことで今でも評価されている。しかし、これらの概念や手法は当時、多くの実践地質学者たちのあいだで暗黙のうちに用いられていた平凡なものなのであって、ライエルの本当の偉大さは莫大な科学的データを優雅で修辞法的に説得力のある文章で展開したことにこそある


1. 取り戻された黙示録

 人々の創世記への固執は、ライエルにとって科学のために取り除くべき障害であった。地質学における聖書の影響力は直解主義者たちの著述によって大きくなっており、ライエルは聖書と地質学的推論とのあいだの全ての接続(バックランドやコニベアの妥協的理論を含む)を否定する必要を感じていた。「クォータリー・レビュー」においてライエルは直解主義者たちを戯画化し、彼らの教条主義と、彼らによる地質学の侵害を強調した。また、直解主義者たちの説は哲学的情報が普及している国では支持されていない、などとする効果的な文句を法律家的な修辞法で書き立てた。ライエルは広い知識人層を自分の側に取り込もうとしていたのである。

 ライエルは、ニュートン力学的な不変の法則を地質学に取り入れようとしていた。のちにヒューウェルが「斉一説論者」「激変説論者」という呼び名を付けたせいで誤解されがちだが、ライエルの「激変説論者」との対立は宇宙論的というより方法論的なものである。

 しかし、ライエルの方法論は地球の歴史が極めて長いことを要求しており、ラドウィックが強調したように、「変わる必要があったのは彼らの科学的想像力だった」。地球の歴史は現在因で十分に説明できることを示すために、ライエルは現代の火山や激流の激しさを巧みに描いたり、第三紀の湖の穏やかな様子を描写した後にそれが火山活動によって破壊される様を黙示録的に描いたりした。また、古典的文化の保守的守護者であるウェルギリウスに付き従って地下世界を見たダンテ(どちらもダンテ『神曲』の登場人物)の話をしたり、「謎」「秘密」といった言葉を頻繁に使ったり、地質学者を時間を超越した知的支配をする超人間的な存在として描いたり、視覚に関わる言葉をたくさん使ったりすることで、ライエルは読者の想像力に強く訴えかけていた

 それでも、この「クォータリー・レビュー」の時代はまだ、直解主義者たちの側に勢いがあったのである。


2. 地質学原理

 1830年に出版された『地質学原理』第1巻は、保守的な直解主義と革新的な転成主義を非哲学的であるとして排除し、地球史を語ることについての地質学者の権威を宣言することで、地質学を科学の地位に押し上げた


 地球の活動は今も活発であるということを強調するライエルは、人類の記録に残っている数々の地震や噴火、洪水などを、自らの経験も踏まえて一つずつ克明に描写した。ライエルはこれらの現象を壮大に描くことで、読者の大災害に対する欲求を満たし、激変説の支配力を弱めようとしていた。そしてこれらの世界中で起きた現象の数々を読み進めるうちに、読者の視点は全地球的レベルになり、歴史の流れを見下ろせるようになる。こうして地球を「変化の劇場」と思えるようになった読者は、個々の現象の蓄積に、世界を変える力を「感じる」ようになるのである。

 このような視点の移行を可能にした方法は、バイロンから借用された。クライマックスとなる章は、バイロンの詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』からの引用で締め括られるが、この詩にはライエルと共通する俯瞰的な見方が含まれている。バイロンの詩のイメージは、個々の歴史的具体例から時の流れへと向かう想像力をライエルの読者に理解させる手助けをしていた。

 しかし、バイロンの詩が大洋の永遠性を人間の儚さと対比する哀愁を含んでいたのに対し、ライエルの文章は知的支配の喜びに満ちた調子になっている。ライエルの思考実験(イタリア半島を沈めたり、北極海に陸地を出現させたりする)は徐々に過激になり、そこでのライエルの叙述は仮定法から命令法に移っていった。ライエルは俯瞰する視点で仮想世界を次々に展開させていき、その文章は詩のようになっている(声に出して読み上げてみればその詩的な美しさがわかるだろう)。そしてその最後でライエルは、気候が暖かくなったらイグアノドンなどの昔の生物が出てくるかもしれない、という想像を書いた。これは、下等な生物から高等な生物へと進む方向主義的な創造の歴史という考え方に反対して述べたのだったが、ライエルはこのとき、詩的な想像を巡らせる文章の調子で反直観的な仮説を書いてしまったのだった。

 このせいで、ライエルはデ・ラ・ビーチの風刺画によって反撃を受けることになる。その風刺画にはバイロンのある詩の一節が記されており、このことはデ・ラ・ビーチが、ライエルの推論はロマンチックな想像力が過熱したものに過ぎないのではないかと考えていたことを示唆する。


 「クォータリー・レビュー」の黙示録的な記述は、『地質学原理』では思考実験に入れ替えられている。ライエルは『地質学原理』のなかで、現代の世界や仮想世界については生き生きと描写しておきながら、なぜ古代の地球については同様の描写をしなかったのだろうか。それは、ライエルにとって地質学的推論の認識論的な力は、昔の世界を描くよりも、むしろ神の代わりとなって世界をつくってみせることで伝えられるものだったからかもしれない。

 その力のショーは結局、地質学者の「自由」を強化することになる。地質学者の「自由」が神から与えられたものであるのは、ライエルの記述においては重要なことだった。パノラマ的な視点は地質学者を創世記から解放し、断片的に散りばめられた物語を再構成することを可能にするものだった。ライエルは『地質学原理』において、キュヴィエのいう「新しい秩序の古物収集家」としての地質学者の地位を強調していた。そしてライエルは『地質学原理』を、地質学者たちが地球を解読する仕事のための土台とみなしていた。ライエルは科学的知識を民主化したのではなく、新しい種類の科学的専門家を定義し推進したのであるそして地質学者の権威を宣伝することで、ライエルは新しい科学のための新しい大衆をつくり、大衆教育についての新しい考えを強化していた


3. ライエルの大衆

 『地質学原理』の初版は「クォータリー・レビュー」と同様、保守的で裕福な層をメインターゲットにして書かれたものだったが、ライエルは正しい自然の知識が下流階級の人々にも普及されるべきだと考えていた。そこで1834年に第3版として安い『地質学原理』が出版され、よく売れた。

 ライエルの『地質学原理』に対する反応は、好意的なものが多かった。もちろん反対意見も相次いだが、ライエルが科学における哲学的議論の地位を変え、地質学において歴史的解釈と積極的想像力を復権させたことは一般的に認められていた。また、ライエルは新しい地質学の文化的権威と独立性を宣言したことでも重要な役割を果たしており、大衆は地質学者たちを壮大な航海に誘ってくれる信頼に値する人々とみなすようになっていた。1830年以降、地質学に関する通俗書が次々と出版された。バックランドはその代表的な著者の一人である。

 地質学の大衆化の開花は、ライエルやバックランドの貢献をはじめ、出版産業の変化、層序学の専門家の需要の増大、ウィッグ党の教育理論、大学改革など、様々な要因が重なったことで発生した。ともかく、ここに地球史の著述の黄金時代が幕を開けたのである。

2014年4月8日

科学リテラシーの再定義 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Epilogue

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 229–238.


 この本の主目的は、一般的な考えでの科学リテラシーは一般教育の目標として実現できないということ、そして科学教育を大部分の生徒にとって意義あるものにするにはこの目標が再定義されなければならないということを示すことであった。従来の科学リテラシーは科学知識の獲得に焦点を当ててきたが、以下のような本当に必要とされている事柄に焦点が当て直されるべきである。
(a) 科学やテクノロジーの事業がどのように働くかについての意識をもつこと。
(b) 大衆に、科学とは何であるかについて知ってもらい満足してもらうこと。
(c) 大衆に、科学から何が予期されうるのか理解してもらうこと。
(d) 科学やテクノロジーの事業に関して、どうしたら大衆の意見によく耳が傾けられるか知ること。
 また、テクノロジーは一般教育において、科学の派生物としてではなく、科学教育の出発点として捉えられるべきである。

 従来、楽観的な教育者たちは科学教育が目標を達成できていないことを認めつつも、カリキュラムを改善することでその目標は達成できるとみなしてきた。しかしカリキュラムの改革だけでは解決にならない。一般教育の目標それ自体と、その目標を達成するための方法の両方を変えることが必要になっている。

 そのために連邦政府にできることはなんだろうか? それは教育調査であり、学校に対する資金援助であり、教育の実験プログラムを認めることである。


 教育を改善する一つの方法は公立学校の私立化だろう。アメリカの私立学校は全体の人数の1~2割程度であるものの、公立学校より少ない資金で高いレベルの教育をしている。私立学校は、公立学校で存在する問題に直面していないことで有利になっている面もあるが、機会を与えられさえすれば公立学校よりうまくやるように思える。私立化には課題はあるが、いずれも克服できない課題とはいえないだろう。

 ところで、他の先進工業国と同様に、アメリカの科学は男性中心で進んできた。この状況は近年では多少改善されてきており、学士号取得者に占める女性の割合は、生命科学で約半分(15年前は30%だった)、数学で46%、化学やコンピュータ科学で37%となっている。一方、物理学や工学では15%に留まっている。女性が物理学や工学の進路を避ける傾向があるのは、数学的な事柄を扱うことに対して気が進まないからというよりも、自己像や、それらの分野に進むことで得られるキャリアについての受容の問題であろう。


 アメリカで科学が一般教育に取り込まれて以来、「大衆のための科学」という高尚なテーマを主張することが繰り返され、それは今では「科学リテラシー」を求める声となっている。また、スペンサー、ハクスリー、ポアンカレ、デューイ、Bronowski、スノーといった人々は、誰もが科学に熟達すべきなのだと主張してきた。しかし歴史は、そのような目標の達成が不可能であることを示しており、我々はこの歴史から学ばなければならない。我々は「科学はなぜ全ての生徒に要求されるべきなのか」と「その科学とは何から成り立っているのか」を真剣に問わなければならないのである。

2014年3月28日

マイアとアンダーソン、1941年の動物と植物の進化論 Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist”

Kim Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist: Edgar Anderson Prepares the 1941 Jesup Lectures with Ernst Mayr,” Journal of the History of Biology 46 (2012): 73–101.


 1941年にマイアとアンダーソンは、それぞれ動物分野と植物分野の立場を代表して共同でコロンビア大学のジェサップ講義を行った。この論文は、このときの二人の文通を調査し、彼らの視点を理解することでこの時期の進化論における中心的問題についての洞察を得るものである。

p. 75
 1936年のドブジャンスキーのジェサップ講義、および1937年の『遺伝学と種の起源』はメンデル遺伝学と進化のプロセスがどのように両立するかを示していた。ドブジャンスキーとコロンビア大学のL. C. Dunnは次の段階として、アンダーソンとマイアに「分類学の問題」あるいは「分類学(体系学)と種の起源」について議論するように依頼した。マイアはニューヨークの自然史博物館で働いていたので、ドブジャンスキーやDunnと定期的に共同研究することができた。マイアは彼らと議論した上で、その視点をアンダーソンと共有した。
 遺伝学者のアンダーソンはマイアより7歳年上で、経験も多く積んでいた。アンダーソンはBussey Institutionのエドワード・イーストのもとで博士号を取得したあと、1922年からミズーリ植物園に勤め、Iris(アヤメ属)で自然選択が働く変異の供給源としての雑種形成と突然変異の相対的重要性を検証していた。アンダーソンは、種間の相違は個体間の相違とは全く異なる階級のものであると考え、個体間の相違が自然選択などの影響で種間の相違を形作るという証拠はないと判断していた。突然変異から得られた変異の相違の蓄積では、種分化は説明できないと考えていたのである。続くTradescantia(ムラサキツユクサ属)の研究では、断片化、倍数性、雑種形成をそこで働いている進化プロセスとみなした。また、Karl Saxなどから細胞学の知見を仕入れていた。アンダーソンは分類学者と密接に関係した遺伝学者であり、フィールドワークを好みつつも、実験室における新しい技術も理解していた。そして、突然変異が種の相違をもたらすのかについては疑問を抱いていた。

p. 79
 マイアとアンダーソンは、当時の進化の問題について異なった評価と理解をしていた。1940年から41年の二人の文通を検討してみよう。
 マイアは、博物館の動物学者たちのように集団のサンプルを取らない伝統に反逆し、mass collectionの概念を推進しようとしていた。この動きに功がある植物学者として、マイアはイングランドのW. B. Turrill、ウィスコンシンのNorman Fassett、そしてアンダーソンの名前を挙げ、特にアンダーソンが集団の概念を植物学者たちに広めるのに最も貢献していると評している。アンダーソンは当時のマイアへの手紙で、分類学における集団研究の重要性に賛同している。マイアの返信では、動物と植物の分類学の不一致は採集方法の違いにあるのではないかと記している。
 二人は講義についての実践的な打ち合わせも始めていた。マイアはアンダーソンが書いたイントロダクションを高く評価し、講義の初回に位置づけようとする。アンダーソンもマイアの原稿に満足し、その英語を添削していた。アンダーソンのショウジョウバエ研究者たちの考えに反する異説についてもマイアは励ましていた。

p. 83
 1963年にマイアが『動物の種と進化』を出版したとき、マイアはより一般化して植物も含めるよう他の人々に勧められたが、それぞれの界がそれぞれの進化的特徴をもっていることを重要視して従わなかった。
 1940年にハクスリー編集の『新しい体系学』が出版されたとき、アンダーソンはその書評で批判を書いた。ドブジャンスキーはこの批判を厳しすぎると評し、マイアはアンダーソンにそれを伝えた上で自分もドブジャンスキーに同意すると述べた。アンダーソンはミズーリ植物園の同僚たちの意見を聞いて書評を書いていたが、そこではJens ClausenやDavid Keckなどのバイオシステマティストがほとんど引用されていないことが批難されていた。意識的に総合を成し遂げようとしていたマイアと異なり、アンダーソンはマイアのように政治的になる必要性を感じていなかった。また、J. S. L. Gilmourが書いた分類学の哲学的基礎に関する意見も割れ、マイアはGilmourが集団思考を欠いていることを強く批判したのに対し、アンダーソンはそれを認めつつも、アメリカの生物学者たちが特に読んで考えるべき議論をしていると擁護した。

p. 85
 生物学的種概念はマイアとアンダーソンの議論の中心にあった。マイアはドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』の最終章「自然単位としての種」のアイデアを拡張し、「実際的あるいは潜在的な自然交配集団のグループで、そのような他のグループから生殖的に隔離されているもの」という種の定義を『体系学と種の起源』で発表することになる。しかしアンダーソンとの文通で、マイアはこの種概念を生物一般に適用しようとすると困難に直面することに気付かされていた。アンダーソンはマイアへの手紙で、植物の種分化の複雑さを説明し、植物分類学者が脊椎動物分類学の概念を適用しようとしないのは生物学的な理由があるのだと推測した。マイアはこれに対し、鳥類や動物の体系学は植物の体系学に比べずっと単純な問題なのだろうと述べた。アンダーソンにとって、総合の前に為されるべき仕事はたくさんあり、総合の実現可能性は未決問題であった。

p. 87
 ドブジャンスキーはジェサップ講義と『遺伝学と種の起源』において、種の起源は小進化レベルの遺伝的変化で説明でき、大進化もその基礎のもとに説明できることを示した。マイアとアンダーソンが貢献できることは、種分化がどのように起きるか説明することだった。マイアはアンダーソンへの手紙で、ゴールドシュミットが地理的変異を通しての種分化を否定していることを批判している。マイアによれば、ゴールドシュミットは同所性と異所性のギャップを混同しており、同所性のギャップはbridgeless gapsであるという前提から、異所性の種間のギャップも含めてすべての種間のギャップはbridgeless gapsであるという推論をしてしまっているという。マイアは『体系学と種の起源』の第7章で、種概念と、隔離をもたらし維持するメカニズムとを結びつけた。
 一方アンダーソンはゴールドシュミットの『進化の物質的基礎』(1940)について、無批判ではないが好意的な見方をもっていた。アンダーソンはゴールドシュミットの正統的でない結論について、科学的かつ正当に確立されたとはいえないとしつつも、個人的には作業仮説として賛成だとも述べていた。ゴールドシュミットの方も、『進化の物質的基礎』でアンダーソンを10回、バブコックを9回と、数理集団遺伝学者たちよりも多く引用していた。ゴールドシュミットはアンダーソンの仕事をもとにして、Irisにおいて種内の変異は種間の変異をつくらないと論じた。アンダーソンはIrisについての最初の論文(1928)で「種間の相違は個体間の相違とはまったく異なる階級のものである」と述べていた。アンダーソンはマイアへの手紙でも、ゴールドシュミットが言うbridgeless gapsのような異なる階級の相違が種より上のレベルにあると考えているといい、そのようなカテゴリーは種のグループや、亜属や、属などにあたるだろうと述べた。マイアがゴールドシュミットを批判することで種分化や種概念についての考えを明確化したのに対し、アンダーソンにとってゴールドシュミットのアイデアは未解決の、議論途中の問題であった。

p. 90
 マイアが早い時期から講義の準備を入念に進めたのに対し、アンダーソンはそれほどでもなかった。ここには、ドブジャンスキーと同じようにジェサップ講義を用いようと考えていたマイアと、まだ大文字の進化が解き明かされそうにはないと考えていたアンダーソンの意識の差があった。マイアは講義で決定的なことを言おうとしていたのに対し、アンダーソンは示唆的なアイデアを試す場にしようとしていた。
 アンダーソンは聴衆がどのような人々でどのくらいの人数であるかを気にしていた。マイアは、ドブジャンスキーの講義を聴いたときの聴衆は大学院生と教員たちで、主にコロンビア大学だがそれ以外の組織からも来ていたと伝えた。また人数については50人を超えず25~30人くらいかもしれないと言い、聴衆が少ないことにいつも驚いていると述べた。

p. 92
 アンダーソンが実際にどのような講義を行ったかについては史料が少なく、わからない部分が多いが、植物の種分化の複雑性をテーマの一つにした可能性は高い。アンダーソンは1928年の論文で、幾千の遺伝子突然変異が積み重なって種間の相違になるというショウジョウバエ研究者たちの意見には同意せず、進化の要因としての雑種形成や遺伝子侵入や遺伝子連鎖の役割を検討していた。遺伝子突然変異は個体の相違を説明するには十分であるものの、種間の相違はそれだけで説明できないという立場である。1949年の『移入をきたす雑種形成』では進化のメカニズムとしての雑種形成の役割を論じており、このテーマは講義の内容にも入っていたと考えられる。この本ではアンダーソンは、遺伝子侵入による連鎖形質から来る変異性は、自然選択が働く対象として突然変異より潜在的に重要と結論づけている。
 アンダーソンは、壮大な理論的総合よりも、植物進化を形作る力を研究するための示唆的なアプローチを提供していた。アンダーソンがジェサップ講義の内容を本にまとめることを約束していながら結局果たさず、トウモロコシのプロジェクトを立ち上げ、移入をきたす雑種形成の研究を進めていったが、これも総合的・決定的なことを言おうとする研究ではなかった。アンダーソンの本が現れなかったことは、動物中心の総合は不完全で特に植物進化生物学を説明するには不適切だという判断を反映していた。
 アンダーソンはサンフランシスコ湾岸地帯のバイオシステマティストのグループにも関わり、進化の問題に取り組んでいた植物学者たちの中でも中心的な存在であった。しかしその彼が総合の鍵となる出来事であったジェサップ講義の際にとった立場は以上のように、安易に基本原理を打ち立てることに対して警戒するものであったのである。

2014年3月24日

ホールデンのホーリズム Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution”

Andy Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution,” Descended from Darwin: Insights into the History of Evolutionary Studies, 1900–1970, ed. Joe Cain and Michael Ruse (Philadelphia: American Philosophical Society, 2009), 49–70.

 ホールデンは青年時代から、父親のジョン・スコット・ホールデン(以下J. S.)の影響を強く受けた。J. S. はヘーゲルやカントから得た新観念論的・反還元主義的原理の適用を推進した生理学者だった。しかしホールデンの第一次世界大戦での従軍経験は彼の思想を変化させるに十分なものだった。1930年までに、ホールデンは唯物論への共感を強めていた。新しい物理学や、弁証法的唯物論すなわちマルクス主義のホーリズム哲学を吸収し、ホールデンは1933年までに唯物論的な哲学的立場を築いていた。そのような立場の変化の中でも、ホールデンは生涯を通してホーリストであり続けた。

 当時、生気論は新観念論と、機械論は唯物論と関連していた。生気論の主唱者にはHans Driesch、Henri Bergson、E. S. Russell、そしてJ. S. などが居た。彼らが目的を見て取れる生命活動を強調していたのに対し、機械論者たちは生物学における生理化学的な法則を強調していた。ホールデンはこの論争を解決しようとしていた。彼は機械論者に賛成して、生体内のプロセスが物理学や化学の法則に従うのは驚くに値しないとしつつ、生気論者に賛成して、それらのプロセスは生物に特有の仕方で調整されているとした。生物についての真の問題は、heartとmechanismのどちらが第一であるかではなく、両者の関係性なのだという。ホールデンは、メカニズムと目的は「一つの原理に首尾一貫する」(カントはそれを「総合」と呼んだ)ことを示唆していた。
  1920年代のホールデンの生理学研究は父親の足跡を追い、その認識論を採用していた。つまり、生物を傷つけずそのままの状態で研究した。しかし一方で、J. S. の目的の強調に納得はしていなかった。目的とメカニズムとの組合せによってのみ、非還元的で首尾一貫した原理に至り、総合を生むことができるはずだった。

 1923年にホールデンはオックスフォードからケンブリッジ大学に向かい、ここでホールデンに深い影響を与えることになる指導教員のフレデリック・ホプキンズに出会う。ホプキンズのアプローチで中心的な概念は、動的平衡と組織化レベルであった。上位の組織化レベルはそのレベルに特徴的な性質をもつ。また、上位の組織化レベルの振る舞いは下位のレベルに影響する。全体と部分がお互いの性質を部分的に決定している。この見方では、唯物論的でありつつも、目的のある活動を生物全体の性質としていた。目的は、生物全体に特有のある物理化学的性質によっても、部分同士の物理化学的相互作用によっても定められる。このプロセスベースの非還元主義は、目的をメカニズムに従属させず、またメカニズムを目的に従属させることもなかった。このようなホプキンズの視点を通して、ホールデンは生化学の研究手法を学んだ。ホールデンの考えでは、生命に特徴的なものは構造や振る舞いの個々の詳細ではなく、それらが全体を自己調節し自己保存する仕方であった。
 1931年頃までに、ホールデンは遺伝子を生化学的機能によって分類していく。遺伝子は、より複雑で動的な発展プロセスの一部分となった。1932年の小論文では、酵素、遺伝子、環境の相互作用が生物の発達にどう影響するかを推測していた。ホールデンの科学的実践はホプキンズの動的平衡と組織化レベルの概念を受け入れたことで変化したのである。このような描像は、生物学のディシプリンを非還元主義的に総合する可能性を持っていた。

 生化学分野での仕事と同様に、ホールデンの遺伝学研究も唯物論からホーリズムの文脈に移っていた。ホールデンが1920年代に発表していた「自然選択と人為選択についての数学的理論」シリーズは遺伝子のビリヤード宇宙から成り立っており、還元主義的・唯物論的であった。1927年から1930年のあいだに、ホールデンはチェトヴェリコフに会い影響を受けていた。チェトヴェリコフのグループは既に生物測定学、自然史、遺伝学をダーウィニズムのフレームワークの中で結合させ、これは還元主義的な方向性を目指していなかった。「数学的理論」の続編は1930年に3本発表されるが、これらは集団に内部力学を持ち込んだものだった。そこでは、集団は準安定状態の集団や半ば隔離されたコミュニティの集まりとして扱われる。集団の内部構造は変化の可能性を持っており、環境の変化によってその可能性は実現する。このようなシステムベースのホーリスティックなモデルは、以前の5本の「数学的理論」とは異なっており、またこのような変化はホールデンの生化学分野での変化と同時期に起こっていた。またこれらの新しい論文では、ホールデンは動物学者G. P. Bidderのcataclasmsという観念を生態学的メカニズムの説明に用いていた。cataclasmsによって有益な遺伝子が変化したり、選択の方向が反転したりする。
 フィッシャーの集団遺伝学のアプローチは原子論的で、パンミクティックな集団内での自然選択を重んじる。この描像はフォードとの連携を通して得ていた。ライトはホーリストであったが、彼の集団遺伝学は生態学的側面を持たなかった。彼の適応度地形は理論に生態学的次元を付け加えているように見えたが、自然集団への適用可能性は限られていた。ホールデンの集団遺伝学は、ホーリスティックな視点と生態学的メカニズムを兼ね備えていた点でフィッシャーやライトと異なっていた。ホールデンはライトと同じように、フィッシャーのモデルの適用可能性は限られていると考えていたが、一方でライトとは異なり、実質的な生態学的メカニズムを持っていた。ここにはチェトヴェリコフの影響もあっただろう。マイアが数理集団遺伝学を「ビーン・バッグ遺伝学」と呼んだのは、ホールデンのアプローチに対しては当たらない。

 1930年代前半、ホールデンは弁証法的唯物論の研究にも取り組んでいた。
 1945年以降、ホールデンの仕事は遺伝学に大きく傾いていくが、それでも還元主義的プログラムを追求してはいなかった。1947年、プリンストンでの会議「遺伝学、古生物学、進化」でホールデンは進化のホーリスティックな理解の必要性を強調する。倫理や政治を生物学に還元してはならないとホールデンは述べた。1949年の「病気と進化」では、進化において病気がポジティブな役割を果たしてきたと示唆した。ホールデンの議論では、選択の単位としてグループが登場し、非還元主義的な組織化レベルを構成する。1956年の「生物学における時間」では様々なプロセスをそのタイムスケールによって分類する。この論文はジョゼフ・ニーダムの概念に負うところがあり、そのニーダムはマルクス主義ホーリズムに基づいていた。ホールデンはDNAやタンパク質などの細胞構成物質を生物全体の中の単なる「詳細」とみなし、この議論をフリードリヒ・エンゲルスのアイデアに結びつけた。ここには、生物と無生物のあいだに物質的な連続性を認めつつも、それを区別しようとするホールデンの試みがあった。

 生涯を通してホールデンはホーリストであり続けたといえる。彼の立場の変化は、ホーリズムから別のホーリズムへの変化であり、メカニズムだけで生物学全体の描像を描くことができると考えたことはなかった。彼は1930年代前半にホーリスティックなアプローチを生理学に持ち込み、生化学遺伝学では1931年頃に原子論的アプローチからホーリスティックな発展的アプローチに移行した。また彼は、集団遺伝学をメカニスティックなアプローチから、生態学的側面を含んだアプローチに拡張させたのである。こういった変化は部分的には、ホールデンの観念論的ホーリズムから唯物論的ホーリズム、そして弁証法的唯物論へと至った移行によるものである。

2014年3月23日

ドブジャンスキーとステビンズ Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky: G. Ledyard Stebbins, Jr., Plant Evolution, and the Evolutionary Synthesis,” History and Philosophy of the Life Sciences 28 (2006): 11–50.


 ステビンズの『植物の変異と進化』は(『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』や『進化のテンポとモード』に比べ)ドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』によく似ており、そのフレームワークを用いていた。特に、ドブジャンスキーの「生物学的種概念」(と後に呼ばれるようになる概念)はそこで強い存在感を放っていたといえる。この論文では、ステビンズがなぜドブジャンスキーに追従することを選んだのかを探ると同時に、二人と彼らをめぐる人々の関係を明らかにしていく。


 ステビンズは、1936年にドブジャンスキーに初めて会ったときは彼の研究に関心を持たなかった。しかしこのとき二人はよく似た状況にあり、どちらも正式な遺伝学の教育を受けたわけではないものの、遺伝学に興味を示し、進化プロセスを遺伝学や細胞学や体系学から明らかにしようとしていた。またドブジャンスキーは、クレピス属プロジェクトによく似た、自然集団の遺伝学(GNP)のプロジェクトを始めようとしていた。二人とも体系学を学んでおり、地理的分布に関心を持ち、一つではなく複数の生物グループを研究していた。またどちらも手が不器用で、古典的な体系学の手法に対する反感を抱いており、進化的系統を再現するために自然集団を理解しようとしていた。他の研究者たちの研究を熱心に読む読書家でもあった。つまり二人は会ったときから多くの共通点を持っており、若く活発なカリフォルニアの進化学者・遺伝学者の数が多くないことを考えれば、二人が親密になるのは時間の問題だったのである。

 ドブジャンスキーは同じくソ連から移住してきた遺伝学者のI. Michael Lernerと親交を深めていた。Lernerはバークレー校に赴いたあと、バブコックの教育助手をしていた大学院生のEverett R. Dempsterらと共に、Genetics Associatedという月一で議論をするグループをつくっていた。ステビンズはGenetics AssociatedでLernerと知り合い、彼を通してドブジャンスキーと再会した。クレピスの種分化パターンを解明しようとしていたステビンズにとって、不稔障壁の産物として形成される進化の段階として種を捉え直す考え方は興味深いものだった。バブコックとの共著論文で、ステビンズはクレピスの種形成と動物の進化の違いを強調するのではなく、類似性に焦点を当てた。

 ステビンズはドブジャンスキーの本に、植物の進化を理解する術を見出だすことができなかった。ステビンズは1939年に進化の講座を開くことを打診され、生徒たちと進化一般についての文献を読み始めた。ステビンズは数理集団遺伝学者たちやド・フリースやモーガン、A. F. Shull、チェトヴェリコフなどの研究を学んでいた。一方ドブジャンスキーは、共同研究者のUCLAのCarl Eplingとの関係もあって、植物進化についての理解を深めていた。そのため、『遺伝学と種の起源』の第二版は植物進化についての最近のデータを多く含むことになった。

 1930年代後半以降のサンフランシスコ湾岸地帯は、バイオシステマティストと呼ばれることになる研究者たちによって進化研究の中心地となっていた。ドブジャンスキーやEplingやミズーリ植物園のアンダーソンはここを頻繁におとずれていた。ドブジャンスキーは1940年にカリフォルニア工科大学からコロンビア大学に転勤となり、湾岸地帯の訪問は一時途絶えるが、結局その後も続いた。1944年の夏からステビンズはドブジャンスキーとさらに親密に関わるようになる。1944年までにステビンズはクレピス研究を終わらせ、戦争による圧力もあって飼料草の改良プロジェクトに入ったが、ここには自然の雑種形成の研究も含まれていた。ステビンズは1945年の夏にドブジャンスキーとマザー(Mather, California)を訪れたが、この訪問は1970年代まで続き、フォード、Hampton Carsonなども訪れることがあった。

 ドブジャンスキーは1953年に生涯で一本だけの単独での植物学論文を発表するが、そこでも進化観はショウジョウバエやライトの理論モデルから得られたものだったといえる。ドブジャンスキーの植物のある品種に関するEplingとの共同研究も、植物進化に対する関心というより進化の一般的パターンに対する関心から生じたものだった。ドブジャンスキーは植物に真の関心を持っていたとはいえず、植物の進化プロセスがショウジョウバエやライトの理論と矛盾するときには特にそうだった。彼は、包括的な進化理論のために植物研究を追っていたし、またショウジョウバエの生活史や自然史との関わりのために、植物の分布について知る必要があった。しかし、植物に特有と考えた現象に中心的な地位を与えることはほとんどなかった。

 1940年代前半、ドブジャンスキーの植物と動物の進化を調和させてほしいという催促に、ステビンズは反応した。ステビンズの進化の講義の構造は、『植物の変異と進化』のそれに近づいていた。この講義では、『遺伝学と種の起源』がますます中心的な位置を占めるようになっていた。その他には、『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』も中心的な教科書となっていた。ステビンズは遺伝学、体系学、植物地理学、古植物学など、幅広い植物科学の知見を有する数少ない研究者になっていた。また特に、進化一般の講義を担当したために動物の進化について幅広く読む機会を得ていた点は、アンダーソンやカーネギーチームも備えていない長所だった。ステビンズは、植物学と動物学を統合する、一般化可能で普遍的な進化理論を求めていた。Eplingは1940年以降、ショウジョウバエ研究を中心としており、植物進化の首尾一貫した理論をつくることはしなかった。またマイアが編集していた会報において、ステビンズは植物と動物の進化に関する議論で中心的な役割を果たした。

 ドブジャンスキーの勧めによって、コロンビア大学動物学科のL. C. Dunnは1946年の春に、その年の秋のジェサップ講義にステビンズを招待した。ステビンズは熱心に準備し、10月15日から11月26日にかけて、計6回の講義を行った。このあいだ、ドブジャンスキーはステビンズを自宅に宿泊させていた。ステビンズは本の最終稿に約2年かけ、1948年の末に完成し、1950年に出版された。ドブジャンスキーとステビンズの親密な交流はその後も続いた。1969年、ドブジャンスキーはロックフェラーでの予算削減等を受け、弟子のアヤラと共に、ステビンズのいるデイビス校へ移ることにした。ドブジャンスキーは1975年に亡くなった。ドブジャンスキーとアヤラ、James Valentine、ステビンズの共著による本『進化』は1977年に出版された。


 ドブジャンスキーとステビンズが、カリフォルニアという同じ土地の動物相と植物相をそれぞれ調査していたことは重要だったといえる。Eplingやカーネギーチームも含め、彼らにとって1940年代のマザーは自然の実験室であった。またドブジャンスキーとステビンズはリベラルな政治観や、生物学と人間の関わりについての見方を共有しており、1940年代後半から1950年代にかけて、二人は最も声の大きいルイセンコ学説の批判者だった。宗教的背景も異なった(ステビンズは監督教会からユニテリアン派に転向した自称「不可知論者」で、ドブジャンスキーは敬虔なロシア正教会のメンバー)が、どちらも1970年代には「科学的創造説」に対して進化を擁護した。

 ドブジャンスキーとEplingは1953年にショウジョウバエのデータの解釈を巡って決裂していたが、ドブジャンスキーとステビンズはまったく同じ領域を研究しようとはせず、それゆえたとえば遺伝子侵入の相対的重要性や進化一般における網状進化の影響力について意見が異なることがあっても、専門とする生物の違いによる意見の違いとして処理することができた。

 そして、どちらもフィールド志向の進化細胞生物学者であったことと、植物と昆虫がお互いに依存関係にあったことが二人を結びつけた。シンプソンやマイアは植物の進化にあまり関心を示さず、それはマイアを共同でジェサップ講義をしたアンダーソンが本を完成させられなかったことにも関係しているかもしれない。そのために1941年に動物と植物の進化を総合することができなかったことは、マイアが植物学は総合に参加するのが遅れたという認識につながっているかもしれない。しかし実際には、総合の時代に植物学者たちは積極的に総合のプロジェクトに参加していた。総合の植物学的業績が総合の最後の本になったのは、植物学者たちの「失敗」や不適当さが原因ではないのである。

 総合は様々な生物を専門とするたくさんの研究者たちを必要としていた。ステビンズがドブジャンスキーから大きな影響を受ける一方で、ドブジャンスキーは自身の理論の強力な検証をステビンズから得ていた。影響の方向は一方向ではなく、多方向的で、仕事の仕方や場所や人脈など様々な要素を含んでいた。そして、ドブジャンスキーとステビンズの相互作用の歴史は、科学が人間によってなされるもので、個人的な関わりが仕事に大きく影響することを確かめさせてくれるものである。

2014年3月20日

自然科学文化、人文学文化、科学対抗文化 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Ch. 5

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 101–127.


 一般大衆の科学リテラシーを実現する上での問題の一つが、学術におけるロールモデルとなっている多くの大学知識人たちが科学リテラシーへの熱意を欠いていることである。 
 
 世代を超えて燻り続けている「二つの文化(自然科学と人文学)」の論争を再検討してみよう。戦後の科学教育の再建の頃、数学者兼詩人のJacob Bronowskiと科学者兼作家のC. P. Snowという二人が活躍したが、どちらも科学教育の実践に目に見える影響を及ぼすことはできなかった。Bronowskiは1956年のエッセイで、オルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』(1932)やジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)で描かれたディストピアに触れて、科学がわかる専門家とわからない一般大衆に社会が分断されることの危険を説いた上で、1984年には誰もが科学的教養を身につけているように教育すべきだと主張した。しかし結果的にはBronowskiの予想は裏切られ、科学者たちが一般大衆を支配する時代はやって来ることはなく、逆に科学がわからない人たちに科学予算が決められるような状況が続いている。

 スノーは、知識人たちの世界が「二つの文化」に裂かれてしまっていることに警鐘を鳴らした。スノーは人文学者たちに、「熱力学第二法則について何を知っているか?」と問いかけた(のちに「分子生物学について何を知っているか?」に変えた)。さらにスノーはこれを、人文学における「シェイクスピアの作品を読んだことがあるか?」と同程度の質問だと述べた。当時スノーに対しては批判の嵐が巻き起こった。

 科学的教養を身につけていない人々は、科学やテクノロジーを現代社会に不可欠なものとして受け入れながらも、科学に対する消極的抵抗を見せる傾向がある。特に、大学の人文学者が科学を学ぼうとしない姿勢を見せがちであることは、文系の学生たちを科学から遠ざける結果をもたらしていると考えられる。同様に、理系の教員や学生も人文学を学ぼうとしない傾向にある。

 また、汚染や生態学的災害や軍事兵器などを生み出した責任が科学という営み全体にあると考え、明確に反科学の立場をとる人々もいる。これらの人々(①)や、反科学を公言していなくても実質的にそうなっている人々(②)、そして科学を作り変えたいと考える人々=ポストモダニスト(③)から成る、科学対抗文化(science counterculture)という三つ目の文化が勢いを増している。①や②の人々は、環境か、社会の幸福、特にヘルスケアに関する問題意識から出発している。③は科学の根本となる真実や理性的思考をひっくり返そうとする動きである。また、ニューエイジ運動にも反科学的な動きが多く含まれている。

 現代技術懐疑派(neo-Luddite、19世紀初頭英国のラッダイト運動に由来)を名乗るグループも現れている。彼らは科学やテクノロジーを有害であるとみなし、テクノロジーを使用者に理解できるレベルのものに置き換えようと主張する。たしかに、ルネッサンス以来の科学の進歩が目覚ましいからといって、それがすべて世界に対する恩恵であるとは言い切れないの。科学が人間的な価値や思考の自由を奪っていると説く論者もいる。ファイヤアーベントは科学を民主主義に対する脅威として特徴付け、一般大衆によって監督されなければならないと考えた。また、科学やテクノロジーを民主化することを重要視する論者たちも現れている。

 他にも反科学的な性格をもつグループは多く現れており、動物の権利運動はその一つである。動物保護運動が動物実験に対して責任や人道性だけを要求したのに対し、動物の権利運動は動物のそのような取り扱いを一切廃絶することを要求する。動物の権利運動の成長は、感情だけで考えるのではなく理性で考えることの重要性を生徒や一般大衆に納得させられなかった失敗例の一つだと言えるだろう。

 Jeremy Rifkinは、現代社会はテクノロジーの為すがままになっており、そのため新しい技術は疑いをもって見るべきであり、少しでもリスクがあれば放棄すべきだと主張している。現代技術懐疑派との重要な違いは、新しいテクノロジーの導入に対して極めて慎重であるものの、すでに存在するテクノロジーを廃止しようとはしない点である。しかしRifkinらの議論はしばしば誤った科学的前提に基づく。政治の舞台で十分に議論ができる、責任があって公平で科学を熟知している人物が求められている。

 大衆紙は疑似科学への警鐘を鳴らす役割を果たすことが期待される存在だが、その期待に応えていない。残念ながら、大衆は新聞に科学教育を求めていないのである。新聞を書く側の人間も、実は多くが「創造科学」を信用しているというアンケート結果が示すように、科学に興味をもっていない。しかし、マスメディアの科学に対する姿勢次第で、大人社会の科学リテラシーが変わる可能性は十分にあるのである。

植物版ショウジョウバエ「クレピス属」の研究プログラム Smocovitis, “The “Plant Drosophila””

Smocovitis, “The “Plant Drosophila”: E. B. Babcock, the Genus Crepis , and the Evolution of a Genetics Research Program at Berkeley, 1915–1947,” Historical Studies of the Natural Sciences 39 (2009): 300–355.


 1887年(この論文では1887年となっているが、1877年が正しいと思われる)に生まれたバブコックは、1901年から育種家Luther Burbankの指導を受けて育種家を目指した。1903年にド・フリースが渡米した際にはその講演を聞き、突然変異説に基づく進化と、遺伝学の知識に刺激を受けた。会衆派で信心深かったバブコックにとって進化は創造主の計画の証であり、植物・遺伝学・進化・宗教の繋がりは生涯を通して彼の研究動機であった。1905年に訓練課程の教師に農学教育を教える仕事に就いたが、1907年にカリフォルニア大学のCitrus Experiment Stationに就職し、雑種形成実験を行った。1908年にバークレー校に移った。

 1912年、バブコックは新設された遺伝学部の長に就任し、ますます遺伝学に傾倒するようになった。1918年にはRoy Elwood Clausenと共著でGenetics in Relation to Agricultureという教科書を出版した。モーガンのショウジョウバエプログラムに注目していたバブコックは、それを補強するデータを得るため、植物における“ショウジョウバエ”を探そうとし始めた。この植物は、染色体数が少なく、遺伝的変異が多く、扱いやすく、多くの子孫を残し、自家受精可能でかつ雑種形成も容易なものである必要があった。イーストの論文で染色体数が6本と書かれていたこともあり、バブコックはクレピス属(フタマタタンポポ属)をモデル生物に選んだ。クレピス属はまだ先行研究が少なかったが、形態学的変異に富み、旧世界から新世界まで広く分布し、一年生や二年生から多年生までの種を含み、多様な環境に生息するといった長所を有していた。

 バブコックの初期のクレピス属研究では、染色体数の決定や雑種形成実験がなされた。進化的な変化のプロセスとしては、遺伝子突然変異(モーガンやド・フリースが重視)と雑種形成(J. P. Lostyらが重視)の双方にバブコックは重要性を認め、またラマルク遺伝も否定しなかった。

 1920年代初頭、クレピスプロジェクトはいくつかの致命的な問題に行き当たる。いくつかの種が特殊な土壌等の生育環境を必要とすることや、ショウジョウバエのように遺伝子のマッピングをするのは難しいことなどが判明したのである。新たな種が見つかるにつれ、クレピス属の分類はまったくの混乱状態であることも明らかになった。バブコックは準備段階として、研究プログラムを体系学の方向に転換した。このときバブコックが頼りにしたバークレー校の同僚Harvey Monroe Hallは分類学の改革を訴えており、実験や系統学的視点を重視し、生態学・遺伝学・細胞学・生物地理学の知見を用いようとするなど、当時勃興しつつあったnew systematicsに近い立場をとっていた。バブコックやHallなどクレピス属の研究者たちは、バイオシステマティクスと呼ばれることになる1940年代の動きを1930年代にリードしており、その北カリフォルニアでの流行に貢献した。バブコックとその研究プログラムは「進化論の総合」に決定的な役割を果たしたといえる。バブコックは1934年には遺伝学者、体系学者、古生物学者たちを招いて進化について議論する会合を組織していたし、1943年にも湾岸地帯で重要な会合を開いていた。

 ショウジョウバエプログラムを補強・拡張しようとして始まったクレピスプログラムは、進化的・系統学的研究に転換していた。1928年には、バブコックはプログラムの目標を、クレピス属において作動している進化的プロセスの理解と定めた。バブコックは世界中を回ってクレピス属を収集していた。

 クレピスプログラムは徐々に巨大化し、資金的にも人数的にも大きなプロジェクトになっていった。バブコックは日常的な細胞学的研究・雑種形成実験には直接は関わらず、データを解釈し植物進化の全体像を描く役目を担っていた。バブコックはまた多くの研究者をバークレー校で雇い、あるいは招待していた。

 1930年にバブコックがMichael Navashinと共同で書いた論文では、進化的変化の根本的プロセスを点突然変異、染色体変化(数および形態)、種間雑種形成の三つに分けた。この時点ではどのプロセスが重要であるかを判断できなかったが、その後、バブコックはクレピス属における進化は点突然変異だけでは説明できないと考えるようになる。バブコックは非相同染色体間の相互転座によって染色体数が減少したのだと考えた。当時、フィッシャーやライトは遺伝子突然変異を好んでいたが、ホールデンは植物遺伝学の経験があったので染色体効果を評価していた。

 1934年、バブコックはクレピスプログラムを拡張し、クレピス属および近縁の属の地理的変異の研究に着手した。バブコックはさらなる資金援助を得る一方で、クレピス属の機縁の細胞学的・体系学的研究にあたるアシスタントとして、キク科の細胞遺伝学を研究していたステビンズを1935年に雇った。1930年代後半までに、ドブジャンスキーも湾岸地帯を頻繁に訪れるようになり、またドイツ出身の遺伝学者ゴールドシュミットもバークレー校の動物学科に着任した。

 クレピス属の進化メカニズムの問題を複雑にしていたのは、倍数性とアポミクシスと雑種形成であった。遺伝的システムのパターンは、地理的パターンと相関しているようにも思えた。

 1935年までに、複雑なストーリーを生み出すのに十分なデータが集まった。旧世界の種はn=3,4,5,6で雑種の不稔性が高いのに対し、北アメリカに固有の種はn=11で雑種形成が広範囲に及ぶ。バブコックは、n=11の種は旧世界のいくつかの種を起源とする異質倍数体ではないかと推測した。さらに新世界にも2つの大グループがあると考えた。1つは中西部から東部に分布し22本の染色体を持つグループ、もう1つは西武に分布し22本か44本の染色体数を持つグループであった。後者は葯が未発達であり、アポミクティックであると考えられた。クレピス属の分布パターンは、ステビンズが以前研究したPaeonia(ボタン属)のそれに似ているように思われた。そこでステビンズはバブコックに、北アメリカのクレピス属を一緒に研究させてもらえるよう頼み込んだ。採集のための旅行を行ったあと、染色体数を調べ、集団間で変異の分析をした。この研究の結果は最終的に、1938年の論文にまとめられた。ここでバブコックとステビンズは、無配偶子性複合体と倍数性複合体という新しい概念を作った。

 ステビンズとバブコックはクレピスのアメリカの種を2つのグループに分けた。1つ目はC. runcinataで、この種は4対の染色体をもつ種と7対の染色体をもつ種のあいだで雑種として生まれてから染色体変化を受けていないと考えた。C. runcinataはレンシュの言うところのRassenkreisすなわち多型種である。2つ目のグループは残りの9つの種から成る。これらは倍数性、アポミクシス、雑種形成などのプロセスの産物である。これらの種の有性型は形態的にそれぞれ大きく異なり、地理的に制限され、遺伝的に隔離されている。二倍体の雑種は無い代わりに倍数体が多いが、それらは二倍体と形質を共有していることが多いので、倍数体は二倍体に段階的に移行しているようにみえる。倍数体での分岐進化は静止しており、進化的変化は倍数性・アポミクシス・雑種形成を通して起こっている、とした。これらのプロセスによって、有性生殖する二倍体を中心として無配偶子性複合体が形成される。

 倍数性・アポミクシス・雑種形成による生態的利益は何かを考えるため、バブコックとステビンズは無配偶子性複合体の分布をC. runcinataと比較した。C. runcinataの分布は倍数体の種よりも広範囲で、また厳しい気温にも倍数体と同様に耐えたので、これらの基準では利益を説明できなかった。急速に変化する環境では生殖のスピードと成長力が重要になるので、それを与えるのが倍数性の有利さなのだろうとバブコックとステビンズは示唆した。しかしクレピスのケースはより複雑だった。バブコックとステビンズはheteroploid complexという術語を提唱した。heteroploid complexの進化的効果は、C. runcinataと比較することで明らかになった。heteroploid complexをもつ種では、多型種以上に多型がよく見られ、またその変異の分布も異なる(極端なタイプが分布の中心地に存在する)のである。また、アポミクシスの役割は、新しい変異体を固定することにあるのだと考えられた。heteroploid complexの構造の理解と、倍数性・アポミクシス・雑種形成の進化的効果の理解にもとづいて、バブコックとステビンズは無配偶子性複合体の分類法を考えた。

 1938年の論文は、植物の進化プロセスが哺乳類や鳥類や昆虫のそれと大きく異なることを示すものともいえ、進化の一般理論を探求する人々も関心を示した。ドブジャンスキーも植物遺伝学を気にするようになり、ステビンズやクラウゼンと交流した。1941年の『遺伝学と種の起源』の第二版では、クレピスや他の植物研究の内容が取り入れられた。ハクスリーも『進化――現代的総合』でクレピスプロジェクトと倍数性複合体の重要性を評価した。ハクスリーの記述はある誤解を含んでいたが、バブコックはそれでも喜んだ。

 バブコックはその後、進化のプロセスとして遺伝子突然変異を重視するようになっていった。1944年の記事では、古植物学の知見も用いてクレピス属の進化や地理的な移動の歴史を論じたが、ここでは「隔離」「分化」「適応」を進化の三大プロセスと位置づけ、そこで遺伝子突然変異や自然選択が果たす役割を強調している。クレピスプログラムははじめ農学の文脈で後押しされたこともあり、バブコックは農学や医療に対しての貢献を強調している。バブコックのクレピス研究プログラムの総まとめとなる論文は1947年に出版され、称賛を受けた。バブコックはその年に退職し、1954年に亡くなった。

 クレピス属は、モーガンらの仕事を補強するという当初の目的にはそぐわない生物だったが、代わりに進化や体系学の問題に接近した。植物界の進化の遺伝的基礎を理解するためには理想に近い生物だったといえるだろう。クレピス属はモーガンのショウジョウバエではなく、ドブジャンスキーのショウジョウバエに対応する生物だったのである。クレピス属そのものが研究対象となったという意味では、クレピス属はモデル生物とはいえない。クレピス属の研究は実験研究というよりも自然史的な推論を含んでおり、実験室や温室が実験研究の舞台となったのと同様に、自然環境が進化史の理解に重要な舞台を提供したのである。

2014年2月23日

「科学を知る」教育から、「科学とは何かを知る」教育へ Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Ch. 3

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 45–72.


 科学についての共有リテラシーを達成するための洞察を得るため、この章では科学自体の本質について検討する。というのも科学という営みは、他の知的な営みとは大きく異なっているからである。大衆に科学リテラシーを身につけさせるという試みの失敗は、彼らがたとえ科学に興味をもっていても、難しいとか学んでも報われないとか思ってしまうというところにあった。これは目標が高すぎるのである。科学教育者たちが言うことに反して、学術的な意味で「科学を知る」ということは、社会的な意味で科学リテラシーを得るためにじつは必ずしも必要ではない。しかし、「科学とは何か」を知ることはそのようなリテラシーを得るのに不可欠である。大衆に科学を詳細に理解させることはできないけれども、科学という営みがどのように動くのかを、科学リテラシーの社会的目的に叶うように教えこむことはできるかもしれない。

●単純な定義はない
 科学は人間が生み出した、普通の事柄を見て理解しようとするための特別なやり方であると言える。なぜ「特別」かと言えば、我々の日常的な思考スタイルは、自然現象の原因を理解するのには不適当だからである。科学の主要な概念図式(たとえば原子説)は、直接的に実験で検証できるわけではないが、我々の経験を満足に説明してきたことから、絶対確実ではなくともかなりの程度信頼できる。
 科学は単純に定義できない。宇宙についての有用な知識の集合であり、研究の方法であり、自然の規則の探求であり、第一原理の探求であり、自然現象を理解・説明・予測することを目標とするものである。そして何より、証明できる「真実」の探求である。科学が他の知的な営みと異なる特徴は、客観的な検証ができることである。

●自然は規則的
 科学の実践は、少なくとも巨視的に見れば自然は規則的で予測可能であるという信念、すなわち同じ状況下では同じ現象が観察できるという信念に基づいている。
科学者は科学者共同体を納得させるために、モデルや概念図式を考案する。このとき重要なのは、社会全体による受容ではなくて科学者共同体における受容である。科学を常に一般市民に理解できるようにしておこうとすると、科学の進歩が妨げられてしまう。それゆえ、科学はそれに慣れていない人にとっては理解するのが難しい。

●真実の探求
 科学は真実の探求であるが、ここで言う「真実」の意味には気をつけなければならない。科学の法則や理論は、それが自然の説明に成功している程度にだけ「真実」とみなされるのである。科学では絶対的真実を主張することはできない。検証を重ねることで理論の信頼性は高まっていくが、検証で否定されたときには修正されたり、他の理論に取って代わられたりする。科学は累積的でもあって、ふつう一つの否定的結果でそれまでの理論全体が否定されることはない。

●反証可能性という概念
 有意味な科学的言明は、検証可能であると同時に反証可能でなければならない。反証可能性は擬似科学を特定するときに役立つ基準となる。

●科学は何でないか
 科学は単に事実を集めるプロセスではない。また、科学は知識を得るための絶対確実な手順でもない。問題を立て、観察をし、仮説を立て、仮説に基づいて予測をし、実験をして予測を検証する、といった手順だけで科学はできない。適切な問題が何であるか、仮説を検証する実験はどのようにすればいいか、などといったことを知らなくてはならない。そしてこういったことを定式化はできないのである。

●科学 対 常識
 かつてT・H・ハクスリーは、科学は特別なものの見方ではなく、正確性や検証に気をつけているだけであって根本的には普通の人のものの見方と同じだと述べた。これは当時では部分的にだけ正しく、今ではもっと間違っているといえる。現代科学は日常生活とはかけ離れた、科学に特徴的な推論をする(たとえば量子力学、相対性理論)。科学理論を学ぶ際、常識を足がかりにできないのは一つの障害となっている。常識的説明に慣れていることが、科学的説明への移行に不安を感じさせてしまうこともある。

●自然は規則的に見える
 もし元素が1000億個存在する世界であったら、科学は個々の事実の果てしない集積でしかあり得なかっただろう。規則性と単純性はあらゆる知識にとって必要なものだ。オッカムの剃刀は科学にとって計り知れない価値を持つ指針である。

●自然は不規則的に見える
 自然は微視的に見れば極めてランダムな動きをしている。自然が規則的に見えるのは、巨視的なレベルで見ているからなのである。

●科学の言語
 科学の言語は数学である。数学は自然を正確に記述するだけでなく、新しい知識に我々を導いてくれる。科学のモデルや概念図式が現実世界を描くように考案されるのに対し、数学は現実世界に関係なく論理的構造をつくることができる。科学も数学も、大衆から理解されにくい点では共通している。

●科学的な営みを分類する
 自然界についての知識は、自然史、科学、テクノロジーの3つに分類される。自然史の主要な特徴は、観察・記述・体系的分類である。

●テクノロジーの役割
 科学がテクノロジーの発展をもたらすように、テクノロジーも科学に新しい器具や素材などを与える。生徒たちにとって、テクノロジーは科学よりずっと有意味に見える(テクノロジーには、科学には無いフックがある)。物理科学ではテクノロジーを科学と区別しやすいが、生命科学や医学では区別は難しくなる。また、あらゆるテクノロジーにはリスクとベネフィットが存在し、それらを0か1かではなく評価していかなければならない。

●工学の役割
 工学は複雑なテクノロジーであり、ある意味で科学とテクノロジーのインターフェースにあたる。工学者は科学と技術の双方の訓練を受けて、科学的原理を技術に応用する。

科学リテラシーの神話 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Preface

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), xi–xviii.

 今世紀に科学教育に向けられてきた熱い視線にも関わらず、アメリカの大衆に「科学リテラシー」を浸透させることはできていない。アメリカの教育では、科学は3R(読み書き算数)とほぼ同等の地位を占めてきた。しかし少数の科学者や技術者を生み出した以外では、アメリカは未だに科学的にilliterateなままであり、今後科学リテラシーが根付く見込みもない。費用対効果で考えれば、科学教育は断念されるべきであるとさえ言える。科学教育共同体は、もはやユートピアとみなされるべき理想に溺れ、「科学教育は根本的に新しいアプローチを採らなくてはならない」という意見を無視している。そして政治家たちやメディアはでたらめにも、意志と圧力さえあれば科学リテラシーを学校教育で教えることは簡単だとみなしてきた。
 「大衆の科学理解」というイディオムはもっと有意味であるはずだ。というのも、科学理解の対象としての大衆をいくつかに区別できるはずだからだ。科学技術に関係した問題を扱うロビー活動グループ、立法者、一般大衆、科学教育者、科学界の人々などがいる。科学、そして科学リテラシーの概念はそれぞれの人々にとって異なった意味を持つ。我々は単純に、それぞれの人々にとって重要な、異なる種類の科学理解を評価することに失敗してきたのだ。
 第二次世界大戦は科学自体と同時に、科学教育事業にもスポットライトを当てた。戦後の再工業化と科学教育を後押しし、スプートニク・ショックではカリキュラムの再構築のために多大な努力がなされた。しかしそのような努力は、universalな科学リテラシーというその主要な目標を達成することができていない。

 本書は科学教育の目的を明らかにし、科学リテラシーの歴史と意味を調査し、過去にそのようなリテラシーを広めることに失敗した理由を説明し、その見込みが今後も無いことを示す。
 大衆の“有益な”科学リテラシーへの期待は神話に過ぎない。我々は、学校での科学教育がそのようなリテラシーに導いてくれるのだと信じ込んできた。実際のところ、それを実現させるどのような手段も持ち合わせいないのにも関わらず、それができるのだという期待的態度は続いている。1989年、ブッシュ(父)大統領は「2000年のアメリカ」計画の一環として、2000年までにアメリカの生徒が科学と数学で世界一の成績になることなどを宣言した。このような非現実的なビジョンでは、多くの資金がつぎ込まれるだけで無駄に終わるだろう。

 科学リテラシーの問題は、単一の問題に集約できない。「科学リテラシーは大衆の利益のために不可欠か」「科学リテラシーは無理のない努力で得られるものなのか」「科学にliterateであるということは実際どういう意味なのか」などを問わなくてはいけない。そのためには、科学リテラシーの歴史を辿ることにもなる。その中で、科学という営み自体がその草創期に直面した哲学的問題と、我々が科学教育において直面している問題とのあいだに、奇妙な類似性があることも見出していく。これらの問題は、第1章から第4章までで扱う。第5章では過去の「二つの文化」の論争について、第6章では科学教育のカリキュラムに関する近年の努力とその貢献について考察する。第7章は科学教育の未来について、特にそこでの教師の役割などについて論じる。第8章では、どれだけの科学リテラシーが本当に必要とされているのかを考察し、一般的な科学教育の根本的な目的を問う。第9章ではこれら全てを踏まえて、一般に考えられている意味での科学リテラシーは理想論に過ぎないという前提から出発し、その代わりとなるアプローチを提案する。エピローグでは、科学教育のために連邦政府が果たすべき役割を論じる。
 この本の中では、生徒の科学リテラシーよりも大人の科学リテラシーが強調される。その理由は単純で、社会において科学的知識を役立てる立場にいるのは大部分が大人だからである。

2014年2月19日

植物進化生物学が誕生するまで Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 313–21.

植物学と進化論の総合に関する歴史の概説です。


Darwin’s Botanical Work

 ダーウィンの植物学的業績は膨大であったが、20世紀の後半に至るまで十分に評価・理解されていなかった。ダーウィンの研究が分類学的な正確さや、19世紀の植物学における実験的な厳密さを欠いていたことはこのことの原因の一部であった。20世紀中頃に植物進化生物学と呼べる分野が出現し、さらに20世紀後半に植物生態学、植物集団生物学、植物進化生態学といった分野が成熟してようやくダーウィンの植物学的貢献は評価された。

 植物自体の側に、植物進化についての首尾一貫した理論を定式化する試みを妨げる原因があったのは間違いない。植物は頻繁に雑種形成をするので交配実験に向いており、種分化のメカニズムの理解につながるが、雑種形成それ自体が遺伝学的に適切に理解されるまでは植物進化を理解する上での問題が残ってしまう。自家受精と他家受精、無性生殖などの様々な生殖手段と雑種形成が遺伝学的な術語で理解されるまで、それらは進化研究に有用であると同時に混乱の元であった。それに環境に適応して形を変える可塑性、化石化される部位が少なく系統発生史を復元するのが難しいことなども植物進化の研究を難しくしていた。それゆえ、ダーウィンの努力にも関わらず植物学者の大部分はネオラマルキズムを唱え、あるいは雑種形成による進化や、ド・フリースの突然変異説などを支持した。


Plants, Post-Darwinian Developments and the Rise of Mendelian Genetics

「進化論の総合」と呼ばれる1930~40年代にいたるまで、植物進化生物学は十分に発展しなかった。総合の時期にダーウィン的な進化の理解はメンデル遺伝学と統合され、生物学的多様性の起源が説明できるようになった。ダーウィンが必要としていた遺伝の理論は、メンデルが提供していた。メンデルの業績は1900年に3人の研究者によって「再発見」された。「遺伝学」を提唱したベートソンはメンデルをそのディシプリンを築いた人物とみなした。

 世紀の変わり目は、生物学者たちが植物に注目し植物科学が飛躍的に発展した時期であった。遺伝学の発展は、概念的にも組織的にも、園芸や植物の育種、植物の雑種形成、植物遺伝学と結び付いていた。大学や機関の環境で農業や園芸に重点が置かれていることを活かし、植物遺伝学は20世紀最初の2~30年間で大きく拡大した。

 しかし当初、そこで生まれた豊富なデータは、ダーウィンの漸進的な進化の理論と正反対とは言わないまでも、混乱を生むものであった。それゆえ、植物研究者の中にはド・フリースの突然変異説を支持する者もいた。オオマツヨイグサの形態的変化にヒントを得たド・フリースが1901年から1903年に発展させた説では、新種は突然の激烈な突然変異によって出現する。そこでは自然選択には除去の役割しかなく、創造的な役割をもつのは突然変異である。古い自然史的伝統の流れを汲む記述的なダーウィニズムに対し、突然変異説は実験的で、よりハードな科学であって前途有望であるように思われた。20世紀の最初の20年間には、オオマツヨイグサの特殊な振る舞いに刺激を受け、植物の染色体の振る舞いを研究し、雑種形成のプロセスを明らかにしようと交配実験を重ねる研究者が多かった。しかし1917年から1922年のあいだまで、植物遺伝学者たちはその植物が永続的な転座異型接合体であることを実証できなかった。

 マツヨイグサの謎は解決に時間がかかり、多くの研究者たちをダーウィンの自然選択説に反対させた。それゆえマイアやダーリントンやステビンズは、このことが植物進化を正しく理解するための障害になったのだと示唆した。しかしこの見方は間違えであって、交配や雑種形成のパターンによって決まり、形態学的に表現される染色体レベルのメカニズムの複雑な総合作用に注目を集めることによって、マツヨイグサは種分化を理解するための道具としての植物の有用性に研究者たちを注目させたのである。次の20年間に、染色体の振る舞い、雑種形成、形態についてのそのような研究や分類学の知識を、自然集団における地理的変異のパターンと結びつけるにあたって、そのような貢献は実は核心的だったのである。


Plants and the Synthesis of Genetics, Systematics, and Paleontology (1920–1950)

 19世紀末の細胞学の進歩によって、染色体には注目が集まっていた。植物の染色体は、動物に比べて大きく数が少ないなどの理由で、細胞学的研究を受けやすかった。倍数性の現象は、プリムラ・キューエンシスとオオマツヨイグサなどの植物で発見された。しかし1917年にOvjnid Wingeの先駆的研究「染色体――それらの数と一般的重要性」が発表されるまで、倍数性のような現象とその生殖プロセスでの染色体の振る舞いが、倍数性・雑種形成・種分化のあいだの関係に注目を惹くことはなかった。染色体の倍加が種内雑種の形成を可能にするというWingeの示唆は、その後次々に実証された。人工的な異質倍数体は、R. E. ClausenとGoodspeedが1925年に実証した。倍数体は既にいくつもの種で認識されているという認識と共に、分類群の系統学的再構築への道は開けた。このようにして、メンデルの再発見、マツヨイグサ遺伝学への関心の高まり、顕微鏡・染色・薄片作製の技術の向上は、細胞学的研究における植物の利用の高まりをもたらした。進化論者にとって最も重要だったのは、染色体数の数と特質は近いグループの関係を決めるのに使えるという認識であった。そのような諸研究の統合は、植物進化の一般理論を導く第一段階だった。
 新しい手法や洞察を用いて植物の種分化や進化を検討する最初期の研究の一つは、ドイツのバウア(Erwin Baur)による、キンギョソウの遺伝と種間関係を理解しようとする1932年の研究である。バウアはそのあとすぐ亡くなってしまったため、彼の研究が完成することはなかったが、それは植物進化の理解のための総合的な研究に道を開いた。

 植物分類学、より正確には植物体系学は、1920年代にダーウィン的進化とゆっくり合体しはじめた。当時、植物分類学者たち全員が集団中心のダーウィン的な思考を受け入れていたわけではなかった。分類学者たちは変異の多い適応的な形質よりも、変異の少ない非適応的形質を重視して分類をしていた。リンネの影響は強く、自然集団における変異のパターンよりも、植物標本に基づいた仕事が行われていた。1920年代に多くの体系学者がそのような静的なアプローチの改革を求め、変異や自然環境における集団の研究を強調した。たとえばスウェーデンのチューレソン(Göte Turesson)は初期の移植実験研究を利用し、環境に対する遺伝型の応答と表現型の応答を識別した。また生態型(異なる環境に移植しても保存されるはっきり異なる形態的・生理的形質を示す、環境に適応した特定の型)の概念をはじめて提唱した。チューレソンが完成させた種生態学(genecology)は自然植物集団におけるそのような変異パターンの理解に大きく貢献した。同様にトゥリル(J. B. Turrill)は、植物が様々な土壌環境にどのように適応するかを調査した。

 チューレソンの生態学的業績、バウアの遺伝学的洞察、その他1920年代の多くの研究者の努力は、1930年代半ばにサンフランシスコ湾岸地帯において結実する。ここでは、専門家たちが植物進化の理解のために学際的な視野を持ち込みはじめていた。1920年代にカリフォルニア大学バークレー校の体系学者Harvey Monroe Hallと生態学者Frederic Clementsは、植物標本室中心の分類学的手法の改革を訴え、系統発生史の反映や環境変異を強調していた。彼らは伝統的な植物分類学者からの抵抗も受けるが、1923年に『分類学の系統学的方法』と題したマニフェストを出版した。Hallはさらに、植物移植実験のプログラムを設立し、様々な分野の知識をもった研究者を求めた。デンマークの遺伝学者・遺伝生態学者であったJens Clausenがワシントンカーネギー協会によってカリフォルニアに呼び寄せられ、分類学者David Keck、生理学者William Hieseyと共同研究を開始した。この「カーネギーチーム」は1930~40年代を通して、地形的な勾配を利用して優れた移植研究をいくつも行った。彼らは環境への応答に光を当てただけでなく、植物の種分化のメカニズムを理解し、植物界において何が正式な種といえるのかを明らかにし、そしてラマラク遺伝を却下する証拠を提供してダーウィン的自然選択説を再建した。3人の努力は指導的進化学者たちの注目を惹き、特にドブジャンスキーは現場を共有するようになった。

 少なくともカーネギーチームと同等に重要なのが、Hallの共同研究者でもあったバークレー校の遺伝学者バブコック(Ernest Brown Babcock)に関連した努力である。米国ではじめて遺伝学部を設立したことでも知られるバブコックは、モーガンのショウジョウバエ遺伝学の成功を植物でも起こそうと、様々な環境で繁殖するクレピス属に目を付けた。しかし雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用は複雑で謎に包まれており、属の基礎的な系統関係もわからなかった。そこでバブコックは系統学的、すなわち進化的な研究を目指すことになる。彼は様々な学際的技術を取り入れたほか、植物化石から得た洞察を地理的分布の議論に適用した最初の人物の一人であった。1947年にバブコックはクレピス属の系統発生史を包括的にまとめた『クレピス属』を出版し、種分化のメカニズムに焦点を当て、種を非本質主義的に見る「バイオシステマティクス」による植物進化の動的な理解の古典的著作となった。

 この基礎は1938年にステビンズと出版したモノグラフで築かれていた。ステビンズと共同で研究することで、バブコックは雑種形成、倍数性、アポミクシスの総合作用の問題を解いていた。彼らは、植物の特定の属は、有性生殖二倍体を中心として倍数体を生む生殖形式の複合体から成っていることを認識した。倍数性複合体をはっきり示したことは当時の先駆的業績だった。またそれは、種形成、アポミクシスの型における多形性、複合体のプロセスからどのように属の系統発生史を得るかについての知識、などについての洞察も提供していた。ステビンズはこれをさらに掘り下げ、1947年にレビュー記事を書いた。

 バブコックの活動的なクレピス属研究経営により、1930年代には植物遺伝学・体系学・古生物学の融合に注目が集まった。彼は学生や共同研究者や海外からの訪問者などを湾岸地帯に集め、1930年代までには彼とカーネギーチームにより、湾岸地帯は植物進化研究のハブとなっていた。彼らはさまざまな生物を扱う体系学者たちの非公式のグループを組織した。このグループの人々は遺伝学を用いた新しい体系学を志向しており、バイオシステマティストを名乗っていた。グループは湾岸地帯への頻繁な訪問者も引きつけており、アンダーソンやCarl Epling、ドブジャンスキーなどが居た。アンダーソンはアイリスの変異や進化を理解しようとしたことで、変異を測定する方法を考案しただけでなく、移入をきたす雑種形成のメカニズムを理解することになった。

 ドブジャンスキーの1937年の著作『遺伝学と種の起源』は、他の重要著作がコロンビア大学出版から次々に出版されるための触媒となった。1941年にアンダーソンはマイアと共にジェサップ講義に招かれたが、講義をまとめて出版することはなかった。1945年、バークレー校のステビンズは交流の深いドブジャンスキーの推薦によって、コロンビア大学のL.C. Dunnからジェサップ講義に招かれた。この講義は1946年に行われた。彼は雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用を説明しつつ、ダーリントンの遺伝的システムの考えを利用し、それら自身が選択に従属する遺伝的システムとして理解されることを議論した。ステビンズが1950年に出版した『植物の変異と進化』は、Peter Ravenに「今世紀の植物体系学で最も影響力のあった一冊の本」と評された。この本は、植物進化生物学という新しい分野の概念的フレームワークを形成した。1930~40年代では、すべての植物学者が新しい手法やアプローチや洞察を受け入れていたわけではなかったが、それらを統合した新しい学問分野は1950年までに登場し、植物進化生物学はついにダーウィンの植物学的努力の中心性を認識したのである。

2014年2月17日

「総合」のヒストリオグラフィー批判 Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies”

Joe Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies,” Journal of the History of Biology 42 (2009): 621-48.

 「進化論の総合」という単位概念を放棄することを提案し、代わりに4つの筋道で1930年代の進化研究を捉え直そうとする論考です。種と種分化の問題の重要性、そしてその問題と関連した潮流があったことが強調されています。

 半世紀にわたって、「進化論の総合」という概念は非常に役立つものでした。その概念はHuxleyをはじめとしたいわゆる総合説の建設者たちにとっても、体系学者たちにとっても評論家にとっても有用なものでした。
 しかし、「総合」のヒストリオグラフィーを、この物語を用いてきた沢山の使用例から切り離すことは今までできませんでした。たとえばHuxleyやMayrの使用例があります。Huxleyの「ダーウィニズムの失墜」の物語は意図的にウィッグ史観であり、Huxleyの役割を正当化していました。Mayrの歴史研究は、彼自身の科学的遺産の再発見と合理化を行うものでした。
 現代の「総合」のヒストリオグラフィーは2つの想定に基づいています。1つ目はhistorical realismです。歴史家たちは、「総合」という出来事があったことを前提として調査を行います。「総合」の定義に焦点を当て、中心的要素を特定し、縁を突き止め、年表を追います。また、誰が「総合」に貢献したか、どうして他の人よりも貢献したかを検討します。そして、何らかの要素が除外されていることや、要素が間違って理解されたり重み付けられたりしていることを批判します。総合についてひとつの統一された意味を与えるために努力するのです。しかも永続的な理論の建設に注目していて、ただ一つの進化理論、ただひとつの「進化論の総合」がそこにあるかのようです。2つ目は、結合することには意味がある、という想定です。歴史家たちは、内的・外的な様々な変数を、あるはずの「総合」という出来事に関連付けるために努力します。「古生物学と進化論の総合」「ロシアと進化論の総合」といったように、部分と全体の関係に焦点を当てます。このような結合には意味がありません。この類の分析は、それぞれの対象は結合されるべきだという首尾一貫性を前提としています。「進化論の総合」を単一の、まとまった、首尾一貫した事柄として押し付けているのです。
 「総合」の物語は、散乱し矛盾する歴史を綺麗なラインで置き換えるので多くの人々にとって有用でありました。しかし歴史研究の際には障害にもなります。
 「総合」の物語よりも、4つの筋道によって当時の進化研究はより良く捉えられます。
① 種の本質と種分化プロセスは、1930年代の進化研究において支配的な主題でした。
② 種や種分化の調査は「変異」「分岐」「隔離」「選択」の4つのラインで発展しました。そしてこれらの問題複合体に焦点を当てた「総合」が求められました。
③ 種問題や種分化プロセスの研究における自信の高まりは、実験分類学に関連した方法論的・認識論的変化と同時に起きました。
④ 1930年代における種問題と種分化への関心の高まりは、より大きな風潮、特にオブジェクトベースのナチュラリスト的ディシプリンからプロセスベースの生物学への移行と結びついていました。総合の推進者たちはこのより大きな風潮を支持していました。

 例として、Alfred Kinseyというカリバチの分類学者を検討してみましょう。彼の仕事は昔ながらの分類学の仕事でしたが、三名法を用いていました。三番目の名前は変種(亜種、品種)を表します。Kinseyの三名法には、分岐や隔離についての物語が埋め込まれていました。また、学名命名にあたっては実験的方法を熱心に用いており、染色体の数を数えたり、構造を比較したりもしていました。Kinseyは「総合」と関連付けられるべき種類の進化研究を1930年代にしていた人物の一人であり、new systematicsを実践していた人物といえます。

 new systematicsという言葉は当時の動物学と植物学における3つの異なる流行に当てはまります。1つ目の流行は実験分類学で、認識論的文化の移行として理解できます。移行の一つ目の層は、分類学における新しい基準(染色体数、比較血清学、比較生化学、行動学、生態学、生理学、雑種形成実験など)の登場です。二つ目の層は、分類における間違いを防ぐ方法(大量のサンプルを用いること、地理的に広くサンプルを用いること、仮説検定など)の採用です。
 1930年代の新しい技術の登場は実験分類学を助けていました。たとえばPainter(1934)のショウジョウバエの唾液腺染色体で横縞模様を明らかにする技術は、すぐにSturtevantとDobzhanskyによって、フィールドで集めたショウジョウバエに用いられました。Blackeslee(1937)がクロヒチンの染色体数に対する影響を発表すると、すぐに農学者や園芸家たちが新しい変種を生産し、分類学者たちも実験に用いました。実験分類学の道具は、種内や属内の変異の性質について問う人々にとって有用になり、1920年代から30年代にかけて、植物学者はこれらの適用を動物学者より大規模にかつ速く進めました。
 生物学的種概念は実験分類学の新しい認識論的要求(客観性や検証)に対する返答の例です。後に総合として記憶されることになる動きの中での実験分類学の重要性を低く見積もることはできません。歴史家たちは総合の理論的要素(自然選択、メンデル遺伝学など)の融合に焦点を当てていますが、当時の研究者たちは古典的分類学の技術と実験分類学の技術の総合を祝福していました。

 new systematicsの2つ目の流行は種問題で、1930年代のたくさんの植物学者と動物学者が議論と貢献を熱望していた問題でした。種問題は古い問題ですが、1920年代と1930年代には難しいモデルケースが増えていました。Rassenkreisまたはring species、clines、super species、species complexesなど用語も増えました。1930年代の種問題には多くの貢献者がいました。
 1941年にAlfred Emersonは種分化に関する文献のビブリオグラフィーを出版しています。Emersonの分類は1930年代後半の種分化研究における関心の幅をよく捉え、4つの問題「変異」「分岐」「隔離」「選択」に凝縮していました。歴史家はこの幅をよく忘れ、選択と浮動や選択と結び付いた遺伝学に焦点を当てがちです。
 1930年代後半では、調査が「総合」の重要な側面であり、master narrativeやパラダイムはありませんでした。この時期、調査は幅広い領域でなされ、トピックの選択を制限する要素は少なかったので、研究者たちは非競争的な環境の中で、自分たちが同じ考え方をもっているとみなしやすい状況にありました。彼らはディシプリンを越え、共通のプロジェクトに取り組んでいるという意識を高めていきました。1930年代後半までに、彼らは何かを解いたという感覚を得ました。この自信は、プロジェクト全体に正当性のムードをつくりだします。1939年には、the Society for the Study of Speciationも始まりました。1930年代に進化研究が復興したのは、特に種分化の動力学においてでした。

 1930年代の「総合」の3つ目の面は、生命科学のより大きな潮流、すなわち、物体からプロセスへ注意の対象が移行したことに結び付いていました。たとえばKinseyも現象の理由や原因を探求することを重視しており、彼の分類は分岐や隔離や適応による物語を形成していました。彼の進化のプロセスに対する興味は、プロセスや原因、メカニズムに焦点を当てた彼の生物学者としてのアイデンティティと関係していたのです。また1930年代、Huxleyは進化研究においても生命科学全体においても、物体からプロセスへ研究対象を移行させることを唱えました。
 1930年代に進化研究に関心をもつ研究者たちが物体からプロセスに移行した理由は明らかではありません。より正確にいえば、研究者たちはこの移行を幾度となく追求してきていましたが、このときだけ広く共鳴し根付いた理由が明らかではないのです。しかし、同様の移行が生態学、動物行動学、発生生物学など広い領域で同じ時期にあったことは偶然ではないでしょう。

 「総合」についての物語は再考を要します。1940年代のストーリーは計画的なディシプリンの建設であり、特定のテーマと特定の人々の優越でした。しかし1930年代は異なっており、この10年間では「総合」は複数の意味の層をもっていました。調査のメイントピックは自然選択の復活や数理集団遺伝学の台頭ではなく、種分化の問題だったのです。