Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 92–102.
第4章「時間と歴史を拡大する」後半
ナチュラルヒストリーとヒストリーオブネイチャー
① デマレ(Nicolas Desmarest, 1725–1815)は、古物研究家によるヘルクラネウム(ヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイとともに埋まった古代ローマの町)の発掘と、自分自身によるオーベルニュの死火山の研究をアナロジーで捉えた。このような人間の歴史とのアナロジーをさらに展開させたのは、中央高地の死火山の近くで主任司祭をしていたジロー・スラヴィ(Jean-Louis Giraud-Soulavie, 1752–1813)である 。スラヴィがパリに移ってから著した7巻本の『南フランスのナチュラルヒストリー』(1780–84)は、伝統的な記述的スタイルのナチュラルヒストリーに留まっておらず、自然それ自体の歴史を復元するというアイデアに満ちた著作となっている。スラヴィは「自然のアーキビスト」を自認し、火山の「物質的年代学」によって「物質世界の年鑑」を編纂しているのだと主張した。
② デマレやスラヴィは、かつてのステノやフックよりもはるかに徹底的に、年代学や古物研究家の手法や概念を、人間の世界から自然界へ、短い時間から悠久の時間へと、意図的に移した。当時、考古学の新しい発見が相次ぎ、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(1776–88)のような著作が現れていたことは偶然ではない。実際、スラヴィはのちにアンシャン・レジーム下のフランス政治の歴史研究に移っている。デマレやスラヴィの姿勢はすぐには他のナチュラリストたちに受け継がれなかったが、長い目で見ると彼らのアナロジーが地球史を復元するための決定的な戦略となったのである。
③ スラヴィは火山岩だけでなく、第二紀の3つの層(現代でいうジュラ紀、白亜紀、中新世)も記述し、それらの層は特有の化石の組によって地域を超えて認識できることにも気付いていた。たとえば、アンモナイトやベレムナイト は第二紀層の古い部分に見られるが、新しい部分(現代でいう新生代)には見られないというようなことである。そこでスラヴィは、地層に含まれている化石の順序が生命の歴史の一部を記録しているのだと主張した。だが、他のナチュラリストたちは、化石の違いが反映しているのは堆積が起こった場所の環境条件の変化だと考えていた。古い地層は深海で堆積したもので、そのとき化石になったのは今でも深海で生きている甲殻類だというのである。
④ 当時、深海のことはまだよくわかっていなかったので、これは十分にあり得る考え方だった。実際、化石としてのみ知られていたウミユリ(図4.8)が、カリブ海で偶然にも測鉛線に引っかかって生きた形で発見されたこともあった。
⑤ 化石の生物が今もどこかで生きて繁栄しているという可能性がある以上、一地方の地層は局地的な変化の記録としては認められても、地球規模の生命の歴史を示すものとみなすことはできなかった。地球の歴史のなかではずっと同じ種類の動植物が生き続けているのかもしれないのである。ハットンの安定したシステムではなくドリュックの一方向的な歴史観が説得力を持つためには、昔の世界が今の世界とは別物であると示される必要があった。そしてそのためには、海の生物ではなく、人目を引くような巨大な陸上動物の化石が望ましかった。
⑥ 18世紀末に、ヨーロッパで見つかる巨大な骨や歯の化石が注目を集めたのは、これが理由である。これらは従来、無教養な人々によってノアの洪水以前の巨人だとみなされていたが、やがて人間ではなく主にゾウのものであることが示唆された。そこでまずは、ハンニバルがローマとの戦争のために北アフリカから連れてきたゾウだという可能性が考えられたが、骨がヨーロッパじゅうで、さらにはシベリアや北アメリカでも見つかったため、巨大な津波によってアフリカやアジアの熱帯から他の地域に流された等の可能性に関心が向けられた(シベリアでは、現地の人々に「マンモス」という名前で呼ばれていた)。
⑦ しかし、一部の化石が既知のどの種にも属さないことがわかると、一部のナチュラリストたちはそれを絶滅が起こったことの決定的証拠とみなした。ビュフォンは、ゾウのような牙とカバのような歯を持つ「オハイオの動物」(図4.9の右側、のちに「マストドン」と名付けられる)について、現在の熱帯よりも暑い環境に適応していたために地球が冷えるにつれて全滅したのではないかと考えた。一方、アメリカ合衆国第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは、「オハイオの動物」が今でも生きていると考え、ルイスとクラークの探検隊にそれを見つけ出すよう指示していた。種の完全な絶滅が自然界において一般的であることが認められるためには、これ以外にも複数の事例が必要であった。
【図4.7】フランスのナチュラリスト、ド・ラマノン(Robert de Lamanon)が1782年に発表した、パリ北部にかつて存在したと推測される湖の地図。この地域の第二紀層に含まれる石膏の堆積物を、湖の蒸発残留物と解釈した。
地球のタイムスケールを推測する
① しかし、化石や岩石の標本を観察するだけでは、それらが長大なタイムスケールを示唆していると理解するのは難しかった。地球に長大な歴史が存在する可能性に最も説得力を感じていたのは、野外で自ら岩層の積み重なりのスケールや火山の大きさを目にしていたナチュラリストたちであった。だが、時間に関する彼らの疑念は、暗示的で非数量的な形をとり続けた。これは教会からの批判を恐れたためではなく、時間を測る信頼可能な手段が存在しないためであった。それでも、非公刊の史料を見ていくと、18世紀後半までに彼らの多くが少なくとも数十万年、あるいは数百万年以上の時間が地層や火山の形成に必要だと考えていたことがわかる。たとえばヴェルナーは、彼がよく知っていた岩山の形成に約100万年を考えていたようである。
② 18世紀後半までに、非常に長いタイムスケールを要求するフィールドからの証拠はナチュラリストたちにとって十分なものになっていた。タイムスケールを明示的に提示したビュフォンは、その時間の長さにではなく、疑わしい推測に基づいていることを批判された。ハットンも、長さではなく永遠性を批判された。ドリュックは「現在の世界」以外のどの時代についても長さを数字で書かず言葉で表した。この時代以降の科学の歴史で、フィールド調査の経験を持つ人々が、地球のタイムスケールが記録に残る人間の歴史よりはるかに大きいということを疑ったことはない(その一方で、一般の人々の意見はまったく違っていた)。こういった変化が起こったのは19世紀初頭の地質学あるいはダーウィンの進化論が現れてからだというのは誤解である。
③ キリスト教の信者を自認する学者たちも、非宗教的な人々と同じく、このタイムスケールを問題視しなかった。聖書学者たちは創世記のdayという言葉の曖昧さを認識していたし、自然界からの証拠がもたらされるよりずっと昔から、それが普通の1日を意味するかどうか疑っていた。それゆえ、聖書の権威や宗教的意味に影響を与えずに、数千年よりずっと長い時間を想定することは十分可能であった。だからこそ、18世紀後半に長いタイムスケールを論じた人々も教会の権威者にほとんど批判されなかったのである。宗教的に肝心だったのは、この宇宙は永遠であって創造されたものではないと主張する人々に抗して、この宇宙が有限で創造されたものであるということを支持しているかどうかであった。そして、これはもちろん、科学的観察によって解決することのできない哲学的・神学的問題であった。そのような問題において、自分たちを攻撃にさらされた少数派だと感じていたのは、懐疑論者ではなく宗教的な人々の側だった。たとえばドリュックは、自分が啓蒙主義の理神論者や無神論者からキリスト教の有神論を守っていると感じていた。
④ それゆえ、ドリュックのようなキリスト教的な学者にとって、かつては想像できなかったようなタイムスケールを認めることは容易かった。彼らはまた、テクスト解釈の歴史的手法が聖書に用いられはじめていることに気付いていた。18世紀における聖書批評の発展は諸刃の剣であって、伝統的な宗教的信念を掘り崩すのにも用いられたが、テクストの意味をより深く理解し現代の宗教的実践とつなげるためにも用いられた。それゆえ、創造の物語は地球全体について考える上でのインスピレーションの源であり続けた。
⑤ 結論として、単なる地球のタイムスケールの拡大(悠久なる時間)よりもずっと重要だったのは、その拡大された時間のなかで復元される地球史の性質(悠久なる歴史)であった。創造の物語は、岩や化石や山や火山を地球の歴史の証拠と考えることに関して学者たちを前適応させた。創世記には、繰り返しではない出来事の偶発的な連なりの物語が記されていた。人間が現れる前の5日間は長く引き伸ばされ、単なる序曲から全体のなかで最も長い部分になった。
⑥ しかし、18世紀の終わりの時点で、このドラマの詳細はいまだ不明瞭であった。過去の地球が現在とどれだけ違うのか、特に、生命が真の歴史を持っているのかどうかはまったく明らかでなかった。人間以前の過去について、確信をもって詳細に知り得るのかもわからなかった。これが、19世紀初頭に取り組まれ続けることになる根本的な問題であり、次章の主題である。