2016年3月26日

「特異性」から「情報」へ Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第2章前半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 38–55.


第2章「特異性の空間:情報の時代以前における分子生物学の言説」

【38-1】1971年、物理学出身の生物学者マックス・デルブリュックは、DNAの原理を発見したのはアリストテレスだという真面目なジョークで聴衆を沸かせていた。アリストテレスが論じた不動の動者は、自らは変化することなく働きかけて発達を促すという点でちょうどDNAに通じるのだという。

【38-2】アリストテレスの時代錯誤性を語ったこの議論は、皮肉にも別の時代錯誤性を浮き彫りにしている。20世紀後半に属する約20年間の分子生物学が、20世紀前半における遺伝の重要概念をまったく塗り替えてしまったという、より直近の断絶である。

【39-1】1940年代を通してデルブリュックを含めた分子生物学者たちは、ファージの感染、増殖、突然変異、組換え、抵抗といった現象を生物学的・物理化学的な言葉で説明し、情報の転送について言及することはなかった。

【39-2】1950年代の分子生物学において、「情報」や「暗号」といった言葉はクォーテーションマーク付きで現れたが、50年代末までにマークは消えた。情報という言説的フレームワークの外で遺伝的なメカニズムや生物について考えることはできなくなった。

【39-3】だが情報という隠喩は何を意味するのか? どのような特徴が、情報の時代以前の分子生物学の言説を際立たせているのか?

【39-4】この章では1940年代の分子生物学を検討し、特に知識と権力が結合していた場として、戦間期におけるロックフェラー財団による分子生命科学への支援に注目する。この調査は最終的に、生物学的特異性という概念の中心性を際立たせることになる。

【40-1】カンギレムは生命の概念化の歴史における不連続性(生気としての生命、メカニズムとしての生命、組織としての生命、情報としての生命)に焦点を当てた。そしてフーコーは、19世紀に生命についての科学が現れた際における組織化の言説の重要性について詳しく論じた。比較解剖学が自然史に挑み、可視的な形態に代わって隠された組織化が鍵となった。フランソワ・ジャコブがカンギレムとフーコーを参照して論じたように、生物と無生物を分けるのは組織化の有無であった。生物学的組織化の概念は、20世紀中頃に至るまで生命科学に指針を与え、その後は生命のコンピュータープログラムという想像物に組み込まれた。

【41-1】組織化の言説において「特異性」は、生化学・免疫学・遺伝学・生理学・発生学・分類学・進化といった生命諸科学を貫く主題であった。「特異性」の概念は、後に「情報」に置き換えられていくことになる。この二つの概念には互換性があるが、同じというわけではない。特異性は分子の三次元構造と実験的に決定された基準に基づいており、アリストテレスのいうところの質料因であるが、情報は一次元的なテープとして抽象化されるものであって実験的基準を欠いており、アリストテレスのいうところの形相である。組織化の言説と情報の言説はどうしても重ならない。遺伝と生命の物語はプログラム化されたコミュニケーションのシステムによって書き直されており、そこでは組織化の概念はアルゴリズムのなかに再定式化されている。

【41-2】ここではまず、20世紀前半の生命科学における「特異性」の空間を調査する。


● 組織化という「グランドデザイン」の内側

【42-1】フランソワ・ジャコブは、生物学には真の理論はほとんどなく、多くの一般化があるのだと考えた。特異性はそのような一般化の一つであり、20世紀前半の生命科学における主要な関心事であり統合的な主題であった。1930年代から40年代において分子生物学の出現に貢献した問題や実験的課題も、特異性の観点に基づいていた。遺伝子や酵素、抗体、細菌、ウイルスの組成や構造が判明する前でさえ、こうしたものの知識はそれらの機能的特異性に基づいて蓄積されていた。

【42-2】「情報」という言葉と同じように「特異性」もはじめは一般的な言葉であったが、20世紀初頭の免疫学において特定の専門的な意味や首尾一貫性を獲得した。元々は立体相補性(stereocomplementarity)という概念が、1890年代におけるパウル・エールリヒの側鎖説から、それを置き換える1920年代におけるカール・ラントシュタイナーの抗体合成の研究に至るまで、特異性を表現してきた。またこの概念は1894年にエミール・フィッシャーによって、鍵と鍵穴のモデルで表現された。

【43-1】発生学においては、細胞内相互作用の特異性が免疫学的な言葉で表現されてきた。発生学者のフランク・ラットレイ・リリーは1914年に、精子と卵は細胞の表面における立体相補性の反応によって結合するという説明を提唱した。生理学者のジャック・ロエブは、リリーの生物学的なモデルに反対した。ロエブは発生学を精密科学にしようという意図から、隠喩的な側鎖説の代わりに物理化学的な免疫学に基づいた機械論的説明を与えようとしていた。

【43-2】ロエブや同時代の生化学者たちにとって、種内や種間での生理学的な違いを決める特異性は、タンパク質の組成や構造の違いの問題に帰着するはずだった。生理学者のEdward ReichertやAmos Brownは、200種の哺乳類がもつヘモグロビンの結晶を調査することで、進化や分類の問題に切り込もうとしていた。

【44-1】1916年頃までに、ロエブは種や属の特異性の担い手は基本的にタンパク質であると確信していた。ロエブは遺伝学の崇拝者であったにも関わらず、種の決定に細胞核の構成要素が関与することは疑わしいと考えていた。そして、メンデル的な形質は個体や変種レベルの遺伝を決定することはあっても、属や種レベルの遺伝を決定するものではないと推測していた。

【44-2】遺伝学者のトマス・ハント・モーガンは、そうした区別を示すメンデル的研究は無いとして強く反対した。1920年代までに、遺伝子と形質のあいだに一対一の対応はないというコンセンサスが得られ、遺伝学における特異性の問題をさらに混乱させた。

【44-3】モーガンは遺伝子の物理的意味について語りたがらなかったが、ほとんどの同時代人と同様、遺伝子をタンパク質として想像していた。

【45-1】1930年代、ロックフェラー財団の後援によって米国の遺伝学が物理化学的な方向に向かうと、特異性はさらに重要な問題となった。財団は「人間の科学」という優生学的な意図を含んだ新しい課題を立ち上げ、科学に基づいた社会秩序の合理化を図った。財団の会長であった生理学者Max Masonとその後見人ウォーレン・ウィーバーのもとで、遺伝学は社会科学、医学、生物学をつなぐ鍵を握っているとみなされた。身体と集団のコントロールという生権力の枢軸の中心という位置であった。

【45-2】1933年から財団のアドバイザーを務めたモーガンの助言によって、新しく生理学的遺伝学の課題が設置され、特異性と遺伝子の動きの直接的関係性が深まっていった。特異性の概念は、免疫学から遺伝学に輸入された。財団のプログラムを背景に、遺伝子とその生産物は生物学的・化学的特異性の観点から概念化されるようになっていった。

【45-3】「情報」という言葉のように、「特異性」という言葉も隠喩的、発見法的な価値をもっていた。構造やメカニズムがわかっているのでなければ「特異性」は実際には説明になっていないのだが、実践的な価値があったのである。特異性は基本的に生物学的概念であり、生きた現象やプロセスを意味したので、形態から機能までを関係づけることができた。

【46-1】20世紀前半の生命科学者にとって、組織化は肉体を支配する隠れた行為者であり、生物や種の統一性、安定性、特異性を形作っているものであった。そして組織化は特異性に基づいていた。

【46-2】組織化、言い換えれば生命の階層的秩序は、職業の専門分化という考え方に基づいていた。近代工業社会によって、組織化や専門家は人間科学の言説となっていた。生物学的特異性は、組織化、分化、専門家、協力、安定性、コントロールといった、近代の社会技術的構築物の網の目のなかにある。

【47-1】ウォルター・キャノンの文章にも、生理学的プロセスと社会的プロセスを類比的に捉えたものがある。こうした言説が、20世紀中頃まで生物学的研究の対象を形成し、生体の表現を形作っていた。生命についての異なる表現は、第二次世界大戦後の政治体制から生まれてくることになる。そして組織化の問題はサイバネティクスのモデルや情報の言説のなかで再構成され、結局はグランドデザインや生物を分解することになる。 


● 第一動因:タンパク質と核酸

【48-1】身体の組織化や存続に関わる要素として、タンパク質は特権的な物質であると考えられていた。少なくとも1950年代前半まで、生物学的・化学的特異性を負っていたのはタンパク質であった。生命の物質的基盤をタンパク質に求める伝統は、トマス・ヘンリー・ハクスリーがそれを原形質(プロトプラズマ)に求めたことに遡る。20世紀前半における優生学や遺伝学の台頭によって、「ナショナル・プロトプラズマ」(優生学者ダベンポートの概念)は、生権力の管理において重要な場となった。

【48-2】1930年代までに酵素学の発展によって、原形質に集中させられていた生命の様々な特質は、それを構成するたくさんの酵素に分散させられた。結晶の成長と類比的に捉えられた「自己触媒作用」が、細胞の増殖や生物の成長など幅広い現象を説明する包括的な言葉として用いられた。生化学者ウェンデル・スタンリーがタバコモザイクウイルスを結晶化し、それを自己触媒的な特性をもつタンパク質として特徴づけた研究(1935)は、生命の酵素理論を証拠付けるものであり、ウイルス、酵素、遺伝子、抗体といったものが結局のところタンパク質であることを示すものとして理解された。

【48-3】組織化の言説におけるタンパク質の認識的・文化的重要性は、1930年代から1950年代前半におけるロックフェラー財団の分子生物学プログラムを支えるものであった。ウォーレン・ウィーバーは、タンパク質がほとんどあらゆる生命現象に関わっていることを根拠に、プログラムがタンパク質の研究を中心としていることを正当化した。

【49-1】分子生物学プログラムには、生体の組織化と国民(body politic)の組織化の双方を正当化する働きがあった。分子生物学の台頭には、戦間期における意味の体制のなかで生み出された社会技術的意味の安定化と、1930年代と40年代における特定の観念が体系的に配列された仕方を見てとることができる。組織化は、分子や身体のみならず、社会にも当てはまる概念だとみなされた。個人や集団の行動を合理化し、管理することが必要とされていたのである。その行動は、部分的には生物学的なものであった。そして生物学的組織化の議論は遺伝学的決定論と融合するようになっていった。このような言説の経済において、身体を表象する様式とそこに介入する方法はどちらも物質的だったのであって、第二次大戦以前の時代に「メッセージ」や「情報」や「テクスト」はなかったのである。

【49-2】分子生物学に対する重要な貢献者の一人は化学者のライナス・ポーリングであった。タンパク質の構造や免疫化学に関するポーリングの研究は、生殖においてタンパク質の特異性が中心的な役割を果たしており、将来的には出生や人口の管理による社会の合理化においても中心的な意味をもつことを示していた。ポーリングは水素結合がタンパク質の三次元構造を決定していると考え、またその構造が生物学的特異性を決めていると論じることで、立体相補性の概念を更新した。

【50-1】タンパク質の(アミノ酸の順序関係とは独立した)空間的折りたたみによって特異性を説明する考え方は、1940年代の分子生物学で一つの柱となった彼自身の免疫化学プログラムの基礎となっている。1940年にポーリングが生物物理学者マックス・デルブリュックと共に抗体形成を論じた論文では、相補性を特異性の述語(?)として、抗体形成のプロセスを酵素合成、ウイルス複製、遺伝子作用に接続した。彼らは、分子間の特異的な引力や酵素による分子の合成についての議論では相補性が第一に考慮されるべきだと論じた。全体の議論は遺伝、成長、細胞制御の鋳型としてのタンパク質の主要性・特異性にかかっていた。

【50-2】相補性を触媒作用の鋳型とみなす考え方は、ポーリングに始まったわけではない。たとえば1936年には遺伝学者J・B・S・ホールデンが、抗体と抗原の関係を、レコード盤とそのネガの関係に喩えていた。ポーリングとデルブリュックは、物理的メカニズムを示してそれを全ての生物学的現象に一般化することで、鋳型の概念を狭めると同時に広げたのである。

【51-1】こうした考え方は、ポーリングの抗体形成についての鋳型仮説にフレームワークを提供した。病理学者カール・ラントシュタイナーによる抗体の特異性理論と、ポーリング自身のタンパク質折りたたみモデルを組み合わせることで、ポーリングは抗体形成の大筋を説明することができた。指令説と呼ばれるこの理論は、1950年代中頃まで支持され続けた。

【51-2】それまでのあいだ、抗体形成の理論が分子生物学における特異性のイメージを規定していた。抗原は鋳型として、ポリペプチド鎖は可塑的な物質として捉えられた。

補足
・エールリヒの側鎖説(1897)
もともと様々な種類の側鎖(レセプター)が細胞表面に存在しており、ある側鎖が抗原に出会うと同じ種類の側鎖が大量に血液中に放出される。この側鎖が抗体として機能する。
・ラントシュタイナーの研究
人工的に作られた化学物質(抗原)にすら、抗体が生み出されることを示した。では、ほとんど無限の種類が現れる抗原に対して、どうやって特異的な抗体が作り出されているのか?
・ポーリングの鋳型説と指令説(1940)
抗体は抗原に出会うとそれに合わせて折りたたまれ、ほぼ無限の種類の抗体になる(抗原が鋳型として機能している)。
・バーネットのクローン選択説(1957)
抗体をレセプターとしてもつB細胞が多種類用意されていて、これが抗原に出会うとその種類のB細胞のクローンが増殖し、大量の抗体を産出する。抗体の多様性はいかにして確保されているのかが不明という点で、側鎖説と同じ難点があった。
・利根川進の研究
B細胞が遺伝的再構成を行って多様性を確保していることを明らかにした。

【51-3】遺伝学者のジョージ・ウェルズ・ビードルも、自身の研究プロジェクトを生物学的特異性の観点から概念化した。ビードルは1940年代前半に、遺伝子は酵素なのか、それとも遺伝子が酵素をつくるのかという問題に焦点を当てた。ビードルはエドワード・ローリー・タータムとの共同研究で、特定の酵素によって統制された一系統の化学反応が一つの遺伝子によって制御されていることを明らかにした(一遺伝子一酵素説)。

【52-1】ビードルにとって、遺伝的特異性はタンパク質の折りたたみに埋め込まれたものであり、メンデル遺伝学と生理学と行動を結びつける問題であった。ビードルは遺伝子が様々なタンパク質の特異性を制御しているのだと考えた。そして10年後には、遺伝的情報はDNAによって運ばれているという認識が受け入れられるようになった。DNAは、タンパク質の特異性を握っているのみならず、生物学的情報の創作者かつ唯一の担い手、すなわち第一動因の地位に登りつめたのである。

【52-2】しかし微生物遺伝学者ジョシュア・レーダーバーグが気づいたように、特異性を情報で置き換えることには問題もある。レーダーバーグは、遺伝子が酵素に特異性を刻印する鋳型の役割を果たすということが一遺伝子一酵素説の前提になっていると述べた上で、特異性の概念は構造と関係していることを指摘した。だがレーダーバーグも結局は情報の言説を採用した。

【53-1】情報という表現は、構造の問題を扱う分野においてはあまり魅力的ではなかったが、特異性という表現と違って物質の領域に縛りつけられることがなかった。

【53-2】特異性と組織化の言説から情報の言説への移行は、1950年代におけるジャック・モノーの研究においてとりわけ印象的である。モノーが焦点を当てた酵素的適応(ある物質が存在するときに限って特定の酵素が選択的に生産される現象)は20世紀初頭から知られていたが、遺伝学の問題となったのは1940年代中頃からであった。

【53-3】モノーが1947年に発表した論文「酵素的適応の現象および、その遺伝学と細胞分化の問題との関連」では、組織化の言説における生物学的特異性の中心性が浮き彫りにされている。

【54-1】モノーはここで、現在の生物学の発展における最大の特徴の一つが特異性の問題への注目であると述べ、同じゲノムをもつ細胞がいかにして異なる特異性をもつ分子を生み出すのかを説明しようとしていた。1940年代のモノーにとって、遺伝学は生物の成長や生物学的組織化の問題と不可分であった。

【54-2】モノーは「鋳型」という隠喩の固く脆いイメージを嫌う一方で、「プロトタイプ」や「マスターパターン」といった言葉を好み、より液体的で偶然的なイメージを追求した。遺伝的要因は分子構造の可能性の幅を決めるに過ぎず、環境的要因も影響するのだとモノーは考えていた。1940年代のモノーは、細胞を流動的なものとして、遺伝を相互作用的で変更可能、偶然的なものとして表現していた。だが1950年代中頃には、細胞を閉じたサイバネティックなシステムとして表現するようになり、言説的にも酵素的適応から酵素誘導への転換を始める。1950年代において細胞の現象は、遺伝的情報に完全に制御されているものとみなされるようになるのである。

【55-1】モノーの方針転換には、分子生物学におけるタンパク質から核酸へのパラダイムシフトが表れている。1930年代にも核酸が遺伝的複製やタンパク質合成を担っているのではないかという議論は現れていたが、タンパク質の研究に莫大な投資がなされるなかで、注目されることはなかった(特に米国では)。だが1944年にオズワルド・エイブリー、コリン・マクラウド、マクリン・マッカーティが、肺炎球菌の形質転換を起こしているのは核酸だと論じたことがターニングポイントとなった。


2016年3月18日

分子生物学における隠喩の問題 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第1章後半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 19–37.


【19-1】『性の歴史』のなかでフーコーは、近代産業社会への移行を特徴づけることによって生権力の概念を説明している。近代以前の権力は「従わなければ殺す」「従うならば放っておく」というものであったが、近代の権力はより積極的に人々の生に介入する。生権力は、人々の身体を規律づけシステムに組み込もうとする権力と、人々の生殖や健康を管理しようとする権力という二つの極をもつ。

【19-2】生理学、解剖学、生化学、遺伝学といった身体に関する学問分野は前者の極を、進化論、統計学、保険数理、人口統計、出生・死亡記録などの人口管理に関する学問分野は後者の極を構成している。性は、この両極をつなぐ枢軸である。国家の様々な機関が生産の維持を保証するならば、生権力は言説的・物質的実践を供給する。

【19-3】情報の言説は、歴史的・文化的に状況づけられた表象のシステムであり、初めて出現した形式の生権力である。様々な物理的・生物学的・社会的現象が、この隠喩・モデル・アナロジー・記号論のシステムのなかで再描写された。私はまず、こうした隠喩の技術的特徴や科学的有用性を検討し、その後でディシプリン的・社会的な側面を見ていく。

【20-1】まず、情報理論は情報という概念を隠喩化している。もともと情報という言葉は知らせることを意味しており、統語論・意味論・語用論という人間のコミュニケーションの3階層構造を通して理解される概念だった。だが1920年代末から電信技術が発展すると、シンボルの統語論的配列だけを意味する概念として用いられるようになっていった。

【20-2】情報理論家は「情報」という言葉を隠喩的に用いて、そこから有意義なコミュニケーションという意味を奪っていった。ウィーバーが述べているように、情報理論における「情報」という言葉は日常的な用法とは大きく異なっている。シェイクスピアのソネットも、ランダムな文字の配列も、情報理論の観点からは等量なのである。

【21-1】さらに、情報は実在物ではない。電線は情報を、貨物列車が石炭を輸送するようには運ばない。ここでいう情報とは、コミュニケーションについての理論から学べるようなものではない。このような「情報」概念が、日常的な用法と混同されてしまう危険は早くから指摘されてきた。それゆえ情報理論は、生物学な意味の源としてのDNAテクストや「生命の本」といった概念を正当化しない。

【21-2】しかし情報理論もまた、言説的であって隠喩に根ざしている。情報理論は、非常に専門的で限定的で非人間的なプロセスを表現するために、従来の情報という概念を隠喩化したのである。けれど、そのような多義性や曖昧さによってもたらされた豊かさも魅力的であった。

【21-3】とはいえ、情報や情報理論が隠喩的な性質をもち、それが生物学的現象に適用されるのはべつに例外的な出来事ではない。そもそも、言語や隠喩が我々と自然や社会との関係性を形作るのはわかりきったことである。一部の学者たちは、我々が普段用いている概念体系は根本からして隠喩的な性質をもっているのだとさえいう。我々が用いる基礎的な概念のほとんどは、物理的あるいは文化的な経験に根ざしている。

【22-1】これまでの科学史や科学哲学において、モデルや隠喩についての議論は物質的な実践ではなく理論構築に焦点をあててきた。科学哲学者Mary Hesseは、科学における理論的説明が、説明されるべき現象の隠喩的な再描写であることを示した。たとえば、音は波の動き、気体は動き回る大量の粒子という隠喩によって説明された。情報理論の場合もそうであって、選択肢(?alternative)のランダムではない並びが「メッセージ」であり、そうした選択肢のセットが「アルファベット」であり、遺伝暗号におけるk文字(?)の言葉64種類のセットが「辞書」であることについては、この本の第4章で詳述するつもりだ。

【22-2】隠喩は一次システム(隠喩を借りる側)の特徴を強調したり隠したりする。一次システムは二次システム(隠喩を借りられる側)のフレームを通して見られることになるが、この転移が成功して定着すれば、時が経つにつれて二次システムも一次システムによって再形成されることになる。こうして生物学的特異性は情報的になり、結果的に情報、メッセージ、暗号といった概念も生物学的になっていった。

【23-1】1986年頃までに、隠喩についての研究は一つの産業に発展した。言語学者のMichael J. Reddyは一次的言語領域と二次的言語領域のあいだの双方向的な関係に焦点を当てた。

【23-2】Reddyは、情報理論において本来「メッセージ」は送られ得ないこと、「シグナル」はメッセージを含まないことを示した。さらに、日常言語が情報理論の拡張に対して与えた破壊的な影響はシャノンやウィーバーが名付けた言葉に端を発するということを論じた。彼らは選択肢のセットを「アルファベット」と呼び、それは彼らにとっては技術的な新語だったのだが、このような用語体系は情報理論が人間のコミュニケーションを論じるときには問題となった。

【23-3】Heinz von Foersterは、情報理論の起源に遡ってこのテーマを研究した。Foersterによれば、情報理論(それは本来「情報」理論ではないのだが)が「シグナル」と「情報」のような根本的に異なる概念を混同した理由は、この理論が戦時中に軍事的な文脈で発展したことに由来する。戦時中には、命令というただ一つの言語モードが圧倒的に多かったのだ。

【24-1】「情報」の問題は、生物学的現象に適用されたことで更に深まった。「情報」はここで隠喩の隠喩になってしまったのである。哲学者のRichard Boydは、サイバネティクスやコンピューターの隠喩が科学理論の構成要素になっていることを論じ、その例として認知心理学を分析したが、この分析はいくつかの言葉を置き換えれば分子生物学の場合にも適用できる。

【25-1】他の生物学的・社会的分野にも類似のアナロジーが見出だせる。免疫学者のバーネットは、1950年代末に免疫学的特異性を「暗号化された情報の転送」という観点から扱おうとした。内分泌学においても同様の試みがあった。

【25-2】こうしたアナロジーへの注目は、分子生物学においてコミュニケーションの隠喩が果たした役割を評価する上で役に立つ観点である。一方、分子生物学において情報理論を本来の数学的な形式で用いようとした試みは少なかった。放射線生物学者のHenry Quastlerは、1950年代にそうした数少ない試みをした人物の一人であり、情報を特異性の定量的尺度として用いようとした。

【25-3】Quastlerの研究は、その前提やデータが急速に時代遅れになったことや実験的課題を提供しなかったことのために世に埋もれていった(ただし生物学における数学的情報理論は消えたわけではなく、理論・コンピューター生物学の独立した一分野として生き残ってはいる)。

【26-1】こうした試みが失敗したあとも情報理論を分子生物学に適用しようとし続けたのが、情報言説、すなわち、「情報」「メッセージ」「テクスト」「暗号」「サイバネティック・システム」「プログラム」「命令」「アルファベット」「言葉」といった表現の体系であった。情報理論の観点からいえばこれはレトリックに過ぎないのだが、化学的・生物学特異性という100年来のアイデアに対する隠喩の役割を果たしており、また分子のテクスト(生命の本)としての妥当性を確認する役割も果たしていた。

【26-2】それゆえ、情報と言語の言説的実践は研究者たちの分析に関係がないわけではないし、単に解釈の問題なのでもない。言説的実践は生産的なモデル、アナロジー、解釈のフレームを供給していた。

【26-3】免疫学者のピーター・メダワーは1967年に、もし情報理論の術語が有用でなかったとしたらこのように流行ることはなかっただろうと論じていた。微生物学者のカール・ウーズも同年に、遺伝暗号研究の目覚ましい発展はそれが敷いた概念的フレームワークのために容易く吸収されたのだと論じていた。

【27-1】このような意見に誰もが同意していたわけではない。一般的に言って1960年代までの生化学者たちは、タンパク質や核酸の構成や構造といった静的側面の分析にとって、コミュニケーション的な比喩は無関係だと感じていた。カンギレムが論じたように、サイバネティクスのモデルは遺伝学など機能についての研究には有益だが、生化学など構造や構造の機能に対する関係についての研究ではそうでもなかった。

【27-2】生化学における情報的表現の浸透は複雑かつ不均等であった。フォン・ノイマンに影響を受けたSol Spiegelmanは1940年代末までに情報的・サイバネティクス的なモデルを導入したが、Heinz Fraenkel-Conratは1950年代中頃のタバコモザイクウイルスの研究においてそれを役立てることがなかった。だが1959年以降には彼も暗号や情報転送の観点から表現していくようになる。エルヴィン・シャルガフは1950年代中頃には情報転送の観点を採用していたが、1963年にはこれに対して辛辣な言い方をしている。

【27-3】生化学者であり生化学史家でもあるMarcel Florkinは、「情報とサイバネティクスの概念は生物に適用できる」というウィーナーの主張によって生み出された「分子生記号論(molecular biosemiotics)」を強く批判した。言語学は心理的実在などを扱うものであって、生化学に「言語」などの言葉を持ち込むべきではないと主張したのである。生化学者Joseph Frutonもこれに同意して、情報理論の数学は生物学的研究に適用されていないのに、その言葉だけが熱心に採用されていることを批判した。さらに後世の科学史家に対して、1950年代と60年代に分子生物学において情報理論が果たした役割を批判的に検討してほしいと要望した。

【28-1】まとめると、情報の概念とそれに関連したたくさんの比喩は、分子生物学に対して主として隠喩的に適用されたのだということができる。Quastlerの場合のように、テクニカルに適用された場合には科学的成果を伴わなかった。「暗号」などの概念は一貫性を欠いて用いられたが、分子生物学における運用上の有用性は疑いようもない。

【28-2】だがこれまで科学者や言語学者や哲学者たちは、情報の隠喩が果たした社会的・文化的な機能について分析してこなかった。隠喩がそうした機能をもつことについては、いくつもの研究がある。David Owen Edgeは、「生命の本」のような宗教的シンボルや、社会や身体や世界を機械として捉える見方が社会統制において中心的な役割を果たしてきたことを論じた。近年ではNancy Leys Stepanが、科学的な隠喩によって社会的価値観が刻印され裏付けられ循環していく様子を示した。

【29-1】だが、隠喩の持つ重要性の様々なレベルを最もよく捉えているのはJames J. Bonoの視点である。Bonoによれば、隠喩は複雑な科学の言説を他の社会的、政治的、宗教的、「文化的」な言説に位置づける。複雑な科学のテクストは、他の多数の言説との交差を通して自らを構成するのである。このことを踏まえると、1950年代において情報の隠喩は、新しく生まれた分子生物学のディシプリンとしての境界を定める(特に生化学の伝統から切り離す)役割を果たしていたと考えられる。フランシス・クリックは、「情報」が一方向的に流れるというセントラル・ドグマを提唱することで、分子生物学の縄張りを主張した。

【30-1】その頃までに、生化学者マーシャル・ニーレンバーグはタンパク質合成の研究で遺伝暗号を追跡し始めていた。生化学にとって、情報はデリダのいう危険な代補(supplement)であって、結局は生化学に方針転換を要求し分子生物学と融合させていくことになる。

【30-2】さらには、こうしたディシプリン間の問題を超えて、情報言説は共有された歴史的経験の影響を受けている。第二次世界大戦と冷戦の体験は、その足跡を科学や社会に残していたはずだ。戦後の技術文化の想像力によって、身体や集団のコントロールを超えた、生命を司る力が想像されたのである。

【30-3】ここから先では、「生命の本」と「自然の本」という隠喩について、古代から20世紀に至るまでの歴史を概観する。


● 遺伝暗号、生命の本、自然の本


【31-1】1960年代におけるゲノムの「生命の本」という表現は、自然的、永遠的、普遍的な書きもの(writing)としての「本」の象徴性と密接な関係にある。ユダヤ・キリスト教の歴史に長く息づいてきたこの隠喩は、プラトンが人間と世界の魂を永遠の書きものに喩えたことに由来する。「生命の本」は人間の魂の永遠性とロゴスを、「自然の本」は全ての生物と無生物の永遠性とロゴスを表現しているが、どちらの言葉においても「本」は創造の物質的記録の隠喩となっている。「自然の本」は特に13世紀以降、神学と自然哲学の境界設定とともに、聖書釈義として機能してきた。

【31-2】だがこの隠喩はいくつかの点でパラドックス的な性格をもっており、それゆえ大昔から議論の的となってきた。たとえば、初めに神とともに言葉があってその言葉が具現化したのだと言うが、シニフィエが存在しない段階でどうしてシニフィアンが考えられたのだろうか?という疑問がある。

【32-1】「自然の本」の意味は時代と共に変化してきており、移り変わるエピステーメーや文化的体験といった意味の体制のなかで再構成されてきた。それゆえ一枚岩ではなく、いくつもの断絶をもつ。

【32-2】古代ローマのルクレティウスは、異なる言葉が共通の文字を持つように、様々なものも共通の小さな元素を持っているのだと論じた。

【32-3】中世盛期(11~13世紀)には、「自然の本」は明確な意味をもつようになる。社会のなかで文章の重要性が増したことで、自然についての学問もそうした同時代のテクストに内在する論理と調和するようになった。自然は一冊の本として構成され、論理学、文法学、修辞学、神学といった中世の知の体系が自然の神秘を解き明かすのに動員された。

【33-1】1500年までに筆写文化の時代が終わり、印刷文化の時代が始まると、「自然の本」も印刷されたテクストになった。そして17世紀に近代科学が生まれると、「自然/生命の本」を読むことはそれを書くことと切り離せなくなった。ベーコン、デカルト、ガリレオ、ライプニッツ、ボネといった人々がこの本について論じた。

【33-2】カントは、「自然の本」が書かれている文字や言葉や言語について知ることが、知識を獲得するために十分ではないが必要な条件だと考えた。ゲーテも秘密の書きものという観点から自然を論じた。こうした想像力は19世紀まで続き、記憶の概念が生物学的・分子的な知識に結び付けられた。

【34-1】1950年代には、情報理論やコンピューターなどの普及によって、メッセージ、テクスト、言語といった概念が変質した。こうして、分子や生物をテクストとして、すなわち情報の保存・転送システムとして語ることが正当化されるようになった。後にヒトゲノム計画の提唱者となるシンスハイマーは、人間の染色体を「人間生命の本」だとみなした。しかしここには、意味論を欠いた情報概念というパラドックスの他にも、行為者性を欠いた言語学的意味というもう一つのパラドックスがあり、レヴィ=ストロースやボードリヤールはこの点を問題にした。遺伝暗号を自然的、永遠的、普遍的な書きものとして認証したのは、このような語の誤用だったといえる。

【34-2】もし知識についての客観主義的立場を疑えば、自然の書きものという見方はさらに不確かなものとなる。この、プラトン主義的で言語中心主義的な立場は、ゲノムを人間が現れる前から存在していて解読されるのを待っているような存在だとみなしている。この立場では言語は透明なものとみなされ、シニフィアンとシニフィエが正確に対応すると考えられている。だがこのような、言語を質量や空間や時間のように絶対的なものとみなす立場は、20世紀初頭にはすでに疑われるようになっていた。記号の意味はその文脈のなかで、他の記号との違いを通して決まるのである。意味や言葉は多義的なものであって、「生命の本」に普遍的で絶対的な読みがあるということは考えにくいということになる。

【35-1】デリダやポスト構造主義が言語「体系」の概念を不安定化させたように、生命科学者たちもオートポイエーシスの理論を通して生物学的システムを問題化してきた。そこでは、情報の意味は独立して予め定められているのではなく、システム内外の文脈に依拠して調節されるのだと考えられるようになった。

【35-2】言語中心主義的立場では、自然の書きものという見方の背後にある認識的前提や技術的要請が問われることがなかった。こうした問題は、エピステーメーとテクネーの弁証法や介入と表象の弁証法によって解き明かされるだろう。こうした弁証法は、表現や技術から独立したありのままの自然に接続することができるという客観主義的な立場に意義を申し立てる。エピステーメーとテクネーを絡みあったものとみなして古代ギリシャ以来の言語中心主義的伝統を排するならば、理論と実践、発見と介入、観察と現象の二分法はぼやけてくる。技術と理論はお互いにお互いを生み出すのである。

【36-1】この観点からすると、書くことはテクネーの側にある。それは意味化のプロセスであり、表現の技術だといえる。このデリダ的な観点からすると、書くのは書きもの(writing, エクリチュール)それ自体であり、行為者性のようなものをもっていることになる。科学者たちは情報の言説と聖書的技術を通して生物学的存在の記述・操作に手を出したことで、分子生物学の技術゠認識的出来事が起こる表現空間の一部となったのである。そこでは実験のデザインやデータの解釈、表現といった役者たちの自由は、常に言説的・物質的空間の影響を受けることになる。

【36-2】最後に、神のいない科学的宇宙において「生命の本」の著者は誰かという難問がある。1950年代以来の分子生物学は、有神論的・宗教的なアイコンであふれていた。こうした神的な生権力が、はじめは世俗的解釈を通して、その後で世俗的(再)創造を通して、ゲノムの「生命の本」の理解を可能にしたということは疑う余地がないだろう。

【36-3】Edward TrifonovとVolker Brendelはチョムスキー的なDNA言語学の先駆者であるが、彼らは分子生物学者を、生命を生み出した最初の言語の問題に取り組んでいる人々として表現した。言葉すなわちDNA配列は、神秘的な力を想起させ、分子生物学者を創造の営みに近づけていたのである。