2015年2月27日

「品種」と植物科学 Smocovitis, “Mongrels and Hybrids”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Mongrels and Hybrids: The Problem of Race in the Botanical World,” in Paul Farber and Hamilton Cravens, eds., Race and Science: Scientific Challenges to Racism in Modern America (Corvallis: Oregon State University Press, 2009): 81–91.

 ダーウィンが1859年に発表した有名な著作のタイトルは『自然選択、すなわち生存闘争において有利な品種(race)が保存されることによる種の起源について』であった。だがダーウィンは、この本のなかで植物に対して「品種」という言葉を用いることはなく、動物に対して僅かに用いただけだった。ダーウィンは、種や亜種や個体差といったカテゴリーのあいだにはっきりした区別はないと考えていたし、種の概念について厳密に定義することを避けていた。特に、植物の進化は種の定義の問題を難しくしているとダーウィンは述べていた。たとえば、ダーウィンは雑種形成(hybridization)が彼の考える枝分かれ的進化の描像に反することをよく認識していた。ダーウィンは、異なる種のあいだに生まれた雑種をhybrid、異なる変種のあいだに生まれた雑種をmongrelと呼び分けていたが、雑種形成の問題について解決を与えることはできなかった。
 世紀の変わり目には、植物学者たちは真剣に雑種形成によって種の起源を説明しようとしていた。ロッツィは今では周縁的な学者だったと考えられているが、彼に限らず、当時は多くの“植物派”の人々(植物を研究対象ではなく研究手段としている人々も含む)が、厳密な意味でのダーウィン的進化理解を拒み、他の理論、たとえばド・フリース的突然変異説やネオ・ラマルキズムで種の起源を説明しようとしていた。
 植物進化を取り組みにくいものとしていたのは何だったのだろうか? 現在の生物学における理解では、植物と動物には少なくとも6つの大きな違いがあると考えられる。植物は動物に比べて、①発達上単純で、②無差別的に交雑し、③無限成長をし、④表現型可塑性が高く、⑤倍数性が珍しくなく、⑥自家受精ができる。これらの「生物学的」理由により、植物進化の基礎を理解するのは難しかった。しかし一方で、植物は生物学者にとって理想的なモデル生物でもあった。植物に頼った研究が増えるにつれ、鳥類や哺乳類といった生物と比較しての植物の特異性もますます明らかになっていった。
 それゆえ、植物の変異と進化についての一般理論はステビンズ(1950)を待つこととなった。ステビンズは、基本的にはドブジャンスキーの仕事を忠実に追っていた。ドブジャンスキーはダーウィンが避けた種の定義の問題に正面から取り組み、「品種」も有意味なカテゴリーとして積極的に用いていた。しかしステビンズは、「品種」という概念を正式に用いることはなかった。ステビンズと同様、多くの植物学者は「品種」というカテゴリーにあまり意味を見出だしていなかった。ドブジャンスキーも、植物における品種の問題は避けていた。
 「品種」の概念がある程度用いられたのは種生態学(genecology)の分野であった。ここで「品種」は、気候や地理、土壌と相関したグループを指す大まかな言葉として用いられた。1930年代中頃には、カーネギーチームによって再びゆるく用いられた。彼らは、「種」などの言葉による単純で厳密なカテゴリー化を拒否していた(J・クラウセンによるマイアへの手紙)。クラウセンとマイアのやり取りは、20世紀中頃の植物学者と動物学者の違いをよく表している。しかしこういった違いは、首尾一貫した進化観を求める動きのなかで誤魔化されていたのである。
 他に「品種」の概念が用いられた分野は、トウモロコシや大豆などの作物の研究である。こういった作物は、人間による栽培化と切っても切り離せない進化の歴史を持つ。そこで、その歴史の解明には細胞遺伝学と人類学(民族誌)を含む研究が必要となった。この研究を行ったアンダーソンとHugh Cutlerは、Carleton Coonによる「品種」の曖昧な定義を採用した。しかしCoonの定義は1960年代には悪名高いものとなっており、ドブジャンスキーも批判している。
 いずれにせよ「品種」の概念は、植物科学の領野ではあまり重要性を持たなかったといえる。植物界における変異の豊富さにも関わらず、植物進化生物学者たちは「品種」のカテゴリーに頼らず、代わりに「変種」「亜種」「栽培品種(cultivar)」「血統(line)」などの語を用いたのである。しかしそれらでさえ、あくまで暫定的なものとして用いられたに過ぎなかった。また、「品種」の語が用いられるときは、人間の歴史に関係している状況の場合が多かった。

2015年2月23日

適応としての総合 Cain, “Synthesis Period in Evolutionary Studies”

Joe Cain, “Synthesis Period in Evolutionary Studies,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 282–292.

 「進化論の総合」は、進化研究における1920年から1950年頃の時期を指す言葉であり、一つのディシプリンが形成された時期を指す言葉である。そしてその核は1930年代にあったといえる。

 総合の第一の層は、数理集団遺伝学である。フィッシャーのモデル(1930)は、小さな選択的優位性でもそれほどの世代数を経ずに重要な変化をもたらすことができることを示した。フィッシャーのモデルが集団の個体数は非常に大きいことを前提としていたのに対し、ライトは集団の個体数が大きく変動し得ることを前提とした。それゆえ、ライトは大きな集団では自然選択が、小さな集団は偶然性が進化を操縦するという平衡推移理論を唱えた。1930年代には、数学理論家がフィールド生物学者と連携する動きが進み、フィッシャーはフォードと、ライトはドブジャンスキーと共同で研究した。
 総合の第二の層は、自然集団における進化の研究である。この研究は、遺伝学や細胞学といった実験室的手法と、自然史や体系学といったフィールド研究的手法を結びつけた。特に重要な貢献をしたのは、ドブジャンスキー、マイア、アンダーソン、ハクスリー、シンプソン、ステビンズらである。ドブジャンスキーは、アメリカじゅうのショウジョウバエの自然集団を研究するリサーチプログラムを発展させた。マイアは種分化の理論を生み出した。1935年以降、親しくなったドブジャンスキーとマイアはお互いに大きな影響を与え合った。さまざまな意味で、この遺伝学者とナチュラリストの交友こそ、総合におけるディシプリン間の橋渡しの核であった。マイア自身、総合を歴史的に考察するにあたって、いつも彼とドブジャンスキーの交友を中心に置き、それが他の橋渡し役(たとえば古生物学のシンプソンや植物学のステビンズ)に向かって広がっていったのだという書き方をした。どの橋渡しにおいても、遺伝学における染色体説がその基礎となっていた。

 総合は、なぜこの時代に起こったのか。総合は、科学における規範の変化に対する適応として理解されるべきである。
 まず手法について言えば、重要なのは新しい手法が開発されたということではなく、良い手法と悪い手法とを判断する価値基準が変わったということである。20世紀前半は、生命科学において検査、標準化、介入、制御に重点を置く実験的手法が支配的になった時代であった。これは、動物学や植物学における、帰納や一般化、そして記述的で経験的な「法則」を重視する古い手法とは対照的なものであった。そのため、1900年代や1910年代の進化研究は、弱々しい時代遅れのものに見えるようになってしまったのである。またこの時代には、調査も次第に定量的なものになっていった。種の分類も、このような潮流のために生物学的種概念を中心とするものに変わっていき、英国では「新体系学」が、米国では「実験分類学」が台頭した。標準化された客観的な基準として、染色体数や染色体組の数を数える方法や、血液化学、交配検査が用いられるようになった。集団遺伝学は、予測を可能にするモデルとして用いられた。
 研究の焦点もまた、対象物それ自体からプロセスへと変化していた。哺乳類学や鳥類学といったディシプリンが消え行く一方で、生態学、生物地理学、動物行動学、進化といったディシプリンが現れていた。生物学者たちは、個々の生物それ自体を研究するのではなく、それを一般的現象の例として研究するようになっていた。こうした関心は、19世紀の学者としては珍しく物よりもプロセスに重点を置いていたダーウィンと共通する。また、種分化研究のようにメカニズムを分析しようとする学問分野が盛んになっていた。総合説の擁護者たちは、記述的、静的な研究から因果的、動的な研究への転換を訴えていた。

 総合の時期には、それを支える社会的基盤もつくられていった。英国ではASSGB(the Association for the Study of Systematics in Relation to General Biology)が、米国ではサンフランシスコ地帯、シカゴ大学、アメリカ自然史博物館、スミソニアン大学などにディシプリンを超えた研究者たちが集まった。マイアが中心となって形成したネットワークは1946年にSSE(the Society for the Study of Evolution)に結実し、マイアは1947年創刊のEvolution誌の初代編集長となった。このようにして生まれた新しいディシプリンにおいて、ダーウィンと『種の起源』は彼らのヒーローとしての地位を与えられ、本来のダーウィニズムがその「凋落」を乗り越えて復活したという物語がつくられた。しかしそれは、総合説がダーウィンの説に立ち返ったからというよりも、ダーウィンが因果的なプロセスを重視し、注意深い議論と確かな手法のもとに彼の本を書いたからだと言えるだろう。

2015年2月19日

植物科学の実践の変化 Digrius, “Botany: 1880s–1920s”

Dawn Mooney Digrius, “Botany: 1880s–1920s,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 264–272.

 『種の起源』の出版以降、植物科学は大きな変革の時代を迎えることになった。だがそれは進化の理論を受け入れるということに留まらなかった。ダーウィンとザックスの論争に象徴されるように、技能、訓練、実験、専門化に重点が置かれ、顕微鏡が活躍する「新しい」植物学の時代が来たのである。たとえば古植物学はウィリアムソン(William Crawford Williamson, 1816–1895)の主導のもと、外的形質ではなく内的構造に基づいて化石植物を特定・分類するようになった。ロシアでは、ティミリヤーゼフ(Kliment Arkeedevich Timiriazev, 1843–1920)がダーウィンの自然選択説を広めると同時に、植物学の実験化・専門化を進めた。1900年から1929年のあいだには、遺伝の細胞学的研究が植物科学のなかに確立されていった。倍数性や雑種形成が植物の進化のなかで大きな役割を果たしていることが明らかになったとき、細胞学的研究と体系学の結合が植物の種分化研究を変え始めたのである。
 だが1900年から1920年までの頃、育種家や植物研究者たちのあいだで、種とは何かという問題や自然選択説の正否について、決定的な見解は存在しなかった。ド・フリースの突然変異説についても、育種家たちの評判は良くなかった。フィッシャーの集団遺伝学が現れてはじめて、定量的な手法を用いる広範囲の研究が可能になった。そしてバブコックやステビンズ、アンダーソン、トゥリルといった、実験的、遺伝学的、生態学的あるいは細胞学的手法をとる植物学者たちによって、植物科学は総合に持ち込まれるに至った。その背景には、1880年代から1920年代のあいだにおける植物科学の実践の変化があったといえるだろう。

2015年2月15日

機械的客観性の出現と写真 Daston & Galison, Objectivity, ch.3, pp. 115–138.

Lorraine Daston and Peter Galison, Objectivity (New York: Zone Books, 2007), 115–138.

「ナチュラルヒストリーの歴史研究会」で読み進めているObjectivityです。
 今回は第3章「機械的客観性」の第1節と第2節になります。


1.クリアに見る

 1906年、ゴルジ(Camillo Golgi, 1843–1926)とカハール(Santiago Ramón y Cajal, 1852–1934)という二人の組織学者が神経系の構造研究によってノーベル医学生理学賞を受賞した。だが、二人の受賞記念講演はまさしく正反対の内容であった。というのも、彼らは中枢神経系の構造に関してまったく相容れない意見を持っていたのである。ゴルジは、神経細胞(ニューロン)はすべて網目状に結合しており、一体となっているのだと説いた(網状説)。それに対してカハールは、神経細胞の接合部分には隙間があり、それぞれの神経細胞は独立していると主張した(ニューロン説)。現在ではニューロン説の正しさが認められているが、当時ゴルジは数十年間にわたって考えを曲げず、カハールと激しい論争を続けていたのである。
 この論争は、端的に言えば画像をめぐる対立だったといえるだろう。二人はゴルジが開発した同じ染色手法を用いていたが、ゴルジが描いたスケッチに対してカハールは激しく異議を唱えた。カハールに言わせれば、それは現実と異なっており、改ざんされているのである。ゴルジは実際、スケッチを「自然に即して」ただし「自然より単純化して」描いたのだと述べている。一方でカハールは、その研究人生において「クリアに見る」ことを追い求めてきていた。それは、カハールが絶対に必要だとみなしていた認識的徳であった。この対立は、19世紀後半に客観性の問題をめぐって争った二つの理念である、「写実(truth-to-nature)」と「機械的客観性」の対立なのである。
 本章は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、視覚的に基礎づけられた「機械的客観性」が生み出された過程を論じる。「機械的客観性」とは、著者の意図的な干渉を抑え込み、代わりに厳格な手順によって自然をページに写し取ろうとする、断固たる駆動(drive)のことである。いわば、「自然がよく聞こえるように、観察者は静かにする」のである。
このような客観性の獲得は、「自己(self)」の変革と結びついていた。科学者は、自分の予測や、美学や、体系化への欲望が紛れ込まないように、対象に干渉しないように、自己を律しなければならない。禁欲的で、自制的な科学的自己が要求されたのである。それゆえ、勤勉でありながら誘惑に負けることがない機械は科学者たちに信頼された。また、科学者の仕事を手伝う画家たちは、自然をありのままに写せているかどうかについて、科学者と相互監視する関係になった。
 「機械的客観性」は歴史上、19世紀中頃にだけ出現したといえる。この客観性は、はじめは少しずつ現れたが、次第に強くなっていった。アトラスには1840年代頃に現れ始め、1880年代と90年代にはいたるとこで見受けられるようになった。


2.科学としての写真、芸術としての写真

 19世紀における客観性の出現は、単に写真の発明によるものとして説明できるものではない。実際、すべての客観的な画像が写真というわけではなかったし、逆にすべての写真が客観的とみなされたわけでもなかった。
 写真は1820年代から30年代にかけて、ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787–1851)やタルボット(William Henry Fox Talbot, 1800–1877)の発明によって生まれた。当初、写真は描画やエッチングの代替手段として認識されたため、その強力さは細部を克明に描きながらも人間の仕事を大幅に減らす点にあるのだと理解された。しかしすぐに、写真を科学的媒体として捉える別の議論が登場した。それは、写真は自然が自発的に描くものであって、人間の解釈から自由であり、それゆえ客観的な画像であるという議論であった。たとえば、医学者のドネ(Alfred François Donné, 1801–1878)は、彼が顕微鏡を見て描いたと主張していた絵が「錯覚」に過ぎないのではないかという批判を退けるために、アトラスに写真を掲載した。
 一方、一部の芸術家たちはこうした「機械的客観性」を批判し、写真を芸術とみなすことに反対した。写真は外部の現実を写し取っているだけで、独創性がなく、芸術の名に値しないというのである。それに対して写真を芸術として擁護する人は、写真にもそれを撮る人のスタイルや感情が表れるのだと主張した。いずれにしても、これらの議論では芸術としての価値基準は作り手の個性が表れているかどうかという点に置かれていた。そして科学の領域においては、その同じ価値基準が反転した形で用いられるようになっていった。ここに、客観的なものである科学と、主観的なものである芸術という、新しい対立の構図が現れたのである。
 もっとも、写真史家によれば、当時写真を撮るためには相当の技術や判断が必要だったのであり、自然が自ら自身を写し取るなどということはまったくなかった。また、当時の人々もみな、手順次第で写真を偽造したり修正したりすることができるのだということに気付いていた。しかしこういったことは、写真が客観的で機械的なものとして理解されたという議論には影響しない。なぜなら、当時の科学者たちが問題としていたのは、あくまで彼ら自身の先入観や理論が画像に投影されてしまわないかどうかという点だったからである。
 「機械的」という言葉は、二つの異なる意味が合体していることに気をつけなければならない。一つは作者の介入がないということであり、もう一つは画像を自動的に大量複製できるということである(後者は版画も当てはまる)。しかし、後者の意味で写真が「機械的」になるのは1880年代のことであった。前者の意味では、あくまでも芸術家としての介入がないのであって、写真家としては多くの手順をこなさなければならなかったことに注意すべきだろう。
 18世紀のアトラスの作り手たちは、自然史家の判断の言いなりになるような画家を求めてきた。しかしいまや、科学者たちは自分を表に出さないようにする意志と、自分の意志を迂回するような手順と機械とによって、何らの知性も画像をかき乱していないことを保証するようになったのである。

2015年2月5日

人種的思考の歴史、再考 Seth, “Introduction”  【Isis, Focus:人種】

2月6日のIsis, Focus読書会では、2014年第4号の「人種」特集を扱います。
詳細は以下のページをご覧ください。オンライン参加も歓迎です。
https://www.facebook.com/events/1522913594653257/?ref_dashboard_filter=upcoming

以下は、特集のイントロダクションのレジュメです。


Suman Seth, “Introduction,” Isis 105 (2014): 759–763.

 Nancy Stepanの『科学における人種概念 The Idea of Race in Science』(1982)が描いた人種概念の歴史は、ディシプリン、地域、時代の三つの軸において偏りがある。ディシプリンの軸では、多くの人種科学者が医者であったにもかかわらず、もっぱら科学者を論じており医学の領域を扱っていない。地域の軸では、他人種と日常的に接触していた地域の人々を扱わずに、ヨーロッパの大都市にいた学者たちに焦点を当てている。時代の軸では、1800年から1960年のあいだを扱っているが、実際には人種科学の起源は遅くとも18世紀にあるし、またゲノム時代の人種概念も新たな展開を見せている。
 そこで本特集の論考はどれも、この三つの軸の少なくともどれか一つにおいて、「人種」を位置づけなおす。たとえばSeth自身の論考は18世紀の西インド諸島における「人種」を検討する。だが本特集は、ヨーロッパの大都市において科学者たちがつくった人種的思考が、周縁的地域や新しいディシプリンにおいてどのように変化(適応)していったのかを探るものではない。また、時代や地域によって人種的思考もさまざまであるという当たり前のことを確認しようというものでもない。そうではなくて、異なるディシプリン、地域、時代が、どのようにして、異なる人種的思考の表現を要請し形成したのかを探ろうというのが本特集の意図である。そうすることで、19世紀ヨーロッパの人種科学を生んだ条件についても考え直すことができるのである。

2015年2月4日

諸刃の剣としての今日的人種科学 Fullwiley, “The Contemporary Synthesis” 【Isis, Focus:人種】

2月6日のIsis, Focus読書会では、2014年第4号の「人種」特集を扱います。
詳細は以下のページをご覧ください。オンライン参加も歓迎です。
https://www.facebook.com/events/1522913594653257/?ref_dashboard_filter=upcoming

以下は、特集のうちの6つ目の論考のレジュメです。
ゲノム科学が「人種」と呼べるような科学的分類は存在しないことを示したにもかかわらず、人々の遺伝的な違いが従来通りの政治的・社会的な人種分類に結び付けられてしまう傾向が加速しています。この新しい潮流は、政治的にリベラルの人も保守の人も巻き込み、古い概念も新しい態度も取り込んでおり、人種分類を復権させる可能性と脱構築する可能性の両方を秘めているものです。本論考は、非常に繊細で扱いの難しい現代的問題を浮かび上がらせた報告といえるでしょう。


Duana Fullwiley, “The “Contemporary Synthesis”: When Politically Inclusive Genomic Science Relies on Biological Notions of Race,” Isis 105 (2014): 803–814.

 この論考は、今日の米国の遺伝学における人種的思考について論じたものである。最近の人類遺伝学では、古い人種的思考が新しいリベラルな態度と合流しつつある。ことの始まりは1993年のNIH再生法で、「包摂 inclusion」のスローガンのもとに、マイノリティーの人々が医学研究において重視されるようになった。またこの頃、一部の声の大きい科学者たちが、人種によって健康の遺伝的基盤も異なるということを主張しはじめた。政治的には相反しているようにも思えるこの二つの考え方は、意外にも容易く結びついたのである。彼らは、人種による遺伝的な違いというものを研究しはじめた。2000年にヒトゲノム計画のリーダーたちが宣言した、人間には一つの人種しかないという説(“just one race”)に対しては、彼らは反対を表明した。こういった人々はレイシストなのではなく、マイノリティーの人も含まれている。彼らは人種による分類にある程度の真実性があると考えており、それを探求しないことはむしろマイノリティーに対する攻撃に等しいのだと論じている。
 このような古い概念と新しい態度の合流は、1940年代頃にまとまった進化理解である「現代的総合 modern synthesis」と対比して「今日的総合 contemporary synthesis」と呼ぶことができるだろう。現代的総合においては、連続的な「進化」や反類型学的な「集団」の概念が強調された結果、人種という概念は置き去りにされていた。しかし今日的総合では、「純系」「人種」のような古い概念が、「包摂」「多様性」「反レイシズム」といった新しいリベラルな態度とブレンドし、息を吹き返している。そしてこの新しい人種科学は、医療や犯罪捜査などの場面で人々の生活に直接関わりつつあるのだ。

Building Race: Old and New Constructions

 Nancy Stepanの『科学における人種概念 The Idea of Race in Science』(1982)は、人類についての古い考え方と新しい考え方の対立を、「人種」概念と「集団」概念の対立として整理した。「人種」は肌の色や頭蓋骨の形などで解剖学的・形態学的に理解されるものであるのに対して、「集団」は遺伝学的・統計学的に理解されるものである。Stepanは当時、集団遺伝学(新しい多様性の科学)の発展に伴って古い人種科学は駆逐されてきていると記していた。
 しかし今日では、集団遺伝学的手法のもとに人種の遺伝的基礎を探る研究がなされている。これらの研究者たちは、「人種」という言葉の代わりに「生物地理学的祖先 bio-geographical ancestry」とか「遺伝的祖先 genetic ancestry」とかいう言葉を好んで使う。研究者たちはまず、遺伝的祖先がある程度推定される人々のDNAサンプルを集め、それらを比較することによって、比較的混血が少ない「純粋な」ゲノムを持つ人々を割り出していく。さらに、この人々のDNAを他のグループの人々と比較することによって、遺伝的祖先の判定に有用な遺伝的変異、すなわち「祖先識別マーカー Ancestry Informative Marker (AIM)」を決定していくことができる。この過程のなかでは、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人、ネイティブ・アメリカンといった、従来通りの政治的な人種区別の仕方が温存されている。ここには、人間についての生物学が再び人種分類化していく可能性が眠っている。だが一方でこの手法は、かつて黒人の血が一滴でも混じった人は黒人とみなしたようなOne drop的な考え方とは異なり、人々をさまざまな祖先の血が混合した存在とみなす点で、脱人種分類化の可能性も秘めている。

The Contemporary Synthesis in Action

 自然人類学者・集団遺伝学者のMark Shriverは、Parabon Snapshotという民間企業と提携して技術開発を行っている。彼らが売り出しているのは「分子フォトフィット molecular photofitting」と呼ばれる技術で、AIMを用いて対象となる人物のDNAから祖先集団とその構成割合を割り出し、その人の顔を再現するというものである。この技術は、主に犯罪捜査に用いられることが想定されている。しかも、資金を提供している国立司法研究所はShriverに対し、もっぱら黒人についての研究をさせている。
 一方で、AIMを用いた祖先分析技術は直販で消費者の手に届くものとなっており、人々は楽しみとして自分の遺伝的祖先とその割合を調べ、多くの場合には意外な祖先も入っていることを知ることができる。そこではAIMは人種分類を脱構築するものとして捉えられているのである。さらに、Shriverら一部の研究者たちは、国立進化総合センターなどの支援を受け、中学生たちのためのサマーキャンプを開催している。特にターゲットとされているのはアフリカ系アメリカ人の子供たちで、研究者たちによると彼らは、進化論が自分たちを「比較的進化していない」人々だとみなしていると感じている傾向があるという。こうした誤解を解くことも目標として、サマーキャンプではAIMなどを用いて子供たちの遺伝的祖先とその割合を明らかにしていく。そこで子供たちは、自分たちが多かれ少なかれ、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人、ネイティブ・アメリカンの混血であることを学ぶことになる。「人種」を「遺伝的祖先」とみなす考え方は、一見したところ、過去の人種差別を克服する思想であるようにも思える。

Concluding Thoughts

 科学者たちが「遺伝的祖先」の言葉を好んで用いているにしても、結局彼らが研究しているのは「人種」である。この動きには、リベラルや保守といった政治的立ち位置にかかわらず、多くの研究者や政治家が参加している。だが、こういった研究はすぐに人種差別に裏返る危険性も秘めている。2014年、ニューヨーク・タイムズのサイエンスライターを退職したNicholas Wadeは、AIMなどから得られている研究結果を根拠に、ヨーロッパ人は他の人種、特にアフリカ人に比べてより進化した適応的な人種であると主張する本『やっかいな遺産 A Troublesome Inheritance』を出版した。ここではAIMなどによる研究が、人種概念には生物学的基盤があることを示すものとなっている。
 ゲノム学が人種と呼べるような科学的分類は存在しないことを示したにもかかわらず、今日の文化的状況では、人間集団の違いはあまりにも簡単に、遺伝学的基盤を獲得した人種概念に結び付けられてしまう。そして人種分類を遺伝的なものとして受容することは、医療、司法、科学教育、ゲノム研究、そして個人のアイデンティティといった、様々な領域で定着しつつある。人種間平等や政治的包摂についての考え方が潜在的に再構成されつつあるといえるだろう。