2017年3月23日

古代ギリシアの分割の哲学 Wilkins, Species: A History of the Idea, pp. 9–27.

John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. 9–27.

第1章 古典時代――分割による科学


 受け入れられた見方では、種概念の歴史は生物学以前の歴史と生物学以降の歴史に分けられるということになっている。しかし実際には、二つの歴史はかなりオーバーラップしている。それゆえ、我々はむしろ、万物の分類に適用された種概念の歴史と、生物だけに適用された種概念の歴史というふうに分けて考えるべきである。実際、種概念を鉱物にも適用したリンネ(1707–1778)も、生物の場合には鉱物の場合とは少し異なる使用法をしていた。普遍的分類学のリサーチプログラムは、プラトンからロックに至る哲学的伝統であり、そこでは種は本質や定義によって区別されるカテゴリーであった。そして、自然史から生物学が発展したのに伴って、この普遍的分類学の伝統から生じた生物学的分類学のリサーチプログラムが発展していった。

術語と伝統
 ラテン語のspecies、genusは古典ギリシャ語のeidos、genosの翻訳である。そのほか、重要な術語の対応表をp. 11に示した。しかし、これらの術語も歴史のなかで様々な異なった用い方をされてきたことを忘れてはならない。

プラトンのdiairesis
 プラトンは『ソピステス』のなかで、魚釣り術(angling)を例に、diairesis(分割、二分法)として知られる分割の方法を示した(p. 14)。この分割の方法は明らかに恣意的なものである。なお、プラトンは、自然のものについての分類と人工的なものについての分類を区別していない。生物学にプラトンの直接的な影響があらわれるのは17世紀のことであるが、間接的にはもっと早くからあらわれていた。

アリストテレス――分割、genus、species 
 アリストテレスは、genos(genus、類)、eidos(species、種)、diaphora(differentia、種差)という概念を用いた。種は、類と種差によって定められる。このとき、種差は類の定義とは異なる事柄であり、ある類に属するすべての種はその類の定義を満たしている。これらの概念が用いられる対象は生物に限らなかった。
 アリストテレスはプラトンの分割という考え方を拒絶したわけではなかったが、二分法的分類の問題点を指摘した。具体的には、否定による(privative)カテゴリーを拒否し、一つの類を三つ以上の種に分けることを受け入れた。
 しばしば、アリストテレスの分類はすべて絶対的な定義や本質によってなされているといわれる。しかし実際には、生物の器官や特徴については過剰であったり不足していたりすることがあると認めている。また、生物については種差が類と同じ特徴になり得ることも認めている。
 また、アリストテレスのgenosやeidosといった言葉の使い方は、論理学的な著作と生物を扱った著作で一貫していないともいわれてきた。これは、アリストテレスが生物学の文脈でeidosという言葉を用いたと考えるから一貫していないように見えるのである。実際には、アリストテレスは生物学的分類をつくろうとしていたのではなかった。『動物誌』においても、彼は一般的分類をつくっていたのであって、動物は彼がその方法を適用した一つの領域に過ぎなかった。

テオフラストスと自然種
 最初の植物体系学者ともいえるテオフラストス(紀元前370–285)は、アレクサンドロス大王の征服地からギリシャにもたらされた大量の植物標本に対し、アリストテレスの分類の考え方を適用した。特に、植物の種類のそれぞれについて、その本質を解剖学的特徴に基づいて見つけようとした。

エピクロス主義と発生的概念
 原子論者、特にルクレティウス(紀元前99–55)をはじめとするエピクロス主義者たちは、アリストテレス・プラトン的な伝統とは異なる説明をした。種を物質に押しつけられた型だとみなしたアリストテレスと違って、エピクロス主義者たちは物質の性質から生じた型だと考えた。アリストテレスが物質を柔軟なものとみなしたのに対し、エピクロス主義者たちは、物質はそれが形作るものを決定するとみなした。ここには、種の発生的概念(generative conception of species)のようなものが見出だせる。

「ペイリーが生物の起源に関する問いを提起した」というのは神話

Adam R. Shapiro, “Myth 8: That William Paley Raised Scientific Questions about Biological Origins That Were Eventually Answered by Charles Darwin,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 67–73.

神話8「ウィリアム・ペイリーは、ゆくゆくはダーウィンが回答することになる、生物学的起源に関する科学的な問いを提起した」

リチャード・ドーキンスと、ID説の支持者であるマイケル・ベーエは、もちろん進化に関して全く反対の意見を持っているが、ダーウィンの『種の起源』(1859)がペイリーの『自然神学』(1802)を否定したということに関しては共通の理解を示している。ペイリーは複雑な構造をもつ生物の器官の起源を説明しようとして、創造主がいるという結論に至ったが、この議論はダーウィンによって異議を唱えられることになったというのである。

しかしこのような理解はいくつかのレベルで間違っている。まず、ペイリーの議論は生物学的な起源に関する科学的な議論ではなく、神学的な議論であった。そして、ダーウィンはペイリーの議論に納得しなかったものの、彼の目標はそれを否定することではなかった。

『自然神学』の冒頭でペイリーは、もしもある人が野原で石を見かけたら、その石はずっとそこにあったと考えるかもしれないという。ここでいう「ずっと」は、永遠にという意味である。ペイリーが『自然神学』を書いた当時、天文学者たちや地質学者たちは、宇宙には始まりもないし終わりもないという考え方を真剣に検討していた。また、この考え方は何世紀にもわたってキリスト教神学の議論の的であった。

ペイリーは次に、時計を見かけた場合に我々がどのように反応するかについて論じる。ここでも、その時計がどのようにして初めに現れたかが問題なのではなく、時計が今まさに目的を持っているということが問題となる。時計と同様に生物の諸器官も、自然法則を利用している(自然法則に適応している)ように見える。こうしたものが世界に適応しているというまさにそのことが、ペイリーにデザイナーの存在を結論づけさせたのである。

ペイリー自身は世界には始まりがあると考えていたが、それを当然の前提にはしたくなかった。そこで、永遠の世界にも適用できるような議論に留めたのである。

ペイリーの目標は、世界を目的で満たしたデザイナーの存在を単に示すということではなく、そのデザイナーがどのような存在であるかという神学的な問いに答えることであった。ペイリーによれば、自然法則はどこにでも同じ仕方で適用されるので、デザイナーは一人でありそのデザイナーは遍在する(すなわち神である)という。また、宇宙には不要な苦痛がなく、喜びの経験はそれ自体が目的となっているように思われるために、神は善なるものであるという。さらに、この世界は我々が研究によって神の証拠を探求できるようにできているので、神はすべての人々に自身を理解してほしいと望んでいるのだという。

自然では説明できないものの存在を示すことで神の存在を証明するという方法もあったが、ペイリーはそうしなかった。それは、そのような証明方法が私的な知識に訴えることを促し、聖書の解釈についての宗教的対立を正当化してしまうことを恐れていたからである。ペイリーは、自然の観察に基づく公的な知識こそが合意への最良の道だと考え、自然を神学の立脚点にしようとした。

ペイリーの考えでは、最良の社会とは、人々がそれぞれに神から与えられた、生まれながらの性向に従う保守的な社会であった。こうした性向は遺伝的であると考えられた。

ペイリーにとって、自然は神が道徳を示したものであった。生物の諸器官や、異なる生物種のあいだの関係性に訴えることで、ペイリーは神の道徳法則に関する主張をした。ペイリーは自然を説明するために神に訴えたのではなく、神を説明するために自然に訴えたのである。

1830年代にはすでに、ペイリーの議論の紹介のされ方は変わっていた。1836年に出版された『自然神学』の注釈版では、地質学的な知見からすると石が永遠に存在するということはもはや考えられないという注釈が付け加えられた。この時代の読者にとって、始まりの存在はすでに前提となっており、始まり以降にどのような変化が起こってきたのかがリアルな問題となっていた。

ダーウィンは、ペイリーの議論を種の起源に関する科学的議論とはみなさなかったし、それを否定しようともしなかった。『種の起源』のなかでペイリーに言及した唯一の箇所において、ダーウィンはペイリーに賛成している。この箇所でダーウィンは、不要な苦痛をもたらすための器官はないというペイリーの議論を参照して、自然選択が生物に対して悪よりもむしろ善をなすということを論じていた。

2017年3月4日

「進化=突然変異+自然選択」というのは神話 Depew, “Myth 20”

David J. Depew, “Myth 20: That Neo-Darwinism Defines Evolution as Random Mutation Plus Natural Selection,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 164–170.

神話20「ネオ・ダーウィニズムは進化を“ランダムな突然変異+自然選択”として定義する」


1940年代以来、専門的な進化研究は「ネオ・ダーウィニズム」(もしくは進化の現代的総合説)と呼ばれる原理によって導かれてきた。この原理は、メンデル遺伝学とダーウィンの自然選択が融合して生じている。それゆえ、ネオ・ダーウィニズムをランダムな遺伝的変異と自然選択として要約するのは自然であるように感じるかもしれない。しかし、これは適切な要約ではないのである。

歴史を振り返ってみるとこのことがよくわかる。ネオ・ダーウィニズムを生んだのは、生殖系列の要素だけが遺伝するということを示した発生学者のヴァイスマン(August Weismann, 1834–1914)であった。ネオ・ダーウィニズムはダーウィンと異なり、自然選択だけで生物の適応を説明する。1900年における「メンデルの再発見」は、このネオ・ダーウィニズムを支持しただろうと思われるかもしれないが、実際にはそうではなかった。ベイトソン、ド・フリース、ヨハンセンといった初期のメンデル主義者たちは、最初から適応的であるような一跳びの不連続的な突然変異を進化の創造力の源とみなした。だが、それに対してネオ・ダーウィニストたちは、そのような一跳びの突然変異は生物の適応性を破壊してしまうと反論した(これは正しい反論であった)。そのため、遺伝学が突然変異と自然選択の統合を支持するのには数十年がかかったのである。

では、進化の創造力はどこから来るのだろうか。実際には、自然選択は他の要因と組み合わさることで革新的な働きをするのである。遺伝子流動、遺伝的浮動、減数分裂における乗換え、そういった要因との組合せが重要となる。進化とは「突然変異+選択」であるといったような単純な図式化は、進化論に反対するID説論者などによってしばしば利用されるのである。


【コメント】

この章は、科学の歴史に関する議論というよりも、進化論批判に反論する目的で書かれた、科学そのものに関する議論という印象が強い。タイトルが現在形になっているのも、その内容を反映しているといえるだろう。

だが、総合説において「進化=突然変異+自然選択」という図式が乗り越えられたというのはたしかである。自分の研究に引きつけて言えば、ジュリアン・ハクスリーは、「総合説」を象徴する著作である『進化――現代的総合』(1942)において、突然変異と選択だけで進化を説明できるという議論を明確に否定し、「突然変異→組換え→選択」という図式で進化を規定している。進化は、突然変異が現れてそれが生存と繁殖に有利であれば集団内に広まる、という単純なプロセスの繰り返しなのではない。たしかに究極的な変異の源は突然変異であるが、それが生じたときからいきなり生存や繁殖に有利であるというようなことはほとんどない。だから重要なのは、生物の集団が常に豊富な変異を保持しているということであり、有性生殖を含むさまざまな遺伝的メカニズムや集団の流動などによって新しい遺伝子の組合せがつくられる動的な状態が保たれているということである。こうした組換えのプロセスによって新しい遺伝子の組合せが大量に試され、そのなかで生存や繁殖において有利となった組合せが、選択によって広まっていく。自然選択の素材は、組換えを通して提供されるのである。このような理解は20世紀半ば以降の進化学で普及していった。

しかし、1930年代の段階では総合説においても組換えの重要性がよく認識されていなかったということが、マイアによって指摘されている。たとえばドブジャンスキーは『遺伝学と種の起源』(1937)において、突然変異と組換えは二者択一である(それゆえ後者を排して前者を採用する)かのような書き方をしていた。

ではハクスリーは、先述のような理解をどこから得ていたのだろうか。「自然選択」の起源はダーウィンやウォレスに、「突然変異」の起源はド・フリースやモーガンに求めることができるであろうが、「組換え」の起源はどこに求められるのだろうか。ハクスリーが組換えの重要性を説いた『進化――現代的総合』の第4章において、理論的なバックボーンとなったのは、「遺伝的システム」という概念を活用した英国の細胞学者ダーリントンの議論であった。さらに歴史を遡れば、ダーリントンが影響を受けた人物の一人に、交雑説を唱えたオランダの植物学者ロッツィがいる。遺伝子の組合せの変化によって豊富な変異が生じるということに早くから気付いていたのは、ロッツィのようなメンデル主義者だったのではないだろうか。