2019年10月27日

シェリングの自然哲学 Richards, The Romantic Conception Of Life, 第3章第2節

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 128–146.


第3章「シェリング――自然の詩」

第2節 自然哲学


● 自然哲学の基本的なもくろみ(128129ページ)

 シェリングは、1797年から19世紀はじめの数年間までのあいだ、自分の「自然哲学」を経験的な自然科学の代替物と考えたことはなかった。彼が自然哲学について書いた文章は、当時における最新の実験的研究への参照でいっぱいである。彼は自然哲学を、経験的発見からつくられた法則を体系化し、その体系をより高いレベルのア・プリオリな諸原理に基づかせるための枠組みとみなしていた。この点でシェリングの自然哲学には、物理学の基本法則の由来を先験的なカテゴリーに求めたカントに近い性質がある。しかし、シェリングは物理学の基本法則だけでなく、後期のカントが真正な科学から除外した化学・生物学・医学の法則をも、ア・プリオリな諸原理から引き出そうとした点で、カントの先に進もうとしたのである。

 19世紀中頃になると、経験科学者たちは自然哲学の一部の系統に対して敵対的になっていった。たとえばシュライデン(1804-1881)は、シェリングやヘーゲルがドグマ的で思索的なやり方で自然の事実や法則を演繹だけによって確立しようとした(と彼は考えた)ことを批判した。シュライデンにとって、自然科学の基礎は帰納的で実験的な事実の確定によって形作られるものだったのだ。フンボルト(1769-1859)は、はじめシェリングの自然哲学に熱中していたが、後にはシェリングの門下生にあたるネース・フォン・エーゼンベック(1776-1858)やカール・グスタフ・カルス(1789-1869)に対して用心深くなっていった。しかし、シェリング本人とは良好な友人関係を保ち続けていた。


● 『自然哲学の諸考察』(129137ページ)

 自然哲学に関するシェリングの最初の主要な業績『自然哲学の諸考察』(1797)は、第一部で、燃焼、光、気体、電気、磁気などの諸現象に関する最新の研究を検討している。シェリングはこうした帰納的な分析が、様々な自然現象は引力と斥力という二つの根源的な力の変形とみなせるという自らの物理学的仮説を支持するはずだと信じていた。第二部では、シェリングには二つのねらいがあった。一つ目は、外部からのみ力を受ける、小さくて不可分で受動的な原子というニュートン主義的な物質を仮定する理論では、自然科学の特別な現象を説明できないということを示すこと。二つ目は、ニュートン主義的なものよりも有望な、究極的には超越論的観念論によって正当化される見方をつくり出すということであった。

 シェリングは、引力と斥力の動的な平衡としての物質という概念を、カントに倣って先験的に演繹しようとした。彼の議論によると、我々が物体を経験することができるのは、我々に働く力の作用によってであって、力をもたない物体などというものは経験することができない。力をもたない物体は「物自体」であって、そのような受動的物質を想定する合理的な理由はない。受動的物質ではなく、むしろ、経験を説明するのに必要な力だけを想定するほうがいい。物質を引力と斥力の平衡から成るものとすれば、電気や磁気、化学的親和性などといった現象は、力だけから引き出すことができる。ニュートン主義的な機械論の物理学・化学は、同質な原子の外的関係によって異なる種類の物質を構成しなければならないという難題を抱えている。その一方で、力に基づく動的な化学は、引力と斥力の特定の不均衡の産物として、様々な物質を説明できる。

 シェリングは一方で、物質世界の経験可能性は物自体などという謎めいたものに依存しないというフィヒテ的な立場もとった。シェリングの考えでは、自然界も経験的な自我も同じように、心の二つの力の相互作用によって生じる。一つは外へ向かって拡大していく創造的で無限な力(無限的自我)であり、もう一つは制限し造形する力(絶対的自我)である。後者は前者に制限を課し、経験的自我はこの制限を感じ取る。この制限が、「非我」と解釈されるものである。つまり、感覚的直観それ自体が、直観される物質をつくるのである。このような議論によって、物理世界の経験は無限なる心のなかに封印された。自然のシステムは我々の心のシステムでもあるということになったのである。

 自然哲学の課題は、自然の様々な現象や関係がいかにしてその源である自我から生じるかを示すことであった。しかし、絶対的自我は自然だけでなく有限的な自己をも生むものである。それどころか、自然と経験的自己は、いわば相互に依存して発展するのである。というのは、外界を意識することで自己の意識が生じるからであり、現実世界の存在への信念は自己の存在への信念とともに発展するものだからである。このことから、二つの相互補完的な側面をもつ確信が支持される。第一に、自然は自分と同一である以上、自然の研究者は自然を理解し尽くすことができるはずだということ。第二に、自然は自己へといたる道を提供するだろうということ。深い森や異国の地に入っていくことが、自己の発見につながるだろうということである。

 『自然哲学の諸考察』の序文でシェリングは、西洋哲学の歴史を人間の精神的発展の歴史として解釈した。その歴史のなかで生じた心と物質の分岐、すなわち絶対的自我の断絶を修復するのが、自分の哲学の役目だと彼は考えた。

 シェリングは、カント主義者たちが物自体のせいにして済ませたような因果関係も、絶対的自我の自由な決定であることを示したかった。しかし、自然のさまざまな事実、たとえば花が受粉に昆虫を必要とすることや、哺乳類が血を浄化するのに腎臓を必要とすることなども、自我によって決まるのだろうか。シェリングの哲学に立ちはだかったのは、自然の究極的な事実性だったのである。


● 心と自然の有機体(137139ページ)

 シェリングは次に『世界霊について』(1798)で、有機体の概念に基づく自然哲学を展開した。カントは、有機体はその各部分が実現する目的(たとえば、心臓は腎臓に血を送り、腎臓は血液を浄化する)という観点から理解できるとしていた。また、各部分の機能は、全体のデザインという観点から理解されなければならないとしていた。シェリングはこれを受けて、このような目的論的構造が生物を特徴づけていることを論じ、フンボルト、ブルーメンバッハ、キールマイアー、ライルがいずれも生物に関して目的論的構造の概念に頼っていることを指摘した。さらに、ラヴォアジエらをはじめとした物理学や化学の最近の研究は、非生物の世界を理解するのにも有機体の概念が必要であることを示唆していると論じた。カントは、有機体的構造は知性によるものだとした上で、発見的手法として神の働きを想定していたが、シェリングは、そのような有機体的構造が自然に遍在していることは、心の有機体的なあり方によってのみ説明できると考えた。 


● 実験科学のア・プリオリな性質(140–145ページ)

 シェリングは1799年に発表した『自然哲学の体系の最初の構想』と『自然哲学の体系構想への序論』において、超越論哲学を最上位に置いたフィヒテの考え方をはっきりと捨て去り、「同一哲学」へと向かった。いまやシェリングは、自然哲学が独立した学問として確立できることを示したいと考えるようになった。そのために彼は、自然哲学は経験科学に取って代わるものではないこと、自然科学の核心は実験であること、世界に関するあらゆる知識は初めに経験から得るしかないことを確認した。

 それでもなお、シェリングは、経験的に獲得された知識を演繹的な体系に投げ入れることができると信じていた。これは、我々の知識が有機的で体系的な総体(フンボルトが後に採用する言葉でいえば「コスモス」)を見せる世界を反映するという想定のもとで可能となる。彼は、自然哲学によって自然科学が、神学や超越論哲学から独立した客観的かつ自律的な学問になることを示そうとした。

 自然哲学が自律的に確立されるということは、世界で起きるあらゆることは自然の力によって説明されなければならないということである。そこでシェリングは、自我を支配する原理であったものを、自然の根本的構造に作り変えた。以前に彼は、絶対的自我と無限的自我を区別したが、これを自然に移し替えて、生産力としての自然と生産物としての自然という、非我の二つの面を区別したのである。前者は自然の主体的な面であり、後者は客体的な面である。こうしてシェリングは、自然の根本的な力を、自我の相反する動きからではなく、自然それ自体の弁証法的な過程から生じるものとして扱うようになったのである。

 しかし、自然哲学に対するこのような新しいアプローチのなかですら、シェリングは超越論的議論に頼ることなしには自然の原理を確立できなかった。自然の原理は、我々の意識的経験の状態であるということが仮定されたのである。彼は、自然哲学が独立性を失わないように、自我に関する体系的な議論を避けながらも、その一方で、超越論的哲学が提供する究極的土台に言及しないわけにはいかなかった。彼はまだ、自然の概念を形成する過程のなかでもがいていたのである。

 シェリングは、自然の無限の生産力を、unendliche Evolutionと表現した。Evolutionという単語は、発生学から借用されたもので、前成説を意味していた。彼は、生物の本質的なイデアあるいは原型はすでに存在していて、その経験的現実化が時間的発展を要求すると考えたのである。シェリングは現実の進化を提案していたし、種の変化にこの単語を適用した最初の論者であったように思われる。11章で見るように、シェリングとゲーテは進化について共通の考えをもっていた。


● 自然哲学の個人的要因(145–146ページ)

 シェリングの自然哲学の源は、カントやスピノザやフィヒテに求めることもできるし、実験的な自然科学研究に求めることもできる。彼が、自然の生産力が反対の制限する力を克服して実現に至ることに関連して動物の性について書いた箇所は、シュレーゲル兄弟らのサークルに参加したことの影響を受けている可能性がある。彼は当初、性を矛盾と混乱に満ちたものと捉えていたが、後により肯定的に見るようになった。このことはカロリーネの存在と関係していたのではないか。


2019年9月15日

シュライアマハーの宗教論 Richards, The Romantic Conception Of Life, 第2章第7節

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 94–105.


第2章「初期のロマン主義運動」
第7節 フリードリヒ・シュライアマハー:宗教の詩学と性愛学

 フリードリヒ・シュレーゲルが深く関わり大きな影響を受けたもう一人の人物が、シュライアマハーであった。シュライアマハーは1768年にブレスラウ(ポーランド)で改革派牧師の息子として生まれ、ヘルンフート兄弟団の学校で教育を受けたが、ゲーテやカントを好んで読んだ結果として宗教的に異端の思想を抱くようになっていった。ハレ大学で神学を学んだ後、家庭教師などの仕事を経て、1796年からベルリンにあるシャリテ慈善病院の牧師として働き始めた。ここでシュライアマハーは、ユダヤ人医師のマルクス・ヘルツの妻であったヘンリエッテ・ヘルツと深い関係を結ぶようになった。

 同時期に、シュライアマハーはシュレーゲルとも出会った。二人は意気投合し、2年間にわたって共同生活を送った。シュレーゲルに文章を書くように促されたシュライアマハーは、1799年に代表作のひとつである『宗教論』を匿名で発表した。この本はすぐに多くの人に読まれて、シェリングは冷笑的であったが、シュレーゲルをはじめ多くの人々が評価して、ロマン主義の潮流の一部となっていった。

 この本でシュライアマハーは、芸術と愛によって陶冶される直観と感情こそが宗教の本質であり、無限なる存在に対する絶対依存の感情を解き放つものだと論じた。これは、カントに反対して、宗教への衝動を道徳やカントのいう幸福から区別するものでもあった。シュライアマハーの考えでは、性愛は宗教を基礎づける直観を受容するための準備をする。有限な存在である人間が、カントの引いた境界線を超えて無限なる「宇宙」に至る手段が、愛と詩であった。

 シュライアマハーの議論では、宗教の教義はその直観を呼び起こすのに役立つかもしれないが、それ以上の役割は持たないことになった。『キリスト教信仰』(1821–22)では、神学の諸説はある種の感情(無限者に対する絶対依存)を比喩的に表現したものに過ぎないと論じた。このようにして科学と宗教を調和させるシュライアマハーの解決策は、19世紀の多くの科学者に受け入れられた。

ドイツ自然哲学とロマン主義的生物学 Richards, The Romantic Conception Of Life, Introduction

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 1–14.


イントロダクション:最も幸福な出会い

 1794年7月20日、ゲーテ(1749–1832)とシラー(1759–1805)はイエーナ自然科学協会の集まりで同席した。2人は6年前から知り合っていたが、関係はよくなかった。シラーは超然とした天才風のゲーテに敵愾心を抱いていたし、ゲーテはカント的な主観主義の立場をとるシラーに当惑していた。それゆえ、ゲーテとシラーは集まりの後、お互いに用心しながら議論をした。ゲーテはこのとき、講演していた植物学者アウグスト・バッシュの意見に反して、自然の研究は全体から部分へと進むのでなければならないと話した。シラーはこれに好奇心をそそられて、ゲーテを家に招いて会話を続けた。ゲーテは、すべての植物を理解するための形態学的モデルとなる「原植物 Urpflanze」のスケッチを見せたが、シラーは「これは経験ではない、理念だ」と言ったので、ゲーテは憤慨した。しかし、この出会いはゲーテとシラーの終生続く友情の始まりとなったのである。

 ゲーテは『形態学のために Zur Morphologie』(1817–24)の最初の回で、この出会いについて書いた。このことは、ゲーテの理論がロマン主義的感覚から生じたものであることを示唆しているように思われる。ゲーテをロマン主義者だとするのは、奇異な考え方に映るかもしれない。たしかにゲーテは、ロマン主義を批判していた。しかし1830年には、自らの意志に反して自分自身がロマン主義者だったということをシラーによって納得させられたと述べている。

 19世紀の科学を研究する歴史家たちはふつう、ロマン主義的科学というようなものは何であれ異常なものとして片付けてしまう。歴史家のTimothy Lenoirでさえ、この時代の「本物」の生物学者たちを切り分けてこの汚名から守ろうとした。しかし、当時の生物学を、そこに生命を吹き込んでいた思想や文化と繋げて捉えれば、生物学の多くの主題がロマン主義の様式で演奏されていたことがわかるだろう。

 この本のパート1では、ロマン主義の潮流を生み出したノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、シュライアマハー、シェリング、ゲーテ、カロリーネ・シェリングらの人生と思想を追う。パート2では、カント、ヘルダー、ブルーメンバッハ、キールマイアー、フンボルトらによる生命の本質の定式化を考察する。彼らの定式化は、シェリングやライルと融合し、変形した。パート3では、ゲーテと彼のロマン主義に対する一見矛盾した評価の問題を扱う。エピローグでは、ドイツのロマン主義がダーウィンに与えた影響を論じる。この本は伝記的な性質が強いが、それは、思想がつくられているところを捉えるためには、その人物の特徴について詳しく理解することが重要だと確信しているからである。


● 自然哲学とロマン主義的生物学の歴史的意味

 これまで、「ロマン主義」や「自然哲学 Naturphilosophie」といった言葉は定義されずに曖昧に用いられることが多く、そのせいでそれらが科学の歴史のなかで果たした役割が侮られることが多かった。この本では、「ロマン主義的生物学」や「自然哲学」といった言葉で表される思想の起源と発展を辿ることでその定義をしていくが、その前に暫定的な定義をつくっておきたい。これからそれらの思想の特徴をいくつか述べるが、それらすべてを組み込んでいた思想体系が存在したわけではない。ある思想体系がどれくらいロマン主義的、あるいは自然哲学的であるかは、そのうちどれくらい多くの特徴をもっていたかで判定されることになる。

 「自然哲学」と「ロマン的」はどちらも18世紀初頭に導入された言葉だが、18世紀末の人々によって新しい方向づけがなされた。両者は深く関係した歴史を辿ってきたし、現在では相互に交換できる言葉として使用されることも多いが、異なるものである。私は、ロマン主義的生物学をドイツ自然哲学という属の一つの種として理解することを提案する。


● 自然哲学

 自然哲学の主要な人々は、カントやシェリングやゲーテが普及させた、生物はいくつかの「原型」を示しているという考え方を採用した。たとえば、動物の原型として「放射相称動物 radiata」「関節動物 articulata」「軟体動物 mollusca」「脊椎動物 vertebrata」の4つがある。

 カントは、生物のこのようなあり方が示唆しているのは、生物はそれが具現化しているところの理想(ideal)から生み出されているということだと主張した。しかしカントは、自然の科学的分析は機械論的、ニュートン科学的におこなわれなければならないとも説いていた。そこでカント主義の生物学者は、原型という概念をあくまでも発見的方法として用いるしかなかった。一方、シェリングやゲーテ、それに追随した生物学者たちは、原型が生物学者にとって必要な仮定であるならば、自然が本質的に原型的である――つまり機械的というよりも有機体的である――とみなしてもいいはずだと考えた。

 自然哲学者たちは、原型の具体化や漸進的な変異を説明するとき、特別な力の存在に訴えた。しかしそれは物理学的な力と両立しないものではなく、むしろ物理学的な力の特別な適用(動物電気や動物磁気など)であったり、物理学的な力から生じたもの(生命力 Lebenskraftや形成衝動Bildungstrieb、自然選択など)であったり、物理学的な力を構成するもの(シェリングのpolar forcesなど)であったりした。また自然哲学者たちは、物質と精神を同じひとつのもののあらわれと見る一元論を採用し、自然を調和的で統一されたネットワークとみなした。

 原型が自然のなかでどのように具体化されるかについては、3つの異なる理論があった。シェリングらは、原型の変異の出現を、漸進的発展の結果とみなした。これは反宗教的とみなされやすかったので、イギリスのジョゼフ・ヘンリー・グリーンやリチャード・オーウェンは、原型は神の心のなかにあるもので、原型が自然のなかに出現するのは神の活動の結果だということにした。そしてダーウィンは、原型的構造を抽象的なものとしてではなく歴史的な産物とみなした。

 自然哲学者たちは、個々の生物や自然全体を、目的論的に理解されるべきものだと考えた。ただしそれはイギリスの自然神学とは異なり、スピノザ的に神と自然を一体とみなすものだった。このような考え方は、デカルトやニュートン以来の機械論に反している。自然は創造主のデザインの産物ではなく、それ自身を生み出す存在となった。時計のような機械に歴史性を見出すことは難しかったが、このような自然哲学の見方は、自然に歴史を見出すことを可能にした。


● ロマン主義的生物学

 ロマン主義者たちは、自然哲学の考え方に、美的・道徳的な要素を加えた。

 ロマン主義的生物学者たちは、目的論的判断と美的判断は論理的に類似しているというカントの分析を受け止めて、両者は自然に対する相互補完的なアプローチだとみなしていた。これは、芸術的な方法と科学的な方法が調和するという考え方につながった。ロマン主義的生物学者たちはしばしば、生物全体や自然環境全体の美的把握が、個々の部分の科学的分析の前に必要だと論じた。

 カントはさらに、美的判断と道徳的判断の論理的類似性を指摘した。このことから、自然の科学的・美的把握は道徳的要素も含むということになった。そこでロマン主義的生物学者たちは、自然は法則性や美的喜びだけでなく、道徳的価値の宝庫でもあると考えた。

ロマン主義の人生と生命観 Richards, The Romantic Conception Of Life, Prologue

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. xvii–xix.


プロローグ

 この本のタイトルは、この研究の2つの側面に関係している。1つは、この本で議論する個々人によって経験されたものとしての人生(life)である。彼らはロマン的な人生を送った。恋人が15歳で亡くなり自身も30歳になる前に亡くなった若い詩人(ノヴァーリス)。革命のときフランス人兵士にあっという間に夢中になり、彼の子どもを身籠っているあいだに幽閉された美人(カロリーネ)。友人の妻と恋に落ち、その娘とも恋に落ちた哲学者にして科学者(シェリング)。ローマへ逃げ延びて、繊細な詩で性の解放を称賛した有名な書き手(?)。これらの人々は、中産階級の道徳的慣習に反抗し、自由の理念を唱道し、その普通でない生涯の記憶を自叙伝や手紙に、さらに非直接的な形では詩や小説、神学的・科学的文章にも書き残した。彼らは、意識的に「ロマン的」という言葉を盗み取って専有した。そして、彼らの人生がこの言葉の意味を定義することになったのである。

 もう1つは、そのような人生を送った個々人が、詩や哲学や科学を通して、生ある自然をロマン主義的な様式で理解しようとしたということである。一般的には、彼らは一様に啓蒙主義の理性重視に反対していたのだと理解されているが、実際のところはそういうわけではない。むしろ、ロマン主義者たちの多くは、科学的精神は宇宙の隅々までを見通すことができると考えていたという点で理性主義的であったとさえいえるかもしれない。だが彼らは、美的な判断が現実の深い構造に至るもうひとつの相補的な道を提供するとも主張した。特に、哲学や科学を詩的に変容させることで、それまで考えられなかったような自然の特徴を明らかにできるかもしれないという主張をして、哲学や科学の性質に関する想定に根本的な変化をもたらした。この新しい理解に勇気づけられて、ロマン主義者たちは、科学の進歩の原動力として機械論を推進してきた、それまでの思想の防波堤に襲いかかった。デカルトやニュートンからヒュームやカントまで、機械論は生きていない宇宙だけでなく生きている世界も理解するための基本的な思想であった。ロマン主義者たちは機械論の思想を有機体の思想で置き換え、自然を理解するための主要な指針としてそれを用いたのである。

 1780年から1820年までのあいだ、つまりゲーテの時代に、彼らは「共同で哲学」し「共同で詩作」するために集まった。そのなかの科学的なメンバーは、哲学者の関心や詩人の感覚を生命の実験的探究に持ち込んだ。ロマン主義者たちは、表現の芸術的様式と科学的様式の関係についての強力な思想を考案したのである。しかし、彼らの着想は、彼らの具体的な人格や、愛や憎しみに燃えた人間関係のなかから生まれたものである。私は初期のロマン主義思想家たちの哲学的・科学的思想を、それらが先人の知的遺産や直接の科学的経験、そして緊密な人間関係といったものから現れた通りに追ってきた。

 この本は、ニュー・クリティシズムの立場には与さず、彼らの人生がどのように彼らの仕事に影響したかを示していく。しかしそれだけではなく、彼らの仕事がどのように彼らの人生に影響したかも示していく。
 この本を通して、私はいくつものテーマを扱っていく。私のねらいは、いかにして自我の概念が、美的・倫理的考慮とともに、自然の生物学的表現に補完的な形を与えたのかを示すところにある。しかし、それらのテーマは、異なる個人や出来事に関わるので、この本のいくつかの部分でそれぞれに展開していく。

 この本のさまざまなテーマや議論は、エピローグで明確になる結論に向かって流れていく。そのエピローグでは、ロマン主義の思想がダーウィンの自然や進化の概念に形を与えた根本的な筋道を描く。ロマン主義的科学と呼ばれるものは何であれ、せいぜい19世紀科学思想の小さな支流と考えられる程度であったが、私の結論はまったく異なっていて、19世紀生物学の中心的な流れはロマン主義の運動に起源をもっていたというものである。

2019年2月3日

フランス流自然分類法のイギリスへの導入 Endersby, Imperial Nature, Ch. 6

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (Chicago: University of Chicago Press, 2008), pp. 170–194.

第6章 落ち着かせること(Settling)

フッカーにとって1850年代は、自身の仕事や生活を落ち着かせる時期であった。それと同時に、フッカーは植物分類体系に関する混乱も落ち着かせようと試みていた。
リンネの分類体系(性の体系)はシンプルかつ客観的であり広く普及したが、本人も認めていたように、ごく一部の性質だけに基づいている点で人為的な体系であった。より自然な分類を目指す試みは、アダンソン、ド・ジュシュー、ド・カンドルによってフランスで発展し、自然分類として知られるようになった。

一方、イギリスではリンネの分類体系に対する支持が根強く、分類学者たちは植物の構造を研究することに熱心でなかった。大陸のほとんどでリンネの体系が捨て去られたあともこの傾向は続き、イギリスの植物学は遅れていると言われるようになっていった。植物学者のジョン・リンドリーなどはリンネの体系を激しく批判していたが、初学者には有用だという観点から擁護する声も強かった。

リンネの体系を批判する人々も、代わりにどのような体系を支持するかという点ではまったくまとまらなかった。自然分類を主張する主流派のなかでも、具体的な原理についての意見はバラバラであった。同一の人物でさえ時期によって意見が変わってしまい、リンドリーの本は以前の著作と内容があまりにも大きく異なっているとして批判された。1858年から62年までのあいだにはイギリスの植物相に関する本が3冊出版され、どれも自然分類を標榜していたが、ブリテン島に存在する植物種の数について、1708種、1571種、1285種と大きく異なった数を出した。こうした混乱は、リンネの体系を擁護する人々を利していた。

さらに、他の分類体系を主張する人々の存在が混乱に拍車をかけていた。ウィリアム・シャープ・マクリーが提唱した5つ組の分類は広く支持を集めていたし、他にもジョージ・ラックスフォードが提唱した7つ組の分類、エイドリアン・ハワースが提唱した二分法の分類、トーマス・バスカービルが提唱した球状の分類などがあった。こうした理論には典型的な特徴として、人為的な分類に対する批判や、植物間の類縁関係への注目があった。また、ローレンツ・オーケンをはじめとするドイツの自然哲学から大きな影響を受けている傾向があった(→参考:グールド『フラミンゴの微笑』第13章「五の法則」)。

以上のような議論の紛糾は、植物学は指導原理のない非哲学的な研究分野だという印象を広め、その地位を危うくしていた。植物に関心のある一般大衆にとっても、こうした状況は困惑のもととなっていた。また、本国での議論は、植民地のナチュラリストたちにも非常に強い影響を与えており、フッカーにとっては悩みの種であった。

フッカーには、なんとしてもリンネの体系を自然分類に置き換えたかった。というのも、リンネの体系が維持されている限りは、植物分類の研究はより信望のある植物分布や植物生理の研究から切り離されたままだからである。フッカーにとって自然分類は、分類の営みを植物学全体の真ん中に位置づけるための鍵であった。フッカーは自然分類とリンネ式分類の二つの検索表を併用することで、植民地の収集者たちをリンネ式から自然分類に移行させようとした。

同時にフッカーは、自然分類の複雑性を、自らと植民地の収集者たちのあいだに格差を維持するために用いていた。フッカーは自著のなかで分類の複雑性や難しさを強調し、自分には推論をする資格があるが収集者たちにはないということを暗黙裡に伝えようとしていた。これは特にスプリッターたちに対する警告であった。

動物分類の分野では、ヒュー・ストリックランドが分類を安定化させる役割を果たしていた。ストリックランドは、分類に関する議論の仕方を定めるのではなく、意見を言う資格がある人間が誰かを定めて、地方のナチュラリストたちを分類のプロセスから排除することで分類の混乱を収拾していた。フッカーとストリクッランドは、似たアプローチを用いていたといえる。

メモ:リンネ以降の植物分類体系の系譜
①【いわゆる人為分類】リンネ
②【いわゆる自然分類】アダンソン(仏)→ ド・ジュシュー(仏)→ ド・カンドル(スイス)→ ベンサム&フッカー(英)→ ベッシー(米)
③【いわゆる系統分類】(ダーウィン)→(ヘッケル)→ アイヒラー(独)→ エングラー(独)→ メルヒオール(独)の新エングラー体系