2020年1月17日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 6

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 6.

第6章「メンデル主義の出現」

 「メンデルの再発見」についての理解は見直しが進んでいる。Sternは、チェルマクが1900年の論文においてメンデルの法則を理解していなかったことを指摘した。Olby(1985)によれば、チェルマクは前メンデル主義的な遺伝概念のなかで、現在ではメンデル主義的現象とされるものを理解したのである。

 一方、コレンスが1890年代後半にダイズ雑種の調査で3:1の分離比に出会ったことは、広く認められている。コレンス自身は、細胞学の進歩のおかげでペアになった形質について考えることができたのだと述べており、ゴルトンやヴァイスマンの遺伝主義が、多くの世代を経ても変わらない形質に対しての注意を惹きつけたのだと思われる。しかしOlby(1985)は、ヴァイスマンがメンデル主義を拒否したことを指摘し、細胞学それ自体が助長したのは、ペアではなく多数の遺伝的単位というアイデアだったと示唆している。1900年までの一般的背景における変化が何であれ、ペアになった形質というメンデルの概念はなにかしら提供するものがあったのである。Olbyは、コレンスでさえメンデルの論文を読むまでは、実験結果の完全な重要性を正しく評価できていなかったと示唆している。実際、コレンスはド・フリースの最初の報告を読むまで、自分の論文の執筆はゆっくりとしか進めていなかった。形質のペアが複数の世代にわたってどのように振る舞うかに関するメンデルの分析は、どの再発見者によるものよりも優れており、最初の遺伝学者たちの考えを形作る上で決定的な役割を果たしたのである。コレンス自身は、メンデルの法則が普遍的に成り立つことを疑い続けていた。

 多くの研究が、ド・フリースが1900年の二つの論文で展開した解釈はメンデルの説明に大きく依存しており、ド・フリースは分離の現象を独立に発見してはいなかったことを主張している。Meijer(1985)によれば、ド・フリースはおそらく数年前にメンデルの論文を見ていたが理解できず、1900年に読み直してようやく、それが自身の実験結果を分析する新しい方法を提供していることに気付いたのである。1890年代におけるド・フリースの研究は変異の性質に関するもので、パンゲンの数の変化による変異と、新しい種類のパンゲンの出現による、種を形成する変異を区別していた。新しい形質が単位として形成されることを実証するために、ド・フリースはある種の一つの形質が交雑によって別の種に移動できることを示そうとしていた。ド・フリースは1900年にメンデルの術語を採用しはじめたが、その後すぐに放棄し、メンデルの法則は新しい形質の起源という問題に光を投げかけないので重要性は低いと論じるようになった。多くの生物学者は、不連続的な進化には不連続的な遺伝のモデルが必要だと感じていたので、ド・フリースの突然変異説はメンデル主義の運動を助けることになったが、ド・フリース自身は自分が発見した突然変異がメンデルの法則に従うとは考えていなかった。

 はじめ進化形態学者であったベイトソンは、『変異研究のための資料』(1894)でダーウィン主義の進化論を攻撃し、新しい形質は生物学的なプロセスによって生み出され、その生物にとって役に立つかどうかにかかわらず永続するのだと示唆した。変種を分け隔てる単位形質がどのように振る舞うのかを理解しようとして、ベイトソンは変種の交雑実験をおこなっていた。ベイトソンはメンデルの比率を認識してはいなかったが、諸形質を別個の単位として考える準備ができていたのである。妻による伝記によれば、ベイトソンはメンデルの論文をロンドンへの電車のなかで読み、王立園芸協会での講義に取り入れたのだというが、Olby(1987a)によれば、このときベイトソンが読んだのはド・フリースの最初の論文であり、メンデルの仕事についてはまだ知らなかった。ベイトソンのメンデル主義への転向は、その後の2年間で漸進的に進んだプロセスであった。
 1902年の『メンデルの遺伝原理』では、メンデルの論文を翻訳するとともに、その法則が普遍的に成り立つことを論じた。同じ年にallelomorphの語(のちにアレルalleleと略される)を生み出し、1905年には遺伝学geneticsの語を生み出した。そしてパネットらの追従者とともに、メンデル主義を適用できる現象を拡大する一連の実験をおこなった。しかし、ケンブリッジにおける立場は不安定で、結局はジョン・インズ園芸学研究所に移った(パネットはケンブリッジで最初の遺伝学教授となった)。Sapp(1987)は、遺伝学という新しい科学を確立しようとしたベイトソンの努力は、生物学の伝統的な領域の権威に対する挑戦であったと論じている。遺伝学を実験的科学として提示することで、他のバックグラウンドをもつ生物学者たちは遺伝の領域から締め出されることになった。生物測定学派との論争は、このような縄張り争いの産物であった。『遺伝学の問題』(1913)でもダーウィン主義への攻撃を継続したが、ド・フリースの突然変異説で提唱された種類の跳躍には疑いを抱くようになったことも示している。翌年の講演では、進化において真に新しい遺伝的形質が生み出されることはないと示唆した。新しい形質にみえるものは、それを覆い隠していた遺伝子が退行的突然変異によって破壊されたことによって生じているというのである。しかしベイトソンの追従者たちはそのような留保をつけず、パネットの『メンデル主義』(1907)は、跳躍的進化をもたらす新しい形質の源として突然変異を公然と支持した。

 一方、ピアソンとウェルダンはゴルトンの祖先遺伝の法則を擁護し続け、メンデル主義者の主張を否定していた。ピアソンは実証主義の哲学を採用していたので、遺伝に関して何らかのメカニズムを仮定するあらゆる試みに懐疑的であった。それに対してベイトソンは、より単純な帰納主義の方法論を採用していた。Coleman(1970)によれば、ベイトソンは「保守的な」哲学的立場とよばれていたものも採用していた。Mackenzie(1982)によれば、これはすべてを集団の観点から考えようとする生物測定学に対する疑念につながっていた。
 ベイトソンは、各々の形質のペアは細胞核のなかにあるペアになった粒子によって支配されているという説明を拒否していた。Coleman(1970)によれば、ベイトソンは唯物論の反対者であり、細胞全体に行き渡った波かなにかの物理的機能が遺伝情報の伝達を担っているのだという全体論的な見方を好んだのだという。また、成長する生物のなかで形質がどのように生み出されるかを遺伝の完全な理論が説明するという望みも捨てていなかった。

 フランスの生物学者たちは、ベルナールやパストゥールといった生理学者や微生物学者によって確立された概念的枠組みのなかでメンデル主義を評価し、新しい科学を確立しようとしなかった。それゆえ、フランスに重要な古典遺伝学者は現れなかったが、のちに分子生物学の出現に際して重要な役割を果たす学者たちが現れた。ドイツでは、メンデル主義の状況はフランスよりは良かったが、染色体説の受容にはつながらなかった。フランスとドイツの生物学者たちは、遺伝の完全な科学が形質の生産を説明するという希望を諦めず、細胞質が重要だと主張して染色体の強調を拒んだ。

 ヨハンゼンは、表現型と遺伝型の区別によって、生物学の独立した領域として遺伝学を確立するのに大きく寄与した。しかし、ヨハンゼンは当初、これらの術語を個体ではなく集団の観点から定義しており、その後意味が変化している。ヨハンゼンは自家受精する豆を用いていたため、メンデルの分離の現象にはあまり関心をもたなかった。固定された遺伝型としての純系というヨハンゼンの概念は、種は明確に定義された形態に基づくという古い類型学的な見方を反映しているように思われる。ヨハンゼンはベイトソンと同じく、遺伝子を染色体の物質的粒子とみなしたがらなかった。ヨハンゼンにとって、遺伝子は永遠に観察できないものであり、おそらくは生物全体のなかの安定したエネルギーの状態から成るものであった。ベイトソンとヨハンゼンはどちらも、メンデル主義を跳躍的進化に結びつけたが、遺伝的伝達を物質的粒子の観点から視覚化しようとしなかった。これは、19世紀の生物学と古典遺伝学の中間段階を代表している。

 次の段階となる染色体説との結びつきは、米国の生物学で特異に起こった出来事であった。米国では、生物測定学との論争は起こらなかった。ハーバードでは、ベイトソンに触発されたキャッスルが、ハツカネズミの白化が劣性形質として振る舞うことを示した。しかしキャッスルはすぐに、メンデル主義の単位形質は完全に別個ではなく、互いに混合することがあると論じた。同僚のイーストは、形質は必ずしも単位とみなせないが、それは単一の形質に対して複数のメンデル主義的ファクターが影響しているからだと論じた。しかしイーストも、遺伝子が一つの物質的存在に合致するという考えには抵抗した。イーストの見方では、遺伝子の概念は交配実験の結果を分析するのに使われる数学的で抽象的な概念にすぎないのである。
 モーガンはダーウィン主義を批判し、新しい形質は跳躍かド・フリース的な突然変異によって、有益かそうでないかにかかわらず確立されるものだと考えていた。また、1910年まではメンデル主義も批判し、染色体説も形質が生み出される発生のプロセスを無視している前成説だとして批判していた。

 ド・フリースなどの例外を除き、多くの初期のメンデル主義者は、予め形成されている遺伝粒子という概念に敵対的であった。また、モーガンなどの発生学者は、遺伝的伝達をそれ自体で研究する価値のある領野だとみなしていなかった。発生学と遺伝学の区分は現れはじめたばかりで、原理的に定義されていなかった。1910年頃に、染色体の振る舞いはメンデルの法則で説明される効果と並行関係にあるという認識を通して、この区分が明確化しはじめ、古典遺伝学の出現がはじまる。

2020年1月11日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 5

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 5.

第5章「メンデルの寄与」

 交雑実験は伝統的に、遺伝の法則ではなく種の起源の問題を解明するためになされていたという点を認識すると、メンデルの評価は変わってくる。もともと植物の交雑は、園芸家たちが新しい系統を確立するためにおこなっていた。しかし、後期のリンネが多くの種は交雑によって形成されたものだと推論してから、交雑の問題はより理論的な性格を帯びるようになった。リンネは1756年に、神が創造した種は植物の各属につき一つだけだと示唆している。それ以降、多くのナチュラリストが、種間の交雑ではまったく新しい形態を確立することはできないと示すことで、リンネの議論を否定しようとした。
 代表的な研究は、1760年代にケールロイターによっておこなわれた。ケールロイターは、自然は調和的にデザインされたシステムであり、新種の形成はそれを損なってしまうのでありえないと信じていた。ただし、子の形質は親の形質が融合したものだと考えていて、先在的な胚種の存在は否定していた。ケールロイターは、近縁な種の間での交雑はふつう地理的分離によって防止されているが、人為的に起こすことはできると考えた。しかし、そのような中間的雑種は不稔であり、新しい型を残すことはできないのだと示そうとした。そのためケールロイターは、この規則には例外があること、そして雑種第二代には相当大きな幅の変異があらわれることを発見して困惑した。
 続いて1820年代に、ゲルトナーが一連の交雑実験をおこなった。ケールロイターと同様、ゲルトナーはタバコ属で多くの交配をおこなったが、これは現在では、複雑な遺伝的構成をもっていてメンデルの法則を示すには不向きであることが知られている。ゲルトナーはしばしば優性や分離を観察したが、体系的な説明を与えることはできなかった。ゲルトナーは種の全体的形質が結合するものだと考えていて、遺伝を解明するために個々の形質を世代間で追跡することができるとは考えていなかった。

 近年では、Brannigan(1979)とOlby(1979)に始まったメンデルの再検討により、エンドウの交雑実験に関するメンデルの論文には20世紀におけるメンデル主義の重要概念が現れていなかったことが認められるようになった。Olbyは、メンデル主義における遺伝子の概念に相当する、一対の物質的粒子という概念をメンデルはもっていなかったことを論じた。Kalmus(1983)は、メンデルが一対の「形質」という概念で思考したのは、スコラ的・アリストテレス的な哲学を学んでいたことの反映だと示唆した。Olbyによれば、メンデルは交雑によって形質の新しい組合せが生まれるかもしれないと考え、形質はそれぞれ独立に伝達されるということを示そうとした。それゆえヤナギタンポポ属の交配実験で分離が生じなかったとき(これは現在ではアポミクシスの結果として説明される)、これを自分の見方を支持するより良い実例だとみなしたのだという。
 Callender(1988)は、メンデルが進化の一般的理論を支持していたという見立てが誤解の原因であり、メンデルは実際には進化主義の反対者であり、ケールロイターやゲルトナーからの攻撃に対して、交雑によって新種が生まれるというリンネの説を擁護しようとしていたのだと論じた。Callenderによれば、メンデルは交雑が二つのまったく異なる道筋で起こると考えていて、エンドウの実験ではvariableな雑種が、ヤナギタンポポの実験では潜在的に新種であるconstantな雑種ができたとみなしていた。メンデルはネーゲリのせいで嫌々ながらヤナギタンポポの研究をさせられたのではなく、逆に、ヤナギタンポポの交雑をより興味深い例であるとみなして自ら研究に乗り出したのだというのである。メンデルにとって、メンデルの法則は研究の副産物に過ぎず、それが普遍的な法則であるとも考えていなかった。

 19世紀の中頃は、発生の発展論的な見方が優勢であり、それが純粋な遺伝の研究を阻んでいた。しかしメンデルは、ダーウィンや他の進化論者たちとちがって、種の起源についてまったく異なる見方をもっていたがゆえに、成長の問題を無視することができたのである。

2020年1月10日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 4

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 4.

第4章「発生と遺伝における細胞」

 ヘッケルをはじめとする進化形態学者たちは、発生過程の初期段階を研究することで生命の歴史の初期段階を明らかにしようとしていた。しかし、1880年代までに反復説の魅力は低下しはじめ、発生学がそれ自体の研究領域として復活した。ヴィルヘルム・ルーは、カエルの卵割球の片方を針で壊す実験をおこない、成長が不完全になることを確認して、発生は卵に含まれる物質によって予め定められているのだと論じた。ルーはさらに、胚の細胞分裂では生殖物質がそれぞれの娘細胞に分配されていくのだという「モザイク」説を唱えた。ヴァイスマンの生殖質説も似たモデルを採用し、染色体に存在する物質によって生物の構造は予め定められているのだとした。現代的といわれるヴァイスマンのハードな遺伝の概念は、発生の理論と結びついていた。
 しかし、多くの生物学者は、胚の発生が遺伝によって予め定められた形質の開梱であるという理論に納得しなかった。ハンス・ドリーシュは、発生途中のウニ胚をバラバラにする実験で、それぞれの細胞が完全なウニに成長するのを確認した。そこでドリーシュは、生物の成長力はそれぞれの細胞に分配されているのではないし、成長が予め物質によって定められているわけでもないと論じた。彼らの理論は、ルーやヴァイスマンの新しい前成説に対立する後成説であった。この後成説は、独立した遺伝研究の出現に対して発展主義の伝統が障害となり続けていたことを示している。1900年までの時点では、交配実験ではなく実験発生学のほうが、生殖を理解するための有望な道筋であるとみなされていた。

 新しい生物をつくるのに必要な情報を伝達する物質の概念は、まずネーゲリの著作のなかに現れた。ネーゲリが「イディオプラズム」と呼んだこの物質は、「ミセル」と呼ばれる単位から成り、さまざまな形質に対応する「アンラーゲ」の集合であるとされた。
 1870年代までに、顕微鏡の改良や新しい染色技術の登場によって、細胞核への関心が高まった。70年代末から80年代初頭には、有糸分裂や減数分裂における染色体の動きが観察された。減数分裂についてのファン・ベネデンの業績を知ったヴァイスマンは、生殖質の伝達に関する自身の予想が染色体の動きと一致していることに気づき、「イド」と呼ばれる遺伝情報をもった物質的構造の単位が染色体に並んでいると論じた(イドはより小さな「デテルミナント」から成るとされた)。しかも、遺伝情報の単位は有性生殖によって結合したり組み換えられたりするが、融合することはないと考えた。さらに、変異は生殖質のなかで起こる変化によってのみ生じるものであるとして、ラマルク主義やパンゲン説を否定した。こうしてヴァイスマンの生殖質説は、ゴルトンのハードな遺伝の概念に相当するものになった。しかしヴァイスマンは、ラマルク主義やパンゲン説を否定し、記憶と遺伝の類比を破壊することが、反復説や、成長と遺伝を同じ研究分野のもとに統合することを退けることになると気付いていなかった。ヴァイスマンは、新しい伝統の先駆者というよりも、古い伝統の最後の代表者であった。それにもかかわらず、ヴァイスマンの生殖質説は、厳格な遺伝主義の見方が出現する舞台を用意したのである。

 ヴァイスマンの生殖質説の最後のバージョンに重要な影響を与えていたのが、ド・フリースの細胞内パンゲン説である。粒子が体じゅうを行き来するというダーウィンの考え方は受け入れられないが、遺伝の単位は細胞内に存在すると考えることでパンゲン説は救えると、ド・フリースは考えていた。しかし、ダーウィンにとっては重要であった、体の各部分からジェミュールが芽を出し、集まって細胞になるというアイデアは失われてしまった。ド・フリースのパンゲンは、原形質の物質的構造に記号化されている分離した単位であり、それぞれひとつの遺伝形質に対応している。パンゲンは細胞核に存在し、細胞分裂によってのみ増殖するが、細胞核から原形質に出て活動することができるとされた。デテルミナントの数をかなり多く想定したヴァイスマンは不連続的変異に特別な関心をもたなかったが、パンゲンの数を比較的少なく見積もったド・フリースは、交配実験によってパンゲンの伝達に関する洞察が得られるかもしれないと考え、「メンデルの再発見」につながった。

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 3

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 3.

第3章「進化と遺伝」

 標準的な進化論史・遺伝学史は、選択のメカニズムが機能するためには遺伝が融合的ではなく粒子的であることが必要になるという前提に基づき、遺伝学はダーウィンのジグソーパズルに残っていた最後の穴を埋めたピースだったのだとみなす。しかし、ダーウィン主義は融合遺伝のモデルでも機能する。ダーウィンの進化論の受容を阻んだ最大の障害は、遺伝学の欠如ではなく、進化論者たちが発展論的な理論のほうを好んだことであった。

 ダーウィンの理論が当初評判になったのは、皆が自然選択による進化を受け入れたからではなく、進化が起こることについての新しい一連の証拠と革新的な理論を提示して、発展主義の支持者たちを動かす触媒の役割を果たしたからであった。ダーウィンの主だった擁護者のなかにも、ハクスリーなど、選択のメカニズムにはほとんど関心を示さなかった者たちがいた。ヘッケルはさらに発展主義的なアプローチをとった。ラマルク主義の採用によって、反復説はよりもっともらしくなった。1870年代にはすでに、コープやハイアットなどの古生物学者が米国に新ラマルク主義の学派をつくっていた。1890年代には、反ダーウィン主義の運動が世界中に現れた。

 ダーウィンの理論は、胚は体の各部分でつくられた粒子に由来するという、かつての機械論の考え方である「出芽」モデルを保持していた。1850年代の細胞理論の発展にもかかわらず、ダーウィンはこの考え方を変えなかった。1860年代までに生物学者の多くは、新しい細胞はすでにある細胞の分裂によってのみ生まれるのだと認識し、そのような形で細胞が形成されるとは考えなくなっていたので、パンゲン説は強い批判を受けた。
 ウォレスや後の生物測定学派が示したように、融合遺伝は自然選択と両立可能であり、ジェンキンの自然選択説批判は完璧ではない。自然選択説の普及を阻んだのは発展論的な世界観であった。ダーウィンが同時代人たちに発展論的進化観を捨てさせることができなかったのは、部分的にはダーウィン自身が生殖の発展論的見方に頼っていたせいでもある。ダーウィンは、変異がランダムであることを十分に認識していたにもかかわらず、新しい形質の出現を個体の成長や生殖の過程における変化の結果とみなしていた。

 生殖や成長が生理学的なレベルでどのように起こるかという問題を脇に置き、発展論的世界観を破壊する道を開いたのはゴルトンである。ゴルトンはパンゲン説を信用せず、胚種は親によって作られるのではなく、変わらないまま世代間で受け継がれるのだと考えた。ゴルトンの祖先遺伝の法則は、親の形質は子のなかで融合するが胚種の物質自体は融合しないというもので、メンデル主義的な粒子遺伝の概念への中間地点にあたる。こうしてゴルトンは「氏か育ちか」論争における遺伝主義の立場を確立し、優生学運動を創始した。
 ゴルトンは、祖先遺伝によって逸脱的な形質はならされ、それぞれの種や品種はその元来の型を保つと考えた。選択では重要な変化をもたらすことはできず、進化は跳躍によってまったく新しい型が出現することによってのみ起こる。さらにゴルトンは、変異はさまざまな形質が遺伝され、有性生殖を通して組み換えられることで集団のなかで生じるのだとして、変異と遺伝を対立する力ではなく同じ現象の異なる側面として捉えた。このように、変異を集団の性質とみなす視点はダーウィンの選択説に含意されていたが、ダーウィンが変異の源を発生モデルに求め続けたことでぼやかされていたのである。ゴルトンのハードな遺伝の概念はラマルク主義や成長と進化の類比を排除し、変異は本質的にランダムだというダーウィンの主張を強化することになった。

2020年1月5日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 2

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 2.

第2章「ダーウィン以前の遺伝」


 子が親に似ることは古代からの関心事であったが、メンデル以前には遺伝を独立した研究分野とみなした人物はほとんどいなかった。ナチュラリストたちにとっては、新しい生物がどのようにして形成されるのかという問題こそが決定的に重要であり、遺伝の問題はその枠組みのなかで扱われたからである。

 この問題について、唯物論者たちはデカルトの機械論を土台として後成説を唱えたが、17世紀後半の顕微鏡研究はこれに否定的であった。しかも、後成説およびそれと関わりの深い自然発生説は、神の存在や自然の安定性を脅かす主張であった。それゆえ無神論者には支持されたが、機械論者でも保守派には危険視され、前成説(先在胚種説)が18世紀を通して優勢を保った。ボネは、個体のミニチュアである胚種が最初から入れ籠状になっているという前成説の理論を展開した。このとき、胚種は種を規定するのみであり、個体の形質は精液や子宮から吸収する栄養によって親から影響を受けるとされた。このように、前成論者でも個体の特性は遺伝すると考えるのが普通であった。一方、ニュートン主義者のモーペルテュイは、親の身体の各部分から来た粒子が集まって胚をつくるのだという理論を唱えて前成説に反対したが、その粒子が胚のなかの本来あるべき場所に向かう理由を説明するために、粒子に意思のようなものを認めざるを得なくなってしまった。似た理論を唱えたビュフォンは、これを避けるべく内的鋳型の概念を導入した。獲得形質の遺伝は、ラマルクによって導入されたわけではなく、発生に関する18世紀の典型的な議論であった。

 19世紀に入って、発生学の研究から二つの発展主義的な見解が現れた。まず、メッケルが1821年に、ヒトの胚は発生過程で動物のヒエラルキーを上昇するという並行法則を論じた。この議論は、地球史のなかで魚類、爬虫類、哺乳類というような出現の順序があるという古生物学の知見と結び付けられた。一方、フォン・ベーアは並行法則を否定して、成長は一般的構造から特殊な構造へと向かう特殊化の過程であると論じた。これらのアイデアが、ダーウィンの進化論が解釈される概念的フレームワークを形作った。多くのナチュラリストは前者の並行法則のほうを好んだ。反復説と獲得形質の遺伝は、どちらも記憶に類比される理論であり、互いに結び付けられて理解された。

2020年1月3日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 1

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 1.

第1章「メンデル主義――発見か、発明か?」

 この本は、遺伝学の歴史についての一般的に普及している神話に対して挑戦する。
この挑戦は3つのレベルから成る。第一は、概念的なレベルである。メンデルの法則は、(a)世代間での形質の伝達は意義ある独立した研究領域を成す、(b)形質はそれぞれ別個の単位として扱える、という遺伝の理論的モデルのなかではじめて重要な発見となる。ダーウィンやその同時代人たちは、世代間での形質の伝達と、成長する生物のなかで形質が生まれる過程とを区別しない遺伝の発生モデルを受け入れていて、生殖と成長を統合された生物学的過程として扱っていたので、伝達に関する別個の研究領域というものは考えられなかった。この図式は、形質が変わらないまま世代間で伝達されるという考えもできなくしていた。それゆえ、メンデルの法則の受容は事実の発見ではなく、新しい概念図式の創造に依存していた。遺伝学は、遺伝それ自体についての新しいアイデアだけではなく、遺伝と他の生物学的現象との関係についての新しいアイデアの産物でもあった。

 この本の目的のひとつは、生物学における「メンデル革命」と呼べるものの絶対的な領域を強調することである。それ以前は、生殖と遺伝に関する発生的な見方によって、生物学者たちは進化が目的をもつ過程であると信じ続けることができた。ダーウィンは、進化が道徳的に有意味な目標へと不可避的に向かうという考えを取り除こうとしたができなかった。現代の生物学者たちが、進化は予め定められた目標に向かっていると考えないのは、大部分で、メンデル主義の到来と結びついた概念的革命の結果である。メンデルと同時代の生物学者たちが、30年以上後に明らかになる含意に気づけなかったのは当然のことである。今では、メンデルは新しい遺伝の理論を開拓しようとはしていなかったと考える遺伝学史家たちがいる。メンデルの本当の関心は、進化の代案としての種の交雑にあり、形質の遺伝における規則性の発見はその研究プログラムの副産物に過ぎなかった。

 第二は、職業的なレベルである。遺伝学の出現は、科学コミュニティーのなかで新しい研究領域を認めさせる社会的な活動の結果でもあった。古典遺伝学はアメリカで大きな制度的成功を収めたが、英国ではそこまで明確な領域にならず、ドイツではもっと弱く、フランスではほとんど全く存在しなかった。このような国ごとの違いからもわかるように、遺伝学は「当たり前」の研究領域ではなかった。

 第三は、イデオロギーのレベルである。新しい法則や理論は、単に発見されるのではなく、科学者たちや世間の文化的価値観を満足させるように発明される。メンデルの法則の再発見は、「遺伝主義的」な社会的ポリシーが政治の舞台に上がるのと時を同じくしていた。世紀の変わり目の頃、政治家や評論家たちが、人間の能力は遺伝によって厳格に決定されているから、環境の改善は意味がないと論じはじめていたのである。今日では、遺伝主義的な言説は「社会ダーウィニズム」の再来とみなされることが多く、これはメンデル主義ではなくダーウィン主義がそのような価値観の源であるという理解に基づいている。しかし、19世紀後半の古典的社会ダーウィニズムは、スペンサーの進化哲学の派生であり、スペンサーは必ずしも遺伝主義者ではなかった。スペンサーは、19世紀の他のほとんど誰もと同じように、それぞれの人種の知的・道徳的能力は定まっていると考えていたが、近代ヨーロッパ社会のなかでは、個人の達成が遺伝的性質に制限されるとは考えていなかった。スペンサーが無制限の競争を支持したのは、各々がつらい結果を逃れるために努力しようと駆り立てられることが目的であった。20世紀初頭の遺伝主義的なアイデアは、個人の達成レベルは遺伝によって決定された生物学的形質によって定まっているので努力を駆り立てることはできないという考え方であり、イデオロギーが転換したことを示している。