2014年4月24日

伝記:エドガー・アンダーソン Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969)”

G. Ledyard Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969),” Biographical Memoirs of the National Academy of Sciences 49 (1978): 3–23.

 アンダーソンは20世紀の植物科学に消えることのない印象を残した。集団における変異を記録する彼の手法は広く普及した。また、ボストンのハーバード大学アーノルド植物園およびセントルイスのミズーリ植物園のスタッフとして、植物を愛する様々な人々や庭師たちとの交流をもった。
 ニューヨークに生まれ、ミシガンで育ったアンダーソンは16歳でミシガン農科大学に入学し、園芸学を専攻した。1919年にはボストンに向かい、ハーバード大学のバッセイ研究所の大学院生としてエドワード・イーストの下で働いた。アンダーソンはタバコの自家不和合性についての遺伝学を研究する一方で、田舎を歩いて野生の植物についても学んでいた。植物学者のDorothy Mooreと出会い、1923年に結婚した。
 1922年に博士号を取得してハーバード大学を離れ、9年間をミズーリ植物園で過ごした。このあいだに、植物集団の変異を見て記録する独創的で効果的な手法を開発していた。またこの時期に、植物の属の複雑性と変異の大きさを意識するようになっていた。Iris versicolorについての研究で、この種が実際は2つの種から成り立っていることを発見し、片方がもう片方から進化してきた過程を分析しようとした。しかしどちらの種の中にも、もう片方の種に進化したと想像できる集団は見出だせなかった。そこでアンダーソンは片方の種がまったく別の種から、不稔で安定した何世代にも渡って同じ特徴を示す複二倍体を生み出す染色体倍加に続く雑種形成によって進化したのだと結論づけた。これは、植物の種が染色体倍加に続く(あるいは伴う)雑種形成によって進化できるのだということを示した最初の実証の一つだった。
 別に調査していたAster anomalusはまったく異なる変異パターンを示しており、単一集団の中に種全体と同じほどの豊富な変異を保持していた。アンダーソンは実験によってこれらの変異の大部分が表現型の変化によるものであることを示したが、繁殖特性は豊富な遺伝子型変異を示し、しかも遺伝子型変異のわりには表現型変異が少なかった。さらに個体はヘテロ接合性が高く、自然受粉によるその子孫は種全体と同程度の幅の変異を示した。アンダーソンは自然集団における遺伝的変異の研究の先駆者であったといえる。
 1929年から30年にかけて、特別研究員としてイングランドに向かい、主にホールデンに指導されつつ、ダーリントンの下で細胞学を、フィッシャーとともに統計学を学んだ。ホールデンに紹介されたPrimula sinensisの変異体について、Dorothea De Wintonと共に分析した。
 1931年から35年までは、アーノルド植物園の樹木管理士としてハーバードに留まった。この時期、Karl Saxと共同で多くの重要な研究を行った。Saxはアンダーソンに、種の起源における染色体変異の重要性を気付かせていた。TradescentiaについてのSaxとの共同研究は、アンダーソンの2つの最大の貢献、すなわち遺伝子移入の概念と、 “hybridization of the habitat” の概念に導いた。
 1935年にミズーリ植物園に戻ってからは、以降の人生をそこで過ごした。Tradescentiaの研究では、環境の物理的条件に関して集団の変異パターンを記録し、また2つの異なる種の同所的出現を記録した。異なる生体適応をもっている2つの種が中間的生息地なしに近くで成長するときはいつでも、2つの種ははっきりと隔たっている。しかし、もし中間的生息地があれば、しばしば見かけ上の雑種に占領される。もし中間的生息地が、元の2つの種のどちらかの生息地に特徴的なものに次第に変化すれば、見かけ上の戻し交配した植物が見つかる。さらに、部分的に異所性の種の場合、種Aの変異パターンは、それ自体が育った地域より、種Bと重なった地域において大きい。アンダーソンはこの現象を「移入をきたす雑種形成」と呼んだ。
 Irisの研究に戻って、アンダーソンはミシシッピ川デルタ地帯の集団の複雑な変異パターンを分析した。ここでアンダーソンは、種間雑種は人間の活動で撹乱された生息地、特に元の種の物理的特徴の組合せが見られる場所において最も豊富であることを見出した。これらの新しい生息地を、 “hybridized habitats” と名付けた。
 この研究は、アンダーソンの最も重要で広く引用された著作『移入をきたす雑種形成』の出版、および同じテーマでの論文一報につながった。さらに、1954年にステビンズと共に「進化の刺激としての雑種形成」という論文を発表した。
 1939年、Paul MangelsdorfとRobert G. Reevesが発表したトウモロコシの起源に関する論文に刺激され、アンダーソンはトウモロコシの研究に踏み出す。この研究の中で散布図を用いる手法を洗練させており(pictorialized scatter diagram)、それは雑種の大群を分析する際に大いに有用なものだった。トウモロコシへの関心から、地理学者、人類学者、考古学者らと関わるようになり、分野横断的な研究も行った。こういった経験は1952年の『植物、人間、生命』の出版につながった。
1954年にミズーリ植物園の管理者となるが、仕事の多さのために1957年に辞職して教育と研究に戻った。しかし1960年代のあいだは病気に冒され、あまり創造的な仕事はできなかった。1969年に亡くなり、1972年のミズーリ植物園年代記で彼の特集が組まれた。またアンダーソンは1954年に、米国科学アカデミーに選ばれていた。
 アンダーソンは現代の植物科学において、創造的で実りある考えを生み出す能力をもった人物であったが、ときどきばかげた仮説を発表してしまう失策もあった。彼は謙虚な人柄であり、若いうちにクエーカーの会員となった、生涯にわたって信仰心の厚い人物でもあった。野心的で攻撃的な一面もあり、知性的に劣っているとみなした科学者を蔑むこともあった一方で、知性と野心のある若い科学者には温かい人物であった。

2014年4月21日

熱帯農業科学を築いた者たち Prieto, “Islands of Knowledge” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】

Leida Fernandez Prieto, “Islands of Knowledge: Science and Agriculture in the History of Latin America and the Caribbean,” Isis 104 (2013): 788–797.


 熱帯農産物の生産と輸出が活発化していた19世紀から20世紀前半における、ラテンアメリカおよびカリブ海の農業科学についての論考です。筆者によれば、これらの地域における農業科学の歴史は、「帝国主義」や「植民地科学」といった観点から、専ら「中心と周辺」のヒストリオグラフィーで研究されてきました。しかしこのような文脈の研究では、それぞれの土地において知識生産に携わっていた多様な主体(たとえばその土地の農業経営者、奴隷、エリート層、外来の学者など)が果たした役割や、それらの地域間のネットワークにおける様々な交換の重要性が見過ごされてきたと筆者はいいます。
 そこでこの論考では、「商品史」「生物交換の研究」「知識交換の研究」という三つの研究分野が紹介されます。これらの研究を概観すると、それぞれの地域で多様な主体が科学的手順を創造し、採用し、適用していたこと、それらの地域間で重要な交換が様々になされていたこと、そしてこうした過程によって熱帯農業科学が形作られ普及していたことが明らかになります。筆者の比喩によれば、それらの諸地域は「知識の島々」だったのであり、島々のネットワークは「科学知識のグローバル諸島」を構成していたのです。このようにして、科学知識にたくさんの多様な中心的場所があって相互作用していたことを認識することで、われわれは「中心と周辺」のヒエラルキーを解体し、新しいヒストリオグラフィーへと進むことができるのです。
(以上2段落は 4/24 に追記しました。)


【1】
 ラテンアメリカとカリブ海における科学と農業の接続は、帝国の拡大の文脈と、リベラルな国民国家の強固化の文脈で近年研究されてきた。これは、それら地域の輸出農産物(コーヒー、カカオ、ゴム、砂糖など)を、ヨーロッパの拡大と世界システムとしての資本主義の発展の鍵として捉えてきたためである。このような「中心と周辺」のヒストリオグラフィーにおける「植民地科学」や「帝国科学」といった術語を越えていくため、この論考では、「中心と周辺(帝国と植民地)」の境界を越える科学的・農学的知識を生み出し普及させた過程に、ラテンアメリカとカリブ海がどのように参加したかを調査する。
 生産をする全ての地域は、「知識の島」として作用してきた。それぞれの島は、「伝統的」な実践と「近代的」な実践が合流する科学的手順を創造し、採用し、適用してきた。これらの島々のあいだの接続の多様性のおかげで、「科学知識のグローバル諸島」と呼べるものが構成されていた。そして、熱帯地方の特産物の生産と貿易が拡張していた19~20世紀は、これらの接続が拡張・深化した時代であり、新しい科学的・農学的知識の導入と採用が必要とされた時代であった。
 この論考では特に、商品史、生物交換の研究、知識交換の研究という3つの分野を扱う。これらの方法論は、有用な分析枠組みを提供してくれるのである。

【2】商品史
 商品史は熱帯地方の農業生産物を、社会経済的・政治的・文化的プロセスにおける主要因とみなし、商品の生産から販売までに生まれる複雑な社会文化的関係を特権化する。そのために、ラテンアメリカとカリブ海の地域は農学的・工業的な知識の単純な受け取り役ではないという考え方が強調される。特に有用なのは「帝国の商品」という題目のもとに集められた研究で、植民地世界でのローカルなプロセスと、その世界経済の発展への影響を分析している。
 たとえば、19世紀中頃のキューバで、砂糖の生産を近代化するために土地所有者に雇われた工学者や専門家たちのグループが商品史で注目されている。これらの人々の多くは、地元の土地所有者たちの要請によって英国や米国、フランスから渡ってきた人々で、蒸気機関を設置し管理する知識や経験を持ち込んだ。しかし彼らの知識は直線的に普及したわけではなく、それは砂糖生産の管理者や奴隷をはじめとした地元の多様なアクターとの複雑な相互作用による、学習と交渉のプロセスであった。それらの主体がみな、工業的知識に貢献したことで、キューバは世界最大の砂糖生産地となれたのである。
 他にも、アメリカ出身の農学者がキューバで育種技術を導入したり、熱帯作物の疫病研究を実施したりした際に、現地の植物学者や農学者の経験や専門的知識が土台になっていたことは、科学者も知識の伝播をする主体となりえたことを示している。オランダの植民地であったジャワ島の砂糖生産者がキューバで発展した栽培システムを取り入れていたことは、グローバルなレベルで農学的知識の拡散があったことを示している。
 一般的に商品史は、社会的関係を生態学的関係以上に特権化するが、ラテンアメリカで農産物の輸出が増大していた時期の農業システムの同質化は、森林破壊や土壌の疲弊といった結果を招いていた。この問題に対して、ラテンアメリカやカリブ海の当局や地元のエリート層、農家、企業などの人々は新しい科学を必要とし、実験をしたり組織をつくったりしていた。科学者だけではなく、こういった地元の人々も環境変化に対応し科学の適用をしていたのである。

【3】生物交換
 生物交換の研究は、帝国や植民地のあいだで植物や動物、病原菌などがどのように移動したかを強調してきた。特に、生態系の同質化や再構成が微生物の広まりに適した環境条件を生み出した道筋に焦点が当てられてきた。そして農業病害虫の抑制と撲滅の必要性のために、国境を超えてグローバルな農学的知識に到達するローカルな知識が生み出された。より一般的に言えば、カリブ海は「長い19世紀」に「“新”コロンブス交換」を経験していた。
 種々の生態学的環境において農産物の生産システムが増大すると、「商品病」が蔓延るようになる。商品病は、政府や地元のエリート層による自由主義の開発戦略の結果としてラテンアメリカとカリブ海じゅうに現れた(このことを「自由主義の疫病」という)。そして発生した病気はそれ自体、新しい知識の生産と普及を招来した。たとえば、19世紀中頃にキューバとジャマイカのココナッツプランテーションで発生した病気はすぐにカリブ海じゅうで蔓延し、キューバ人、スペイン人、アメリカ人など様々な立場の人々によって研究されることになった。
 温帯から熱帯(あるいはその逆)には広がらない知識があるということも、これらの病気の事例から明らかになる。ヨーロッパで開発された、作物の疫病に対抗するためのモデルは熱帯には適さず、ナチュラリストたちは現地で手段を開発しなければならなかった。その一方で、熱帯に属する地域どうしでは知識を共有することができた。
 また、人間の開発によって地球上の様々な地域のあいだで作物の病気が移っていく一方で、それぞれの地域において病気に対抗するための研究がなされた。このような歴史に焦点を当てることで、地球上に農学的知識を生み出す中心的場所が多く存在したことを明らかにできる。
 生物交換の研究はそのほかに、作物とともに伝達した知識に幅広い層の主体が関与していたことも示している。たとえば、奴隷たちがアフリカの伝統的実践を新世界で実践したことで植物学的知識を伝達したことはその一例である。

【4】知識交換
  農学的知識の生産と普及の研究は、ラテンアメリカやカリブ海をグローバル・ヒストリーの議論の中に位置づけるのに用いることができる。そこで浮かび上がってくるのは、ラテンアメリカやカリブ海の「知識の島々」としての姿である。かつての歴史研究の多くはGeorge Basallaの伝播主義を前提としたものであったが、近年の歴史研究はこのパラダイムを突き崩し始めている。
 20世紀初頭には熱帯の諸地域においてサトウキビの疫病が広まり、その疫病に対して抵抗力の強い改良品種が開発され諸地域に普及した。この事例研究のような、疫病と品種改良に関する歴史研究からは、ジャワ島、バルバドス島、サンタクルーズ諸島などを含む各地域が「知識の島々」として機能したことが理解できる。当時、品種改良等の研究は熱帯の各地域でなされており、得られた知識は世界中に広がるネットワークによって伝達されていた。
 現在までの歴史研究では、土着の伝統的な知識が科学に貢献したことは注目されてきたが、土着でない人々によって生み出された知識は注目されてこなかった。ラテンアメリカやカリブ海において、外から移り住んだ人々が生み出した知識に関する研究の重要性が、まだ十分認知されていない。
 ラテンアメリカの科学史の研究は、権力や政治の問題、農業の組織化の問題などを、「科学と帝国主義」「植民地科学と国家科学」といった観点から研究することに集中してきた。そしてその文脈では、特に米国やロックフェラー財団の果たした役割が注目されてきた。今後の研究では、もっと他の様々な主体による組織化が注目されなければならない。ラテンアメリカとカリブ海の農業科学の歴史は、単なる植民地主義と帝国主義の歴史ではないのである。

【5】
 農学的な実践はすぐに広まり各地で採用されていくため、その実践の起源がどこにあったのかをよくわからなくさせてしまう。しかし我々は、知識には複数の多様な中心的場所が存在して相互作用していたことを認識し、「中心と周辺」のヒエラルキーを解体することができる。

科学史のグローバルターン McCook, “Introduction” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】

Stuart McCook, “Introduction,” Isis 104 (2013): 773–776.


 この特集の4つの論考は、近年の科学史におけるグローバルヒストリーの台頭(グローバルターン)が与える影響を、ラテンアメリカの科学の4つの分野について検討するものである。どの論考も、19世紀半ばから20世紀半ばまであたりの時代を扱っている。

 ラテンアメリカは、グローバルヒストリーがどのように国史や地域史を豊かにできるかを探究するための実験室、モデルを提供できる。1500年以降、ラテンアメリカでは人口が激減し、また大量の移民が流入した。そのため19世紀中頃までには、「西洋/非西洋」「植民地開拓者/植民地開拓された側の者」「中心/周辺」などといった二項対立の概念は単純には適用できなくなっている。歴史家はしばしばlocal knowledgeとindigenous knowledgeを同一視するが、ラテンアメリカにおいてはindigenous knowledgeはlocal knowledgeの一種に過ぎないのであり、「クレオール科学」という概念はこの複雑性をよく捉えている。つまり、科学知識は多様なたくさんの層の人々によって共同でつくられたのである。

 従来、ラテンアメリカの歴史家は国民国家を分析の要とし、グローバルは遠景としてしか扱わなかった。また古い世代のグローバルヒストリアンは、ラテンアメリカに歴史上の周辺的地位しか与えてこなかった。より近年のグローバルヒストリーは「中心と周辺」を括弧付きで許容している。グローバルな科学的知識は、中心から最も遠い「周辺」で生み出されることも有りえるのである。

 ラテンアメリカの諸国は、他の地域の国々と比べて比較的早く独立することになったが、国民国家を築く過程で科学を必要とした。一方、エリート層は超国家的な科学のネットワークに国を参加させようとした。Duarteの論考は、国家のための科学と超国家的な科学のあいだの緊張関係を描いている。
 当時、南の国々は“新”コロンビア交換などの似通った様式のグローバル化を経験したため、似通った問題を共有していた。Prietoの論考で扱われている、異なる地域の砂糖生産者たちが様々な交換をしていた事例などはその一例である。
 新しいグローバルヒストリーは、グローバル化を称賛したり、権力の不公平の問題を覆い隠してしまったりする可能性がある。この問題に関して、Rodriguezの論考で “smart centering of Latin America” と呼ばれている議論が求められる。
 ラテンアメリカの科学者たちはしばしば、知識生産における地元の非科学者たちの果たした役割を黙殺してきたし、同様に外国の科学者たちはラテンアメリカの科学者たちの役割を黙殺してきた。これらの沈黙は何を意味するだろうか。すべての科学知識は究極的にクレオールである、という可能性がこの問題から考えられる。
 DuarteやEspinosaの論考では、 “following” という方法論が描かれている。これは何かが世界を動きまわるのを追いかけて、そのときに何が起こっているのかを分析するという手法である。この手法によって、知識の生産や伝達をする主体が何なのかを明らかにすることができ、また権力の問題にも接近できると考えられる。

 これらの新しいアプローチはどれも、構造分析を単純にしたり明快にしたりしない。しかし単純なモデルや物語がないからといって、我々は置き去りにされてしまうわけではない。グローバルターンは我々を導く問題や方法論を提供してくれているのである。

2014年4月11日

ライエルの文章、地質学者の「自由」 O’Connor, The Earth on Show, Ch. 4

Ralph O’Connor, The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856 (Chicago: University of Chicago Press, 2007), 163-187.


第4章 ライエル介入する


 ライエルは、英国の科学に新しい概念(地球が非常に古いことなど)や新しい手法(現在因の過去への適用など)を持ち込んだことで今でも評価されている。しかし、これらの概念や手法は当時、多くの実践地質学者たちのあいだで暗黙のうちに用いられていた平凡なものなのであって、ライエルの本当の偉大さは莫大な科学的データを優雅で修辞法的に説得力のある文章で展開したことにこそある


1. 取り戻された黙示録

 人々の創世記への固執は、ライエルにとって科学のために取り除くべき障害であった。地質学における聖書の影響力は直解主義者たちの著述によって大きくなっており、ライエルは聖書と地質学的推論とのあいだの全ての接続(バックランドやコニベアの妥協的理論を含む)を否定する必要を感じていた。「クォータリー・レビュー」においてライエルは直解主義者たちを戯画化し、彼らの教条主義と、彼らによる地質学の侵害を強調した。また、直解主義者たちの説は哲学的情報が普及している国では支持されていない、などとする効果的な文句を法律家的な修辞法で書き立てた。ライエルは広い知識人層を自分の側に取り込もうとしていたのである。

 ライエルは、ニュートン力学的な不変の法則を地質学に取り入れようとしていた。のちにヒューウェルが「斉一説論者」「激変説論者」という呼び名を付けたせいで誤解されがちだが、ライエルの「激変説論者」との対立は宇宙論的というより方法論的なものである。

 しかし、ライエルの方法論は地球の歴史が極めて長いことを要求しており、ラドウィックが強調したように、「変わる必要があったのは彼らの科学的想像力だった」。地球の歴史は現在因で十分に説明できることを示すために、ライエルは現代の火山や激流の激しさを巧みに描いたり、第三紀の湖の穏やかな様子を描写した後にそれが火山活動によって破壊される様を黙示録的に描いたりした。また、古典的文化の保守的守護者であるウェルギリウスに付き従って地下世界を見たダンテ(どちらもダンテ『神曲』の登場人物)の話をしたり、「謎」「秘密」といった言葉を頻繁に使ったり、地質学者を時間を超越した知的支配をする超人間的な存在として描いたり、視覚に関わる言葉をたくさん使ったりすることで、ライエルは読者の想像力に強く訴えかけていた

 それでも、この「クォータリー・レビュー」の時代はまだ、直解主義者たちの側に勢いがあったのである。


2. 地質学原理

 1830年に出版された『地質学原理』第1巻は、保守的な直解主義と革新的な転成主義を非哲学的であるとして排除し、地球史を語ることについての地質学者の権威を宣言することで、地質学を科学の地位に押し上げた


 地球の活動は今も活発であるということを強調するライエルは、人類の記録に残っている数々の地震や噴火、洪水などを、自らの経験も踏まえて一つずつ克明に描写した。ライエルはこれらの現象を壮大に描くことで、読者の大災害に対する欲求を満たし、激変説の支配力を弱めようとしていた。そしてこれらの世界中で起きた現象の数々を読み進めるうちに、読者の視点は全地球的レベルになり、歴史の流れを見下ろせるようになる。こうして地球を「変化の劇場」と思えるようになった読者は、個々の現象の蓄積に、世界を変える力を「感じる」ようになるのである。

 このような視点の移行を可能にした方法は、バイロンから借用された。クライマックスとなる章は、バイロンの詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』からの引用で締め括られるが、この詩にはライエルと共通する俯瞰的な見方が含まれている。バイロンの詩のイメージは、個々の歴史的具体例から時の流れへと向かう想像力をライエルの読者に理解させる手助けをしていた。

 しかし、バイロンの詩が大洋の永遠性を人間の儚さと対比する哀愁を含んでいたのに対し、ライエルの文章は知的支配の喜びに満ちた調子になっている。ライエルの思考実験(イタリア半島を沈めたり、北極海に陸地を出現させたりする)は徐々に過激になり、そこでのライエルの叙述は仮定法から命令法に移っていった。ライエルは俯瞰する視点で仮想世界を次々に展開させていき、その文章は詩のようになっている(声に出して読み上げてみればその詩的な美しさがわかるだろう)。そしてその最後でライエルは、気候が暖かくなったらイグアノドンなどの昔の生物が出てくるかもしれない、という想像を書いた。これは、下等な生物から高等な生物へと進む方向主義的な創造の歴史という考え方に反対して述べたのだったが、ライエルはこのとき、詩的な想像を巡らせる文章の調子で反直観的な仮説を書いてしまったのだった。

 このせいで、ライエルはデ・ラ・ビーチの風刺画によって反撃を受けることになる。その風刺画にはバイロンのある詩の一節が記されており、このことはデ・ラ・ビーチが、ライエルの推論はロマンチックな想像力が過熱したものに過ぎないのではないかと考えていたことを示唆する。


 「クォータリー・レビュー」の黙示録的な記述は、『地質学原理』では思考実験に入れ替えられている。ライエルは『地質学原理』のなかで、現代の世界や仮想世界については生き生きと描写しておきながら、なぜ古代の地球については同様の描写をしなかったのだろうか。それは、ライエルにとって地質学的推論の認識論的な力は、昔の世界を描くよりも、むしろ神の代わりとなって世界をつくってみせることで伝えられるものだったからかもしれない。

 その力のショーは結局、地質学者の「自由」を強化することになる。地質学者の「自由」が神から与えられたものであるのは、ライエルの記述においては重要なことだった。パノラマ的な視点は地質学者を創世記から解放し、断片的に散りばめられた物語を再構成することを可能にするものだった。ライエルは『地質学原理』において、キュヴィエのいう「新しい秩序の古物収集家」としての地質学者の地位を強調していた。そしてライエルは『地質学原理』を、地質学者たちが地球を解読する仕事のための土台とみなしていた。ライエルは科学的知識を民主化したのではなく、新しい種類の科学的専門家を定義し推進したのであるそして地質学者の権威を宣伝することで、ライエルは新しい科学のための新しい大衆をつくり、大衆教育についての新しい考えを強化していた


3. ライエルの大衆

 『地質学原理』の初版は「クォータリー・レビュー」と同様、保守的で裕福な層をメインターゲットにして書かれたものだったが、ライエルは正しい自然の知識が下流階級の人々にも普及されるべきだと考えていた。そこで1834年に第3版として安い『地質学原理』が出版され、よく売れた。

 ライエルの『地質学原理』に対する反応は、好意的なものが多かった。もちろん反対意見も相次いだが、ライエルが科学における哲学的議論の地位を変え、地質学において歴史的解釈と積極的想像力を復権させたことは一般的に認められていた。また、ライエルは新しい地質学の文化的権威と独立性を宣言したことでも重要な役割を果たしており、大衆は地質学者たちを壮大な航海に誘ってくれる信頼に値する人々とみなすようになっていた。1830年以降、地質学に関する通俗書が次々と出版された。バックランドはその代表的な著者の一人である。

 地質学の大衆化の開花は、ライエルやバックランドの貢献をはじめ、出版産業の変化、層序学の専門家の需要の増大、ウィッグ党の教育理論、大学改革など、様々な要因が重なったことで発生した。ともかく、ここに地球史の著述の黄金時代が幕を開けたのである。

2014年4月8日

科学リテラシーの再定義 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Epilogue

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 229–238.


 この本の主目的は、一般的な考えでの科学リテラシーは一般教育の目標として実現できないということ、そして科学教育を大部分の生徒にとって意義あるものにするにはこの目標が再定義されなければならないということを示すことであった。従来の科学リテラシーは科学知識の獲得に焦点を当ててきたが、以下のような本当に必要とされている事柄に焦点が当て直されるべきである。
(a) 科学やテクノロジーの事業がどのように働くかについての意識をもつこと。
(b) 大衆に、科学とは何であるかについて知ってもらい満足してもらうこと。
(c) 大衆に、科学から何が予期されうるのか理解してもらうこと。
(d) 科学やテクノロジーの事業に関して、どうしたら大衆の意見によく耳が傾けられるか知ること。
 また、テクノロジーは一般教育において、科学の派生物としてではなく、科学教育の出発点として捉えられるべきである。

 従来、楽観的な教育者たちは科学教育が目標を達成できていないことを認めつつも、カリキュラムを改善することでその目標は達成できるとみなしてきた。しかしカリキュラムの改革だけでは解決にならない。一般教育の目標それ自体と、その目標を達成するための方法の両方を変えることが必要になっている。

 そのために連邦政府にできることはなんだろうか? それは教育調査であり、学校に対する資金援助であり、教育の実験プログラムを認めることである。


 教育を改善する一つの方法は公立学校の私立化だろう。アメリカの私立学校は全体の人数の1~2割程度であるものの、公立学校より少ない資金で高いレベルの教育をしている。私立学校は、公立学校で存在する問題に直面していないことで有利になっている面もあるが、機会を与えられさえすれば公立学校よりうまくやるように思える。私立化には課題はあるが、いずれも克服できない課題とはいえないだろう。

 ところで、他の先進工業国と同様に、アメリカの科学は男性中心で進んできた。この状況は近年では多少改善されてきており、学士号取得者に占める女性の割合は、生命科学で約半分(15年前は30%だった)、数学で46%、化学やコンピュータ科学で37%となっている。一方、物理学や工学では15%に留まっている。女性が物理学や工学の進路を避ける傾向があるのは、数学的な事柄を扱うことに対して気が進まないからというよりも、自己像や、それらの分野に進むことで得られるキャリアについての受容の問題であろう。


 アメリカで科学が一般教育に取り込まれて以来、「大衆のための科学」という高尚なテーマを主張することが繰り返され、それは今では「科学リテラシー」を求める声となっている。また、スペンサー、ハクスリー、ポアンカレ、デューイ、Bronowski、スノーといった人々は、誰もが科学に熟達すべきなのだと主張してきた。しかし歴史は、そのような目標の達成が不可能であることを示しており、我々はこの歴史から学ばなければならない。我々は「科学はなぜ全ての生徒に要求されるべきなのか」と「その科学とは何から成り立っているのか」を真剣に問わなければならないのである。