2020年1月11日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 5

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 5.

第5章「メンデルの寄与」

 交雑実験は伝統的に、遺伝の法則ではなく種の起源の問題を解明するためになされていたという点を認識すると、メンデルの評価は変わってくる。もともと植物の交雑は、園芸家たちが新しい系統を確立するためにおこなっていた。しかし、後期のリンネが多くの種は交雑によって形成されたものだと推論してから、交雑の問題はより理論的な性格を帯びるようになった。リンネは1756年に、神が創造した種は植物の各属につき一つだけだと示唆している。それ以降、多くのナチュラリストが、種間の交雑ではまったく新しい形態を確立することはできないと示すことで、リンネの議論を否定しようとした。
 代表的な研究は、1760年代にケールロイターによっておこなわれた。ケールロイターは、自然は調和的にデザインされたシステムであり、新種の形成はそれを損なってしまうのでありえないと信じていた。ただし、子の形質は親の形質が融合したものだと考えていて、先在的な胚種の存在は否定していた。ケールロイターは、近縁な種の間での交雑はふつう地理的分離によって防止されているが、人為的に起こすことはできると考えた。しかし、そのような中間的雑種は不稔であり、新しい型を残すことはできないのだと示そうとした。そのためケールロイターは、この規則には例外があること、そして雑種第二代には相当大きな幅の変異があらわれることを発見して困惑した。
 続いて1820年代に、ゲルトナーが一連の交雑実験をおこなった。ケールロイターと同様、ゲルトナーはタバコ属で多くの交配をおこなったが、これは現在では、複雑な遺伝的構成をもっていてメンデルの法則を示すには不向きであることが知られている。ゲルトナーはしばしば優性や分離を観察したが、体系的な説明を与えることはできなかった。ゲルトナーは種の全体的形質が結合するものだと考えていて、遺伝を解明するために個々の形質を世代間で追跡することができるとは考えていなかった。

 近年では、Brannigan(1979)とOlby(1979)に始まったメンデルの再検討により、エンドウの交雑実験に関するメンデルの論文には20世紀におけるメンデル主義の重要概念が現れていなかったことが認められるようになった。Olbyは、メンデル主義における遺伝子の概念に相当する、一対の物質的粒子という概念をメンデルはもっていなかったことを論じた。Kalmus(1983)は、メンデルが一対の「形質」という概念で思考したのは、スコラ的・アリストテレス的な哲学を学んでいたことの反映だと示唆した。Olbyによれば、メンデルは交雑によって形質の新しい組合せが生まれるかもしれないと考え、形質はそれぞれ独立に伝達されるということを示そうとした。それゆえヤナギタンポポ属の交配実験で分離が生じなかったとき(これは現在ではアポミクシスの結果として説明される)、これを自分の見方を支持するより良い実例だとみなしたのだという。
 Callender(1988)は、メンデルが進化の一般的理論を支持していたという見立てが誤解の原因であり、メンデルは実際には進化主義の反対者であり、ケールロイターやゲルトナーからの攻撃に対して、交雑によって新種が生まれるというリンネの説を擁護しようとしていたのだと論じた。Callenderによれば、メンデルは交雑が二つのまったく異なる道筋で起こると考えていて、エンドウの実験ではvariableな雑種が、ヤナギタンポポの実験では潜在的に新種であるconstantな雑種ができたとみなしていた。メンデルはネーゲリのせいで嫌々ながらヤナギタンポポの研究をさせられたのではなく、逆に、ヤナギタンポポの交雑をより興味深い例であるとみなして自ら研究に乗り出したのだというのである。メンデルにとって、メンデルの法則は研究の副産物に過ぎず、それが普遍的な法則であるとも考えていなかった。

 19世紀の中頃は、発生の発展論的な見方が優勢であり、それが純粋な遺伝の研究を阻んでいた。しかしメンデルは、ダーウィンや他の進化論者たちとちがって、種の起源についてまったく異なる見方をもっていたがゆえに、成長の問題を無視することができたのである。

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