Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 2.
第2章「ダーウィン以前の遺伝」
子が親に似ることは古代からの関心事であったが、メンデル以前には遺伝を独立した研究分野とみなした人物はほとんどいなかった。ナチュラリストたちにとっては、新しい生物がどのようにして形成されるのかという問題こそが決定的に重要であり、遺伝の問題はその枠組みのなかで扱われたからである。
この問題について、唯物論者たちはデカルトの機械論を土台として後成説を唱えたが、17世紀後半の顕微鏡研究はこれに否定的であった。しかも、後成説およびそれと関わりの深い自然発生説は、神の存在や自然の安定性を脅かす主張であった。それゆえ無神論者には支持されたが、機械論者でも保守派には危険視され、前成説(先在胚種説)が18世紀を通して優勢を保った。ボネは、個体のミニチュアである胚種が最初から入れ籠状になっているという前成説の理論を展開した。このとき、胚種は種を規定するのみであり、個体の形質は精液や子宮から吸収する栄養によって親から影響を受けるとされた。このように、前成論者でも個体の特性は遺伝すると考えるのが普通であった。一方、ニュートン主義者のモーペルテュイは、親の身体の各部分から来た粒子が集まって胚をつくるのだという理論を唱えて前成説に反対したが、その粒子が胚のなかの本来あるべき場所に向かう理由を説明するために、粒子に意思のようなものを認めざるを得なくなってしまった。似た理論を唱えたビュフォンは、これを避けるべく内的鋳型の概念を導入した。獲得形質の遺伝は、ラマルクによって導入されたわけではなく、発生に関する18世紀の典型的な議論であった。
19世紀に入って、発生学の研究から二つの発展主義的な見解が現れた。まず、メッケルが1821年に、ヒトの胚は発生過程で動物のヒエラルキーを上昇するという並行法則を論じた。この議論は、地球史のなかで魚類、爬虫類、哺乳類というような出現の順序があるという古生物学の知見と結び付けられた。一方、フォン・ベーアは並行法則を否定して、成長は一般的構造から特殊な構造へと向かう特殊化の過程であると論じた。これらのアイデアが、ダーウィンの進化論が解釈される概念的フレームワークを形作った。多くのナチュラリストは前者の並行法則のほうを好んだ。反復説と獲得形質の遺伝は、どちらも記憶に類比される理論であり、互いに結び付けられて理解された。
2020年1月5日
2020年1月3日
Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 1
Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 1.
第1章「メンデル主義――発見か、発明か?」
この本は、遺伝学の歴史についての一般的に普及している神話に対して挑戦する。
この挑戦は3つのレベルから成る。第一は、概念的なレベルである。メンデルの法則は、(a)世代間での形質の伝達は意義ある独立した研究領域を成す、(b)形質はそれぞれ別個の単位として扱える、という遺伝の理論的モデルのなかではじめて重要な発見となる。ダーウィンやその同時代人たちは、世代間での形質の伝達と、成長する生物のなかで形質が生まれる過程とを区別しない遺伝の発生モデルを受け入れていて、生殖と成長を統合された生物学的過程として扱っていたので、伝達に関する別個の研究領域というものは考えられなかった。この図式は、形質が変わらないまま世代間で伝達されるという考えもできなくしていた。それゆえ、メンデルの法則の受容は事実の発見ではなく、新しい概念図式の創造に依存していた。遺伝学は、遺伝それ自体についての新しいアイデアだけではなく、遺伝と他の生物学的現象との関係についての新しいアイデアの産物でもあった。
この本の目的のひとつは、生物学における「メンデル革命」と呼べるものの絶対的な領域を強調することである。それ以前は、生殖と遺伝に関する発生的な見方によって、生物学者たちは進化が目的をもつ過程であると信じ続けることができた。ダーウィンは、進化が道徳的に有意味な目標へと不可避的に向かうという考えを取り除こうとしたができなかった。現代の生物学者たちが、進化は予め定められた目標に向かっていると考えないのは、大部分で、メンデル主義の到来と結びついた概念的革命の結果である。メンデルと同時代の生物学者たちが、30年以上後に明らかになる含意に気づけなかったのは当然のことである。今では、メンデルは新しい遺伝の理論を開拓しようとはしていなかったと考える遺伝学史家たちがいる。メンデルの本当の関心は、進化の代案としての種の交雑にあり、形質の遺伝における規則性の発見はその研究プログラムの副産物に過ぎなかった。
第二は、職業的なレベルである。遺伝学の出現は、科学コミュニティーのなかで新しい研究領域を認めさせる社会的な活動の結果でもあった。古典遺伝学はアメリカで大きな制度的成功を収めたが、英国ではそこまで明確な領域にならず、ドイツではもっと弱く、フランスではほとんど全く存在しなかった。このような国ごとの違いからもわかるように、遺伝学は「当たり前」の研究領域ではなかった。
第三は、イデオロギーのレベルである。新しい法則や理論は、単に発見されるのではなく、科学者たちや世間の文化的価値観を満足させるように発明される。メンデルの法則の再発見は、「遺伝主義的」な社会的ポリシーが政治の舞台に上がるのと時を同じくしていた。世紀の変わり目の頃、政治家や評論家たちが、人間の能力は遺伝によって厳格に決定されているから、環境の改善は意味がないと論じはじめていたのである。今日では、遺伝主義的な言説は「社会ダーウィニズム」の再来とみなされることが多く、これはメンデル主義ではなくダーウィン主義がそのような価値観の源であるという理解に基づいている。しかし、19世紀後半の古典的社会ダーウィニズムは、スペンサーの進化哲学の派生であり、スペンサーは必ずしも遺伝主義者ではなかった。スペンサーは、19世紀の他のほとんど誰もと同じように、それぞれの人種の知的・道徳的能力は定まっていると考えていたが、近代ヨーロッパ社会のなかでは、個人の達成が遺伝的性質に制限されるとは考えていなかった。スペンサーが無制限の競争を支持したのは、各々がつらい結果を逃れるために努力しようと駆り立てられることが目的であった。20世紀初頭の遺伝主義的なアイデアは、個人の達成レベルは遺伝によって決定された生物学的形質によって定まっているので努力を駆り立てることはできないという考え方であり、イデオロギーが転換したことを示している。
第1章「メンデル主義――発見か、発明か?」
この本は、遺伝学の歴史についての一般的に普及している神話に対して挑戦する。
この挑戦は3つのレベルから成る。第一は、概念的なレベルである。メンデルの法則は、(a)世代間での形質の伝達は意義ある独立した研究領域を成す、(b)形質はそれぞれ別個の単位として扱える、という遺伝の理論的モデルのなかではじめて重要な発見となる。ダーウィンやその同時代人たちは、世代間での形質の伝達と、成長する生物のなかで形質が生まれる過程とを区別しない遺伝の発生モデルを受け入れていて、生殖と成長を統合された生物学的過程として扱っていたので、伝達に関する別個の研究領域というものは考えられなかった。この図式は、形質が変わらないまま世代間で伝達されるという考えもできなくしていた。それゆえ、メンデルの法則の受容は事実の発見ではなく、新しい概念図式の創造に依存していた。遺伝学は、遺伝それ自体についての新しいアイデアだけではなく、遺伝と他の生物学的現象との関係についての新しいアイデアの産物でもあった。
この本の目的のひとつは、生物学における「メンデル革命」と呼べるものの絶対的な領域を強調することである。それ以前は、生殖と遺伝に関する発生的な見方によって、生物学者たちは進化が目的をもつ過程であると信じ続けることができた。ダーウィンは、進化が道徳的に有意味な目標へと不可避的に向かうという考えを取り除こうとしたができなかった。現代の生物学者たちが、進化は予め定められた目標に向かっていると考えないのは、大部分で、メンデル主義の到来と結びついた概念的革命の結果である。メンデルと同時代の生物学者たちが、30年以上後に明らかになる含意に気づけなかったのは当然のことである。今では、メンデルは新しい遺伝の理論を開拓しようとはしていなかったと考える遺伝学史家たちがいる。メンデルの本当の関心は、進化の代案としての種の交雑にあり、形質の遺伝における規則性の発見はその研究プログラムの副産物に過ぎなかった。
第二は、職業的なレベルである。遺伝学の出現は、科学コミュニティーのなかで新しい研究領域を認めさせる社会的な活動の結果でもあった。古典遺伝学はアメリカで大きな制度的成功を収めたが、英国ではそこまで明確な領域にならず、ドイツではもっと弱く、フランスではほとんど全く存在しなかった。このような国ごとの違いからもわかるように、遺伝学は「当たり前」の研究領域ではなかった。
第三は、イデオロギーのレベルである。新しい法則や理論は、単に発見されるのではなく、科学者たちや世間の文化的価値観を満足させるように発明される。メンデルの法則の再発見は、「遺伝主義的」な社会的ポリシーが政治の舞台に上がるのと時を同じくしていた。世紀の変わり目の頃、政治家や評論家たちが、人間の能力は遺伝によって厳格に決定されているから、環境の改善は意味がないと論じはじめていたのである。今日では、遺伝主義的な言説は「社会ダーウィニズム」の再来とみなされることが多く、これはメンデル主義ではなくダーウィン主義がそのような価値観の源であるという理解に基づいている。しかし、19世紀後半の古典的社会ダーウィニズムは、スペンサーの進化哲学の派生であり、スペンサーは必ずしも遺伝主義者ではなかった。スペンサーは、19世紀の他のほとんど誰もと同じように、それぞれの人種の知的・道徳的能力は定まっていると考えていたが、近代ヨーロッパ社会のなかでは、個人の達成が遺伝的性質に制限されるとは考えていなかった。スペンサーが無制限の競争を支持したのは、各々がつらい結果を逃れるために努力しようと駆り立てられることが目的であった。20世紀初頭の遺伝主義的なアイデアは、個人の達成レベルは遺伝によって決定された生物学的形質によって定まっているので努力を駆り立てることはできないという考え方であり、イデオロギーが転換したことを示している。
2019年10月27日
シェリングの自然哲学 Richards, The Romantic Conception Of Life, 第3章第2節
Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 128–146.
第3章「シェリング――自然の詩」
第2節 自然哲学
● 自然哲学の基本的なもくろみ(128–129ページ)
シェリングは、1797年から19世紀はじめの数年間までのあいだ、自分の「自然哲学」を経験的な自然科学の代替物と考えたことはなかった。彼が自然哲学について書いた文章は、当時における最新の実験的研究への参照でいっぱいである。彼は自然哲学を、経験的発見からつくられた法則を体系化し、その体系をより高いレベルのア・プリオリな諸原理に基づかせるための枠組みとみなしていた。この点でシェリングの自然哲学には、物理学の基本法則の由来を先験的なカテゴリーに求めたカントに近い性質がある。しかし、シェリングは物理学の基本法則だけでなく、後期のカントが真正な科学から除外した化学・生物学・医学の法則をも、ア・プリオリな諸原理から引き出そうとした点で、カントの先に進もうとしたのである。
19世紀中頃になると、経験科学者たちは自然哲学の一部の系統に対して敵対的になっていった。たとえばシュライデン(1804-1881)は、シェリングやヘーゲルがドグマ的で思索的なやり方で自然の事実や法則を演繹だけによって確立しようとした(と彼は考えた)ことを批判した。シュライデンにとって、自然科学の基礎は帰納的で実験的な事実の確定によって形作られるものだったのだ。フンボルト(1769-1859)は、はじめシェリングの自然哲学に熱中していたが、後にはシェリングの門下生にあたるネース・フォン・エーゼンベック(1776-1858)やカール・グスタフ・カルス(1789-1869)に対して用心深くなっていった。しかし、シェリング本人とは良好な友人関係を保ち続けていた。
● 『自然哲学の諸考察』(129–137ページ)
自然哲学に関するシェリングの最初の主要な業績『自然哲学の諸考察』(1797)は、第一部で、燃焼、光、気体、電気、磁気などの諸現象に関する最新の研究を検討している。シェリングはこうした帰納的な分析が、様々な自然現象は引力と斥力という二つの根源的な力の変形とみなせるという自らの物理学的仮説を支持するはずだと信じていた。第二部では、シェリングには二つのねらいがあった。一つ目は、外部からのみ力を受ける、小さくて不可分で受動的な原子というニュートン主義的な物質を仮定する理論では、自然科学の特別な現象を説明できないということを示すこと。二つ目は、ニュートン主義的なものよりも有望な、究極的には超越論的観念論によって正当化される見方をつくり出すということであった。
シェリングは、引力と斥力の動的な平衡としての物質という概念を、カントに倣って先験的に演繹しようとした。彼の議論によると、我々が物体を経験することができるのは、我々に働く力の作用によってであって、力をもたない物体などというものは経験することができない。力をもたない物体は「物自体」であって、そのような受動的物質を想定する合理的な理由はない。受動的物質ではなく、むしろ、経験を説明するのに必要な力だけを想定するほうがいい。物質を引力と斥力の平衡から成るものとすれば、電気や磁気、化学的親和性などといった現象は、力だけから引き出すことができる。ニュートン主義的な機械論の物理学・化学は、同質な原子の外的関係によって異なる種類の物質を構成しなければならないという難題を抱えている。その一方で、力に基づく動的な化学は、引力と斥力の特定の不均衡の産物として、様々な物質を説明できる。
シェリングは一方で、物質世界の経験可能性は物自体などという謎めいたものに依存しないというフィヒテ的な立場もとった。シェリングの考えでは、自然界も経験的な自我も同じように、心の二つの力の相互作用によって生じる。一つは外へ向かって拡大していく創造的で無限な力(無限的自我)であり、もう一つは制限し造形する力(絶対的自我)である。後者は前者に制限を課し、経験的自我はこの制限を感じ取る。この制限が、「非我」と解釈されるものである。つまり、感覚的直観それ自体が、直観される物質をつくるのである。このような議論によって、物理世界の経験は無限なる心のなかに封印された。自然のシステムは我々の心のシステムでもあるということになったのである。
自然哲学の課題は、自然の様々な現象や関係がいかにしてその源である自我から生じるかを示すことであった。しかし、絶対的自我は自然だけでなく有限的な自己をも生むものである。それどころか、自然と経験的自己は、いわば相互に依存して発展するのである。というのは、外界を意識することで自己の意識が生じるからであり、現実世界の存在への信念は自己の存在への信念とともに発展するものだからである。このことから、二つの相互補完的な側面をもつ確信が支持される。第一に、自然は自分と同一である以上、自然の研究者は自然を理解し尽くすことができるはずだということ。第二に、自然は自己へといたる道を提供するだろうということ。深い森や異国の地に入っていくことが、自己の発見につながるだろうということである。
『自然哲学の諸考察』の序文でシェリングは、西洋哲学の歴史を人間の精神的発展の歴史として解釈した。その歴史のなかで生じた心と物質の分岐、すなわち絶対的自我の断絶を修復するのが、自分の哲学の役目だと彼は考えた。
シェリングは、カント主義者たちが物自体のせいにして済ませたような因果関係も、絶対的自我の自由な決定であることを示したかった。しかし、自然のさまざまな事実、たとえば花が受粉に昆虫を必要とすることや、哺乳類が血を浄化するのに腎臓を必要とすることなども、自我によって決まるのだろうか。シェリングの哲学に立ちはだかったのは、自然の究極的な事実性だったのである。
● 心と自然の有機体(137–139ページ)
シェリングは次に『世界霊について』(1798)で、有機体の概念に基づく自然哲学を展開した。カントは、有機体はその各部分が実現する目的(たとえば、心臓は腎臓に血を送り、腎臓は血液を浄化する)という観点から理解できるとしていた。また、各部分の機能は、全体のデザインという観点から理解されなければならないとしていた。シェリングはこれを受けて、このような目的論的構造が生物を特徴づけていることを論じ、フンボルト、ブルーメンバッハ、キールマイアー、ライルがいずれも生物に関して目的論的構造の概念に頼っていることを指摘した。さらに、ラヴォアジエらをはじめとした物理学や化学の最近の研究は、非生物の世界を理解するのにも有機体の概念が必要であることを示唆していると論じた。カントは、有機体的構造は知性によるものだとした上で、発見的手法として神の働きを想定していたが、シェリングは、そのような有機体的構造が自然に遍在していることは、心の有機体的なあり方によってのみ説明できると考えた。
● 実験科学のア・プリオリな性質(140–145ページ)
シェリングは1799年に発表した『自然哲学の体系の最初の構想』と『自然哲学の体系構想への序論』において、超越論哲学を最上位に置いたフィヒテの考え方をはっきりと捨て去り、「同一哲学」へと向かった。いまやシェリングは、自然哲学が独立した学問として確立できることを示したいと考えるようになった。そのために彼は、自然哲学は経験科学に取って代わるものではないこと、自然科学の核心は実験であること、世界に関するあらゆる知識は初めに経験から得るしかないことを確認した。
それでもなお、シェリングは、経験的に獲得された知識を演繹的な体系に投げ入れることができると信じていた。これは、我々の知識が有機的で体系的な総体(フンボルトが後に採用する言葉でいえば「コスモス」)を見せる世界を反映するという想定のもとで可能となる。彼は、自然哲学によって自然科学が、神学や超越論哲学から独立した客観的かつ自律的な学問になることを示そうとした。
自然哲学が自律的に確立されるということは、世界で起きるあらゆることは自然の力によって説明されなければならないということである。そこでシェリングは、自我を支配する原理であったものを、自然の根本的構造に作り変えた。以前に彼は、絶対的自我と無限的自我を区別したが、これを自然に移し替えて、生産力としての自然と生産物としての自然という、非我の二つの面を区別したのである。前者は自然の主体的な面であり、後者は客体的な面である。こうしてシェリングは、自然の根本的な力を、自我の相反する動きからではなく、自然それ自体の弁証法的な過程から生じるものとして扱うようになったのである。
しかし、自然哲学に対するこのような新しいアプローチのなかですら、シェリングは超越論的議論に頼ることなしには自然の原理を確立できなかった。自然の原理は、我々の意識的経験の状態であるということが仮定されたのである。彼は、自然哲学が独立性を失わないように、自我に関する体系的な議論を避けながらも、その一方で、超越論的哲学が提供する究極的土台に言及しないわけにはいかなかった。彼はまだ、自然の概念を形成する過程のなかでもがいていたのである。
シェリングは、自然の無限の生産力を、unendliche Evolutionと表現した。Evolutionという単語は、発生学から借用されたもので、前成説を意味していた。彼は、生物の本質的なイデアあるいは原型はすでに存在していて、その経験的現実化が時間的発展を要求すると考えたのである。シェリングは現実の進化を提案していたし、種の変化にこの単語を適用した最初の論者であったように思われる。11章で見るように、シェリングとゲーテは進化について共通の考えをもっていた。
● 自然哲学の個人的要因(145–146ページ)
シェリングの自然哲学の源は、カントやスピノザやフィヒテに求めることもできるし、実験的な自然科学研究に求めることもできる。彼が、自然の生産力が反対の制限する力を克服して実現に至ることに関連して動物の性について書いた箇所は、シュレーゲル兄弟らのサークルに参加したことの影響を受けている可能性がある。彼は当初、性を矛盾と混乱に満ちたものと捉えていたが、後により肯定的に見るようになった。このことはカロリーネの存在と関係していたのではないか。
第3章「シェリング――自然の詩」
第2節 自然哲学
● 自然哲学の基本的なもくろみ(128–129ページ)
シェリングは、1797年から19世紀はじめの数年間までのあいだ、自分の「自然哲学」を経験的な自然科学の代替物と考えたことはなかった。彼が自然哲学について書いた文章は、当時における最新の実験的研究への参照でいっぱいである。彼は自然哲学を、経験的発見からつくられた法則を体系化し、その体系をより高いレベルのア・プリオリな諸原理に基づかせるための枠組みとみなしていた。この点でシェリングの自然哲学には、物理学の基本法則の由来を先験的なカテゴリーに求めたカントに近い性質がある。しかし、シェリングは物理学の基本法則だけでなく、後期のカントが真正な科学から除外した化学・生物学・医学の法則をも、ア・プリオリな諸原理から引き出そうとした点で、カントの先に進もうとしたのである。
19世紀中頃になると、経験科学者たちは自然哲学の一部の系統に対して敵対的になっていった。たとえばシュライデン(1804-1881)は、シェリングやヘーゲルがドグマ的で思索的なやり方で自然の事実や法則を演繹だけによって確立しようとした(と彼は考えた)ことを批判した。シュライデンにとって、自然科学の基礎は帰納的で実験的な事実の確定によって形作られるものだったのだ。フンボルト(1769-1859)は、はじめシェリングの自然哲学に熱中していたが、後にはシェリングの門下生にあたるネース・フォン・エーゼンベック(1776-1858)やカール・グスタフ・カルス(1789-1869)に対して用心深くなっていった。しかし、シェリング本人とは良好な友人関係を保ち続けていた。
● 『自然哲学の諸考察』(129–137ページ)
自然哲学に関するシェリングの最初の主要な業績『自然哲学の諸考察』(1797)は、第一部で、燃焼、光、気体、電気、磁気などの諸現象に関する最新の研究を検討している。シェリングはこうした帰納的な分析が、様々な自然現象は引力と斥力という二つの根源的な力の変形とみなせるという自らの物理学的仮説を支持するはずだと信じていた。第二部では、シェリングには二つのねらいがあった。一つ目は、外部からのみ力を受ける、小さくて不可分で受動的な原子というニュートン主義的な物質を仮定する理論では、自然科学の特別な現象を説明できないということを示すこと。二つ目は、ニュートン主義的なものよりも有望な、究極的には超越論的観念論によって正当化される見方をつくり出すということであった。
シェリングは、引力と斥力の動的な平衡としての物質という概念を、カントに倣って先験的に演繹しようとした。彼の議論によると、我々が物体を経験することができるのは、我々に働く力の作用によってであって、力をもたない物体などというものは経験することができない。力をもたない物体は「物自体」であって、そのような受動的物質を想定する合理的な理由はない。受動的物質ではなく、むしろ、経験を説明するのに必要な力だけを想定するほうがいい。物質を引力と斥力の平衡から成るものとすれば、電気や磁気、化学的親和性などといった現象は、力だけから引き出すことができる。ニュートン主義的な機械論の物理学・化学は、同質な原子の外的関係によって異なる種類の物質を構成しなければならないという難題を抱えている。その一方で、力に基づく動的な化学は、引力と斥力の特定の不均衡の産物として、様々な物質を説明できる。
シェリングは一方で、物質世界の経験可能性は物自体などという謎めいたものに依存しないというフィヒテ的な立場もとった。シェリングの考えでは、自然界も経験的な自我も同じように、心の二つの力の相互作用によって生じる。一つは外へ向かって拡大していく創造的で無限な力(無限的自我)であり、もう一つは制限し造形する力(絶対的自我)である。後者は前者に制限を課し、経験的自我はこの制限を感じ取る。この制限が、「非我」と解釈されるものである。つまり、感覚的直観それ自体が、直観される物質をつくるのである。このような議論によって、物理世界の経験は無限なる心のなかに封印された。自然のシステムは我々の心のシステムでもあるということになったのである。
自然哲学の課題は、自然の様々な現象や関係がいかにしてその源である自我から生じるかを示すことであった。しかし、絶対的自我は自然だけでなく有限的な自己をも生むものである。それどころか、自然と経験的自己は、いわば相互に依存して発展するのである。というのは、外界を意識することで自己の意識が生じるからであり、現実世界の存在への信念は自己の存在への信念とともに発展するものだからである。このことから、二つの相互補完的な側面をもつ確信が支持される。第一に、自然は自分と同一である以上、自然の研究者は自然を理解し尽くすことができるはずだということ。第二に、自然は自己へといたる道を提供するだろうということ。深い森や異国の地に入っていくことが、自己の発見につながるだろうということである。
『自然哲学の諸考察』の序文でシェリングは、西洋哲学の歴史を人間の精神的発展の歴史として解釈した。その歴史のなかで生じた心と物質の分岐、すなわち絶対的自我の断絶を修復するのが、自分の哲学の役目だと彼は考えた。
シェリングは、カント主義者たちが物自体のせいにして済ませたような因果関係も、絶対的自我の自由な決定であることを示したかった。しかし、自然のさまざまな事実、たとえば花が受粉に昆虫を必要とすることや、哺乳類が血を浄化するのに腎臓を必要とすることなども、自我によって決まるのだろうか。シェリングの哲学に立ちはだかったのは、自然の究極的な事実性だったのである。
● 心と自然の有機体(137–139ページ)
シェリングは次に『世界霊について』(1798)で、有機体の概念に基づく自然哲学を展開した。カントは、有機体はその各部分が実現する目的(たとえば、心臓は腎臓に血を送り、腎臓は血液を浄化する)という観点から理解できるとしていた。また、各部分の機能は、全体のデザインという観点から理解されなければならないとしていた。シェリングはこれを受けて、このような目的論的構造が生物を特徴づけていることを論じ、フンボルト、ブルーメンバッハ、キールマイアー、ライルがいずれも生物に関して目的論的構造の概念に頼っていることを指摘した。さらに、ラヴォアジエらをはじめとした物理学や化学の最近の研究は、非生物の世界を理解するのにも有機体の概念が必要であることを示唆していると論じた。カントは、有機体的構造は知性によるものだとした上で、発見的手法として神の働きを想定していたが、シェリングは、そのような有機体的構造が自然に遍在していることは、心の有機体的なあり方によってのみ説明できると考えた。
● 実験科学のア・プリオリな性質(140–145ページ)
シェリングは1799年に発表した『自然哲学の体系の最初の構想』と『自然哲学の体系構想への序論』において、超越論哲学を最上位に置いたフィヒテの考え方をはっきりと捨て去り、「同一哲学」へと向かった。いまやシェリングは、自然哲学が独立した学問として確立できることを示したいと考えるようになった。そのために彼は、自然哲学は経験科学に取って代わるものではないこと、自然科学の核心は実験であること、世界に関するあらゆる知識は初めに経験から得るしかないことを確認した。
それでもなお、シェリングは、経験的に獲得された知識を演繹的な体系に投げ入れることができると信じていた。これは、我々の知識が有機的で体系的な総体(フンボルトが後に採用する言葉でいえば「コスモス」)を見せる世界を反映するという想定のもとで可能となる。彼は、自然哲学によって自然科学が、神学や超越論哲学から独立した客観的かつ自律的な学問になることを示そうとした。
自然哲学が自律的に確立されるということは、世界で起きるあらゆることは自然の力によって説明されなければならないということである。そこでシェリングは、自我を支配する原理であったものを、自然の根本的構造に作り変えた。以前に彼は、絶対的自我と無限的自我を区別したが、これを自然に移し替えて、生産力としての自然と生産物としての自然という、非我の二つの面を区別したのである。前者は自然の主体的な面であり、後者は客体的な面である。こうしてシェリングは、自然の根本的な力を、自我の相反する動きからではなく、自然それ自体の弁証法的な過程から生じるものとして扱うようになったのである。
しかし、自然哲学に対するこのような新しいアプローチのなかですら、シェリングは超越論的議論に頼ることなしには自然の原理を確立できなかった。自然の原理は、我々の意識的経験の状態であるということが仮定されたのである。彼は、自然哲学が独立性を失わないように、自我に関する体系的な議論を避けながらも、その一方で、超越論的哲学が提供する究極的土台に言及しないわけにはいかなかった。彼はまだ、自然の概念を形成する過程のなかでもがいていたのである。
シェリングは、自然の無限の生産力を、unendliche Evolutionと表現した。Evolutionという単語は、発生学から借用されたもので、前成説を意味していた。彼は、生物の本質的なイデアあるいは原型はすでに存在していて、その経験的現実化が時間的発展を要求すると考えたのである。シェリングは現実の進化を提案していたし、種の変化にこの単語を適用した最初の論者であったように思われる。11章で見るように、シェリングとゲーテは進化について共通の考えをもっていた。
● 自然哲学の個人的要因(145–146ページ)
シェリングの自然哲学の源は、カントやスピノザやフィヒテに求めることもできるし、実験的な自然科学研究に求めることもできる。彼が、自然の生産力が反対の制限する力を克服して実現に至ることに関連して動物の性について書いた箇所は、シュレーゲル兄弟らのサークルに参加したことの影響を受けている可能性がある。彼は当初、性を矛盾と混乱に満ちたものと捉えていたが、後により肯定的に見るようになった。このことはカロリーネの存在と関係していたのではないか。
2019年9月15日
シュライアマハーの宗教論 Richards, The Romantic Conception Of Life, 第2章第7節
Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 94–105.
第2章「初期のロマン主義運動」
第7節 フリードリヒ・シュライアマハー:宗教の詩学と性愛学
フリードリヒ・シュレーゲルが深く関わり大きな影響を受けたもう一人の人物が、シュライアマハーであった。シュライアマハーは1768年にブレスラウ(ポーランド)で改革派牧師の息子として生まれ、ヘルンフート兄弟団の学校で教育を受けたが、ゲーテやカントを好んで読んだ結果として宗教的に異端の思想を抱くようになっていった。ハレ大学で神学を学んだ後、家庭教師などの仕事を経て、1796年からベルリンにあるシャリテ慈善病院の牧師として働き始めた。ここでシュライアマハーは、ユダヤ人医師のマルクス・ヘルツの妻であったヘンリエッテ・ヘルツと深い関係を結ぶようになった。
同時期に、シュライアマハーはシュレーゲルとも出会った。二人は意気投合し、2年間にわたって共同生活を送った。シュレーゲルに文章を書くように促されたシュライアマハーは、1799年に代表作のひとつである『宗教論』を匿名で発表した。この本はすぐに多くの人に読まれて、シェリングは冷笑的であったが、シュレーゲルをはじめ多くの人々が評価して、ロマン主義の潮流の一部となっていった。
この本でシュライアマハーは、芸術と愛によって陶冶される直観と感情こそが宗教の本質であり、無限なる存在に対する絶対依存の感情を解き放つものだと論じた。これは、カントに反対して、宗教への衝動を道徳やカントのいう幸福から区別するものでもあった。シュライアマハーの考えでは、性愛は宗教を基礎づける直観を受容するための準備をする。有限な存在である人間が、カントの引いた境界線を超えて無限なる「宇宙」に至る手段が、愛と詩であった。
シュライアマハーの議論では、宗教の教義はその直観を呼び起こすのに役立つかもしれないが、それ以上の役割は持たないことになった。『キリスト教信仰』(1821–22)では、神学の諸説はある種の感情(無限者に対する絶対依存)を比喩的に表現したものに過ぎないと論じた。このようにして科学と宗教を調和させるシュライアマハーの解決策は、19世紀の多くの科学者に受け入れられた。
第2章「初期のロマン主義運動」
第7節 フリードリヒ・シュライアマハー:宗教の詩学と性愛学
フリードリヒ・シュレーゲルが深く関わり大きな影響を受けたもう一人の人物が、シュライアマハーであった。シュライアマハーは1768年にブレスラウ(ポーランド)で改革派牧師の息子として生まれ、ヘルンフート兄弟団の学校で教育を受けたが、ゲーテやカントを好んで読んだ結果として宗教的に異端の思想を抱くようになっていった。ハレ大学で神学を学んだ後、家庭教師などの仕事を経て、1796年からベルリンにあるシャリテ慈善病院の牧師として働き始めた。ここでシュライアマハーは、ユダヤ人医師のマルクス・ヘルツの妻であったヘンリエッテ・ヘルツと深い関係を結ぶようになった。
同時期に、シュライアマハーはシュレーゲルとも出会った。二人は意気投合し、2年間にわたって共同生活を送った。シュレーゲルに文章を書くように促されたシュライアマハーは、1799年に代表作のひとつである『宗教論』を匿名で発表した。この本はすぐに多くの人に読まれて、シェリングは冷笑的であったが、シュレーゲルをはじめ多くの人々が評価して、ロマン主義の潮流の一部となっていった。
この本でシュライアマハーは、芸術と愛によって陶冶される直観と感情こそが宗教の本質であり、無限なる存在に対する絶対依存の感情を解き放つものだと論じた。これは、カントに反対して、宗教への衝動を道徳やカントのいう幸福から区別するものでもあった。シュライアマハーの考えでは、性愛は宗教を基礎づける直観を受容するための準備をする。有限な存在である人間が、カントの引いた境界線を超えて無限なる「宇宙」に至る手段が、愛と詩であった。
シュライアマハーの議論では、宗教の教義はその直観を呼び起こすのに役立つかもしれないが、それ以上の役割は持たないことになった。『キリスト教信仰』(1821–22)では、神学の諸説はある種の感情(無限者に対する絶対依存)を比喩的に表現したものに過ぎないと論じた。このようにして科学と宗教を調和させるシュライアマハーの解決策は、19世紀の多くの科学者に受け入れられた。
ドイツ自然哲学とロマン主義的生物学 Richards, The Romantic Conception Of Life, Introduction
Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 1–14.
イントロダクション:最も幸福な出会い
1794年7月20日、ゲーテ(1749–1832)とシラー(1759–1805)はイエーナ自然科学協会の集まりで同席した。2人は6年前から知り合っていたが、関係はよくなかった。シラーは超然とした天才風のゲーテに敵愾心を抱いていたし、ゲーテはカント的な主観主義の立場をとるシラーに当惑していた。それゆえ、ゲーテとシラーは集まりの後、お互いに用心しながら議論をした。ゲーテはこのとき、講演していた植物学者アウグスト・バッシュの意見に反して、自然の研究は全体から部分へと進むのでなければならないと話した。シラーはこれに好奇心をそそられて、ゲーテを家に招いて会話を続けた。ゲーテは、すべての植物を理解するための形態学的モデルとなる「原植物 Urpflanze」のスケッチを見せたが、シラーは「これは経験ではない、理念だ」と言ったので、ゲーテは憤慨した。しかし、この出会いはゲーテとシラーの終生続く友情の始まりとなったのである。
ゲーテは『形態学のために Zur Morphologie』(1817–24)の最初の回で、この出会いについて書いた。このことは、ゲーテの理論がロマン主義的感覚から生じたものであることを示唆しているように思われる。ゲーテをロマン主義者だとするのは、奇異な考え方に映るかもしれない。たしかにゲーテは、ロマン主義を批判していた。しかし1830年には、自らの意志に反して自分自身がロマン主義者だったということをシラーによって納得させられたと述べている。
19世紀の科学を研究する歴史家たちはふつう、ロマン主義的科学というようなものは何であれ異常なものとして片付けてしまう。歴史家のTimothy Lenoirでさえ、この時代の「本物」の生物学者たちを切り分けてこの汚名から守ろうとした。しかし、当時の生物学を、そこに生命を吹き込んでいた思想や文化と繋げて捉えれば、生物学の多くの主題がロマン主義の様式で演奏されていたことがわかるだろう。
この本のパート1では、ロマン主義の潮流を生み出したノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、シュライアマハー、シェリング、ゲーテ、カロリーネ・シェリングらの人生と思想を追う。パート2では、カント、ヘルダー、ブルーメンバッハ、キールマイアー、フンボルトらによる生命の本質の定式化を考察する。彼らの定式化は、シェリングやライルと融合し、変形した。パート3では、ゲーテと彼のロマン主義に対する一見矛盾した評価の問題を扱う。エピローグでは、ドイツのロマン主義がダーウィンに与えた影響を論じる。この本は伝記的な性質が強いが、それは、思想がつくられているところを捉えるためには、その人物の特徴について詳しく理解することが重要だと確信しているからである。
● 自然哲学とロマン主義的生物学の歴史的意味
これまで、「ロマン主義」や「自然哲学 Naturphilosophie」といった言葉は定義されずに曖昧に用いられることが多く、そのせいでそれらが科学の歴史のなかで果たした役割が侮られることが多かった。この本では、「ロマン主義的生物学」や「自然哲学」といった言葉で表される思想の起源と発展を辿ることでその定義をしていくが、その前に暫定的な定義をつくっておきたい。これからそれらの思想の特徴をいくつか述べるが、それらすべてを組み込んでいた思想体系が存在したわけではない。ある思想体系がどれくらいロマン主義的、あるいは自然哲学的であるかは、そのうちどれくらい多くの特徴をもっていたかで判定されることになる。
「自然哲学」と「ロマン的」はどちらも18世紀初頭に導入された言葉だが、18世紀末の人々によって新しい方向づけがなされた。両者は深く関係した歴史を辿ってきたし、現在では相互に交換できる言葉として使用されることも多いが、異なるものである。私は、ロマン主義的生物学をドイツ自然哲学という属の一つの種として理解することを提案する。
● 自然哲学
自然哲学の主要な人々は、カントやシェリングやゲーテが普及させた、生物はいくつかの「原型」を示しているという考え方を採用した。たとえば、動物の原型として「放射相称動物 radiata」「関節動物 articulata」「軟体動物 mollusca」「脊椎動物 vertebrata」の4つがある。
カントは、生物のこのようなあり方が示唆しているのは、生物はそれが具現化しているところの理想(ideal)から生み出されているということだと主張した。しかしカントは、自然の科学的分析は機械論的、ニュートン科学的におこなわれなければならないとも説いていた。そこでカント主義の生物学者は、原型という概念をあくまでも発見的方法として用いるしかなかった。一方、シェリングやゲーテ、それに追随した生物学者たちは、原型が生物学者にとって必要な仮定であるならば、自然が本質的に原型的である――つまり機械的というよりも有機体的である――とみなしてもいいはずだと考えた。
自然哲学者たちは、原型の具体化や漸進的な変異を説明するとき、特別な力の存在に訴えた。しかしそれは物理学的な力と両立しないものではなく、むしろ物理学的な力の特別な適用(動物電気や動物磁気など)であったり、物理学的な力から生じたもの(生命力 Lebenskraftや形成衝動Bildungstrieb、自然選択など)であったり、物理学的な力を構成するもの(シェリングのpolar forcesなど)であったりした。また自然哲学者たちは、物質と精神を同じひとつのもののあらわれと見る一元論を採用し、自然を調和的で統一されたネットワークとみなした。
原型が自然のなかでどのように具体化されるかについては、3つの異なる理論があった。シェリングらは、原型の変異の出現を、漸進的発展の結果とみなした。これは反宗教的とみなされやすかったので、イギリスのジョゼフ・ヘンリー・グリーンやリチャード・オーウェンは、原型は神の心のなかにあるもので、原型が自然のなかに出現するのは神の活動の結果だということにした。そしてダーウィンは、原型的構造を抽象的なものとしてではなく歴史的な産物とみなした。
自然哲学者たちは、個々の生物や自然全体を、目的論的に理解されるべきものだと考えた。ただしそれはイギリスの自然神学とは異なり、スピノザ的に神と自然を一体とみなすものだった。このような考え方は、デカルトやニュートン以来の機械論に反している。自然は創造主のデザインの産物ではなく、それ自身を生み出す存在となった。時計のような機械に歴史性を見出すことは難しかったが、このような自然哲学の見方は、自然に歴史を見出すことを可能にした。
● ロマン主義的生物学
ロマン主義者たちは、自然哲学の考え方に、美的・道徳的な要素を加えた。
ロマン主義的生物学者たちは、目的論的判断と美的判断は論理的に類似しているというカントの分析を受け止めて、両者は自然に対する相互補完的なアプローチだとみなしていた。これは、芸術的な方法と科学的な方法が調和するという考え方につながった。ロマン主義的生物学者たちはしばしば、生物全体や自然環境全体の美的把握が、個々の部分の科学的分析の前に必要だと論じた。
カントはさらに、美的判断と道徳的判断の論理的類似性を指摘した。このことから、自然の科学的・美的把握は道徳的要素も含むということになった。そこでロマン主義的生物学者たちは、自然は法則性や美的喜びだけでなく、道徳的価値の宝庫でもあると考えた。
イントロダクション:最も幸福な出会い
1794年7月20日、ゲーテ(1749–1832)とシラー(1759–1805)はイエーナ自然科学協会の集まりで同席した。2人は6年前から知り合っていたが、関係はよくなかった。シラーは超然とした天才風のゲーテに敵愾心を抱いていたし、ゲーテはカント的な主観主義の立場をとるシラーに当惑していた。それゆえ、ゲーテとシラーは集まりの後、お互いに用心しながら議論をした。ゲーテはこのとき、講演していた植物学者アウグスト・バッシュの意見に反して、自然の研究は全体から部分へと進むのでなければならないと話した。シラーはこれに好奇心をそそられて、ゲーテを家に招いて会話を続けた。ゲーテは、すべての植物を理解するための形態学的モデルとなる「原植物 Urpflanze」のスケッチを見せたが、シラーは「これは経験ではない、理念だ」と言ったので、ゲーテは憤慨した。しかし、この出会いはゲーテとシラーの終生続く友情の始まりとなったのである。
ゲーテは『形態学のために Zur Morphologie』(1817–24)の最初の回で、この出会いについて書いた。このことは、ゲーテの理論がロマン主義的感覚から生じたものであることを示唆しているように思われる。ゲーテをロマン主義者だとするのは、奇異な考え方に映るかもしれない。たしかにゲーテは、ロマン主義を批判していた。しかし1830年には、自らの意志に反して自分自身がロマン主義者だったということをシラーによって納得させられたと述べている。
19世紀の科学を研究する歴史家たちはふつう、ロマン主義的科学というようなものは何であれ異常なものとして片付けてしまう。歴史家のTimothy Lenoirでさえ、この時代の「本物」の生物学者たちを切り分けてこの汚名から守ろうとした。しかし、当時の生物学を、そこに生命を吹き込んでいた思想や文化と繋げて捉えれば、生物学の多くの主題がロマン主義の様式で演奏されていたことがわかるだろう。
この本のパート1では、ロマン主義の潮流を生み出したノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、シュライアマハー、シェリング、ゲーテ、カロリーネ・シェリングらの人生と思想を追う。パート2では、カント、ヘルダー、ブルーメンバッハ、キールマイアー、フンボルトらによる生命の本質の定式化を考察する。彼らの定式化は、シェリングやライルと融合し、変形した。パート3では、ゲーテと彼のロマン主義に対する一見矛盾した評価の問題を扱う。エピローグでは、ドイツのロマン主義がダーウィンに与えた影響を論じる。この本は伝記的な性質が強いが、それは、思想がつくられているところを捉えるためには、その人物の特徴について詳しく理解することが重要だと確信しているからである。
● 自然哲学とロマン主義的生物学の歴史的意味
これまで、「ロマン主義」や「自然哲学 Naturphilosophie」といった言葉は定義されずに曖昧に用いられることが多く、そのせいでそれらが科学の歴史のなかで果たした役割が侮られることが多かった。この本では、「ロマン主義的生物学」や「自然哲学」といった言葉で表される思想の起源と発展を辿ることでその定義をしていくが、その前に暫定的な定義をつくっておきたい。これからそれらの思想の特徴をいくつか述べるが、それらすべてを組み込んでいた思想体系が存在したわけではない。ある思想体系がどれくらいロマン主義的、あるいは自然哲学的であるかは、そのうちどれくらい多くの特徴をもっていたかで判定されることになる。
「自然哲学」と「ロマン的」はどちらも18世紀初頭に導入された言葉だが、18世紀末の人々によって新しい方向づけがなされた。両者は深く関係した歴史を辿ってきたし、現在では相互に交換できる言葉として使用されることも多いが、異なるものである。私は、ロマン主義的生物学をドイツ自然哲学という属の一つの種として理解することを提案する。
● 自然哲学
自然哲学の主要な人々は、カントやシェリングやゲーテが普及させた、生物はいくつかの「原型」を示しているという考え方を採用した。たとえば、動物の原型として「放射相称動物 radiata」「関節動物 articulata」「軟体動物 mollusca」「脊椎動物 vertebrata」の4つがある。
カントは、生物のこのようなあり方が示唆しているのは、生物はそれが具現化しているところの理想(ideal)から生み出されているということだと主張した。しかしカントは、自然の科学的分析は機械論的、ニュートン科学的におこなわれなければならないとも説いていた。そこでカント主義の生物学者は、原型という概念をあくまでも発見的方法として用いるしかなかった。一方、シェリングやゲーテ、それに追随した生物学者たちは、原型が生物学者にとって必要な仮定であるならば、自然が本質的に原型的である――つまり機械的というよりも有機体的である――とみなしてもいいはずだと考えた。
自然哲学者たちは、原型の具体化や漸進的な変異を説明するとき、特別な力の存在に訴えた。しかしそれは物理学的な力と両立しないものではなく、むしろ物理学的な力の特別な適用(動物電気や動物磁気など)であったり、物理学的な力から生じたもの(生命力 Lebenskraftや形成衝動Bildungstrieb、自然選択など)であったり、物理学的な力を構成するもの(シェリングのpolar forcesなど)であったりした。また自然哲学者たちは、物質と精神を同じひとつのもののあらわれと見る一元論を採用し、自然を調和的で統一されたネットワークとみなした。
原型が自然のなかでどのように具体化されるかについては、3つの異なる理論があった。シェリングらは、原型の変異の出現を、漸進的発展の結果とみなした。これは反宗教的とみなされやすかったので、イギリスのジョゼフ・ヘンリー・グリーンやリチャード・オーウェンは、原型は神の心のなかにあるもので、原型が自然のなかに出現するのは神の活動の結果だということにした。そしてダーウィンは、原型的構造を抽象的なものとしてではなく歴史的な産物とみなした。
自然哲学者たちは、個々の生物や自然全体を、目的論的に理解されるべきものだと考えた。ただしそれはイギリスの自然神学とは異なり、スピノザ的に神と自然を一体とみなすものだった。このような考え方は、デカルトやニュートン以来の機械論に反している。自然は創造主のデザインの産物ではなく、それ自身を生み出す存在となった。時計のような機械に歴史性を見出すことは難しかったが、このような自然哲学の見方は、自然に歴史を見出すことを可能にした。
● ロマン主義的生物学
ロマン主義者たちは、自然哲学の考え方に、美的・道徳的な要素を加えた。
ロマン主義的生物学者たちは、目的論的判断と美的判断は論理的に類似しているというカントの分析を受け止めて、両者は自然に対する相互補完的なアプローチだとみなしていた。これは、芸術的な方法と科学的な方法が調和するという考え方につながった。ロマン主義的生物学者たちはしばしば、生物全体や自然環境全体の美的把握が、個々の部分の科学的分析の前に必要だと論じた。
カントはさらに、美的判断と道徳的判断の論理的類似性を指摘した。このことから、自然の科学的・美的把握は道徳的要素も含むということになった。そこでロマン主義的生物学者たちは、自然は法則性や美的喜びだけでなく、道徳的価値の宝庫でもあると考えた。
ロマン主義の人生と生命観 Richards, The Romantic Conception Of Life, Prologue
Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. xvii–xix.
プロローグ
この本のタイトルは、この研究の2つの側面に関係している。1つは、この本で議論する個々人によって経験されたものとしての人生(life)である。彼らはロマン的な人生を送った。恋人が15歳で亡くなり自身も30歳になる前に亡くなった若い詩人(ノヴァーリス)。革命のときフランス人兵士にあっという間に夢中になり、彼の子どもを身籠っているあいだに幽閉された美人(カロリーネ)。友人の妻と恋に落ち、その娘とも恋に落ちた哲学者にして科学者(シェリング)。ローマへ逃げ延びて、繊細な詩で性の解放を称賛した有名な書き手(?)。これらの人々は、中産階級の道徳的慣習に反抗し、自由の理念を唱道し、その普通でない生涯の記憶を自叙伝や手紙に、さらに非直接的な形では詩や小説、神学的・科学的文章にも書き残した。彼らは、意識的に「ロマン的」という言葉を盗み取って専有した。そして、彼らの人生がこの言葉の意味を定義することになったのである。
もう1つは、そのような人生を送った個々人が、詩や哲学や科学を通して、生ある自然をロマン主義的な様式で理解しようとしたということである。一般的には、彼らは一様に啓蒙主義の理性重視に反対していたのだと理解されているが、実際のところはそういうわけではない。むしろ、ロマン主義者たちの多くは、科学的精神は宇宙の隅々までを見通すことができると考えていたという点で理性主義的であったとさえいえるかもしれない。だが彼らは、美的な判断が現実の深い構造に至るもうひとつの相補的な道を提供するとも主張した。特に、哲学や科学を詩的に変容させることで、それまで考えられなかったような自然の特徴を明らかにできるかもしれないという主張をして、哲学や科学の性質に関する想定に根本的な変化をもたらした。この新しい理解に勇気づけられて、ロマン主義者たちは、科学の進歩の原動力として機械論を推進してきた、それまでの思想の防波堤に襲いかかった。デカルトやニュートンからヒュームやカントまで、機械論は生きていない宇宙だけでなく生きている世界も理解するための基本的な思想であった。ロマン主義者たちは機械論の思想を有機体の思想で置き換え、自然を理解するための主要な指針としてそれを用いたのである。
1780年から1820年までのあいだ、つまりゲーテの時代に、彼らは「共同で哲学」し「共同で詩作」するために集まった。そのなかの科学的なメンバーは、哲学者の関心や詩人の感覚を生命の実験的探究に持ち込んだ。ロマン主義者たちは、表現の芸術的様式と科学的様式の関係についての強力な思想を考案したのである。しかし、彼らの着想は、彼らの具体的な人格や、愛や憎しみに燃えた人間関係のなかから生まれたものである。私は初期のロマン主義思想家たちの哲学的・科学的思想を、それらが先人の知的遺産や直接の科学的経験、そして緊密な人間関係といったものから現れた通りに追ってきた。
この本は、ニュー・クリティシズムの立場には与さず、彼らの人生がどのように彼らの仕事に影響したかを示していく。しかしそれだけではなく、彼らの仕事がどのように彼らの人生に影響したかも示していく。
この本を通して、私はいくつものテーマを扱っていく。私のねらいは、いかにして自我の概念が、美的・倫理的考慮とともに、自然の生物学的表現に補完的な形を与えたのかを示すところにある。しかし、それらのテーマは、異なる個人や出来事に関わるので、この本のいくつかの部分でそれぞれに展開していく。
この本のさまざまなテーマや議論は、エピローグで明確になる結論に向かって流れていく。そのエピローグでは、ロマン主義の思想がダーウィンの自然や進化の概念に形を与えた根本的な筋道を描く。ロマン主義的科学と呼ばれるものは何であれ、せいぜい19世紀科学思想の小さな支流と考えられる程度であったが、私の結論はまったく異なっていて、19世紀生物学の中心的な流れはロマン主義の運動に起源をもっていたというものである。
プロローグ
この本のタイトルは、この研究の2つの側面に関係している。1つは、この本で議論する個々人によって経験されたものとしての人生(life)である。彼らはロマン的な人生を送った。恋人が15歳で亡くなり自身も30歳になる前に亡くなった若い詩人(ノヴァーリス)。革命のときフランス人兵士にあっという間に夢中になり、彼の子どもを身籠っているあいだに幽閉された美人(カロリーネ)。友人の妻と恋に落ち、その娘とも恋に落ちた哲学者にして科学者(シェリング)。ローマへ逃げ延びて、繊細な詩で性の解放を称賛した有名な書き手(?)。これらの人々は、中産階級の道徳的慣習に反抗し、自由の理念を唱道し、その普通でない生涯の記憶を自叙伝や手紙に、さらに非直接的な形では詩や小説、神学的・科学的文章にも書き残した。彼らは、意識的に「ロマン的」という言葉を盗み取って専有した。そして、彼らの人生がこの言葉の意味を定義することになったのである。
もう1つは、そのような人生を送った個々人が、詩や哲学や科学を通して、生ある自然をロマン主義的な様式で理解しようとしたということである。一般的には、彼らは一様に啓蒙主義の理性重視に反対していたのだと理解されているが、実際のところはそういうわけではない。むしろ、ロマン主義者たちの多くは、科学的精神は宇宙の隅々までを見通すことができると考えていたという点で理性主義的であったとさえいえるかもしれない。だが彼らは、美的な判断が現実の深い構造に至るもうひとつの相補的な道を提供するとも主張した。特に、哲学や科学を詩的に変容させることで、それまで考えられなかったような自然の特徴を明らかにできるかもしれないという主張をして、哲学や科学の性質に関する想定に根本的な変化をもたらした。この新しい理解に勇気づけられて、ロマン主義者たちは、科学の進歩の原動力として機械論を推進してきた、それまでの思想の防波堤に襲いかかった。デカルトやニュートンからヒュームやカントまで、機械論は生きていない宇宙だけでなく生きている世界も理解するための基本的な思想であった。ロマン主義者たちは機械論の思想を有機体の思想で置き換え、自然を理解するための主要な指針としてそれを用いたのである。
1780年から1820年までのあいだ、つまりゲーテの時代に、彼らは「共同で哲学」し「共同で詩作」するために集まった。そのなかの科学的なメンバーは、哲学者の関心や詩人の感覚を生命の実験的探究に持ち込んだ。ロマン主義者たちは、表現の芸術的様式と科学的様式の関係についての強力な思想を考案したのである。しかし、彼らの着想は、彼らの具体的な人格や、愛や憎しみに燃えた人間関係のなかから生まれたものである。私は初期のロマン主義思想家たちの哲学的・科学的思想を、それらが先人の知的遺産や直接の科学的経験、そして緊密な人間関係といったものから現れた通りに追ってきた。
この本は、ニュー・クリティシズムの立場には与さず、彼らの人生がどのように彼らの仕事に影響したかを示していく。しかしそれだけではなく、彼らの仕事がどのように彼らの人生に影響したかも示していく。
この本を通して、私はいくつものテーマを扱っていく。私のねらいは、いかにして自我の概念が、美的・倫理的考慮とともに、自然の生物学的表現に補完的な形を与えたのかを示すところにある。しかし、それらのテーマは、異なる個人や出来事に関わるので、この本のいくつかの部分でそれぞれに展開していく。
この本のさまざまなテーマや議論は、エピローグで明確になる結論に向かって流れていく。そのエピローグでは、ロマン主義の思想がダーウィンの自然や進化の概念に形を与えた根本的な筋道を描く。ロマン主義的科学と呼ばれるものは何であれ、せいぜい19世紀科学思想の小さな支流と考えられる程度であったが、私の結論はまったく異なっていて、19世紀生物学の中心的な流れはロマン主義の運動に起源をもっていたというものである。
2019年2月3日
フランス流自然分類法のイギリスへの導入 Endersby, Imperial Nature, Ch. 6
Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (Chicago: University of Chicago Press, 2008), pp. 170–194.
第6章 落ち着かせること(Settling)
フッカーにとって1850年代は、自身の仕事や生活を落ち着かせる時期であった。それと同時に、フッカーは植物分類体系に関する混乱も落ち着かせようと試みていた。
リンネの分類体系(性の体系)はシンプルかつ客観的であり広く普及したが、本人も認めていたように、ごく一部の性質だけに基づいている点で人為的な体系であった。より自然な分類を目指す試みは、アダンソン、ド・ジュシュー、ド・カンドルによってフランスで発展し、自然分類として知られるようになった。
一方、イギリスではリンネの分類体系に対する支持が根強く、分類学者たちは植物の構造を研究することに熱心でなかった。大陸のほとんどでリンネの体系が捨て去られたあともこの傾向は続き、イギリスの植物学は遅れていると言われるようになっていった。植物学者のジョン・リンドリーなどはリンネの体系を激しく批判していたが、初学者には有用だという観点から擁護する声も強かった。
リンネの体系を批判する人々も、代わりにどのような体系を支持するかという点ではまったくまとまらなかった。自然分類を主張する主流派のなかでも、具体的な原理についての意見はバラバラであった。同一の人物でさえ時期によって意見が変わってしまい、リンドリーの本は以前の著作と内容があまりにも大きく異なっているとして批判された。1858年から62年までのあいだにはイギリスの植物相に関する本が3冊出版され、どれも自然分類を標榜していたが、ブリテン島に存在する植物種の数について、1708種、1571種、1285種と大きく異なった数を出した。こうした混乱は、リンネの体系を擁護する人々を利していた。
さらに、他の分類体系を主張する人々の存在が混乱に拍車をかけていた。ウィリアム・シャープ・マクリーが提唱した5つ組の分類は広く支持を集めていたし、他にもジョージ・ラックスフォードが提唱した7つ組の分類、エイドリアン・ハワースが提唱した二分法の分類、トーマス・バスカービルが提唱した球状の分類などがあった。こうした理論には典型的な特徴として、人為的な分類に対する批判や、植物間の類縁関係への注目があった。また、ローレンツ・オーケンをはじめとするドイツの自然哲学から大きな影響を受けている傾向があった(→参考:グールド『フラミンゴの微笑』第13章「五の法則」)。
以上のような議論の紛糾は、植物学は指導原理のない非哲学的な研究分野だという印象を広め、その地位を危うくしていた。植物に関心のある一般大衆にとっても、こうした状況は困惑のもととなっていた。また、本国での議論は、植民地のナチュラリストたちにも非常に強い影響を与えており、フッカーにとっては悩みの種であった。
フッカーには、なんとしてもリンネの体系を自然分類に置き換えたかった。というのも、リンネの体系が維持されている限りは、植物分類の研究はより信望のある植物分布や植物生理の研究から切り離されたままだからである。フッカーにとって自然分類は、分類の営みを植物学全体の真ん中に位置づけるための鍵であった。フッカーは自然分類とリンネ式分類の二つの検索表を併用することで、植民地の収集者たちをリンネ式から自然分類に移行させようとした。
同時にフッカーは、自然分類の複雑性を、自らと植民地の収集者たちのあいだに格差を維持するために用いていた。フッカーは自著のなかで分類の複雑性や難しさを強調し、自分には推論をする資格があるが収集者たちにはないということを暗黙裡に伝えようとしていた。これは特にスプリッターたちに対する警告であった。
動物分類の分野では、ヒュー・ストリックランドが分類を安定化させる役割を果たしていた。ストリックランドは、分類に関する議論の仕方を定めるのではなく、意見を言う資格がある人間が誰かを定めて、地方のナチュラリストたちを分類のプロセスから排除することで分類の混乱を収拾していた。フッカーとストリクッランドは、似たアプローチを用いていたといえる。
メモ:リンネ以降の植物分類体系の系譜
①【いわゆる人為分類】リンネ
②【いわゆる自然分類】アダンソン(仏)→ ド・ジュシュー(仏)→ ド・カンドル(スイス)→ ベンサム&フッカー(英)→ ベッシー(米)
③【いわゆる系統分類】(ダーウィン)→(ヘッケル)→ アイヒラー(独)→ エングラー(独)→ メルヒオール(独)の新エングラー体系
第6章 落ち着かせること(Settling)
フッカーにとって1850年代は、自身の仕事や生活を落ち着かせる時期であった。それと同時に、フッカーは植物分類体系に関する混乱も落ち着かせようと試みていた。
リンネの分類体系(性の体系)はシンプルかつ客観的であり広く普及したが、本人も認めていたように、ごく一部の性質だけに基づいている点で人為的な体系であった。より自然な分類を目指す試みは、アダンソン、ド・ジュシュー、ド・カンドルによってフランスで発展し、自然分類として知られるようになった。
一方、イギリスではリンネの分類体系に対する支持が根強く、分類学者たちは植物の構造を研究することに熱心でなかった。大陸のほとんどでリンネの体系が捨て去られたあともこの傾向は続き、イギリスの植物学は遅れていると言われるようになっていった。植物学者のジョン・リンドリーなどはリンネの体系を激しく批判していたが、初学者には有用だという観点から擁護する声も強かった。
リンネの体系を批判する人々も、代わりにどのような体系を支持するかという点ではまったくまとまらなかった。自然分類を主張する主流派のなかでも、具体的な原理についての意見はバラバラであった。同一の人物でさえ時期によって意見が変わってしまい、リンドリーの本は以前の著作と内容があまりにも大きく異なっているとして批判された。1858年から62年までのあいだにはイギリスの植物相に関する本が3冊出版され、どれも自然分類を標榜していたが、ブリテン島に存在する植物種の数について、1708種、1571種、1285種と大きく異なった数を出した。こうした混乱は、リンネの体系を擁護する人々を利していた。
さらに、他の分類体系を主張する人々の存在が混乱に拍車をかけていた。ウィリアム・シャープ・マクリーが提唱した5つ組の分類は広く支持を集めていたし、他にもジョージ・ラックスフォードが提唱した7つ組の分類、エイドリアン・ハワースが提唱した二分法の分類、トーマス・バスカービルが提唱した球状の分類などがあった。こうした理論には典型的な特徴として、人為的な分類に対する批判や、植物間の類縁関係への注目があった。また、ローレンツ・オーケンをはじめとするドイツの自然哲学から大きな影響を受けている傾向があった(→参考:グールド『フラミンゴの微笑』第13章「五の法則」)。
以上のような議論の紛糾は、植物学は指導原理のない非哲学的な研究分野だという印象を広め、その地位を危うくしていた。植物に関心のある一般大衆にとっても、こうした状況は困惑のもととなっていた。また、本国での議論は、植民地のナチュラリストたちにも非常に強い影響を与えており、フッカーにとっては悩みの種であった。
フッカーには、なんとしてもリンネの体系を自然分類に置き換えたかった。というのも、リンネの体系が維持されている限りは、植物分類の研究はより信望のある植物分布や植物生理の研究から切り離されたままだからである。フッカーにとって自然分類は、分類の営みを植物学全体の真ん中に位置づけるための鍵であった。フッカーは自然分類とリンネ式分類の二つの検索表を併用することで、植民地の収集者たちをリンネ式から自然分類に移行させようとした。
同時にフッカーは、自然分類の複雑性を、自らと植民地の収集者たちのあいだに格差を維持するために用いていた。フッカーは自著のなかで分類の複雑性や難しさを強調し、自分には推論をする資格があるが収集者たちにはないということを暗黙裡に伝えようとしていた。これは特にスプリッターたちに対する警告であった。
動物分類の分野では、ヒュー・ストリックランドが分類を安定化させる役割を果たしていた。ストリックランドは、分類に関する議論の仕方を定めるのではなく、意見を言う資格がある人間が誰かを定めて、地方のナチュラリストたちを分類のプロセスから排除することで分類の混乱を収拾していた。フッカーとストリクッランドは、似たアプローチを用いていたといえる。
メモ:リンネ以降の植物分類体系の系譜
①【いわゆる人為分類】リンネ
②【いわゆる自然分類】アダンソン(仏)→ ド・ジュシュー(仏)→ ド・カンドル(スイス)→ ベンサム&フッカー(英)→ ベッシー(米)
③【いわゆる系統分類】(ダーウィン)→(ヘッケル)→ アイヒラー(独)→ エングラー(独)→ メルヒオール(独)の新エングラー体系
2018年12月31日
伊藤圭介『泰西本草名疏』の多言語性 Fukuoka, The Premise of Fidelity, Ch. 2
Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan (Stanford: Stanford University Press, 2012), pp. 53–78.
Ch. 2 “Ways of Conceptualizing the Real: Scripts, Names, and Materia Medica”
日本語の「写真」という言葉は、現代ではphotographを意味するものとなっているが、かつては少し異なった意味をもっていた。この言葉は、江戸時代後期に尾張で活動した本草学研究会の嘗百社において、表現が対象物の真に迫っていることを意味する概念として発展し、彼らの本草学研究の基本的な価値観を表すようになっていた。この本では、嘗百社が迫真性についてどう考え、どのように「写真」概念を形成してきたのかを歴史的に追うことで、認識論的な写真史を描き出したい。
第2章では、嘗百社のメンバーであった伊藤圭介がリンネ式植物命名法を初めて日本に紹介した『泰西本草名疏』(1829)の検討を通して、本草学における翻訳の問題に目を向ける。フーコーによれば、博物学の出現は単に自然界に対する興味関心が人々に芽生えたことによって生じたのではなく、言葉と物の結びつき方に関する一つのエピステーメーの形成に深く関係していた。博物学は言語と切っても切り離せない関係にあり、それゆえに複数の異なる言語の併存に対して本草学者たちがどのように取り組んだのかという問題は本質的に重要である。日本の本草学史は、日本か西洋か、封建的か近代的か、などといった二分法的観点から探究されることが多かったが、ここでは本草学をそうした二分法を超えたところにある複層的で多言語的な知の競技場として見てみたい。
江戸時代の本草学は、李時珍『本草綱目』(1596)の翻訳から始まった。はじめは中国の本草学がそのまま日本にも適用できることが前提とされていたが、やがてそれを疑う学者たちが現れた。貝原益軒の『大和本草』(1709)は、日本の植物相は中国と異なっているため『本草綱目』の知識はそのままでは必ずしも有効ではないという認識に立ち、自らの経験や知識によって権威ある書物の知識を疑うことを可能にした。これに触発されて、尾張では松平君山の『本草正譌』(1776)や、嘗百社の創立者である水谷豊文の『物品識名』(1809)など、尾張の植物と中国の書物のあいだにある隔たりを埋めようとする著作が続々と現れた。豊文と伊藤圭介は、本草学の知識と実践に安定した基礎を設けるため、リンネ式の分類体系を取り入れることにした。
圭介は『泰西本草名疏』において、リンネの体系を取り入れる理由を、個々の植物の「真」を探究して患者の治療に活かすためだとしている。圭介の態度は、江戸で活動していた宇田川榕菴の『菩多尼訶経』(1822)と対照的である。榕菴は、リンネの体系に解釈や修正を加えることなくそのまま導入することを目標としていたのに対して、圭介は名称の混乱を解決する手段としてリンネの体系を用いていた。
『泰西本草名疏』は、大部分の内容をツンベルクの『フロラ・ヤポニカ』(1784)に負っているが、形態や地域などに関する記述を削除し、ラテン語・日本語・中国語の種名だけを記載した。配列はラテン語の種名のアルファベット順であり、このことによって同属内の種の近縁性が視覚的に読み取れるようになっている。ここでは、読者はラテン語の発音や意味を知っている必要はない。圭介はラテン語名を安定した名称として用いることで、名称の混乱を解きほぐしたのである。フーコーの研究はヨーロッパに限られていたが、ここではアルファベットのラテン語名が単に視覚的記号として用いられている、より強い事例を見出すことができる。
Ch. 2 “Ways of Conceptualizing the Real: Scripts, Names, and Materia Medica”
日本語の「写真」という言葉は、現代ではphotographを意味するものとなっているが、かつては少し異なった意味をもっていた。この言葉は、江戸時代後期に尾張で活動した本草学研究会の嘗百社において、表現が対象物の真に迫っていることを意味する概念として発展し、彼らの本草学研究の基本的な価値観を表すようになっていた。この本では、嘗百社が迫真性についてどう考え、どのように「写真」概念を形成してきたのかを歴史的に追うことで、認識論的な写真史を描き出したい。
第2章では、嘗百社のメンバーであった伊藤圭介がリンネ式植物命名法を初めて日本に紹介した『泰西本草名疏』(1829)の検討を通して、本草学における翻訳の問題に目を向ける。フーコーによれば、博物学の出現は単に自然界に対する興味関心が人々に芽生えたことによって生じたのではなく、言葉と物の結びつき方に関する一つのエピステーメーの形成に深く関係していた。博物学は言語と切っても切り離せない関係にあり、それゆえに複数の異なる言語の併存に対して本草学者たちがどのように取り組んだのかという問題は本質的に重要である。日本の本草学史は、日本か西洋か、封建的か近代的か、などといった二分法的観点から探究されることが多かったが、ここでは本草学をそうした二分法を超えたところにある複層的で多言語的な知の競技場として見てみたい。
江戸時代の本草学は、李時珍『本草綱目』(1596)の翻訳から始まった。はじめは中国の本草学がそのまま日本にも適用できることが前提とされていたが、やがてそれを疑う学者たちが現れた。貝原益軒の『大和本草』(1709)は、日本の植物相は中国と異なっているため『本草綱目』の知識はそのままでは必ずしも有効ではないという認識に立ち、自らの経験や知識によって権威ある書物の知識を疑うことを可能にした。これに触発されて、尾張では松平君山の『本草正譌』(1776)や、嘗百社の創立者である水谷豊文の『物品識名』(1809)など、尾張の植物と中国の書物のあいだにある隔たりを埋めようとする著作が続々と現れた。豊文と伊藤圭介は、本草学の知識と実践に安定した基礎を設けるため、リンネ式の分類体系を取り入れることにした。
圭介は『泰西本草名疏』において、リンネの体系を取り入れる理由を、個々の植物の「真」を探究して患者の治療に活かすためだとしている。圭介の態度は、江戸で活動していた宇田川榕菴の『菩多尼訶経』(1822)と対照的である。榕菴は、リンネの体系に解釈や修正を加えることなくそのまま導入することを目標としていたのに対して、圭介は名称の混乱を解決する手段としてリンネの体系を用いていた。
『泰西本草名疏』は、大部分の内容をツンベルクの『フロラ・ヤポニカ』(1784)に負っているが、形態や地域などに関する記述を削除し、ラテン語・日本語・中国語の種名だけを記載した。配列はラテン語の種名のアルファベット順であり、このことによって同属内の種の近縁性が視覚的に読み取れるようになっている。ここでは、読者はラテン語の発音や意味を知っている必要はない。圭介はラテン語名を安定した名称として用いることで、名称の混乱を解きほぐしたのである。フーコーの研究はヨーロッパに限られていたが、ここではアルファベットのラテン語名が単に視覚的記号として用いられている、より強い事例を見出すことができる。
2018年9月18日
ジェントルマン科学人と職業科学者のあいだ Endersby, Imperial Nature, Introduction
Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (Chicago: University of Chicago Press, 2008), pp. 1–30.
● イントロダクション
ヴィクトリア朝(1837–1901)は、一般的に科学の職業化が進んだ時代として想像されている。工業化が進み、社会構造が変化し、進歩への傾倒が伝統への信頼にとって代わり、帝国が拡大し、科学が宗教に衝撃を与えた時代なのだから、大学で訓練を受けた科学者たちという新しい集団の台頭がその時代の象徴だというのはわかりやすいイメージだ。しかしこのような一面的な見方は、歴史家たちが近年明らかにしてきた、より豊かで複雑なストーリーを埋没させてしまう。英国で科学に携わっていた人々は、科学によってお金を得ることを立派なことだとはまったく思っていなかったので、職業的科学者の地位を積極的に目指していた人間は数少なかった。彼らは自分たちを私心のないジェントルマンだと思っていて、科学の職人だとは思っていなかったし、ましてやフランスの科学者たちがそうであったような政府の下僕だとも思っていなかった。彼らの多くは、愛好心のために科学をするということに誇りをもっていて、その点において自分たちは金銭のために職業として科学をしている人々よりもまさっていると考えていた。今日では、プロはアマチュアにまさっていると当然のように思われているが、当時はそのようなカテゴリーが定義され取り決められている最中だったのである。エリートである科学の実践者たちにとってのモデルは、知識の探求のために私財をなげうち、国王の友人兼アドバイザーとして帝国に貢献するも、政府の役職には就かずお金も受け取らなかったジョセフ・バンクスのような、18世紀のジェントルマンの理想を体現した人物であった。
特別に大きな財産をもたなかったナチュラリストたちにとって、金銭的収入とジェントルマンの理想像は難しいジレンマであった。ナチュラリストたちは、帝国のあちこちから標本を集めてくれる協力者たちのネットワークに頼らなければならなかったが、彼らに十分な見返りを与えて懐柔するには名声も必要だったからである。
本書ではジョセフ・ダルトン・フッカー(1817–1911)に焦点を当てるが、それは、ダーウィニズムの受容、帝国がもたらした帰結、科学専門職の出現という、ヴィクトリア期の科学に関する我々の理解で際立っている三つのテーマが彼の人生で中心的な位置を占めるからである。フッカーは1817年、グラスゴー大学の植物学教授やキューガーデンの園長を務めたウィリアム・ジャクソン・フッカーの子として生まれた。父の友人の力添えで海軍艦艇のエレベス号に乗船し、1839年から43年まで南極探検航海に参加した。帰国後、自ら収集した植物および植民地の協力者たちから入手した大量の標本をもとにして、南極大陸やニュージーランド、タスマニアの植物相について詳述したシリーズ本を刊行した。フッカーはこの業績で得た名声に後押しされてキューガーデンの副園長となることができ、1865年に父ウィリアムが死去するとこれを継いで園長に就任した。フッカーは、名声を損なうことなく職業的科学者の地位に就いた最初の人物の一人であるといえる。その一方、南極探検航海からの帰国後にはダーウィンとの文通も始まっており、『種の起源』出版後には公刊物で自然選択説を擁護した最初の人物となった。ただし、フッカーによる自然選択説の支持は今まで考えられてきたより複雑な問題であり、自然選択説のいくつかの含蓄から距離を置こうともしていた。
本書では、先述した三つのような多様なテーマを結びつけて描き出すために、ナチュラリストの「実践」に注目する(本書では「実践」を、物質的なものを扱う仕事をする行動というような意味で用いる)。採集や分類といった日常的な実践を詳細に調べ上げることで、いかにしてそうした活動が科学の理論的考察に至るまでを形作ってきたかを示したい。とはいえ、科学の生産様式が科学的概念の内容を決定するという決定論を主張したいわけではない。そうではなく、実践に注目することで科学の性質についてのより良い理解を得られるということを示したいのである。
科学は職業(profession)なのか、それとも天職(vocation)なのかという問いは、ジェントルマンとは生まれなのか、それとも育ちなのかという問いに内包されていた。科学を志そうとする人が描く将来像は、ジェントルマンのイメージによって形作られたのである。フッカーの父ウィリアムは、受け継いだ土地を売り払って醸造所に投資したが失敗し、ナチュラルヒストリーで生計を立てていくことになる。ウィリアムはグラスゴー大学に教授職を得たものの、こうした職は他にお金を得る手段のあるジェントルマンが務めることが前提となっていたため、給料はわずかなものであった。そのため、ウィリアムは教室の扉の前に立って学生から受講料を集めたり、Gardeners’ Chronicle などに一般向けの記事を書いたりして収入を得なければならなかった。
フッカーは自分や他人を評すとき、しばしば「哲学的かどうか」という基準を用いた。この「哲学的」という言葉の含意は、ヴィクトリア期の科学界について理解するための鍵になるので、じっくり考えてみたい。
1868年に友人へ送った手紙のなかで、フッカーは既存の本よりも「哲学的」な、英国の植物をまとめた本を書くと述べており、これは実際にthe Student’s Flora of the British Islands (1870) として出版された。フッカーは「哲学的」という言葉で何を言わんとしたのだろうか。この本はライバルの本と比べて、イラストが無いなどお堅い雰囲気があり、分類に関しては種をまとめる傾向があり、地理的分布を強調している。これらはフッカーのいう「哲学的」の構成要素だったはずだ。
採集の方法もまた、「哲学的」の要件であった。すぐれた採集のためには、フッカーのいう「体系の哲学」に親しんでいなければならなかった。フッカーのような大都市の分類学者は、自分に代わって世界各地で実際に採集する人々を必要としていた。こうした人々に良い採集をさせるための一つの方策は、植物学の本などの贈り物をすることだったが、そうして技量が向上した採集者たちはフッカーに対してより多くを要求してくるようになるので、厄介な問題であった。彼らはしばしば新種を自分で命名したいと要望してきたが、フッカーはこの要望に十分応えられず、摩擦を生じさせていた。
「哲学的」の背景には、植物学の地位を向上させようとしていたフッカーらの運動も関係していた。地理的分布の法則を掴めれば、その知識は大英帝国にとって大いに役立つので、植物学の地位向上が期待された。分類の基準を厳密なものにし、採集者たちの仕事を一貫した原則に従わせることも、植物学を物理科学に引けを取らない学問にするために重要な仕事であった。
「哲学的」の意味を理解するためにもっと重要なのは、フッカーがどうやって生計を立てていたかに注目することである。キュー植物園で常勤の職を得た後、フッカーは「アマチュア」に対して少しの優越感を見せながらも、「プロフェッショナル」であることではなく「哲学的」であることを誇りとしていた。フッカーやその同時代人が使う「プロフェッショナル」という言葉にはネガティブな意味合いがあることを見逃してはならない。
植物学を真剣に追究している人のことを、フッカーは「プロフェッショナル」ではなく「professed」と表現していた。これは「職業(profession)」というよりも「天職(vocation)」に近い意味合いの言葉で、給料を払われているという社会経済上の地位ではなく、個人の品性(character)を表しており、真理を追究する私心のない人間という印象を与えた。「プロフェッショナル」か「アマチュア」か、という区分は、フッカーが頼みとしている植民地の採集者たちや、ジョージ・ベンサムのような重要な人物を排除することになってしまうので、避けなければならなかった。また、植物学者が自分たちを「professed」と表現するのには、実用的な薬学から植物学を切り離すねらいもあった。
「哲学的」という言葉も、「professed」と同じような役割を果たした。フッカーにとって、自らをちゃんとした分類ができない“愚か者たち”から隔てているのは、自分は哲学的であって彼らは哲学的ではないということだった。
ヴィクトリア期の科学における「プロフェッショナル」という言葉にひとつの定義を与えるのは不可能に思える。「プロフェッショナル」と表現された人々が、空いた時間をナチュラルヒストリーに費やす法律家や医師だったということもあるのだ。
フッカーを科学の職業化という文脈に位置づけるのであれば、彼がキャリア形成のなかで用いた組織を考慮に入れる必要がある。フッカーの戦略は、自身を組織に適応させつつ、組織自体を自分の目標にかなうように作り直していくというものであった。ダーウィニズムに対するはっきりしない態度も、キュー植物園ハーバリウムの創設者という立場に由来していた。
ヴィクトリア期は、誰がジェントルマンなのか、ジェントルマンかそうでないかを決めるのは何なのか、ということが不確定になっていった時代でもあった。都市化が進み、ある人物がジェントルマンであるか否かは不明瞭になった。そこで礼儀正しさのような品性も、ジェントルマンであることを示す上で重要となり、「哲学的」であることの一要素となった。
「プロフェッショナル」かどうかではなく「哲学的」かどうかで人が評価されるということ、つまり収入源ではなく実践や思想や振る舞いが基準になるということは、大きく変化する社会のなかで、様々な種類の人間が自らの道を切り開くために役立った。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実のあいだに、橋渡しをしようとしていたのである。
● イントロダクション
ヴィクトリア朝(1837–1901)は、一般的に科学の職業化が進んだ時代として想像されている。工業化が進み、社会構造が変化し、進歩への傾倒が伝統への信頼にとって代わり、帝国が拡大し、科学が宗教に衝撃を与えた時代なのだから、大学で訓練を受けた科学者たちという新しい集団の台頭がその時代の象徴だというのはわかりやすいイメージだ。しかしこのような一面的な見方は、歴史家たちが近年明らかにしてきた、より豊かで複雑なストーリーを埋没させてしまう。英国で科学に携わっていた人々は、科学によってお金を得ることを立派なことだとはまったく思っていなかったので、職業的科学者の地位を積極的に目指していた人間は数少なかった。彼らは自分たちを私心のないジェントルマンだと思っていて、科学の職人だとは思っていなかったし、ましてやフランスの科学者たちがそうであったような政府の下僕だとも思っていなかった。彼らの多くは、愛好心のために科学をするということに誇りをもっていて、その点において自分たちは金銭のために職業として科学をしている人々よりもまさっていると考えていた。今日では、プロはアマチュアにまさっていると当然のように思われているが、当時はそのようなカテゴリーが定義され取り決められている最中だったのである。エリートである科学の実践者たちにとってのモデルは、知識の探求のために私財をなげうち、国王の友人兼アドバイザーとして帝国に貢献するも、政府の役職には就かずお金も受け取らなかったジョセフ・バンクスのような、18世紀のジェントルマンの理想を体現した人物であった。
特別に大きな財産をもたなかったナチュラリストたちにとって、金銭的収入とジェントルマンの理想像は難しいジレンマであった。ナチュラリストたちは、帝国のあちこちから標本を集めてくれる協力者たちのネットワークに頼らなければならなかったが、彼らに十分な見返りを与えて懐柔するには名声も必要だったからである。
本書ではジョセフ・ダルトン・フッカー(1817–1911)に焦点を当てるが、それは、ダーウィニズムの受容、帝国がもたらした帰結、科学専門職の出現という、ヴィクトリア期の科学に関する我々の理解で際立っている三つのテーマが彼の人生で中心的な位置を占めるからである。フッカーは1817年、グラスゴー大学の植物学教授やキューガーデンの園長を務めたウィリアム・ジャクソン・フッカーの子として生まれた。父の友人の力添えで海軍艦艇のエレベス号に乗船し、1839年から43年まで南極探検航海に参加した。帰国後、自ら収集した植物および植民地の協力者たちから入手した大量の標本をもとにして、南極大陸やニュージーランド、タスマニアの植物相について詳述したシリーズ本を刊行した。フッカーはこの業績で得た名声に後押しされてキューガーデンの副園長となることができ、1865年に父ウィリアムが死去するとこれを継いで園長に就任した。フッカーは、名声を損なうことなく職業的科学者の地位に就いた最初の人物の一人であるといえる。その一方、南極探検航海からの帰国後にはダーウィンとの文通も始まっており、『種の起源』出版後には公刊物で自然選択説を擁護した最初の人物となった。ただし、フッカーによる自然選択説の支持は今まで考えられてきたより複雑な問題であり、自然選択説のいくつかの含蓄から距離を置こうともしていた。
本書では、先述した三つのような多様なテーマを結びつけて描き出すために、ナチュラリストの「実践」に注目する(本書では「実践」を、物質的なものを扱う仕事をする行動というような意味で用いる)。採集や分類といった日常的な実践を詳細に調べ上げることで、いかにしてそうした活動が科学の理論的考察に至るまでを形作ってきたかを示したい。とはいえ、科学の生産様式が科学的概念の内容を決定するという決定論を主張したいわけではない。そうではなく、実践に注目することで科学の性質についてのより良い理解を得られるということを示したいのである。
科学は職業(profession)なのか、それとも天職(vocation)なのかという問いは、ジェントルマンとは生まれなのか、それとも育ちなのかという問いに内包されていた。科学を志そうとする人が描く将来像は、ジェントルマンのイメージによって形作られたのである。フッカーの父ウィリアムは、受け継いだ土地を売り払って醸造所に投資したが失敗し、ナチュラルヒストリーで生計を立てていくことになる。ウィリアムはグラスゴー大学に教授職を得たものの、こうした職は他にお金を得る手段のあるジェントルマンが務めることが前提となっていたため、給料はわずかなものであった。そのため、ウィリアムは教室の扉の前に立って学生から受講料を集めたり、Gardeners’ Chronicle などに一般向けの記事を書いたりして収入を得なければならなかった。
フッカーは自分や他人を評すとき、しばしば「哲学的かどうか」という基準を用いた。この「哲学的」という言葉の含意は、ヴィクトリア期の科学界について理解するための鍵になるので、じっくり考えてみたい。
1868年に友人へ送った手紙のなかで、フッカーは既存の本よりも「哲学的」な、英国の植物をまとめた本を書くと述べており、これは実際にthe Student’s Flora of the British Islands (1870) として出版された。フッカーは「哲学的」という言葉で何を言わんとしたのだろうか。この本はライバルの本と比べて、イラストが無いなどお堅い雰囲気があり、分類に関しては種をまとめる傾向があり、地理的分布を強調している。これらはフッカーのいう「哲学的」の構成要素だったはずだ。
採集の方法もまた、「哲学的」の要件であった。すぐれた採集のためには、フッカーのいう「体系の哲学」に親しんでいなければならなかった。フッカーのような大都市の分類学者は、自分に代わって世界各地で実際に採集する人々を必要としていた。こうした人々に良い採集をさせるための一つの方策は、植物学の本などの贈り物をすることだったが、そうして技量が向上した採集者たちはフッカーに対してより多くを要求してくるようになるので、厄介な問題であった。彼らはしばしば新種を自分で命名したいと要望してきたが、フッカーはこの要望に十分応えられず、摩擦を生じさせていた。
「哲学的」の背景には、植物学の地位を向上させようとしていたフッカーらの運動も関係していた。地理的分布の法則を掴めれば、その知識は大英帝国にとって大いに役立つので、植物学の地位向上が期待された。分類の基準を厳密なものにし、採集者たちの仕事を一貫した原則に従わせることも、植物学を物理科学に引けを取らない学問にするために重要な仕事であった。
「哲学的」の意味を理解するためにもっと重要なのは、フッカーがどうやって生計を立てていたかに注目することである。キュー植物園で常勤の職を得た後、フッカーは「アマチュア」に対して少しの優越感を見せながらも、「プロフェッショナル」であることではなく「哲学的」であることを誇りとしていた。フッカーやその同時代人が使う「プロフェッショナル」という言葉にはネガティブな意味合いがあることを見逃してはならない。
植物学を真剣に追究している人のことを、フッカーは「プロフェッショナル」ではなく「professed」と表現していた。これは「職業(profession)」というよりも「天職(vocation)」に近い意味合いの言葉で、給料を払われているという社会経済上の地位ではなく、個人の品性(character)を表しており、真理を追究する私心のない人間という印象を与えた。「プロフェッショナル」か「アマチュア」か、という区分は、フッカーが頼みとしている植民地の採集者たちや、ジョージ・ベンサムのような重要な人物を排除することになってしまうので、避けなければならなかった。また、植物学者が自分たちを「professed」と表現するのには、実用的な薬学から植物学を切り離すねらいもあった。
「哲学的」という言葉も、「professed」と同じような役割を果たした。フッカーにとって、自らをちゃんとした分類ができない“愚か者たち”から隔てているのは、自分は哲学的であって彼らは哲学的ではないということだった。
ヴィクトリア期の科学における「プロフェッショナル」という言葉にひとつの定義を与えるのは不可能に思える。「プロフェッショナル」と表現された人々が、空いた時間をナチュラルヒストリーに費やす法律家や医師だったということもあるのだ。
フッカーを科学の職業化という文脈に位置づけるのであれば、彼がキャリア形成のなかで用いた組織を考慮に入れる必要がある。フッカーの戦略は、自身を組織に適応させつつ、組織自体を自分の目標にかなうように作り直していくというものであった。ダーウィニズムに対するはっきりしない態度も、キュー植物園ハーバリウムの創設者という立場に由来していた。
ヴィクトリア期は、誰がジェントルマンなのか、ジェントルマンかそうでないかを決めるのは何なのか、ということが不確定になっていった時代でもあった。都市化が進み、ある人物がジェントルマンであるか否かは不明瞭になった。そこで礼儀正しさのような品性も、ジェントルマンであることを示す上で重要となり、「哲学的」であることの一要素となった。
「プロフェッショナル」かどうかではなく「哲学的」かどうかで人が評価されるということ、つまり収入源ではなく実践や思想や振る舞いが基準になるということは、大きく変化する社会のなかで、様々な種類の人間が自らの道を切り開くために役立った。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実のあいだに、橋渡しをしようとしていたのである。
2018年4月13日
近代科学史に関する論文15本
引き続き、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
春学期に近代科学史の授業で読んだ論文や章の一部をまとめました。
Mary Terrall, “Representing the Earth’s Shape: The Polemics Surrounding Maupertuis’s Expedition to Lapland” (1992)
1730年代のパリでは地球の形状をめぐる論争があり、モーペルテュイらは地球が横長だと主張し、逆にジャック・カッシーニらは縦長だと主張した。この論争はしばしば、新たに台頭したニュートン主義と頑迷なデカルト主義の対立として説明される。しかし、実際の論争の中心となった論点はそのような宇宙論的な問題ではなく、むしろ測定装置の良さや観測の正確性、数学的な取扱いの適切さの問題であった。モーペルテュイは新しい数学的手法である微積分や英国製の装置を高く評価し、かつてジョヴァンニ・カッシーニによって築かれたパリの天文学者の権威に挑戦することになった。モーペルテュイはこの論争を利用して、アカデミーの外部で名を上げることに成功した。
I. Bernard Cohen, Benjamin Franklin’s Science, chs.1–2. (1990)
ニュートンの『プリンキピア』と『光学』は、前者はラテン語で後者は英語で書かれたことに象徴されるように、科学として異なる方向性をもち、別々のニュートン主義的伝統の土台を築いていた。『光学』は、定量的な実験科学の著作であるが、数学をほとんど用いないという特徴がある。フランクリンは『プリンキピア』を読みこなして理解する力をもっていなかったが、『光学』から大きな影響を受け、電気を一種類の流体として説明した。
Robert Fox, “The Rise and Fall of Laplacian Physics” (1974)
18世紀末から19世紀初頭、特にナポレオン皇帝時代の1805年から1815年にかけてのパリでは、ラプラスがその政治力を背景として牽引したプログラムが物理科学に強い影響力をもった。ラプラスの物理学では、熱、光、電気、磁気といった現象が、相互に引力や斥力を働かせる粒子から成る不可秤量流体というニュートン主義的な概念によって説明された。ラプラスのプログラムは、ラプラスとベルトレが中心となり、ビオやポアソンといったアルクイユ会のメンバーや、ゲイ=リュサックなどによって支えられた。しかし、徐々に説明がうまくいかない事柄が増え、フーリエ、フレネル、アンペールらによる対抗理論の提唱もあって、ナポレオン没落以降は衰退した。
Eugene Frankel, “J. B. Biot and the Mathematization of Experimental Physics in Napoleonic France” (1977)
ラプラスとベルトレのプログラムは、新しい器具や技術の使用によって実験物理学の定量化を進め、測定の正確性を向上させ、物理変数間の関係を代数学的に表現し、その結果を不可秤量流体の理論によって説明しようとするものであった。このプログラムのもとで、ジャン=バティスト・ビオは電気、磁気、音、光、熱など、様々な研究分野を転々とした。このプログラムの着想は主にラプラスとベルトレによるが、その着想を具体的な形にしたのはビオの貢献が大きい。
Lawrence M. Principe, “A Revolution Nobody Noticed? Changes in Early Eighteenth-Century Chymistry” (2007)
これまで、化学史といえば18世紀であり、18世紀の化学といえばラヴォアジェであるという理解がまかり通ってきた。それゆえ18世紀の化学史は、ラヴォアジェによる「革命」を説明するために必要な話題ばかりが集中的に取り上げられてきた。ゲオルク・シュタールの化学のなかでフロギストン説だけが注目され、その他は捨て置かれているのはその一例である。ラヴォアジェ中心の化学史は、目的論的であり視野が狭いという問題がある。
1675年頃から1725年頃のあいだに起きた変化は、1760年頃から1810年頃の化学革命に匹敵する急激かつ重要なもので、もう一つの革命ともいえる。ボイルとラヴォアジェのあいだの時代にはキミストリー(chymistry)に大きな発展はなかったかのような説明はおかしい。18世紀初頭には、金属変成の術(chrysopoeia)もしくは変成(transmutation)が真剣な研究の領域から排除され、化学やその実践者たちの地位や職業的性格が高まり、顕著な理論的な刷新があった。この時代のフランス科学アカデミーでは、スキャンダルなどによってキミストリーの社会的地位が危うくなっていたため、フォントネルやニコラ・レムリが中心となって金属変成を追放し、キミストリーを再生しようとしたのである。この時点をもって初めて、同義語であった「錬金術」と「化学」が、それぞれ現代的な異なる意味をもつようになった。
フランス科学アカデミーに所属し、金属変成を熱心に研究していたヴィルヘルム・ホンブルグの研究を綿密に見ていくと、当時のキミストリーがきわめて理論的、体系的で、成熟していたことがよくわかる。我々は、わずかな理論的記述にばかり注目するのではなく、キミストリー最大の特徴である実践に注目し、そこに潜んでいる彼らの思考プロセスを明らかにする必要がある。
よく普及しているストーリーとして、1675年頃から1725年頃までのあいだに、合理的なデカルト主義の化学がアリストテレス主義・パルケルスス主義の17世紀のキミストリーに取って代わり、さらにそこにニュートン主義の化学が取って代わったというものがある。しかし、重要な化学者のうちに本物のデカルト主義者はいなかった。しばしばデカルト主義者の例として言及されるレムリの化学にさえ、実際のところデカルトはあまり影響を及ぼしていない。また、ニュートンは18世紀の化学の本流を説明する上では不要な名前である。ニュートンの名前は宣伝のために用いられることはあったが、真の影響を及ぼしてはいなかった。デカルト主義とニュートン主義の対立は物理学に見られるが、化学ではほとんど見られない。
John Gascoigne, “Joseph Banks and the Expansion of Empire” (1998)
アメリカ独立革命からナポレオン戦争の終結までの時代の英国では、その帝国主義的政策を一手に担う省庁(植民地省)が存在せず、そのためにジョセフ・バンクスのような政府内に役職をもたない専門家が助言し関与する余地が生じた。バンクスは政府要人とのパイプを活かし、アフリカ協会やロンドン伝道協会といった団体を動かして探検を加速させ、植民地の農業改良に注力し、英国の帝国主義的拡大に寄与した。のちのイギリス第二帝国による植民地政策の性格は、実はこの時期に形成されていたのである。
John Gascoigne, “The Royal Society and the Emergence of Science as an Instrument of State Policy” (1999)
パリやベルリンのアカデミーとは異なり、ロンドンの王立協会は政府から資金援助や指示を受けておらず、その自主性や独立性を誇りとしていた。しかし実際には、王立協会のメンバーは政府中枢の重要人物たちと個人的関係や階級意識で繋がっており、政府に科学関係の助言を与えていた。特に、1778年にジョセフ・バンクスが王立協会の会長に就任してからは、その結びつきが一層強まった。このように非公式な方法で政府の仕事に携わることを可能にしていた寡頭制の政治体制は19世紀に強く批判されるようになり、王立協会はより正式な方法で国家の政策に関与するようになった。総力戦下の1916年になってようやく、政府内に科学を専門に扱う科学産業研究庁が組織された。哲学者と政治家が手を携えるフランシス・ベーコンの理想は、最終的に戦争によって実現したのだといえる。
Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (2010)
Introduction
ジョセフ・ダルトン・フッカーは、科学の担い手がジェントルマンから職業的科学者へと変わっていった時代の人物である。フッカーは自分や他人を評すとき、「プロフェッショナルかアマチュアか」ではなく「哲学的かどうか」という基準を用いた。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実の狭間にあったことの表れだと考えられる。
Ch. 10 “Governing”
1865年にキュー植物園の園長に就任したフッカーには、収入を遺産やパトロンではなく政府に頼る立場でありながら、ジェントルマンを自認するというキメラ的性質があった。キュー植物園自体にも、公によって維持され運営されてきたものであるが、一方でフッカーの父ウィリアムが私的に築き上げてきたものでもあるというハイブリッド的性質があった。キュー植物園は午後の時間帯に一般の人々に開放されていたが、これはフッカーにとって、貧しい人々にも美しい空間を分け与えるというジェントルマンとしての務めであった。1870年代初頭、建設長官のアイルトン(Acton Smee Ayrton)がキュー植物園を一般向けの公園にして研究機能は大英博物館に移管させようとしたことで、キュー植物園の管理権を主張するフッカーやそれに同調したハクスリーやダーウィンらとのあいだにアイルトン論争が生じた。アイルトンは近代的な官僚制を適用して科学をプロフェッショナル化しようとしたのに対し、フッカーらはジェントルマンの科学を維持しようとする立場から抵抗したのである。
Bruce J. Hunt, “Doing Science in a Global Empire: Cable Telegraphy and Electrical Physics in Victorian Britain” (1997)
帝国の文脈は、地質学や植物学、動物学などといった自然史系の分野のみならず、電磁気学の形成にも深く関わった。19世紀後半の英国は、陸上のみならず大西洋海底にも電信ケーブルを敷設して、アメリカ、エジプト、インド、香港、オーストラリアに至るまで、世界中の植民地と英国を電信網で結んで「帝国の神経」とした。この電信網の敷設と運用に膨大な資金と人的資源が投入された結果、英国では電気に関わる単位や規格の標準化や、測定技術の発展が進んだ。また、電磁気現象を「場」の考え方を用いて定式化するファラデーのアプローチは当初支持されなかったが、海底電信ケーブルの問題を扱う上で都合が良いことがわかり、英国で独自の発展を遂げた。ドイツやフランスでは電磁気現象を粒子間の遠隔作用として捉えるアプローチが19世紀を通して支配的であったのに対し、英国では1850年代半ばから「場」のアプローチが台頭し、1860年代から80年代にかけてマクスウェルとその後継者たちによって理論が完成されたのである。マクスウェルの理論は、1888年にドイツのヘルツが電磁波の存在を実験的に示したことで確証されたが、同時に無線電信技術への道が開かれ、英国の情報優位が失われる結果につながったのは皮肉だといえる。
Robert Kargon, “Model and Analogy in Victorian Science: Maxwell’s Critique of the French Physicists” (1969)
19世紀初頭の物理学では、ニュートン主義の立場をとるラプラスやポアソンらの学派が、遠隔作用を働かせる粒子の存在を前提した上で、そこから演繹された現象を実験結果と比較する手法で物理現象の説明を進めていた。一方、実証主義者のフーリエやそれに追随したオームらは、原因ではなく法則のみを追求し、物理学を数学に還元しようとしていた。マクスウェルは、現象から出発しない前者の手法にも、物理的内実を欠いた後者の手法にも満足できず、別の手法として物理的アナロジーをつくる方向に進んだ。こうしてマクスウェルは、ファラデーの電気力線についての論文(1861–62)で有名な渦のモデルを提案したが、これを真の物理学理論だと考えていたわけではない。マクスウェルは、このようなアナロジーをつくることのメリットは、それが何も説明しないことにあると考えていた。渦のモデルが足掛かりとなって完成された論文「電磁場の動力学的理論」(1865)では、アナロジーは姿を消すことになった。
Robert M. Young, Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture, ch.4 “Darwin’s Metaphor: Does Nature Select?” (1985)
ダーウィンはライエルの斉一主義を継承したことで、生物が方向性をもって進化することを地史の定向性から類推することができなくなってしまった。ダーウィンが用いることができたアナロジーは自然選択と人為選択のあいだのそれであったが、このアナロジーによって自然を擬人化したことで、ダーウィンは多くの批判を引き受けることになった。
Robert Marc Friedman, The Politics of Excellence: Behind the Nobel Prize in Science, ch.7 “Einstein Must Never Get a Nobel Prize: Keeping Physics Safe for Sweden” (2001)
アインシュタインの相対性理論は、物理学に限らずそれまでの真・善・美の概念を破壊するものとされて様々な反対に遭った。ドイツでは、真のドイツ科学は実験に基づくと主張するレーナルトやシュタルクが、アインシュタインの理論を形而上学的なユダヤ科学として排撃する動きがあった。ノーベル賞の受賞も、スウェーデンの学術コミュニティ内部の論理によって遅れた。1919年の皆既日食の観測でアインシュタインは世界的な名声を得るに至ったが、1920年の選考では、相対性理論に対して否定的なアレニウスのレポートに賛同が集まり、また長く選考委員を務めてきたBernhard Hasselbergが病気で退職する予定であったため、彼の友人であったギヨームが選ばれた。1921年の選考では、32人の推薦者のうち14人がアインシュタインを推薦したが、王立科学アカデミーやウプサラ大学で権威を振るっていたアルヴァル・グルストランドが強く反対したことで保留となった。最終的には、病死したHasselbergに代わってノーベル物理学賞委員会に入ったCarl Wilhelm Oseenの努力によって、光電効果の法則の発見を授賞理由とすることで1922年にアインシュタインの受賞が決まった。
Robert H. Kargon, “Temple to Science: Cooperative Research and the Birth of the California Institute of Technology” (1977)
Robert H. Kargon, The Rise of Robert Millikan: Portrait of a Life in American Science, ch.4 “The Scientist in Action” (1982)
米国科学アカデミー(NAS)は1863年に創設されていたが、米国の科学研究を組織化するような役割は果たしていなかった。そこで、第一次世界大戦において科学が軍事的に重要となったことを背景として、ウィルソン山天文台を設立した天文学者のジョージ・ヘールの呼びかけのもと、学術・産業・教育・政府の各界から代表者を招いた全米研究評議会(NRC)が1916年に創設される。ヘールと、彼を助けた物理学者のロバート・ミリカン、化学者のアーサー・ノイズの三人は、天文学や物理学や化学といった異なる分野が垣根を越えて協力することが今後の科学にとってきわめて重要だという認識を共有しており、カリフォルニア工科大学(Caltech)をそのような場所に生まれ変わらせようとした。彼らは、科学研究が連邦政府によってコントロールされてしまうことを恐れていたので、NRCの人脈を活かして民間のパトロンを集め、1920年代におけるCaltechの躍進を実現した。しかし、世界恐慌や第二次世界大戦の時期になると民間のパトロンは不十分となり、連邦政府による介入が本格化していくことになった。
John W. Servos, “The Industrial Relations of Science: Chemical Engineering at MIT, 1900–1939.” (1980)
20世紀初頭、マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学者アーサー・ノイズは、学生たちに工学の実践よりも物理学の原則を教えることで、MITを単なる技術学校から基礎科学に基づいた大学へと改革しようとした。一方、同じくMITの化学者であったWilliam Hultz Walkerは、ドイツの化学産業が科学者たちと経営者たちの協力によって飛躍的発展を遂げたことを念頭に、応用科学を重視して産業界との直接的な結びつきを強化しようとした。ノイズは物理化学研究所を、Walkerは応用化学研究所を、それぞれMIT内に立ち上げてプロジェクトを進めていたが、第一次世界大戦が始まると、ドイツからの輸入が途絶えたことで米国の化学産業が急速に拡大し、状況はWalkerに有利となった。ノイズは辞職し、MITの化学は産業界から支援を受けて産業のための実践的な研究をするという、Walkerの路線を突き進んで発展していった。しかし、やがてMITの化学者たちは産業界に主導権を握られている状況に不満を覚えるようになり、また世界恐慌によって産業界がMITへの支援から手を引いたことで、学長のカール・コンプトンは産業界の下僕にはならない方針を打ち出し、MITはかつてノイズが構想した方向性に近づいていった。
春学期に近代科学史の授業で読んだ論文や章の一部をまとめました。
Mary Terrall, “Representing the Earth’s Shape: The Polemics Surrounding Maupertuis’s Expedition to Lapland” (1992)
1730年代のパリでは地球の形状をめぐる論争があり、モーペルテュイらは地球が横長だと主張し、逆にジャック・カッシーニらは縦長だと主張した。この論争はしばしば、新たに台頭したニュートン主義と頑迷なデカルト主義の対立として説明される。しかし、実際の論争の中心となった論点はそのような宇宙論的な問題ではなく、むしろ測定装置の良さや観測の正確性、数学的な取扱いの適切さの問題であった。モーペルテュイは新しい数学的手法である微積分や英国製の装置を高く評価し、かつてジョヴァンニ・カッシーニによって築かれたパリの天文学者の権威に挑戦することになった。モーペルテュイはこの論争を利用して、アカデミーの外部で名を上げることに成功した。
I. Bernard Cohen, Benjamin Franklin’s Science, chs.1–2. (1990)
ニュートンの『プリンキピア』と『光学』は、前者はラテン語で後者は英語で書かれたことに象徴されるように、科学として異なる方向性をもち、別々のニュートン主義的伝統の土台を築いていた。『光学』は、定量的な実験科学の著作であるが、数学をほとんど用いないという特徴がある。フランクリンは『プリンキピア』を読みこなして理解する力をもっていなかったが、『光学』から大きな影響を受け、電気を一種類の流体として説明した。
Robert Fox, “The Rise and Fall of Laplacian Physics” (1974)
18世紀末から19世紀初頭、特にナポレオン皇帝時代の1805年から1815年にかけてのパリでは、ラプラスがその政治力を背景として牽引したプログラムが物理科学に強い影響力をもった。ラプラスの物理学では、熱、光、電気、磁気といった現象が、相互に引力や斥力を働かせる粒子から成る不可秤量流体というニュートン主義的な概念によって説明された。ラプラスのプログラムは、ラプラスとベルトレが中心となり、ビオやポアソンといったアルクイユ会のメンバーや、ゲイ=リュサックなどによって支えられた。しかし、徐々に説明がうまくいかない事柄が増え、フーリエ、フレネル、アンペールらによる対抗理論の提唱もあって、ナポレオン没落以降は衰退した。
Eugene Frankel, “J. B. Biot and the Mathematization of Experimental Physics in Napoleonic France” (1977)
ラプラスとベルトレのプログラムは、新しい器具や技術の使用によって実験物理学の定量化を進め、測定の正確性を向上させ、物理変数間の関係を代数学的に表現し、その結果を不可秤量流体の理論によって説明しようとするものであった。このプログラムのもとで、ジャン=バティスト・ビオは電気、磁気、音、光、熱など、様々な研究分野を転々とした。このプログラムの着想は主にラプラスとベルトレによるが、その着想を具体的な形にしたのはビオの貢献が大きい。
Lawrence M. Principe, “A Revolution Nobody Noticed? Changes in Early Eighteenth-Century Chymistry” (2007)
これまで、化学史といえば18世紀であり、18世紀の化学といえばラヴォアジェであるという理解がまかり通ってきた。それゆえ18世紀の化学史は、ラヴォアジェによる「革命」を説明するために必要な話題ばかりが集中的に取り上げられてきた。ゲオルク・シュタールの化学のなかでフロギストン説だけが注目され、その他は捨て置かれているのはその一例である。ラヴォアジェ中心の化学史は、目的論的であり視野が狭いという問題がある。
1675年頃から1725年頃のあいだに起きた変化は、1760年頃から1810年頃の化学革命に匹敵する急激かつ重要なもので、もう一つの革命ともいえる。ボイルとラヴォアジェのあいだの時代にはキミストリー(chymistry)に大きな発展はなかったかのような説明はおかしい。18世紀初頭には、金属変成の術(chrysopoeia)もしくは変成(transmutation)が真剣な研究の領域から排除され、化学やその実践者たちの地位や職業的性格が高まり、顕著な理論的な刷新があった。この時代のフランス科学アカデミーでは、スキャンダルなどによってキミストリーの社会的地位が危うくなっていたため、フォントネルやニコラ・レムリが中心となって金属変成を追放し、キミストリーを再生しようとしたのである。この時点をもって初めて、同義語であった「錬金術」と「化学」が、それぞれ現代的な異なる意味をもつようになった。
フランス科学アカデミーに所属し、金属変成を熱心に研究していたヴィルヘルム・ホンブルグの研究を綿密に見ていくと、当時のキミストリーがきわめて理論的、体系的で、成熟していたことがよくわかる。我々は、わずかな理論的記述にばかり注目するのではなく、キミストリー最大の特徴である実践に注目し、そこに潜んでいる彼らの思考プロセスを明らかにする必要がある。
よく普及しているストーリーとして、1675年頃から1725年頃までのあいだに、合理的なデカルト主義の化学がアリストテレス主義・パルケルスス主義の17世紀のキミストリーに取って代わり、さらにそこにニュートン主義の化学が取って代わったというものがある。しかし、重要な化学者のうちに本物のデカルト主義者はいなかった。しばしばデカルト主義者の例として言及されるレムリの化学にさえ、実際のところデカルトはあまり影響を及ぼしていない。また、ニュートンは18世紀の化学の本流を説明する上では不要な名前である。ニュートンの名前は宣伝のために用いられることはあったが、真の影響を及ぼしてはいなかった。デカルト主義とニュートン主義の対立は物理学に見られるが、化学ではほとんど見られない。
John Gascoigne, “Joseph Banks and the Expansion of Empire” (1998)
アメリカ独立革命からナポレオン戦争の終結までの時代の英国では、その帝国主義的政策を一手に担う省庁(植民地省)が存在せず、そのためにジョセフ・バンクスのような政府内に役職をもたない専門家が助言し関与する余地が生じた。バンクスは政府要人とのパイプを活かし、アフリカ協会やロンドン伝道協会といった団体を動かして探検を加速させ、植民地の農業改良に注力し、英国の帝国主義的拡大に寄与した。のちのイギリス第二帝国による植民地政策の性格は、実はこの時期に形成されていたのである。
John Gascoigne, “The Royal Society and the Emergence of Science as an Instrument of State Policy” (1999)
パリやベルリンのアカデミーとは異なり、ロンドンの王立協会は政府から資金援助や指示を受けておらず、その自主性や独立性を誇りとしていた。しかし実際には、王立協会のメンバーは政府中枢の重要人物たちと個人的関係や階級意識で繋がっており、政府に科学関係の助言を与えていた。特に、1778年にジョセフ・バンクスが王立協会の会長に就任してからは、その結びつきが一層強まった。このように非公式な方法で政府の仕事に携わることを可能にしていた寡頭制の政治体制は19世紀に強く批判されるようになり、王立協会はより正式な方法で国家の政策に関与するようになった。総力戦下の1916年になってようやく、政府内に科学を専門に扱う科学産業研究庁が組織された。哲学者と政治家が手を携えるフランシス・ベーコンの理想は、最終的に戦争によって実現したのだといえる。
Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (2010)
Introduction
ジョセフ・ダルトン・フッカーは、科学の担い手がジェントルマンから職業的科学者へと変わっていった時代の人物である。フッカーは自分や他人を評すとき、「プロフェッショナルかアマチュアか」ではなく「哲学的かどうか」という基準を用いた。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実の狭間にあったことの表れだと考えられる。
Ch. 10 “Governing”
1865年にキュー植物園の園長に就任したフッカーには、収入を遺産やパトロンではなく政府に頼る立場でありながら、ジェントルマンを自認するというキメラ的性質があった。キュー植物園自体にも、公によって維持され運営されてきたものであるが、一方でフッカーの父ウィリアムが私的に築き上げてきたものでもあるというハイブリッド的性質があった。キュー植物園は午後の時間帯に一般の人々に開放されていたが、これはフッカーにとって、貧しい人々にも美しい空間を分け与えるというジェントルマンとしての務めであった。1870年代初頭、建設長官のアイルトン(Acton Smee Ayrton)がキュー植物園を一般向けの公園にして研究機能は大英博物館に移管させようとしたことで、キュー植物園の管理権を主張するフッカーやそれに同調したハクスリーやダーウィンらとのあいだにアイルトン論争が生じた。アイルトンは近代的な官僚制を適用して科学をプロフェッショナル化しようとしたのに対し、フッカーらはジェントルマンの科学を維持しようとする立場から抵抗したのである。
Bruce J. Hunt, “Doing Science in a Global Empire: Cable Telegraphy and Electrical Physics in Victorian Britain” (1997)
帝国の文脈は、地質学や植物学、動物学などといった自然史系の分野のみならず、電磁気学の形成にも深く関わった。19世紀後半の英国は、陸上のみならず大西洋海底にも電信ケーブルを敷設して、アメリカ、エジプト、インド、香港、オーストラリアに至るまで、世界中の植民地と英国を電信網で結んで「帝国の神経」とした。この電信網の敷設と運用に膨大な資金と人的資源が投入された結果、英国では電気に関わる単位や規格の標準化や、測定技術の発展が進んだ。また、電磁気現象を「場」の考え方を用いて定式化するファラデーのアプローチは当初支持されなかったが、海底電信ケーブルの問題を扱う上で都合が良いことがわかり、英国で独自の発展を遂げた。ドイツやフランスでは電磁気現象を粒子間の遠隔作用として捉えるアプローチが19世紀を通して支配的であったのに対し、英国では1850年代半ばから「場」のアプローチが台頭し、1860年代から80年代にかけてマクスウェルとその後継者たちによって理論が完成されたのである。マクスウェルの理論は、1888年にドイツのヘルツが電磁波の存在を実験的に示したことで確証されたが、同時に無線電信技術への道が開かれ、英国の情報優位が失われる結果につながったのは皮肉だといえる。
Robert Kargon, “Model and Analogy in Victorian Science: Maxwell’s Critique of the French Physicists” (1969)
19世紀初頭の物理学では、ニュートン主義の立場をとるラプラスやポアソンらの学派が、遠隔作用を働かせる粒子の存在を前提した上で、そこから演繹された現象を実験結果と比較する手法で物理現象の説明を進めていた。一方、実証主義者のフーリエやそれに追随したオームらは、原因ではなく法則のみを追求し、物理学を数学に還元しようとしていた。マクスウェルは、現象から出発しない前者の手法にも、物理的内実を欠いた後者の手法にも満足できず、別の手法として物理的アナロジーをつくる方向に進んだ。こうしてマクスウェルは、ファラデーの電気力線についての論文(1861–62)で有名な渦のモデルを提案したが、これを真の物理学理論だと考えていたわけではない。マクスウェルは、このようなアナロジーをつくることのメリットは、それが何も説明しないことにあると考えていた。渦のモデルが足掛かりとなって完成された論文「電磁場の動力学的理論」(1865)では、アナロジーは姿を消すことになった。
Robert M. Young, Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture, ch.4 “Darwin’s Metaphor: Does Nature Select?” (1985)
ダーウィンはライエルの斉一主義を継承したことで、生物が方向性をもって進化することを地史の定向性から類推することができなくなってしまった。ダーウィンが用いることができたアナロジーは自然選択と人為選択のあいだのそれであったが、このアナロジーによって自然を擬人化したことで、ダーウィンは多くの批判を引き受けることになった。
Robert Marc Friedman, The Politics of Excellence: Behind the Nobel Prize in Science, ch.7 “Einstein Must Never Get a Nobel Prize: Keeping Physics Safe for Sweden” (2001)
アインシュタインの相対性理論は、物理学に限らずそれまでの真・善・美の概念を破壊するものとされて様々な反対に遭った。ドイツでは、真のドイツ科学は実験に基づくと主張するレーナルトやシュタルクが、アインシュタインの理論を形而上学的なユダヤ科学として排撃する動きがあった。ノーベル賞の受賞も、スウェーデンの学術コミュニティ内部の論理によって遅れた。1919年の皆既日食の観測でアインシュタインは世界的な名声を得るに至ったが、1920年の選考では、相対性理論に対して否定的なアレニウスのレポートに賛同が集まり、また長く選考委員を務めてきたBernhard Hasselbergが病気で退職する予定であったため、彼の友人であったギヨームが選ばれた。1921年の選考では、32人の推薦者のうち14人がアインシュタインを推薦したが、王立科学アカデミーやウプサラ大学で権威を振るっていたアルヴァル・グルストランドが強く反対したことで保留となった。最終的には、病死したHasselbergに代わってノーベル物理学賞委員会に入ったCarl Wilhelm Oseenの努力によって、光電効果の法則の発見を授賞理由とすることで1922年にアインシュタインの受賞が決まった。
Robert H. Kargon, “Temple to Science: Cooperative Research and the Birth of the California Institute of Technology” (1977)
Robert H. Kargon, The Rise of Robert Millikan: Portrait of a Life in American Science, ch.4 “The Scientist in Action” (1982)
米国科学アカデミー(NAS)は1863年に創設されていたが、米国の科学研究を組織化するような役割は果たしていなかった。そこで、第一次世界大戦において科学が軍事的に重要となったことを背景として、ウィルソン山天文台を設立した天文学者のジョージ・ヘールの呼びかけのもと、学術・産業・教育・政府の各界から代表者を招いた全米研究評議会(NRC)が1916年に創設される。ヘールと、彼を助けた物理学者のロバート・ミリカン、化学者のアーサー・ノイズの三人は、天文学や物理学や化学といった異なる分野が垣根を越えて協力することが今後の科学にとってきわめて重要だという認識を共有しており、カリフォルニア工科大学(Caltech)をそのような場所に生まれ変わらせようとした。彼らは、科学研究が連邦政府によってコントロールされてしまうことを恐れていたので、NRCの人脈を活かして民間のパトロンを集め、1920年代におけるCaltechの躍進を実現した。しかし、世界恐慌や第二次世界大戦の時期になると民間のパトロンは不十分となり、連邦政府による介入が本格化していくことになった。
John W. Servos, “The Industrial Relations of Science: Chemical Engineering at MIT, 1900–1939.” (1980)
20世紀初頭、マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学者アーサー・ノイズは、学生たちに工学の実践よりも物理学の原則を教えることで、MITを単なる技術学校から基礎科学に基づいた大学へと改革しようとした。一方、同じくMITの化学者であったWilliam Hultz Walkerは、ドイツの化学産業が科学者たちと経営者たちの協力によって飛躍的発展を遂げたことを念頭に、応用科学を重視して産業界との直接的な結びつきを強化しようとした。ノイズは物理化学研究所を、Walkerは応用化学研究所を、それぞれMIT内に立ち上げてプロジェクトを進めていたが、第一次世界大戦が始まると、ドイツからの輸入が途絶えたことで米国の化学産業が急速に拡大し、状況はWalkerに有利となった。ノイズは辞職し、MITの化学は産業界から支援を受けて産業のための実践的な研究をするという、Walkerの路線を突き進んで発展していった。しかし、やがてMITの化学者たちは産業界に主導権を握られている状況に不満を覚えるようになり、また世界恐慌によって産業界がMITへの支援から手を引いたことで、学長のカール・コンプトンは産業界の下僕にはならない方針を打ち出し、MITはかつてノイズが構想した方向性に近づいていった。
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