2017年12月21日

東アジアの科学史に関する論文15本

現在、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
こちらの秋学期に東アジア科学史の授業で読んだ論文や章のうち、特に印象に残った15本を簡単に紹介します。

Joseph Needham, Science and Civilization in China Vol. 3, “Mathematics and Science in China and the West” (1959)
ニーダム・クエスチョンの問いかけ。ルネサンス期のヨーロッパにおける数学化された自然科学の出現は、なぜ他の地域、特に中国では起こらなかったのか。ニーダム自身は、中国における官僚中心の社会構造とヨーロッパにおける重商主義の違いに注目している。

Qiong Zhang, “Demystifying Qi: The Politics of Cultural Translation and Interpretation in the Early Jesuit Mission to China” (1999)
16世紀末から17世紀初頭、明に渡ったマテオ・リッチらイエズス会の宣教師たちは、宋明理学(Neo-Confucianism)における自然の理論を否定して、代わりに西洋流の理論を普及させようとした。その際に彼らがとった戦略は、中国の古典を曲解して西洋流の理論に引きつけるのと同時に、当時の理論を古典から引き剥がすというものであった。翻訳は善良になされるとは限らず、mistranslationが目標だということも有り得る。

Peter Engelfriet, “The Chinese Euclid and its Chinese Context” (1993)
ユークリッド幾何学がどのように中国語に翻訳されたかを調査すれば、西洋と中国の根本的な文化の違いがわかるだろう……なんていう安直な考え方に対する戒め。現代の我々が当たり前に「西洋的なユークリッド幾何学の理解」だと思っているものは、西洋の数学史のなかでまったく当たり前ではなかった。我々が西洋の文化について抱いている暗黙の前提をまず疑う必要がある。

Yulia Frumer, “Before Words: Reading Western Astronomical Texts in Early Nineteenth-Century Japan” (2016)
オランダ語を読めない高橋至時(1764–1804)が、『ラランデ暦書』(ジェローム・ラランドが著したAstronomieのオランダ語訳)をどうやって理解して『ラランデ暦書管見』を書いたのか。図、表、記号、単位などが重要な役割を果たしていた。翻訳は必ずしも言語的な営みだとは限らない。

Shellen Xiao Wu, Empires of Coal: Fueling China’s Entry into the Modern World Order, 1860–1920, Ch. 3 “Lost and Found in Translation: Geology, Mining and the Search for Wealth and Power” (2015)
米国人宣教医のDaniel Jerome Mcgowanと中国人数学者の華蘅芳による『地質学原理』の中国語訳など、1870年代から80年代の中国における地質学関係著作の翻訳を調査。これらの翻訳は概して質に問題があり、地質学の知識を紹介することには失敗していたものの、科学や工業の文化を伝えることには成功していた。翻訳という営為を、静的な知識の言語間での移植というよりも、より広い文化の導入の一部として捉えようとする章。

Wayne Soon, “Science, Medicine, and Confucianism in the Making of China and Southeast Asia: Lim Boon Keng and the Overseas Chinese, 1897–1937” (2014)
シンガポールで生まれ、エディンバラで教育を受け、中国で科学や医学の教育普及に貢献した華人医師の林文慶(1869–1957)に注目する。西洋科学の中国への伝来は、欧米から日本を通して中国に伝わったというストーリーで説明されることが多い。だが、林文慶のように海外に居た中国系の人々が果たした役割も正しく評価する必要がある。

Fa-ti Fan, “Science in a Chinese Entrepôt: British Naturalists and Their Chinese Associates in Old Canton” (2003)
18世紀から19世紀初頭にかけての広東を、自然史研究のフィールドという観点から分析する。清の対外政策によって欧米諸国との交易は広東に限定されていたため、英国人(多くは東インド会社の所属)による中国自然史の研究は、コンタクトゾーンである広東の都市環境に強く依存することになった。市場、庭、職人、苗木屋、行商人、交易路などといった都市の構成要素や、そこでの日常生活、英国人と中国人の経済的・社会的な関わり方などに注目する必要がある。

Yulia Frumer, “Translating Time: Habits of Western-Style Timekeeping in Late Edo Japan” (2014)
江戸時代末期以降、日本人はどのようにして、西洋式の時計を読み、西洋式の時法を用いることができるようになったのか? もともと江戸時代の日本では、西洋由来の機械式時計が日本の時法に合うように作り変えられて用いられていた。こうした和時計を用いてきた経験と、そのなかで生まれていた様々な習慣が、西洋式の時計・時法の導入において重要な役割を果たした。この導入は、まったく新しい体系を突然に受け入れたのではなく、既存の習慣を徐々に改変していくプロセスであった。

Susan Burns, “The Body as Text: Confucianism, Reproduction, and Gender in Tokugawa Japan” (2002)
17世紀後半~18世紀前半の日本における妊娠や出産をめぐる言説の分析。儒教の宇宙論や倫理と連結した医学のもとで、出産がうまくいったかどうかは、女性が性的な欲望を抑えて貞淑な行いを貫くことができていたかどうかを判断できる根拠とみなされた。こうした言説は「妻」と「売春婦」の線引きを補強するとともに、女性の身体を(男性と異なり)家や国家に関連付けることに寄与した。背景には同時代の「生類憐れみの令」に代表される、自然な生殖を強調する新しい道徳秩序の構築があった。

Jin-kyung Park, “Husband Murder as the “Sickness” of Korea: Carceral Gynecology, Race, and Tradition in Colonial Korea, 1926–1932” (2013)
西洋諸国が「西洋と非西洋」「白人と非白人」という境界線で植民地における支配者と被支配者を画定できたのに対して、日本とその植民地は文化的にも人種的にも近縁で区別が難しく、そのことが日本の役人たちを不安にさせていた。そこで彼らは、植民地の人々を日本人から人種的・生物学的・文化的に区別する必要があった。朝鮮総督府に雇用されていた婦人科医の工藤武城(1879–?)は、1926年から1932年にかけて朝鮮の女性囚人66人を医学的に調査し、朝鮮人の女性には「本夫殺害」(夫殺し)という特有の民族病があると結論づけた。工藤の研究は、科学研究者としての日本と研究対象としての朝鮮という区別を定め、医学によってアジアの人々を救済するという日本の植民地支配のレトリックを支持するものであった。

Ian Jared Miller, The Nature of the Beasts: Empire and Exhibition at the Tokyo Imperial Zoo, Ch. 2 “The Dreamlife of Imperialism: Commerce, Conquest, and the Naturalization of Ecological Modernity” (2013)
20世紀初頭の上野動物園は、日本による帝国主義のプロジェクトを来園者に楽しく示す役割を担っていた。拡大する植民地の「野生」を見せることで、日本人の自然への渇望を生み出し、満たそうという狙いがあった。動物の展示方法は、来園者が動物の様子を近くから見ることができるように、かつ動物が捕らわれているということを来園者が意識しなくて済むように、工夫が凝らされていった。動物園はイデオロギーを自然として表現し、政策を娯楽として見せていた。

Greg Clancy, Earthquake Nation: The Cultural Politics of Japanese Seismicity, 1868–1930, Ch. 5 “A Great Earthquake” (2006)

1891年に起こった濃尾地震の被害を、お雇い外国人、地震学者、新聞社、版画家など、様々な立場の人々がどのように理解し、伝えたのか。それまでの地震と異なり、庶民に属する建築物のみならず、エリート層や国家に属する建築物である西洋建築や線路も大きな被害を受けたことは驚きをもって受け止められ、特に庶民に好まれる版画で強調された。一方、「世直し鯰」に象徴されるように、江戸時代において地震は幸運・不運を再分配する(被災者以外の低い身分の人々や大工などにとっては歓迎すべき)出来事として理解されていたが、濃尾地震においては義援金などを通じて被災者を助けようとする動きが広まり、天皇も存在感を示し、日清戦争に向けて国民国家の確立を準備する出来事となった(Earthquake Nationというタイトルに注目したい)。

Timothy S. George, Minamata: Pollution and the Struggle for Democracy in Postwar Japan, Ch. 3 “Discovering the Disease and Its Cause” (2001)
何が水俣病の真相究明を阻んだのか。経済成長を優先して漁民たちを犠牲にすることを選んだ政治家や役人たち、政府や企業の意向を受けた科学者たち、「中立」であろうとして両論併記を繰り返し、各々の科学者の背後で動いている勢力に対して注意を払わなかったメディア。

Brett L. Walker, Toxic Archipelago: A History of Industrial Disease in Japan, Ch. 4 “Engineering Pain in the Jinzū River Basin” (2010)
イタイイタイ病の環境史。戦争による鉛や亜鉛の需要の増加、採鉱技術の変化、高い技術をもつ鉱夫たちの植民地への流出、できるだけ多くの子どもを産ませようとした政府の方針、肌を日光から隠すことを女性たちに強いた美的感覚など、イタイイタイ病を引き起こした複雑な因果関係の網目を分析。“Engineering Pain”というタイトルにも注目したい章。

William M. Tsutsui, “Landscapes in the Dark Valley: Toward an Environmental History of Wartime Japan” (2004)
第二次世界大戦が日本の自然環境に与えた影響は、必ずしもそれほど悪いものだったとは言い切れず、むしろ良い面もあった。戦争が人間にとって破滅的で悲劇的だからといって、自然環境にとっても同じだと決めつけてはならない。人間中心主義批判とも読めそうな論文。

2017年4月2日

驚異と好奇心 Daston&Park, Wonders and the Order of Nature, 第8章前半

Lorraine Daston and Katharine Park, Wonders and the Order of Nature, 1150–1750 (New York: Zone Books, 2001), pp. 303–316.


第8章 探究の情熱

 1672年にニュートンがヘンリー・オルデンバーグに向けて書いた手紙には、プリズムを通した光の見え方に彼が驚異の念を抱き、それが好奇心につながったのだという経験が記されている。中世の自然哲学や道徳哲学においては驚異と好奇心は縁遠いものであったのだが、ニュートンや初期近代の人々にとって、驚異は好奇心をかき立てるものになっていた。だがこの後、18世紀前半までには、驚異と好奇心は再び分け隔てられていくのであった。

 以上のような変化が起こったのと同時に、かつて素晴らしい哲学的情熱として称賛されていた驚異の念は、無知や無教養の印とみなされるようになった。驚異は、哲学的エリートの情熱というよりも、卑しい大衆の感情として理解されるようになったのである。また、かつて色欲(lust)や高慢(pride)として罵られた好奇心は、公平無私でひたむきなナチュラリストの象徴だと考えられるようになった。好奇心は、色欲や高慢というよりは、物欲(avarice)や強欲(greed)に近いものだとみなされるようになったのである。こうした変化は、自然哲学者たちの研究の対象や手法に影響を及ぼした。

 本章では、驚異と好奇心に関する以上のような変化について論じる。最初に、17世紀に好奇心が色欲の類から強欲の類に変容し、それが好奇心の対象をも変えたことについて説明する。次に、17世紀半ばに驚異と好奇心が自然哲学的な探究の心理において合流したことを説明する。最後に、18世紀前半に驚異が主要な哲学的情熱の座から降格し、一方で好奇心は軽薄さの印から有徳さの証に昇格し、両者が分岐したことについて説明する。


● むさぼる好奇心

 西洋の哲学的伝統において、驚異と好奇心はほとんど2000年にわたって中立もしくは反対の関係にあった。アリストテレスやその注釈者たちにおいて、驚異(thauma)は哲学的探究の始まりであったが、その探究は好奇心(periergia)とは無関係だった。第3章でみたように、アウグスティヌスは驚異を神に対する謙虚さの表現として称賛した一方で、好奇心は色欲や食欲に関連付けて酷評した。アウグスティヌスの議論は長きに渡って大きな影響力をもち続けたが、初期近代になると、旅行者や自然研究者のあいだで好奇心を好ましく見る向きも出てきた。

 初期近代における好奇心は、アウグスティヌスにおける好奇心と大きく違っている。二つの重要な違いがあり、一つ目は色欲から強欲に移行したこと、二つ目は驚異と関連付けられたことである。

 17世紀に好奇心を論じた人物で、アウグスティヌスに比肩しうる名声をもっていたのはホッブズである。ホッブズは、人間を野獣から区別するものは好奇心だと主張し、好奇心を擁護した。ホッブズは、色欲や食欲といった身体的な欲求は満たされれば止むのに対して、好奇心は止むことがないという違いを強調した。このような特徴付けは、好奇心を努力に結びつけた。マラン・メルセンヌも、学者の生活を好奇心に基づいた休みなき探究として捉えた。こうした理解は、好奇心を色欲や食欲というよりも物欲や強欲に接近させた。

 初期近代の好奇心は、贅沢さと関係が深い。メルセンヌは、好奇心は日常生活に不要なものであると考えて、これを贅沢品とみなした。17世紀後半においては、特にフランスで、「好奇心をそそる」ということは「役に立つ」ということとまったく反対の意味だと考えられた。好奇心の無駄さは、アウグスティヌスの伝統では非難の対象であったが、今やその役に立たないということこそが、公平無私であるとして称賛されるようになった。


● 驚異と好奇心がむすびつく

 17世紀半ばにおいて、新しいもの、珍しいもの、普通でないものへの愛着が、好奇心を驚異に結び付けた。だが、この時代の驚異は、アリストテレス的な自然哲学における驚異ではない。アリストテレスの驚異が普遍的なものに関心を向けていたのに対して、この時代の驚異は個物に関心を向けている。

 17世紀の自然哲学者たちのなかで驚異と好奇心が結合したのには理由があった。驚異が注意を引き、好奇心がそれを固定するという役割分担があったのである。さまざまな燐光体についてのボイルの研究の例が示すように、この時代の自然哲学者たちは個物にこだわり、その詳細を大事にした。退屈になったり気が散ったりしても観察対象を見続けるためには、好奇心の働きが必要であった。好奇心が注意を引き続けることで、正確で厳密な調査ができた。

 一方、真実を追究するという目標があっても、驚異の念なしでは対象に注意を向けることは困難であった。フックがどこにでもいるようなハエの観察に関心を抱くためには、顕微鏡でハエを拡大し、驚異を感じなければならなかった。好奇心を刺激するためには驚異が必要だったのである。だが、それと引き換えに観察の対象や方法は制限を受けることになった。

2017年3月23日

古代ギリシアの分割の哲学 Wilkins, Species: A History of the Idea, pp. 9–27.

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. 9–27.

第1章 古典時代――分割による科学


 受け入れられた見方では、種概念の歴史は生物学以前の歴史と生物学以降の歴史に分けられるということになっている。しかし実際には、二つの歴史はかなりオーバーラップしている。それゆえ、我々はむしろ、万物の分類に適用された種概念の歴史と、生物だけに適用された種概念の歴史というふうに分けて考えるべきである。実際、種概念を鉱物にも適用したリンネ(1707–1778)も、生物の場合には鉱物の場合とは少し異なる使用法をしていた。普遍的分類学のリサーチプログラムは、プラトンからロックに至る哲学的伝統であり、そこでは種は本質や定義によって区別されるカテゴリーであった。そして、自然史から生物学が発展したのに伴って、この普遍的分類学の伝統から生じた生物学的分類学のリサーチプログラムが発展していった。

術語と伝統
 ラテン語のspecies、genusは古典ギリシャ語のeidos、genosの翻訳である。そのほか、重要な術語の対応表をp. 11に示した。しかし、これらの術語も歴史のなかで様々な異なった用い方をされてきたことを忘れてはならない。

プラトンのdiairesis
 プラトンは『ソピステス』のなかで、魚釣り術(angling)を例に、diairesis(分割、二分法)として知られる分割の方法を示した(p. 14)。この分割の方法は明らかに恣意的なものである。なお、プラトンは、自然のものについての分類と人工的なものについての分類を区別していない。生物学にプラトンの直接的な影響があらわれるのは17世紀のことであるが、間接的にはもっと早くからあらわれていた。

アリストテレス――分割、genus、species 
 アリストテレスは、genos(genus、類)、eidos(species、種)、diaphora(differentia、種差)という概念を用いた。種は、類と種差によって定められる。このとき、種差は類の定義とは異なる事柄であり、ある類に属するすべての種はその類の定義を満たしている。これらの概念が用いられる対象は生物に限らなかった。
 アリストテレスはプラトンの分割という考え方を拒絶したわけではなかったが、二分法的分類の問題点を指摘した。具体的には、否定による(privative)カテゴリーを拒否し、一つの類を三つ以上の種に分けることを受け入れた。
 しばしば、アリストテレスの分類はすべて絶対的な定義や本質によってなされているといわれる。しかし実際には、生物の器官や特徴については過剰であったり不足していたりすることがあると認めている。また、生物については種差が類と同じ特徴になり得ることも認めている。
 また、アリストテレスのgenosやeidosといった言葉の使い方は、論理学的な著作と生物を扱った著作で一貫していないともいわれてきた。これは、アリストテレスが生物学の文脈でeidosという言葉を用いたと考えるから一貫していないように見えるのである。実際には、アリストテレスは生物学的分類をつくろうとしていたのではなかった。『動物誌』においても、彼は一般的分類をつくっていたのであって、動物は彼がその方法を適用した一つの領域に過ぎなかった。

テオフラストスと自然種
 最初の植物体系学者ともいえるテオフラストス(紀元前370–285)は、アレクサンドロス大王の征服地からギリシャにもたらされた大量の植物標本に対し、アリストテレスの分類の考え方を適用した。特に、植物の種類のそれぞれについて、その本質を解剖学的特徴に基づいて見つけようとした。

エピクロス主義と発生的概念
 原子論者、特にルクレティウス(紀元前99–55)をはじめとするエピクロス主義者たちは、アリストテレス・プラトン的な伝統とは異なる説明をした。種を物質に押しつけられた型だとみなしたアリストテレスと違って、エピクロス主義者たちは物質の性質から生じた型だと考えた。アリストテレスが物質を柔軟なものとみなしたのに対し、エピクロス主義者たちは、物質はそれが形作るものを決定するとみなした。ここには、種の発生的概念(generative conception of species)のようなものが見出だせる。

「ペイリーが生物の起源に関する問いを提起した」というのは神話

Adam R. Shapiro, “Myth 8: That William Paley Raised Scientific Questions about Biological Origins That Were Eventually Answered by Charles Darwin,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 67–73.

神話8「ウィリアム・ペイリーは、ゆくゆくはダーウィンが回答することになる、生物学的起源に関する科学的な問いを提起した」

リチャード・ドーキンスと、ID説の支持者であるマイケル・ベーエは、もちろん進化に関して全く反対の意見を持っているが、ダーウィンの『種の起源』(1859)がペイリーの『自然神学』(1802)を否定したということに関しては共通の理解を示している。ペイリーは複雑な構造をもつ生物の器官の起源を説明しようとして、創造主がいるという結論に至ったが、この議論はダーウィンによって異議を唱えられることになったというのである。

しかしこのような理解はいくつかのレベルで間違っている。まず、ペイリーの議論は生物学的な起源に関する科学的な議論ではなく、神学的な議論であった。そして、ダーウィンはペイリーの議論に納得しなかったものの、彼の目標はそれを否定することではなかった。

『自然神学』の冒頭でペイリーは、もしもある人が野原で石を見かけたら、その石はずっとそこにあったと考えるかもしれないという。ここでいう「ずっと」は、永遠にという意味である。ペイリーが『自然神学』を書いた当時、天文学者たちや地質学者たちは、宇宙には始まりもないし終わりもないという考え方を真剣に検討していた。また、この考え方は何世紀にもわたってキリスト教神学の議論の的であった。

ペイリーは次に、時計を見かけた場合に我々がどのように反応するかについて論じる。ここでも、その時計がどのようにして初めに現れたかが問題なのではなく、時計が今まさに目的を持っているということが問題となる。時計と同様に生物の諸器官も、自然法則を利用している(自然法則に適応している)ように見える。こうしたものが世界に適応しているというまさにそのことが、ペイリーにデザイナーの存在を結論づけさせたのである。

ペイリー自身は世界には始まりがあると考えていたが、それを当然の前提にはしたくなかった。そこで、永遠の世界にも適用できるような議論に留めたのである。

ペイリーの目標は、世界を目的で満たしたデザイナーの存在を単に示すということではなく、そのデザイナーがどのような存在であるかという神学的な問いに答えることであった。ペイリーによれば、自然法則はどこにでも同じ仕方で適用されるので、デザイナーは一人でありそのデザイナーは遍在する(すなわち神である)という。また、宇宙には不要な苦痛がなく、喜びの経験はそれ自体が目的となっているように思われるために、神は善なるものであるという。さらに、この世界は我々が研究によって神の証拠を探求できるようにできているので、神はすべての人々に自身を理解してほしいと望んでいるのだという。

自然では説明できないものの存在を示すことで神の存在を証明するという方法もあったが、ペイリーはそうしなかった。それは、そのような証明方法が私的な知識に訴えることを促し、聖書の解釈についての宗教的対立を正当化してしまうことを恐れていたからである。ペイリーは、自然の観察に基づく公的な知識こそが合意への最良の道だと考え、自然を神学の立脚点にしようとした。

ペイリーの考えでは、最良の社会とは、人々がそれぞれに神から与えられた、生まれながらの性向に従う保守的な社会であった。こうした性向は遺伝的であると考えられた。

ペイリーにとって、自然は神が道徳を示したものであった。生物の諸器官や、異なる生物種のあいだの関係性に訴えることで、ペイリーは神の道徳法則に関する主張をした。ペイリーは自然を説明するために神に訴えたのではなく、神を説明するために自然に訴えたのである。

1830年代にはすでに、ペイリーの議論の紹介のされ方は変わっていた。1836年に出版された『自然神学』の注釈版では、地質学的な知見からすると石が永遠に存在するということはもはや考えられないという注釈が付け加えられた。この時代の読者にとって、始まりの存在はすでに前提となっており、始まり以降にどのような変化が起こってきたのかがリアルな問題となっていた。

ダーウィンは、ペイリーの議論を種の起源に関する科学的議論とはみなさなかったし、それを否定しようともしなかった。『種の起源』のなかでペイリーに言及した唯一の箇所において、ダーウィンはペイリーに賛成している。この箇所でダーウィンは、不要な苦痛をもたらすための器官はないというペイリーの議論を参照して、自然選択が生物に対して悪よりもむしろ善をなすということを論じていた。

2017年3月4日

「進化=突然変異+自然選択」というのは神話 Depew, “Myth 20”

David J. Depew, “Myth 20: That Neo-Darwinism Defines Evolution as Random Mutation Plus Natural Selection,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 164–170.

神話20「ネオ・ダーウィニズムは進化を“ランダムな突然変異+自然選択”として定義する」


1940年代以来、専門的な進化研究は「ネオ・ダーウィニズム」(もしくは進化の現代的総合説)と呼ばれる原理によって導かれてきた。この原理は、メンデル遺伝学とダーウィンの自然選択が融合して生じている。それゆえ、ネオ・ダーウィニズムをランダムな遺伝的変異と自然選択として要約するのは自然であるように感じるかもしれない。しかし、これは適切な要約ではないのである。

歴史を振り返ってみるとこのことがよくわかる。ネオ・ダーウィニズムを生んだのは、生殖系列の要素だけが遺伝するということを示した発生学者のヴァイスマン(August Weismann, 1834–1914)であった。ネオ・ダーウィニズムはダーウィンと異なり、自然選択だけで生物の適応を説明する。1900年における「メンデルの再発見」は、このネオ・ダーウィニズムを支持しただろうと思われるかもしれないが、実際にはそうではなかった。ベイトソン、ド・フリース、ヨハンセンといった初期のメンデル主義者たちは、最初から適応的であるような一跳びの不連続的な突然変異を進化の創造力の源とみなした。だが、それに対してネオ・ダーウィニストたちは、そのような一跳びの突然変異は生物の適応性を破壊してしまうと反論した(これは正しい反論であった)。そのため、遺伝学が突然変異と自然選択の統合を支持するのには数十年がかかったのである。

では、進化の創造力はどこから来るのだろうか。実際には、自然選択は他の要因と組み合わさることで革新的な働きをするのである。遺伝子流動、遺伝的浮動、減数分裂における乗換え、そういった要因との組合せが重要となる。進化とは「突然変異+選択」であるといったような単純な図式化は、進化論に反対するID説論者などによってしばしば利用されるのである。


【コメント】

この章は、科学の歴史に関する議論というよりも、進化論批判に反論する目的で書かれた、科学そのものに関する議論という印象が強い。タイトルが現在形になっているのも、その内容を反映しているといえるだろう。

だが、総合説において「進化=突然変異+自然選択」という図式が乗り越えられたというのはたしかである。自分の研究に引きつけて言えば、ジュリアン・ハクスリーは、「総合説」を象徴する著作である『進化――現代的総合』(1942)において、突然変異と選択だけで進化を説明できるという議論を明確に否定し、「突然変異→組換え→選択」という図式で進化を規定している。進化は、突然変異が現れてそれが生存と繁殖に有利であれば集団内に広まる、という単純なプロセスの繰り返しなのではない。たしかに究極的な変異の源は突然変異であるが、それが生じたときからいきなり生存や繁殖に有利であるというようなことはほとんどない。だから重要なのは、生物の集団が常に豊富な変異を保持しているということであり、有性生殖を含むさまざまな遺伝的メカニズムや集団の流動などによって新しい遺伝子の組合せがつくられる動的な状態が保たれているということである。こうした組換えのプロセスによって新しい遺伝子の組合せが大量に試され、そのなかで生存や繁殖において有利となった組合せが、選択によって広まっていく。自然選択の素材は、組換えを通して提供されるのである。このような理解は20世紀半ば以降の進化学で普及していった。

しかし、1930年代の段階では総合説においても組換えの重要性がよく認識されていなかったということが、マイアによって指摘されている。たとえばドブジャンスキーは『遺伝学と種の起源』(1937)において、突然変異と組換えは二者択一である(それゆえ後者を排して前者を採用する)かのような書き方をしていた。

ではハクスリーは、先述のような理解をどこから得ていたのだろうか。「自然選択」の起源はダーウィンやウォレスに、「突然変異」の起源はド・フリースやモーガンに求めることができるであろうが、「組換え」の起源はどこに求められるのだろうか。ハクスリーが組換えの重要性を説いた『進化――現代的総合』の第4章において、理論的なバックボーンとなったのは、「遺伝的システム」という概念を活用した英国の細胞学者ダーリントンの議論であった。さらに歴史を遡れば、ダーリントンが影響を受けた人物の一人に、交雑説を唱えたオランダの植物学者ロッツィがいる。遺伝子の組合せの変化によって豊富な変異が生じるということに早くから気付いていたのは、ロッツィのようなメンデル主義者だったのではないだろうか。

2017年2月27日

「自然選択以外に種の起源の科学的説明はなかった」というのは神話 Rupke, “Myth 13”

Nicolaas Rupke, “Myth 13: That Darwinian Natural Selection Has Been “the Only Game in Town,”” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 103–111.

神話13「ダーウィンの自然選択は“唯一の選択肢”だった」

ドーキンスに代表される多くの論者たちが、宗教的な種の個別創造説を除けば、自然選択に基づくダーウィンの進化論が採用可能な唯一の選択肢であるかのような議論をしてきた。しかし、進化論をダーウィンの理論と同一視できるというのは神話である。この神話は、構造主義 structuralism(あるいは形態主義 formalism、筆者独自の概念?)の進化論の伝統を無視している。たとえば、この神話から生じている代表的な誤解として、オーエン(1804–1892, ロンドン自然史博物館の設立者)が創造論者だというよく広まった認識がある。実際には、オーエンはダーウィン主義者ではなかったが、進化論者ではあった。構造主義的進化論は、『種の起源』(1859)以前にも以後にも根強く存在した。

構造主義の進化論では、生命の起源や多様な形態の起源は、機械論的であり物理的もしくは化学的な力の作用に帰される。構造主義の伝統は18世紀後半に始まり、自然発生というプロセスを通じて、生命の進化の歴史と、地球・太陽系・銀河・元素の進化の歴史を接続する議論がなされた。宇宙の歴史は、自然法則にしたがう物質の複雑化の過程として描かれ、生命の起源や種の起源は分子的な力に駆動されたプロセスとして理解された。こうした考え方を示した代表的な著作として、フンボルト(1769–1859)の『コスモス』(1845–1862)や、チェンバース(1802–1871)の『創造の自然史の痕跡』(1844)がある。また、生物の形態を説明するのには結晶学が持ち出された。ヘッケル(1834–1919)に代表される学者たちは、生物の形態を数学的に説明できることに注目した。ほかにも、ブルーメンバッハ(1752–1840)やオーケン(1779–1851)、トレヴィラヌス(1776–1837)、ゲーテ(1749–1832)といった人々が構造主義者であった。

では、なぜ構造主義的進化論は忘れ去られて、ダーウィニズムが唯一の進化論であるという理解が浸透したのだろうか。その原因は、構造主義者のほとんどがドイツ人だったことにあると考えられる。ナチス時代には、ゲーテやフンボルトといったドイツのロマン主義や観念論がもてはやされた。第二次大戦後、構造主義的進化論はナチスのイメージと結び付いてしまったことで衰退した。逆に、ダーウィニズムは戦後のドイツにおいて、ナチスのイメージを拭うために好まれたのである。さらには、マイアの『生物学思想の発展』(1982)に代表される、ダーウィン産業の研究がダーウィニズムの存在感をより高めていった。

【コメント】
進化論史の全てがダーウィン(とその「先駆者」)から始まっているかのような歴史記述はおかしい、というのは真っ当な指摘だろう。進化論の歴史はしばしば、ダーウィンの時代には種の起源に関する理論は宗教的なものしか存在していなかったかのように説明されてきた。このような事態は、ダーウィン本人やダーウィンを英雄視した人々の言い分を鵜呑みにした英語圏中心のヒストリオグラフィーから生じている。英語圏の外に目を向ければ、同時代にもダーウィンとはまったく異なるタイプの非宗教的進化論が存在していた。「進化論=ダーウィン」という思い込みのために、交雑による新種の形成を実証しようとしていたメンデルさえもダーウィン主義者だと誤解されてきた。

しかし、本章における筆者の「構造主義(形態主義)的伝統」という概念が何を指しているのかは、いまいちよくわからなかった。この章で挙げられているような人々のあいだの影響関係も明らかにされていない。彼らをこの言葉で一括りにするのは果たして適切なのだろうか。
 

2017年2月16日

「ラマルクの進化論は主に用不用の遺伝」というのは神話 Burkhardt, “Myth 10”

Richard W. Burkhardt Jr., “Myth 10: That Lamarckian Evolution Relied Largely on Use and Disuse and That Darwin Rejected Lamarckian Mechanisms,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 80–87.

神話10「ラマルクの進化は主として用不用に基づいていた。また、ダーウィンはこのラマルクのメカニズムを拒絶した」


生物学の教科書においてラマルク(1744–1829)とダーウィン(1809–1882)の進化論が比較されるとき、ラマルクの理論において主要なメカニズムは獲得形質の遺伝(inheritance of acquired characters)であり、ダーウィンはこれを拒絶して代わりに自然選択を唱えたのであるかのように記述されている。しかし、これらは正しくない。獲得形質の遺伝、すなわち用不用の遺伝的影響は、ラマルクの理論における生物の変化の主要な要因ではなかったし、ダーウィンは用不用の影響の遺伝を固く信じていた。

ラマルクはパリ自然史博物館で無脊椎動物を担当する教授となり、それらを分類するうちに、外的形態よりも内部器官に注目するべきだと考えるようになった。そして内部器官によって区分した分類群は、複雑性が高まっていくひとつながりの系列として整理できることに気づいた。ラマルクは『無脊椎動物誌』(1801)において、多様な動物が存在することの「二つのまったく異なった原因」に言及する。「第一の主要な原因」は、動物を前進的に複雑化させる生命力であり、第二の原因は、多様な環境によって生じる用不用の違いであった。ラマルクは『動物哲学』(1809)において、第二の原因を二つの法則によって定式化しているが、これはしばしばラマルクの理論全体を表現したものとして誤解されている。

ラマルクは獲得形質の遺伝を自分が考えたとも主張していないし、それを実験的に示そうともしていない。用不用の遺伝という考え方は、ラマルクの時代においては当たり前のこととされていたのである。

ダーウィンは、進化の最も主要な要因は自然選択であると考えていたが、獲得形質の遺伝も副次的な要因として固く信じていた。たとえば、家禽化されたアヒルが野生のカモに比べて小さな羽と大きな足の骨をもっていることや、洞窟に住んでいる動物が視力をもっていないことは、用不用の遺伝に帰された。そしてダーウィンは、『家畜と栽培植物の変異』(1868)においてパンゲン説を提唱し、獲得形質の遺伝をもたらす具体的なメカニズムを説明した。だが、ダーウィンはいつもラマルクの理論から距離をとるようにしていた。ダーウィンが用不用の遺伝とラマルクの名前を結び付けたのは、用不用の遺伝では説明できないが自然選択であれば説明できる例を持ち出してラマルクを批判したときだけであった。

【コメント】
(1) ラマルクが用いていた言葉は「獲得形質の遺伝」ではなく「獲得物の転移」。「形質 character」および「遺伝 inheritance」という観念は、ラマルクの時代の生物学にはまだ明確な形で存在しなかった。ラマルクには「適応 adaptation」の概念もない。

(2) 表題の神話がいかにして生まれたのか、という問題はこの章でほとんど扱われていない。ヴァイスマン(1834–1914)が1880年代に生殖質連続説を唱えたことで、はじめて「獲得形質の遺伝」が問題となった(バルテルミ=マドール『ラマルクと進化論』第4章)。

(3) この章は用不用の遺伝の問題に焦点を絞っているが、よくいわれる「ラマルクが進化論の先駆者」という捉え方自体、神話めいたところがあるのではないか。ダーウィンの進化論とラマルクの変移説はまったく異なる。ダーウィンの進化論は(ラマルクよりもむしろ)キュヴィエ(1769–1832)に多くを負っているというフーコーの議論(「生物学史におけるキュヴィエの位置」、『思考集成III』収録)も示唆に富んでいる。

2017年2月14日

「激変主義者と斉一主義者の対立」というのは神話 Newell, “Myth 9”

Julie Newell, “Myth 9: That Nineteenth-Century Geologists Were Divided into Opposing Camps of Catastrophists and Uniformitarians,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 74–79.

神話9「19世紀の地質学者たちは、激変主義者と斉一主義者という対立する二つの陣営に分かれていた」

地質学における論争を説明する方法として、その論争の参加者たちを対立する二つの陣営に分けるやり方が好まれてきた。だがこのような方法ではしばしば、参加者たちの考え方が誤解されたり極度に単純化されたりしている。

18世紀におけるヴェルナー主義者とハットン主義者の対立という説明もその一例である。この説明では、前者はヴェルナー(Abraham Gottlob Werner, 1749–1817)の、岩層は海洋における沈殿物によって形成されたという主張に賛成し、後者はハットン(James Hutton, 1726–1797)の、岩層は地下の火によって形成されたという主張に賛成していたということになっている(水成説論者 Neptunists と火成説論者 Vulcanists)。だが、実際のヴェルナーやハットンの考え方はこのように単純化できるものではないし、ヴェルナー主義者やハットン主義者とみなされてきた人々は、実際には各理論における地層形成の説明よりも実践的有用性に興味をもっていた。

ハットンの中心的概念のうち、三つのものが後の地質学に深い影響を与えた。第一に、地質学的な変化は現在観察できるメカニズム(現在因 actual cause)で説明されなければならないという「現在主義 actualism」、第二に、地質学的説明は現在観察されるのと同じ速度の変化に限られるという「漸進主義 gradualism」、第三に、現在主義と漸進主義に基づいて地質学的記録を説明するのに必要となる膨大な長さの「時間」である。

これらの考え方はすべて、ライエル(Charles Lyell, 1797–1875)の『地質学原理』(1831)において中心的な役割を果たした。ライエルは、過去の地質学的変化はすべて、今日の世界で観察されるのと同じ種類かつ同じ度合のプロセスで説明されると主張した。ライエルはレトリックを駆使して、現在主義と漸進主義を「斉一性 uniformity」という概念に一体化させた。

1832年、『地質学原理』に対する書評でヒューウェル(William Whewell, 1794–1866)は「斉一主義者 uniformitalians」と「激変主義者 catastrophists」という分類を導入した。ここでは激変主義者は、地史のなかで地質学的変化が異なる速度で進んできたことを主張する人たち(=現在主義ではなく漸進主義の反対者)とされていた。現在主義そのものを否定する人はほとんどいなかったのである。一方、ライエルに好意的だったヒューウェルやコニベア(William Daniel Conybeare, 1787–1857)も、ライエルの漸進主義を批判していた。つまり実際のところ、「激変主義者」とみなされてきた人々と、「斉一主義者」とみなされてきた人々は、多くの点において一致した意見をもっていたのである。

斉一主義をライエルや「科学」と同一視し、激変主義を宗教的信仰に基づいた反ライエル的な立場とみなす見方は、ライエルの批判者たちを極度に単純化し、誤解している。実際の対立は、科学と宗教のあいだで起こっていたのではなかった。

【コメント】
付け加えていえば、ハットンやライエルの議論できわめて重要な要素として「定常主義」(=地史には方向性がない!)がある。ライエルの巧妙さは、定常主義(世界観に関する主張)と現在主義(科学的方法論に関する主張)をうまく組み合わせたところにある。筆者のいう漸進主義は、現在主義を地質学的プロセスの種類だけでなく度合にも適用したものであり、「強い現在主義」と捉えることもできる。ライエルの批判者たちは「方向主義(=地史には方向性がある!)」の立場をとっていて、ライエルの定常主義と強い現在主義をどちらも批判していた。
 

「メンデルは孤独な遺伝学の先駆者」というのは神話 Kampourakis, “Myth 16”

Kostas Kampourakis, “Myth 16: That Gregor Mendel Was a Lonely Pioneer of Genetics, Being ahead of His Time,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 129–138.

神話16「グレゴール・メンデルは時代を先取りした、孤独な遺伝学の先駆者だった」

現代の遺伝学の知識をもっている我々は、しばしばメンデルの論文に過剰なものを読み込んでしまう。メンデルは遺伝因子についてではなく、形質について表記しているという点に注意する必要がある。厳密に言えば、メンデルは「分離の法則」も「独立の法則」も発見していない。さらに言えば、遺伝が粒子的であることも発見していない。

メンデルは遺伝の一般理論ではなく、異種交雑で新種は生まれるのかという問題に取り組んでいた。当時、遺伝のメカニズムは生物学の中心的な問題の一つであり、ダーウィン、スペンサー、ゴルトン、ネーゲリ、ヴァイスマン、ド・フリースといった人々が取り組んでいたが、メンデルはこのようなグループの外部にいた。実際、メンデルの論文に「遺伝」という言葉は一度もあらわれていない。

1900年以降におけるメンデル論文の急速な受容は、新しい概念的枠組みが発見された結果である。ゴルトンとヴァイスマンがハードな遺伝という考え方をつくり上げており、また細胞学者たちが形質の発現に関係する粒子が細胞内にあるという見方を支持する証拠を提供していた。

メンデルを英雄視する見方は、実際の歴史を歪めているだけでなく、科学が一般的にどのようになされるかという理解をも歪めている。
また、メンデルの実験はブルノの農業的・社会経済的文脈と関係していた。科学的な問いは、理論的というよりも経済的・技術的な要求から生じることも多いのである。

種概念の本質主義物語を覆す Wilkins, Species: A History of the Idea, Preface & Prologue

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. vii–xii; 1–8.


● Preface

この本の主要な標的は、過去50年間にわたって科学者たちによって築き上げられてきた本質主義(essentialism)の物語である。哲学者は歴史を書くことを好まないし(好むとすれば合理的再構成のようなもの)、歴史家はインテレクチュアル・ヒストリーを書くことを好まないのだが、哲学者も歴史家も書かなければ科学者が書いてしまうのである。本質主義物語を普及させたのは、主にエルンスト・マイア(Ernst Mayr, 1904–2005)であった。

種概念の歴史がとりわけ重要であるのには理由がある。一般的に言って、科学者たちは分野によって異なる距離で「転がってくる霧の壁(rolling wall of fog)」に追われている。たとえば医学生物学(medical biology)であれば、壁との距離は約5年であり、それ以上前の業績は参照されなくなる。しかし分類学は特異な分野であり、壁との距離が例外的に長い。それゆえ、「種とは何か」という問いは歴史的な性格を帯びるのである。

本質主義物語によれば、生物学的分類群については二種類の基本的な考え方がある。一つ目の立場はプラトンおよびアリストテレスに由来し、それによると、あるタイプに属するメンバーは特定の必要十分な形質のセットをもっていることによって定義されるのであり、それらの形質は固定されていて変化することがない。この考え方は、本質主義、類型学的思考(typological thinking)、形態学的思考(morphological thinking)、固定主義(fixism)などと呼ばれている。もう一方の立場では、分類群は変わり得る形質をもった生物の集団であり、その集団はべつの分類群に変容することもある。この立場は集団思考(population thinking)と呼ばれる。

だが、本質主義物語は間違っている。私はこの誤りを、概念史(conceptual history)の方法によって解消したい。私の主張は三点にまとめられる。第一に、本質主義物語は論理的伝統についての誤読に基づいている。論理的種の形相的定義と生物種の質料的形質のあいだには、アリストテレス以来ずっと明確な線引きがされていた。第二に、いつであれ生物種は発生力(generative power)を含むものとして理解されていた。種に関する現在の考え方も、この長い伝統のなかにある。第三に、種の固定性、本質、タイプは、互いに分離された異なる概念である。なお、本質主義が生物学の哲学で攻撃対象となった背景には、ポパーによる方法論的本質主義批判があったと考えられる。


● Prologue

受け入れられた見方


生物学者たちのあいだで受け入れられてきた本質主義物語を代表する論者として、古生物学者のシンプソン(George Gaylord Simpson, 1902–1984)、マイア、生物学哲学者のハル(David Hull, 1935–2010)を挙げることができる。彼らは共通して、以下のような物語を描いている。プラトンはイデア(form)あるいは種(eidos)を、本質をもつものとして定義した。アリストテレスはこれを引き継いで、類(genos)の本質をすべての種が共有するように類を種に分ける方法をつくり上げた。これに基づいて、リンネは種を一定不変で本質主義的なタイプにした。ダーウィンはこの本質主義を乗り越えた。以降のナチュラリストたちは、遺伝学の影響下で生物学的種概念を発見し、種は本質ではなく祖先を共有する集団となった。集団思考は、本質主義に取って代わってきた。

受け入れられた見方の不十分さ

受け入れられた見方はまったく間違っている。実際には、生物種に関する哲学的論点で近代に問題となったものはどれも、アリストテレスからリンネに至る2000年のあいだに既に現れていた。18世紀以降、種概念に関して本当に新しい概念的要素はほとんど登場していない。また、受け入れられた見方では、普遍論争や大いなる存在の連鎖(Great Chain of Being)が無視されている。類型学と本質主義も結びついていたわけではなく、類型学は様々な点でマイアの集団思考と一致していた。

2017年1月12日

アガシーの氷河説はいかなる試みだったか/氷河説の受容はなぜ遅れたのか  Rudwick, “The Glacial Theory”

Martin J. S. Rudwick, “The Glacial Theory,” in The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution (Aldershot: Ashgate, 2004).
※ アガシー『氷河に関する研究』(1840)の英訳(1967)に対する書評。1970年発表。

 アガシーの氷河説の重要性は、今なお十分に認識されていない。その原因の一つは、地質学史家たちがライエルの引いた分断にいまだに洗脳され続けており、その分断のもとでは氷河説は「斉一説」と「激変説」のどちらにもしっくり収まらないことにある。こういった用語は、歴史的分析の道具としては放棄すべきである。
 英訳版に前書きを書いたCarozzi教授は、氷河の作用は斉一説の立派な実例であり証拠も十分だったのにもかかわらず、フンボルトやフォン・ブーフやエリ・ド・ボーモンのような地質学者たちが強硬に反対したのは不思議だと述べている。実際、「氷河期」理論の完全な受容には、アガシー『氷河に関する研究』(1840)の出版後20~30年がかかっている。
 この問題に答えるためには、まず斉一説という用語を明確にする必要がある。ホーイカース教授が指摘したように、斉一説は、地質学的研究の方法としての現在主義と、地史は定常的パターンを維持してきたという科学理論(本来の意味での斉一説)に分解することができる。Carozzi教授のいう「斉一説」とは、前者の現在主義のことを指している。実際、ライエルを含む多くの地質学者たちが、アガシーの現在主義的研究に対しては好意的であった。それにもかかわらず彼らは、アガシーの結論を受け入れようとはしなかったのである。

 Carozzi教授は、氷河説の受容の遅れの原因を、巨大な洪水によって巨礫が移動したという古い信念が一般の人々や科学者たちのなかに深く植え付けられていたという点に求めている。ここで注意しておくべきなのは、洪水説について考えるときには、ライエルによるバイアスのかかった記述を乗り越える必要があるということだ。たとえば、聖書の洪水を地質学的洪水と同一視したバックランドを典型的な洪水論者とみなすのは、イングランドに偏った視点である。バックランドは、地質学的洪水を認めていた人々からさえも、広く批判されていた。また、1820年代頃からは大洪水も局地的であり複数回起こった出来事だと考えられるようになっていた。
 1830年代において洪水説は、科学的地位が高く説明力のある学説であった。大洪水は厳密な意味での現在因ではないが、現代において観察できる現象の度合を強めたものであり、多くの地質学者が採用していた穏健な現在主義とは矛盾しなかった。大洪水の原因も、1830年代にはエリ・ド・ボーモンの理論における山の隆起によって説明されていた。洪水説との対立は、たしかに氷河説の受容が遅れた原因を部分的には説明する。

 だが筆者は、より重要な原因は、(シャルパンティエが自ら述べていたように)当時の定向主義的総合の気運との対立にあったと考える。この総合は、当時の地質学の状況を説明したライエルの説得力ある解釈のために現在ではその存在が見えにくくなっているが、ビュフォンが普及しフーリエが正当化した地球の冷却という考え方を中心にして、地質学から生物学までの成果をまとめ上げようとするものであった。この気運は、ライエルの登場によっても衰えなかった。氷河説は最近の歴史よりもずっと寒い時代を想定するために、定向主義的総合と矛盾せざるを得なかった。

 アガシーは当初シャルパンティエの論文に懐疑的であり、1836年に転向するものの、あくまでアルプスにある迷子石に関してシャルパンティエの見方に同意したに過ぎなかった。アガシーは、ジュラ山脈の迷子石に関してはシャルパンティエとは異なる説明をした。氷河ではなく、巨大な静止した氷床が存在していたと考えたのである。これは何故だろうか。
 ここで念頭に置いておかなければならないのは、アガシーは化石魚類の研究をしていたのであり、地質学と生物学の総合という、この時代に特徴的な目標をもっていたということである。アガシーはキュヴィエの影響を強く受けていたので、過去の動物たちはいずれも住んでいた環境によく適応していたが、なんらかの原因で絶滅したと考える。もし単に氷河が少しずつ拡大していったのであれば、動物たちは南へ移住できたはずなので、絶滅が説明できない。グローバルな規模での突然の氷河期の到来が必要だったのである。そして気温上昇によって氷河期が終わると、新たな環境が出現し、そこに適した動物が現れると考えた。
 しかしアガシーは、自らの説を地球の冷却という理論とも調停しようとしていた。そのためにアガシーが考えだしたのが、気温は氷河期が到来すると急激に下がり、その終わりと共に上昇するが、もとの水準にまでは戻らないというモデルである(図 p.150)。

 バックランドが氷河説に転向したのは驚くべきことではない。バックランドはアガシーと同様、洪積世の動物の絶滅を説明する激烈なメカニズムを求めていたからである。
 バックランドはライエルが氷河説に転向したとアガシーに報告したが、これは楽観的な見方に過ぎていただろう。ライエルが現在主義的でないアガシーの巨大氷床の概念を受け入れたとは考えられないからである。ライエルは、現在因として認められる局地的な氷河については熱心に受け入れていた。しかし、定向主義者たちと同様に(ただし別の理由で)、大規模な気候変動を受け入れることはできなかったのである。
 非常にゆっくりとした「氷河期」の受容は、定向主義と斉一説のあいだにあった鋭い分断の変化を反映している。どちらも、元々想定していたよりも大規模で激烈な気候の変動を受け入れていかなければならなかったのである。

地質学、激動の時代の終わり Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 36

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 534-52.

Ch. 36 未来のために蓄える(1840–45)

36.1 更新世氷河期
アガシーが『氷河に関する研究』(1840)を出版した数か月後、シャルパンティエは『氷河に関する試論』(1841)を出版した。名声はアガシーに奪われたが、最終的に受け入れられた氷河説はシャルパンティエのほうに近かった。ダーウィンは1842年に北ウェールズの丘を再訪し、以前見えなかったものが見えるようになったとして局地的な氷河説には納得した。この頃、北極と南極の探検が進み、報告や図像が届いたことは氷河説に有利に働いた。

36.2 フィリップスとグローバルな地史
地史を化石によって区分するプロジェクトを進めたのはフィリップスであった。フィリップスは1841年に、化石に基づいて古生代・中生代・新生代という三区分とその下位区分を提唱した。一方、カンブリア紀やシルル紀やデボン紀といった区分は、岩石に基づいており局地的なものに過ぎないとして拒否した。読者は、フィリップスの三区分を、人間の歴史における古代・中世・現代と平行関係にあるものとして理解した。

36.3 アガシーと生命の系譜学
生命の歴史に方向性があることはますます明確になっていた。ライエルはこれを疑い続けていたが、そのような立場をとっていたのはライエルと、せいぜいダーウィンぐらいであった。アガシーが描いた魚類の系譜図でも明らかになったように、生命は時代を下ると共に多様化し、「高等」なグループが出現しているように見えた。これは、ラマルクの理論とも調和しない認識であった。

36.4 ヒューウェルの歴史的・因果的な科学

新たに誕生した科学を定義するのは、外部の大学者の仕事であった。ヒューウェルは『帰納的諸科学の歴史』(1837)と『帰納的諸科学の哲学』(1840)を著し、地質学を「古物学(palaeontology)」と「原因学(aetiology)」の結合した学問(palaetiology)として表現した。このような造語は広まらなかったが、地質学の科学としての地位は確立された。

アガシーによる氷河説の提唱 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 35

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 517-33.

Ch. 35 スノーボールアース?(1835–40)


35.1 アガシーのアルプス山脈「氷河期」
迷子石に関する第四の説明は、アガシーによって提唱された。アガシーはシャルパンティエに氷河の痕跡を紹介され、また友人の植物学者であるシンパーの影響も受けて、「氷河期」の考えに至った。1837年、アガシーはスイス自然科学協会の会長講演でこれを説明した。アガシーは、アルプス山脈の氷河がジュラ山脈まで到達していたというシャルパンティエの主張を否定する一方で、アルプス山脈の隆起よりも先に北極から少なくとも地中海沿岸までが氷に覆い尽くされていた時代があったのだと主張した。この状況でアルプス山脈が隆起したことで、静止した氷床が傾き、迷子石がジュラ山脈の山麓まで滑ってきたのだという。その後、気温の上昇によって氷床は溶け、一部に動く氷河が残り、それもやがて後退していったというのがアガシーの説であった。

35.2 氷河期を拡張する
1838年、アガシーはこの理論を学会で繰り返し宣伝したが、納得する地質学者は少なかった。しかし、当初はアガシーを批判していたベルン大学地質学教授のシュトゥーダーは、アガシーに同行して氷河の擦痕を観察したことで転向する。ただし、シュトゥーダーは氷河が極めて広範囲に広がっていたことを想定しており、規模の点ではシャルパンティエと、氷の性質の点ではアガシーと意見を異にしていた。

35.3 英国における氷河期
1840年、アガシーは化石魚類の研究のために英国に渡り、同時に英国の地質学者たちを氷河説に転向させようと試みた。すでにアガシーの発表を直接聞いていてそれに納得し始めていたバックランドの案内でスコットランドを調査し、氷河の痕跡を多く見つけることができた。また、グレン・ロイについても氷河による説明を提供することができた。バックランドの説得により、当初反対していたライエルすらも氷河説に転向した。そしてロンドン地質学会では、アガシー、バックランド、ライエルが発表を行った。しかし、そこに参加していたマーチソン、グリーノウ、ヒューウェルを含め、多くの地質学者はなお懐疑的であった。