2017年1月12日

アガシーの氷河説はいかなる試みだったか/氷河説の受容はなぜ遅れたのか  Rudwick, “The Glacial Theory”

Martin J. S. Rudwick, “The Glacial Theory,” in The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution (Aldershot: Ashgate, 2004).
※ アガシー『氷河に関する研究』(1840)の英訳(1967)に対する書評。1970年発表。

 アガシーの氷河説の重要性は、今なお十分に認識されていない。その原因の一つは、地質学史家たちがライエルの引いた分断にいまだに洗脳され続けており、その分断のもとでは氷河説は「斉一説」と「激変説」のどちらにもしっくり収まらないことにある。こういった用語は、歴史的分析の道具としては放棄すべきである。
 英訳版に前書きを書いたCarozzi教授は、氷河の作用は斉一説の立派な実例であり証拠も十分だったのにもかかわらず、フンボルトやフォン・ブーフやエリ・ド・ボーモンのような地質学者たちが強硬に反対したのは不思議だと述べている。実際、「氷河期」理論の完全な受容には、アガシー『氷河に関する研究』(1840)の出版後20~30年がかかっている。
 この問題に答えるためには、まず斉一説という用語を明確にする必要がある。ホーイカース教授が指摘したように、斉一説は、地質学的研究の方法としての現在主義と、地史は定常的パターンを維持してきたという科学理論(本来の意味での斉一説)に分解することができる。Carozzi教授のいう「斉一説」とは、前者の現在主義のことを指している。実際、ライエルを含む多くの地質学者たちが、アガシーの現在主義的研究に対しては好意的であった。それにもかかわらず彼らは、アガシーの結論を受け入れようとはしなかったのである。

 Carozzi教授は、氷河説の受容の遅れの原因を、巨大な洪水によって巨礫が移動したという古い信念が一般の人々や科学者たちのなかに深く植え付けられていたという点に求めている。ここで注意しておくべきなのは、洪水説について考えるときには、ライエルによるバイアスのかかった記述を乗り越える必要があるということだ。たとえば、聖書の洪水を地質学的洪水と同一視したバックランドを典型的な洪水論者とみなすのは、イングランドに偏った視点である。バックランドは、地質学的洪水を認めていた人々からさえも、広く批判されていた。また、1820年代頃からは大洪水も局地的であり複数回起こった出来事だと考えられるようになっていた。
 1830年代において洪水説は、科学的地位が高く説明力のある学説であった。大洪水は厳密な意味での現在因ではないが、現代において観察できる現象の度合を強めたものであり、多くの地質学者が採用していた穏健な現在主義とは矛盾しなかった。大洪水の原因も、1830年代にはエリ・ド・ボーモンの理論における山の隆起によって説明されていた。洪水説との対立は、たしかに氷河説の受容が遅れた原因を部分的には説明する。

 だが筆者は、より重要な原因は、(シャルパンティエが自ら述べていたように)当時の定向主義的総合の気運との対立にあったと考える。この総合は、当時の地質学の状況を説明したライエルの説得力ある解釈のために現在ではその存在が見えにくくなっているが、ビュフォンが普及しフーリエが正当化した地球の冷却という考え方を中心にして、地質学から生物学までの成果をまとめ上げようとするものであった。この気運は、ライエルの登場によっても衰えなかった。氷河説は最近の歴史よりもずっと寒い時代を想定するために、定向主義的総合と矛盾せざるを得なかった。

 アガシーは当初シャルパンティエの論文に懐疑的であり、1836年に転向するものの、あくまでアルプスにある迷子石に関してシャルパンティエの見方に同意したに過ぎなかった。アガシーは、ジュラ山脈の迷子石に関してはシャルパンティエとは異なる説明をした。氷河ではなく、巨大な静止した氷床が存在していたと考えたのである。これは何故だろうか。
 ここで念頭に置いておかなければならないのは、アガシーは化石魚類の研究をしていたのであり、地質学と生物学の総合という、この時代に特徴的な目標をもっていたということである。アガシーはキュヴィエの影響を強く受けていたので、過去の動物たちはいずれも住んでいた環境によく適応していたが、なんらかの原因で絶滅したと考える。もし単に氷河が少しずつ拡大していったのであれば、動物たちは南へ移住できたはずなので、絶滅が説明できない。グローバルな規模での突然の氷河期の到来が必要だったのである。そして気温上昇によって氷河期が終わると、新たな環境が出現し、そこに適した動物が現れると考えた。
 しかしアガシーは、自らの説を地球の冷却という理論とも調停しようとしていた。そのためにアガシーが考えだしたのが、気温は氷河期が到来すると急激に下がり、その終わりと共に上昇するが、もとの水準にまでは戻らないというモデルである(図 p.150)。

 バックランドが氷河説に転向したのは驚くべきことではない。バックランドはアガシーと同様、洪積世の動物の絶滅を説明する激烈なメカニズムを求めていたからである。
 バックランドはライエルが氷河説に転向したとアガシーに報告したが、これは楽観的な見方に過ぎていただろう。ライエルが現在主義的でないアガシーの巨大氷床の概念を受け入れたとは考えられないからである。ライエルは、現在因として認められる局地的な氷河については熱心に受け入れていた。しかし、定向主義者たちと同様に(ただし別の理由で)、大規模な気候変動を受け入れることはできなかったのである。
 非常にゆっくりとした「氷河期」の受容は、定向主義と斉一説のあいだにあった鋭い分断の変化を反映している。どちらも、元々想定していたよりも大規模で激烈な気候の変動を受け入れていかなければならなかったのである。

地質学、激動の時代の終わり Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 36

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 534-52.

Ch. 36 未来のために蓄える(1840–45)

36.1 更新世氷河期
アガシーが『氷河に関する研究』(1840)を出版した数か月後、シャルパンティエは『氷河に関する試論』(1841)を出版した。名声はアガシーに奪われたが、最終的に受け入れられた氷河説はシャルパンティエのほうに近かった。ダーウィンは1842年に北ウェールズの丘を再訪し、以前見えなかったものが見えるようになったとして局地的な氷河説には納得した。この頃、北極と南極の探検が進み、報告や図像が届いたことは氷河説に有利に働いた。

36.2 フィリップスとグローバルな地史
地史を化石によって区分するプロジェクトを進めたのはフィリップスであった。フィリップスは1841年に、化石に基づいて古生代・中生代・新生代という三区分とその下位区分を提唱した。一方、カンブリア紀やシルル紀やデボン紀といった区分は、岩石に基づいており局地的なものに過ぎないとして拒否した。読者は、フィリップスの三区分を、人間の歴史における古代・中世・現代と平行関係にあるものとして理解した。

36.3 アガシーと生命の系譜学
生命の歴史に方向性があることはますます明確になっていた。ライエルはこれを疑い続けていたが、そのような立場をとっていたのはライエルと、せいぜいダーウィンぐらいであった。アガシーが描いた魚類の系譜図でも明らかになったように、生命は時代を下ると共に多様化し、「高等」なグループが出現しているように見えた。これは、ラマルクの理論とも調和しない認識であった。

36.4 ヒューウェルの歴史的・因果的な科学

新たに誕生した科学を定義するのは、外部の大学者の仕事であった。ヒューウェルは『帰納的諸科学の歴史』(1837)と『帰納的諸科学の哲学』(1840)を著し、地質学を「古物学(palaeontology)」と「原因学(aetiology)」の結合した学問(palaetiology)として表現した。このような造語は広まらなかったが、地質学の科学としての地位は確立された。

アガシーによる氷河説の提唱 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 35

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 517-33.

Ch. 35 スノーボールアース?(1835–40)


35.1 アガシーのアルプス山脈「氷河期」
迷子石に関する第四の説明は、アガシーによって提唱された。アガシーはシャルパンティエに氷河の痕跡を紹介され、また友人の植物学者であるシンパーの影響も受けて、「氷河期」の考えに至った。1837年、アガシーはスイス自然科学協会の会長講演でこれを説明した。アガシーは、アルプス山脈の氷河がジュラ山脈まで到達していたというシャルパンティエの主張を否定する一方で、アルプス山脈の隆起よりも先に北極から少なくとも地中海沿岸までが氷に覆い尽くされていた時代があったのだと主張した。この状況でアルプス山脈が隆起したことで、静止した氷床が傾き、迷子石がジュラ山脈の山麓まで滑ってきたのだという。その後、気温の上昇によって氷床は溶け、一部に動く氷河が残り、それもやがて後退していったというのがアガシーの説であった。

35.2 氷河期を拡張する
1838年、アガシーはこの理論を学会で繰り返し宣伝したが、納得する地質学者は少なかった。しかし、当初はアガシーを批判していたベルン大学地質学教授のシュトゥーダーは、アガシーに同行して氷河の擦痕を観察したことで転向する。ただし、シュトゥーダーは氷河が極めて広範囲に広がっていたことを想定しており、規模の点ではシャルパンティエと、氷の性質の点ではアガシーと意見を異にしていた。

35.3 英国における氷河期
1840年、アガシーは化石魚類の研究のために英国に渡り、同時に英国の地質学者たちを氷河説に転向させようと試みた。すでにアガシーの発表を直接聞いていてそれに納得し始めていたバックランドの案内でスコットランドを調査し、氷河の痕跡を多く見つけることができた。また、グレン・ロイについても氷河による説明を提供することができた。バックランドの説得により、当初反対していたライエルすらも氷河説に転向した。そしてロンドン地質学会では、アガシー、バックランド、ライエルが発表を行った。しかし、そこに参加していたマーチソン、グリーノウ、ヒューウェルを含め、多くの地質学者はなお懐疑的であった。