2016年6月6日

モノーとジャコブ、オペロン説への道程 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第5章前半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 193–214.


第5章 パストゥール人脈 : 酵素的サイバネティクス、情報提供遺伝子、メッセンジャーRNA

【193-1】1961年、コールド・スプリング・ハーバーでのシンポジウムでシドニー・ブレナーは、タンパク質合成と遺伝暗号の問題について、DNAが暗号の形式で情報を運び、塩基の特定の配列がアミノ酸配列を決定するという概観を示した。この指定がどのようになされるのかが、当時この分野における最大の問題となっていた。

【193-2】ブレナーが説明したように、この問題へのアプローチは大まかに二種類あった。一つは、生化学的機構を無視してタンパク質合成をブラックボックスとみなすアプローチであった。既知のアミノ酸配列から暗号を推論する方法や、ウイルスのRNAにおける突然変異生成を利用する方法などが試みられていた。

【194-1】もう一つは、タンパク質合成と酵素反応の生化学的機構を、その経路を追跡したり遮断したりして調査するアプローチであった。このアプローチは伝統的な生化学に依拠していたが、遺伝学的な道具立てや暗号理論も寄与していた。ハーバード大学のジェームズ・ワトソンらによるRNAの研究や、パストゥール研究所のジャック・モノーとフランソワ・ジャコブらによるオペロンの研究などがその代表例である。符号化問題は、第一のアプローチでは顕在的であり、第二のアプローチでは潜在的であった。

【194-2】二つのアプローチは1950年代の末までに合流した。交易圏(trading zone)のなかに共通した目標をもつ共同体を形成しており、物質的・言説的・社会的実践は重なっていた。分子遺伝学の対象やメカニズムについての表象は、今やますます情報言説のなかで構成されるようになった。情報の比喩が、生化学と分子生物学を結びつけていた。

【195-1】パストゥール研究所のグループは、分子生物学のディシプリンとしてのアイデンティティや制度的な形態を形作る上で主要な役割を果たし、情報言説の表現空間において一際目立つ場所となった。酵素合成を研究したモノーの研究室と、ジャコブがファージや細菌の遺伝学的研究を行っていたアンドレ・ルヴォフの研究室は、タンパク質合成の問題を解くためのいくつかの鍵を提供した。また彼らは、酵素誘導をサイバネティクスのモデルによって、ファージの複製を情報の流れという比喩によって説明したことで、分子生物学の言語的ソフトウェアに寄与した。

【195-2】本章では、パストゥール研究所における情報言説への移行を扱う。まず、酵素合成についての説明が、ラマルク的・目的論的な「酵素適応」から、ダーウィン的で偶然に基づく「酵素誘導」にパラダイムシフトしたことを論じる。次に、PaJaMa実験において遺伝学的な説明・実験と生化学的な説明・実験が融合したことを論じる。こうした研究では、酵素合成においては遺伝的なコントロールが一体的な調節システムのなかで作用することを示した。RNAの役割に関する発見が相次ぐ中で、パストゥール・チームはメッセンジャーRNAというアイデアに導かれた。最後に、メッセンジャーRNAが概念として改良され、また実験的に特定されたという、遺伝暗号研究史上のターニングポイントを論じる。

【195-3】続けて、新しい生命記号論が果たした役割を評価したい。情報言説は、パストゥール研究所でも解釈の枠組みを提供した。だがそれが初めて採用されたのは、PaJaMa実験が終わった1958年の夏のことであった。ジャコブとモノーは、このときから情報理論の比喩やサイバネティクスと電子工学のモデルを用いるようになった。

【196-1】1953年から58年までの間、モノーの任務は分子生物学から目的論的説明の痕跡を除去することだったのだが、彼はPaJaMa実験の解釈に基づいて実質的に立場を変更した。目標指向の負のフィードバックによるシステムというサイバネティクスのモデルは、「テレオノミー」という新しい生物学的概念を通じて認められた目的論(テレオロジー)を正当化した(生物の環境に対する無制限の適応を説明する目的論は、すでに存在する有限の遺伝的情報の作用によって適応を説明するテレオノミーに置き換えられた)。「情報伝達」の比喩は、構造遺伝子と調節遺伝子の違いを描写する上で鍵となる理解を提供した。こうした様々な発見や解釈は1960年に定式化されたオペロンモデルによって統合されたが、このモデルも調節する負のフィードバックにおける情報の流れという観点から概念化されていた。

【196-2】PaJaMa実験の結果はまた、細胞質に「メッセンジャー」が存在することを示唆していたため、研究者たちは競ってこれを捕らえようとした。最終的には1961年に、カリフォルニア工科大学のジャコブ、ブレナー、マシュー・メセルソンのチームと、ワトソンの研究室におけるフランソワ・グロスらのチームが、それぞれにメッセンジャーRNAを特定した。ここでも、メッセンジャーが情報言説によって意味づけられている。メッセンジャーはその形態によって特定の化学作用を指定するのである。情報は化学的特異性と細胞記憶の双方に対する提喩であり、形態と物質の交換における通貨であり、遺伝型の潜在状態と表現型の顕在状態をつないでいた。

【197-1】それゆえ、生命を細胞機構のサイバネティクスとして説明したモノー『偶然と必然』(1970)や、分子遺伝学的メカニズムをサイバネティクス的な通信と情報伝達のシステムとして再構成したジャコブ『生命の論理』(1976)は、かつての科学的経験の事後的な再構築ではなかったのである。こうした比喩やイメージやモデルは、実際に科学の現場において科学的想像力を支えていた。そしてその想像力は、共有された科学的経験、同時代の技術文化、そしてそれらの意味化の体制によって形作られていた。

● 目的因を追い払う

【197-2】DNAの構造が解明された1953年は、酵素適応から酵素誘導へのパラダイムシフトが起こった年であり、モノーがパストゥール研究所で細胞生化学部門の長になった年でもあった。こうした変化が、この後の数年間におけるパストゥール研究所での分子生物学の物質的・言説的・社会的次元を形作っていく。

【197-3】二重らせん論文の半年前に、モノーとその共同研究者たちは「酵素形成の術語」と題したノートをNature誌に掲載した。これは、酵素適応から酵素誘導へのパラダイムシフトに対応して、使用する術語の変更を提案するものであった。

【198-1】微生物の酵素的性質が培地によって変化するということ、つまり微生物が様々な環境に適応できるということは20世紀初頭からよく知られていた。1930年代中頃には、細菌酵素は特定の培地のときだけ形成される適応酵素と、培地によらずに形成される構成酵素に分けられた。1940年代初頭までには、新しい酵素活性が培地からの化学的刺激、もしくは遺伝的変異体の漸進的選択によって現れることが知られていた。1940年代末までには、酵素生合成における制御メカニズムの二重性(遺伝的・化学的)が重要な問題となっていた。

【199-1】モノーが1947年に発表したレビュー「酵素適応の現象とその遺伝的・細胞的分化の問題に対する意義」が示すように、この現象が重要であったのはそれが細胞質遺伝をめぐる論争と生物学的特異性の問題において中心的な位置を占めるからであった。当時、特異性は生命研究における統一的テーマであり、生命は複雑で、流動的で、偶然的要素を含むものだと考えられていた。このタンパク質パラダイムにおいて、酵素適応は遺伝子作用と抗体形成を支配するパターンに固有の分子的特異性のメカニズムを調査するための実験的ツールを提供していた。パストゥール研究所の科学文化も、このタンパク質パラダイムによって規定されていた。

【199-2】1950年にモノーは、細菌の培養状態を生理学的に一定に保つ技術を開発したが、同年にレオ・シラードとアーロン・ノーヴィクもよく似た技術(ケモスタット)を開発していた。この一致は、彼らが同じパラダイムや同じ実験システムによる要請を共有していたことから生じている。

【200-1】実際、モノーとシラードのあいだには深い交流があった。

【201-1】モノーは1953年までMel Cohnと共同研究をしていた。二人はこの年に大腸菌の酵素合成について包括的なレビューを書いたが、そこでは負のフィードバックという考え方はまだ登場しておらず、正のコントロールという観点からの概念化がなされていた。また彼らは、酵素誘導の力は酵素の誘導物質に対する作用とは関係がないことを立証した。ラクトースに似ているが異なっており代謝できない砂糖を含む培地で細菌を育てたところ、それらの細菌がβ-ガラクトシダーゼを生産するという現象が見つかったのである。

【201-2】モノーにとって、これらの発見は進化における進歩を強調するフランスのネオ・ラマルキズムに対する攻撃であり、生命の目的論的説明に対する挑戦を意味した。フランスでは生命力や目的因による説明が根強く残っていたが、モノーはこうした傾向を科学の発展の妨げだと考え、偶然を生物学的説明において中心的なものとして擁護しようとしていた。

【202-1】それゆえ1953年のレビューは、もちろん細菌の無益な適応というパラドックスに対する反応だったのだが、それだけではなく、目的論やルイセンコ主義に対する挑戦でもあった。モノーらは、適応という言葉がミスリーディングなのだと論じた。

【202-2】「酵素適応」を「酵素誘導」に置き換えたことで、生物学思想に根本的なゲシュタルト変換が起こった。ここから始まる5年間によって最終的に、生物は環境に影響されない情報プログラムとして表現されるようになるのである。皮肉なことに、この新しい表現は目的論をテレオノミーとして再活用する必要があった。

【202-3】この1953年には、モノー自身のリサーチプログラムを中心として組織された、細胞生化学部門がパストゥール研究所に誕生した。この出来事は、分野間の壁を越えてフランスの生物学を活性化しようというモノーの考えの反映でもあり、パストゥール研究所における生化学の現代化でもあった。モノーは、遺伝学者たちとの交流を通じて遺伝学にも深い理解をもっていた。

【203-1】モノーの現代的(あるいはアメリカ的)なやり方は、世界中から資金を調達してくるところにも表れていた。モノーは1950年代中頃から、政府が基礎研究に大きく投資する、米国をモデルとした現代化政策を推進していた。モノーの構想では、彼の細胞生化学部門は4つのグループに分かれるものの、同じ大腸菌を共通の手法で研究することによって協調していけると考えられていた。

【204-1】モノーはナチス占領下のフランスでレジスタンス活動を行ったり、一時期はフランス共産党に入っていたりした人物であり、政治に対して積極的であった。

【204-2】米国ではマッカーシズムの台頭もあったため、共産党に加入していたフランスの科学者が米国からの支援を受けるのには困難があった。1952年にモノーは米国からビザの発行を拒否されたため、Science誌上で米国の政策を批判した。

【205-1】さらには、Bulletin of Atomic Scientists誌上でローゼンバーグ裁判を痛烈に批判していた。

【205-2】国務省もロックフェラー財団も、モノーのこうした政治的活動をよく思っていなかった。1954年にコロンビア大学のジェサップ講義に招待されビザが発行されたときも、彼は要注意人物だとみなされていた。モノーは活動的生と観想的生を区別しきらない人物であり、フランスの生物学を再構築しようという熱意も、ド・ゴール政権下の時代にいっそう強まった。

【205-3】1953年から57年にかけて、モノーは微生物学者George Cohenと共同で、β-ガラクトシダーゼをもっているのにラクトースを利用できないという大腸菌の変異体(cryptics)を分析した。cryptics を含むLac-の変異体はジョシュア・レーダーバーグによって1948年以降に単離された。モノーは生理学の方面から、レーダーバーグは遺伝学の方面からこれを研究していた。

【206-1】モノーとCohenの研究によって、細胞膜を通してラクトースを集める物質(β-ガラクトシド透過酵素と呼ばれることになる)の存在が突き止められた。Crypticsはこの透過酵素をもっていなかったのである。さらにモノーとCohenは、β-ガラクトシダーゼに関して構成的である系統はβ-ガラクトシド透過酵素(パーミアーゼ)に関しても構成的であることを見出し、両方の酵素が遺伝的に関係していると推測した。

【206-2】1957年までにモノーの研究室は、変異体をy、z、iの3タイプに分類した。Cohenとモノーはこの分類から、透過酵素が外界と細胞内をつなぐ役割を果たしていると論じる。そして、透過酵素は細胞内酵素の機能だけでなく、結局は誘導された合成自体をコントロールしているのだという。

★ モノーらによる変異体の分類
y+  ラクトースの存在下で透過酵素を合成できる。
y-  ラクトースの存在下で透過酵素を合成できない。
z+  ラクトースの存在下でβ-ガラクトシダーゼを合成できる。
z-  ラクトースの存在下でβ-ガラクトシダーゼを合成できない。
i+  ラクトースが存在するときのみ、透過酵素やβ-ガラクトシダーゼを合成できる(誘導的)。
i-  ラクトースが存在しなくとも、透過酵素やβ-ガラクトシダーゼを合成できる(構成的)。

★ 補足 : ラクトースオペロンの構成要素(現代的説明)
lacY ・・・ β-ガラクトシド透過酵素をコードしている。
lacZ ・・・ β-ガラクトシダーゼをコードしている。
lacI ・・・ 常にリプレッサーを合成している。リプレッサーはオペレーターに結合してlacYやlacZの発現を抑制する。ラクトースがリプレッサーに結合すると、オペレーターに結合しなくなる。

【207-1】つまり、これらは意思決定をする合理的なシステムなのである。これらの制御メカニズムとそのつながりを理解することが、パストゥールグループの次の目標となった。この後の2年間でPaJaMa実験によって、バクテリオファージ遺伝学の技術と、負のフィードバックのモデルが合流し、こうした細胞のメカニズムをサイバネティクス的・情報的なシステムとして表現することになる。

● 情報、サイバネティクス、そして目的論の再発明

【207-2】透過酵素とβ-ガラクトシダーゼの合成における遺伝的コントロールの中心性が確実になるにつれ、酵素誘導の遺伝的分析の必要性も増してきたため、1956年にモノーはジャコブとの共同研究を開始した。当時、ジャコブが所属していたアンドレ・ルヴォフの研究室は、デルブリュックらのファージ研究ネットワーク(「ファージ教会」とあだ名された)とのヨーロッパにおける接触点になっており、細菌遺伝学の重要拠点であった。

【207-3】ジャコブはもともとパリ大学で医学を勉強していたが、大戦中に自由フランス軍に参加してアフリカやノルマンディーに従軍した。その後ルヴォフのもとで溶原菌(※1)の研究を行い、細菌がプロファージ(※2)の活動を阻害するメカニズムをもっていることを明らかにした。ジャコブは1954年頃までにエリ・ウォルマン(Élie Wollman)との共同研究を開始し、細菌の遺伝物質とプロファージの関係を解明しようとしていた。

【208-1】ジャコブとウォルマンは細菌の接合(※3)に関わる遺伝学的手法を発展させ、“オス”の溶原菌の染色体が接合によって“メス”の非溶原菌に入り込むとファージを発現させて溶菌を起こし得ることを示した(※4)。さらに1955年には、ミキサーを使って様々なタイミングで接合中の細菌を引き剥がすという手法によって、供与菌の遺伝子が受容菌に決まった順序で挿入されていることを確認した(※5)。これは俗に「スパゲッティ」実験とか「膣外射精」実験として知られることになった。

【209-1】ジャコブとウォルマンはこの実験手法を用いて、接合誘発(※6)のメカニズムを探った。さらにこの二人は、メスが接合後しばらくのあいだ二つの染色体断片を保持しており、一時的に二倍体の状態になっていることを示した。そして1957年に、酵素生合成の研究をしていたカリフォルニア大学バークレー校のアーサー・パーディーがモノーの研究室にやって来た。

【210-1】パーディーはこの頃まで、モノーやジャコブのグループと似た方向性で研究を行ってきていたが、彼らの仕事の速さにはついていけていなかった。

【211-1】パーディーは一般的な議論を構築したり、研究を効果的に宣伝したりすることには長けていなかった。たとえば、彼はハーバード大学のEdwin Umbargerと同様に負の酵素的フィードバックの現象を発見していたが、Umbargerがそれを機械の自動制御に喩えて注目を集めたのに対して、パーディーは単に「阻害」という従来通りの言葉を使って済ませてしまっていた。だがパーディーには、実験家としての高い能力があった。

【211-2】パーディーとモノーの研究室ではアプローチに違いもあったが、パーディーはすぐにそれを乗り越えてパストゥール研究所の生化学的方法を改良するまでに至った。これは異なる理論的コミットメントや物質的文化の間での交換がなされた交易圏の非常に良い例である。1957年の12月に、パーディー、ジャコブ、モノーはラクトースシステムの遺伝的コントロールを調査する一連の実験(PaJaMa実験)に乗り出した。それは、モノーによって分離された大腸菌を様々な組合せで接合させることで、遺伝子の位置や機能を調べてゲノム地図を作ろうとする一つの実験システムであった。こうして実験空間は再構成され、ゲノム地図の観点による酵素的機能の表現という新しい要素が加わった。

【212-1】2ヶ月以内に、ラクトースシステムの三つの主要な特徴がわかった。第一に、β-ガラクトシダーゼは遺伝子が細菌に入って2, 3分以内に最大速度で合成されることから、この合成は1時間以上を要する遺伝的組換え(※7)の結果ではなく、遺伝子から細胞質への直接的な化学的シグナルの結果だと考えられる。第二に、i遺伝子はy遺伝子やz遺伝子とは分かれている。第三に、意外にもi遺伝子の誘導性は構成性に対して遺伝的に優性である。このことは、構成性が正のコントロールによるものだというモノーとCohnの以前の仮説を覆すものであった。

【212-2】すべてのことが、酵素誘導に負のコントロールメカニズムがあることを示唆していた。つまり、i遺伝子は酵素生合成を阻害する何らかの物質を合成していたのである。

【213-1】1958年1月末にレオ・シラードがパストゥール研究所を訪れたことも「リプレッサー仮説」に有利に働いた。

【213-2】シラードはリプレッサー分子の存在に賛成し、それが何かしらの方法でβ-ガラクトシダーゼや透過酵素の合成を妨害しているのだと考えた。パーディーが1958年の7月にバークレー校に戻る前に、彼らの発見は短い報告の形で雑誌に掲載された。そして1959年により長い記事が載るときまでに、その発見はずっと大きな一般性や重要性を帯びるようになっていた。それは、ファージによる接合誘発のメカニズムと、細菌の酵素誘導のメカニズムとのあいだに、アナロジーが成り立つというジャコブの直感のためであった。

《注》
※1 「溶原菌」:ファージに感染したが溶菌せず、ファージのゲノムを自らの染色体に埋め込まれた状態になっている細菌のこと。
※2 「プロファージ」:溶原菌の染色体に埋め込まれているファージゲノムのこと。
※3 「接合」:ある細菌が別の細菌に自らの染色体の一部を送り込む現象。
※4 大腸菌には、接合に際してDNAの供与菌になるものと受容菌になるものがあり、前者がオス、後者がメスと呼ばれる。オスはF因子(性決定因子)と呼ばれるDNA断片をもっており、メスはもっていない。F因子は接合の際にメスに受け渡されるので、このときメスはオスになる。
※5 大腸菌の接合には90分ほどの時間がかかるので、タイミングを変えて接合を中断させることができる。
※6 「接合誘発」:接合によってオスのプロファージがメスに伝達されたとき、メスのなかでファージが発現、増殖して溶菌する現象。
※7 「遺伝的組換え」:細菌の場合、供与菌由来のDNA断片が受容菌の染色体の一部と組換わる現象を指す。