2017年12月21日

東アジアの科学史に関する論文15本

現在、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
こちらの秋学期に東アジア科学史の授業で読んだ論文や章のうち、特に印象に残った15本を簡単に紹介します。

Joseph Needham, Science and Civilization in China Vol. 3, “Mathematics and Science in China and the West” (1959)
ニーダム・クエスチョンの問いかけ。ルネサンス期のヨーロッパにおける数学化された自然科学の出現は、なぜ他の地域、特に中国では起こらなかったのか。ニーダム自身は、中国における官僚中心の社会構造とヨーロッパにおける重商主義の違いに注目している。

Qiong Zhang, “Demystifying Qi: The Politics of Cultural Translation and Interpretation in the Early Jesuit Mission to China” (1999)
16世紀末から17世紀初頭、明に渡ったマテオ・リッチらイエズス会の宣教師たちは、宋明理学(Neo-Confucianism)における自然の理論を否定して、代わりに西洋流の理論を普及させようとした。その際に彼らがとった戦略は、中国の古典を曲解して西洋流の理論に引きつけるのと同時に、当時の理論を古典から引き剥がすというものであった。翻訳は善良になされるとは限らず、mistranslationが目標だということも有り得る。

Peter Engelfriet, “The Chinese Euclid and its Chinese Context” (1993)
ユークリッド幾何学がどのように中国語に翻訳されたかを調査すれば、西洋と中国の根本的な文化の違いがわかるだろう……なんていう安直な考え方に対する戒め。現代の我々が当たり前に「西洋的なユークリッド幾何学の理解」だと思っているものは、西洋の数学史のなかでまったく当たり前ではなかった。我々が西洋の文化について抱いている暗黙の前提をまず疑う必要がある。

Yulia Frumer, “Before Words: Reading Western Astronomical Texts in Early Nineteenth-Century Japan” (2016)
オランダ語を読めない高橋至時(1764–1804)が、『ラランデ暦書』(ジェローム・ラランドが著したAstronomieのオランダ語訳)をどうやって理解して『ラランデ暦書管見』を書いたのか。図、表、記号、単位などが重要な役割を果たしていた。翻訳は必ずしも言語的な営みだとは限らない。

Shellen Xiao Wu, Empires of Coal: Fueling China’s Entry into the Modern World Order, 1860–1920, Ch. 3 “Lost and Found in Translation: Geology, Mining and the Search for Wealth and Power” (2015)
米国人宣教医のDaniel Jerome Mcgowanと中国人数学者の華蘅芳による『地質学原理』の中国語訳など、1870年代から80年代の中国における地質学関係著作の翻訳を調査。これらの翻訳は概して質に問題があり、地質学の知識を紹介することには失敗していたものの、科学や工業の文化を伝えることには成功していた。翻訳という営為を、静的な知識の言語間での移植というよりも、より広い文化の導入の一部として捉えようとする章。

Wayne Soon, “Science, Medicine, and Confucianism in the Making of China and Southeast Asia: Lim Boon Keng and the Overseas Chinese, 1897–1937” (2014)
シンガポールで生まれ、エディンバラで教育を受け、中国で科学や医学の教育普及に貢献した華人医師の林文慶(1869–1957)に注目する。西洋科学の中国への伝来は、欧米から日本を通して中国に伝わったというストーリーで説明されることが多い。だが、林文慶のように海外に居た中国系の人々が果たした役割も正しく評価する必要がある。

Fa-ti Fan, “Science in a Chinese Entrepôt: British Naturalists and Their Chinese Associates in Old Canton” (2003)
18世紀から19世紀初頭にかけての広東を、自然史研究のフィールドという観点から分析する。清の対外政策によって欧米諸国との交易は広東に限定されていたため、英国人(多くは東インド会社の所属)による中国自然史の研究は、コンタクトゾーンである広東の都市環境に強く依存することになった。市場、庭、職人、苗木屋、行商人、交易路などといった都市の構成要素や、そこでの日常生活、英国人と中国人の経済的・社会的な関わり方などに注目する必要がある。

Yulia Frumer, “Translating Time: Habits of Western-Style Timekeeping in Late Edo Japan” (2014)
江戸時代末期以降、日本人はどのようにして、西洋式の時計を読み、西洋式の時法を用いることができるようになったのか? もともと江戸時代の日本では、西洋由来の機械式時計が日本の時法に合うように作り変えられて用いられていた。こうした和時計を用いてきた経験と、そのなかで生まれていた様々な習慣が、西洋式の時計・時法の導入において重要な役割を果たした。この導入は、まったく新しい体系を突然に受け入れたのではなく、既存の習慣を徐々に改変していくプロセスであった。

Susan Burns, “The Body as Text: Confucianism, Reproduction, and Gender in Tokugawa Japan” (2002)
17世紀後半~18世紀前半の日本における妊娠や出産をめぐる言説の分析。儒教の宇宙論や倫理と連結した医学のもとで、出産がうまくいったかどうかは、女性が性的な欲望を抑えて貞淑な行いを貫くことができていたかどうかを判断できる根拠とみなされた。こうした言説は「妻」と「売春婦」の線引きを補強するとともに、女性の身体を(男性と異なり)家や国家に関連付けることに寄与した。背景には同時代の「生類憐れみの令」に代表される、自然な生殖を強調する新しい道徳秩序の構築があった。

Jin-kyung Park, “Husband Murder as the “Sickness” of Korea: Carceral Gynecology, Race, and Tradition in Colonial Korea, 1926–1932” (2013)
西洋諸国が「西洋と非西洋」「白人と非白人」という境界線で植民地における支配者と被支配者を画定できたのに対して、日本とその植民地は文化的にも人種的にも近縁で区別が難しく、そのことが日本の役人たちを不安にさせていた。そこで彼らは、植民地の人々を日本人から人種的・生物学的・文化的に区別する必要があった。朝鮮総督府に雇用されていた婦人科医の工藤武城(1879–?)は、1926年から1932年にかけて朝鮮の女性囚人66人を医学的に調査し、朝鮮人の女性には「本夫殺害」(夫殺し)という特有の民族病があると結論づけた。工藤の研究は、科学研究者としての日本と研究対象としての朝鮮という区別を定め、医学によってアジアの人々を救済するという日本の植民地支配のレトリックを支持するものであった。

Ian Jared Miller, The Nature of the Beasts: Empire and Exhibition at the Tokyo Imperial Zoo, Ch. 2 “The Dreamlife of Imperialism: Commerce, Conquest, and the Naturalization of Ecological Modernity” (2013)
20世紀初頭の上野動物園は、日本による帝国主義のプロジェクトを来園者に楽しく示す役割を担っていた。拡大する植民地の「野生」を見せることで、日本人の自然への渇望を生み出し、満たそうという狙いがあった。動物の展示方法は、来園者が動物の様子を近くから見ることができるように、かつ動物が捕らわれているということを来園者が意識しなくて済むように、工夫が凝らされていった。動物園はイデオロギーを自然として表現し、政策を娯楽として見せていた。

Greg Clancy, Earthquake Nation: The Cultural Politics of Japanese Seismicity, 1868–1930, Ch. 5 “A Great Earthquake” (2006)

1891年に起こった濃尾地震の被害を、お雇い外国人、地震学者、新聞社、版画家など、様々な立場の人々がどのように理解し、伝えたのか。それまでの地震と異なり、庶民に属する建築物のみならず、エリート層や国家に属する建築物である西洋建築や線路も大きな被害を受けたことは驚きをもって受け止められ、特に庶民に好まれる版画で強調された。一方、「世直し鯰」に象徴されるように、江戸時代において地震は幸運・不運を再分配する(被災者以外の低い身分の人々や大工などにとっては歓迎すべき)出来事として理解されていたが、濃尾地震においては義援金などを通じて被災者を助けようとする動きが広まり、天皇も存在感を示し、日清戦争に向けて国民国家の確立を準備する出来事となった(Earthquake Nationというタイトルに注目したい)。

Timothy S. George, Minamata: Pollution and the Struggle for Democracy in Postwar Japan, Ch. 3 “Discovering the Disease and Its Cause” (2001)
何が水俣病の真相究明を阻んだのか。経済成長を優先して漁民たちを犠牲にすることを選んだ政治家や役人たち、政府や企業の意向を受けた科学者たち、「中立」であろうとして両論併記を繰り返し、各々の科学者の背後で動いている勢力に対して注意を払わなかったメディア。

Brett L. Walker, Toxic Archipelago: A History of Industrial Disease in Japan, Ch. 4 “Engineering Pain in the Jinzū River Basin” (2010)
イタイイタイ病の環境史。戦争による鉛や亜鉛の需要の増加、採鉱技術の変化、高い技術をもつ鉱夫たちの植民地への流出、できるだけ多くの子どもを産ませようとした政府の方針、肌を日光から隠すことを女性たちに強いた美的感覚など、イタイイタイ病を引き起こした複雑な因果関係の網目を分析。“Engineering Pain”というタイトルにも注目したい章。

William M. Tsutsui, “Landscapes in the Dark Valley: Toward an Environmental History of Wartime Japan” (2004)
第二次世界大戦が日本の自然環境に与えた影響は、必ずしもそれほど悪いものだったとは言い切れず、むしろ良い面もあった。戦争が人間にとって破滅的で悲劇的だからといって、自然環境にとっても同じだと決めつけてはならない。人間中心主義批判とも読めそうな論文。