2020年11月7日

ベイトソンはなぜ染色体説に反対したか Rushton, “William Bateson and the Chromosome Theory of Heredity”

Alan R. Rushton, “William Bateson and the Chromosome Theory of Heredity: A Reappraisal,” The British Journal for the History of Science 47 (2014): 147–171.

 ベイトソンは長らく、遺伝の染色体説に対して反対し続けた。1910年代には、近い関係にある研究者たちも次々と染色体説の正しさを確信するようになっていったが、ベイトソンは染色体説には十分な証拠がないという主張を続けた。最終的に染色体説の正しさを認めたのは、1921年12月にニューヨークを訪れ、コロンビア大学でモーガンらの研究チームと会ったときのことであった。ベイトソンはフォードに対して、これによって自分の研究がすべて無駄になってしまったと述べている。

 ベイトソンが染色体説に反対した理由について、Coleman(1970)はベイトソンの保守化が原因であったという。一方でCock(1973)は、ベイトソンが信じていた他の理論、すなわち体細胞分離の反復モデルや、遺伝と胚発生を導く細胞内の振動や力に関するアイデアが、染色体説の受容を妨げたのだという。また、顕微鏡嫌いも原因のひとつだったという。さらに、エリート意識や労働者階級に対する嫌悪のために、モーガンの研究を認めようとしなかった可能性もある。

 ベイトソンは常に、力や波や振動の働きに基づく遺伝と発生の一般理論を追い求めていた。彼は、生物学的現象を非物質的な枠組みのなかで捉えることを好み、同時代の物理学から術語を借用していた。こうした発想は19世紀末に流行したもので、動物学者のマイヴァートは1871年に振動性の力が生物に反復的で対称的なパターンを与えていると示唆しているし、ハクスリーは渦と生物のあいだにアナロジーを用いた最初の生物学者の一人であった。ベイトソン自身は、1891年に妹のアンナに対して送った手紙のなかで初めて、振動理論の生物学への適用に対する興味を示している。さらにベイトソンは、ケンブリッジを去りジョン・イネス研究所に着任した1910年以降、同時代の遺伝学研究から孤立し、キメラや斑入りなどといった現象に焦点を当てていた。こうしたことが染色体説に対する反対の背景にあったと考えられる。