2018年4月13日

近代科学史に関する論文15本

引き続き、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
春学期に近代科学史の授業で読んだ論文や章の一部をまとめました。

Mary Terrall, “Representing the Earth’s Shape: The Polemics Surrounding Maupertuis’s Expedition to Lapland” (1992)
1730年代のパリでは地球の形状をめぐる論争があり、モーペルテュイらは地球が横長だと主張し、逆にジャック・カッシーニらは縦長だと主張した。この論争はしばしば、新たに台頭したニュートン主義と頑迷なデカルト主義の対立として説明される。しかし、実際の論争の中心となった論点はそのような宇宙論的な問題ではなく、むしろ測定装置の良さや観測の正確性、数学的な取扱いの適切さの問題であった。モーペルテュイは新しい数学的手法である微積分や英国製の装置を高く評価し、かつてジョヴァンニ・カッシーニによって築かれたパリの天文学者の権威に挑戦することになった。モーペルテュイはこの論争を利用して、アカデミーの外部で名を上げることに成功した。

I. Bernard Cohen, Benjamin Franklin’s Science, chs.1–2. (1990)
ニュートンの『プリンキピア』と『光学』は、前者はラテン語で後者は英語で書かれたことに象徴されるように、科学として異なる方向性をもち、別々のニュートン主義的伝統の土台を築いていた。『光学』は、定量的な実験科学の著作であるが、数学をほとんど用いないという特徴がある。フランクリンは『プリンキピア』を読みこなして理解する力をもっていなかったが、『光学』から大きな影響を受け、電気を一種類の流体として説明した。

Robert Fox, “The Rise and Fall of Laplacian Physics” (1974)
18世紀末から19世紀初頭、特にナポレオン皇帝時代の1805年から1815年にかけてのパリでは、ラプラスがその政治力を背景として牽引したプログラムが物理科学に強い影響力をもった。ラプラスの物理学では、熱、光、電気、磁気といった現象が、相互に引力や斥力を働かせる粒子から成る不可秤量流体というニュートン主義的な概念によって説明された。ラプラスのプログラムは、ラプラスとベルトレが中心となり、ビオやポアソンといったアルクイユ会のメンバーや、ゲイ=リュサックなどによって支えられた。しかし、徐々に説明がうまくいかない事柄が増え、フーリエ、フレネル、アンペールらによる対抗理論の提唱もあって、ナポレオン没落以降は衰退した。

Eugene Frankel, “J. B. Biot and the Mathematization of Experimental Physics in Napoleonic France” (1977)
ラプラスとベルトレのプログラムは、新しい器具や技術の使用によって実験物理学の定量化を進め、測定の正確性を向上させ、物理変数間の関係を代数学的に表現し、その結果を不可秤量流体の理論によって説明しようとするものであった。このプログラムのもとで、ジャン=バティスト・ビオは電気、磁気、音、光、熱など、様々な研究分野を転々とした。このプログラムの着想は主にラプラスとベルトレによるが、その着想を具体的な形にしたのはビオの貢献が大きい。

Lawrence M. Principe, “A Revolution Nobody Noticed? Changes in Early Eighteenth-Century Chymistry” (2007)
 これまで、化学史といえば18世紀であり、18世紀の化学といえばラヴォアジェであるという理解がまかり通ってきた。それゆえ18世紀の化学史は、ラヴォアジェによる「革命」を説明するために必要な話題ばかりが集中的に取り上げられてきた。ゲオルク・シュタールの化学のなかでフロギストン説だけが注目され、その他は捨て置かれているのはその一例である。ラヴォアジェ中心の化学史は、目的論的であり視野が狭いという問題がある。
 1675年頃から1725年頃のあいだに起きた変化は、1760年頃から1810年頃の化学革命に匹敵する急激かつ重要なもので、もう一つの革命ともいえる。ボイルとラヴォアジェのあいだの時代にはキミストリー(chymistry)に大きな発展はなかったかのような説明はおかしい。18世紀初頭には、金属変成の術(chrysopoeia)もしくは変成(transmutation)が真剣な研究の領域から排除され、化学やその実践者たちの地位や職業的性格が高まり、顕著な理論的な刷新があった。この時代のフランス科学アカデミーでは、スキャンダルなどによってキミストリーの社会的地位が危うくなっていたため、フォントネルやニコラ・レムリが中心となって金属変成を追放し、キミストリーを再生しようとしたのである。この時点をもって初めて、同義語であった「錬金術」と「化学」が、それぞれ現代的な異なる意味をもつようになった。
 フランス科学アカデミーに所属し、金属変成を熱心に研究していたヴィルヘルム・ホンブルグの研究を綿密に見ていくと、当時のキミストリーがきわめて理論的、体系的で、成熟していたことがよくわかる。我々は、わずかな理論的記述にばかり注目するのではなく、キミストリー最大の特徴である実践に注目し、そこに潜んでいる彼らの思考プロセスを明らかにする必要がある。
 よく普及しているストーリーとして、1675年頃から1725年頃までのあいだに、合理的なデカルト主義の化学がアリストテレス主義・パルケルスス主義の17世紀のキミストリーに取って代わり、さらにそこにニュートン主義の化学が取って代わったというものがある。しかし、重要な化学者のうちに本物のデカルト主義者はいなかった。しばしばデカルト主義者の例として言及されるレムリの化学にさえ、実際のところデカルトはあまり影響を及ぼしていない。また、ニュートンは18世紀の化学の本流を説明する上では不要な名前である。ニュートンの名前は宣伝のために用いられることはあったが、真の影響を及ぼしてはいなかった。デカルト主義とニュートン主義の対立は物理学に見られるが、化学ではほとんど見られない。

John Gascoigne, “Joseph Banks and the Expansion of Empire” (1998)
アメリカ独立革命からナポレオン戦争の終結までの時代の英国では、その帝国主義的政策を一手に担う省庁(植民地省)が存在せず、そのためにジョセフ・バンクスのような政府内に役職をもたない専門家が助言し関与する余地が生じた。バンクスは政府要人とのパイプを活かし、アフリカ協会やロンドン伝道協会といった団体を動かして探検を加速させ、植民地の農業改良に注力し、英国の帝国主義的拡大に寄与した。のちのイギリス第二帝国による植民地政策の性格は、実はこの時期に形成されていたのである。

John Gascoigne, “The Royal Society and the Emergence of Science as an Instrument of State Policy” (1999)
パリやベルリンのアカデミーとは異なり、ロンドンの王立協会は政府から資金援助や指示を受けておらず、その自主性や独立性を誇りとしていた。しかし実際には、王立協会のメンバーは政府中枢の重要人物たちと個人的関係や階級意識で繋がっており、政府に科学関係の助言を与えていた。特に、1778年にジョセフ・バンクスが王立協会の会長に就任してからは、その結びつきが一層強まった。このように非公式な方法で政府の仕事に携わることを可能にしていた寡頭制の政治体制は19世紀に強く批判されるようになり、王立協会はより正式な方法で国家の政策に関与するようになった。総力戦下の1916年になってようやく、政府内に科学を専門に扱う科学産業研究庁が組織された。哲学者と政治家が手を携えるフランシス・ベーコンの理想は、最終的に戦争によって実現したのだといえる。

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (2010)
Introduction
ジョセフ・ダルトン・フッカーは、科学の担い手がジェントルマンから職業的科学者へと変わっていった時代の人物である。フッカーは自分や他人を評すとき、「プロフェッショナルかアマチュアか」ではなく「哲学的かどうか」という基準を用いた。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実の狭間にあったことの表れだと考えられる。
Ch. 10 “Governing” 
1865年にキュー植物園の園長に就任したフッカーには、収入を遺産やパトロンではなく政府に頼る立場でありながら、ジェントルマンを自認するというキメラ的性質があった。キュー植物園自体にも、公によって維持され運営されてきたものであるが、一方でフッカーの父ウィリアムが私的に築き上げてきたものでもあるというハイブリッド的性質があった。キュー植物園は午後の時間帯に一般の人々に開放されていたが、これはフッカーにとって、貧しい人々にも美しい空間を分け与えるというジェントルマンとしての務めであった。1870年代初頭、建設長官のアイルトン(Acton Smee Ayrton)がキュー植物園を一般向けの公園にして研究機能は大英博物館に移管させようとしたことで、キュー植物園の管理権を主張するフッカーやそれに同調したハクスリーやダーウィンらとのあいだにアイルトン論争が生じた。アイルトンは近代的な官僚制を適用して科学をプロフェッショナル化しようとしたのに対し、フッカーらはジェントルマンの科学を維持しようとする立場から抵抗したのである。

Bruce J. Hunt, “Doing Science in a Global Empire: Cable Telegraphy and Electrical Physics in Victorian Britain” (1997)
帝国の文脈は、地質学や植物学、動物学などといった自然史系の分野のみならず、電磁気学の形成にも深く関わった。19世紀後半の英国は、陸上のみならず大西洋海底にも電信ケーブルを敷設して、アメリカ、エジプト、インド、香港、オーストラリアに至るまで、世界中の植民地と英国を電信網で結んで「帝国の神経」とした。この電信網の敷設と運用に膨大な資金と人的資源が投入された結果、英国では電気に関わる単位や規格の標準化や、測定技術の発展が進んだ。また、電磁気現象を「場」の考え方を用いて定式化するファラデーのアプローチは当初支持されなかったが、海底電信ケーブルの問題を扱う上で都合が良いことがわかり、英国で独自の発展を遂げた。ドイツやフランスでは電磁気現象を粒子間の遠隔作用として捉えるアプローチが19世紀を通して支配的であったのに対し、英国では1850年代半ばから「場」のアプローチが台頭し、1860年代から80年代にかけてマクスウェルとその後継者たちによって理論が完成されたのである。マクスウェルの理論は、1888年にドイツのヘルツが電磁波の存在を実験的に示したことで確証されたが、同時に無線電信技術への道が開かれ、英国の情報優位が失われる結果につながったのは皮肉だといえる。

Robert Kargon, “Model and Analogy in Victorian Science: Maxwell’s Critique of the French Physicists” (1969)

19世紀初頭の物理学では、ニュートン主義の立場をとるラプラスやポアソンらの学派が、遠隔作用を働かせる粒子の存在を前提した上で、そこから演繹された現象を実験結果と比較する手法で物理現象の説明を進めていた。一方、実証主義者のフーリエやそれに追随したオームらは、原因ではなく法則のみを追求し、物理学を数学に還元しようとしていた。マクスウェルは、現象から出発しない前者の手法にも、物理的内実を欠いた後者の手法にも満足できず、別の手法として物理的アナロジーをつくる方向に進んだ。こうしてマクスウェルは、ファラデーの電気力線についての論文(1861–62)で有名な渦のモデルを提案したが、これを真の物理学理論だと考えていたわけではない。マクスウェルは、このようなアナロジーをつくることのメリットは、それが何も説明しないことにあると考えていた。渦のモデルが足掛かりとなって完成された論文「電磁場の動力学的理論」(1865)では、アナロジーは姿を消すことになった。

Robert M. Young, Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture, ch.4 “Darwin’s Metaphor: Does Nature Select?” (1985)
ダーウィンはライエルの斉一主義を継承したことで、生物が方向性をもって進化することを地史の定向性から類推することができなくなってしまった。ダーウィンが用いることができたアナロジーは自然選択と人為選択のあいだのそれであったが、このアナロジーによって自然を擬人化したことで、ダーウィンは多くの批判を引き受けることになった。

Robert Marc Friedman, The Politics of Excellence: Behind the Nobel Prize in Science, ch.7 “Einstein Must Never Get a Nobel Prize: Keeping Physics Safe for Sweden” (2001)
アインシュタインの相対性理論は、物理学に限らずそれまでの真・善・美の概念を破壊するものとされて様々な反対に遭った。ドイツでは、真のドイツ科学は実験に基づくと主張するレーナルトやシュタルクが、アインシュタインの理論を形而上学的なユダヤ科学として排撃する動きがあった。ノーベル賞の受賞も、スウェーデンの学術コミュニティ内部の論理によって遅れた。1919年の皆既日食の観測でアインシュタインは世界的な名声を得るに至ったが、1920年の選考では、相対性理論に対して否定的なアレニウスのレポートに賛同が集まり、また長く選考委員を務めてきたBernhard Hasselbergが病気で退職する予定であったため、彼の友人であったギヨームが選ばれた。1921年の選考では、32人の推薦者のうち14人がアインシュタインを推薦したが、王立科学アカデミーやウプサラ大学で権威を振るっていたアルヴァル・グルストランドが強く反対したことで保留となった。最終的には、病死したHasselbergに代わってノーベル物理学賞委員会に入ったCarl Wilhelm Oseenの努力によって、光電効果の法則の発見を授賞理由とすることで1922年にアインシュタインの受賞が決まった。

Robert H. Kargon, “Temple to Science: Cooperative Research and the Birth of the California Institute of Technology” (1977)
Robert H. Kargon, The Rise of Robert Millikan: Portrait of a Life in American Science, ch.4 “The Scientist in Action” (1982)

米国科学アカデミー(NAS)は1863年に創設されていたが、米国の科学研究を組織化するような役割は果たしていなかった。そこで、第一次世界大戦において科学が軍事的に重要となったことを背景として、ウィルソン山天文台を設立した天文学者のジョージ・ヘールの呼びかけのもと、学術・産業・教育・政府の各界から代表者を招いた全米研究評議会(NRC)が1916年に創設される。ヘールと、彼を助けた物理学者のロバート・ミリカン、化学者のアーサー・ノイズの三人は、天文学や物理学や化学といった異なる分野が垣根を越えて協力することが今後の科学にとってきわめて重要だという認識を共有しており、カリフォルニア工科大学(Caltech)をそのような場所に生まれ変わらせようとした。彼らは、科学研究が連邦政府によってコントロールされてしまうことを恐れていたので、NRCの人脈を活かして民間のパトロンを集め、1920年代におけるCaltechの躍進を実現した。しかし、世界恐慌や第二次世界大戦の時期になると民間のパトロンは不十分となり、連邦政府による介入が本格化していくことになった。

John W. Servos, “The Industrial Relations of Science: Chemical Engineering at MIT, 1900–1939.” (1980)

20世紀初頭、マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学者アーサー・ノイズは、学生たちに工学の実践よりも物理学の原則を教えることで、MITを単なる技術学校から基礎科学に基づいた大学へと改革しようとした。一方、同じくMITの化学者であったWilliam Hultz Walkerは、ドイツの化学産業が科学者たちと経営者たちの協力によって飛躍的発展を遂げたことを念頭に、応用科学を重視して産業界との直接的な結びつきを強化しようとした。ノイズは物理化学研究所を、Walkerは応用化学研究所を、それぞれMIT内に立ち上げてプロジェクトを進めていたが、第一次世界大戦が始まると、ドイツからの輸入が途絶えたことで米国の化学産業が急速に拡大し、状況はWalkerに有利となった。ノイズは辞職し、MITの化学は産業界から支援を受けて産業のための実践的な研究をするという、Walkerの路線を突き進んで発展していった。しかし、やがてMITの化学者たちは産業界に主導権を握られている状況に不満を覚えるようになり、また世界恐慌によって産業界がMITへの支援から手を引いたことで、学長のカール・コンプトンは産業界の下僕にはならない方針を打ち出し、MITはかつてノイズが構想した方向性に近づいていった。