2015年10月14日

視覚的科学文化の形成 Hentschel, Visual Cultures in Science and Technology, Ch. 3

Klaus Hentschel, Visual Cultures in Science and Technology: A Comparative History (Oxford: Oxford University Press, 2014), pp. 87–112.


第3章 視覚的科学文化の形成


科学における視覚文化の形成に関する規範的研究は、マーティン・ラドウィックの先駆的な論文「地質科学のための視覚言語の出現:1760–1840年」である。


3.1 ラドウィックと地質学

 ラドウィックの論文は、18、19世紀の地球科学に関する出版物および非公刊資料(私的なものから組織によるものまで)の幅広い調査を行っている。ラドウィックは、1830年頃から地質学者たちがグラフィックな画像(地図や各種の図表など)を多く使うようになっていること、しかもその使われ方が変化していることに気付いた。18世紀の出版物では、文章ばかりでほとんどイラストが入っていなかったり、あるいは逆に過剰にぜいたくで科学的な目的を有さない、風景画や旅行記の流れを汲むイラストが入っていたりするのに対して、1830年頃以降の出版物では画像が不可欠なものとなり、統合された視覚的・言語的コミュニケーションの一部を成すようになっていた。ラドウィックは、印刷技術の改良と並行して進んだこのような新しい視覚表象の出現が、科学的実践に重大な変化をもたらしたことを指摘したのである。本章ではこのような、「特定の視覚言語の出現を伴う、視覚文化の形成」を扱っていく。

 ここではまずラドウィックの議論の構造に注目したい。ラドウィックは視覚的素材の数の増加だけではなく、新しいタイプの視覚表象(地質断面図、ブロック図、地質図、鉱物地図・岩石地図)が登場したことを問題にしている。そしてこれらの視覚表象はどれも突然現れたわけではなく、起源を辿ると、採掘、調査、試金などの現場で働いていた人たちが使っていた図であったという。つまりラドウィックの議論は「激変説」というよりも「斉一説」的であり、既にあるグループが使っていたものを他のグループが借用・修正して基準化するというストーリーなのである。1830年代頃に、そうした視覚表象の用い方はそこに関わる人々のあいだでの共通認識となり、ここに「視覚言語」が誕生した。その「言語」の書き方や読み方は「秘伝的」な性質を帯びており、そのことが「地質学者」という専門家集団の登場を伴ったのである。

 ラドウィックはFig. 14で、こうした視覚言語の出現が、地質学というディシプリンの成立や、ロンドン地質学会などの組織の成立と重ね合わせられることを示している。このことは「鶏が先か、卵が先か」の問題、つまり何が原因で何が結果なのかという問題を提起する。そこで学会の成立が視覚表象の利用を促したという可能性も考えられるわけだが、ラドウィックは検討の結果としてこの説を退けている。ロンドン地質学会の紀要は、始まった当初からイラストをふんだんに使おうとする傾向があった。学会などの組織は、すでに形成されてきていたものに反応したにすぎない。ラドウィックのFig. 14は、地質学における視覚表象の実践が、ジェントルマンの芸術や軍の調査といったところから表現を借用し、実践家たちの社会的階層と共鳴しながら変化してきたことを示している。この議論から我々は、視覚表象の種類や使用だけでなく、それらが埋め込まれている社会的・組織的な文脈にも注意しなければならないという教訓を学ぶことができるだろう。


3.2 立体化学の構築者たち

 次の例は、化学の変容である。化学はある時期に、物質の精製や分析を行う実践的ディシプリンから、分子の立体構造や結合の知識を扱う理論的ディシプリンへと変容した。

 まず決定的な役割を果たしたのは、ドイツのオーギュスト・ケクレ(1829–96)であった。幼少の頃から絵画に才能を示したケクレははじめ建築を学んでいたが、リービッヒの質の高い講義に誘われて化学の道に進んだ。やがて原子価の理論を研究するようになったケクレは、化合物を表現する「ソーセージ図」を考案した。この図は当初は横方向にだけ伸びていたが、やがて縦方向にも伸ばすようになり、そのことによって異性体(同じ原子を同じ数だけ含むが空間的構造が異なるもの)を区別できるようになった。さらには、置換基を分類することもできるようになった。ソーセージ図の平面化において決定的な役割を果たしたのは、リービッヒの定量分析法によってC6H6という組成式が明らかになっていたベンゼンであった。ケクレはソーセージ図を、原子価を余らせるというルール違反を犯しながらいじくり回しているうちに、リング構造を思いついたのである。

 だが、化学結合や原子価の問題から物質の物理的構造の問題への移行は、まだ始まったばかりであった。このあと、アレクサンダー・クラム・ブラウン(1838–1922)はソーセージ図を批判し、HやOやCといった記号を丸で囲んで棒でつなぐ書き方に改めた。ケクレはソーセージ図の代わりにクロム・ブラウンの書き方を採用し、さらにそれを発展させて、ボールと棒によって三次元構造をもつモデルを描いた。同じ頃、アウグスト・ヴィルヘルム・ホフマンも同様のボールと棒のモデルを描いた。実はホフマンもケクレと同様、建築学を学んでいた人物であった。


3.3 ソービー:顕微鏡記載岩石学と金属組織学

 1800年であれば、岩石を顕微鏡で観察するなどということは考えられもしなかっただろうが、偏光顕微鏡の開発とサンプルのスライス技術の発展により、19世紀の半ばまでにそれが可能になった。この学問分野には、(顕微鏡)記載岩石学という名前がつけられた。同様に、1850年において、鉄を顕微鏡で観察するなどということは考えられもしなかったはずだが、それは1864年までに現実のものとなった。最初は植物学から結晶学へ、次に金属組織学(と呼ばれるようになるもの)へ、技術は二回移転されたのである。そして二つの分野の出現は、二つの新しい視覚科学文化の形成と結びついていた。

 この二つの分野を切り拓いた人物であるヘンリー・クリフトン・ソービー(1826–1906)は英国の裕福な家庭に生まれた。大学には行かなかったが、自分の科学実験室をもち、気楽に自由なかたちで研究をすることができた。自然地理学や地質学に興味を抱いたソービーは、どういうわけか岩石や結晶の観察に顕微鏡が必要だと確信していた。ソービーは1949年までかけてこの仕事を達成し、さまざまな岩石の構造を顕微鏡で観察して描いた。当初は無関心だった人々もやがてソービーの研究を認めるようになり、結果的にはロンドン地質学会の会長を務めるほどにまでなった。

 しかしソービーはこの分野を更に自ら発展させるよりも、更なる新分野を開拓するほうを選んだ。1862年、彼は岩石が形成されたメカニズムを知ろうとして、隕石と地球上の岩石の比較を試みた。金属でできた隕石はスライスしても透明にならないことが問題だったが、ソービーは顕微鏡を作り変えることで観察を可能にした。こうして1863年、顕微鏡金属学という新分野がまたも現れた。さらに写真家と協力して、1887年には観察物を写真で撮れるようにした。それまでのあいだは、観察物を酸で侵した上で直接インクで印刷するnature printingという手法を用いていた。いずれにせよ、貪欲に画像を作成しサンプルを収集するソービーの独特な実践は、わずか一世代ほどのうちに世界中で日常的な営みとなったのである。

 それにしてもなぜ、他の誰かではなくソービーがこのことに成功したのだろうか。その理由は、ソービーの視覚的な技能と興味が組み合わさったことにあると思われる。彼は観察物を描くことに熟達していたし、堆積岩や亀裂の分析をする際には紙と粘土で作ったモデルを使って実験するなど、非常に視覚的なタイプの人間であった。ソービーは視覚文化における重要な技能と資源をもっていたのであり、科学的な受容や組織の安定化はその後の話である。


3.4 ホイーラーと幾何力学

 視覚文化の台頭は19世紀だけに見られるわけではない。ここでは、20世紀後半におけるジョン・アーチボルト・ホイーラー(1911–2008)の例を取り上げたい。「ブラックホール」や「量子泡」といった言葉をつくった物理学者であるホイーラーは、視覚表象の名人であるといえる。彼がつくった教科書や彼が書いた黒板は、視覚的な工夫にあふれている。ホイーラーがこのようなことをできる理由は、若い頃に彼が積んだ訓練にあると考えられる。まず彼は、もともと物理学ではなく工学を学んでいた。さらに彼は芸術家的な物の見方をもっており、大人になったあとにもスケッチの授業を受けていた。

 ホイーラーの同僚であるロジャー・ペンローズ(*1931)もまた、時空間を表現する特殊な図を描いた人物である。その図は、数学者ミンコフスキーが描いた時空間の図と、画家のエッシャーが描いた有り得ない階段を融合させることでできていた。つまり、本来まったく関係なかったはずの二つの視覚領域が、ペンローズによって組み合わせられたのである。Meghan Dohertyの分析によれば、ロバート・フックの『ミクログラフィア』に載っている画像も、肖像画の伝統と彼の専門的な技能の組み合わせによって生まれたものであるといえる。

 このように考えてみると、独特に見える視覚表象の背後には何かしら一般的なパターンがあるのかもしれない。次の章では、この点をより体系的に議論していく。


2015年7月23日

東インド会社の科学 Arnold, “Science and the Colonial War-State: British India, 1790–1820”

Peter Boomgaard ed., Empire and Science in the Making: Dutch Colonial Scholarship in Comparative Global Perspective, 1760–1830 (New York: Palsgrave Macmillan, 2013).

Chapter 1
David Arnold, “Science and the Colonial War-State: British India, 1790–1820”

 18世紀末から19世紀初頭にかけて、イギリス東インド会社は一営利企業から植民地統治機関へと変質し、インドに大英帝国による支配をもたらした。この変化については、貿易や政治の視点からの研究はされてきたが、科学という視点からの研究はまだあまりされていない。科学は、インドにおける近代的帝国の誕生に際してどのような役割を果たしていたのだろうか。本論文は、インドにおける帝国建設を科学史の視点から描き、またこの移行期における「植民地の知識 colonial knowledge」の性質と作用を論じることを目標とする。

 この時期の東インド会社が科学を支援した背景には、会社の軍事的性格が強まっていたことがあった。当時の東インド会社は、インドの諸国やオランダ、フランスとの軍事的対立を深めていたのである。こうした状況において、科学はインド人の無知を批判し、大英帝国のもとでの繁栄を保証するものとしてプロパガンダに使われた。インド総督のリチャード・ウェルズリーが、軍医にして自然史家のフランシス・ブキャナンを派遣して、現地の農商工業の調査を行わせたのはその一例である。ここでイメージされていた「科学」には、動植物の知識から言語や神話の知識までが含まれており、うまくいけば役に立つだろう知識の寄せ集めのようなものであった。

 軍事的性格の強まりは、別の面でも科学に深い影響を与えていた。兵数を急激に増やしたことで、多くの軍医が必要となって雇われたのである。軍医たちの本来の仕事は兵士の治療であったが、大学教育を受けていた彼らのなかには、動植物や地理、天文、気象、民俗などに興味を抱き研究する者が多かったのである。ベンガル・アジア協会の設立(1784年)など、東洋の調査を目的とする機関が相次いで設立されたことも、この動きを後押しした。植物研究の拠点としては、カルカッタとサハーランプルに植物園が設立された(1786年と1817年)。

 こうした科学の実践を支えていたのは、帝国主義のイデオロギーであった。インドで測量事業を行ったウィリアム・ラムトンや、軍医にして自然史家のベンジャミン・ヘインの記述において、常々彼らの仕事が大英帝国と関連付けられているのはその表れである。しかし一方で、科学活動は経済的必要性によっても動機づけられていたことを忘れてはならない。生産性を向上させ植民地としての役割を果たさなければいけないという意識も、他の帝国との戦争に勝てるだけの準備ができているのだろうかという不安も、科学に対する期待につながっていた。

 以上から考えればこの時代の科学は、大英帝国によるインド支配の道筋に大きな影響力を持っていたわけではなかったが、支配を正当化し支える役割を果たしていたといえるだろう。

 この時代のインドにおける科学は、総じて実践的、観察的、記載的であり、理論化・体系化されてはいないという特徴をもっている。だがそれも1830年代頃になると、フンボルトの生物地理学の影響も受けて、理論化・体系化された科学に変貌していった。その意味では、本論文で扱った科学は「フンボルト以前の科学」あるいは「待機中の科学」とでもいえるように思われる。


18世紀という時代 Boomgaard, “From the Mundane to the Sublime: Science, Empire, and the Enlightenment (1760s–1820s)”

Peter Boomgaard ed., Empire and Science in the Making: Dutch Colonial Scholarship in Comparative Global Perspective, 17601830 (New York: Palsgrave Macmillan, 2013).

Intorduction
Peter Boomgaard, “From the Mundane to the Sublime: Science, Empire, and the Enlightenment (1760s–1820s)”

● 18世紀という時代
これまでの科学史家の見方:科学革命と産業革命のあいだの時代
哲学者や観念史家の見方:理性の時代、啓蒙の時代
近年、科学史においてこの時代が「再発見」されつつある。
本書ではこの時代の終わり頃、すなわちおよそ1760年代から1820年代を扱う。
英国、フランス、スペイン、オランダといった諸帝国がしのぎを削っていた時代。
探検の時代(クックとブーガンヴィルに始まり、ダーウィンに終わる)。
本書が扱うのは、主にオランダの植民地や交易所。

● 観察と実験
18世紀、科学者たちはスコラ学の権威からますます遠ざかりつつあった。
観察が科学の土台として認められるようになった。
これに伴って数量化が重視されるようになり、様々な計量・計測機器が不可欠に。
顕微鏡や望遠鏡をはじめとして、実験機器も発達。
単位の標準化も必要となったが、19世紀に入るまでなかなか実現せず。

● 科学の有用性
啓蒙の時代には、科学や知識の有用性が強調された。
2通りの有用性:
 ① 公共善
 ② 神への崇拝、神の法則を知ること
中流階級以上では科学が普及。
啓蒙の科学:ありふれた、実用的、実践的、応用科学的、科学技術的
聖書を読むこと以上に、「自然の書物」を読むことが重要とみなされた。
宗教と科学のあいだにそれほど対立はなかった。

● 自然物と人工物の収集
初期近代では、動植物、鉱物、化石、工芸品、科学機器などを並べた「驚異の部屋」。
植物について、標本集や草本誌。
ナチュラリストに限らず、様々な立場の人が「驚異の部屋」をつくっていた。
17世紀末から18世紀初頭になると、科学的目的をもった専門家だけがコレクションをもつようになっていった。

● 科学と帝国
かつての科学史では、西洋科学を普及させたことが帝国主義のもたらした利益だったとされた。
1970年代以降になってはじめて、帝国が西洋科学を生み出したのだという主張が登場。
啓蒙という思想もまた、ヨーロッパが単独で生み出したものとはいえないという主張が出てきている。

● 情報の氾濫
16世紀以来、「新しい」土地に関する出版物が溢れかえるようになった。
多くの著者は、原則として全ての人々が等しい潜在能力をもっているという考えを支持した。
その一方で、人々はヨーロッパの優越を信じるようになった。
18世紀後半:ロマン主義の時代が到来。崇高なものへの称賛。
情報の氾濫と、新しい分類法の誕生。
学問分野の名称は、「自然哲学」「実験哲学」「自然史」「道徳科学」などから、「動物学」「地理学」「考古学」「統計学」などに変化。

● 発見の航海
各国政府が航海を支援。
① 航海は、帝国という枠組みの内部で企画されていた。
② 航海は、明確な科学的目標を立てていた。

● 協会とアカデミー
協会やアカデミーは、ある意味で大学を補完するものとなっていた。大学がラテン語で教えられるのに対し、協会ではその土地の言葉が用いられ、大学教育を受けていない人々も集まっていた。
18世紀後半までに、協会間のネットワークも構成されていた。
オランダ共和国では、パリやロンドンのそれのように中心的な役割を果たす協会・アカデミーはなかった。

● オランダの場合
この本の問い:
 1800年頃のオランダ人は海外の植民地について何を知っていたのか?
 その知識はどのようにして生み出され、どのようにして伝わったのか?
1760年代以降のオランダは、経済的にも学術的にもうまくいってはいなかった。
探検隊派遣などの大規模な企画を支援してくれる資金源もなかった。
ただし、VOCとWICのネットワークはよく動いていた。
本書では、目的地に届かなかった情報についても扱う。


2015年3月5日

ダーウィン150周年に寄せて Smocovitis, “Where Are We?”

『種の起源』出版150周年を記念する論集に、スモコヴィティスが寄せた論考です。

Vassiliki Betty Smocovitis, ““Where Are We?” Historical Reflections on Evolutionary Biology in the Twentieth Century,” in Michael A. Bell, Douglas J. Futuyma, Walter F. Eanes, and Jeffrey S. Levinton, eds., Evolution Since Darwin: The First 150 Years (Sunderland, MA: Sinauer Associates 2010): 49–58.

 この文章では、主に20世紀後半の進化生物学について論じる。というのも、20世紀に至るまでの進化思想の歴史については、科学史家たちがすでに深い理解を得ているからである。ボウラー『進化思想の歴史』(2009)やガヨン『ダーウィニズムの生存闘争――遺伝と自然選択説』(1998)はその例だといえる。いまだ十分な調査がされていないのは、進化生物学というディシプリン自体の歴史なのである。
 1959年、ダーウィンの『種の起源』出版から100周年を記念して、コールド・スプリング・ハーバーで遺伝学者Milislav Demerecが主催するシンポジウムが開催された。遺伝学者を中心に200名近い生物学者が招かれたこのシンポジウムのテーマは「20世紀の遺伝学とダーウィニズム」で、進化理解に対する遺伝学の貢献が強調された。だがマイアは、開会講演で遺伝学的手法の限界を指摘した。同じ1959年には、シカゴ大学で文化人類学者Sol Taxが主催する100周年記念イベントも開催されていたが、こちらでは人類学者の貢献と、諸ディシプリンの統合に焦点が当てられた。「生命の起源」「生命の進化」「生物としての人間」「心の進化」「社会的・文化的進化」と題された五つのパネルディスカッションは、自然選択による進化を中心に諸ディシプリンが統合されるという世界観を象徴していた。
 『遺伝学と種の起源』『体系学と種の起源』『進化の速度と様式』『植物の変異と進化』といったコロンビア生物学シリーズの著作は、現代的総合を決定づけたものとして一般的に称賛されている。だが、これらの著作自体、先行研究の成果を総合した側面が強いことは忘れられがちである。たとえばJ・クラウセン、D・ケック、W・ハイジーは表現型を遺伝型から区別する実験的洞察を提供し、変異の起源と維持を解明し、自然選択の働きを明らかにし、ネオ・ラマルキズムを排除した。E・B・バブコックらは初めて一つの生物グループの系統関係を包括的に解明し、遺伝学・細胞学・体系学・生物地理学・化石史の洞察や手法を利用した。ドイツの体系学者レンシュも見過ごされがちな人物の一人である。『進化論の新しい諸問題』(1947)が英訳されたのは総合の後だったが、彼の仕事はマイアらの種分化研究に決定的な洞察を与えていた。英国におけるハクスリーの努力も正当に評価されていない。彼が編集した『新しい体系学』(1940)は、遺伝学や生態学、実験的アプローチを体系学のような古典的分野に組み込もうとしたもので、ドブジャンスキーやマイアが生物学的種概念を確立するのを助けた。総合の鍵となった人々(マイアのいう「構築者」たち)は殆どが米国か英国で活動していたが、ドブジャンスキーやマイアを含め、貢献者は世界中から来ていた。
 自然選択による進化についてのコンセンサスによって、1930年代中頃から1940年代中頃にかけて数々の組織的活動が活発化していた。特にマイアの熱心な活動はSSEの設立に結実し、シンプソンがその初代会長となった。1947年、プリンストン大学で行われた会議は、この新しいディシプリンが公式に認められる最初の機会となった。Glenn L. Jepsenとシンプソン、マイアによって編集されたこの会議のプロシーディングス『遺伝学・古生物学・進化』(1949)も、新しいディシプリンの重要な参考文献となった。マラーはこの中で、進化の諸ディシプリンの集合を宣言している。①進化的変化のメカニズムとしての自然選択の最重要性、②小さな個体変異のレベルに働く変化の漸進性、③小進化と大進化のプロセスの連続性、がこのディシプリンの基礎的教義となった。鳥類学者や植物学者、体系学者というよりも進化生物学者として自らを定義する人々が増え、この分野に入る若い研究者も増えた。さらにダーウィン100周年は人々の注目を集め、1959年を機にSSEの会員は急増している。
 だが進化生物学は、スプートニク・ショック以降の時代に深刻な危機を経験することになる。分子生物学の急速な台頭によって、それ以外の生物学分野の資金が奪われるようになり、マイア、シンプソン、ドブジャンスキーのような生物中心の生物学者たちとのあいだに衝突が生じた。マイア、シンプソン、E・O・ウィルソンらが居たハーバード大学にはジェームズ・ワトソンやジョージ・ワルドも居り、その対立の深さはウィルソンが自叙伝で「分子戦争」と題した一章を設けるほどだった。マイアやドブジャンスキーは進化生物学に対する援助の継続を求めて奔走し、ドブジャンスキーの有名なフレーズ “Nothing in biology makes sense except in the light of evolution” もその中で生まれた(1964年)。
 進化生物学は他にも、反進化論の原理主義者たちをはじめとする外部からの襲撃を受けてきたが、変化によく適応し、生き延びることができている。生命の多様性の理解は自然選択による進化を通して可能になるという、1859年のダーウィンの約束を果たす科学を成熟させてきたことを、われわれは祝うことができるだろう。

2015年3月4日

総合に関する二つのテーゼと、ハクスリーのいう進化の多様性 Beatty, “Julian Huxley and the Evolutionary Synthesis”

ハクスリーに関する論集に収録された論文ですが、一つ前のプロヴァインの論文を受ける形で書かれています。 そちらのまとめ記事は以下のリンクから参照できます。

■ 進化論の総合なんてなかった Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life”
http://nakaogyo.blogspot.jp/2015/03/provine-progress-in-evolution-and.html


John Beatty, “Julian Huxley and the Evolutionary Synthesis,” in C. Kenneth Waters and Albert Van Helden, eds., Julian Huxley: Biologist and Statesman of Science (Houston: Rice University Press, 1992): 181–189.

 プロヴァインの論文には、総合に関する二つのテーゼが登場している。一つ目はグールドが提唱した、いわゆる「総合説の硬直化」である。総合の当初、自然選択は進化的変化にとって特別に重要な原動力とはみなされておらず、他の原動力、特に遺伝的浮動も重要視されていた。だが40年代後半以降、遺伝的浮動による進化の事例が自然選択によって再解釈されるようになり、自然選択が進化的変化にとって唯一の原動力とみなされるようになった。二つ目は、ボウラーの『ダーウィニズムの凋落』(1983)によって認められるようになり、プロヴァインによって強力に支持されている、いわゆる「進化論の収縮」である。「総合」という言葉は多くの理論が集結したことを想像させるが、実際には総合説は様々な種類のラマルキズムや定向進化説など、多くの理論を拒絶した。総合説は、真剣に検討され得る進化の様式の数を大幅に減らしたのである。以上のように、「硬直化」は総合の当初における理論の複数性を、「収縮」は総合以前における理論の複数性を強調している。この論文では、ハクスリーの視点を検討することによって、以上の二つのテーゼに対しては慎重にならなければならないことを示す。
 ハクスリーが『進化――現代的総合(ETMS)』(1942)を書いたとき、進化遺伝学の一般法則はすでにフィッシャー、ライト、ホールデンらによって定式化されていた。彼らのモデルは、ある種の進化の様式を否定する一方で、まだ多くの進化の様式に可能性を認めていた。実際の進化がどのような様式のものであるかは、まだ示されていなかった。そこで進化生物学に残された仕事は、集団遺伝学の理論と両立する様々な様式の進化を説明し、それらの相対的重要性を明らかにすることであった。ETMSやドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』(1937)はこのような問題意識のもとで書かれている。1900年代と1910年代における進化理論の多様性は、いまや新しい、集団遺伝学の理論と両立する進化の様式の多様性に道を譲ったのである。ハクスリーはETMSにおいて、異なるグループの生物が異なる形の進化をするということや、選択にも様々な形があるということなど、進化の多様性に関する主張を繰り返した。
 このように様々な形の進化を認め、それらを一般化することの困難さを強調したのがETMSだったとすると、それは「総合」の名に値するのだろうか? 集団遺伝学や体系学、古生物学といった各分野の「つじつまが合っている」ことを示しただけなら、「総合」とは呼べないのではないか? それゆえプロヴァインは、ハクスリーは総合者というより編集者(compiler)だったのだと評価した。しかし筆者の考えでは、ハクスリーは各分野の「つじつまが合っている」ことだけではなく、それらが「相互に照らし合う」ことも示すことによって生物学の統合を目指したのである。たとえば遺伝的システムの進化を論じる第4章では、進化が遺伝学を解明し、遺伝学が進化を解明している。
 ETMSは1963年に再出版されたが、短いイントロダクションが追加された以外に書き直しはされなかったので、ハクスリーのなかで「硬直化」がどれくらい進んでいたか、はっきりとはしない。しかし、選択の重要性について、60年代のフォードやマイアのように極端な立場はとっていなかったように思われる。総合に際しては様々な進化の様式が否定されたが、それでもなお多くの様式が検討され続けていたのであって、われわれは「収縮」や「硬直化」といったテーゼによってその多様性を見えなくしてしまうことには気をつけなければならない。
 なお、ハクスリーにおける「進化の多様性」は、彼の「進歩主義者」としての立場とも関係している。彼の考えでは、様々な進化があるなかで、進歩を導く進化はごく一部の形の自然選択によるものに限られている。それゆえ、人間が進歩を続けるためには人間自身による介入が必要となる。「進化の多様性」を訴えるハクスリーの立場は、彼の優生学的視点を支えるものだったのである。

2015年3月3日

進化論の総合なんてなかった Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life”

 科学史家のプロヴァインは、『理論集団遺伝学の起源』(1971)を著し、また『進化論の総合――生物学の統合についての視点』(1980)をマイアと共に編集するなど、進化論の総合に関する歴史研究の第一人者として知られてきました。しかし1988年頃からプロヴァインは主張を転換し、進化論の総合なんてなかったという主旨のことを言うようになります。今回紹介する論文は、ジュリアン・ハクスリーに関する論集に収録された一本ですが、そのようなプロヴァインの新しい主張がはっきりと示されています。

William B. Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life,” in C. Kenneth Waters and Albert Van Helden, eds., Julian Huxley: Biologist and Statesman of Science (Houston: Rice University Press, 1992): 165–180.

 T・H・ハクスリーが進化のプロセスを非道徳的なものとみなし、倫理の基盤にしようとは考えなかったのと異なり、その孫のJ・ハクスリー(以下ハクスリー)は進化を、人間存在に希望や意味を与える進歩的な過程とみなした。特に1910年代前半には、進化を目的のあるものとみなしていたようである。『進化――現代的総合』(1942)の最終章「進化的進歩」では進化的進歩を、生物学的効率や環境のコントロール、環境に対する非依存性、機能効率、内部調整といった言葉で定義した。ハクスリーの考えでは、更なる進歩の可能性を秘めているのは人間だけである。この本では、進化に目的があることは否定している。

 ここで「進化論の総合」ということについて考え直してみたい。総合に関わった生物学者たちのほとんどが、総合に対する自分の貢献が過小評価されていると訴えている(マイア、ライト、ハクスリー、シンプソン、ウォディントン、ステビンズ、ドブジャンスキー、フィッシャー、フォード、ゴールドシュミット、ダーリントン、マラー、レンシュ、チモフェーエフ゠レソフスキー)。エルドリッジ、グールド、木村ら若い世代の進化学者の議論を見ても、総合に関する見解の不一致は著しい。しかし、とにかく「1930年代から1940年代にかけて進化生物学に何か重要なことがあった」という点では誰もが一致している。
 進化論の総合が何ではなかったかを考えてみると、第一に、それは総合と呼べるようなものではなかった。メンデル遺伝と遺伝子頻度を変化させる様々な要因との総合は確かにあったが、それを成し遂げたフィッシャー、ホールデン、ライト、ホグベン、チェトヴェリコフらは実際の進化のプロセスについて激しく論争していた。この真の総合の後に行われたことは、分野間の障壁を取り除き、コンセンサスを偽造することであり、ごまかしに満ちていた。マイアや哲学者のDudley Shapereらはこれを総合として特徴づけようとしたのである。第二に、総合は新しい発見や概念や理論によって特徴づけられるものではなかった。フィッシャーの自然選択の基礎理論、ライトの平衡推移理論や適応度地形、マイアの創始者効果、ウォディントンの後成的地形(epigenetic landscape)、マラーのラチェットなどは、それを中心に総合が形成されたと言えるようなものではない。第三に、総合は自然界における進化のメカニズムについての合意によって特徴づけられるものでもなかった。実際の進化において、どのようなメカニズムが重要かについての論争は尽きなかったのである。
 総合について考え直す上でヒントとなるのが、フランスの生物学者ドラージュ(Yves Delage)の事例である。ドラージュのL’Hérédité et les Grands Problèmes de la Biologie Générale(1894)は、さまざまな遺伝理論についての分析をまとめた大著であり、好評を博した。そこで1903年に第二版が出版されたのだが、これはその後の遺伝学者たちからまるっきり無視されることになった。メンデルの再発見(1900)により、数々の遺伝理論(たとえばドラージュが51ページ分を割いた、ネーゲリのイデオプラズム理論)がその価値を失い、ドラージュの本はいきなり時代遅れになってしまったのである。一方、こういった数々の遺伝理論はそれぞれ、自然選択以外の何らかの進化メカニズムについての理論と結びついていたのだが、それらはメンデルの再発見を生き延びた。自然選択に対する拒絶の背景には、非目的的で日和見主義的なメカニズムに対する嫌悪があった。
 総合は、このようにして過剰に存在した進化メカニズムについての理論の大量絶滅であり、進化のプロセスに関係する変数の大規模な切り落としであった。集団のサイズや構造、遺伝的浮動、ヘテロ接合性の度合、突然変異率、移動率などについて論争することはあっても、それらが重要になり得るという認識では一致しており、目的論的な力は働いていないという認識でも一致していた。それは「進化論の総合」というより、「進化論の収縮(evolutionary constriction)」と呼ぶべき出来事であった。1940年代後半から50年代にかけて進化生物学が選択主義者的解釈に「硬直化」したというグールドの説には賛成できる。それは進化論の収縮の更なる収縮といってもいいだろうし、進化論の収縮の硬直化といってもいいだろう。

 ハクスリーの『進化――現代的総合』は、この「進化論の収縮」説の完璧な例である。それは収縮された変数のセットについての議論であったが、それらを消化し総合する議論ではなかった。ハクスリーを悩ませた課題は、目的なしに進歩を説明することであった。祖父のT・H・ハクスリーは進化が倫理の基盤にならないと論じたとき、ユダヤ・キリスト教の伝統に立ち返ったが、J・ハクスリーはすでにユダヤ・キリスト教の伝統を見限っていた。
 このように考えてみると、ハクスリーがテイヤール(Teilhard de Chardin)の『現象としての人間』(1955、英訳1959)を擁護した理由がわかる。テイヤールの目的論的な進化観はほとんどの進化生物学者には馬鹿馬鹿しいものとして映り、シンプソンらはこの本をこき下ろした。しかしハクスリーと、信仰心の厚い人物であったドブジャンスキーがテイヤールを擁護した。ハクスリーとドブジャンスキーは、進化に目的など無いことを知りつつも、進化が人生に(目的を有する進化が提供していたような)意味を与えてくれることを望んでいた。進化に目的があった時代、そこには本当の進歩があり得たが、進化論の収縮がその望みを終わらせたのである。

2015年2月27日

「品種」と植物科学 Smocovitis, “Mongrels and Hybrids”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Mongrels and Hybrids: The Problem of Race in the Botanical World,” in Paul Farber and Hamilton Cravens, eds., Race and Science: Scientific Challenges to Racism in Modern America (Corvallis: Oregon State University Press, 2009): 81–91.

 ダーウィンが1859年に発表した有名な著作のタイトルは『自然選択、すなわち生存闘争において有利な品種(race)が保存されることによる種の起源について』であった。だがダーウィンは、この本のなかで植物に対して「品種」という言葉を用いることはなく、動物に対して僅かに用いただけだった。ダーウィンは、種や亜種や個体差といったカテゴリーのあいだにはっきりした区別はないと考えていたし、種の概念について厳密に定義することを避けていた。特に、植物の進化は種の定義の問題を難しくしているとダーウィンは述べていた。たとえば、ダーウィンは雑種形成(hybridization)が彼の考える枝分かれ的進化の描像に反することをよく認識していた。ダーウィンは、異なる種のあいだに生まれた雑種をhybrid、異なる変種のあいだに生まれた雑種をmongrelと呼び分けていたが、雑種形成の問題について解決を与えることはできなかった。
 世紀の変わり目には、植物学者たちは真剣に雑種形成によって種の起源を説明しようとしていた。ロッツィは今では周縁的な学者だったと考えられているが、彼に限らず、当時は多くの“植物派”の人々(植物を研究対象ではなく研究手段としている人々も含む)が、厳密な意味でのダーウィン的進化理解を拒み、他の理論、たとえばド・フリース的突然変異説やネオ・ラマルキズムで種の起源を説明しようとしていた。
 植物進化を取り組みにくいものとしていたのは何だったのだろうか? 現在の生物学における理解では、植物と動物には少なくとも6つの大きな違いがあると考えられる。植物は動物に比べて、①発達上単純で、②無差別的に交雑し、③無限成長をし、④表現型可塑性が高く、⑤倍数性が珍しくなく、⑥自家受精ができる。これらの「生物学的」理由により、植物進化の基礎を理解するのは難しかった。しかし一方で、植物は生物学者にとって理想的なモデル生物でもあった。植物に頼った研究が増えるにつれ、鳥類や哺乳類といった生物と比較しての植物の特異性もますます明らかになっていった。
 それゆえ、植物の変異と進化についての一般理論はステビンズ(1950)を待つこととなった。ステビンズは、基本的にはドブジャンスキーの仕事を忠実に追っていた。ドブジャンスキーはダーウィンが避けた種の定義の問題に正面から取り組み、「品種」も有意味なカテゴリーとして積極的に用いていた。しかしステビンズは、「品種」という概念を正式に用いることはなかった。ステビンズと同様、多くの植物学者は「品種」というカテゴリーにあまり意味を見出だしていなかった。ドブジャンスキーも、植物における品種の問題は避けていた。
 「品種」の概念がある程度用いられたのは種生態学(genecology)の分野であった。ここで「品種」は、気候や地理、土壌と相関したグループを指す大まかな言葉として用いられた。1930年代中頃には、カーネギーチームによって再びゆるく用いられた。彼らは、「種」などの言葉による単純で厳密なカテゴリー化を拒否していた(J・クラウセンによるマイアへの手紙)。クラウセンとマイアのやり取りは、20世紀中頃の植物学者と動物学者の違いをよく表している。しかしこういった違いは、首尾一貫した進化観を求める動きのなかで誤魔化されていたのである。
 他に「品種」の概念が用いられた分野は、トウモロコシや大豆などの作物の研究である。こういった作物は、人間による栽培化と切っても切り離せない進化の歴史を持つ。そこで、その歴史の解明には細胞遺伝学と人類学(民族誌)を含む研究が必要となった。この研究を行ったアンダーソンとHugh Cutlerは、Carleton Coonによる「品種」の曖昧な定義を採用した。しかしCoonの定義は1960年代には悪名高いものとなっており、ドブジャンスキーも批判している。
 いずれにせよ「品種」の概念は、植物科学の領野ではあまり重要性を持たなかったといえる。植物界における変異の豊富さにも関わらず、植物進化生物学者たちは「品種」のカテゴリーに頼らず、代わりに「変種」「亜種」「栽培品種(cultivar)」「血統(line)」などの語を用いたのである。しかしそれらでさえ、あくまで暫定的なものとして用いられたに過ぎなかった。また、「品種」の語が用いられるときは、人間の歴史に関係している状況の場合が多かった。

2015年2月23日

適応としての総合 Cain, “Synthesis Period in Evolutionary Studies”

Joe Cain, “Synthesis Period in Evolutionary Studies,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 282–292.

 「進化論の総合」は、進化研究における1920年から1950年頃の時期を指す言葉であり、一つのディシプリンが形成された時期を指す言葉である。そしてその核は1930年代にあったといえる。

 総合の第一の層は、数理集団遺伝学である。フィッシャーのモデル(1930)は、小さな選択的優位性でもそれほどの世代数を経ずに重要な変化をもたらすことができることを示した。フィッシャーのモデルが集団の個体数は非常に大きいことを前提としていたのに対し、ライトは集団の個体数が大きく変動し得ることを前提とした。それゆえ、ライトは大きな集団では自然選択が、小さな集団は偶然性が進化を操縦するという平衡推移理論を唱えた。1930年代には、数学理論家がフィールド生物学者と連携する動きが進み、フィッシャーはフォードと、ライトはドブジャンスキーと共同で研究した。
 総合の第二の層は、自然集団における進化の研究である。この研究は、遺伝学や細胞学といった実験室的手法と、自然史や体系学といったフィールド研究的手法を結びつけた。特に重要な貢献をしたのは、ドブジャンスキー、マイア、アンダーソン、ハクスリー、シンプソン、ステビンズらである。ドブジャンスキーは、アメリカじゅうのショウジョウバエの自然集団を研究するリサーチプログラムを発展させた。マイアは種分化の理論を生み出した。1935年以降、親しくなったドブジャンスキーとマイアはお互いに大きな影響を与え合った。さまざまな意味で、この遺伝学者とナチュラリストの交友こそ、総合におけるディシプリン間の橋渡しの核であった。マイア自身、総合を歴史的に考察するにあたって、いつも彼とドブジャンスキーの交友を中心に置き、それが他の橋渡し役(たとえば古生物学のシンプソンや植物学のステビンズ)に向かって広がっていったのだという書き方をした。どの橋渡しにおいても、遺伝学における染色体説がその基礎となっていた。

 総合は、なぜこの時代に起こったのか。総合は、科学における規範の変化に対する適応として理解されるべきである。
 まず手法について言えば、重要なのは新しい手法が開発されたということではなく、良い手法と悪い手法とを判断する価値基準が変わったということである。20世紀前半は、生命科学において検査、標準化、介入、制御に重点を置く実験的手法が支配的になった時代であった。これは、動物学や植物学における、帰納や一般化、そして記述的で経験的な「法則」を重視する古い手法とは対照的なものであった。そのため、1900年代や1910年代の進化研究は、弱々しい時代遅れのものに見えるようになってしまったのである。またこの時代には、調査も次第に定量的なものになっていった。種の分類も、このような潮流のために生物学的種概念を中心とするものに変わっていき、英国では「新体系学」が、米国では「実験分類学」が台頭した。標準化された客観的な基準として、染色体数や染色体組の数を数える方法や、血液化学、交配検査が用いられるようになった。集団遺伝学は、予測を可能にするモデルとして用いられた。
 研究の焦点もまた、対象物それ自体からプロセスへと変化していた。哺乳類学や鳥類学といったディシプリンが消え行く一方で、生態学、生物地理学、動物行動学、進化といったディシプリンが現れていた。生物学者たちは、個々の生物それ自体を研究するのではなく、それを一般的現象の例として研究するようになっていた。こうした関心は、19世紀の学者としては珍しく物よりもプロセスに重点を置いていたダーウィンと共通する。また、種分化研究のようにメカニズムを分析しようとする学問分野が盛んになっていた。総合説の擁護者たちは、記述的、静的な研究から因果的、動的な研究への転換を訴えていた。

 総合の時期には、それを支える社会的基盤もつくられていった。英国ではASSGB(the Association for the Study of Systematics in Relation to General Biology)が、米国ではサンフランシスコ地帯、シカゴ大学、アメリカ自然史博物館、スミソニアン大学などにディシプリンを超えた研究者たちが集まった。マイアが中心となって形成したネットワークは1946年にSSE(the Society for the Study of Evolution)に結実し、マイアは1947年創刊のEvolution誌の初代編集長となった。このようにして生まれた新しいディシプリンにおいて、ダーウィンと『種の起源』は彼らのヒーローとしての地位を与えられ、本来のダーウィニズムがその「凋落」を乗り越えて復活したという物語がつくられた。しかしそれは、総合説がダーウィンの説に立ち返ったからというよりも、ダーウィンが因果的なプロセスを重視し、注意深い議論と確かな手法のもとに彼の本を書いたからだと言えるだろう。

2015年2月19日

植物科学の実践の変化 Digrius, “Botany: 1880s–1920s”

Dawn Mooney Digrius, “Botany: 1880s–1920s,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 264–272.

 『種の起源』の出版以降、植物科学は大きな変革の時代を迎えることになった。だがそれは進化の理論を受け入れるということに留まらなかった。ダーウィンとザックスの論争に象徴されるように、技能、訓練、実験、専門化に重点が置かれ、顕微鏡が活躍する「新しい」植物学の時代が来たのである。たとえば古植物学はウィリアムソン(William Crawford Williamson, 1816–1895)の主導のもと、外的形質ではなく内的構造に基づいて化石植物を特定・分類するようになった。ロシアでは、ティミリヤーゼフ(Kliment Arkeedevich Timiriazev, 1843–1920)がダーウィンの自然選択説を広めると同時に、植物学の実験化・専門化を進めた。1900年から1929年のあいだには、遺伝の細胞学的研究が植物科学のなかに確立されていった。倍数性や雑種形成が植物の進化のなかで大きな役割を果たしていることが明らかになったとき、細胞学的研究と体系学の結合が植物の種分化研究を変え始めたのである。
 だが1900年から1920年までの頃、育種家や植物研究者たちのあいだで、種とは何かという問題や自然選択説の正否について、決定的な見解は存在しなかった。ド・フリースの突然変異説についても、育種家たちの評判は良くなかった。フィッシャーの集団遺伝学が現れてはじめて、定量的な手法を用いる広範囲の研究が可能になった。そしてバブコックやステビンズ、アンダーソン、トゥリルといった、実験的、遺伝学的、生態学的あるいは細胞学的手法をとる植物学者たちによって、植物科学は総合に持ち込まれるに至った。その背景には、1880年代から1920年代のあいだにおける植物科学の実践の変化があったといえるだろう。

2015年2月15日

機械的客観性の出現と写真 Daston & Galison, Objectivity, ch.3, pp. 115–138.

Lorraine Daston and Peter Galison, Objectivity (New York: Zone Books, 2007), 115–138.

「ナチュラルヒストリーの歴史研究会」で読み進めているObjectivityです。
 今回は第3章「機械的客観性」の第1節と第2節になります。


1.クリアに見る

 1906年、ゴルジ(Camillo Golgi, 1843–1926)とカハール(Santiago Ramón y Cajal, 1852–1934)という二人の組織学者が神経系の構造研究によってノーベル医学生理学賞を受賞した。だが、二人の受賞記念講演はまさしく正反対の内容であった。というのも、彼らは中枢神経系の構造に関してまったく相容れない意見を持っていたのである。ゴルジは、神経細胞(ニューロン)はすべて網目状に結合しており、一体となっているのだと説いた(網状説)。それに対してカハールは、神経細胞の接合部分には隙間があり、それぞれの神経細胞は独立していると主張した(ニューロン説)。現在ではニューロン説の正しさが認められているが、当時ゴルジは数十年間にわたって考えを曲げず、カハールと激しい論争を続けていたのである。
 この論争は、端的に言えば画像をめぐる対立だったといえるだろう。二人はゴルジが開発した同じ染色手法を用いていたが、ゴルジが描いたスケッチに対してカハールは激しく異議を唱えた。カハールに言わせれば、それは現実と異なっており、改ざんされているのである。ゴルジは実際、スケッチを「自然に即して」ただし「自然より単純化して」描いたのだと述べている。一方でカハールは、その研究人生において「クリアに見る」ことを追い求めてきていた。それは、カハールが絶対に必要だとみなしていた認識的徳であった。この対立は、19世紀後半に客観性の問題をめぐって争った二つの理念である、「写実(truth-to-nature)」と「機械的客観性」の対立なのである。
 本章は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、視覚的に基礎づけられた「機械的客観性」が生み出された過程を論じる。「機械的客観性」とは、著者の意図的な干渉を抑え込み、代わりに厳格な手順によって自然をページに写し取ろうとする、断固たる駆動(drive)のことである。いわば、「自然がよく聞こえるように、観察者は静かにする」のである。
このような客観性の獲得は、「自己(self)」の変革と結びついていた。科学者は、自分の予測や、美学や、体系化への欲望が紛れ込まないように、対象に干渉しないように、自己を律しなければならない。禁欲的で、自制的な科学的自己が要求されたのである。それゆえ、勤勉でありながら誘惑に負けることがない機械は科学者たちに信頼された。また、科学者の仕事を手伝う画家たちは、自然をありのままに写せているかどうかについて、科学者と相互監視する関係になった。
 「機械的客観性」は歴史上、19世紀中頃にだけ出現したといえる。この客観性は、はじめは少しずつ現れたが、次第に強くなっていった。アトラスには1840年代頃に現れ始め、1880年代と90年代にはいたるとこで見受けられるようになった。


2.科学としての写真、芸術としての写真

 19世紀における客観性の出現は、単に写真の発明によるものとして説明できるものではない。実際、すべての客観的な画像が写真というわけではなかったし、逆にすべての写真が客観的とみなされたわけでもなかった。
 写真は1820年代から30年代にかけて、ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787–1851)やタルボット(William Henry Fox Talbot, 1800–1877)の発明によって生まれた。当初、写真は描画やエッチングの代替手段として認識されたため、その強力さは細部を克明に描きながらも人間の仕事を大幅に減らす点にあるのだと理解された。しかしすぐに、写真を科学的媒体として捉える別の議論が登場した。それは、写真は自然が自発的に描くものであって、人間の解釈から自由であり、それゆえ客観的な画像であるという議論であった。たとえば、医学者のドネ(Alfred François Donné, 1801–1878)は、彼が顕微鏡を見て描いたと主張していた絵が「錯覚」に過ぎないのではないかという批判を退けるために、アトラスに写真を掲載した。
 一方、一部の芸術家たちはこうした「機械的客観性」を批判し、写真を芸術とみなすことに反対した。写真は外部の現実を写し取っているだけで、独創性がなく、芸術の名に値しないというのである。それに対して写真を芸術として擁護する人は、写真にもそれを撮る人のスタイルや感情が表れるのだと主張した。いずれにしても、これらの議論では芸術としての価値基準は作り手の個性が表れているかどうかという点に置かれていた。そして科学の領域においては、その同じ価値基準が反転した形で用いられるようになっていった。ここに、客観的なものである科学と、主観的なものである芸術という、新しい対立の構図が現れたのである。
 もっとも、写真史家によれば、当時写真を撮るためには相当の技術や判断が必要だったのであり、自然が自ら自身を写し取るなどということはまったくなかった。また、当時の人々もみな、手順次第で写真を偽造したり修正したりすることができるのだということに気付いていた。しかしこういったことは、写真が客観的で機械的なものとして理解されたという議論には影響しない。なぜなら、当時の科学者たちが問題としていたのは、あくまで彼ら自身の先入観や理論が画像に投影されてしまわないかどうかという点だったからである。
 「機械的」という言葉は、二つの異なる意味が合体していることに気をつけなければならない。一つは作者の介入がないということであり、もう一つは画像を自動的に大量複製できるということである(後者は版画も当てはまる)。しかし、後者の意味で写真が「機械的」になるのは1880年代のことであった。前者の意味では、あくまでも芸術家としての介入がないのであって、写真家としては多くの手順をこなさなければならなかったことに注意すべきだろう。
 18世紀のアトラスの作り手たちは、自然史家の判断の言いなりになるような画家を求めてきた。しかしいまや、科学者たちは自分を表に出さないようにする意志と、自分の意志を迂回するような手順と機械とによって、何らの知性も画像をかき乱していないことを保証するようになったのである。

2015年2月5日

人種的思考の歴史、再考 Seth, “Introduction”  【Isis, Focus:人種】

2月6日のIsis, Focus読書会では、2014年第4号の「人種」特集を扱います。
詳細は以下のページをご覧ください。オンライン参加も歓迎です。
https://www.facebook.com/events/1522913594653257/?ref_dashboard_filter=upcoming

以下は、特集のイントロダクションのレジュメです。


Suman Seth, “Introduction,” Isis 105 (2014): 759–763.

 Nancy Stepanの『科学における人種概念 The Idea of Race in Science』(1982)が描いた人種概念の歴史は、ディシプリン、地域、時代の三つの軸において偏りがある。ディシプリンの軸では、多くの人種科学者が医者であったにもかかわらず、もっぱら科学者を論じており医学の領域を扱っていない。地域の軸では、他人種と日常的に接触していた地域の人々を扱わずに、ヨーロッパの大都市にいた学者たちに焦点を当てている。時代の軸では、1800年から1960年のあいだを扱っているが、実際には人種科学の起源は遅くとも18世紀にあるし、またゲノム時代の人種概念も新たな展開を見せている。
 そこで本特集の論考はどれも、この三つの軸の少なくともどれか一つにおいて、「人種」を位置づけなおす。たとえばSeth自身の論考は18世紀の西インド諸島における「人種」を検討する。だが本特集は、ヨーロッパの大都市において科学者たちがつくった人種的思考が、周縁的地域や新しいディシプリンにおいてどのように変化(適応)していったのかを探るものではない。また、時代や地域によって人種的思考もさまざまであるという当たり前のことを確認しようというものでもない。そうではなくて、異なるディシプリン、地域、時代が、どのようにして、異なる人種的思考の表現を要請し形成したのかを探ろうというのが本特集の意図である。そうすることで、19世紀ヨーロッパの人種科学を生んだ条件についても考え直すことができるのである。

2015年2月4日

諸刃の剣としての今日的人種科学 Fullwiley, “The Contemporary Synthesis” 【Isis, Focus:人種】

2月6日のIsis, Focus読書会では、2014年第4号の「人種」特集を扱います。
詳細は以下のページをご覧ください。オンライン参加も歓迎です。
https://www.facebook.com/events/1522913594653257/?ref_dashboard_filter=upcoming

以下は、特集のうちの6つ目の論考のレジュメです。
ゲノム科学が「人種」と呼べるような科学的分類は存在しないことを示したにもかかわらず、人々の遺伝的な違いが従来通りの政治的・社会的な人種分類に結び付けられてしまう傾向が加速しています。この新しい潮流は、政治的にリベラルの人も保守の人も巻き込み、古い概念も新しい態度も取り込んでおり、人種分類を復権させる可能性と脱構築する可能性の両方を秘めているものです。本論考は、非常に繊細で扱いの難しい現代的問題を浮かび上がらせた報告といえるでしょう。


Duana Fullwiley, “The “Contemporary Synthesis”: When Politically Inclusive Genomic Science Relies on Biological Notions of Race,” Isis 105 (2014): 803–814.

 この論考は、今日の米国の遺伝学における人種的思考について論じたものである。最近の人類遺伝学では、古い人種的思考が新しいリベラルな態度と合流しつつある。ことの始まりは1993年のNIH再生法で、「包摂 inclusion」のスローガンのもとに、マイノリティーの人々が医学研究において重視されるようになった。またこの頃、一部の声の大きい科学者たちが、人種によって健康の遺伝的基盤も異なるということを主張しはじめた。政治的には相反しているようにも思えるこの二つの考え方は、意外にも容易く結びついたのである。彼らは、人種による遺伝的な違いというものを研究しはじめた。2000年にヒトゲノム計画のリーダーたちが宣言した、人間には一つの人種しかないという説(“just one race”)に対しては、彼らは反対を表明した。こういった人々はレイシストなのではなく、マイノリティーの人も含まれている。彼らは人種による分類にある程度の真実性があると考えており、それを探求しないことはむしろマイノリティーに対する攻撃に等しいのだと論じている。
 このような古い概念と新しい態度の合流は、1940年代頃にまとまった進化理解である「現代的総合 modern synthesis」と対比して「今日的総合 contemporary synthesis」と呼ぶことができるだろう。現代的総合においては、連続的な「進化」や反類型学的な「集団」の概念が強調された結果、人種という概念は置き去りにされていた。しかし今日的総合では、「純系」「人種」のような古い概念が、「包摂」「多様性」「反レイシズム」といった新しいリベラルな態度とブレンドし、息を吹き返している。そしてこの新しい人種科学は、医療や犯罪捜査などの場面で人々の生活に直接関わりつつあるのだ。

Building Race: Old and New Constructions

 Nancy Stepanの『科学における人種概念 The Idea of Race in Science』(1982)は、人類についての古い考え方と新しい考え方の対立を、「人種」概念と「集団」概念の対立として整理した。「人種」は肌の色や頭蓋骨の形などで解剖学的・形態学的に理解されるものであるのに対して、「集団」は遺伝学的・統計学的に理解されるものである。Stepanは当時、集団遺伝学(新しい多様性の科学)の発展に伴って古い人種科学は駆逐されてきていると記していた。
 しかし今日では、集団遺伝学的手法のもとに人種の遺伝的基礎を探る研究がなされている。これらの研究者たちは、「人種」という言葉の代わりに「生物地理学的祖先 bio-geographical ancestry」とか「遺伝的祖先 genetic ancestry」とかいう言葉を好んで使う。研究者たちはまず、遺伝的祖先がある程度推定される人々のDNAサンプルを集め、それらを比較することによって、比較的混血が少ない「純粋な」ゲノムを持つ人々を割り出していく。さらに、この人々のDNAを他のグループの人々と比較することによって、遺伝的祖先の判定に有用な遺伝的変異、すなわち「祖先識別マーカー Ancestry Informative Marker (AIM)」を決定していくことができる。この過程のなかでは、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人、ネイティブ・アメリカンといった、従来通りの政治的な人種区別の仕方が温存されている。ここには、人間についての生物学が再び人種分類化していく可能性が眠っている。だが一方でこの手法は、かつて黒人の血が一滴でも混じった人は黒人とみなしたようなOne drop的な考え方とは異なり、人々をさまざまな祖先の血が混合した存在とみなす点で、脱人種分類化の可能性も秘めている。

The Contemporary Synthesis in Action

 自然人類学者・集団遺伝学者のMark Shriverは、Parabon Snapshotという民間企業と提携して技術開発を行っている。彼らが売り出しているのは「分子フォトフィット molecular photofitting」と呼ばれる技術で、AIMを用いて対象となる人物のDNAから祖先集団とその構成割合を割り出し、その人の顔を再現するというものである。この技術は、主に犯罪捜査に用いられることが想定されている。しかも、資金を提供している国立司法研究所はShriverに対し、もっぱら黒人についての研究をさせている。
 一方で、AIMを用いた祖先分析技術は直販で消費者の手に届くものとなっており、人々は楽しみとして自分の遺伝的祖先とその割合を調べ、多くの場合には意外な祖先も入っていることを知ることができる。そこではAIMは人種分類を脱構築するものとして捉えられているのである。さらに、Shriverら一部の研究者たちは、国立進化総合センターなどの支援を受け、中学生たちのためのサマーキャンプを開催している。特にターゲットとされているのはアフリカ系アメリカ人の子供たちで、研究者たちによると彼らは、進化論が自分たちを「比較的進化していない」人々だとみなしていると感じている傾向があるという。こうした誤解を解くことも目標として、サマーキャンプではAIMなどを用いて子供たちの遺伝的祖先とその割合を明らかにしていく。そこで子供たちは、自分たちが多かれ少なかれ、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人、ネイティブ・アメリカンの混血であることを学ぶことになる。「人種」を「遺伝的祖先」とみなす考え方は、一見したところ、過去の人種差別を克服する思想であるようにも思える。

Concluding Thoughts

 科学者たちが「遺伝的祖先」の言葉を好んで用いているにしても、結局彼らが研究しているのは「人種」である。この動きには、リベラルや保守といった政治的立ち位置にかかわらず、多くの研究者や政治家が参加している。だが、こういった研究はすぐに人種差別に裏返る危険性も秘めている。2014年、ニューヨーク・タイムズのサイエンスライターを退職したNicholas Wadeは、AIMなどから得られている研究結果を根拠に、ヨーロッパ人は他の人種、特にアフリカ人に比べてより進化した適応的な人種であると主張する本『やっかいな遺産 A Troublesome Inheritance』を出版した。ここではAIMなどによる研究が、人種概念には生物学的基盤があることを示すものとなっている。
 ゲノム学が人種と呼べるような科学的分類は存在しないことを示したにもかかわらず、今日の文化的状況では、人間集団の違いはあまりにも簡単に、遺伝学的基盤を獲得した人種概念に結び付けられてしまう。そして人種分類を遺伝的なものとして受容することは、医療、司法、科学教育、ゲノム研究、そして個人のアイデンティティといった、様々な領域で定着しつつある。人種間平等や政治的包摂についての考え方が潜在的に再構成されつつあるといえるだろう。