2022年9月25日

人間の歴史とのアナロジー Rudwick, Earth’s Deep History, Ch. 4 後半

Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 92–102.

第4章「時間と歴史を拡大する」後半

ナチュラルヒストリーとヒストリーオブネイチャー

① デマレ(Nicolas Desmarest, 1725–1815)は、古物研究家によるヘルクラネウム(ヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイとともに埋まった古代ローマの町)の発掘と、自分自身によるオーベルニュの死火山の研究をアナロジーで捉えた。このような人間の歴史とのアナロジーをさらに展開させたのは、中央高地の死火山の近くで主任司祭をしていたジロー・スラヴィ(Jean-Louis Giraud-Soulavie, 1752–1813)である 。スラヴィがパリに移ってから著した7巻本の『南フランスのナチュラルヒストリー』(1780–84)は、伝統的な記述的スタイルのナチュラルヒストリーに留まっておらず、自然それ自体の歴史を復元するというアイデアに満ちた著作となっている。スラヴィは「自然のアーキビスト」を自認し、火山の「物質的年代学」によって「物質世界の年鑑」を編纂しているのだと主張した。

② デマレやスラヴィは、かつてのステノやフックよりもはるかに徹底的に、年代学や古物研究家の手法や概念を、人間の世界から自然界へ、短い時間から悠久の時間へと、意図的に移した。当時、考古学の新しい発見が相次ぎ、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(1776–88)のような著作が現れていたことは偶然ではない。実際、スラヴィはのちにアンシャン・レジーム下のフランス政治の歴史研究に移っている。デマレやスラヴィの姿勢はすぐには他のナチュラリストたちに受け継がれなかったが、長い目で見ると彼らのアナロジーが地球史を復元するための決定的な戦略となったのである。

③ スラヴィは火山岩だけでなく、第二紀の3つの層(現代でいうジュラ紀、白亜紀、中新世)も記述し、それらの層は特有の化石の組によって地域を超えて認識できることにも気付いていた。たとえば、アンモナイトやベレムナイト は第二紀層の古い部分に見られるが、新しい部分(現代でいう新生代)には見られないというようなことである。そこでスラヴィは、地層に含まれている化石の順序が生命の歴史の一部を記録しているのだと主張した。だが、他のナチュラリストたちは、化石の違いが反映しているのは堆積が起こった場所の環境条件の変化だと考えていた。古い地層は深海で堆積したもので、そのとき化石になったのは今でも深海で生きている甲殻類だというのである。

④ 当時、深海のことはまだよくわかっていなかったので、これは十分にあり得る考え方だった。実際、化石としてのみ知られていたウミユリ(図4.8)が、カリブ海で偶然にも測鉛線に引っかかって生きた形で発見されたこともあった。

⑤ 化石の生物が今もどこかで生きて繁栄しているという可能性がある以上、一地方の地層は局地的な変化の記録としては認められても、地球規模の生命の歴史を示すものとみなすことはできなかった。地球の歴史のなかではずっと同じ種類の動植物が生き続けているのかもしれないのである。ハットンの安定したシステムではなくドリュックの一方向的な歴史観が説得力を持つためには、昔の世界が今の世界とは別物であると示される必要があった。そしてそのためには、海の生物ではなく、人目を引くような巨大な陸上動物の化石が望ましかった。

⑥ 18世紀末に、ヨーロッパで見つかる巨大な骨や歯の化石が注目を集めたのは、これが理由である。これらは従来、無教養な人々によってノアの洪水以前の巨人だとみなされていたが、やがて人間ではなく主にゾウのものであることが示唆された。そこでまずは、ハンニバルがローマとの戦争のために北アフリカから連れてきたゾウだという可能性が考えられたが、骨がヨーロッパじゅうで、さらにはシベリアや北アメリカでも見つかったため、巨大な津波によってアフリカやアジアの熱帯から他の地域に流された等の可能性に関心が向けられた(シベリアでは、現地の人々に「マンモス」という名前で呼ばれていた)。

⑦ しかし、一部の化石が既知のどの種にも属さないことがわかると、一部のナチュラリストたちはそれを絶滅が起こったことの決定的証拠とみなした。ビュフォンは、ゾウのような牙とカバのような歯を持つ「オハイオの動物」(図4.9の右側、のちに「マストドン」と名付けられる)について、現在の熱帯よりも暑い環境に適応していたために地球が冷えるにつれて全滅したのではないかと考えた。一方、アメリカ合衆国第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは、「オハイオの動物」が今でも生きていると考え、ルイスとクラークの探検隊にそれを見つけ出すよう指示していた。種の完全な絶滅が自然界において一般的であることが認められるためには、これ以外にも複数の事例が必要であった。

【図4.7】フランスのナチュラリスト、ド・ラマノン(Robert de Lamanon)が1782年に発表した、パリ北部にかつて存在したと推測される湖の地図。この地域の第二紀層に含まれる石膏の堆積物を、湖の蒸発残留物と解釈した。


地球のタイムスケールを推測する

① しかし、化石や岩石の標本を観察するだけでは、それらが長大なタイムスケールを示唆していると理解するのは難しかった。地球に長大な歴史が存在する可能性に最も説得力を感じていたのは、野外で自ら岩層の積み重なりのスケールや火山の大きさを目にしていたナチュラリストたちであった。だが、時間に関する彼らの疑念は、暗示的で非数量的な形をとり続けた。これは教会からの批判を恐れたためではなく、時間を測る信頼可能な手段が存在しないためであった。それでも、非公刊の史料を見ていくと、18世紀後半までに彼らの多くが少なくとも数十万年、あるいは数百万年以上の時間が地層や火山の形成に必要だと考えていたことがわかる。たとえばヴェルナーは、彼がよく知っていた岩山の形成に約100万年を考えていたようである。

② 18世紀後半までに、非常に長いタイムスケールを要求するフィールドからの証拠はナチュラリストたちにとって十分なものになっていた。タイムスケールを明示的に提示したビュフォンは、その時間の長さにではなく、疑わしい推測に基づいていることを批判された。ハットンも、長さではなく永遠性を批判された。ドリュックは「現在の世界」以外のどの時代についても長さを数字で書かず言葉で表した。この時代以降の科学の歴史で、フィールド調査の経験を持つ人々が、地球のタイムスケールが記録に残る人間の歴史よりはるかに大きいということを疑ったことはない(その一方で、一般の人々の意見はまったく違っていた)。こういった変化が起こったのは19世紀初頭の地質学あるいはダーウィンの進化論が現れてからだというのは誤解である。

③ キリスト教の信者を自認する学者たちも、非宗教的な人々と同じく、このタイムスケールを問題視しなかった。聖書学者たちは創世記のdayという言葉の曖昧さを認識していたし、自然界からの証拠がもたらされるよりずっと昔から、それが普通の1日を意味するかどうか疑っていた。それゆえ、聖書の権威や宗教的意味に影響を与えずに、数千年よりずっと長い時間を想定することは十分可能であった。だからこそ、18世紀後半に長いタイムスケールを論じた人々も教会の権威者にほとんど批判されなかったのである。宗教的に肝心だったのは、この宇宙は永遠であって創造されたものではないと主張する人々に抗して、この宇宙が有限で創造されたものであるということを支持しているかどうかであった。そして、これはもちろん、科学的観察によって解決することのできない哲学的・神学的問題であった。そのような問題において、自分たちを攻撃にさらされた少数派だと感じていたのは、懐疑論者ではなく宗教的な人々の側だった。たとえばドリュックは、自分が啓蒙主義の理神論者や無神論者からキリスト教の有神論を守っていると感じていた。

④ それゆえ、ドリュックのようなキリスト教的な学者にとって、かつては想像できなかったようなタイムスケールを認めることは容易かった。彼らはまた、テクスト解釈の歴史的手法が聖書に用いられはじめていることに気付いていた。18世紀における聖書批評の発展は諸刃の剣であって、伝統的な宗教的信念を掘り崩すのにも用いられたが、テクストの意味をより深く理解し現代の宗教的実践とつなげるためにも用いられた。それゆえ、創造の物語は地球全体について考える上でのインスピレーションの源であり続けた。

⑤ 結論として、単なる地球のタイムスケールの拡大(悠久なる時間)よりもずっと重要だったのは、その拡大された時間のなかで復元される地球史の性質(悠久なる歴史)であった。創造の物語は、岩や化石や山や火山を地球の歴史の証拠と考えることに関して学者たちを前適応させた。創世記には、繰り返しではない出来事の偶発的な連なりの物語が記されていた。人間が現れる前の5日間は長く引き伸ばされ、単なる序曲から全体のなかで最も長い部分になった。

⑥ しかし、18世紀の終わりの時点で、このドラマの詳細はいまだ不明瞭であった。過去の地球が現在とどれだけ違うのか、特に、生命が真の歴史を持っているのかどうかはまったく明らかでなかった。人間以前の過去について、確信をもって詳細に知り得るのかもわからなかった。これが、19世紀初頭に取り組まれ続けることになる根本的な問題であり、次章の主題である。

2022年6月25日

四つ目の革命 Rudwick, Earth’s Deep History, Introduction

Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 1–8.


イントロダクション

 かつてフロイトは、三つの大きな革命が自然のなかの人間の位置に関する我々の感覚を変容させてきたと主張した。地球を宇宙の中心から追いやったコペルニクスの革命、人間を神の特別な被造物から単なる類人猿に降格させたとされるダーウィンの革命、そして無意識の深みを暴くことによって理性的存在としての人間という感覚を転覆させたフロイト自身の革命である。
 しかし、私の友人である故スティーヴン・ジェイ・グールドが指摘したように、このリストにはこれら三つと同じぐらいの重要性を持つ四つ目の革命が漏れ落ちている。それは、他の三つのように一人の有名人に紐づけることは難しいが、コペルニクスの革命が空間のスケールを大幅に拡大させたのと同じように、地球のタイムスケール、ひいては宇宙のタイムスケールを大幅に拡大させた革命である。それ以前には、西洋の多くの人々は、この世界がほんの数千年前に始まったということを当たり前に信じていた。この革命の後では、地球のタイムスケールが少なくとも数百万年に上るということが同じくらい当たり前になった。

 しかし、このタイムスケールの拡大をあまりに強調することは、この革命のさらに二つの重要な特徴をぼやけさせてしまう。
 第一に、人類の位置の根本的な変化である。伝統的な理解における「若い地球」は、ほぼ完全に人間のいる地球であった。アダムから将来の終末に至るまで、人間のドラマが繰り広げられるのである。それに対して、地質学者たちによって発見された「古い地球」は、ほとんど人間のいない地球となった。
 第二に、自然がそれ自体の歴史を持っているということが明らかになった。地球に人間のいない時代が、人間の歴史と同じぐらいに波瀾万丈であり「歴史」と呼ぶに十分な出来事の連続であったことがわかったのである。
よって本書は、悠久なる時間(deep time)の発見というよりも、地球の悠久なる歴史(Earth’s deep history)とそのなかの人間の位置の再構成について解説した本である。

 四つ目の革命は、主に二つの理由で無視されてきた。
 第一に、ダーウィンの進化論の序曲にすぎないと捉えられてきたことである。たしかに、地球の悠久なる歴史の認識は生物の多様性の説明に必要であるが、四つ目の革命は地球上のすべてのものに関わっており、動植物だけでなく岩石や鉱物、山や火山や地震、大陸や海洋や大気も含むのであって、独立の革命とみなすに値する。
 第二に、宗教の対する科学の勝利のエピソードのひとつにすぎないとみなされてきたことである。しかし、歴史家たちは、科学と宗教の永続的な対立というステレオタイプをすでに放棄している。本書では、地球の悠久なる歴史という新しく現れた感覚が、それよりずっと短い歴史の古い概念と、非常に興味深い仕方で関連していたことを示したい。「若い地球」を復活させようとする現代の創造論者たちは、物語のクライマックスではなく奇異な余興にすぎない。
 四つ目の革命の核心は自然それ自体が歴史を持つことの認識であるということを認めれば、タイムスケールの量的な拡大は二次的な問題になる。より重要なのは、自然の歴史性という感覚の起源である。自然の歴史のモデルになったのは人間の歴史であり、それは惑星の運行などと違って予測不能であり偶然的であると認識されている。この歴史性の感覚が自然の領域に移入され、新しい自然の理解を生み出したのである。17~19世紀の西洋文化において自然の歴史性の主な源となったのは、ユダヤ・キリスト教の聖書に包含された歴史の感覚であった。聖書のテクストは地球の悠久なる歴史の発見を妨害したのではなく、むしろ促進した(読者を前適応させた)のである。

 地球の悠久なる歴史の発見は、我々に対してこの世界に関する広汎な示唆を与えた点で重要である。それまで自然の研究者たちは、不変の自然法則を解明すればするほど人間が自然をコントロールできるようになると考えていた。しかし、地球は、初期条件と不変の法則が与えられれば過去から未来までを完全に決定できるような仕方でプログラムされていなかった。地球の悠久なる歴史は自然の法則をトップダウンで適用しても再構成できず、歴史的証拠をボトムアップで集めることによってしか再構成できない。地球の悠久なる歴史は天体の運行のように正確に予測できるものではなく、人間の歴史のような予測不能な偶然性を持つことが明らかになった。この偶然性は、地球の将来における人間の役割をめぐる現在の論争においても重要である。
 自然が固有の歴史性を持つという感覚を最初に発展させたのは地質学であった。それを、もともと地質学者であったダーウィンをはじめとする生物学者たちや、天文学者たちが後から共有するようになったのである。それゆえ、この本の物語はひとつの科学をはるかに超える重要性を持つ。

 この本は私自身の研究だけでなく、多くの国の多くの歴史家による最近の研究に基づいている。ポピュラーサイエンスの本やテレビの科学番組、それに自分たちの科学の歴史について語る科学者たちは、こうした最近の研究をあまりにも無視して、誰が「~~の父」であるなどといったような使い古された神話に留まってきた。
 この本を書くにあたって詳細を削ぎ落とさなければならなかった事柄はたくさんある。本書はまた、ヨーロッパの科学者(と自分たち自身を呼ぶようになる人々)に焦点を絞っている。男性が主な登場人物になっているのは、かつての歴史的現実を反映している。

フンボルトの庭園論 Humboldt, Kosmos, vol. 2., pp. 95-103

Alexander von Humboldt, Kosmos: Entwurf einer physischen Weltbeschreibung, Zweiter Band (Stuttgart, Cotta: 1845-62), 95-103.

フンボルト『コスモス』第2巻、パート1

III 熱帯植物の栽培――植物の外見の対照や組み合わせ――植物の外観と性質によって誘発される印象

 版画による生産数の増加や最近の石版画の進歩があるとはいえ、風景画が心にもたらす影響は、温室や庭園にある外来の植物の光景がもたらす影響ほど力強くはない。私は若い頃にベルリンの植物園で巨大なリュウケツジュやヤシを目にして、遠く離れた地への旅を切望する想いを植え付けられた。
 風景画は大きさや形態を魔法のように操ることができるので、実際に植物を栽培して配置するよりも、より豊かで完全な自然のイメージを提供することができる。農園や庭園では、絵画のように海や陸の壮大な現象を凝縮することはできない。しかし、その代わりに、現実が細部のいたるところで感覚に働きかけてくる。それによって、完璧な絵画以上の幻想が与えられるのである。ただし、栽培することによって、本来の自然の性質の一部は覆い隠されてしまう。
 植物の形や対照的構成は自然研究の対象であるだけでなく、造園にとっても非常に重要な意味を持つ。歴史的には、造園は中央アジアと南アジアに起源を持つ。イランでもデロス島でもセイロンでも、樹木は自然崇拝の対象となった。
 東アジアの国々でも、何かしらの植物が聖なる対象とみなされて特別な注意が払われており、庭園には自然に対する想いが最も強く多様に表れている。中国の庭園はイギリス式庭園に近いものだったようだ。古代の文筆家Lieu-tscheu[柳宗元のこと?]は、我々が庭に何を求めるのかを考察している。前世紀半ばに清の乾隆帝が奉天と祖先の墓を称えて詠んだ詩には、自由な自然に対する感嘆が表現されている。司馬光も1086年頃に、庭園に関する詩を作っていた。当時ドイツでは、詩は粗暴な聖職者の手に握られており、祖国の言葉で作られることもなかった。
 その500年前から、中国、東インド、日本の人々は多様な植物の形に親しんでいた。これには仏教が関係している。寺や僧院、墓地は庭園に囲まれ、外来の植物で装飾されていた。中国、朝鮮、日本には早くからインド産の植物が普及していた。シーボルトは、遠く離れた仏教国で植物相の混合が見られることに注意を促した最初の人物である。
 ヨーロッパの文明化の最も貴重な果実の一つは、外来の植物の栽培と展示、風景画、文章の力などによって、普段触れなくなった自然や異国の自然に接することがどこでもできるようになったということであろう。