2014年2月23日

「科学を知る」教育から、「科学とは何かを知る」教育へ Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Ch. 3

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 45–72.


 科学についての共有リテラシーを達成するための洞察を得るため、この章では科学自体の本質について検討する。というのも科学という営みは、他の知的な営みとは大きく異なっているからである。大衆に科学リテラシーを身につけさせるという試みの失敗は、彼らがたとえ科学に興味をもっていても、難しいとか学んでも報われないとか思ってしまうというところにあった。これは目標が高すぎるのである。科学教育者たちが言うことに反して、学術的な意味で「科学を知る」ということは、社会的な意味で科学リテラシーを得るためにじつは必ずしも必要ではない。しかし、「科学とは何か」を知ることはそのようなリテラシーを得るのに不可欠である。大衆に科学を詳細に理解させることはできないけれども、科学という営みがどのように動くのかを、科学リテラシーの社会的目的に叶うように教えこむことはできるかもしれない。

●単純な定義はない
 科学は人間が生み出した、普通の事柄を見て理解しようとするための特別なやり方であると言える。なぜ「特別」かと言えば、我々の日常的な思考スタイルは、自然現象の原因を理解するのには不適当だからである。科学の主要な概念図式(たとえば原子説)は、直接的に実験で検証できるわけではないが、我々の経験を満足に説明してきたことから、絶対確実ではなくともかなりの程度信頼できる。
 科学は単純に定義できない。宇宙についての有用な知識の集合であり、研究の方法であり、自然の規則の探求であり、第一原理の探求であり、自然現象を理解・説明・予測することを目標とするものである。そして何より、証明できる「真実」の探求である。科学が他の知的な営みと異なる特徴は、客観的な検証ができることである。

●自然は規則的
 科学の実践は、少なくとも巨視的に見れば自然は規則的で予測可能であるという信念、すなわち同じ状況下では同じ現象が観察できるという信念に基づいている。
科学者は科学者共同体を納得させるために、モデルや概念図式を考案する。このとき重要なのは、社会全体による受容ではなくて科学者共同体における受容である。科学を常に一般市民に理解できるようにしておこうとすると、科学の進歩が妨げられてしまう。それゆえ、科学はそれに慣れていない人にとっては理解するのが難しい。

●真実の探求
 科学は真実の探求であるが、ここで言う「真実」の意味には気をつけなければならない。科学の法則や理論は、それが自然の説明に成功している程度にだけ「真実」とみなされるのである。科学では絶対的真実を主張することはできない。検証を重ねることで理論の信頼性は高まっていくが、検証で否定されたときには修正されたり、他の理論に取って代わられたりする。科学は累積的でもあって、ふつう一つの否定的結果でそれまでの理論全体が否定されることはない。

●反証可能性という概念
 有意味な科学的言明は、検証可能であると同時に反証可能でなければならない。反証可能性は擬似科学を特定するときに役立つ基準となる。

●科学は何でないか
 科学は単に事実を集めるプロセスではない。また、科学は知識を得るための絶対確実な手順でもない。問題を立て、観察をし、仮説を立て、仮説に基づいて予測をし、実験をして予測を検証する、といった手順だけで科学はできない。適切な問題が何であるか、仮説を検証する実験はどのようにすればいいか、などといったことを知らなくてはならない。そしてこういったことを定式化はできないのである。

●科学 対 常識
 かつてT・H・ハクスリーは、科学は特別なものの見方ではなく、正確性や検証に気をつけているだけであって根本的には普通の人のものの見方と同じだと述べた。これは当時では部分的にだけ正しく、今ではもっと間違っているといえる。現代科学は日常生活とはかけ離れた、科学に特徴的な推論をする(たとえば量子力学、相対性理論)。科学理論を学ぶ際、常識を足がかりにできないのは一つの障害となっている。常識的説明に慣れていることが、科学的説明への移行に不安を感じさせてしまうこともある。

●自然は規則的に見える
 もし元素が1000億個存在する世界であったら、科学は個々の事実の果てしない集積でしかあり得なかっただろう。規則性と単純性はあらゆる知識にとって必要なものだ。オッカムの剃刀は科学にとって計り知れない価値を持つ指針である。

●自然は不規則的に見える
 自然は微視的に見れば極めてランダムな動きをしている。自然が規則的に見えるのは、巨視的なレベルで見ているからなのである。

●科学の言語
 科学の言語は数学である。数学は自然を正確に記述するだけでなく、新しい知識に我々を導いてくれる。科学のモデルや概念図式が現実世界を描くように考案されるのに対し、数学は現実世界に関係なく論理的構造をつくることができる。科学も数学も、大衆から理解されにくい点では共通している。

●科学的な営みを分類する
 自然界についての知識は、自然史、科学、テクノロジーの3つに分類される。自然史の主要な特徴は、観察・記述・体系的分類である。

●テクノロジーの役割
 科学がテクノロジーの発展をもたらすように、テクノロジーも科学に新しい器具や素材などを与える。生徒たちにとって、テクノロジーは科学よりずっと有意味に見える(テクノロジーには、科学には無いフックがある)。物理科学ではテクノロジーを科学と区別しやすいが、生命科学や医学では区別は難しくなる。また、あらゆるテクノロジーにはリスクとベネフィットが存在し、それらを0か1かではなく評価していかなければならない。

●工学の役割
 工学は複雑なテクノロジーであり、ある意味で科学とテクノロジーのインターフェースにあたる。工学者は科学と技術の双方の訓練を受けて、科学的原理を技術に応用する。

科学リテラシーの神話 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Preface

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), xi–xviii.

 今世紀に科学教育に向けられてきた熱い視線にも関わらず、アメリカの大衆に「科学リテラシー」を浸透させることはできていない。アメリカの教育では、科学は3R(読み書き算数)とほぼ同等の地位を占めてきた。しかし少数の科学者や技術者を生み出した以外では、アメリカは未だに科学的にilliterateなままであり、今後科学リテラシーが根付く見込みもない。費用対効果で考えれば、科学教育は断念されるべきであるとさえ言える。科学教育共同体は、もはやユートピアとみなされるべき理想に溺れ、「科学教育は根本的に新しいアプローチを採らなくてはならない」という意見を無視している。そして政治家たちやメディアはでたらめにも、意志と圧力さえあれば科学リテラシーを学校教育で教えることは簡単だとみなしてきた。
 「大衆の科学理解」というイディオムはもっと有意味であるはずだ。というのも、科学理解の対象としての大衆をいくつかに区別できるはずだからだ。科学技術に関係した問題を扱うロビー活動グループ、立法者、一般大衆、科学教育者、科学界の人々などがいる。科学、そして科学リテラシーの概念はそれぞれの人々にとって異なった意味を持つ。我々は単純に、それぞれの人々にとって重要な、異なる種類の科学理解を評価することに失敗してきたのだ。
 第二次世界大戦は科学自体と同時に、科学教育事業にもスポットライトを当てた。戦後の再工業化と科学教育を後押しし、スプートニク・ショックではカリキュラムの再構築のために多大な努力がなされた。しかしそのような努力は、universalな科学リテラシーというその主要な目標を達成することができていない。

 本書は科学教育の目的を明らかにし、科学リテラシーの歴史と意味を調査し、過去にそのようなリテラシーを広めることに失敗した理由を説明し、その見込みが今後も無いことを示す。
 大衆の“有益な”科学リテラシーへの期待は神話に過ぎない。我々は、学校での科学教育がそのようなリテラシーに導いてくれるのだと信じ込んできた。実際のところ、それを実現させるどのような手段も持ち合わせいないのにも関わらず、それができるのだという期待的態度は続いている。1989年、ブッシュ(父)大統領は「2000年のアメリカ」計画の一環として、2000年までにアメリカの生徒が科学と数学で世界一の成績になることなどを宣言した。このような非現実的なビジョンでは、多くの資金がつぎ込まれるだけで無駄に終わるだろう。

 科学リテラシーの問題は、単一の問題に集約できない。「科学リテラシーは大衆の利益のために不可欠か」「科学リテラシーは無理のない努力で得られるものなのか」「科学にliterateであるということは実際どういう意味なのか」などを問わなくてはいけない。そのためには、科学リテラシーの歴史を辿ることにもなる。その中で、科学という営み自体がその草創期に直面した哲学的問題と、我々が科学教育において直面している問題とのあいだに、奇妙な類似性があることも見出していく。これらの問題は、第1章から第4章までで扱う。第5章では過去の「二つの文化」の論争について、第6章では科学教育のカリキュラムに関する近年の努力とその貢献について考察する。第7章は科学教育の未来について、特にそこでの教師の役割などについて論じる。第8章では、どれだけの科学リテラシーが本当に必要とされているのかを考察し、一般的な科学教育の根本的な目的を問う。第9章ではこれら全てを踏まえて、一般に考えられている意味での科学リテラシーは理想論に過ぎないという前提から出発し、その代わりとなるアプローチを提案する。エピローグでは、科学教育のために連邦政府が果たすべき役割を論じる。
 この本の中では、生徒の科学リテラシーよりも大人の科学リテラシーが強調される。その理由は単純で、社会において科学的知識を役立てる立場にいるのは大部分が大人だからである。

2014年2月19日

植物進化生物学が誕生するまで Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 313–21.

植物学と進化論の総合に関する歴史の概説です。


Darwin’s Botanical Work

 ダーウィンの植物学的業績は膨大であったが、20世紀の後半に至るまで十分に評価・理解されていなかった。ダーウィンの研究が分類学的な正確さや、19世紀の植物学における実験的な厳密さを欠いていたことはこのことの原因の一部であった。20世紀中頃に植物進化生物学と呼べる分野が出現し、さらに20世紀後半に植物生態学、植物集団生物学、植物進化生態学といった分野が成熟してようやくダーウィンの植物学的貢献は評価された。

 植物自体の側に、植物進化についての首尾一貫した理論を定式化する試みを妨げる原因があったのは間違いない。植物は頻繁に雑種形成をするので交配実験に向いており、種分化のメカニズムの理解につながるが、雑種形成それ自体が遺伝学的に適切に理解されるまでは植物進化を理解する上での問題が残ってしまう。自家受精と他家受精、無性生殖などの様々な生殖手段と雑種形成が遺伝学的な術語で理解されるまで、それらは進化研究に有用であると同時に混乱の元であった。それに環境に適応して形を変える可塑性、化石化される部位が少なく系統発生史を復元するのが難しいことなども植物進化の研究を難しくしていた。それゆえ、ダーウィンの努力にも関わらず植物学者の大部分はネオラマルキズムを唱え、あるいは雑種形成による進化や、ド・フリースの突然変異説などを支持した。


Plants, Post-Darwinian Developments and the Rise of Mendelian Genetics

「進化論の総合」と呼ばれる1930~40年代にいたるまで、植物進化生物学は十分に発展しなかった。総合の時期にダーウィン的な進化の理解はメンデル遺伝学と統合され、生物学的多様性の起源が説明できるようになった。ダーウィンが必要としていた遺伝の理論は、メンデルが提供していた。メンデルの業績は1900年に3人の研究者によって「再発見」された。「遺伝学」を提唱したベートソンはメンデルをそのディシプリンを築いた人物とみなした。

 世紀の変わり目は、生物学者たちが植物に注目し植物科学が飛躍的に発展した時期であった。遺伝学の発展は、概念的にも組織的にも、園芸や植物の育種、植物の雑種形成、植物遺伝学と結び付いていた。大学や機関の環境で農業や園芸に重点が置かれていることを活かし、植物遺伝学は20世紀最初の2~30年間で大きく拡大した。

 しかし当初、そこで生まれた豊富なデータは、ダーウィンの漸進的な進化の理論と正反対とは言わないまでも、混乱を生むものであった。それゆえ、植物研究者の中にはド・フリースの突然変異説を支持する者もいた。オオマツヨイグサの形態的変化にヒントを得たド・フリースが1901年から1903年に発展させた説では、新種は突然の激烈な突然変異によって出現する。そこでは自然選択には除去の役割しかなく、創造的な役割をもつのは突然変異である。古い自然史的伝統の流れを汲む記述的なダーウィニズムに対し、突然変異説は実験的で、よりハードな科学であって前途有望であるように思われた。20世紀の最初の20年間には、オオマツヨイグサの特殊な振る舞いに刺激を受け、植物の染色体の振る舞いを研究し、雑種形成のプロセスを明らかにしようと交配実験を重ねる研究者が多かった。しかし1917年から1922年のあいだまで、植物遺伝学者たちはその植物が永続的な転座異型接合体であることを実証できなかった。

 マツヨイグサの謎は解決に時間がかかり、多くの研究者たちをダーウィンの自然選択説に反対させた。それゆえマイアやダーリントンやステビンズは、このことが植物進化を正しく理解するための障害になったのだと示唆した。しかしこの見方は間違えであって、交配や雑種形成のパターンによって決まり、形態学的に表現される染色体レベルのメカニズムの複雑な総合作用に注目を集めることによって、マツヨイグサは種分化を理解するための道具としての植物の有用性に研究者たちを注目させたのである。次の20年間に、染色体の振る舞い、雑種形成、形態についてのそのような研究や分類学の知識を、自然集団における地理的変異のパターンと結びつけるにあたって、そのような貢献は実は核心的だったのである。


Plants and the Synthesis of Genetics, Systematics, and Paleontology (1920–1950)

 19世紀末の細胞学の進歩によって、染色体には注目が集まっていた。植物の染色体は、動物に比べて大きく数が少ないなどの理由で、細胞学的研究を受けやすかった。倍数性の現象は、プリムラ・キューエンシスとオオマツヨイグサなどの植物で発見された。しかし1917年にOvjnid Wingeの先駆的研究「染色体――それらの数と一般的重要性」が発表されるまで、倍数性のような現象とその生殖プロセスでの染色体の振る舞いが、倍数性・雑種形成・種分化のあいだの関係に注目を惹くことはなかった。染色体の倍加が種内雑種の形成を可能にするというWingeの示唆は、その後次々に実証された。人工的な異質倍数体は、R. E. ClausenとGoodspeedが1925年に実証した。倍数体は既にいくつもの種で認識されているという認識と共に、分類群の系統学的再構築への道は開けた。このようにして、メンデルの再発見、マツヨイグサ遺伝学への関心の高まり、顕微鏡・染色・薄片作製の技術の向上は、細胞学的研究における植物の利用の高まりをもたらした。進化論者にとって最も重要だったのは、染色体数の数と特質は近いグループの関係を決めるのに使えるという認識であった。そのような諸研究の統合は、植物進化の一般理論を導く第一段階だった。
 新しい手法や洞察を用いて植物の種分化や進化を検討する最初期の研究の一つは、ドイツのバウア(Erwin Baur)による、キンギョソウの遺伝と種間関係を理解しようとする1932年の研究である。バウアはそのあとすぐ亡くなってしまったため、彼の研究が完成することはなかったが、それは植物進化の理解のための総合的な研究に道を開いた。

 植物分類学、より正確には植物体系学は、1920年代にダーウィン的進化とゆっくり合体しはじめた。当時、植物分類学者たち全員が集団中心のダーウィン的な思考を受け入れていたわけではなかった。分類学者たちは変異の多い適応的な形質よりも、変異の少ない非適応的形質を重視して分類をしていた。リンネの影響は強く、自然集団における変異のパターンよりも、植物標本に基づいた仕事が行われていた。1920年代に多くの体系学者がそのような静的なアプローチの改革を求め、変異や自然環境における集団の研究を強調した。たとえばスウェーデンのチューレソン(Göte Turesson)は初期の移植実験研究を利用し、環境に対する遺伝型の応答と表現型の応答を識別した。また生態型(異なる環境に移植しても保存されるはっきり異なる形態的・生理的形質を示す、環境に適応した特定の型)の概念をはじめて提唱した。チューレソンが完成させた種生態学(genecology)は自然植物集団におけるそのような変異パターンの理解に大きく貢献した。同様にトゥリル(J. B. Turrill)は、植物が様々な土壌環境にどのように適応するかを調査した。

 チューレソンの生態学的業績、バウアの遺伝学的洞察、その他1920年代の多くの研究者の努力は、1930年代半ばにサンフランシスコ湾岸地帯において結実する。ここでは、専門家たちが植物進化の理解のために学際的な視野を持ち込みはじめていた。1920年代にカリフォルニア大学バークレー校の体系学者Harvey Monroe Hallと生態学者Frederic Clementsは、植物標本室中心の分類学的手法の改革を訴え、系統発生史の反映や環境変異を強調していた。彼らは伝統的な植物分類学者からの抵抗も受けるが、1923年に『分類学の系統学的方法』と題したマニフェストを出版した。Hallはさらに、植物移植実験のプログラムを設立し、様々な分野の知識をもった研究者を求めた。デンマークの遺伝学者・遺伝生態学者であったJens Clausenがワシントンカーネギー協会によってカリフォルニアに呼び寄せられ、分類学者David Keck、生理学者William Hieseyと共同研究を開始した。この「カーネギーチーム」は1930~40年代を通して、地形的な勾配を利用して優れた移植研究をいくつも行った。彼らは環境への応答に光を当てただけでなく、植物の種分化のメカニズムを理解し、植物界において何が正式な種といえるのかを明らかにし、そしてラマラク遺伝を却下する証拠を提供してダーウィン的自然選択説を再建した。3人の努力は指導的進化学者たちの注目を惹き、特にドブジャンスキーは現場を共有するようになった。

 少なくともカーネギーチームと同等に重要なのが、Hallの共同研究者でもあったバークレー校の遺伝学者バブコック(Ernest Brown Babcock)に関連した努力である。米国ではじめて遺伝学部を設立したことでも知られるバブコックは、モーガンのショウジョウバエ遺伝学の成功を植物でも起こそうと、様々な環境で繁殖するクレピス属に目を付けた。しかし雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用は複雑で謎に包まれており、属の基礎的な系統関係もわからなかった。そこでバブコックは系統学的、すなわち進化的な研究を目指すことになる。彼は様々な学際的技術を取り入れたほか、植物化石から得た洞察を地理的分布の議論に適用した最初の人物の一人であった。1947年にバブコックはクレピス属の系統発生史を包括的にまとめた『クレピス属』を出版し、種分化のメカニズムに焦点を当て、種を非本質主義的に見る「バイオシステマティクス」による植物進化の動的な理解の古典的著作となった。

 この基礎は1938年にステビンズと出版したモノグラフで築かれていた。ステビンズと共同で研究することで、バブコックは雑種形成、倍数性、アポミクシスの総合作用の問題を解いていた。彼らは、植物の特定の属は、有性生殖二倍体を中心として倍数体を生む生殖形式の複合体から成っていることを認識した。倍数性複合体をはっきり示したことは当時の先駆的業績だった。またそれは、種形成、アポミクシスの型における多形性、複合体のプロセスからどのように属の系統発生史を得るかについての知識、などについての洞察も提供していた。ステビンズはこれをさらに掘り下げ、1947年にレビュー記事を書いた。

 バブコックの活動的なクレピス属研究経営により、1930年代には植物遺伝学・体系学・古生物学の融合に注目が集まった。彼は学生や共同研究者や海外からの訪問者などを湾岸地帯に集め、1930年代までには彼とカーネギーチームにより、湾岸地帯は植物進化研究のハブとなっていた。彼らはさまざまな生物を扱う体系学者たちの非公式のグループを組織した。このグループの人々は遺伝学を用いた新しい体系学を志向しており、バイオシステマティストを名乗っていた。グループは湾岸地帯への頻繁な訪問者も引きつけており、アンダーソンやCarl Epling、ドブジャンスキーなどが居た。アンダーソンはアイリスの変異や進化を理解しようとしたことで、変異を測定する方法を考案しただけでなく、移入をきたす雑種形成のメカニズムを理解することになった。

 ドブジャンスキーの1937年の著作『遺伝学と種の起源』は、他の重要著作がコロンビア大学出版から次々に出版されるための触媒となった。1941年にアンダーソンはマイアと共にジェサップ講義に招かれたが、講義をまとめて出版することはなかった。1945年、バークレー校のステビンズは交流の深いドブジャンスキーの推薦によって、コロンビア大学のL.C. Dunnからジェサップ講義に招かれた。この講義は1946年に行われた。彼は雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用を説明しつつ、ダーリントンの遺伝的システムの考えを利用し、それら自身が選択に従属する遺伝的システムとして理解されることを議論した。ステビンズが1950年に出版した『植物の変異と進化』は、Peter Ravenに「今世紀の植物体系学で最も影響力のあった一冊の本」と評された。この本は、植物進化生物学という新しい分野の概念的フレームワークを形成した。1930~40年代では、すべての植物学者が新しい手法やアプローチや洞察を受け入れていたわけではなかったが、それらを統合した新しい学問分野は1950年までに登場し、植物進化生物学はついにダーウィンの植物学的努力の中心性を認識したのである。

2014年2月17日

「総合」のヒストリオグラフィー批判 Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies”

Joe Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies,” Journal of the History of Biology 42 (2009): 621-48.

 「進化論の総合」という単位概念を放棄することを提案し、代わりに4つの筋道で1930年代の進化研究を捉え直そうとする論考です。種と種分化の問題の重要性、そしてその問題と関連した潮流があったことが強調されています。

 半世紀にわたって、「進化論の総合」という概念は非常に役立つものでした。その概念はHuxleyをはじめとしたいわゆる総合説の建設者たちにとっても、体系学者たちにとっても評論家にとっても有用なものでした。
 しかし、「総合」のヒストリオグラフィーを、この物語を用いてきた沢山の使用例から切り離すことは今までできませんでした。たとえばHuxleyやMayrの使用例があります。Huxleyの「ダーウィニズムの失墜」の物語は意図的にウィッグ史観であり、Huxleyの役割を正当化していました。Mayrの歴史研究は、彼自身の科学的遺産の再発見と合理化を行うものでした。
 現代の「総合」のヒストリオグラフィーは2つの想定に基づいています。1つ目はhistorical realismです。歴史家たちは、「総合」という出来事があったことを前提として調査を行います。「総合」の定義に焦点を当て、中心的要素を特定し、縁を突き止め、年表を追います。また、誰が「総合」に貢献したか、どうして他の人よりも貢献したかを検討します。そして、何らかの要素が除外されていることや、要素が間違って理解されたり重み付けられたりしていることを批判します。総合についてひとつの統一された意味を与えるために努力するのです。しかも永続的な理論の建設に注目していて、ただ一つの進化理論、ただひとつの「進化論の総合」がそこにあるかのようです。2つ目は、結合することには意味がある、という想定です。歴史家たちは、内的・外的な様々な変数を、あるはずの「総合」という出来事に関連付けるために努力します。「古生物学と進化論の総合」「ロシアと進化論の総合」といったように、部分と全体の関係に焦点を当てます。このような結合には意味がありません。この類の分析は、それぞれの対象は結合されるべきだという首尾一貫性を前提としています。「進化論の総合」を単一の、まとまった、首尾一貫した事柄として押し付けているのです。
 「総合」の物語は、散乱し矛盾する歴史を綺麗なラインで置き換えるので多くの人々にとって有用でありました。しかし歴史研究の際には障害にもなります。
 「総合」の物語よりも、4つの筋道によって当時の進化研究はより良く捉えられます。
① 種の本質と種分化プロセスは、1930年代の進化研究において支配的な主題でした。
② 種や種分化の調査は「変異」「分岐」「隔離」「選択」の4つのラインで発展しました。そしてこれらの問題複合体に焦点を当てた「総合」が求められました。
③ 種問題や種分化プロセスの研究における自信の高まりは、実験分類学に関連した方法論的・認識論的変化と同時に起きました。
④ 1930年代における種問題と種分化への関心の高まりは、より大きな風潮、特にオブジェクトベースのナチュラリスト的ディシプリンからプロセスベースの生物学への移行と結びついていました。総合の推進者たちはこのより大きな風潮を支持していました。

 例として、Alfred Kinseyというカリバチの分類学者を検討してみましょう。彼の仕事は昔ながらの分類学の仕事でしたが、三名法を用いていました。三番目の名前は変種(亜種、品種)を表します。Kinseyの三名法には、分岐や隔離についての物語が埋め込まれていました。また、学名命名にあたっては実験的方法を熱心に用いており、染色体の数を数えたり、構造を比較したりもしていました。Kinseyは「総合」と関連付けられるべき種類の進化研究を1930年代にしていた人物の一人であり、new systematicsを実践していた人物といえます。

 new systematicsという言葉は当時の動物学と植物学における3つの異なる流行に当てはまります。1つ目の流行は実験分類学で、認識論的文化の移行として理解できます。移行の一つ目の層は、分類学における新しい基準(染色体数、比較血清学、比較生化学、行動学、生態学、生理学、雑種形成実験など)の登場です。二つ目の層は、分類における間違いを防ぐ方法(大量のサンプルを用いること、地理的に広くサンプルを用いること、仮説検定など)の採用です。
 1930年代の新しい技術の登場は実験分類学を助けていました。たとえばPainter(1934)のショウジョウバエの唾液腺染色体で横縞模様を明らかにする技術は、すぐにSturtevantとDobzhanskyによって、フィールドで集めたショウジョウバエに用いられました。Blackeslee(1937)がクロヒチンの染色体数に対する影響を発表すると、すぐに農学者や園芸家たちが新しい変種を生産し、分類学者たちも実験に用いました。実験分類学の道具は、種内や属内の変異の性質について問う人々にとって有用になり、1920年代から30年代にかけて、植物学者はこれらの適用を動物学者より大規模にかつ速く進めました。
 生物学的種概念は実験分類学の新しい認識論的要求(客観性や検証)に対する返答の例です。後に総合として記憶されることになる動きの中での実験分類学の重要性を低く見積もることはできません。歴史家たちは総合の理論的要素(自然選択、メンデル遺伝学など)の融合に焦点を当てていますが、当時の研究者たちは古典的分類学の技術と実験分類学の技術の総合を祝福していました。

 new systematicsの2つ目の流行は種問題で、1930年代のたくさんの植物学者と動物学者が議論と貢献を熱望していた問題でした。種問題は古い問題ですが、1920年代と1930年代には難しいモデルケースが増えていました。Rassenkreisまたはring species、clines、super species、species complexesなど用語も増えました。1930年代の種問題には多くの貢献者がいました。
 1941年にAlfred Emersonは種分化に関する文献のビブリオグラフィーを出版しています。Emersonの分類は1930年代後半の種分化研究における関心の幅をよく捉え、4つの問題「変異」「分岐」「隔離」「選択」に凝縮していました。歴史家はこの幅をよく忘れ、選択と浮動や選択と結び付いた遺伝学に焦点を当てがちです。
 1930年代後半では、調査が「総合」の重要な側面であり、master narrativeやパラダイムはありませんでした。この時期、調査は幅広い領域でなされ、トピックの選択を制限する要素は少なかったので、研究者たちは非競争的な環境の中で、自分たちが同じ考え方をもっているとみなしやすい状況にありました。彼らはディシプリンを越え、共通のプロジェクトに取り組んでいるという意識を高めていきました。1930年代後半までに、彼らは何かを解いたという感覚を得ました。この自信は、プロジェクト全体に正当性のムードをつくりだします。1939年には、the Society for the Study of Speciationも始まりました。1930年代に進化研究が復興したのは、特に種分化の動力学においてでした。

 1930年代の「総合」の3つ目の面は、生命科学のより大きな潮流、すなわち、物体からプロセスへ注意の対象が移行したことに結び付いていました。たとえばKinseyも現象の理由や原因を探求することを重視しており、彼の分類は分岐や隔離や適応による物語を形成していました。彼の進化のプロセスに対する興味は、プロセスや原因、メカニズムに焦点を当てた彼の生物学者としてのアイデンティティと関係していたのです。また1930年代、Huxleyは進化研究においても生命科学全体においても、物体からプロセスへ研究対象を移行させることを唱えました。
 1930年代に進化研究に関心をもつ研究者たちが物体からプロセスに移行した理由は明らかではありません。より正確にいえば、研究者たちはこの移行を幾度となく追求してきていましたが、このときだけ広く共鳴し根付いた理由が明らかではないのです。しかし、同様の移行が生態学、動物行動学、発生生物学など広い領域で同じ時期にあったことは偶然ではないでしょう。

 「総合」についての物語は再考を要します。1940年代のストーリーは計画的なディシプリンの建設であり、特定のテーマと特定の人々の優越でした。しかし1930年代は異なっており、この10年間では「総合」は複数の意味の層をもっていました。調査のメイントピックは自然選択の復活や数理集団遺伝学の台頭ではなく、種分化の問題だったのです。