2014年2月23日

「科学を知る」教育から、「科学とは何かを知る」教育へ Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Ch. 3

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 45–72.


 科学についての共有リテラシーを達成するための洞察を得るため、この章では科学自体の本質について検討する。というのも科学という営みは、他の知的な営みとは大きく異なっているからである。大衆に科学リテラシーを身につけさせるという試みの失敗は、彼らがたとえ科学に興味をもっていても、難しいとか学んでも報われないとか思ってしまうというところにあった。これは目標が高すぎるのである。科学教育者たちが言うことに反して、学術的な意味で「科学を知る」ということは、社会的な意味で科学リテラシーを得るためにじつは必ずしも必要ではない。しかし、「科学とは何か」を知ることはそのようなリテラシーを得るのに不可欠である。大衆に科学を詳細に理解させることはできないけれども、科学という営みがどのように動くのかを、科学リテラシーの社会的目的に叶うように教えこむことはできるかもしれない。

●単純な定義はない
 科学は人間が生み出した、普通の事柄を見て理解しようとするための特別なやり方であると言える。なぜ「特別」かと言えば、我々の日常的な思考スタイルは、自然現象の原因を理解するのには不適当だからである。科学の主要な概念図式(たとえば原子説)は、直接的に実験で検証できるわけではないが、我々の経験を満足に説明してきたことから、絶対確実ではなくともかなりの程度信頼できる。
 科学は単純に定義できない。宇宙についての有用な知識の集合であり、研究の方法であり、自然の規則の探求であり、第一原理の探求であり、自然現象を理解・説明・予測することを目標とするものである。そして何より、証明できる「真実」の探求である。科学が他の知的な営みと異なる特徴は、客観的な検証ができることである。

●自然は規則的
 科学の実践は、少なくとも巨視的に見れば自然は規則的で予測可能であるという信念、すなわち同じ状況下では同じ現象が観察できるという信念に基づいている。
科学者は科学者共同体を納得させるために、モデルや概念図式を考案する。このとき重要なのは、社会全体による受容ではなくて科学者共同体における受容である。科学を常に一般市民に理解できるようにしておこうとすると、科学の進歩が妨げられてしまう。それゆえ、科学はそれに慣れていない人にとっては理解するのが難しい。

●真実の探求
 科学は真実の探求であるが、ここで言う「真実」の意味には気をつけなければならない。科学の法則や理論は、それが自然の説明に成功している程度にだけ「真実」とみなされるのである。科学では絶対的真実を主張することはできない。検証を重ねることで理論の信頼性は高まっていくが、検証で否定されたときには修正されたり、他の理論に取って代わられたりする。科学は累積的でもあって、ふつう一つの否定的結果でそれまでの理論全体が否定されることはない。

●反証可能性という概念
 有意味な科学的言明は、検証可能であると同時に反証可能でなければならない。反証可能性は擬似科学を特定するときに役立つ基準となる。

●科学は何でないか
 科学は単に事実を集めるプロセスではない。また、科学は知識を得るための絶対確実な手順でもない。問題を立て、観察をし、仮説を立て、仮説に基づいて予測をし、実験をして予測を検証する、といった手順だけで科学はできない。適切な問題が何であるか、仮説を検証する実験はどのようにすればいいか、などといったことを知らなくてはならない。そしてこういったことを定式化はできないのである。

●科学 対 常識
 かつてT・H・ハクスリーは、科学は特別なものの見方ではなく、正確性や検証に気をつけているだけであって根本的には普通の人のものの見方と同じだと述べた。これは当時では部分的にだけ正しく、今ではもっと間違っているといえる。現代科学は日常生活とはかけ離れた、科学に特徴的な推論をする(たとえば量子力学、相対性理論)。科学理論を学ぶ際、常識を足がかりにできないのは一つの障害となっている。常識的説明に慣れていることが、科学的説明への移行に不安を感じさせてしまうこともある。

●自然は規則的に見える
 もし元素が1000億個存在する世界であったら、科学は個々の事実の果てしない集積でしかあり得なかっただろう。規則性と単純性はあらゆる知識にとって必要なものだ。オッカムの剃刀は科学にとって計り知れない価値を持つ指針である。

●自然は不規則的に見える
 自然は微視的に見れば極めてランダムな動きをしている。自然が規則的に見えるのは、巨視的なレベルで見ているからなのである。

●科学の言語
 科学の言語は数学である。数学は自然を正確に記述するだけでなく、新しい知識に我々を導いてくれる。科学のモデルや概念図式が現実世界を描くように考案されるのに対し、数学は現実世界に関係なく論理的構造をつくることができる。科学も数学も、大衆から理解されにくい点では共通している。

●科学的な営みを分類する
 自然界についての知識は、自然史、科学、テクノロジーの3つに分類される。自然史の主要な特徴は、観察・記述・体系的分類である。

●テクノロジーの役割
 科学がテクノロジーの発展をもたらすように、テクノロジーも科学に新しい器具や素材などを与える。生徒たちにとって、テクノロジーは科学よりずっと有意味に見える(テクノロジーには、科学には無いフックがある)。物理科学ではテクノロジーを科学と区別しやすいが、生命科学や医学では区別は難しくなる。また、あらゆるテクノロジーにはリスクとベネフィットが存在し、それらを0か1かではなく評価していかなければならない。

●工学の役割
 工学は複雑なテクノロジーであり、ある意味で科学とテクノロジーのインターフェースにあたる。工学者は科学と技術の双方の訓練を受けて、科学的原理を技術に応用する。

科学リテラシーの神話 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Preface

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), xi–xviii.

 今世紀に科学教育に向けられてきた熱い視線にも関わらず、アメリカの大衆に「科学リテラシー」を浸透させることはできていない。アメリカの教育では、科学は3R(読み書き算数)とほぼ同等の地位を占めてきた。しかし少数の科学者や技術者を生み出した以外では、アメリカは未だに科学的にilliterateなままであり、今後科学リテラシーが根付く見込みもない。費用対効果で考えれば、科学教育は断念されるべきであるとさえ言える。科学教育共同体は、もはやユートピアとみなされるべき理想に溺れ、「科学教育は根本的に新しいアプローチを採らなくてはならない」という意見を無視している。そして政治家たちやメディアはでたらめにも、意志と圧力さえあれば科学リテラシーを学校教育で教えることは簡単だとみなしてきた。
 「大衆の科学理解」というイディオムはもっと有意味であるはずだ。というのも、科学理解の対象としての大衆をいくつかに区別できるはずだからだ。科学技術に関係した問題を扱うロビー活動グループ、立法者、一般大衆、科学教育者、科学界の人々などがいる。科学、そして科学リテラシーの概念はそれぞれの人々にとって異なった意味を持つ。我々は単純に、それぞれの人々にとって重要な、異なる種類の科学理解を評価することに失敗してきたのだ。
 第二次世界大戦は科学自体と同時に、科学教育事業にもスポットライトを当てた。戦後の再工業化と科学教育を後押しし、スプートニク・ショックではカリキュラムの再構築のために多大な努力がなされた。しかしそのような努力は、universalな科学リテラシーというその主要な目標を達成することができていない。

 本書は科学教育の目的を明らかにし、科学リテラシーの歴史と意味を調査し、過去にそのようなリテラシーを広めることに失敗した理由を説明し、その見込みが今後も無いことを示す。
 大衆の“有益な”科学リテラシーへの期待は神話に過ぎない。我々は、学校での科学教育がそのようなリテラシーに導いてくれるのだと信じ込んできた。実際のところ、それを実現させるどのような手段も持ち合わせいないのにも関わらず、それができるのだという期待的態度は続いている。1989年、ブッシュ(父)大統領は「2000年のアメリカ」計画の一環として、2000年までにアメリカの生徒が科学と数学で世界一の成績になることなどを宣言した。このような非現実的なビジョンでは、多くの資金がつぎ込まれるだけで無駄に終わるだろう。

 科学リテラシーの問題は、単一の問題に集約できない。「科学リテラシーは大衆の利益のために不可欠か」「科学リテラシーは無理のない努力で得られるものなのか」「科学にliterateであるということは実際どういう意味なのか」などを問わなくてはいけない。そのためには、科学リテラシーの歴史を辿ることにもなる。その中で、科学という営み自体がその草創期に直面した哲学的問題と、我々が科学教育において直面している問題とのあいだに、奇妙な類似性があることも見出していく。これらの問題は、第1章から第4章までで扱う。第5章では過去の「二つの文化」の論争について、第6章では科学教育のカリキュラムに関する近年の努力とその貢献について考察する。第7章は科学教育の未来について、特にそこでの教師の役割などについて論じる。第8章では、どれだけの科学リテラシーが本当に必要とされているのかを考察し、一般的な科学教育の根本的な目的を問う。第9章ではこれら全てを踏まえて、一般に考えられている意味での科学リテラシーは理想論に過ぎないという前提から出発し、その代わりとなるアプローチを提案する。エピローグでは、科学教育のために連邦政府が果たすべき役割を論じる。
 この本の中では、生徒の科学リテラシーよりも大人の科学リテラシーが強調される。その理由は単純で、社会において科学的知識を役立てる立場にいるのは大部分が大人だからである。

2014年2月19日

植物進化生物学が誕生するまで Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Botany and the Evolutionary Synthesis, 1920–1950,” in The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, ed. Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 313–21.

植物学と進化論の総合に関する歴史の概説です。


Darwin’s Botanical Work

 ダーウィンの植物学的業績は膨大であったが、20世紀の後半に至るまで十分に評価・理解されていなかった。ダーウィンの研究が分類学的な正確さや、19世紀の植物学における実験的な厳密さを欠いていたことはこのことの原因の一部であった。20世紀中頃に植物進化生物学と呼べる分野が出現し、さらに20世紀後半に植物生態学、植物集団生物学、植物進化生態学といった分野が成熟してようやくダーウィンの植物学的貢献は評価された。

 植物自体の側に、植物進化についての首尾一貫した理論を定式化する試みを妨げる原因があったのは間違いない。植物は頻繁に雑種形成をするので交配実験に向いており、種分化のメカニズムの理解につながるが、雑種形成それ自体が遺伝学的に適切に理解されるまでは植物進化を理解する上での問題が残ってしまう。自家受精と他家受精、無性生殖などの様々な生殖手段と雑種形成が遺伝学的な術語で理解されるまで、それらは進化研究に有用であると同時に混乱の元であった。それに環境に適応して形を変える可塑性、化石化される部位が少なく系統発生史を復元するのが難しいことなども植物進化の研究を難しくしていた。それゆえ、ダーウィンの努力にも関わらず植物学者の大部分はネオラマルキズムを唱え、あるいは雑種形成による進化や、ド・フリースの突然変異説などを支持した。


Plants, Post-Darwinian Developments and the Rise of Mendelian Genetics

「進化論の総合」と呼ばれる1930~40年代にいたるまで、植物進化生物学は十分に発展しなかった。総合の時期にダーウィン的な進化の理解はメンデル遺伝学と統合され、生物学的多様性の起源が説明できるようになった。ダーウィンが必要としていた遺伝の理論は、メンデルが提供していた。メンデルの業績は1900年に3人の研究者によって「再発見」された。「遺伝学」を提唱したベートソンはメンデルをそのディシプリンを築いた人物とみなした。

 世紀の変わり目は、生物学者たちが植物に注目し植物科学が飛躍的に発展した時期であった。遺伝学の発展は、概念的にも組織的にも、園芸や植物の育種、植物の雑種形成、植物遺伝学と結び付いていた。大学や機関の環境で農業や園芸に重点が置かれていることを活かし、植物遺伝学は20世紀最初の2~30年間で大きく拡大した。

 しかし当初、そこで生まれた豊富なデータは、ダーウィンの漸進的な進化の理論と正反対とは言わないまでも、混乱を生むものであった。それゆえ、植物研究者の中にはド・フリースの突然変異説を支持する者もいた。オオマツヨイグサの形態的変化にヒントを得たド・フリースが1901年から1903年に発展させた説では、新種は突然の激烈な突然変異によって出現する。そこでは自然選択には除去の役割しかなく、創造的な役割をもつのは突然変異である。古い自然史的伝統の流れを汲む記述的なダーウィニズムに対し、突然変異説は実験的で、よりハードな科学であって前途有望であるように思われた。20世紀の最初の20年間には、オオマツヨイグサの特殊な振る舞いに刺激を受け、植物の染色体の振る舞いを研究し、雑種形成のプロセスを明らかにしようと交配実験を重ねる研究者が多かった。しかし1917年から1922年のあいだまで、植物遺伝学者たちはその植物が永続的な転座異型接合体であることを実証できなかった。

 マツヨイグサの謎は解決に時間がかかり、多くの研究者たちをダーウィンの自然選択説に反対させた。それゆえマイアやダーリントンやステビンズは、このことが植物進化を正しく理解するための障害になったのだと示唆した。しかしこの見方は間違えであって、交配や雑種形成のパターンによって決まり、形態学的に表現される染色体レベルのメカニズムの複雑な総合作用に注目を集めることによって、マツヨイグサは種分化を理解するための道具としての植物の有用性に研究者たちを注目させたのである。次の20年間に、染色体の振る舞い、雑種形成、形態についてのそのような研究や分類学の知識を、自然集団における地理的変異のパターンと結びつけるにあたって、そのような貢献は実は核心的だったのである。


Plants and the Synthesis of Genetics, Systematics, and Paleontology (1920–1950)

 19世紀末の細胞学の進歩によって、染色体には注目が集まっていた。植物の染色体は、動物に比べて大きく数が少ないなどの理由で、細胞学的研究を受けやすかった。倍数性の現象は、プリムラ・キューエンシスとオオマツヨイグサなどの植物で発見された。しかし1917年にOvjnid Wingeの先駆的研究「染色体――それらの数と一般的重要性」が発表されるまで、倍数性のような現象とその生殖プロセスでの染色体の振る舞いが、倍数性・雑種形成・種分化のあいだの関係に注目を惹くことはなかった。染色体の倍加が種内雑種の形成を可能にするというWingeの示唆は、その後次々に実証された。人工的な異質倍数体は、R. E. ClausenとGoodspeedが1925年に実証した。倍数体は既にいくつもの種で認識されているという認識と共に、分類群の系統学的再構築への道は開けた。このようにして、メンデルの再発見、マツヨイグサ遺伝学への関心の高まり、顕微鏡・染色・薄片作製の技術の向上は、細胞学的研究における植物の利用の高まりをもたらした。進化論者にとって最も重要だったのは、染色体数の数と特質は近いグループの関係を決めるのに使えるという認識であった。そのような諸研究の統合は、植物進化の一般理論を導く第一段階だった。
 新しい手法や洞察を用いて植物の種分化や進化を検討する最初期の研究の一つは、ドイツのバウア(Erwin Baur)による、キンギョソウの遺伝と種間関係を理解しようとする1932年の研究である。バウアはそのあとすぐ亡くなってしまったため、彼の研究が完成することはなかったが、それは植物進化の理解のための総合的な研究に道を開いた。

 植物分類学、より正確には植物体系学は、1920年代にダーウィン的進化とゆっくり合体しはじめた。当時、植物分類学者たち全員が集団中心のダーウィン的な思考を受け入れていたわけではなかった。分類学者たちは変異の多い適応的な形質よりも、変異の少ない非適応的形質を重視して分類をしていた。リンネの影響は強く、自然集団における変異のパターンよりも、植物標本に基づいた仕事が行われていた。1920年代に多くの体系学者がそのような静的なアプローチの改革を求め、変異や自然環境における集団の研究を強調した。たとえばスウェーデンのチューレソン(Göte Turesson)は初期の移植実験研究を利用し、環境に対する遺伝型の応答と表現型の応答を識別した。また生態型(異なる環境に移植しても保存されるはっきり異なる形態的・生理的形質を示す、環境に適応した特定の型)の概念をはじめて提唱した。チューレソンが完成させた種生態学(genecology)は自然植物集団におけるそのような変異パターンの理解に大きく貢献した。同様にトゥリル(J. B. Turrill)は、植物が様々な土壌環境にどのように適応するかを調査した。

 チューレソンの生態学的業績、バウアの遺伝学的洞察、その他1920年代の多くの研究者の努力は、1930年代半ばにサンフランシスコ湾岸地帯において結実する。ここでは、専門家たちが植物進化の理解のために学際的な視野を持ち込みはじめていた。1920年代にカリフォルニア大学バークレー校の体系学者Harvey Monroe Hallと生態学者Frederic Clementsは、植物標本室中心の分類学的手法の改革を訴え、系統発生史の反映や環境変異を強調していた。彼らは伝統的な植物分類学者からの抵抗も受けるが、1923年に『分類学の系統学的方法』と題したマニフェストを出版した。Hallはさらに、植物移植実験のプログラムを設立し、様々な分野の知識をもった研究者を求めた。デンマークの遺伝学者・遺伝生態学者であったJens Clausenがワシントンカーネギー協会によってカリフォルニアに呼び寄せられ、分類学者David Keck、生理学者William Hieseyと共同研究を開始した。この「カーネギーチーム」は1930~40年代を通して、地形的な勾配を利用して優れた移植研究をいくつも行った。彼らは環境への応答に光を当てただけでなく、植物の種分化のメカニズムを理解し、植物界において何が正式な種といえるのかを明らかにし、そしてラマラク遺伝を却下する証拠を提供してダーウィン的自然選択説を再建した。3人の努力は指導的進化学者たちの注目を惹き、特にドブジャンスキーは現場を共有するようになった。

 少なくともカーネギーチームと同等に重要なのが、Hallの共同研究者でもあったバークレー校の遺伝学者バブコック(Ernest Brown Babcock)に関連した努力である。米国ではじめて遺伝学部を設立したことでも知られるバブコックは、モーガンのショウジョウバエ遺伝学の成功を植物でも起こそうと、様々な環境で繁殖するクレピス属に目を付けた。しかし雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用は複雑で謎に包まれており、属の基礎的な系統関係もわからなかった。そこでバブコックは系統学的、すなわち進化的な研究を目指すことになる。彼は様々な学際的技術を取り入れたほか、植物化石から得た洞察を地理的分布の議論に適用した最初の人物の一人であった。1947年にバブコックはクレピス属の系統発生史を包括的にまとめた『クレピス属』を出版し、種分化のメカニズムに焦点を当て、種を非本質主義的に見る「バイオシステマティクス」による植物進化の動的な理解の古典的著作となった。

 この基礎は1938年にステビンズと出版したモノグラフで築かれていた。ステビンズと共同で研究することで、バブコックは雑種形成、倍数性、アポミクシスの総合作用の問題を解いていた。彼らは、植物の特定の属は、有性生殖二倍体を中心として倍数体を生む生殖形式の複合体から成っていることを認識した。倍数性複合体をはっきり示したことは当時の先駆的業績だった。またそれは、種形成、アポミクシスの型における多形性、複合体のプロセスからどのように属の系統発生史を得るかについての知識、などについての洞察も提供していた。ステビンズはこれをさらに掘り下げ、1947年にレビュー記事を書いた。

 バブコックの活動的なクレピス属研究経営により、1930年代には植物遺伝学・体系学・古生物学の融合に注目が集まった。彼は学生や共同研究者や海外からの訪問者などを湾岸地帯に集め、1930年代までには彼とカーネギーチームにより、湾岸地帯は植物進化研究のハブとなっていた。彼らはさまざまな生物を扱う体系学者たちの非公式のグループを組織した。このグループの人々は遺伝学を用いた新しい体系学を志向しており、バイオシステマティストを名乗っていた。グループは湾岸地帯への頻繁な訪問者も引きつけており、アンダーソンやCarl Epling、ドブジャンスキーなどが居た。アンダーソンはアイリスの変異や進化を理解しようとしたことで、変異を測定する方法を考案しただけでなく、移入をきたす雑種形成のメカニズムを理解することになった。

 ドブジャンスキーの1937年の著作『遺伝学と種の起源』は、他の重要著作がコロンビア大学出版から次々に出版されるための触媒となった。1941年にアンダーソンはマイアと共にジェサップ講義に招かれたが、講義をまとめて出版することはなかった。1945年、バークレー校のステビンズは交流の深いドブジャンスキーの推薦によって、コロンビア大学のL.C. Dunnからジェサップ講義に招かれた。この講義は1946年に行われた。彼は雑種形成、倍数性、アポミクシスの相互作用を説明しつつ、ダーリントンの遺伝的システムの考えを利用し、それら自身が選択に従属する遺伝的システムとして理解されることを議論した。ステビンズが1950年に出版した『植物の変異と進化』は、Peter Ravenに「今世紀の植物体系学で最も影響力のあった一冊の本」と評された。この本は、植物進化生物学という新しい分野の概念的フレームワークを形成した。1930~40年代では、すべての植物学者が新しい手法やアプローチや洞察を受け入れていたわけではなかったが、それらを統合した新しい学問分野は1950年までに登場し、植物進化生物学はついにダーウィンの植物学的努力の中心性を認識したのである。

2014年2月17日

「総合」のヒストリオグラフィー批判 Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies”

Joe Cain, “Rethinking the Synthesis Period in Evolutionary Studies,” Journal of the History of Biology 42 (2009): 621-48.

 「進化論の総合」という単位概念を放棄することを提案し、代わりに4つの筋道で1930年代の進化研究を捉え直そうとする論考です。種と種分化の問題の重要性、そしてその問題と関連した潮流があったことが強調されています。

 半世紀にわたって、「進化論の総合」という概念は非常に役立つものでした。その概念はHuxleyをはじめとしたいわゆる総合説の建設者たちにとっても、体系学者たちにとっても評論家にとっても有用なものでした。
 しかし、「総合」のヒストリオグラフィーを、この物語を用いてきた沢山の使用例から切り離すことは今までできませんでした。たとえばHuxleyやMayrの使用例があります。Huxleyの「ダーウィニズムの失墜」の物語は意図的にウィッグ史観であり、Huxleyの役割を正当化していました。Mayrの歴史研究は、彼自身の科学的遺産の再発見と合理化を行うものでした。
 現代の「総合」のヒストリオグラフィーは2つの想定に基づいています。1つ目はhistorical realismです。歴史家たちは、「総合」という出来事があったことを前提として調査を行います。「総合」の定義に焦点を当て、中心的要素を特定し、縁を突き止め、年表を追います。また、誰が「総合」に貢献したか、どうして他の人よりも貢献したかを検討します。そして、何らかの要素が除外されていることや、要素が間違って理解されたり重み付けられたりしていることを批判します。総合についてひとつの統一された意味を与えるために努力するのです。しかも永続的な理論の建設に注目していて、ただ一つの進化理論、ただひとつの「進化論の総合」がそこにあるかのようです。2つ目は、結合することには意味がある、という想定です。歴史家たちは、内的・外的な様々な変数を、あるはずの「総合」という出来事に関連付けるために努力します。「古生物学と進化論の総合」「ロシアと進化論の総合」といったように、部分と全体の関係に焦点を当てます。このような結合には意味がありません。この類の分析は、それぞれの対象は結合されるべきだという首尾一貫性を前提としています。「進化論の総合」を単一の、まとまった、首尾一貫した事柄として押し付けているのです。
 「総合」の物語は、散乱し矛盾する歴史を綺麗なラインで置き換えるので多くの人々にとって有用でありました。しかし歴史研究の際には障害にもなります。
 「総合」の物語よりも、4つの筋道によって当時の進化研究はより良く捉えられます。
① 種の本質と種分化プロセスは、1930年代の進化研究において支配的な主題でした。
② 種や種分化の調査は「変異」「分岐」「隔離」「選択」の4つのラインで発展しました。そしてこれらの問題複合体に焦点を当てた「総合」が求められました。
③ 種問題や種分化プロセスの研究における自信の高まりは、実験分類学に関連した方法論的・認識論的変化と同時に起きました。
④ 1930年代における種問題と種分化への関心の高まりは、より大きな風潮、特にオブジェクトベースのナチュラリスト的ディシプリンからプロセスベースの生物学への移行と結びついていました。総合の推進者たちはこのより大きな風潮を支持していました。

 例として、Alfred Kinseyというカリバチの分類学者を検討してみましょう。彼の仕事は昔ながらの分類学の仕事でしたが、三名法を用いていました。三番目の名前は変種(亜種、品種)を表します。Kinseyの三名法には、分岐や隔離についての物語が埋め込まれていました。また、学名命名にあたっては実験的方法を熱心に用いており、染色体の数を数えたり、構造を比較したりもしていました。Kinseyは「総合」と関連付けられるべき種類の進化研究を1930年代にしていた人物の一人であり、new systematicsを実践していた人物といえます。

 new systematicsという言葉は当時の動物学と植物学における3つの異なる流行に当てはまります。1つ目の流行は実験分類学で、認識論的文化の移行として理解できます。移行の一つ目の層は、分類学における新しい基準(染色体数、比較血清学、比較生化学、行動学、生態学、生理学、雑種形成実験など)の登場です。二つ目の層は、分類における間違いを防ぐ方法(大量のサンプルを用いること、地理的に広くサンプルを用いること、仮説検定など)の採用です。
 1930年代の新しい技術の登場は実験分類学を助けていました。たとえばPainter(1934)のショウジョウバエの唾液腺染色体で横縞模様を明らかにする技術は、すぐにSturtevantとDobzhanskyによって、フィールドで集めたショウジョウバエに用いられました。Blackeslee(1937)がクロヒチンの染色体数に対する影響を発表すると、すぐに農学者や園芸家たちが新しい変種を生産し、分類学者たちも実験に用いました。実験分類学の道具は、種内や属内の変異の性質について問う人々にとって有用になり、1920年代から30年代にかけて、植物学者はこれらの適用を動物学者より大規模にかつ速く進めました。
 生物学的種概念は実験分類学の新しい認識論的要求(客観性や検証)に対する返答の例です。後に総合として記憶されることになる動きの中での実験分類学の重要性を低く見積もることはできません。歴史家たちは総合の理論的要素(自然選択、メンデル遺伝学など)の融合に焦点を当てていますが、当時の研究者たちは古典的分類学の技術と実験分類学の技術の総合を祝福していました。

 new systematicsの2つ目の流行は種問題で、1930年代のたくさんの植物学者と動物学者が議論と貢献を熱望していた問題でした。種問題は古い問題ですが、1920年代と1930年代には難しいモデルケースが増えていました。Rassenkreisまたはring species、clines、super species、species complexesなど用語も増えました。1930年代の種問題には多くの貢献者がいました。
 1941年にAlfred Emersonは種分化に関する文献のビブリオグラフィーを出版しています。Emersonの分類は1930年代後半の種分化研究における関心の幅をよく捉え、4つの問題「変異」「分岐」「隔離」「選択」に凝縮していました。歴史家はこの幅をよく忘れ、選択と浮動や選択と結び付いた遺伝学に焦点を当てがちです。
 1930年代後半では、調査が「総合」の重要な側面であり、master narrativeやパラダイムはありませんでした。この時期、調査は幅広い領域でなされ、トピックの選択を制限する要素は少なかったので、研究者たちは非競争的な環境の中で、自分たちが同じ考え方をもっているとみなしやすい状況にありました。彼らはディシプリンを越え、共通のプロジェクトに取り組んでいるという意識を高めていきました。1930年代後半までに、彼らは何かを解いたという感覚を得ました。この自信は、プロジェクト全体に正当性のムードをつくりだします。1939年には、the Society for the Study of Speciationも始まりました。1930年代に進化研究が復興したのは、特に種分化の動力学においてでした。

 1930年代の「総合」の3つ目の面は、生命科学のより大きな潮流、すなわち、物体からプロセスへ注意の対象が移行したことに結び付いていました。たとえばKinseyも現象の理由や原因を探求することを重視しており、彼の分類は分岐や隔離や適応による物語を形成していました。彼の進化のプロセスに対する興味は、プロセスや原因、メカニズムに焦点を当てた彼の生物学者としてのアイデンティティと関係していたのです。また1930年代、Huxleyは進化研究においても生命科学全体においても、物体からプロセスへ研究対象を移行させることを唱えました。
 1930年代に進化研究に関心をもつ研究者たちが物体からプロセスに移行した理由は明らかではありません。より正確にいえば、研究者たちはこの移行を幾度となく追求してきていましたが、このときだけ広く共鳴し根付いた理由が明らかではないのです。しかし、同様の移行が生態学、動物行動学、発生生物学など広い領域で同じ時期にあったことは偶然ではないでしょう。

 「総合」についての物語は再考を要します。1940年代のストーリーは計画的なディシプリンの建設であり、特定のテーマと特定の人々の優越でした。しかし1930年代は異なっており、この10年間では「総合」は複数の意味の層をもっていました。調査のメイントピックは自然選択の復活や数理集団遺伝学の台頭ではなく、種分化の問題だったのです。

2013年11月11日

信仰と科学史 Oldroyd, Geohistory Revisited and Expanded

David Oldroyd (2010) Geohistory Revisited and Expanded, Annals of Science, 67:2, 249-259

Rudwick, Worlds Before Adam の書評です。

 ラドウィックは長年に渡って、歴史科学としての地質学の出現を研究してきた。ラドウィックはこれを、コペルニクスやダーウィンの革命に匹敵する重要性をもつ科学革命だと主張している。この革命には、「時間の発見」と歴史的観点からの地球研究の出現が含まれている。1780年から1820年のあいだに、「地球の理論」は廃れ、経験的方法による地球の研究が前面に出た。この変化は、人間の歴史を研究する手法が輸入されたことで手助けされた。筆者もかつて示唆したように、地球の研究は「歴史化」されたのである。

 ラドウィックの2つの本は連続的な議論を提供しており、その内容は「地史学の出現」とでも名付けられるような一冊の大著になるはずである。ラドウィックはこの本でハットン、ド・リュック、スミス、キュヴィエ、バックランドに言及し、前著の糸を拾い上げていく。

 私の以前の心配は再発した。ラドウィックの見方ではハットンの業績は歴史的ではなく理論的であるため、彼は地質学の進歩の物語から除かれてしまっている。ラドウィックの見方では、ハットンの永遠主義は同時代の人々には受容不可能だった。
 スミスは含まれる化石によって地層を区別し関係づける考えを展開したが、彼の関心は構造にあったため、彼は「地球構造学者」の役を割り当てられてしまった。ラドウィックによると、スミスの同時代の人々は彼の仕事を、地球構造学の名のもとに実践されてきたものの変わり種だとみなしたという。この予期せぬ解釈は、しかしもっともらしい。

 ラドウィックはド・リュックの見方においても普通と違っている。ラドウィックのド・リュックに好意的な新しい見方は、彼をノアの洪水以前と以後の2つからなる歴史の見方の代表者とみなすことで達成されている。そして洪水以後では彼は現在主義の立場をとっていると言うが、彼の洪水後の時間の測定は聖書的であるため、疑わしいと筆者は考える。
 ド・リュックは洪水以前については、地殻が仮説的な地下の穴に崩落したなどという信じがたい考えをもっていた。しかもド・リュックは、当時の地質学者にはあまり高く買われていなかったようだ。それゆえ筆者は、ド・リュックが地質学の「歴史化」における重要人物であるとするラドウィックの説明は問題だと考える。

 キュヴィエを地質学史の重要人物であるとすることには何の問題もない。
 スミスもブロンニャールもキュヴィエも、歴史的に解釈できる結果を形成するために経験的情報を集めて作られた生層序学の原則に基づいて地質図を作成した。すなわち、出来事は垂置の原理と調和して年代順に配置される。しかしラドウィックの観点では、キュヴィエとブロンニャールの業績は地史学的観察を含む一方、スミスは地球構造学をしていたという。この違いはどこから来たのか?

 ラドウィックによれば、化石はスミスの層序学に、肉眼岩石学だけでは得られない正確性を与えていた。しかし、堆積した時代の環境に興味を持っていたブロンニャールやキュヴィエは、それ以上のものを化石から得ていたのだという。
 しかしそうだとしても、堆積物の海成/淡水成を示すキュヴィエの断面図を除いて、キュヴィエとブロンニャールのパリ盆地の地図とそこから演繹される構造は、スミス的地球構造学者やキュヴィエ的地史学者からも同じように得られる。だとしたら、違いは操作的な違いではなく、観察者の心の中や、観察者が発見をどう解釈するかという部分にある。

 ラドウィックが作ろうとしている区別は偽のものなのだろうか? 筆者はそうは思わない。キュヴィエは脊椎動物の化石の調査で、「存在条件」に気をつけていた。彼がパリの地層を調べているときに興味を持っていたのも「存在条件」だったのである。単なる構造や配置ではなく、過去のものの在り方について考えていたことは違いを生む。ただ、キュヴィエはそれにもかかわらず「地球構造学的」という言葉を使い続けていたので、「地球構造学的」と「地史学的」のあいだにハッキリした線を引くことには躊躇いがある。

 キュヴィエから先に進んで、ラドウィックは1845年頃までの地質科学の歴史を詳細に説明する。このころまでに、アガシーの氷河時代の理論が「標準的」「模範的」地質科学を困らせていた。ただラドウィックの研究は、英国、フランス、イタリアが主なので、ドイツや他の地域が不当に扱われているという批判は有り得るかもしれない。
 ラドウィックのストーリーは、地質科学が「歴史化」されたあとの数十年間に何があったかを展開していく。1822年には、過去を解釈するために使える現在からの経験的証拠についてのフォン・ホフの論考があり、現在主義の地質科学のための原材料となった。そして話題はライエルの業績の詳細に移っていく。層序学的には若い層の上を流れる溶岩の蓄積によってエトナ山が形成されたことを考えることで、ライエルが地球の年齢の長大さを推し量る議論は根本的であるし、すべての創造論者や若い地球論者はこれを読んで欲しい。

 ラドウィックが呼ぶところの「統計的古生物学」に基づいて、ライエルが打ち立てた第三紀の再分割も根本的に重要だった。分割はデエーのコレクションを用いて、地層の中の現代の種の割合に基づき決められた。パリでライエルが会ったプレボーは、現在因の役割を強調し現在主義を擁護していた。ライエルは現在主義を拡張し、斉一説にした。たとえライエルが過去と現在は本質的に違うとは考えていなかったとしても、彼の仕事は歴史的であったということを、ラドウィックは正しく強調した。ライエルのシステムは非方向的で、地球の起源についての考えは彼が自ら課した権限の向こう側にあった。ライエルは種の起源についてもあまり言うことはできなかった。キュヴィエが仮定した大災害については、地球の一部で堆積が止まっていたと想定することで説明された。それゆえどこの地域でも、層序学的記録には必然的にギャップがあった。

 ライエルの地史学的に安定したシステムは、洗練されたこじつけだと呼ばれ得たかもしれない。ライエルは、方法論的に、現在を過去への鍵として使おうとしたし、実際これを第三紀において「統計学的古生物学」を用いてもっともらしく達成した。第二紀と第三紀の間の大きな古生物学的ギャップは、堆積が途絶えた長い期間によって説明された。第二紀でも第一紀でも、第三紀と同じアプローチが使われた。陸地の上昇や堆積、循環主義、マグマの貫入などの考えはハットンから引き継がれた。

 図1の場合、第一紀の地層が歪められており、ライエルが第三紀で使ったような地史学的調査方法は適さない。ライエルの方法は全ての岩石には適用できないにも関わらず、一般的に適用可能であるように主張されることができた。
 また、ハットンの循環主義はうわべ上ではライエルの地質学と矛盾しなかった。しかし、地球の最古の岩石は適切に判読されなかったため、永遠主義という心配の種は取り除かれた(PrimariesはライエルによってHypogene rocksと書き換えられた)。このことで、斉一説と、それと矛盾するように思われる岩石証拠は和解させられた。

 しかしライエルの斉一説地質学と並行して、フーリエが数学的に議論したような、地球冷却説も存在した。この説はフォン・ブーフの仕事を拡張し、後にエリー・ド・ボーモンが発展させた「地球の理論」を支えた。地球の内部が液体であることと、地球の冷却を信じることで、地球が収縮することで時々しわくちゃになるのだと考えることができた。ある者はこれに基づいて、「何が何を折りたたんだか」を明らかにすることで、地質構造的な層序学も発展させることができた。そこで19世紀前半の地史学は、2つの相補的な形式(生層序学と「構造層序学」)に基づいた。ラドウィックは、18世紀末に歴史化された地球科学が地球の理論から分離したことを描いたが、19世紀前半にはそれら2つが歩み寄ったと見ている。『地質学原理』に表明されているように、ライエルの考えも「地球の理論」を構成していた。

 ラドウィックはアガシーの氷河時代の理論で物語を終えたが、これは適切だった。というのもこの理論は、ライエルら地球の温度の安定性を好む人々にも、フーリエやエリー・ド・ボーモンら地球の冷却を考えている人々にも、深刻な問題をもたらしたからである。地史学はアガシー後の新しい始まりを必要としていた。


 この本の内容を十分に議論するスペースは無いが、たとえば1820~40年の詳細は立派に編まれている。しかし筆者はこの本の結論部分にコメントしたい。この本は地質学への社会的・政治的・宗教的文脈についても考察している。この本のサブタイトル The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform は、その頃の地質学的調査の背景となった、1832年の英国での選挙法改正法の問題も示唆している。かつてラドウィックは地質学者たちの認識様式と彼らの社会的文脈を非常に直接的なやり方で関連づけようとしていたが、後にそのような直接因果的な結合は立証できないと考えるようになった。しかしラドウィックは社会的コンテクストに興味を持ち続けており、この本にもそれが表れている。またラドウィックはウィッグ史観や時代遅れのヒストリオグラフィーの反対者であり、科学者兼歴史家というよりも科学史家になったといえる。

 またこの本の最後で、ラドウィックは自身のキリスト教信仰を認めており、科学と宗教のあいだに対立はないと述べる。そして、コンフリクト命題は無神論原理主義者の論者によって助長された誤謬であるという。このように言うとき、ラドウィックはリチャード・ドーキンスのような人物を想定しているのだろう。ひょっとすると、筆者もラドウィックの視界に入っているのかもしれない。そこで筆者はこの問題について少し述べておきたい。

 この本の主題の一つは、19世紀の地質学者たちは主にキリスト教信者であったため、トップランクの地質学者たちの中では、科学と宗教のあいだに真の対立は無かったというものだ。それだけでなく、新しい地史学的アプローチはユダヤ教・キリスト教の伝統と両立するものであり、このことは地史学研究の登場に「強くポジティブな」役割を果たしたのだという。その伝統は世界を、固有の歴史を持つ、一連の偶然的な出来事の産物と考えることに合ったものであった。そして、その歴史を解き明かす地史学者の仕事は、聖書歴史家のしごとに類似していた、と示唆している。

 しかし、聖書には預言者のことが多く書かれており、新約聖書は旧約聖書の預言が実現されたことを示すものでもある。このことは19世紀の地質学の歴史研究と調和しないように筆者には思われる。また聖書では、人間の過去は予め定められた計画の展開であり、予め決定された未来へわかりやすい方法で向かうように書かれている。それに、キリスト教は現在を過去の鍵として用いないし、むしろ逆である。このような意味で、19世紀の地質科学とキリスト教のあいだには「対立」があったし、それが無かったのは地質学者たちがキリスト教の大部分を無視したからである。さらに思い切って言えば、ラドウィックはド・リュックやバックランドなどのキリスト教信者の役割を大きく扱い、ヴェルナー、ハットン、ラマルクのような理神論者を小さく扱いがちである。

 バックランドについてすこし述べたい。バックランドは、古典や神学や富や力のとりでであるオックスフォード大学に地質学を導入しようとしていた。だから、彼が就任式の講義で、地質学が聖書の伝統に一致することを示そうとしたことは驚くに値しない。彼はそれを示そうとして、ノアの洪水をキュヴィエの「大災害」の最後のものだと特定した。

 またバックランドは、Kirkdale洞窟の骨の様子から、そこに動物がかつて住んでいたのであって、氾濫で洞窟に押し込まれたのではないと考えた。一方で洞窟内の堆積物の層は氾濫を示唆していた。図2で、Aは泥、Bは泥の堆積以前に形成された石筍、CとDとEは泥の堆積以降に形成された石筍である(DとEは同時形成)。しかしバックランドは、氾濫による泥の堆積以降に経過した時間は小さいことを主張しようとして、洪水後の鍾乳石の量が限られていることに言及した。しかし、図2の石筍の厚さを見れば、泥の堆積後に経過した時間はそれ以前よりも長いと考えられる。それゆえ、泥の堆積はかなり昔のことだったはずなのだ。それにもかかわらず、バックランドはこの洞窟調査から、地質学的に最近のことである聖書の洪水を推測する。

 バックランドはキュヴィエの考えを、旧約聖書の人間の歴史を同じくらいに絶対的真理とみなした。キュヴィエもバックランドも、洪水以前の人間の遺物が見つかるとは信じなかった。バックランドはこの問題で決して譲歩せず、いくつもの重要な証拠を軽快に切り捨てた。バックランドは彼の信念に固執し、部分的には宗教的信念とキュヴィエの権威に基づいた。

 言い換えれば、キリスト教信者の地質学者にとって人間の起源は真の問題をもたらしたのである。バックランドはそれを誤魔化したり嘲笑したりした。ライエルは単に人間を、種の起源や絶滅などの一般化の例外とした。ライエルも含めダーウィン以前のほとんどの人物は、人間や知的生命の起源についての自然論的な見方を持っていなかったのである。しかし、科学と宗教の衝突はダーウィンの登場までは真に熟していなかったとは言えるだろう。筆者にもし、時間とエネルギーと資源と、ラドウィックのように2つの本を書く技術があったなら、ド・リュックとバックランドの説明を除けばそう大きく違わないものができただろう。

 ラドウィックはこの本の始めと終わりで「無神論原理主義者」に言及しているが、これは矛盾語法である。無神論者に聖なるテクストなどはない。有神論者も無神論者も宇宙がどのように生まれたかを知らないが、これは信仰によって解ける問題ではない。無神論者は、神が存在する論理的可能性を認めるが、反対する証拠の強さのために、そのような考えに乗らないのである。無神論者を原理主義者というのは間違っている。それに対して、全ての信者は根本的には原理主義者である。そして彼らの多くは、たくさんの時間とエネルギーを彼らの見方を他の人に押しつけることに費やすのである。

 ラドウィックは素晴らしい2冊の本を書いた。しかし大聖堂や美術作品がそうであるように、あまりに多くの科学史の偉大な業績が形而上学的に無意味な基礎の上につくられている。ラドウィックの偉大な本を、我々はその基礎となっている形而上学的コミットメントなしでは持つべきでないということは十分有り得る。しかし、存在の本質について異なった見方を持つ我々がばかにしてあしらわれるのは悲しいことではないか。

2013年9月29日

迷子石に関する3つの説 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 34

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 501-16.


Ch.34 迷子石を説明する(1833-40)

34.1 地質学的洪水を拡張する

 洪水説も他の学説と同じように時代と共に変化してきた。1830年代には、バックランドも含め、地質学でいう洪水は聖書に出てくる洪水とは関係ないという合意が得られていた。
 この時代の洪水説は主に3種類の経験的根拠に支えられていた。1つ目の根拠は侵食の特徴で、通常の現在因によっては説明できないと思われていた。しかし、谷の地形は多種多様で、下にある岩盤の構造との関係も様々であることから、単一原因による説明を追求することは無益だという暗黙の合意が得られていた。たとえば、オーベルニュの谷は長期間の水流による侵食で形成されたのだろうと洪水論者さえもが考えていたが、一方でU字谷の形成を説明するには猛烈な河流の作用が適していると考えられていた。2つ目の根拠は巨礫粘土などの堆積の特徴であった。
 しかし、3つ目の根拠である巨大な迷子石は、以上の2つの根拠よりもずっと強烈かつ重要であった(図は81ページと184ページ)。迷子石のそばの基岩にはひっかき跡があり、平らにされたり磨かれたりしており、地質学的に新しい時期に例外的な出来事があったと考えなければこのことを説明するのは難しかった。
 20年ほど前、ジェームズ・ホールはエディンバラの迷子石を津波で説明し、フォン・ブーフはアルプスからジュラに動いた迷子石を洪水で説明した。しかしこれらの例は、1820年代に実証された、スカンディナヴィア半島の岩がバルト海やドイツの平野を越えて運ばれた例に比べれば、ずっと規模の小さいものであった。1830年代にも迷子石に関する報告が相次ぎ、推測される洪水の大きさに驚きの声があがった。
 スウェーデンの地質学者、ニルス・ガブリエル・セフストレームはブロンニャールの研究成果を拡張して、迷子石の場所とそのひっかき跡の方角を描き込んだ地図を作製し、迷子石たちのひっかき跡が特定の方角を向いていることを示した。セフストレームはこの原因を、深さ500mもあったと考えられる巨大な洪水(petridelaunic flood という言葉が用いられた)で説明した。セフストレームの論文の抜粋はドイツ語と英語に翻訳され、1838年の完全出版前にヨーロッパじゅうで知られるようになった。セフストレームはpetridelaunic floodで説明できる小さめの迷子石と、他の何らかの理由で説明されるべき大きめの迷子石を区別していた。セフストレームやフォン・ブーフは、大きな迷子石を単なる洪水で説明することの難しさを認識していたのだった。泥のような濁流の洪水を想定しても、スカンディナヴィアからバルト海を越え、バルト盆地から北ドイツの平野に押し上げられた迷子石を説明できるとは思えなかった。


34.2 迷子石と氷山

 これらの洪水説の他で唯一妥当な説は、プロイセンのナチュラリストであったヴレーデが30年ほど前に唱えた、迷子石は海水面の高い時期に流氷に埋め込まれて漂流してきたのだとする説に由来していた。しかし、地質学的に新しい時期に北ドイツの平野が海に沈んだという証拠はなかったし、長年に渡って地質学者たちは流氷や氷山の役割を軽視してきた。
 ただしライエルは違っていた。ライエルは『地質学原理』の初版で、アルプス山脈の氷河が岩を積み、それが砕けたときに堰き止められた湖の中で漂流する氷山となり、やがて堰も決壊して低地に流れ出てきたのだという説明をした。1840年の第6版では氷河に関する1章を追加して、迷子石の分布は流氷や氷山の漂流とそれに続く地殻の上昇で説明できると説き、大量の実例を挙げて自説を補強した。
 地殻は上昇したり下降したりし続けるものだと思っていたライエルにとって、海水面がかつて高かったと想定することは何の問題もなかった。岩を含んだ氷山が漂流しているという報告は多くあったので、これも現在因として扱えた。氷山が非常に長い距離を漂流するということも知っていた。ライエルは、地殻の一部がほんの少し昇降しただけでも海岸線は大きく変わるはずであり、それに伴って局所的な気候も大きく変わるので、氷山が南に大量に漂流してきた時期もあったのだと考えた。しかしライエルは、低地の迷子石だけでなくアルプス山脈の迷子石にまで同じ説明を適用したので、地殻の極めて大きな上昇を仮定することになってしまった。さらに、巨礫粘土などの表層堆積物もひとまとめにして漂積物(drift)と呼ぶべきだと提案した。
 ダーウィンはライエルの説に沿った形で、地質学的に新しい時期に、スコットランドで2200フィート(670m)以上の地殻上昇があったはずだと考えた。ダーウィンはチリで1300フィートの上昇を確認していたのでこれに納得していたが、そのような地殻上昇は他に証拠が無いため、他の地質学者たちは懐疑的であった。ライエルの説明は巨大な津波や泥流による説明に比べればまだ納得できるものの、多くの問題があると考えられていた。


34.3 巨大氷河の復元

 迷子石を説明する3つ目の説は、スイスの土木技師イグナツ・ヴェネッツによる研究に端を発する。この研究でヴェネッツはモレーンなどの堆積物の分布を観察して、アルプスの氷河の範囲は歴史的に変動してきたという結論を下し、スイスの気候や氷河に関する分野の賞を1822年に受賞した。この結論は少なくともスイスじゅうの同業者には知られるようになった。そのうちの一人である地質学者のジャン・ド・シャルパンティエは、ヴェネッツとフィールドワークを重ねるうちにこの説に納得し、後に地質学新婚旅行でやって来たライエルにこの説を話した。シャルパンティエは、迷子石は荒れ狂う大洪水で説明するには規則正しすぎると言い、氷河の突端の下では基岩が滑らかになっており、そこには氷河に含まれる岩によるひっかき跡が残っていることから、迷子石は氷河の遺物なのだと主張した。シャルパンティエは、今ある氷河から遠く離れ標高も高いローヌ谷の土地でもこのような跡を発見したため、極めて巨大な氷河がかつてこの地域を覆っていたことを想定しなければならなくなった。しかしシャルパンティエは、地球は徐々に冷却されてきたという説を当然のこととして受け入れていたため、過去の気候が今よりずっと寒かったという可能性を考えもしなかった。その代わりに、アルプスの標高が今よりずっと高かったという説を採用したため、ライエルには嘲笑されてしまった。
 1833年、ヴェネッツの論文がようやく完全な形で出版されたことでシャルパンティエの自信は強まり、翌年にシャルパンティエはヴェネッツの考えを前進させた論文を発表した。しかしスイスでの反応は薄かったので、1835年に論文をパリに送ったところ、ドイツ語と英語に翻訳されてヨーロッパじゅうの地質学者の知るところとなった。シャルパンティエは極めて広い地域がかつて巨大な氷河に覆われていたことを想定しており、にわかには信じがたいだろうが観察された証拠に基づいている、ということも本に書いている。
 シャルパンティエは消えた氷河の地史学的復元と、氷河拡大の因果的・地球物理的説明をはっきり区別しており、前者はフィールドでの証拠に、後者は推測に基づいていた。アルプスが上がったり下がったりしたことは、エリー・ド・ボーモンの説に従い、地球の冷却による地殻の急上昇とその後の陥没によって説明した。
 シャルパンティエの理論はこのように、現在因に基づく部分とそうでない部分があったが、ローヌ谷のみならずアルプスの他の地域にも適用できる潜在能力があり、今まで見つかってきた他の迷子石もシャルパンティエの理論で再解釈することができた。しかし、地質学者たちがこの説を妥当とみなすかどうかはまだわからなかった。実際、この説をたとえばスカンディナヴィアの迷子石に適用するためには、スカンディナヴィア山脈がかつてアルプスより高かったと仮定しなければならず、それは有り得そうもないことであった。現代に近い時代の地史の復元は、依然として問題のままであった。

『地質学原理』の完成 Rudwick, Worlds Before Adam, Ch. 25

Martin J. S. Rudwick, Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 363-77.


Ch.25 ライエルの『地質学原理』の完成(1832-33)

25.1 ライエルの講義

 『原理』第二巻出版後の1832年の春、ライエルはキングス・カレッジ・ロンドンで講義コースを開き、地質学会の学者や教養ある人々が集まった。最初の無料講義は2回行われ、300人以上が出席したが、それ以降の有料講義を聴くためにお金を払ったのは70人も居なかった。
 講義は地殻の構造やそれを構成する岩石についての伝統的な要約から始まったが、「第一紀」は多くの異なる時代から成り立つ上に、地球の起源についての証拠を何も提供しないためその名に値しない、という非伝統的な主張もした。しかしライエルは、空間と時間、天文学と地質学のアナロジーを用いることで、彼が明らかに採用している永遠主義を、人知の限界の問題に縮小してその立場を無毒化した。いわく、我々にできることに比して創造の力はあまりに巨大なので、宇宙の果ては存在するが、我々はそれを観測できない。これと同じように、地球の始まりが存在しても、我々がそれを知り得ないのは自然なことである、というのである。さらに、ヒューウェルに従い、各生物種を造りだすのは惑星を造る以上の創造の力を必要としたはずで、地質学は天文学以上に神の御業の偉大さを示す学問だと述べた。このように自然神学的な物言いをすることで、彼は地質学を大学のイングランド教会的環境にとって口当たりの良いものにした。しかし一方ではセジウィックに従い、聖書の細々とした記述との整合性を取ろうとするのは馬鹿馬鹿しいとも述べた。
 この後、ライエルは残りの講義を『原理』最終巻の概略を説明するのに使った。まず現在因の原理を説明し、第三紀のヨーロッパを主な例として用いた。ライエルのシチリア島での調査は、フィールドワークが進むにつれ、未発見の“あいだの時代”が見つかっていくだろうことを示唆していた。このことは、岩層や化石の不連続性は、単に不完全な記録や不完全な知識に因るに過ぎないかもしれないことを意味している。化石記録が不連続に出現するのは、生物の変化が全世界的であるのに対し地層の堆積は局所的になされたためでもある。また、侵食は書物の焼失のように堆積物の記録を破壊する。ライエルはあらゆる種類の激変論を痛烈に批判した。
 また、ライエルはキュヴィエの逝去に触れ、彼の業績を称えると同時に、フランスの組織化された科学に対してイギリスの科学は政府の支援が欠けており、衰退しているという意見を述べた。
 デエーの研究が念頭にあるライエルは、第三紀の年代決定に最も適しているのは海棲の軟体動物の化石だという。この講義においてライエルは初めて公の場で、自らの地史の概略を明らかにする。彼は「沖積世」「新鮮新世」「古鮮新世」「中新世」「始新世」の時代区分を用いて第三紀の地史を描いた。化石が現代の世界と近いほど、時間的にも現代に近い時代だということになっており、このような枠組みは大洪水を否定する一方で歴史の連続性を肯定している。ライエルはシチリア島やエトナ山の例を出しつつ、第三紀の地史を詳述した。
 この講義コースはキングス・カレッジ・ロンドンで1833年にもう一度開かれるが、大学の女性禁止の方針などの影響や、内容が目新しさを失ったこともあって受講者は少なかった。一方、平行して行われた王立研究所での講義はより易しいレベルで行われ、多くの受講生を集めた。どちらの講義でも、宗教的な批判は起きなかった。ライエルの講義は、30年前のキュヴィエの講義がそうであったように、ライエル自身の『原理』第三巻の予告編となっていた。『原理』の二巻目までがよく売れていたことでライエルは自信をつけ、この後は収入源も自分の地質学の普及も、専ら本の著述業に頼るようになる。


25.2 大陸での幕間

 1832年の講義コースを終えたライエルは旅に出る。ドイツで結婚し、妻と共にスイス、北イタリア、フランスをめぐる旅程の中で、彼は大陸の学者たち(初めて会う人々も、既に知っている人々も)と交流し、またフィールドワークも行った。


25.3 ライエルの『原理』の最終巻

 ロンドンに戻ってきたライエル夫妻は新居を構えた。ライエルは収入源として『原理』の売上も気にしており、専門家でない一般の人々も読めるようにしておく必要があったため、最終巻には用語解説がつくことになった。
 この最終巻は1833年の春に出版されることになる(二つの並行した講義コースの前)。第二巻の口絵に描かれていたエトナ山の絵は第三巻の内容と関連しており、第三紀の地史と現代の世界との決定的なつながりを担っていた。最初の章からライエルは、激変論者たちを激しく攻撃した。現在因の使用が適切であることを実証するために、最終巻の目標は地史の再構成に絞られた。


25.4 ライエルの地史の方法

 最終巻の序盤は、地質学的出来事の並びを再構成する方法について書かれている。ライエルはここで第三紀に焦点を当て、彼の地質学の試験台としている。
 第三紀の盆地が局所的であるのに対し、第二紀の岩層は広く一体的であることをライエルは次のように説明している。最初、ヨーロッパの全域は海面下に沈んでおり、この時期の堆積物で第二紀の層はできた。その後、ヨーロッパは海面の上に出て、ときどき局所的に海面下に沈んだときに第三紀の層はできたのである。
 この連続的なモデルは次に、漸進的な絶滅と新種の導入の仮説に結び付けられる。海面下に沈んで化石が形成される時期はときどきしかやってこないので、第三紀の連続した地層が異なる動植物層の化石を含んでいることになるのである。ライエルは考古学的なアナロジーを持ち出して、激変は幻覚に過ぎないのだと力説する。
 次の2章分は地質学者たちが相対年代を決定するのに用いる基準に関して書かれている。化石も地層累重の法則も、確実に信頼できる証拠とはならない。しかし、海棲の軟体動物は貝殻の豊富さと保存されやすさ、そして広い分布のために、最も信頼できる化石だといえる。ライエルの方法は、特定の岩層に特徴的な化石に注目するスミス流の方法に異を唱えるものであったといえる。
 こうしてライエル流の地史の方法が示された今、最後に残った課題は第三紀の地史を詳細に再構成することであった。

地質科学における視覚言語の出現 Rudwick, The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840

Martin J. S. Rudwick, “The Emergence of Visual Language for Geological Science 1760–1840,” History of Science 14 (1976): 149–95.

1 イントロダクション
 絵や図や地図などの視覚的素材は、地質学史において実際の重要性にも関わらず軽視されてきた。このことは、科学史という学問が計算能力や言語能力を重視する教育環境において形成されてきたことと関係しているのだろう。医学史と技術史は視覚的素材を軽視しないという点で例外となっていることも、この説を裏付けている。この論文は、視覚的素材が重要な役割を果たしてきた歴史を論じることで、それらが地質学史において重視されるようになるための一助となることを目指している。
 18世紀の地質学(に相当する分野)では挿絵の使用が非常に少なかったが、1830年代にはこの状況は一変していた。地質学という学問がディシプリンとして確立したのと同じ時期に視覚言語も登場したのである。1800年前後の数十年のあいだに、アクアチント、木版画、鋼板印画、石版画などの技術が大きく発展したことが、地質学にも役割を果たしただろう。
 地図の読み方でさえも実践によって習得しなければならない技術であるように、新しい表現方法は新しい認知方法を要求する。さらに、こういった視覚的コミュニケーション方法の背後には、そのルールや慣習を暗黙のうちに承認している共同体がある。それゆえ、地質学における視覚言語の歴史的発展は、新しい科学の概念が適切に表現されるようになった過程としてだけではなく、地質科学者たちの自己意識的共同体の成長の反映としても研究する価値がある。地質学は多様な種類の視覚表現を含んでおり、科学一般における視覚コミュニケーションの発展を考える上でも有益なケース・スタディとなるだろう。


2 素材と技術
 本や記事の中に出てくる挿絵だけではなく、絵単体で流通したものなど、他にも様々な形態の視覚的素材が存在したことも忘れてはならない。そこで、18世紀の地質学の本や記事における挿絵の不足が、これらによって埋め合わされていたのかどうかという問いを立てることができる。筆者はこの問いに対する答えは否だと考えているが、今のところ推測的である。また、18世紀の「地質学者」たちは19世紀初頭の継承者と同程度の量のスケッチや図を描いていたのだろうか、という問いも立てられる。19世紀初頭の地質学者たちがフィールドスケッチを描く上でなかなかの能力を持っていたことは、当時彼らの社会階級で(特に山の景色や化石などロマンチックな対象の)絵を描くことが流行していたことと関係している。
 18世紀後半に自然史の著作の挿絵に使われたのは主に銅版画だったが、高い費用がかかったので、その使用は著者が最も重要だと考える部分に限られていた。たいていの場合唯一の挿絵は口絵であり、それは著者が本全体の要約になっていると考えるものになっていたのである。しかし、経済的な理由では説明のつかないこともある。たとえばオラス=ベネディクト・ド・ソシュールのVoyages dans les Alpes(1779-96)には挿絵が非常に少ないが、冗長に過ぎる文章を少し削れば出版費用を増やさずに挿絵を増やすことができたはずだ。18世紀末の旅行者ナチュラリストたちは、地形的な現象について視覚的認知を得ているときでも、それを殆ど言葉だけで伝えることを考えていたのではないだろうか。
 銅版画は線画には向いていたが、自然史の標本や地形を描くにはまったく不十分だった。また、ナチュラリストや画家の繊細な認知も、実際に彫刻家が彫るものの中には伝わらなかった。版画は本文とは別に刷られるため、本の最後か製本者の都合の良い場所に挿入されてしまうという問題もあった。19世紀初めに台頭するアクアチントは地形の描写に適していたが、同じ問題を抱えていた。
 それに比べて、石版画の発明は自然史科学にずっと大きな影響をもたらした。石版画は彫刻家を必要とせず、段階的な濃淡などをずっと正確に描くことができた。しかし石版画もすぐには広まらず、科学的な目的で広く使われるようになるのは1820年代になってからであった。ロンドン地質学会の紀要は、旧シリーズの最後の巻(1821)ではすべて彫刻術による挿絵が使われていたが、新シリーズの最初の巻(1824)からは大部分が石版画で刷られるようになり、彫刻術の3分の1の費用で高い品質の挿絵を載せるようになった。しかし、他の地質学研究関係の定期刊行物は依然として専ら彫刻術を使っていた。
 銅版画の銅に代えて鉄を用いる鋼板印画の貢献はこれに比べると小さかったが、彫刻術の利点を活かすことができ、少ない挿絵を安く大量に刷るのには適していた。ライエルの『地質学原理』の口絵も鋼板印画によるものだった。
 この時代の最後の技術革新は木版画の発展であった。木版画はその繊細さでは石版画に劣るものの、小さな線画などに適しており、また普通のゲラに組み込んで本文と同じページに載せることができた。木版画も普及に時間を要したが、これは地質学者たちというより出版者たちの態度の問題であったようだ。『地質学原理』の第1巻(1830)と第3巻(1833)、デ・ラ・ビーチの1831年の著作と1835年の著作を比べると、それぞれ前者に比べて後者で木版画の使用が急増しており、この頃から地質学関係の安めの本で木版画が普及していく。
 非常に重要なことに、はじめての地質学専門の定期刊行物であるロンドン地質学会の紀要は1811年の発行開始当初から、彫刻術の高い費用にも関わらず挿絵を豊富に使っていた。学会の指導的メンバーに視覚的コミュニケーションの重要性を認識していた人物が居たと考えられる。

(copper engraving=銅版画、steel engraving=鋼板印画、lithograph=石版画、wood engraving=木版画、と訳しました。石版画のみ、engravingではない。)


3 地質図
 現代の地質学に慣れた人間は見落としてしまいがちだが、地質図はとても複雑で抽象的で形式化された表現である。地質学史家たちは地質図の重要性を強調する点で正しいが、筆者はそれが視覚言語という側面から研究されるべきことを示したい。歴史に関心のあった古い世代の地質学者たちは、地質図の発明者が誰かという論争に労を費やしたが、筆者はそういった「激変説」的なヒストリオグラフィーを、もっと「斉一説」的なもので置き換えてみたい。
 かつて地図作成法の制約は、複雑で抽象的な地質学的情報のやり取りを大きく阻害していたと言える。たとえば、Carte minéralogique de la France(1780)は街や村や川の流れの情報は詳細に描けているが、地形については外形がケバ線で描かれているのみであり、これは地形を誤解させる描写方法である。この時代の地図の貧弱さは、当時の旅行者ナチュラリストたちの視覚コミュニケーションに対する態度を反映しているのだろう。
 地質図的情報が描かれた初期の地図のすべては、採鉱や実用目的の調査と関係していた。現代の地質図につながる系譜を追うなら、その出発点はAtlas et Description minéralogique de la France(1780)であろう。この地図ではスポット・シンボルを用いて、採石場や鉱床、岩石の露出部など、様々な鉱物が見つかった場所を大量に示している。これは下に横たわる基岩の一様さを示そうとしたものではないが、結果として単なる分布図には留まらなくなっている。シャルパンティエ(Johann Friedrich Wilhelm Charpentier)のMineralogische Geographie der Chursächsischen Lande(1778)はこれと同じ慣例に基づいているとみなされるべきだが、水性塗料でスポット・シンボルの散乱を補足しており、スポット・シンボルのあいだの地域の土壌や植物の下には関連する岩があるはずだという、暗黙の信念があったことを示すものである。
 キュヴィエとブロンニャールのCarte géognostique(1811)はこの慣例が発展したものとして捉えられる。スポット・シンボルは捨て去られ、地図に塗られた色は地下の三次元的構造を暗示的に指し示している。おそらくはこれと独立して、英国のウィリアム・スミスも三次元的構造を二次元の地図に描く巧妙な方法を作っていた(1815)。ロンドン地質学会の創立メンバーの一人であるジョージ・グリーノウが1920年に発表した地図は、経験主義的に過ぎたため概念的には時代遅れになっていたが、スミスの地図と共に他の地質学者たちの原資料となった。しかし、1815年以降の地図のめざましい進歩の中では、スミスではなくキュヴィエやブロンニャールに由来する慣例が使われていた。トーマス・ウェブスターが1814年から発表し始めた地図はキュヴィエの慣例に基づくもので、ウィリアム・コニベアやジョン・マカロックもこれに続いた。こうしてフランス式の慣例が英国でも採用され、地質学の標準的視覚言語として国際的に理解されるようになったのである。
 ニコラス・デマレが描いたオーベルニュの火山岩の地図(1779)は、18世紀の地図の「分布的」な意図を越えている点でユニークであった。この地図作成法上の例外は、デマレのねらい(歴史的に火山活動が相次いできたという証拠を示そうとした)が特異であったことと関係しているのだろう。19世紀初頭には、地質図や地質図断面図が可能にした新しい構造認識的な目標が、今度は因果的時間的説明によって超越されていくことになる。ここに至ってデマレの地図のような、理論的なテーマを持った地図が多く出現することになるのである。


4 地質断面図
 地質断面図も地質図と同じく、率直な観察とはかけ離れた視覚言語であり、それゆえ特定の歴史的環境で構築されなければならなかった。実際、1920年代より前の時代では地質断面図は非常に少ない。科学自体が自己意識的なディシプリンとなった時代にはじめて、地質断面図は地質学の視覚的レパートリーの標準的一部分になったのである。
 初期の断面図は二つの遠く離れた文脈で発見される。地質学的情報を持つ18世紀の断面図の殆どは、鉱物地理学の文脈で出てくる。これらは円柱型の簡単な図で、特定の場所についてのものもあれば、その地域全体の地層の順番を一般化して表現したものもある。しかしこれらはスポット・シンボルにより伝えられる情報を拡張した程度のものに過ぎない。また、初期の横に広がる断面図の殆どは、実際の採鉱の文脈から出てきたものだった。1809年以降には、褶曲や断層などの構造的複雑性を故意に省略した円柱型断面図が登場するが、これは概念的にきわめて大きな意義のある達成である。1830年までにはこういった断面図の潜在能力が認知され、異なる地域の円柱図が並列される図が出てくるに至るが、これは層序学に不可欠な相関図の起源といえる。
 もう一つの文脈は、宇宙起源論の理論を描いた図である。17世紀の例としては、ニコラウス・ステノ、アタナシウス・キルヒャーなどが図を描いている。18世紀になると、経験的な地層断面図と結び付いた宇宙起源論も出てくるようになる。たとえばジョン・ホワイトハーストのOriginal state and formation of the earth(1778)では、各地層が平行になって傾いているという理論的仮定に従い、限られた地表の証拠から推定したダービーシャーの地質断面図が描かれている。ジョン・ファレイの地質断面図もよく似ており、この二人の地質断面図は製図の影響を受けていることが覗える。ウィリアム・スミスのSections(1817-19)は同僚であったファレイとほぼ同じスタイルで描かれている。以上の英国での地質断面図の伝統が示すように、地質学の複雑な現象を解釈する構造的アプローチは、実用的な採鉱や鉱物調査といった社会的文脈において、工学的実務に関わっていた人物によっていち早くなされたことがわかる。
 しかし同様の構造的志向は、異なる文化的背景からも出現した。パリ地域の地質についてのキュヴィエとブロンニャールの業績の中にも、横断型の地質断面図が含まれていた。キュヴィエとブロンニャールの地質断面図の慣例はすぐにロンドン地質学会に採用され、メンバーたちもスミスやファレイの業績ではなく、方法論的に優れたフランスの業績を手本とするようになった。1830年代初頭までに、横断型の地質断面図は地質学の視覚言語の一部としてどこででも確立されるようになった。1830年にデ・ラ・ビーチは、地質断面図を鉛直方向に引き延ばすことの危険を指摘してもいる。
 1830年頃以降、ブロンニャール、バックランド、ライエルなどによって、様々な理論的あるいは「理想的」地質断面図が出版されていく。これらは全て横断型地質断面図の慣例を踏まえていながらも、地殻の「理想的」部分を表現し、異なる岩石間の関係やその時間的・因果的説明を描いていた。
 エリー・ド・ボーモンがRévolution de la surface du globe(1929-30)で使っている地質断面図は、水平方向が地質学的なタイムスケールも表現しており、彼の理論を説明している。地質断面図という表現方法の柔軟性を示す例といえよう。


5 風景画
 18世紀当時の「地質学」分野の本や記事の挿絵は、標本の絵を除くとほとんどが特定の地域の風景を描いたものであったが、これらは少数の例外を除くと粗雑なものであった。ここには、当時の美術的伝統の様式上の限界や、地質学的興味の対象が美術にとって馴染みの薄いものであったことが関係している。
 地形学的視覚言語の伝統の源は、社会的な地位は低い、記録資料的な地形画の伝統にあった。この伝統には、航海に付き従った画家ナチュラリストたちや、貴族の土地や大邸宅を描いたり本を売ったりして稼ぐ地形画家たち、軍の調査や航海図に付属する地形画の描き方を教えていた人々などが属していた。この伝統が地質学に果たした重要性は、19世紀初頭の地質学的業績に載せられた挿絵のいくらかから察することができる。たとえば、地質学的に有益なウィリアム・ダニエルの絵や、ロンドン地質学会の公式製図者となったトーマス・ウェブスターの絵も、当時の航海図を補足していた海岸の崖の風景画と多くの類似点を持っている。
 1820年までに、正確な風景画の地質学的使用はごく普通のことになった。記録資料的地形画の伝統の写実主義的な性格は、ロンドン地質学会の初期のメンバーたちの経験主義的理念に訴えるところがあったようだ。
 しかしどんなに無害な「記録資料的」風景画でも、ある種の理論的内容を内包することは避けられなかった。そして19世紀初頭の地質学的風景画では、それまで暗黙のうちに潜んでいた理論的内容がより明示的に表れはじめた。海岸の崖の風景画は特によく描かれていたが、構造的特徴が強調されるようになり、偶発的な特徴は単純化され、色使いも見たままの色というより、岩の種類に従った慣例的な色が使われるようになっていった。このような形式化が進んだことで、海岸の崖の風景画はときには地質断面図と見分けがつかないようなものにさえなっていた。海岸の崖の風景画は、形式化されていたとはいえ、推測的な外挿を必要とする地質断面図に比べれば直接的観察に近かった。そのため、形式化された海岸の崖の風景画は、横断型地質断面図が受け入れられ、まだ見ぬ実体の妥当な表現として信用されるようになるための概念的橋渡しの役割を果たした。
 このような地質学的地形画の慣例は、崖などを含まない普通の風景画にも拡張されていった。たとえばスクロープは、Memoir on the geology of central France(1827)で慣例的な色使いなどを用い、鮮烈な印象を与える死火山の火口や溶岩流などを描いた。スクロープはさらに地形画の慣例を抽象的で理論的な方向に発展させ、理想化された溶岩流の風景などを描き、言葉による結論を視覚的に補完した。この影響をすぐに受けたライエルは、『地質学原理』の口絵でスクロープの技術を用いている。
 しかし、このような形式化された地質学的風景画はその後あまり用いられなくなった。おそらくは、この頃には幅広い読者が、地質図や地質断面図などのさらに形式化された視覚言語を読めるようになっていたからであろう。


6 結論
 18世紀末から19世紀初頭の「地質学」的著作における挿絵の質的・量的発展は、部分的には経済的・技術的な言葉で説明可能だが、また一方では、自己意識的な新しい科学の発展と平行する、新しい種類の視覚的表現の発展を反映してもいる。宇宙論、鉱物学、自然史、採鉱など、様々な分野の伝統が総合され、知的目標と組織を得た。しかしこの複雑な歴史的過程の本質的要素は視覚言語の形成にあった。
 地質学の視覚的表現は、多様な社会的・認識的な源に由来する。それらは抽象化と形式化の中で発展し、ますます理論的な意味を持つようになっていった。筆者が作った図25は、地質学における視覚言語の相互関係と発展を表現したものだ。
 筆者が分析した視覚的コミュニケーションが言葉の形に還元できるかどうか問うことは不毛で、歴史家は新しい科学としての地質学の登場において視覚言語が決定的な特徴であったことに注意すれば十分だ。その重要性を覆い隠しているのは、科学史の非視覚的な伝統だけなのである。

2013年5月22日

『植物の変異と進化』第2章 Stebbins, Variation and Evolution in Plants, Ch. 2

Variations and Evolution in Plants (Biological)Variations and Evolution in Plants (Biological)
George Stebbins

Columbia Univ Pr 1950-06
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久々の更新。少し前に書きためていたものです。かなり読みにくい日本語になっています……


G. Ledyard Stebbins, Jr., Variation and Evolution in Plants (New York: Columbia University Press, 1950), 42-71
Ch. 2 Examples of Variation Patterns within Species and Genera


2章 種内・属内での変異パターンの例

 進化の個々の要因について考える前に、変異のパターンについて検討しよう。変異のパターンには、①種内のレベル、②種より大きいレベル、という2つのレベルがある。この2つのレベルを分けるのは、変異が連続的または部分的にだけ不連続的であるかそうでないか、隔離機構が鋭い不連続を形作っているかそうでないか、といった点である。

☆生態型の概念
 種内での変異のタイプは規則性をもち、特に生態学的状況への適応との関係性をもつ。そのため、近年では生態型の概念に注目が集まっている。チューレソンによれば、生態型は「生態種や種の遺伝子型の、特定の生息地に対する応答によって生じた産物」であり、ありふれた広く分布する種で特に多くみられるという。Clausen, Keck, and Hiesey(以下C・K・H)もこれを北米で確かめた。多くの研究者は、同種内の変異は生息地の違いと関係していると考えている。ここで、①どのくらいまで異なる生物型が異なる生態型として区別されるのか、②生態型と多型種(あるいはRassenkreise、動物学で発展)の関係は何か、という疑問が生じてくる。生態型がどれほどはっきりしたものかについては議論があるが、植物でも動物と同じように多くの種が、それぞれの生態学的環境に適応した遺伝子型のグループに分けられることは間違いないし、それらは部分的な不連続によって分かたれる。しかし広く分布する種はたいてい相当な数の生態型をもち、連続的になるため別個の生態型を認識することが難しい。

☆生態型的・クライン的変異
 それゆえ、種内の多くの変異はハクスリーが定義した「補助的分類学原理」を用いて「クライン」として描ける。クラインは植物ではよく見られるが、形質の組み合わせを扱い、形質の相関や不連続を探ることを目標にしているシステマティクスの普通の方法では、クラインを明らかにできそうにない。クラインの例は、Langlet、C・K・H、Olmstead、Böcherなどの研究に見られる。
 種内変異をクラインで扱う方法は、レースや亜種といった概念を用いる方法に比べて、個々の形質を扱って選択などの原因を分析できる点や、連続的な量的形質を扱える点などが長所である反面、広い調査を行った後でないとクラインが認識できない点、選択は形質の組み合わせにかかるので勾配を強調しすぎると変異の全体像を見失う点などの短所もある。
 クラインと亜種の関係性はクラインの形質次第である。クラインが連続的であればそのクラインを形成する形質は区分の基礎となることができないが、クラインがある地域で急勾配となるようなタイプであればできる。連続的でむらのない気候・生育環境ではクライン的な生態型が優勢であるが、不連続的で多様な気候・生育環境は分化を促しはっきり区分できる生態型が形成される。チューレソンが指摘したように、他家受粉、特に温帯の風媒受粉の植物では、連続的な遺伝的変異が見られる。交配集団が大きく、巨大な遺伝的変異の貯蓄の中から選択が行われるので、植物はその地域の環境に密接に適応し、環境の連続・不連続性をはっきり反映する。一方、近くの個体との受粉、特に自家受粉を多く行う植物では、コロニー内で一体性、コロニー間でははっきりとした違いを示す生態型となる傾向がある。クラインと生態型は相互に排他的な概念なのではなく、同じ問題にアプローチする異なる方法であるといえる。クライン的変異は適応を決定する形質に存在し、それゆえ生態型の基礎を形成することもあるが、特に明らかな適応価のない形質にも見られる。対応して、生態型的変異は複数のクラインによって形成されることがある。Gregorが強調したように、どちらのアプローチも種内の変異を理解するのに助けとなる。

☆生態型と亜種
 生態型の概念と、多型種(Rassenkreise)は2つの点で異なる。まず、①亜種はおもに見分けがつく違いに基づくが、生態型は環境への応答に基づいて区別され、はっきりした形態上の違いをもたないことがある。C・K・Hによると、亜種は1つまたはいくつかの生態型で構成されている。生態型は、環境による変形のために、同じ環境に移さないと判別できないことがある。環境による変形は動物では植物より少ないので、動物学者たちはシステマティクスの術語以外に遺伝生態学のタームを使う必要がなかった。次に、②生態型は生態学敵、適応的概念だが、亜種は形態学的、地理的、歴史的な概念である。地理的地域がそれぞれ違った生態学的状況をもつ限り、生態型は亜種に等しい。一つの亜種は一つの共通の起源を持ち地理的に連続して分布するが、生態型はそうとは限らない(チューレソンの調査地図)。生態型概念の定義については議論も多い。

☆種や属のレベルでの変異
 種のレベルを含む変異では、集団や集団システムの間に大きな生理学的/遺伝学的障壁をもち、変異のパターンはその障壁の大きさや集団の多様性の大きさに依存する。何人かの植物学者たちは、種や種のグループを隔離機構の発達度で特徴づける術語を作ってきた。チューレソンのecospeciesは稔性や活力を損なわずに交配できるシステムで、ほぼ分類学の種に一致する。チューレソンのcenospeciesはなんとか稔性を残して交配できる範囲のecospeciesから構成されている。Danserのcompariumは、直接あるいは仲介を通して交配できる範囲のcenospeciesから成り、これは属の大きさに近い。集団内の遺伝的多様性、不連続性は集団次第で様々である。

☆キンポウゲ科内でのパターン
☆キジムシロ属内での変異パターン
☆カシ属
☆キク科内でのパターン
☆イネ科
種の境界は、標本の研究だけではなく、交配の実験を体系的に行った後でないとわからない。これらのパートでは、実際にいくつかの科や属について、先行研究を数多く引用しながら、また、ここまでで紹介した概念等を用いながら考察を行う。

☆一般的結論
 ここで調査したうち、4つの属・亜属の中では、均質か、変異があっても多型ではない種が大部分であった。しかしいくらかの種は地理的に隔てられた亜種をもっていた。またおおおよそこれらの属では、遺伝的多様性は同一の環境で育てた場合に区別できる変異の形で存在するので、これらはチューレソンの意味での生態型であるが、地理的な広がりの中で形態的な違いを区別できるわけではないので亜種ではない。一般に認められた種は、生殖的隔離の障壁によって常に隔てられており、これら障壁は様々であるが、F1世代の交配における花粉や種子の部分的または完全な不稔がもっとも一般的である。
 残りの6つの属は、多型種と均質な種を同程度の割合でもっている。温和な地域の木の属は、種が広く分布しており多型であるだけでなく、分布地域がほぼ完全に一致している種のあいだで稔性のあるF1世代を形成するという特徴があり、最も発達している隔離機構は生態学的なものだ。
 これらの例からいえることは、あるグループで発展した、種に関する基準を、無批判に他のグループに当てはめてはいけないということである。グループ間で生活の様態が大きく異なっている場合はなおさらであり、このことは特に植物学者によって認められた種を動物学者が再解釈する試みや、植物学者が彼らの種の基準を動物に用いようとする試みについていえる。進化やシステマティクスの一般的原理は、可能な限り異なったグループの植物や動物についての幅広い知識に基づかなければいけない。

2013年4月23日

ボウラー『進化思想の歴史』、第1章~第3章

ピーター・J・ボウラー『進化思想の歴史(上)』鈴木善次ほか訳、朝日新聞社、1987年、11-147ページ。

ボウラー『進化思想の歴史』を改めてしっかり読んでまとめていこうと思います。


1 進化の観念――その広がりと意味
 生物進化論は、中世キリスト教世界観に挑戦する、地球の過去に関する研究の一部に過ぎない。これらの研究による新しい世界観は、①時間的尺度の拡大、②変化する宇宙という考え、③デザイン論の排除、④奇跡の排除、⑤自然の中への人間の包含、といった論点に特徴づけられる。進化論の内部では、自然的過程の作用の仕方について、①定常的状態―発展、②進化の内的支配―外的支配、③連続性―不連続性、といった対立点がある。

2 地球に関する初期の理論
 17世紀に現れた新しい宇宙論は、地球の起源について考える枠組みを与えた。アリストテレスの議論では地球と天球は根本的に異なっているため、一方が一方を生み出すなどと考えることは不可能だったが、力学的哲学によれば物質は宇宙のどこでも共通しているため、それが可能となった。ノアの洪水などの『創世記』の出来事を物理学的に説明しようとするトマス・バーネットやウィリアム・ウィストンらの議論は、全知の神はすべての歴史を見通して世界を設計することができるので、いったん宇宙を造ったあとには世界に気を配る必要がないという考えにつながり、自然神学への第一歩となった。
 ナチュラリストたちが化石は生き物であったと確信するようになると、堆積岩がどのように陸地になったのかが問題となった。18世紀の地球理論でも中心的課題となるこの問題に対し、ドゥ・マイエは『テリアムド』で海洋後退説を唱え、一方ニコラウス・ステノやロバート・フック、ジョン・レイは隆起による説明をした。いずれにせよ、地球の年齢を数千年と想定する以上、過去における変化は現在のそれよりはるかに大きな規模であったと考えざるを得ず、激変説の歴史観が導入された。
 ニュートン主義科学は、地球の起源に関する仮説に基礎を与え、ビュフォンの彗星による説明や、カントやラ・プラスの星雲説が生まれた。
 堆積岩が陸地になる経緯について、ベヌワ・ドゥ・マイエとビュフォンは水成説(ネプチューニズム)および海洋後退説の立場をとった。ウェルナーも火山活動や地震の役割を軽視して水成説の立場をとり、鉱物分類体系と結びつけた。フランス革命以降のイギリスの保守的な風潮も影響して、ジャン・アンドレ・デリュックら後期の水成論者によって、ウェルナーの理論は聖書地質学と関わるようになった。一方、火成説(バルカニズム)ではハットンが初めて包括的な理論を構成し、火成説を定常状態という世界観と結びつけた。ハットンの説は地球の歴史を非常に古いものだと考えたため、デリュックなどから宗教上の攻撃を受けた。

3 啓蒙時代の進化論
 18世紀の地質学上の発見は、創造の物語に対する疑問を投げかけた。唯物論者は宗教攻撃を強め、生物の形態の変化を説明する理論が登場した。こういった理論は表面的には現代進化論に類似していたが、18世紀末には他の啓蒙思想の多くと共に消滅していくことになる。
 17世紀後半のナチュラリストたちは、自然界を研究することでそれぞれの種が神の創造物だという信念を補強するだろうと考えており、彼らの議論には、デザイン論、種間関係には存在の連鎖のような構造があること、種のグループ分けをすること、などの特徴があった。
 リンネは、新種の形成はあくまでも雑種化によるものだと主張しており、これは自然界の変化は創造に由来する既存の秩序の中の位置を占めることに他ならないという考えと調和していた。ミッシェル・フーコーによれば、18世紀には生物の体系を開かれたもの(オープン・エンド)として考える理論は現れず、キュビエの分類体系がようやく自然界の固定した秩序という考えを打ち破り、生命の多様性には限界が無いと考えることを可能にした。
 18世紀唯物論者のナチュラリストたちの、生命の起源を創造の代わりに自然法則で説明しようとする理論は、ハーヴィの説いたような(機械論哲学の保守的立場である)先在胚種説(前成説)への対立理論として登場した。胚種の代わりに、各生物個体は物理的な力によって形成されるとしたことで、唯物論者たちは種が固定している保証はないと考えることができた。シャルル・ボネやJ・B・ロビネは、胚種説を存在の連鎖の概念と一体化させ、さらに存在の連鎖を時間化して静的なものから前進的なものにした。
 しかし18世紀には探検によって新しい種が大量にもたらされ、ナチュラリストたちは、生物を存在の連鎖のように一直線に配列することは不可能だと確信するようになっていった。神が意味ある秩序に従って種を創造したという信念に基づき、リンネはそれを明らかにする最初の段階として人為的体系をつくった。リンネによれば、神は一つの属につき一つの種だけを創造したのであり、他の種は主に雑種形成によってつくられる。
 生命の起源を唯物論的に説明しようとする試みは、まずドゥ・マイエの『テリアムド』によって行われ、生命は宇宙のいたるところに存在する胚種から生まれること、あるとき水生生物から対応する陸上生物に変化することなどを説いた。モーペルテュイは『生身のヴィーナス』で胚種説を批判し、『自然の体系』で自然発生説を唱えたが、物質が生命をもった構造をとることを説明するために、粒子が記憶や意思をもつという奇妙な結論に至ってしまった。ジョン・ターバーヴィル・ニーダムと行った実験で密閉加熱したフラスコから微生物の発生を確認したビュフォンも同じく自然発生説をとったが、この問題に対しては「内的鋳型」の概念を導入して説明した。ビュフォンによれば、内的鋳型は宇宙の不変の特徴であるが、造物主の設計によるものである証拠はない。ビュフォンはやがて、近縁の種は共通の祖先に由来するのであり、移住した地域の外的諸条件によって様々に分化したのだと主張するようになった。
 啓蒙期の無神論唯物論者たちは、デザイン論や固定した種の考えを強く批判し、自然自体を本質的に創造的なものだと考えた。ラ・メトリは淡水ヒドラの能力にひきつけられ『人間機械論』を著したが、生命の起源については先在胚種説を離れられなかった。ドニ・ディドロやドルバック男爵は生命の自然発生の過程を開放的なものとして捉え、決められた種の形態しかとることができないというビュフォンの考えから脱却した。
 エラズマス・ダーウィンは詩や『ズーノミア』の中で、神のデザインに由来する生物が、努力の過程で器官を発達させていく進化論を説いた。ラマルクは啓蒙期の唯物論に影響を受けた理論を構築したが、理論を総合した時期には比較解剖学の発展やナポレオン時代の保守的思潮のために啓蒙期の思弁的唯物論は廃れており、またキュビエの策動もあったため、ラマルクの理論を受け継いだ人物は居なかった。