2016年4月30日

ガモフらによる初期の遺伝暗号解読研究 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第4章前半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 128–150.


第4章 聖書学的テクノロジー:1950年代における遺伝暗号

● ブラックチェンバー(黒い部屋):重複コードの台頭と衰退

【128-1】1950年代の遺伝暗号理論研究についての科学者たちの一般的な評価は、よくて「素朴で楽観的」、悪いと「不正確で無益」だったというものである。だが本章では、暗号研究者の広いネットワークや冷戦時代の文化的・軍事的文脈のなかに位置づけることで、この時期の研究の重要性を詳説する。特にフランシス・クリックの研究をこうした文脈に位置づけることで、遺伝暗号研究の歴史について従来とは異なる記述をしていく。これまでのクリック中心の物語では、他の人々の業績、特にロシア系移民の物理学者ジョージ・ガモフの業績が軽視されてきた。

【128-2】ガモフは、軍事に関係した戦後の物理学文化を遺伝と生命の表象に持ち込んだ。ガモフ自身による分子生物学研究は一時的なものであったが、遺伝暗号という想像上の対象を構成する強力な比喩的表現と言説的ソフトフェアを提供した。ガモフは、ウィーナー、シャノン、フォン・ノイマン、Henry Quastlerといった人々の研究を受け継ぎ、遺伝を暗号文による情報転送のプロセスとして想像した。

【129-1】すぐに、武器設計やオペレーションズ・リサーチ、暗号学に携わってきたような著名な物理学者、生物物理学者、物理化学者、数学者、通信エンジニア、コンピュータ分析者などが暗号解読研究に参加してきた。5年間のあいだに、ガモフらは情報理論、言語学、暗号学といった通信科学の比喩を持ち込んだのである。遺伝暗号解読者の一人であるカール・ウーズ(三ドメイン説で知られる)は、1961~67年におけるこの分野の劇的な進歩は、それ以前に築かれていた概念的枠組みのおかげだったと回想している。

【129-2】さらにこの頃、分子生物学に自らを情報科学として再設定させ、対象を電子的通信システムの観点から表現させる、知と権力の結合体が形成された。物理学的な課題、言語、態度、そして物理学者の名前を借用したことで、生物学はその性質や目標を再構成することになった。本章では、情報理論、暗号解析、言語学という三つの言説のあいだで平衡を保つ  聖書学的テクノロジーによって、古い遺伝的特異性の問題が再構成された過程を示す。

ダイヤモンド・コード


【131-1】元来ガモフは物理学者であるが、1940年代には生物学の分野で活発な活動を見せた。1946年の理論生物学ワシントン会議「生体の物理学」(p. 106)を組織したのもガモフである。DNAの二重らせん構造が発表された1953年の春までに、ガモフの科学啓蒙書『生命の国のトムキンス』は広く知られていた。

【131-2】ガモフはワトソンとクリックの論文を読んだあと、すぐに二人に手紙を書いた。その手紙には、4つの塩基にそれぞれ1、2、3、4の番号を割り振るとすれば、生物の各個体を長大な数値1つで表現することができ、組合せの数学と整数論で研究できるのではないかというアイデアが記されていた。また、海軍で暗号解読に当たっていた人々に、タンパク質を構成するアミノ酸の順序を送って相談してみたとも記している。

【132-1】ガモフが遺伝暗号解読に参入した1953年は、冷戦の緊張が高まって米国の科学に大きな影響を与えていた時期であった。科学は国家の安全保障における要とみなされ、特に物理学、数学、コンピュータ科学、暗号学などの分野では軍から莫大な予算が降りるようになっていた。

【133-1】暗号という手法の歴史は文明の歴史と同じくらいに古く、スパルタやローマ帝国でも用いられていた。暗号学はルネッサンス期にいくつもの手法的革新を経て、17世紀にはアントワーヌ・ロシニュルがルイ14世の王室暗号学者となったことで制度化された。18世紀には国家の暗号解読活動が「黒い部屋(Cabinet Noir)」と呼ばれる場所で行われるようになり、この言葉は後に政治的な暗号学を指すのに使われることになる。

【133-2】19世紀に電信線が敷設され腕木通信に置き換わると、商業の領域で暗号が盛んに用いられるようになった。しかし、人力による暗号化は作業量が膨大となり、しかも単なる頻度分析によって破られてしまうことから、第一次世界大戦を境に商業的暗号は衰退した。一方で政治的な領域では暗号が盛んになり、1920~30年代に暗号学は組織的にも機械的にも理論的にも大きな転換を迎える。

【133-3】英国では外務省の暗号解読機関が拡充され、1939年にブレッチリー・パークに設置された。チューリングなど優秀な数学者や物理学者が雇用されたこの機関は、1940年代において世界をリードする暗号解読の拠点であった。米国では、米国の黒い部屋として知られる組織がニューヨークに設置され、1920年代には暗号機や数学的手法が導入された。そして第二次世界大戦によって、暗号書記は機械化され、暗号解読は数学化され、暗号学は国家の最重要な知の源となった。1945年、黒い部屋は国家安全保障局(NSA)に従属する陸軍秘密保全庁(ASA)という組織となった。

【134-1】1940年代末から1950年代初頭にかけてシャノンが定式化した冗長性の概念が適用されたことで、暗号解読は新たな技術的レベルに到達した。冗長性は、1から相対エントロピーを引いた値として定義される。

【134-2】シャノンはこのアイデアを言語学と暗号解読に適用し、その両方に影響を与えた。冗長性は、メッセージでは実際に必要な情報以上のシンボルが伝達されているということを意味する。たいていの場合、冗長性が生じるのは言語学的な規則や制約が過剰なためである。冗長性が暗号解読に基礎を提供していることを指摘することで、シャノンの情報理論は暗号解読を難しくする方法や必要になる暗号文の量を示していた。

【135-1】こうした新しいアプローチは電子コンピュータの使用と結びつき、暗号解読は電子通信科学のなかで再構成された。1950年代になるとガモフらの遺伝暗号解読チームは、米海軍兵器局やロスアラモス科学研究所といった最先端の電子的暗号解読技術をもつ組織に助力を求めた。

【135-2】ガモフは1950年代において米国の科学的想像力を惹きつけており、名声は極めて高かった。ガモフは兵器局やロスアラモスを含む様々な機関においてコンサルタントを請け負っており、軍産学複合体を体現する人物であった。

【135-3】ガモフは米国のいくつもの大学や日本、インド、オーストラリアで特別研究員の地位をもっていた。トンプキンシリーズを含む20冊以上の科学啓蒙書を出版したほか、テレビなどのメディアにも頻繁に出演して全米を駆け回っていた。

【136-1】1953年、ガモフはNature誌に、遺伝暗号の問題に関する予備的な定式化の考察を送っている。生物の遺伝的特性は4種類の数字で書かれた長大な数値として表現でき、これが約20種類のアミノ酸によって形成される長いペプチド鎖を完全に決定する。ガモフはペプチド鎖を「20文字のアルファベットに基づく長い『言葉』」として表現しており、そのような「言葉」がどのようにして4種類の数字から翻訳されるのかを問題にしていた。

【136-2】ガモフが提案した解決案(いわゆる「ダイヤモンド・コード」)は、重複するトリプレットの暗号であった。重複するというのは、AGCTGAACTのような配列があったときに、AGC、GCT、CTG、TGA、……がそれぞれアミノ酸に対応することを意味する。このモデル(図11)では、DNAの二重らせん構造において外側にできるダイヤ形のくぼみが「鍵穴」となり、そこに入り込む「鍵」であるアミノ酸の種類を規定する。ダイヤ形のくぼみは周囲にある4つの塩基によって決まるが、塩基の相補性によって一つの軸には制限がかかるので、ダイヤ形はちょうど20種類存在することになる。これが20種類のアミノ酸に対応するとガモフは考えたのである。

【138-1】この考察をNature誌に送った日、ガモフは同じ図をポーリングにも送ったが、ポーリングはそれを高く評価しなかった。またクリックは1953年から54年にかけての冬に、当時用いることができたデータ(サンガーが発表したインスリンのアミノ酸配列)を使ってガモフのモデルを反証しようとしていた。この頃から、DNA鎖とペプチド鎖の共直線性や、生物界における暗号の普遍性は暗黙のうちに仮定されるようになった。

【138-2】米国科学アカデミーの会員に選出されたガモフは、自身のアイデアを拡張した論文「デオキシリボ核酸とタンパク質のあいだにあり得る数学的関係」をアカデミーの紀要(PNAS)に投稿したが、これは大不評であった。ガモフはこれを撤回して別の紀要に出し直したが、いずれにしてもこの論文は広く出回った。

【138-3】この論文において、ガモフはDNAとタンパク質の特異性の問題を、情報伝達や暗号解読や言語学などの観点から表現した。エミール・フィッシャーの「鍵と鍵穴」の説明を用いつつ、ガモフはテクストとしての生物という考え方を語った。アミノ酸の配列に固有なものとしての特異性という概念を、情報量とか、秘密の言語的通信としての遺伝といった新しい概念に結びつけたのである。

【138-4】重複は暗号解読にとって鍵となる性質であった。ガモフは、DNAとタンパク質のあいだに重複による数学的対応関係があるため、インスリンのアミノ酸配列データなどを用いることでダイヤモンド・コードの一部を解読できるはずだと考えていた。解読はうまくいかず、クリックによる批判も存在していたが、ガモフは楽観的であり自分は大まかには正しいはずだと考えていた。

【139-1】生命科学者がみなガモフのアイデアに反対していたわけではないようだ。生化学者シャルガフは、後には理論的解読や情報的比喩に反対することになるが、はじめはガモフの寄与を歓迎していた。ただし、DNAからタンパク質が直接合成されるという考え方よりも、DNAからRNAが、RNAからタンパク質が作られるという考え方を支持していた。

【139-2】ロシア生まれの生物学者マルティナス・イチャス(Martynas Yčas)は、ガモフのアイデアに魅了された。イチャスは1951年から56年にかけて米国陸軍に雇われて研究を行っており、ガモフと協力して遺伝暗号の解読を目指していた。56年からはニューヨーク州立大学で微生物学の教授となった。

【139-3】イチャスは、この問題に取り組む上では物理学者よりも不利であったが、生物学者としての能力によってそれを補っていた。ガモフとイチャスはお互いを補い合う関係にあった。

【140-1】イチャスは、ガモフがNature誌に考察を発表した後すぐから文通を始めていた。イチャスは、ダイヤモンド・コードではインスリンのアミノ酸配列を決定できないということを伝えた。ガモフは、ダイヤモンド・コードが単純すぎるということを認めるようになった。

【140-2】ガモフはイチャスによる批判を歓迎した。二人は共にロシア出身であり、軍事的パトロンに関する価値観も一致していた。

【140-3】世間のダイヤモンド・コードに対する反応は懐疑的であったが、ガモフはその形式的な図式がDNAではなくRNAに適用できる可能性も想定していた。ガモフは、この問題に取り組む上では電子コンピュータが必要だと考え、ロスアラモスのMANIACに目をつけた。ガモフは、週に一日を生物学に割くようになっていた。

【141-1】ダイヤモンドのモデルはうまくいかなかったにしても、ガモフとその図式は同僚たちを熱狂させ、多くの著名な物理学者が遺伝暗号の数学的性質の問題に取り組んだ。そこでガモフは、研究者たちのネットワークである「RNAタイクラブ」を設立した。

【141-2】ガモフや同僚たちは、遺伝暗号を敵の暗号に見立てていた。冷戦の軍事的想像力による指示の体制は、生命の表象を変えていたのである。そして遺伝的解読の言説は、電子的テクノロジーの領域で定式化されていた。

【141-3】RNAタイクラブには、ガモフとイチャスはもちろんのこと、ファインマン、シャルガフ、ワトソン、デルブリュック、クリックなどのメンバーが参加していた。20人のメンバーのうち、13人が物理科学者(化学者、物理学者、数学者など)であった。メンバーは20種類のアミノ酸に対応づけられており、それぞれがアルファベット3文字のコードネームをもっていた。

【142-1】ガモフとイチャスは年2回の会合の資金を陸軍から得ようとしていたが、結局は失敗に終わった。RNAタイクラブのメンバーは地理的にかなり分散していたが、それゆえに、遺伝暗号の問題とその言説的・運用的資源を拡散させ、遺伝と生命の表象を作り変える役割を果たした。

軍事的暗号? 論理学、統計学、言語学

【144-1】1954年5月までに、ガモフはダイヤモンド・コードが有り得ないということを受け入れ、新しい暗号を検討し始めた。二本鎖のDNAではなく一本鎖のRNAがタンパク質を合成しているということを踏まえて、ガモフやアレクサンダー・リッチ、ファインマン、レスリー・オーゲル(すべてRNAタイクラブのメンバー)は様々な暗号体系を模索した。そのすべてが、重複したトリプレットに基づく暗号であった。

【144-2】一つの案は「三角コード」と呼ばれるものであり、「コンパクト」と「ルーズ」という二つの種類があった。この暗号では、塩基の配列によって螺旋のなかに生まれる20種類の三角形が20種類のアミノ酸に対応する。
[三角形の各頂点が同じ塩基であるαタイプが4種類(×1)、2つの頂点だけが同じ塩基であるβタイプが12種類(×3)、3つの頂点がすべて異なる塩基であるγタイプが4種類(×6)、で計20種類となる。]
「コンパクト」ではすべてのアミノ酸がつながれてタンパク質になるが、「ルーズ」ではアミノ酸が一つ飛ばしでつながれて2つのタンパク質が合成される。「ルーズ」は「コンパクト」よりも制約が少ないため、暗号の解読は困難になると予想された。

【144-3】ファインマンとオーゲルは「メジャー・マイナー・コード」という重複トリプレットコードを考えていた。この暗号では、トリプレットの中心にある塩基が「メジャー」、その隣にある2つの塩基が「マイナー」として区別される。

【144-4】だがペプチド鎖のアミノ酸配列が明らかになるにつれ、メジャー・マイナー・コードも成り立たないことがわかってきた。そこで核物理学者のエドワード・テラーは、アミノ酸が2つの塩基と直前のアミノ酸によって決定されるというアイデアを発表した(ガモフはこれを「ロシア風呂コード」と呼んだ)。もしこのアイデアが正しいとすると、他よりも出現率の高いアミノ酸の並びがあるということになる。

【146-1】1954年の夏、ガモフはロスアラモスの理論物理学者ニコラス・メトロポリス(RNAタイクラブのメンバー)と協力して、MANIACで様々な重複コードを試験した。頻度分析を行うと共に、人工的な配列と実際の配列の違いが調査された。暗号の制約が強ければ強いほど、特定のアミノ酸の隣に来るアミノ酸の種類は少なくなるはずである。しかし結果としては、期待したような違いは見出だせなかった。

【147-1】結果から示唆されたのは、実際のタンパク質におけるアミノ酸配列は純粋なランダム配列であるということであった。しかしガモフとメトロポリスは、コードが重複しているという前提(もっといえば、これは言語の系統的操作すなわち暗号の問題であるという前提)を疑わず、手法の精度が不足しているせいだろうと考えた。

【147-2】RNAタイクラブの一員である、南アフリカ出身の生物学者シドニー・ブレナーは、1954年に初めて訪米してクラブのメンバーらと議論した。ブレナーはガモフの三角コードを否定し、コードは重複していないと論じた。

【148-1】この年の9月に、ガモフとイチャス、リッチは遺伝暗号の問題について包括的なレビュー論文を書くプロジェクトに取り掛かり、膨大な量の文献を調査した。だがこの論文が発表された1956年までに、そこで紹介された暗号はすべて反証されてしまった。

【148-2】レビュー論文に取り組む傍ら、ガモフはロバート・レドリーを巻き込むことで記号論理学の方面から遺伝暗号の問題に挑んでいた。レドリーは論理学的手法の応用範囲を広げる好機と捉え、重複コードを前提として問題に取り組もうとしたが、計算機を使っても到底終わらない量の計算が必要になってしまうことがわかった。

【149-1】他にも二つの解読方法が試みられた。一つ目は、核酸の構成とタンパク質の構成に相関関係を見出そうとする統計学的分析であった。二種類のウイルスで塩基の構成が異なればタンパク質の構成も異なるはずだという推測に基づいていたが、矛盾する結果が出てしまった。

【149-2】二つ目は、ブレナーがまとめたジペプチドのデータに基づく、やはり統計学的な方法であった。

【149-3】ガモフ、リッチ、イチャスのチームは、20種類のアミノ酸が隣り合う400種類の並び方それぞれについて、実験的に得られた割合(ブレナーのデータ)と、様々な想定される暗号から予測される割合を比較した。だが、前者はほとんどポアソン分布に従っていたのに対し、後者はポアソン分布から大きく外れていた。

【150-1】レビュー論文の原稿が完成した頃、イチャスはコードがおそらく重複していないということ、そして自分たちの試みが失敗であったということを認めるようになった。だが彼らの研究は「暗号化問題」を定義し、非重複コードの分析への道を開き、アミノ酸置換など解読のための有益なアプローチを示唆した。さらに、遺伝を通信システムとして表現する言説、記号論、比喩をつくりあげた。暗号は、情報の伝達を支配する聖書学的テクノロジーへの鍵であった。


2016年4月28日

「機械」と「自己組織化」による知識の移動 Davids, “On Machines, Self-Organization, and the Global Traveling of Knowledge, circa 1500–1900”

Karel Davids, “On Machines, Self-Organization, and the Global Traveling of Knowledge, circa 1500–1900,” Isis 106 (2015): 866–74.


 知識はなぜ、どのようにして、ある場所から別の場所に移っていくのだろうか。数年前にJames McClellanとFrançois Regourdは、かつてのフランスで国家によって支援された機関が専門家や専門知を取り込んで協働的に働くことで植民地の拡大や開発を支えた様子をひとつの「機械」に喩えることによって、この問いに対する一つの答えを示した。彼らの議論に対しては、初期近代の国家が目標のために人的資源を取り込む能力が過大評価されているという批判がなされた。だがそれでも、このメタファーを考えていくことには価値がある。この論考では、「機械」というメタファーを捨て去るのではなく修正して拡張し、「自己組織化」というメタファーと対峙させる。

 まずは「機械」のメタファーを修正・拡張したい。McClellanとRegourdはフランスの例を論じていたが、彼らが示した「植民地支配的機械」という描像はフランスだけに限らず、16世紀におけるスペイン・ハプスブルク朝や、18世紀以降の英国にも当てはめることができる。そしてこれらの例はどれも植民地経営と密接に関わっているのであるが、植民地とは直接の関わりをもたない「機械」も存在する。たとえば18世紀後半におけるブーガンヴィルらの航海は、国家に支援された機関が専門家や専門知を取り込んで知識を移動させた例ではあっても、植民地支配の外で行われているという点で、「植民地支配的機械」というより「帝国的機械」と呼ばれるべきだろう。さらに、ハドソン湾会社やオランダの東インド会社、イエズス会のように、極めて広い範囲に展開して知識を収集・伝達した「商業的機械」や「宗教的機械」も存在する。

 「機械」のメタファーを用いることによって、知識がどのようにして移動するのかということだけでなく、なぜ知識が移動するのかということも説明することができる。というのもこのメタファーは、知識の流れを支える機関やメカニズムを表現すると同時に、そのプロセスで原動力となっている要因(国家権力、利益の追求、魂を救済しようという欲望、など)も示すからである。つまり、ラトゥールのいうところの「蓄積のサイクル」がなぜ生じるのかを理解することができる。また、「機械」同士を比較したり、「機械」間のつながりやその変化を調べたりすることが可能になる。

 だがそれでも「機械」のメタファーだけでは、グローバルな知識の移動を説明するのに十分ではない。知識の流れを導く上からの力を表現する「機械」のメタファーは、下からの力を表現する「自己組織化」というもう一つのメタファーによって補完される必要があるだろう。「自己組織化」は、直接的で中心化されたコントロールによらない、多数の相互関係を通じたパターン形成を意味する。「自己組織化」は、帝国的・商業的・宗教的な「機械」の内側でも外側でも起こりえた。「機械」のメタファーが示唆するほど、実際には知識の流れに対する中央の機関によるコントロールは強くなかったのであり、「機械」の構成員は各々に外部の人々と情報交換をしていた。自己組織化された脱中心的なネットワークも存在していたのである。

 「機械」や「自己組織化」のメタファーは、ヨーロッパの外部にも見出だせる。徳川幕府における蘭学(ヨーロッパからの知識輸入)の発展はその一例で、初めは公的な支援に依らず、長崎の一部の人々が自発的にネットワークを形成して営んでいた(自己組織化)が、やがて幕府が支援に回り公的な組織のなかで営まれるようになったのである(機械)。

 以上、この論考で扱った例は1500年から1900年のあいだに収まっているが、1900年以降に視野を広げることも今後の研究にとって有益であろう。


【関連リンク】
知を編成するマシーンとしてのフランス McClellan and Regourd, "Colonial Machine" - オシテオサレテ
マシーンと自己組織のなかの知の移動 Davids, "On Machines" - オシテオサレテ


2016年4月12日

非メンデル主義者メンデル Olby, “Mendel No Mendelian?”

メンデルに関する従来的な理解が覆される転機となった1979年の論文です。

Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.


1.イントロダクション(pp. 53–62)

 この論文の目標は、メンデルに関するウィッグ史観的な解釈に代えて、19世紀中頃における生物学の文脈を意識した解釈を提案することである。従来の理解では、メンデルの論文は(遺伝学として知られる)遺伝に関する現代的理論の誕生を示す。メンデルは、ペアになったファクター(エレメント)の概念を導入することによって、分離の法則と形質の独立組合せの法則を提唱した。こうした法則が成り立つのは、生殖質の形成のあいだに分離のプロセスがあり、ペアの片方しか生殖質に入ることができないからだとメンデルは考えていたという。以上のようにメンデルのエレメントを古典遺伝学のアレルと同等のものだとみなす見方のせいで、メンデルの論文は、新種の源としての雑種に関する研究というよりも、雑種の研究によって明らかになった遺伝の法則に関する研究として捉えられてきた。1902年の時点でベイトソンは、もしメンデルの研究がダーウィンの手に渡っていたら歴史は変わっていただろうと述べていた。このような見方は、メンデルの最初の伝記を書いたフーゴー・イルチスに受け継がれた。

 本論文著者のこれまでの研究は、以下のような結論を出してきた。まず、受精についての細胞理論は、メンデル主義的理論を導かない。花粉細胞の内容物が胚珠と融合して接合子が形成されるという事実が、融合遺伝あるいは非融合遺伝を支持するわけではないからである。融合遺伝の理論は19世紀後半において広く受け入れられており、ネーゲリやヴァイスマンの議論にも表れていた。
 メンデルの理論は、ケールロイターやゲルトナーによる植物雑種研究の伝統に位置づけられる。ケールロイターは、前成説を打ち破り、植物界における有性生殖の存在を示し、「純粋」な種の一定不変性を示すために交雑を用いた。ゲルトナーも植物の性の存在と種の固定性を支持し、環境の作用で遺伝する変異が生み出されるという主張に反論したが、交雑がそのような変異を生み出すということには懐疑的であった。メンデルは、このような相反する説の対立に決着をつけるべく交雑実験を行っていた。
 著者のこうした議論は当時賛同されなかった。だが最近、進化における雑種の役割という文脈からメンデルを見ることについて、L. A. Callenderから強力な支持が得られた。Callenderによれば、メンデルは同一形質の子を産む一定不変な雑種によって新しい種が形成されるというリンネの仮説を擁護しようとしていたのである。

 コレンスは形質のペアがAnlagenのペアによって決定されるのだと考えたが、メンデルはそのような考え方をもっていなかった。J. Heimansはこのことを、メンデルが論文のなかでphaseolus multiflorusの花の色の遺伝を論じている部分と、論文で発表した結果をメンデルが再解釈しようとした手記に基づいて主張している。形質のペアというメンデルの概念は、相互に排他的なファクターのペアという概念を導いていなかったのである。


2.一定不変な形質と変異する形質(pp. 62–66)

 ではメンデルの達成とは何だったのか。Heimansによればメンデルは、分割不可能な実在としての全体論的な種のイメージに代えて、原子論的でモザイク的な種の概念を思い描き、それを実験的に示したのである。メンデルの根本的な構想は、別個の遺伝形質が独立にかつ変化することなく伝達されるということであった。ダーウィンや他の生物学者にとって、種の形質が分割不可能な実在であり、環境条件の影響によって可塑的に様々な方向性に変化するものだったのとは違っていた。

 メンデルが優性だとか潜在している(latent)とか一定不変だとか変異するとか言っていたのはあくまで形質のことであって、ファクターやエレメントのことではなかった。またメンデルは、生殖細胞形成の際の分離について、異なるエレメントだけがお互いに排他的なのだと書いている(もしそうだとすると、同類のエレメントの数は受精のたびに増えることになってしまう)。これは古典的なメンデル遺伝学と矛盾する記述であり、もしメンデルが対立する形質のペアを決定するエレメントのペアという概念をもっていたのであれば、同類のエレメントのあいだでの分離も認めていたはずである。メンデルが関心をもっていたのは、物質的なエレメントそれ自体ではなく数学的な法則性のほうであった。


結論(pp. 67–68)

(1) メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのか一定不変なのか? もし一定不変ならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。

(2) メンデルは、対立する形質のペアを決定するファクターやエレメントのペアという概念をもっていなかった。Heimansが分析したように、メンデルはエレメントと形質のあいだに一対一の関係を想定していたわけではない。あくまで、エレメントの種類と形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。

(3) メンデルは受精についての細胞理論を、一定不変で独立した形質があらゆる可能な組合せで組み合わさるという仮説を支持するために用いていた。細胞理論は、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台を提供しているわけではなかった。一定不変な雑種と、変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みだったのである。

 以上のことを踏まえれば、メンデルの論文が長いあいだ無視されていたというのは偽の問題にすぎないことがわかる。ダーウィンとメンデルのあいだで接触があれば19世紀に総合がなされていただろうという想像も間違っている。ダーウィンの概念的図式のなかに、一定不変な形質という要素はほぼなかったし、進化における交雑の役割についての見方もメンデルからは遠く隔たっていた。

 もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではないのである。


2016年4月4日

メンデルと「再発見」に関する新しい説明 Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work”

メンデルや「メンデルの再発見」に関して、生物の教科書に載っているような従来型の説明は40年ほど前からの科学史研究で大きく覆されています。この論文では、メンデルやその「再発見」に関する新しい研究の成果がまとめられています。


Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.

 従来メンデルは、遺伝の二つの法則(分離の法則と独立の法則)を発見した人物であり、それゆえ遺伝学の基礎をつくり、ダーウィン革命において欠けていたメカニズムの説明を提供した人物だと考えられてきた。そしてメンデルの研究が当初無視されたことについて、様々な理由が挙げられてきた。だが、それらとは異なる説明がある。第一に、メンデルの研究は当時の文脈において革命的というよりもむしろ典型的なものとして理解されていたという説明である(Olby, 1979)。そして第二に、メンデルの研究はその内容だけではなく、「再発見者」たちの先取権論争の結果として有名になったという説明である。


第一の説明について。

・メンデルの論文は種形成や交雑に関する研究であり、遺伝についての研究ではなかった。メンデルは、雑種の形成と変化を支配する一般的な法則を探究していたのである。
・メンデルは、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。メンデルが遺伝子の性質について説明したことはないし、形質のペアと遺伝のファクターのペアが等価であることを説明したこともない。その点において、メンデルはメンデル主義者ではない(Olby, 1979)。
・メンデルは、雑種の子孫のうちに同一形質の子を産む(breed true)ものとそうでないものがある理由を説明するのに、受精についての細胞理論を用いた。メンデルはこの理論を、遺伝子を位置づけるのに用いなかった。
・メンデルは「メルクマール」と「エレメント」という言葉を使い分けている。メルクマールは、見て認識できるような性質のこと、エレメントは、メルクマールを生み出していると考えられる未知の物質のことを指していた。エレメントという言葉は、論文の結論部で10回だけ登場する。
・メンデルは雑種をAaのように表現した最初の人物であり、このことからしてメンデルは雑種が二つの異なる形質をもっていることを知っていたように思われる。一方で、純粋繁殖の系統に対してはAやaのように一文字だけを用いていることから、メンデルはこの文字が何か物質的構造を表すとは考えていなかったのかもしれない。
・メンデルは、種間や変種間に明確な線引きをすることは不可能だと考えていた。メンデルにとって重要だったのは、実験材料が純粋繁殖の植物であることだった。
フーゴー・イルチスやチェルマク、コレンスといった人々は、20世紀初頭の時点で、メンデルの業績は雑種に関する研究であり、それが非直接的に遺伝についての理解を生み出したのだと考えていた。


第二の説明について。

 ド・フリース、コレンス、チェルマクの3人が独立にメンデルの業績を「再発見」したという説明は疑わしい。まずチェルマクは優性と劣性の性質を理解していなかったし、分離が3:1の比率を生み出すことについても議論しなかった。チェルマクの論文はメンデルの研究を確かめるものではあったが、解釈を発展させるような類のものではなかった。

 メンデルの論文を有名にしたのは、主としてド・フリースとコレンスのあいだでの先取権論争だった。19世紀末までに、ド・フリースは形質が独立した単位として遺伝しているのだと確信するようになっていた。1900年にド・フリースが発表した論文「雑種における分離の法則」は、activeとlatentの語に代わって優性と劣性の語が用いられるなど、様々な点でメンデルの論文によく似ていた。1900年以前において、ド・フリースはメンデル的な術語で思考していなかったし、3:1の比率を報告したこともなかった。むしろド・フリースは2:1や80:20の比率と報告していた実験結果を、1900年以降になるとデータはそのままなのにもかかわらず3:1の比率として解釈し直したのである。ド・フリースは1900年以降、1896年の時点でメンデルとは独立に分離の法則を発見していたと主張したが、それは疑わしい。ド・フリースは、1900年以前にメンデルの論文を知っていたが、それを十分理解するには至っていなかったのだとも考えられる。ド・フリースに限らず、「再発見者」の誰もが1900年以前にはメンデル的な解釈をしていなかった。

 3人の再発見者のなかで、コレンスだけがメンデルの論文を完全に理解していた。コレンスはメンデルの理論を、2つの遺伝単位によってそれぞれの形質が決定されるという理論として説明していた。また、異なる遺伝子ペアの独立性をはっきり述べたわけではなかったが、9:3:3:1の比率を発見していた。コレンスはAnlageという言葉を用いたが、これはメルクマールやエレメントとは異なり、不連続な決定子であって親から子へと移動していくものとして説明された。またAnlageは、形質そのものではなく形質を導く出来事のための信号だとされていた。コレンスは分離が減数分裂によるものであることや、Anlageのセットは細胞核のなかにあることを示唆していた(メンデルもド・フリースも、遺伝の単位が栄養細胞には2つあるが性細胞には1つしかないということに言及していない)。またコレンスは、形質のペアはAnlageのペアによって決定されるのだと示唆した最初の人物であった。

 コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。