2015年7月23日

東インド会社の科学 Arnold, “Science and the Colonial War-State: British India, 1790–1820”

Peter Boomgaard ed., Empire and Science in the Making: Dutch Colonial Scholarship in Comparative Global Perspective, 1760–1830 (New York: Palsgrave Macmillan, 2013).

Chapter 1
David Arnold, “Science and the Colonial War-State: British India, 1790–1820”

 18世紀末から19世紀初頭にかけて、イギリス東インド会社は一営利企業から植民地統治機関へと変質し、インドに大英帝国による支配をもたらした。この変化については、貿易や政治の視点からの研究はされてきたが、科学という視点からの研究はまだあまりされていない。科学は、インドにおける近代的帝国の誕生に際してどのような役割を果たしていたのだろうか。本論文は、インドにおける帝国建設を科学史の視点から描き、またこの移行期における「植民地の知識 colonial knowledge」の性質と作用を論じることを目標とする。

 この時期の東インド会社が科学を支援した背景には、会社の軍事的性格が強まっていたことがあった。当時の東インド会社は、インドの諸国やオランダ、フランスとの軍事的対立を深めていたのである。こうした状況において、科学はインド人の無知を批判し、大英帝国のもとでの繁栄を保証するものとしてプロパガンダに使われた。インド総督のリチャード・ウェルズリーが、軍医にして自然史家のフランシス・ブキャナンを派遣して、現地の農商工業の調査を行わせたのはその一例である。ここでイメージされていた「科学」には、動植物の知識から言語や神話の知識までが含まれており、うまくいけば役に立つだろう知識の寄せ集めのようなものであった。

 軍事的性格の強まりは、別の面でも科学に深い影響を与えていた。兵数を急激に増やしたことで、多くの軍医が必要となって雇われたのである。軍医たちの本来の仕事は兵士の治療であったが、大学教育を受けていた彼らのなかには、動植物や地理、天文、気象、民俗などに興味を抱き研究する者が多かったのである。ベンガル・アジア協会の設立(1784年)など、東洋の調査を目的とする機関が相次いで設立されたことも、この動きを後押しした。植物研究の拠点としては、カルカッタとサハーランプルに植物園が設立された(1786年と1817年)。

 こうした科学の実践を支えていたのは、帝国主義のイデオロギーであった。インドで測量事業を行ったウィリアム・ラムトンや、軍医にして自然史家のベンジャミン・ヘインの記述において、常々彼らの仕事が大英帝国と関連付けられているのはその表れである。しかし一方で、科学活動は経済的必要性によっても動機づけられていたことを忘れてはならない。生産性を向上させ植民地としての役割を果たさなければいけないという意識も、他の帝国との戦争に勝てるだけの準備ができているのだろうかという不安も、科学に対する期待につながっていた。

 以上から考えればこの時代の科学は、大英帝国によるインド支配の道筋に大きな影響力を持っていたわけではなかったが、支配を正当化し支える役割を果たしていたといえるだろう。

 この時代のインドにおける科学は、総じて実践的、観察的、記載的であり、理論化・体系化されてはいないという特徴をもっている。だがそれも1830年代頃になると、フンボルトの生物地理学の影響も受けて、理論化・体系化された科学に変貌していった。その意味では、本論文で扱った科学は「フンボルト以前の科学」あるいは「待機中の科学」とでもいえるように思われる。


18世紀という時代 Boomgaard, “From the Mundane to the Sublime: Science, Empire, and the Enlightenment (1760s–1820s)”

Peter Boomgaard ed., Empire and Science in the Making: Dutch Colonial Scholarship in Comparative Global Perspective, 17601830 (New York: Palsgrave Macmillan, 2013).

Intorduction
Peter Boomgaard, “From the Mundane to the Sublime: Science, Empire, and the Enlightenment (1760s–1820s)”

● 18世紀という時代
これまでの科学史家の見方:科学革命と産業革命のあいだの時代
哲学者や観念史家の見方:理性の時代、啓蒙の時代
近年、科学史においてこの時代が「再発見」されつつある。
本書ではこの時代の終わり頃、すなわちおよそ1760年代から1820年代を扱う。
英国、フランス、スペイン、オランダといった諸帝国がしのぎを削っていた時代。
探検の時代(クックとブーガンヴィルに始まり、ダーウィンに終わる)。
本書が扱うのは、主にオランダの植民地や交易所。

● 観察と実験
18世紀、科学者たちはスコラ学の権威からますます遠ざかりつつあった。
観察が科学の土台として認められるようになった。
これに伴って数量化が重視されるようになり、様々な計量・計測機器が不可欠に。
顕微鏡や望遠鏡をはじめとして、実験機器も発達。
単位の標準化も必要となったが、19世紀に入るまでなかなか実現せず。

● 科学の有用性
啓蒙の時代には、科学や知識の有用性が強調された。
2通りの有用性:
 ① 公共善
 ② 神への崇拝、神の法則を知ること
中流階級以上では科学が普及。
啓蒙の科学:ありふれた、実用的、実践的、応用科学的、科学技術的
聖書を読むこと以上に、「自然の書物」を読むことが重要とみなされた。
宗教と科学のあいだにそれほど対立はなかった。

● 自然物と人工物の収集
初期近代では、動植物、鉱物、化石、工芸品、科学機器などを並べた「驚異の部屋」。
植物について、標本集や草本誌。
ナチュラリストに限らず、様々な立場の人が「驚異の部屋」をつくっていた。
17世紀末から18世紀初頭になると、科学的目的をもった専門家だけがコレクションをもつようになっていった。

● 科学と帝国
かつての科学史では、西洋科学を普及させたことが帝国主義のもたらした利益だったとされた。
1970年代以降になってはじめて、帝国が西洋科学を生み出したのだという主張が登場。
啓蒙という思想もまた、ヨーロッパが単独で生み出したものとはいえないという主張が出てきている。

● 情報の氾濫
16世紀以来、「新しい」土地に関する出版物が溢れかえるようになった。
多くの著者は、原則として全ての人々が等しい潜在能力をもっているという考えを支持した。
その一方で、人々はヨーロッパの優越を信じるようになった。
18世紀後半:ロマン主義の時代が到来。崇高なものへの称賛。
情報の氾濫と、新しい分類法の誕生。
学問分野の名称は、「自然哲学」「実験哲学」「自然史」「道徳科学」などから、「動物学」「地理学」「考古学」「統計学」などに変化。

● 発見の航海
各国政府が航海を支援。
① 航海は、帝国という枠組みの内部で企画されていた。
② 航海は、明確な科学的目標を立てていた。

● 協会とアカデミー
協会やアカデミーは、ある意味で大学を補完するものとなっていた。大学がラテン語で教えられるのに対し、協会ではその土地の言葉が用いられ、大学教育を受けていない人々も集まっていた。
18世紀後半までに、協会間のネットワークも構成されていた。
オランダ共和国では、パリやロンドンのそれのように中心的な役割を果たす協会・アカデミーはなかった。

● オランダの場合
この本の問い:
 1800年頃のオランダ人は海外の植民地について何を知っていたのか?
 その知識はどのようにして生み出され、どのようにして伝わったのか?
1760年代以降のオランダは、経済的にも学術的にもうまくいってはいなかった。
探検隊派遣などの大規模な企画を支援してくれる資金源もなかった。
ただし、VOCとWICのネットワークはよく動いていた。
本書では、目的地に届かなかった情報についても扱う。