2017年2月27日

「自然選択以外に種の起源の科学的説明はなかった」というのは神話 Rupke, “Myth 13”

Nicolaas Rupke, “Myth 13: That Darwinian Natural Selection Has Been “the Only Game in Town,”” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 103–111.

神話13「ダーウィンの自然選択は“唯一の選択肢”だった」

ドーキンスに代表される多くの論者たちが、宗教的な種の個別創造説を除けば、自然選択に基づくダーウィンの進化論が採用可能な唯一の選択肢であるかのような議論をしてきた。しかし、進化論をダーウィンの理論と同一視できるというのは神話である。この神話は、構造主義 structuralism(あるいは形態主義 formalism、筆者独自の概念?)の進化論の伝統を無視している。たとえば、この神話から生じている代表的な誤解として、オーエン(1804–1892, ロンドン自然史博物館の設立者)が創造論者だというよく広まった認識がある。実際には、オーエンはダーウィン主義者ではなかったが、進化論者ではあった。構造主義的進化論は、『種の起源』(1859)以前にも以後にも根強く存在した。

構造主義の進化論では、生命の起源や多様な形態の起源は、機械論的であり物理的もしくは化学的な力の作用に帰される。構造主義の伝統は18世紀後半に始まり、自然発生というプロセスを通じて、生命の進化の歴史と、地球・太陽系・銀河・元素の進化の歴史を接続する議論がなされた。宇宙の歴史は、自然法則にしたがう物質の複雑化の過程として描かれ、生命の起源や種の起源は分子的な力に駆動されたプロセスとして理解された。こうした考え方を示した代表的な著作として、フンボルト(1769–1859)の『コスモス』(1845–1862)や、チェンバース(1802–1871)の『創造の自然史の痕跡』(1844)がある。また、生物の形態を説明するのには結晶学が持ち出された。ヘッケル(1834–1919)に代表される学者たちは、生物の形態を数学的に説明できることに注目した。ほかにも、ブルーメンバッハ(1752–1840)やオーケン(1779–1851)、トレヴィラヌス(1776–1837)、ゲーテ(1749–1832)といった人々が構造主義者であった。

では、なぜ構造主義的進化論は忘れ去られて、ダーウィニズムが唯一の進化論であるという理解が浸透したのだろうか。その原因は、構造主義者のほとんどがドイツ人だったことにあると考えられる。ナチス時代には、ゲーテやフンボルトといったドイツのロマン主義や観念論がもてはやされた。第二次大戦後、構造主義的進化論はナチスのイメージと結び付いてしまったことで衰退した。逆に、ダーウィニズムは戦後のドイツにおいて、ナチスのイメージを拭うために好まれたのである。さらには、マイアの『生物学思想の発展』(1982)に代表される、ダーウィン産業の研究がダーウィニズムの存在感をより高めていった。

【コメント】
進化論史の全てがダーウィン(とその「先駆者」)から始まっているかのような歴史記述はおかしい、というのは真っ当な指摘だろう。進化論の歴史はしばしば、ダーウィンの時代には種の起源に関する理論は宗教的なものしか存在していなかったかのように説明されてきた。このような事態は、ダーウィン本人やダーウィンを英雄視した人々の言い分を鵜呑みにした英語圏中心のヒストリオグラフィーから生じている。英語圏の外に目を向ければ、同時代にもダーウィンとはまったく異なるタイプの非宗教的進化論が存在していた。「進化論=ダーウィン」という思い込みのために、交雑による新種の形成を実証しようとしていたメンデルさえもダーウィン主義者だと誤解されてきた。

しかし、本章における筆者の「構造主義(形態主義)的伝統」という概念が何を指しているのかは、いまいちよくわからなかった。この章で挙げられているような人々のあいだの影響関係も明らかにされていない。彼らをこの言葉で一括りにするのは果たして適切なのだろうか。
 

2017年2月16日

「ラマルクの進化論は主に用不用の遺伝」というのは神話 Burkhardt, “Myth 10”

Richard W. Burkhardt Jr., “Myth 10: That Lamarckian Evolution Relied Largely on Use and Disuse and That Darwin Rejected Lamarckian Mechanisms,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 80–87.

神話10「ラマルクの進化は主として用不用に基づいていた。また、ダーウィンはこのラマルクのメカニズムを拒絶した」


生物学の教科書においてラマルク(1744–1829)とダーウィン(1809–1882)の進化論が比較されるとき、ラマルクの理論において主要なメカニズムは獲得形質の遺伝(inheritance of acquired characters)であり、ダーウィンはこれを拒絶して代わりに自然選択を唱えたのであるかのように記述されている。しかし、これらは正しくない。獲得形質の遺伝、すなわち用不用の遺伝的影響は、ラマルクの理論における生物の変化の主要な要因ではなかったし、ダーウィンは用不用の影響の遺伝を固く信じていた。

ラマルクはパリ自然史博物館で無脊椎動物を担当する教授となり、それらを分類するうちに、外的形態よりも内部器官に注目するべきだと考えるようになった。そして内部器官によって区分した分類群は、複雑性が高まっていくひとつながりの系列として整理できることに気づいた。ラマルクは『無脊椎動物誌』(1801)において、多様な動物が存在することの「二つのまったく異なった原因」に言及する。「第一の主要な原因」は、動物を前進的に複雑化させる生命力であり、第二の原因は、多様な環境によって生じる用不用の違いであった。ラマルクは『動物哲学』(1809)において、第二の原因を二つの法則によって定式化しているが、これはしばしばラマルクの理論全体を表現したものとして誤解されている。

ラマルクは獲得形質の遺伝を自分が考えたとも主張していないし、それを実験的に示そうともしていない。用不用の遺伝という考え方は、ラマルクの時代においては当たり前のこととされていたのである。

ダーウィンは、進化の最も主要な要因は自然選択であると考えていたが、獲得形質の遺伝も副次的な要因として固く信じていた。たとえば、家禽化されたアヒルが野生のカモに比べて小さな羽と大きな足の骨をもっていることや、洞窟に住んでいる動物が視力をもっていないことは、用不用の遺伝に帰された。そしてダーウィンは、『家畜と栽培植物の変異』(1868)においてパンゲン説を提唱し、獲得形質の遺伝をもたらす具体的なメカニズムを説明した。だが、ダーウィンはいつもラマルクの理論から距離をとるようにしていた。ダーウィンが用不用の遺伝とラマルクの名前を結び付けたのは、用不用の遺伝では説明できないが自然選択であれば説明できる例を持ち出してラマルクを批判したときだけであった。

【コメント】
(1) ラマルクが用いていた言葉は「獲得形質の遺伝」ではなく「獲得物の転移」。「形質 character」および「遺伝 inheritance」という観念は、ラマルクの時代の生物学にはまだ明確な形で存在しなかった。ラマルクには「適応 adaptation」の概念もない。

(2) 表題の神話がいかにして生まれたのか、という問題はこの章でほとんど扱われていない。ヴァイスマン(1834–1914)が1880年代に生殖質連続説を唱えたことで、はじめて「獲得形質の遺伝」が問題となった(バルテルミ=マドール『ラマルクと進化論』第4章)。

(3) この章は用不用の遺伝の問題に焦点を絞っているが、よくいわれる「ラマルクが進化論の先駆者」という捉え方自体、神話めいたところがあるのではないか。ダーウィンの進化論とラマルクの変移説はまったく異なる。ダーウィンの進化論は(ラマルクよりもむしろ)キュヴィエ(1769–1832)に多くを負っているというフーコーの議論(「生物学史におけるキュヴィエの位置」、『思考集成III』収録)も示唆に富んでいる。

2017年2月14日

「激変主義者と斉一主義者の対立」というのは神話 Newell, “Myth 9”

Julie Newell, “Myth 9: That Nineteenth-Century Geologists Were Divided into Opposing Camps of Catastrophists and Uniformitarians,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 74–79.

神話9「19世紀の地質学者たちは、激変主義者と斉一主義者という対立する二つの陣営に分かれていた」

地質学における論争を説明する方法として、その論争の参加者たちを対立する二つの陣営に分けるやり方が好まれてきた。だがこのような方法ではしばしば、参加者たちの考え方が誤解されたり極度に単純化されたりしている。

18世紀におけるヴェルナー主義者とハットン主義者の対立という説明もその一例である。この説明では、前者はヴェルナー(Abraham Gottlob Werner, 1749–1817)の、岩層は海洋における沈殿物によって形成されたという主張に賛成し、後者はハットン(James Hutton, 1726–1797)の、岩層は地下の火によって形成されたという主張に賛成していたということになっている(水成説論者 Neptunists と火成説論者 Vulcanists)。だが、実際のヴェルナーやハットンの考え方はこのように単純化できるものではないし、ヴェルナー主義者やハットン主義者とみなされてきた人々は、実際には各理論における地層形成の説明よりも実践的有用性に興味をもっていた。

ハットンの中心的概念のうち、三つのものが後の地質学に深い影響を与えた。第一に、地質学的な変化は現在観察できるメカニズム(現在因 actual cause)で説明されなければならないという「現在主義 actualism」、第二に、地質学的説明は現在観察されるのと同じ速度の変化に限られるという「漸進主義 gradualism」、第三に、現在主義と漸進主義に基づいて地質学的記録を説明するのに必要となる膨大な長さの「時間」である。

これらの考え方はすべて、ライエル(Charles Lyell, 1797–1875)の『地質学原理』(1831)において中心的な役割を果たした。ライエルは、過去の地質学的変化はすべて、今日の世界で観察されるのと同じ種類かつ同じ度合のプロセスで説明されると主張した。ライエルはレトリックを駆使して、現在主義と漸進主義を「斉一性 uniformity」という概念に一体化させた。

1832年、『地質学原理』に対する書評でヒューウェル(William Whewell, 1794–1866)は「斉一主義者 uniformitalians」と「激変主義者 catastrophists」という分類を導入した。ここでは激変主義者は、地史のなかで地質学的変化が異なる速度で進んできたことを主張する人たち(=現在主義ではなく漸進主義の反対者)とされていた。現在主義そのものを否定する人はほとんどいなかったのである。一方、ライエルに好意的だったヒューウェルやコニベア(William Daniel Conybeare, 1787–1857)も、ライエルの漸進主義を批判していた。つまり実際のところ、「激変主義者」とみなされてきた人々と、「斉一主義者」とみなされてきた人々は、多くの点において一致した意見をもっていたのである。

斉一主義をライエルや「科学」と同一視し、激変主義を宗教的信仰に基づいた反ライエル的な立場とみなす見方は、ライエルの批判者たちを極度に単純化し、誤解している。実際の対立は、科学と宗教のあいだで起こっていたのではなかった。

【コメント】
付け加えていえば、ハットンやライエルの議論できわめて重要な要素として「定常主義」(=地史には方向性がない!)がある。ライエルの巧妙さは、定常主義(世界観に関する主張)と現在主義(科学的方法論に関する主張)をうまく組み合わせたところにある。筆者のいう漸進主義は、現在主義を地質学的プロセスの種類だけでなく度合にも適用したものであり、「強い現在主義」と捉えることもできる。ライエルの批判者たちは「方向主義(=地史には方向性がある!)」の立場をとっていて、ライエルの定常主義と強い現在主義をどちらも批判していた。
 

「メンデルは孤独な遺伝学の先駆者」というのは神話 Kampourakis, “Myth 16”

Kostas Kampourakis, “Myth 16: That Gregor Mendel Was a Lonely Pioneer of Genetics, Being ahead of His Time,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 129–138.

神話16「グレゴール・メンデルは時代を先取りした、孤独な遺伝学の先駆者だった」

現代の遺伝学の知識をもっている我々は、しばしばメンデルの論文に過剰なものを読み込んでしまう。メンデルは遺伝因子についてではなく、形質について表記しているという点に注意する必要がある。厳密に言えば、メンデルは「分離の法則」も「独立の法則」も発見していない。さらに言えば、遺伝が粒子的であることも発見していない。

メンデルは遺伝の一般理論ではなく、異種交雑で新種は生まれるのかという問題に取り組んでいた。当時、遺伝のメカニズムは生物学の中心的な問題の一つであり、ダーウィン、スペンサー、ゴルトン、ネーゲリ、ヴァイスマン、ド・フリースといった人々が取り組んでいたが、メンデルはこのようなグループの外部にいた。実際、メンデルの論文に「遺伝」という言葉は一度もあらわれていない。

1900年以降におけるメンデル論文の急速な受容は、新しい概念的枠組みが発見された結果である。ゴルトンとヴァイスマンがハードな遺伝という考え方をつくり上げており、また細胞学者たちが形質の発現に関係する粒子が細胞内にあるという見方を支持する証拠を提供していた。

メンデルを英雄視する見方は、実際の歴史を歪めているだけでなく、科学が一般的にどのようになされるかという理解をも歪めている。
また、メンデルの実験はブルノの農業的・社会経済的文脈と関係していた。科学的な問いは、理論的というよりも経済的・技術的な要求から生じることも多いのである。

種概念の本質主義物語を覆す Wilkins, Species: A History of the Idea, Preface & Prologue

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. vii–xii; 1–8.


● Preface

この本の主要な標的は、過去50年間にわたって科学者たちによって築き上げられてきた本質主義(essentialism)の物語である。哲学者は歴史を書くことを好まないし(好むとすれば合理的再構成のようなもの)、歴史家はインテレクチュアル・ヒストリーを書くことを好まないのだが、哲学者も歴史家も書かなければ科学者が書いてしまうのである。本質主義物語を普及させたのは、主にエルンスト・マイア(Ernst Mayr, 1904–2005)であった。

種概念の歴史がとりわけ重要であるのには理由がある。一般的に言って、科学者たちは分野によって異なる距離で「転がってくる霧の壁(rolling wall of fog)」に追われている。たとえば医学生物学(medical biology)であれば、壁との距離は約5年であり、それ以上前の業績は参照されなくなる。しかし分類学は特異な分野であり、壁との距離が例外的に長い。それゆえ、「種とは何か」という問いは歴史的な性格を帯びるのである。

本質主義物語によれば、生物学的分類群については二種類の基本的な考え方がある。一つ目の立場はプラトンおよびアリストテレスに由来し、それによると、あるタイプに属するメンバーは特定の必要十分な形質のセットをもっていることによって定義されるのであり、それらの形質は固定されていて変化することがない。この考え方は、本質主義、類型学的思考(typological thinking)、形態学的思考(morphological thinking)、固定主義(fixism)などと呼ばれている。もう一方の立場では、分類群は変わり得る形質をもった生物の集団であり、その集団はべつの分類群に変容することもある。この立場は集団思考(population thinking)と呼ばれる。

だが、本質主義物語は間違っている。私はこの誤りを、概念史(conceptual history)の方法によって解消したい。私の主張は三点にまとめられる。第一に、本質主義物語は論理的伝統についての誤読に基づいている。論理的種の形相的定義と生物種の質料的形質のあいだには、アリストテレス以来ずっと明確な線引きがされていた。第二に、いつであれ生物種は発生力(generative power)を含むものとして理解されていた。種に関する現在の考え方も、この長い伝統のなかにある。第三に、種の固定性、本質、タイプは、互いに分離された異なる概念である。なお、本質主義が生物学の哲学で攻撃対象となった背景には、ポパーによる方法論的本質主義批判があったと考えられる。


● Prologue

受け入れられた見方


生物学者たちのあいだで受け入れられてきた本質主義物語を代表する論者として、古生物学者のシンプソン(George Gaylord Simpson, 1902–1984)、マイア、生物学哲学者のハル(David Hull, 1935–2010)を挙げることができる。彼らは共通して、以下のような物語を描いている。プラトンはイデア(form)あるいは種(eidos)を、本質をもつものとして定義した。アリストテレスはこれを引き継いで、類(genos)の本質をすべての種が共有するように類を種に分ける方法をつくり上げた。これに基づいて、リンネは種を一定不変で本質主義的なタイプにした。ダーウィンはこの本質主義を乗り越えた。以降のナチュラリストたちは、遺伝学の影響下で生物学的種概念を発見し、種は本質ではなく祖先を共有する集団となった。集団思考は、本質主義に取って代わってきた。

受け入れられた見方の不十分さ

受け入れられた見方はまったく間違っている。実際には、生物種に関する哲学的論点で近代に問題となったものはどれも、アリストテレスからリンネに至る2000年のあいだに既に現れていた。18世紀以降、種概念に関して本当に新しい概念的要素はほとんど登場していない。また、受け入れられた見方では、普遍論争や大いなる存在の連鎖(Great Chain of Being)が無視されている。類型学と本質主義も結びついていたわけではなく、類型学は様々な点でマイアの集団思考と一致していた。