2015年10月14日

視覚的科学文化の形成 Hentschel, Visual Cultures in Science and Technology, Ch. 3

Klaus Hentschel, Visual Cultures in Science and Technology: A Comparative History (Oxford: Oxford University Press, 2014), pp. 87–112.


第3章 視覚的科学文化の形成


科学における視覚文化の形成に関する規範的研究は、マーティン・ラドウィックの先駆的な論文「地質科学のための視覚言語の出現:1760–1840年」である。


3.1 ラドウィックと地質学

 ラドウィックの論文は、18、19世紀の地球科学に関する出版物および非公刊資料(私的なものから組織によるものまで)の幅広い調査を行っている。ラドウィックは、1830年頃から地質学者たちがグラフィックな画像(地図や各種の図表など)を多く使うようになっていること、しかもその使われ方が変化していることに気付いた。18世紀の出版物では、文章ばかりでほとんどイラストが入っていなかったり、あるいは逆に過剰にぜいたくで科学的な目的を有さない、風景画や旅行記の流れを汲むイラストが入っていたりするのに対して、1830年頃以降の出版物では画像が不可欠なものとなり、統合された視覚的・言語的コミュニケーションの一部を成すようになっていた。ラドウィックは、印刷技術の改良と並行して進んだこのような新しい視覚表象の出現が、科学的実践に重大な変化をもたらしたことを指摘したのである。本章ではこのような、「特定の視覚言語の出現を伴う、視覚文化の形成」を扱っていく。

 ここではまずラドウィックの議論の構造に注目したい。ラドウィックは視覚的素材の数の増加だけではなく、新しいタイプの視覚表象(地質断面図、ブロック図、地質図、鉱物地図・岩石地図)が登場したことを問題にしている。そしてこれらの視覚表象はどれも突然現れたわけではなく、起源を辿ると、採掘、調査、試金などの現場で働いていた人たちが使っていた図であったという。つまりラドウィックの議論は「激変説」というよりも「斉一説」的であり、既にあるグループが使っていたものを他のグループが借用・修正して基準化するというストーリーなのである。1830年代頃に、そうした視覚表象の用い方はそこに関わる人々のあいだでの共通認識となり、ここに「視覚言語」が誕生した。その「言語」の書き方や読み方は「秘伝的」な性質を帯びており、そのことが「地質学者」という専門家集団の登場を伴ったのである。

 ラドウィックはFig. 14で、こうした視覚言語の出現が、地質学というディシプリンの成立や、ロンドン地質学会などの組織の成立と重ね合わせられることを示している。このことは「鶏が先か、卵が先か」の問題、つまり何が原因で何が結果なのかという問題を提起する。そこで学会の成立が視覚表象の利用を促したという可能性も考えられるわけだが、ラドウィックは検討の結果としてこの説を退けている。ロンドン地質学会の紀要は、始まった当初からイラストをふんだんに使おうとする傾向があった。学会などの組織は、すでに形成されてきていたものに反応したにすぎない。ラドウィックのFig. 14は、地質学における視覚表象の実践が、ジェントルマンの芸術や軍の調査といったところから表現を借用し、実践家たちの社会的階層と共鳴しながら変化してきたことを示している。この議論から我々は、視覚表象の種類や使用だけでなく、それらが埋め込まれている社会的・組織的な文脈にも注意しなければならないという教訓を学ぶことができるだろう。


3.2 立体化学の構築者たち

 次の例は、化学の変容である。化学はある時期に、物質の精製や分析を行う実践的ディシプリンから、分子の立体構造や結合の知識を扱う理論的ディシプリンへと変容した。

 まず決定的な役割を果たしたのは、ドイツのオーギュスト・ケクレ(1829–96)であった。幼少の頃から絵画に才能を示したケクレははじめ建築を学んでいたが、リービッヒの質の高い講義に誘われて化学の道に進んだ。やがて原子価の理論を研究するようになったケクレは、化合物を表現する「ソーセージ図」を考案した。この図は当初は横方向にだけ伸びていたが、やがて縦方向にも伸ばすようになり、そのことによって異性体(同じ原子を同じ数だけ含むが空間的構造が異なるもの)を区別できるようになった。さらには、置換基を分類することもできるようになった。ソーセージ図の平面化において決定的な役割を果たしたのは、リービッヒの定量分析法によってC6H6という組成式が明らかになっていたベンゼンであった。ケクレはソーセージ図を、原子価を余らせるというルール違反を犯しながらいじくり回しているうちに、リング構造を思いついたのである。

 だが、化学結合や原子価の問題から物質の物理的構造の問題への移行は、まだ始まったばかりであった。このあと、アレクサンダー・クラム・ブラウン(1838–1922)はソーセージ図を批判し、HやOやCといった記号を丸で囲んで棒でつなぐ書き方に改めた。ケクレはソーセージ図の代わりにクロム・ブラウンの書き方を採用し、さらにそれを発展させて、ボールと棒によって三次元構造をもつモデルを描いた。同じ頃、アウグスト・ヴィルヘルム・ホフマンも同様のボールと棒のモデルを描いた。実はホフマンもケクレと同様、建築学を学んでいた人物であった。


3.3 ソービー:顕微鏡記載岩石学と金属組織学

 1800年であれば、岩石を顕微鏡で観察するなどということは考えられもしなかっただろうが、偏光顕微鏡の開発とサンプルのスライス技術の発展により、19世紀の半ばまでにそれが可能になった。この学問分野には、(顕微鏡)記載岩石学という名前がつけられた。同様に、1850年において、鉄を顕微鏡で観察するなどということは考えられもしなかったはずだが、それは1864年までに現実のものとなった。最初は植物学から結晶学へ、次に金属組織学(と呼ばれるようになるもの)へ、技術は二回移転されたのである。そして二つの分野の出現は、二つの新しい視覚科学文化の形成と結びついていた。

 この二つの分野を切り拓いた人物であるヘンリー・クリフトン・ソービー(1826–1906)は英国の裕福な家庭に生まれた。大学には行かなかったが、自分の科学実験室をもち、気楽に自由なかたちで研究をすることができた。自然地理学や地質学に興味を抱いたソービーは、どういうわけか岩石や結晶の観察に顕微鏡が必要だと確信していた。ソービーは1949年までかけてこの仕事を達成し、さまざまな岩石の構造を顕微鏡で観察して描いた。当初は無関心だった人々もやがてソービーの研究を認めるようになり、結果的にはロンドン地質学会の会長を務めるほどにまでなった。

 しかしソービーはこの分野を更に自ら発展させるよりも、更なる新分野を開拓するほうを選んだ。1862年、彼は岩石が形成されたメカニズムを知ろうとして、隕石と地球上の岩石の比較を試みた。金属でできた隕石はスライスしても透明にならないことが問題だったが、ソービーは顕微鏡を作り変えることで観察を可能にした。こうして1863年、顕微鏡金属学という新分野がまたも現れた。さらに写真家と協力して、1887年には観察物を写真で撮れるようにした。それまでのあいだは、観察物を酸で侵した上で直接インクで印刷するnature printingという手法を用いていた。いずれにせよ、貪欲に画像を作成しサンプルを収集するソービーの独特な実践は、わずか一世代ほどのうちに世界中で日常的な営みとなったのである。

 それにしてもなぜ、他の誰かではなくソービーがこのことに成功したのだろうか。その理由は、ソービーの視覚的な技能と興味が組み合わさったことにあると思われる。彼は観察物を描くことに熟達していたし、堆積岩や亀裂の分析をする際には紙と粘土で作ったモデルを使って実験するなど、非常に視覚的なタイプの人間であった。ソービーは視覚文化における重要な技能と資源をもっていたのであり、科学的な受容や組織の安定化はその後の話である。


3.4 ホイーラーと幾何力学

 視覚文化の台頭は19世紀だけに見られるわけではない。ここでは、20世紀後半におけるジョン・アーチボルト・ホイーラー(1911–2008)の例を取り上げたい。「ブラックホール」や「量子泡」といった言葉をつくった物理学者であるホイーラーは、視覚表象の名人であるといえる。彼がつくった教科書や彼が書いた黒板は、視覚的な工夫にあふれている。ホイーラーがこのようなことをできる理由は、若い頃に彼が積んだ訓練にあると考えられる。まず彼は、もともと物理学ではなく工学を学んでいた。さらに彼は芸術家的な物の見方をもっており、大人になったあとにもスケッチの授業を受けていた。

 ホイーラーの同僚であるロジャー・ペンローズ(*1931)もまた、時空間を表現する特殊な図を描いた人物である。その図は、数学者ミンコフスキーが描いた時空間の図と、画家のエッシャーが描いた有り得ない階段を融合させることでできていた。つまり、本来まったく関係なかったはずの二つの視覚領域が、ペンローズによって組み合わせられたのである。Meghan Dohertyの分析によれば、ロバート・フックの『ミクログラフィア』に載っている画像も、肖像画の伝統と彼の専門的な技能の組み合わせによって生まれたものであるといえる。

 このように考えてみると、独特に見える視覚表象の背後には何かしら一般的なパターンがあるのかもしれない。次の章では、この点をより体系的に議論していく。