2014年7月27日

神からのサインと気象学 Vermij, “A Science of Signs”

Rienk Vermij, “A Science of Signs. Aristotelian Meteorology in Reformation Germany,” Early Science and Medicine 15 (2010): 648–674.

ヒロ・ヒライ先生の集中講義で担当した論文です。




0. イントロダクション
・ ルターの宗教改革に続く、ヴィッテンベルク大学のカリキュラム改革について。
・ 先行研究:ルターにとって、大学教育を支配してきたアリストテレス哲学は受け入れられないものだった。それゆえルターの神学改革は、自然哲学の総点検と密接に関連しながら進んだ。アリストテレス哲学は、ルター派のメランヒトンが考案した新しい解釈によって、ルターの宗教的原理に適応した。
・ では、ルターはなぜアリストテレスの自然学に反対したのか?
・ 先行研究:① アリストテレス哲学における、「世界は永遠である」「人の霊魂は消滅する」といった主張が、聖書に反していたから
       ② ルターは、道具的目的にかなう範囲では自然的説明を受け入れていたが、哲学は物事の本質について確かな説明をしないと考えていたから
・ どちらも十分な説明とは言い難い。アリストテレスの理論とキリスト教の教義の食い違いはずっと前から知られており、この頃までには一定の解決が見出されていた。しかも、ルターはアリストテレス哲学を、スコラ哲学ほどには拒絶していなかった。先行研究はこのことを説明できない。
・ 核心は別のところにある。16世紀の信心深い思想家は、えてして現代の神学者や哲学者が想像するのとは全く異なった考慮に導かれているものである。
・ それはアリストテレスの『気象論』である。ルターはこの本を、すべてのことが自然的要因で起きるという想定に基づいているという理由であざける記述を複数残している。これらの記述は、彼がなぜ自然学的説明を危険視したのかについての重要な手掛かりである。しかるに、現代の研究者はこれらの記述を無視してきた。
・ ルターが気にしていたのは、抽象的な原理ではなく、神からの「サイン」についての解釈だった。彗星、オーロラ、奇形児の誕生、自然災害、そういったものは当時、宗教的経験の重要な要素であった。これらのサインは、社会や自然の異常や、世界の終わりが近いことを示していると解釈された。そしてルターらの改革派にとって、神は天界からこれらのサインを通して現状のカトリック教会への不同意を表明しているはずだった。
・ この論文では、ヴィッテンベルク大学における自然哲学の改革が、大部分でサインへの関心に基づくものだったことを示す。


1. 気象学
・ アリストテレスは『気象論』のなかで、地球上の様々な現象を蒸気や太陽の影響などで説明していた。そして中世から初期近代の気象学は、つまるところ『気象論』を解釈する学問であった。アリストテレス哲学の受容が進むに伴って、神学者たちは徐々に、世界のすべての出来事を自然的要因で説明できると考えるようになっていった。
・ ルターの時代における気象学の伝統は、超自然的なサインが存在するという信念に直接的に反対するものとなっていた。気象学は、驚くべき現象を否定するのではなく、自然的要因で説明することによって脱神秘化していた。神が世界に積極的に干渉し続けていると信じるルターにとって、アリストテレス気象学は危険な研究分野であった。


2. 驚異の研究
・ 16世紀には、驚異的な出来事に関する記録を集め、昔ながらのパターンに基づいてその意味を解釈することがひとつの研究分野となっていた。
・ 特にルター派にとって、サインを知的な枠組みのなかに位置づけることは重要問題であった。メランヒトンの親友であった文献学者カメラリウスは、過去の彗星とその後の出来事についてのリストを作り、彗星は災害を知らせるものだと解釈した。メランヒトンの娘婿かつ友人であったヴィッテンベルク大学教授のポイツァーは、占いについての本を著した。ポイツァーは、自然に従うふつうの現象と、神や天使や悪魔などの高次の力による現象を区別した。たとえば最終章でポイツァーは、奇形などの逸脱は単なる自然の突然変異であるというアリストテレス流の考えを否定し、より高次の原因があるのだと主張している。また、別の章では流星について、意味をもたないものと、意味をもつ(差し迫った危機を示す)ものを区別している。


3. カリキュラムのなかの気象学
・ ヴィッテンベルク大学での自然哲学のカリキュラム改革において、気象学の改革ははじめから主要な位置を占めていた。
・ はじめのうちは、アリストテレスの本が用いられなくなった。代替としては、詩人ポンターノの詩や、古代ローマのプリニウスの博物誌が用いられた。プリニウスの著作が代替に選ばれたのは、幻影や前触れなど奇跡的出来事を多く登場させており、すべてのことを自然的要因から説明しようとしていなかったからだと考えられる。
・ 16世紀の中頃になると、アリストテレスに新しい解釈を加えることによって、アリストテレスの著作に基づいたカリキュラムを復活させるようになった。メランヒトンが1549年に出版した教科書では気象学はあまり論じられなかったが、その後べつの著者たちによる気象学を中心とした教科書が何冊も出版された。
・  ヴィッテンベルク大学のみならず、他のルター派の大学もそれぞれ気象学の教科書を出版していた。これらの教科書は全体構成や議論内容に関して互いによく似ており、また、ポンターノやプリニウスを頻繁に引用するなど、ヴィッテンベルク大学の伝統を引き継いだものであった。
・ これらの教科書はアリストテレスにならっていたが、一方で改革も行っていた。たとえば、アリストテレスの四原因説に関して、かつての『気象論』の解説書は目的因を入れ替えたり隠したりしていたのに対し、新しい教科書では目的因が非常に強調された。目的因はさらに、自然学的なものと神学的なものに分類されることもあった。


4. 神の行為?
・ ルター派の著者たちは、すべての現象が自然的要因から生じるわけではなく、神によって直接的に引き起こされることもあることを強調した。また、どの現象が自然的で、どの現象がそうでないかを論じた。
・ ルター派の教科書は、自然的要因では説明できない現象が観察されているということを強調し、神によるサインとして解釈した。たとえば、空に何らかのイメージがあらわれるという現象である。このような現象は、かつての気象学の解説書で扱われていなかったため、ルター派の著者たちが自由に解釈することができた。
・ それでも、ルター派の著者たちはスコラ学の伝統のなかにあり、過去に自然的な説明をした学者がいる場合にはそれを無視することはできなかった。たとえば、カエルや魚などの雨が降ってくるという現象では、自然的な説明が既に論じられてきていた。そこでルター派の著者たちは、自然的な説明と、神の意図による説明を併記することになった。


5. 結論
・ Leppinは、天界からのサインについて議論したルター派の人々は二つのグループに分かれることを示唆している。片方は自然的な説明を行い、神を自然から閉め出す哲学的・人文主義的な著者たちで、もう片方は、神が自然に干渉するのだと考える聖書重視の著者たちであるという。Leppinによれば、この状況は「世界観の競争」であった。
・ しかしこのような区別は擁護できない。二つの立場による矛盾は、著者たちのあいだというよりも、それぞれの著作のなか(あるいは著者個人の心のなか)にあった。
・ ヴィッテンベルク大学における自然哲学の改革は、自然主義的な哲学を反自然主義的な原理と調和させようとする試みであった。この難しい調和の試みでは、異種の出典や議論を都合よく取り集める、ごちゃまぜに近い手法が用いられており、議論の全体を首尾一貫させるには至らなかった。

2014年4月24日

伝記:エドガー・アンダーソン Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969)”

G. Ledyard Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969),” Biographical Memoirs of the National Academy of Sciences 49 (1978): 3–23.

 アンダーソンは20世紀の植物科学に消えることのない印象を残した。集団における変異を記録する彼の手法は広く普及した。また、ボストンのハーバード大学アーノルド植物園およびセントルイスのミズーリ植物園のスタッフとして、植物を愛する様々な人々や庭師たちとの交流をもった。
 ニューヨークに生まれ、ミシガンで育ったアンダーソンは16歳でミシガン農科大学に入学し、園芸学を専攻した。1919年にはボストンに向かい、ハーバード大学のバッセイ研究所の大学院生としてエドワード・イーストの下で働いた。アンダーソンはタバコの自家不和合性についての遺伝学を研究する一方で、田舎を歩いて野生の植物についても学んでいた。植物学者のDorothy Mooreと出会い、1923年に結婚した。
 1922年に博士号を取得してハーバード大学を離れ、9年間をミズーリ植物園で過ごした。このあいだに、植物集団の変異を見て記録する独創的で効果的な手法を開発していた。またこの時期に、植物の属の複雑性と変異の大きさを意識するようになっていた。Iris versicolorについての研究で、この種が実際は2つの種から成り立っていることを発見し、片方がもう片方から進化してきた過程を分析しようとした。しかしどちらの種の中にも、もう片方の種に進化したと想像できる集団は見出だせなかった。そこでアンダーソンは片方の種がまったく別の種から、不稔で安定した何世代にも渡って同じ特徴を示す複二倍体を生み出す染色体倍加に続く雑種形成によって進化したのだと結論づけた。これは、植物の種が染色体倍加に続く(あるいは伴う)雑種形成によって進化できるのだということを示した最初の実証の一つだった。
 別に調査していたAster anomalusはまったく異なる変異パターンを示しており、単一集団の中に種全体と同じほどの豊富な変異を保持していた。アンダーソンは実験によってこれらの変異の大部分が表現型の変化によるものであることを示したが、繁殖特性は豊富な遺伝子型変異を示し、しかも遺伝子型変異のわりには表現型変異が少なかった。さらに個体はヘテロ接合性が高く、自然受粉によるその子孫は種全体と同程度の幅の変異を示した。アンダーソンは自然集団における遺伝的変異の研究の先駆者であったといえる。
 1929年から30年にかけて、特別研究員としてイングランドに向かい、主にホールデンに指導されつつ、ダーリントンの下で細胞学を、フィッシャーとともに統計学を学んだ。ホールデンに紹介されたPrimula sinensisの変異体について、Dorothea De Wintonと共に分析した。
 1931年から35年までは、アーノルド植物園の樹木管理士としてハーバードに留まった。この時期、Karl Saxと共同で多くの重要な研究を行った。Saxはアンダーソンに、種の起源における染色体変異の重要性を気付かせていた。TradescentiaについてのSaxとの共同研究は、アンダーソンの2つの最大の貢献、すなわち遺伝子移入の概念と、 “hybridization of the habitat” の概念に導いた。
 1935年にミズーリ植物園に戻ってからは、以降の人生をそこで過ごした。Tradescentiaの研究では、環境の物理的条件に関して集団の変異パターンを記録し、また2つの異なる種の同所的出現を記録した。異なる生体適応をもっている2つの種が中間的生息地なしに近くで成長するときはいつでも、2つの種ははっきりと隔たっている。しかし、もし中間的生息地があれば、しばしば見かけ上の雑種に占領される。もし中間的生息地が、元の2つの種のどちらかの生息地に特徴的なものに次第に変化すれば、見かけ上の戻し交配した植物が見つかる。さらに、部分的に異所性の種の場合、種Aの変異パターンは、それ自体が育った地域より、種Bと重なった地域において大きい。アンダーソンはこの現象を「移入をきたす雑種形成」と呼んだ。
 Irisの研究に戻って、アンダーソンはミシシッピ川デルタ地帯の集団の複雑な変異パターンを分析した。ここでアンダーソンは、種間雑種は人間の活動で撹乱された生息地、特に元の種の物理的特徴の組合せが見られる場所において最も豊富であることを見出した。これらの新しい生息地を、 “hybridized habitats” と名付けた。
 この研究は、アンダーソンの最も重要で広く引用された著作『移入をきたす雑種形成』の出版、および同じテーマでの論文一報につながった。さらに、1954年にステビンズと共に「進化の刺激としての雑種形成」という論文を発表した。
 1939年、Paul MangelsdorfとRobert G. Reevesが発表したトウモロコシの起源に関する論文に刺激され、アンダーソンはトウモロコシの研究に踏み出す。この研究の中で散布図を用いる手法を洗練させており(pictorialized scatter diagram)、それは雑種の大群を分析する際に大いに有用なものだった。トウモロコシへの関心から、地理学者、人類学者、考古学者らと関わるようになり、分野横断的な研究も行った。こういった経験は1952年の『植物、人間、生命』の出版につながった。
1954年にミズーリ植物園の管理者となるが、仕事の多さのために1957年に辞職して教育と研究に戻った。しかし1960年代のあいだは病気に冒され、あまり創造的な仕事はできなかった。1969年に亡くなり、1972年のミズーリ植物園年代記で彼の特集が組まれた。またアンダーソンは1954年に、米国科学アカデミーに選ばれていた。
 アンダーソンは現代の植物科学において、創造的で実りある考えを生み出す能力をもった人物であったが、ときどきばかげた仮説を発表してしまう失策もあった。彼は謙虚な人柄であり、若いうちにクエーカーの会員となった、生涯にわたって信仰心の厚い人物でもあった。野心的で攻撃的な一面もあり、知性的に劣っているとみなした科学者を蔑むこともあった一方で、知性と野心のある若い科学者には温かい人物であった。

2014年4月21日

熱帯農業科学を築いた者たち Prieto, “Islands of Knowledge” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】

Leida Fernandez Prieto, “Islands of Knowledge: Science and Agriculture in the History of Latin America and the Caribbean,” Isis 104 (2013): 788–797.


 熱帯農産物の生産と輸出が活発化していた19世紀から20世紀前半における、ラテンアメリカおよびカリブ海の農業科学についての論考です。筆者によれば、これらの地域における農業科学の歴史は、「帝国主義」や「植民地科学」といった観点から、専ら「中心と周辺」のヒストリオグラフィーで研究されてきました。しかしこのような文脈の研究では、それぞれの土地において知識生産に携わっていた多様な主体(たとえばその土地の農業経営者、奴隷、エリート層、外来の学者など)が果たした役割や、それらの地域間のネットワークにおける様々な交換の重要性が見過ごされてきたと筆者はいいます。
 そこでこの論考では、「商品史」「生物交換の研究」「知識交換の研究」という三つの研究分野が紹介されます。これらの研究を概観すると、それぞれの地域で多様な主体が科学的手順を創造し、採用し、適用していたこと、それらの地域間で重要な交換が様々になされていたこと、そしてこうした過程によって熱帯農業科学が形作られ普及していたことが明らかになります。筆者の比喩によれば、それらの諸地域は「知識の島々」だったのであり、島々のネットワークは「科学知識のグローバル諸島」を構成していたのです。このようにして、科学知識にたくさんの多様な中心的場所があって相互作用していたことを認識することで、われわれは「中心と周辺」のヒエラルキーを解体し、新しいヒストリオグラフィーへと進むことができるのです。
(以上2段落は 4/24 に追記しました。)


【1】
 ラテンアメリカとカリブ海における科学と農業の接続は、帝国の拡大の文脈と、リベラルな国民国家の強固化の文脈で近年研究されてきた。これは、それら地域の輸出農産物(コーヒー、カカオ、ゴム、砂糖など)を、ヨーロッパの拡大と世界システムとしての資本主義の発展の鍵として捉えてきたためである。このような「中心と周辺」のヒストリオグラフィーにおける「植民地科学」や「帝国科学」といった術語を越えていくため、この論考では、「中心と周辺(帝国と植民地)」の境界を越える科学的・農学的知識を生み出し普及させた過程に、ラテンアメリカとカリブ海がどのように参加したかを調査する。
 生産をする全ての地域は、「知識の島」として作用してきた。それぞれの島は、「伝統的」な実践と「近代的」な実践が合流する科学的手順を創造し、採用し、適用してきた。これらの島々のあいだの接続の多様性のおかげで、「科学知識のグローバル諸島」と呼べるものが構成されていた。そして、熱帯地方の特産物の生産と貿易が拡張していた19~20世紀は、これらの接続が拡張・深化した時代であり、新しい科学的・農学的知識の導入と採用が必要とされた時代であった。
 この論考では特に、商品史、生物交換の研究、知識交換の研究という3つの分野を扱う。これらの方法論は、有用な分析枠組みを提供してくれるのである。

【2】商品史
 商品史は熱帯地方の農業生産物を、社会経済的・政治的・文化的プロセスにおける主要因とみなし、商品の生産から販売までに生まれる複雑な社会文化的関係を特権化する。そのために、ラテンアメリカとカリブ海の地域は農学的・工業的な知識の単純な受け取り役ではないという考え方が強調される。特に有用なのは「帝国の商品」という題目のもとに集められた研究で、植民地世界でのローカルなプロセスと、その世界経済の発展への影響を分析している。
 たとえば、19世紀中頃のキューバで、砂糖の生産を近代化するために土地所有者に雇われた工学者や専門家たちのグループが商品史で注目されている。これらの人々の多くは、地元の土地所有者たちの要請によって英国や米国、フランスから渡ってきた人々で、蒸気機関を設置し管理する知識や経験を持ち込んだ。しかし彼らの知識は直線的に普及したわけではなく、それは砂糖生産の管理者や奴隷をはじめとした地元の多様なアクターとの複雑な相互作用による、学習と交渉のプロセスであった。それらの主体がみな、工業的知識に貢献したことで、キューバは世界最大の砂糖生産地となれたのである。
 他にも、アメリカ出身の農学者がキューバで育種技術を導入したり、熱帯作物の疫病研究を実施したりした際に、現地の植物学者や農学者の経験や専門的知識が土台になっていたことは、科学者も知識の伝播をする主体となりえたことを示している。オランダの植民地であったジャワ島の砂糖生産者がキューバで発展した栽培システムを取り入れていたことは、グローバルなレベルで農学的知識の拡散があったことを示している。
 一般的に商品史は、社会的関係を生態学的関係以上に特権化するが、ラテンアメリカで農産物の輸出が増大していた時期の農業システムの同質化は、森林破壊や土壌の疲弊といった結果を招いていた。この問題に対して、ラテンアメリカやカリブ海の当局や地元のエリート層、農家、企業などの人々は新しい科学を必要とし、実験をしたり組織をつくったりしていた。科学者だけではなく、こういった地元の人々も環境変化に対応し科学の適用をしていたのである。

【3】生物交換
 生物交換の研究は、帝国や植民地のあいだで植物や動物、病原菌などがどのように移動したかを強調してきた。特に、生態系の同質化や再構成が微生物の広まりに適した環境条件を生み出した道筋に焦点が当てられてきた。そして農業病害虫の抑制と撲滅の必要性のために、国境を超えてグローバルな農学的知識に到達するローカルな知識が生み出された。より一般的に言えば、カリブ海は「長い19世紀」に「“新”コロンブス交換」を経験していた。
 種々の生態学的環境において農産物の生産システムが増大すると、「商品病」が蔓延るようになる。商品病は、政府や地元のエリート層による自由主義の開発戦略の結果としてラテンアメリカとカリブ海じゅうに現れた(このことを「自由主義の疫病」という)。そして発生した病気はそれ自体、新しい知識の生産と普及を招来した。たとえば、19世紀中頃にキューバとジャマイカのココナッツプランテーションで発生した病気はすぐにカリブ海じゅうで蔓延し、キューバ人、スペイン人、アメリカ人など様々な立場の人々によって研究されることになった。
 温帯から熱帯(あるいはその逆)には広がらない知識があるということも、これらの病気の事例から明らかになる。ヨーロッパで開発された、作物の疫病に対抗するためのモデルは熱帯には適さず、ナチュラリストたちは現地で手段を開発しなければならなかった。その一方で、熱帯に属する地域どうしでは知識を共有することができた。
 また、人間の開発によって地球上の様々な地域のあいだで作物の病気が移っていく一方で、それぞれの地域において病気に対抗するための研究がなされた。このような歴史に焦点を当てることで、地球上に農学的知識を生み出す中心的場所が多く存在したことを明らかにできる。
 生物交換の研究はそのほかに、作物とともに伝達した知識に幅広い層の主体が関与していたことも示している。たとえば、奴隷たちがアフリカの伝統的実践を新世界で実践したことで植物学的知識を伝達したことはその一例である。

【4】知識交換
  農学的知識の生産と普及の研究は、ラテンアメリカやカリブ海をグローバル・ヒストリーの議論の中に位置づけるのに用いることができる。そこで浮かび上がってくるのは、ラテンアメリカやカリブ海の「知識の島々」としての姿である。かつての歴史研究の多くはGeorge Basallaの伝播主義を前提としたものであったが、近年の歴史研究はこのパラダイムを突き崩し始めている。
 20世紀初頭には熱帯の諸地域においてサトウキビの疫病が広まり、その疫病に対して抵抗力の強い改良品種が開発され諸地域に普及した。この事例研究のような、疫病と品種改良に関する歴史研究からは、ジャワ島、バルバドス島、サンタクルーズ諸島などを含む各地域が「知識の島々」として機能したことが理解できる。当時、品種改良等の研究は熱帯の各地域でなされており、得られた知識は世界中に広がるネットワークによって伝達されていた。
 現在までの歴史研究では、土着の伝統的な知識が科学に貢献したことは注目されてきたが、土着でない人々によって生み出された知識は注目されてこなかった。ラテンアメリカやカリブ海において、外から移り住んだ人々が生み出した知識に関する研究の重要性が、まだ十分認知されていない。
 ラテンアメリカの科学史の研究は、権力や政治の問題、農業の組織化の問題などを、「科学と帝国主義」「植民地科学と国家科学」といった観点から研究することに集中してきた。そしてその文脈では、特に米国やロックフェラー財団の果たした役割が注目されてきた。今後の研究では、もっと他の様々な主体による組織化が注目されなければならない。ラテンアメリカとカリブ海の農業科学の歴史は、単なる植民地主義と帝国主義の歴史ではないのである。

【5】
 農学的な実践はすぐに広まり各地で採用されていくため、その実践の起源がどこにあったのかをよくわからなくさせてしまう。しかし我々は、知識には複数の多様な中心的場所が存在して相互作用していたことを認識し、「中心と周辺」のヒエラルキーを解体することができる。

科学史のグローバルターン McCook, “Introduction” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】

Stuart McCook, “Introduction,” Isis 104 (2013): 773–776.


 この特集の4つの論考は、近年の科学史におけるグローバルヒストリーの台頭(グローバルターン)が与える影響を、ラテンアメリカの科学の4つの分野について検討するものである。どの論考も、19世紀半ばから20世紀半ばまであたりの時代を扱っている。

 ラテンアメリカは、グローバルヒストリーがどのように国史や地域史を豊かにできるかを探究するための実験室、モデルを提供できる。1500年以降、ラテンアメリカでは人口が激減し、また大量の移民が流入した。そのため19世紀中頃までには、「西洋/非西洋」「植民地開拓者/植民地開拓された側の者」「中心/周辺」などといった二項対立の概念は単純には適用できなくなっている。歴史家はしばしばlocal knowledgeとindigenous knowledgeを同一視するが、ラテンアメリカにおいてはindigenous knowledgeはlocal knowledgeの一種に過ぎないのであり、「クレオール科学」という概念はこの複雑性をよく捉えている。つまり、科学知識は多様なたくさんの層の人々によって共同でつくられたのである。

 従来、ラテンアメリカの歴史家は国民国家を分析の要とし、グローバルは遠景としてしか扱わなかった。また古い世代のグローバルヒストリアンは、ラテンアメリカに歴史上の周辺的地位しか与えてこなかった。より近年のグローバルヒストリーは「中心と周辺」を括弧付きで許容している。グローバルな科学的知識は、中心から最も遠い「周辺」で生み出されることも有りえるのである。

 ラテンアメリカの諸国は、他の地域の国々と比べて比較的早く独立することになったが、国民国家を築く過程で科学を必要とした。一方、エリート層は超国家的な科学のネットワークに国を参加させようとした。Duarteの論考は、国家のための科学と超国家的な科学のあいだの緊張関係を描いている。
 当時、南の国々は“新”コロンビア交換などの似通った様式のグローバル化を経験したため、似通った問題を共有していた。Prietoの論考で扱われている、異なる地域の砂糖生産者たちが様々な交換をしていた事例などはその一例である。
 新しいグローバルヒストリーは、グローバル化を称賛したり、権力の不公平の問題を覆い隠してしまったりする可能性がある。この問題に関して、Rodriguezの論考で “smart centering of Latin America” と呼ばれている議論が求められる。
 ラテンアメリカの科学者たちはしばしば、知識生産における地元の非科学者たちの果たした役割を黙殺してきたし、同様に外国の科学者たちはラテンアメリカの科学者たちの役割を黙殺してきた。これらの沈黙は何を意味するだろうか。すべての科学知識は究極的にクレオールである、という可能性がこの問題から考えられる。
 DuarteやEspinosaの論考では、 “following” という方法論が描かれている。これは何かが世界を動きまわるのを追いかけて、そのときに何が起こっているのかを分析するという手法である。この手法によって、知識の生産や伝達をする主体が何なのかを明らかにすることができ、また権力の問題にも接近できると考えられる。

 これらの新しいアプローチはどれも、構造分析を単純にしたり明快にしたりしない。しかし単純なモデルや物語がないからといって、我々は置き去りにされてしまうわけではない。グローバルターンは我々を導く問題や方法論を提供してくれているのである。

2014年4月11日

ライエルの文章、地質学者の「自由」 O’Connor, The Earth on Show, Ch. 4

Ralph O’Connor, The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856 (Chicago: University of Chicago Press, 2007), 163-187.


第4章 ライエル介入する


 ライエルは、英国の科学に新しい概念(地球が非常に古いことなど)や新しい手法(現在因の過去への適用など)を持ち込んだことで今でも評価されている。しかし、これらの概念や手法は当時、多くの実践地質学者たちのあいだで暗黙のうちに用いられていた平凡なものなのであって、ライエルの本当の偉大さは莫大な科学的データを優雅で修辞法的に説得力のある文章で展開したことにこそある。


1. 取り戻された黙示録

 人々の創世記への固執は、ライエルにとって科学のために取り除くべき障害であった。地質学における聖書の影響力は直解主義者たちの著述によって大きくなっており、ライエルは聖書と地質学的推論とのあいだの全ての接続(バックランドやコニベアの妥協的理論を含む)を否定する必要を感じていた。「クォータリー・レビュー」においてライエルは直解主義者たちを戯画化し、彼らの教条主義と、彼らによる地質学の侵害を強調した。また、直解主義者たちの説は哲学的情報が普及している国では支持されていない、などとする効果的な文句を法律家的な修辞法で書き立てた。ライエルは広い知識人層を自分の側に取り込もうとしていたのである。

 ライエルは、ニュートン力学的な不変の法則を地質学に取り入れようとしていた。のちにヒューウェルが「斉一説論者」「激変説論者」という呼び名を付けたせいで誤解されがちだが、ライエルの「激変説論者」との対立は宇宙論的というより方法論的なものである。

 しかし、ライエルの方法論は地球の歴史が極めて長いことを要求しており、ラドウィックが強調したように、「変わる必要があったのは彼らの科学的想像力だった」。地球の歴史は現在因で十分に説明できることを示すために、ライエルは現代の火山や激流の激しさを巧みに描いたり、第三紀の湖の穏やかな様子を描写した後にそれが火山活動によって破壊される様を黙示録的に描いたりした。また、古典的文化の保守的守護者であるウェルギリウスに付き従って地下世界を見たダンテ(どちらもダンテ『神曲』の登場人物)の話をしたり、「謎」「秘密」といった言葉を頻繁に使ったり、地質学者を時間を超越した知的支配をする超人間的な存在として描いたり、視覚に関わる言葉をたくさん使ったりすることで、ライエルは読者の想像力に強く訴えかけていた。

 それでも、この「クォータリー・レビュー」の時代はまだ、直解主義者たちの側に勢いがあったのである。


2. 地質学原理

 1830年に出版された『地質学原理』第1巻は、保守的な直解主義と革新的な転成主義を非哲学的であるとして排除し、地球史を語ることについての地質学者の権威を宣言することで、地質学を科学の地位に押し上げた。


 地球の活動は今も活発であるということを強調するライエルは、人類の記録に残っている数々の地震や噴火、洪水などを、自らの経験も踏まえて一つずつ克明に描写した。ライエルはこれらの現象を壮大に描くことで、読者の大災害に対する欲求を満たし、激変説の支配力を弱めようとしていた。そしてこれらの世界中で起きた現象の数々を読み進めるうちに、読者の視点は全地球的レベルになり、歴史の流れを見下ろせるようになる。こうして地球を「変化の劇場」と思えるようになった読者は、個々の現象の蓄積に、世界を変える力を「感じる」ようになるのである。

 このような視点の移行を可能にした方法は、バイロンから借用された。クライマックスとなる章は、バイロンの詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』からの引用で締め括られるが、この詩にはライエルと共通する俯瞰的な見方が含まれている。バイロンの詩のイメージは、個々の歴史的具体例から時の流れへと向かう想像力をライエルの読者に理解させる手助けをしていた。

 しかし、バイロンの詩が大洋の永遠性を人間の儚さと対比する哀愁を含んでいたのに対し、ライエルの文章は知的支配の喜びに満ちた調子になっている。ライエルの思考実験(イタリア半島を沈めたり、北極海に陸地を出現させたりする)は徐々に過激になり、そこでのライエルの叙述は仮定法から命令法に移っていった。ライエルは俯瞰する視点で仮想世界を次々に展開させていき、その文章は詩のようになっている(声に出して読み上げてみればその詩的な美しさがわかるだろう)。そしてその最後でライエルは、気候が暖かくなったらイグアノドンなどの昔の生物が出てくるかもしれない、という想像を書いた。これは、下等な生物から高等な生物へと進む方向主義的な創造の歴史という考え方に反対して述べたのだったが、ライエルはこのとき、詩的な想像を巡らせる文章の調子で反直観的な仮説を書いてしまったのだった。

 このせいで、ライエルはデ・ラ・ビーチの風刺画によって反撃を受けることになる。その風刺画にはバイロンのある詩の一節が記されており、このことはデ・ラ・ビーチが、ライエルの推論はロマンチックな想像力が過熱したものに過ぎないのではないかと考えていたことを示唆する。


 「クォータリー・レビュー」の黙示録的な記述は、『地質学原理』では思考実験に入れ替えられている。ライエルは『地質学原理』のなかで、現代の世界や仮想世界については生き生きと描写しておきながら、なぜ古代の地球については同様の描写をしなかったのだろうか。それは、ライエルにとって地質学的推論の認識論的な力は、昔の世界を描くよりも、むしろ神の代わりとなって世界をつくってみせることで伝えられるものだったからかもしれない。

 その力のショーは結局、地質学者の「自由」を強化することになる。地質学者の「自由」が神から与えられたものであるのは、ライエルの記述においては重要なことだった。パノラマ的な視点は地質学者を創世記から解放し、断片的に散りばめられた物語を再構成することを可能にするものだった。ライエルは『地質学原理』において、キュヴィエのいう「新しい秩序の古物収集家」としての地質学者の地位を強調していた。そしてライエルは『地質学原理』を、地質学者たちが地球を解読する仕事のための土台とみなしていた。ライエルは科学的知識を民主化したのではなく、新しい種類の科学的専門家を定義し推進したのである。そして地質学者の権威を宣伝することで、ライエルは新しい科学のための新しい大衆をつくり、大衆教育についての新しい考えを強化していた。


3. ライエルの大衆

 『地質学原理』の初版は「クォータリー・レビュー」と同様、保守的で裕福な層をメインターゲットにして書かれたものだったが、ライエルは正しい自然の知識が下流階級の人々にも普及されるべきだと考えていた。そこで1834年に第3版として安い『地質学原理』が出版され、よく売れた。

 ライエルの『地質学原理』に対する反応は、好意的なものが多かった。もちろん反対意見も相次いだが、ライエルが科学における哲学的議論の地位を変え、地質学において歴史的解釈と積極的想像力を復権させたことは一般的に認められていた。また、ライエルは新しい地質学の文化的権威と独立性を宣言したことでも重要な役割を果たしており、大衆は地質学者たちを壮大な航海に誘ってくれる信頼に値する人々とみなすようになっていた。1830年以降、地質学に関する通俗書が次々と出版された。バックランドはその代表的な著者の一人である。

 地質学の大衆化の開花は、ライエルやバックランドの貢献をはじめ、出版産業の変化、層序学の専門家の需要の増大、ウィッグ党の教育理論、大学改革など、様々な要因が重なったことで発生した。ともかく、ここに地球史の著述の黄金時代が幕を開けたのである。

2014年4月8日

科学リテラシーの再定義 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Epilogue

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 229–238.


 この本の主目的は、一般的な考えでの科学リテラシーは一般教育の目標として実現できないということ、そして科学教育を大部分の生徒にとって意義あるものにするにはこの目標が再定義されなければならないということを示すことであった。従来の科学リテラシーは科学知識の獲得に焦点を当ててきたが、以下のような本当に必要とされている事柄に焦点が当て直されるべきである。
(a) 科学やテクノロジーの事業がどのように働くかについての意識をもつこと。
(b) 大衆に、科学とは何であるかについて知ってもらい満足してもらうこと。
(c) 大衆に、科学から何が予期されうるのか理解してもらうこと。
(d) 科学やテクノロジーの事業に関して、どうしたら大衆の意見によく耳が傾けられるか知ること。
 また、テクノロジーは一般教育において、科学の派生物としてではなく、科学教育の出発点として捉えられるべきである。

 従来、楽観的な教育者たちは科学教育が目標を達成できていないことを認めつつも、カリキュラムを改善することでその目標は達成できるとみなしてきた。しかしカリキュラムの改革だけでは解決にならない。一般教育の目標それ自体と、その目標を達成するための方法の両方を変えることが必要になっている。

 そのために連邦政府にできることはなんだろうか? それは教育調査であり、学校に対する資金援助であり、教育の実験プログラムを認めることである。


 教育を改善する一つの方法は公立学校の私立化だろう。アメリカの私立学校は全体の人数の1~2割程度であるものの、公立学校より少ない資金で高いレベルの教育をしている。私立学校は、公立学校で存在する問題に直面していないことで有利になっている面もあるが、機会を与えられさえすれば公立学校よりうまくやるように思える。私立化には課題はあるが、いずれも克服できない課題とはいえないだろう。

 ところで、他の先進工業国と同様に、アメリカの科学は男性中心で進んできた。この状況は近年では多少改善されてきており、学士号取得者に占める女性の割合は、生命科学で約半分(15年前は30%だった)、数学で46%、化学やコンピュータ科学で37%となっている。一方、物理学や工学では15%に留まっている。女性が物理学や工学の進路を避ける傾向があるのは、数学的な事柄を扱うことに対して気が進まないからというよりも、自己像や、それらの分野に進むことで得られるキャリアについての受容の問題であろう。


 アメリカで科学が一般教育に取り込まれて以来、「大衆のための科学」という高尚なテーマを主張することが繰り返され、それは今では「科学リテラシー」を求める声となっている。また、スペンサー、ハクスリー、ポアンカレ、デューイ、Bronowski、スノーといった人々は、誰もが科学に熟達すべきなのだと主張してきた。しかし歴史は、そのような目標の達成が不可能であることを示しており、我々はこの歴史から学ばなければならない。我々は「科学はなぜ全ての生徒に要求されるべきなのか」と「その科学とは何から成り立っているのか」を真剣に問わなければならないのである。

2014年3月28日

マイアとアンダーソン、1941年の動物と植物の進化論 Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist”

Kim Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist: Edgar Anderson Prepares the 1941 Jesup Lectures with Ernst Mayr,” Journal of the History of Biology 46 (2012): 73–101.


 1941年にマイアとアンダーソンは、それぞれ動物分野と植物分野の立場を代表して共同でコロンビア大学のジェサップ講義を行った。この論文は、このときの二人の文通を調査し、彼らの視点を理解することでこの時期の進化論における中心的問題についての洞察を得るものである。

p. 75
 1936年のドブジャンスキーのジェサップ講義、および1937年の『遺伝学と種の起源』はメンデル遺伝学と進化のプロセスがどのように両立するかを示していた。ドブジャンスキーとコロンビア大学のL. C. Dunnは次の段階として、アンダーソンとマイアに「分類学の問題」あるいは「分類学(体系学)と種の起源」について議論するように依頼した。マイアはニューヨークの自然史博物館で働いていたので、ドブジャンスキーやDunnと定期的に共同研究することができた。マイアは彼らと議論した上で、その視点をアンダーソンと共有した。
 遺伝学者のアンダーソンはマイアより7歳年上で、経験も多く積んでいた。アンダーソンはBussey Institutionのエドワード・イーストのもとで博士号を取得したあと、1922年からミズーリ植物園に勤め、Iris(アヤメ属)で自然選択が働く変異の供給源としての雑種形成と突然変異の相対的重要性を検証していた。アンダーソンは、種間の相違は個体間の相違とは全く異なる階級のものであると考え、個体間の相違が自然選択などの影響で種間の相違を形作るという証拠はないと判断していた。突然変異から得られた変異の相違の蓄積では、種分化は説明できないと考えていたのである。続くTradescantia(ムラサキツユクサ属)の研究では、断片化、倍数性、雑種形成をそこで働いている進化プロセスとみなした。また、Karl Saxなどから細胞学の知見を仕入れていた。アンダーソンは分類学者と密接に関係した遺伝学者であり、フィールドワークを好みつつも、実験室における新しい技術も理解していた。そして、突然変異が種の相違をもたらすのかについては疑問を抱いていた。

p. 79
 マイアとアンダーソンは、当時の進化の問題について異なった評価と理解をしていた。1940年から41年の二人の文通を検討してみよう。
 マイアは、博物館の動物学者たちのように集団のサンプルを取らない伝統に反逆し、mass collectionの概念を推進しようとしていた。この動きに功がある植物学者として、マイアはイングランドのW. B. Turrill、ウィスコンシンのNorman Fassett、そしてアンダーソンの名前を挙げ、特にアンダーソンが集団の概念を植物学者たちに広めるのに最も貢献していると評している。アンダーソンは当時のマイアへの手紙で、分類学における集団研究の重要性に賛同している。マイアの返信では、動物と植物の分類学の不一致は採集方法の違いにあるのではないかと記している。
 二人は講義についての実践的な打ち合わせも始めていた。マイアはアンダーソンが書いたイントロダクションを高く評価し、講義の初回に位置づけようとする。アンダーソンもマイアの原稿に満足し、その英語を添削していた。アンダーソンのショウジョウバエ研究者たちの考えに反する異説についてもマイアは励ましていた。

p. 83
 1963年にマイアが『動物の種と進化』を出版したとき、マイアはより一般化して植物も含めるよう他の人々に勧められたが、それぞれの界がそれぞれの進化的特徴をもっていることを重要視して従わなかった。
 1940年にハクスリー編集の『新しい体系学』が出版されたとき、アンダーソンはその書評で批判を書いた。ドブジャンスキーはこの批判を厳しすぎると評し、マイアはアンダーソンにそれを伝えた上で自分もドブジャンスキーに同意すると述べた。アンダーソンはミズーリ植物園の同僚たちの意見を聞いて書評を書いていたが、そこではJens ClausenやDavid Keckなどのバイオシステマティストがほとんど引用されていないことが批難されていた。意識的に総合を成し遂げようとしていたマイアと異なり、アンダーソンはマイアのように政治的になる必要性を感じていなかった。また、J. S. L. Gilmourが書いた分類学の哲学的基礎に関する意見も割れ、マイアはGilmourが集団思考を欠いていることを強く批判したのに対し、アンダーソンはそれを認めつつも、アメリカの生物学者たちが特に読んで考えるべき議論をしていると擁護した。

p. 85
 生物学的種概念はマイアとアンダーソンの議論の中心にあった。マイアはドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』の最終章「自然単位としての種」のアイデアを拡張し、「実際的あるいは潜在的な自然交配集団のグループで、そのような他のグループから生殖的に隔離されているもの」という種の定義を『体系学と種の起源』で発表することになる。しかしアンダーソンとの文通で、マイアはこの種概念を生物一般に適用しようとすると困難に直面することに気付かされていた。アンダーソンはマイアへの手紙で、植物の種分化の複雑さを説明し、植物分類学者が脊椎動物分類学の概念を適用しようとしないのは生物学的な理由があるのだと推測した。マイアはこれに対し、鳥類や動物の体系学は植物の体系学に比べずっと単純な問題なのだろうと述べた。アンダーソンにとって、総合の前に為されるべき仕事はたくさんあり、総合の実現可能性は未決問題であった。

p. 87
 ドブジャンスキーはジェサップ講義と『遺伝学と種の起源』において、種の起源は小進化レベルの遺伝的変化で説明でき、大進化もその基礎のもとに説明できることを示した。マイアとアンダーソンが貢献できることは、種分化がどのように起きるか説明することだった。マイアはアンダーソンへの手紙で、ゴールドシュミットが地理的変異を通しての種分化を否定していることを批判している。マイアによれば、ゴールドシュミットは同所性と異所性のギャップを混同しており、同所性のギャップはbridgeless gapsであるという前提から、異所性の種間のギャップも含めてすべての種間のギャップはbridgeless gapsであるという推論をしてしまっているという。マイアは『体系学と種の起源』の第7章で、種概念と、隔離をもたらし維持するメカニズムとを結びつけた。
 一方アンダーソンはゴールドシュミットの『進化の物質的基礎』(1940)について、無批判ではないが好意的な見方をもっていた。アンダーソンはゴールドシュミットの正統的でない結論について、科学的かつ正当に確立されたとはいえないとしつつも、個人的には作業仮説として賛成だとも述べていた。ゴールドシュミットの方も、『進化の物質的基礎』でアンダーソンを10回、バブコックを9回と、数理集団遺伝学者たちよりも多く引用していた。ゴールドシュミットはアンダーソンの仕事をもとにして、Irisにおいて種内の変異は種間の変異をつくらないと論じた。アンダーソンはIrisについての最初の論文(1928)で「種間の相違は個体間の相違とはまったく異なる階級のものである」と述べていた。アンダーソンはマイアへの手紙でも、ゴールドシュミットが言うbridgeless gapsのような異なる階級の相違が種より上のレベルにあると考えているといい、そのようなカテゴリーは種のグループや、亜属や、属などにあたるだろうと述べた。マイアがゴールドシュミットを批判することで種分化や種概念についての考えを明確化したのに対し、アンダーソンにとってゴールドシュミットのアイデアは未解決の、議論途中の問題であった。

p. 90
 マイアが早い時期から講義の準備を入念に進めたのに対し、アンダーソンはそれほどでもなかった。ここには、ドブジャンスキーと同じようにジェサップ講義を用いようと考えていたマイアと、まだ大文字の進化が解き明かされそうにはないと考えていたアンダーソンの意識の差があった。マイアは講義で決定的なことを言おうとしていたのに対し、アンダーソンは示唆的なアイデアを試す場にしようとしていた。
 アンダーソンは聴衆がどのような人々でどのくらいの人数であるかを気にしていた。マイアは、ドブジャンスキーの講義を聴いたときの聴衆は大学院生と教員たちで、主にコロンビア大学だがそれ以外の組織からも来ていたと伝えた。また人数については50人を超えず25~30人くらいかもしれないと言い、聴衆が少ないことにいつも驚いていると述べた。

p. 92
 アンダーソンが実際にどのような講義を行ったかについては史料が少なく、わからない部分が多いが、植物の種分化の複雑性をテーマの一つにした可能性は高い。アンダーソンは1928年の論文で、幾千の遺伝子突然変異が積み重なって種間の相違になるというショウジョウバエ研究者たちの意見には同意せず、進化の要因としての雑種形成や遺伝子侵入や遺伝子連鎖の役割を検討していた。遺伝子突然変異は個体の相違を説明するには十分であるものの、種間の相違はそれだけで説明できないという立場である。1949年の『移入をきたす雑種形成』では進化のメカニズムとしての雑種形成の役割を論じており、このテーマは講義の内容にも入っていたと考えられる。この本ではアンダーソンは、遺伝子侵入による連鎖形質から来る変異性は、自然選択が働く対象として突然変異より潜在的に重要と結論づけている。
 アンダーソンは、壮大な理論的総合よりも、植物進化を形作る力を研究するための示唆的なアプローチを提供していた。アンダーソンがジェサップ講義の内容を本にまとめることを約束していながら結局果たさず、トウモロコシのプロジェクトを立ち上げ、移入をきたす雑種形成の研究を進めていったが、これも総合的・決定的なことを言おうとする研究ではなかった。アンダーソンの本が現れなかったことは、動物中心の総合は不完全で特に植物進化生物学を説明するには不適切だという判断を反映していた。
 アンダーソンはサンフランシスコ湾岸地帯のバイオシステマティストのグループにも関わり、進化の問題に取り組んでいた植物学者たちの中でも中心的な存在であった。しかしその彼が総合の鍵となる出来事であったジェサップ講義の際にとった立場は以上のように、安易に基本原理を打ち立てることに対して警戒するものであったのである。

2014年3月24日

ホールデンのホーリズム Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution”

Andy Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution,” Descended from Darwin: Insights into the History of Evolutionary Studies, 1900–1970, ed. Joe Cain and Michael Ruse (Philadelphia: American Philosophical Society, 2009), 49–70.

 ホールデンは青年時代から、父親のジョン・スコット・ホールデン(以下J. S.)の影響を強く受けた。J. S. はヘーゲルやカントから得た新観念論的・反還元主義的原理の適用を推進した生理学者だった。しかしホールデンの第一次世界大戦での従軍経験は彼の思想を変化させるに十分なものだった。1930年までに、ホールデンは唯物論への共感を強めていた。新しい物理学や、弁証法的唯物論すなわちマルクス主義のホーリズム哲学を吸収し、ホールデンは1933年までに唯物論的な哲学的立場を築いていた。そのような立場の変化の中でも、ホールデンは生涯を通してホーリストであり続けた。

 当時、生気論は新観念論と、機械論は唯物論と関連していた。生気論の主唱者にはHans Driesch、Henri Bergson、E. S. Russell、そしてJ. S. などが居た。彼らが目的を見て取れる生命活動を強調していたのに対し、機械論者たちは生物学における生理化学的な法則を強調していた。ホールデンはこの論争を解決しようとしていた。彼は機械論者に賛成して、生体内のプロセスが物理学や化学の法則に従うのは驚くに値しないとしつつ、生気論者に賛成して、それらのプロセスは生物に特有の仕方で調整されているとした。生物についての真の問題は、heartとmechanismのどちらが第一であるかではなく、両者の関係性なのだという。ホールデンは、メカニズムと目的は「一つの原理に首尾一貫する」(カントはそれを「総合」と呼んだ)ことを示唆していた。
  1920年代のホールデンの生理学研究は父親の足跡を追い、その認識論を採用していた。つまり、生物を傷つけずそのままの状態で研究した。しかし一方で、J. S. の目的の強調に納得はしていなかった。目的とメカニズムとの組合せによってのみ、非還元的で首尾一貫した原理に至り、総合を生むことができるはずだった。

 1923年にホールデンはオックスフォードからケンブリッジ大学に向かい、ここでホールデンに深い影響を与えることになる指導教員のフレデリック・ホプキンズに出会う。ホプキンズのアプローチで中心的な概念は、動的平衡と組織化レベルであった。上位の組織化レベルはそのレベルに特徴的な性質をもつ。また、上位の組織化レベルの振る舞いは下位のレベルに影響する。全体と部分がお互いの性質を部分的に決定している。この見方では、唯物論的でありつつも、目的のある活動を生物全体の性質としていた。目的は、生物全体に特有のある物理化学的性質によっても、部分同士の物理化学的相互作用によっても定められる。このプロセスベースの非還元主義は、目的をメカニズムに従属させず、またメカニズムを目的に従属させることもなかった。このようなホプキンズの視点を通して、ホールデンは生化学の研究手法を学んだ。ホールデンの考えでは、生命に特徴的なものは構造や振る舞いの個々の詳細ではなく、それらが全体を自己調節し自己保存する仕方であった。
 1931年頃までに、ホールデンは遺伝子を生化学的機能によって分類していく。遺伝子は、より複雑で動的な発展プロセスの一部分となった。1932年の小論文では、酵素、遺伝子、環境の相互作用が生物の発達にどう影響するかを推測していた。ホールデンの科学的実践はホプキンズの動的平衡と組織化レベルの概念を受け入れたことで変化したのである。このような描像は、生物学のディシプリンを非還元主義的に総合する可能性を持っていた。

 生化学分野での仕事と同様に、ホールデンの遺伝学研究も唯物論からホーリズムの文脈に移っていた。ホールデンが1920年代に発表していた「自然選択と人為選択についての数学的理論」シリーズは遺伝子のビリヤード宇宙から成り立っており、還元主義的・唯物論的であった。1927年から1930年のあいだに、ホールデンはチェトヴェリコフに会い影響を受けていた。チェトヴェリコフのグループは既に生物測定学、自然史、遺伝学をダーウィニズムのフレームワークの中で結合させ、これは還元主義的な方向性を目指していなかった。「数学的理論」の続編は1930年に3本発表されるが、これらは集団に内部力学を持ち込んだものだった。そこでは、集団は準安定状態の集団や半ば隔離されたコミュニティの集まりとして扱われる。集団の内部構造は変化の可能性を持っており、環境の変化によってその可能性は実現する。このようなシステムベースのホーリスティックなモデルは、以前の5本の「数学的理論」とは異なっており、またこのような変化はホールデンの生化学分野での変化と同時期に起こっていた。またこれらの新しい論文では、ホールデンは動物学者G. P. Bidderのcataclasmsという観念を生態学的メカニズムの説明に用いていた。cataclasmsによって有益な遺伝子が変化したり、選択の方向が反転したりする。
 フィッシャーの集団遺伝学のアプローチは原子論的で、パンミクティックな集団内での自然選択を重んじる。この描像はフォードとの連携を通して得ていた。ライトはホーリストであったが、彼の集団遺伝学は生態学的側面を持たなかった。彼の適応度地形は理論に生態学的次元を付け加えているように見えたが、自然集団への適用可能性は限られていた。ホールデンの集団遺伝学は、ホーリスティックな視点と生態学的メカニズムを兼ね備えていた点でフィッシャーやライトと異なっていた。ホールデンはライトと同じように、フィッシャーのモデルの適用可能性は限られていると考えていたが、一方でライトとは異なり、実質的な生態学的メカニズムを持っていた。ここにはチェトヴェリコフの影響もあっただろう。マイアが数理集団遺伝学を「ビーン・バッグ遺伝学」と呼んだのは、ホールデンのアプローチに対しては当たらない。

 1930年代前半、ホールデンは弁証法的唯物論の研究にも取り組んでいた。
 1945年以降、ホールデンの仕事は遺伝学に大きく傾いていくが、それでも還元主義的プログラムを追求してはいなかった。1947年、プリンストンでの会議「遺伝学、古生物学、進化」でホールデンは進化のホーリスティックな理解の必要性を強調する。倫理や政治を生物学に還元してはならないとホールデンは述べた。1949年の「病気と進化」では、進化において病気がポジティブな役割を果たしてきたと示唆した。ホールデンの議論では、選択の単位としてグループが登場し、非還元主義的な組織化レベルを構成する。1956年の「生物学における時間」では様々なプロセスをそのタイムスケールによって分類する。この論文はジョゼフ・ニーダムの概念に負うところがあり、そのニーダムはマルクス主義ホーリズムに基づいていた。ホールデンはDNAやタンパク質などの細胞構成物質を生物全体の中の単なる「詳細」とみなし、この議論をフリードリヒ・エンゲルスのアイデアに結びつけた。ここには、生物と無生物のあいだに物質的な連続性を認めつつも、それを区別しようとするホールデンの試みがあった。

 生涯を通してホールデンはホーリストであり続けたといえる。彼の立場の変化は、ホーリズムから別のホーリズムへの変化であり、メカニズムだけで生物学全体の描像を描くことができると考えたことはなかった。彼は1930年代前半にホーリスティックなアプローチを生理学に持ち込み、生化学遺伝学では1931年頃に原子論的アプローチからホーリスティックな発展的アプローチに移行した。また彼は、集団遺伝学をメカニスティックなアプローチから、生態学的側面を含んだアプローチに拡張させたのである。こういった変化は部分的には、ホールデンの観念論的ホーリズムから唯物論的ホーリズム、そして弁証法的唯物論へと至った移行によるものである。

2014年3月23日

ドブジャンスキーとステビンズ Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky: G. Ledyard Stebbins, Jr., Plant Evolution, and the Evolutionary Synthesis,” History and Philosophy of the Life Sciences 28 (2006): 11–50.


 ステビンズの『植物の変異と進化』は(『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』や『進化のテンポとモード』に比べ)ドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』によく似ており、そのフレームワークを用いていた。特に、ドブジャンスキーの「生物学的種概念」(と後に呼ばれるようになる概念)はそこで強い存在感を放っていたといえる。この論文では、ステビンズがなぜドブジャンスキーに追従することを選んだのかを探ると同時に、二人と彼らをめぐる人々の関係を明らかにしていく。


 ステビンズは、1936年にドブジャンスキーに初めて会ったときは彼の研究に関心を持たなかった。しかしこのとき二人はよく似た状況にあり、どちらも正式な遺伝学の教育を受けたわけではないものの、遺伝学に興味を示し、進化プロセスを遺伝学や細胞学や体系学から明らかにしようとしていた。またドブジャンスキーは、クレピス属プロジェクトによく似た、自然集団の遺伝学(GNP)のプロジェクトを始めようとしていた。二人とも体系学を学んでおり、地理的分布に関心を持ち、一つではなく複数の生物グループを研究していた。またどちらも手が不器用で、古典的な体系学の手法に対する反感を抱いており、進化的系統を再現するために自然集団を理解しようとしていた。他の研究者たちの研究を熱心に読む読書家でもあった。つまり二人は会ったときから多くの共通点を持っており、若く活発なカリフォルニアの進化学者・遺伝学者の数が多くないことを考えれば、二人が親密になるのは時間の問題だったのである。

 ドブジャンスキーは同じくソ連から移住してきた遺伝学者のI. Michael Lernerと親交を深めていた。Lernerはバークレー校に赴いたあと、バブコックの教育助手をしていた大学院生のEverett R. Dempsterらと共に、Genetics Associatedという月一で議論をするグループをつくっていた。ステビンズはGenetics AssociatedでLernerと知り合い、彼を通してドブジャンスキーと再会した。クレピスの種分化パターンを解明しようとしていたステビンズにとって、不稔障壁の産物として形成される進化の段階として種を捉え直す考え方は興味深いものだった。バブコックとの共著論文で、ステビンズはクレピスの種形成と動物の進化の違いを強調するのではなく、類似性に焦点を当てた。

 ステビンズはドブジャンスキーの本に、植物の進化を理解する術を見出だすことができなかった。ステビンズは1939年に進化の講座を開くことを打診され、生徒たちと進化一般についての文献を読み始めた。ステビンズは数理集団遺伝学者たちやド・フリースやモーガン、A. F. Shull、チェトヴェリコフなどの研究を学んでいた。一方ドブジャンスキーは、共同研究者のUCLAのCarl Eplingとの関係もあって、植物進化についての理解を深めていた。そのため、『遺伝学と種の起源』の第二版は植物進化についての最近のデータを多く含むことになった。

 1930年代後半以降のサンフランシスコ湾岸地帯は、バイオシステマティストと呼ばれることになる研究者たちによって進化研究の中心地となっていた。ドブジャンスキーやEplingやミズーリ植物園のアンダーソンはここを頻繁におとずれていた。ドブジャンスキーは1940年にカリフォルニア工科大学からコロンビア大学に転勤となり、湾岸地帯の訪問は一時途絶えるが、結局その後も続いた。1944年の夏からステビンズはドブジャンスキーとさらに親密に関わるようになる。1944年までにステビンズはクレピス研究を終わらせ、戦争による圧力もあって飼料草の改良プロジェクトに入ったが、ここには自然の雑種形成の研究も含まれていた。ステビンズは1945年の夏にドブジャンスキーとマザー(Mather, California)を訪れたが、この訪問は1970年代まで続き、フォード、Hampton Carsonなども訪れることがあった。

 ドブジャンスキーは1953年に生涯で一本だけの単独での植物学論文を発表するが、そこでも進化観はショウジョウバエやライトの理論モデルから得られたものだったといえる。ドブジャンスキーの植物のある品種に関するEplingとの共同研究も、植物進化に対する関心というより進化の一般的パターンに対する関心から生じたものだった。ドブジャンスキーは植物に真の関心を持っていたとはいえず、植物の進化プロセスがショウジョウバエやライトの理論と矛盾するときには特にそうだった。彼は、包括的な進化理論のために植物研究を追っていたし、またショウジョウバエの生活史や自然史との関わりのために、植物の分布について知る必要があった。しかし、植物に特有と考えた現象に中心的な地位を与えることはほとんどなかった。

 1940年代前半、ドブジャンスキーの植物と動物の進化を調和させてほしいという催促に、ステビンズは反応した。ステビンズの進化の講義の構造は、『植物の変異と進化』のそれに近づいていた。この講義では、『遺伝学と種の起源』がますます中心的な位置を占めるようになっていた。その他には、『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』も中心的な教科書となっていた。ステビンズは遺伝学、体系学、植物地理学、古植物学など、幅広い植物科学の知見を有する数少ない研究者になっていた。また特に、進化一般の講義を担当したために動物の進化について幅広く読む機会を得ていた点は、アンダーソンやカーネギーチームも備えていない長所だった。ステビンズは、植物学と動物学を統合する、一般化可能で普遍的な進化理論を求めていた。Eplingは1940年以降、ショウジョウバエ研究を中心としており、植物進化の首尾一貫した理論をつくることはしなかった。またマイアが編集していた会報において、ステビンズは植物と動物の進化に関する議論で中心的な役割を果たした。

 ドブジャンスキーの勧めによって、コロンビア大学動物学科のL. C. Dunnは1946年の春に、その年の秋のジェサップ講義にステビンズを招待した。ステビンズは熱心に準備し、10月15日から11月26日にかけて、計6回の講義を行った。このあいだ、ドブジャンスキーはステビンズを自宅に宿泊させていた。ステビンズは本の最終稿に約2年かけ、1948年の末に完成し、1950年に出版された。ドブジャンスキーとステビンズの親密な交流はその後も続いた。1969年、ドブジャンスキーはロックフェラーでの予算削減等を受け、弟子のアヤラと共に、ステビンズのいるデイビス校へ移ることにした。ドブジャンスキーは1975年に亡くなった。ドブジャンスキーとアヤラ、James Valentine、ステビンズの共著による本『進化』は1977年に出版された。


 ドブジャンスキーとステビンズが、カリフォルニアという同じ土地の動物相と植物相をそれぞれ調査していたことは重要だったといえる。Eplingやカーネギーチームも含め、彼らにとって1940年代のマザーは自然の実験室であった。またドブジャンスキーとステビンズはリベラルな政治観や、生物学と人間の関わりについての見方を共有しており、1940年代後半から1950年代にかけて、二人は最も声の大きいルイセンコ学説の批判者だった。宗教的背景も異なった(ステビンズは監督教会からユニテリアン派に転向した自称「不可知論者」で、ドブジャンスキーは敬虔なロシア正教会のメンバー)が、どちらも1970年代には「科学的創造説」に対して進化を擁護した。

 ドブジャンスキーとEplingは1953年にショウジョウバエのデータの解釈を巡って決裂していたが、ドブジャンスキーとステビンズはまったく同じ領域を研究しようとはせず、それゆえたとえば遺伝子侵入の相対的重要性や進化一般における網状進化の影響力について意見が異なることがあっても、専門とする生物の違いによる意見の違いとして処理することができた。

 そして、どちらもフィールド志向の進化細胞生物学者であったことと、植物と昆虫がお互いに依存関係にあったことが二人を結びつけた。シンプソンやマイアは植物の進化にあまり関心を示さず、それはマイアを共同でジェサップ講義をしたアンダーソンが本を完成させられなかったことにも関係しているかもしれない。そのために1941年に動物と植物の進化を総合することができなかったことは、マイアが植物学は総合に参加するのが遅れたという認識につながっているかもしれない。しかし実際には、総合の時代に植物学者たちは積極的に総合のプロジェクトに参加していた。総合の植物学的業績が総合の最後の本になったのは、植物学者たちの「失敗」や不適当さが原因ではないのである。

 総合は様々な生物を専門とするたくさんの研究者たちを必要としていた。ステビンズがドブジャンスキーから大きな影響を受ける一方で、ドブジャンスキーは自身の理論の強力な検証をステビンズから得ていた。影響の方向は一方向ではなく、多方向的で、仕事の仕方や場所や人脈など様々な要素を含んでいた。そして、ドブジャンスキーとステビンズの相互作用の歴史は、科学が人間によってなされるもので、個人的な関わりが仕事に大きく影響することを確かめさせてくれるものである。

2014年3月20日

自然科学文化、人文学文化、科学対抗文化 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Ch. 5

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 101–127.


 一般大衆の科学リテラシーを実現する上での問題の一つが、学術におけるロールモデルとなっている多くの大学知識人たちが科学リテラシーへの熱意を欠いていることである。 
 
 世代を超えて燻り続けている「二つの文化(自然科学と人文学)」の論争を再検討してみよう。戦後の科学教育の再建の頃、数学者兼詩人のJacob Bronowskiと科学者兼作家のC. P. Snowという二人が活躍したが、どちらも科学教育の実践に目に見える影響を及ぼすことはできなかった。Bronowskiは1956年のエッセイで、オルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』(1932)やジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)で描かれたディストピアに触れて、科学がわかる専門家とわからない一般大衆に社会が分断されることの危険を説いた上で、1984年には誰もが科学的教養を身につけているように教育すべきだと主張した。しかし結果的にはBronowskiの予想は裏切られ、科学者たちが一般大衆を支配する時代はやって来ることはなく、逆に科学がわからない人たちに科学予算が決められるような状況が続いている。

 スノーは、知識人たちの世界が「二つの文化」に裂かれてしまっていることに警鐘を鳴らした。スノーは人文学者たちに、「熱力学第二法則について何を知っているか?」と問いかけた(のちに「分子生物学について何を知っているか?」に変えた)。さらにスノーはこれを、人文学における「シェイクスピアの作品を読んだことがあるか?」と同程度の質問だと述べた。当時スノーに対しては批判の嵐が巻き起こった。

 科学的教養を身につけていない人々は、科学やテクノロジーを現代社会に不可欠なものとして受け入れながらも、科学に対する消極的抵抗を見せる傾向がある。特に、大学の人文学者が科学を学ぼうとしない姿勢を見せがちであることは、文系の学生たちを科学から遠ざける結果をもたらしていると考えられる。同様に、理系の教員や学生も人文学を学ぼうとしない傾向にある。

 また、汚染や生態学的災害や軍事兵器などを生み出した責任が科学という営み全体にあると考え、明確に反科学の立場をとる人々もいる。これらの人々(①)や、反科学を公言していなくても実質的にそうなっている人々(②)、そして科学を作り変えたいと考える人々=ポストモダニスト(③)から成る、科学対抗文化(science counterculture)という三つ目の文化が勢いを増している。①や②の人々は、環境か、社会の幸福、特にヘルスケアに関する問題意識から出発している。③は科学の根本となる真実や理性的思考をひっくり返そうとする動きである。また、ニューエイジ運動にも反科学的な動きが多く含まれている。

 現代技術懐疑派(neo-Luddite、19世紀初頭英国のラッダイト運動に由来)を名乗るグループも現れている。彼らは科学やテクノロジーを有害であるとみなし、テクノロジーを使用者に理解できるレベルのものに置き換えようと主張する。たしかに、ルネッサンス以来の科学の進歩が目覚ましいからといって、それがすべて世界に対する恩恵であるとは言い切れないの。科学が人間的な価値や思考の自由を奪っていると説く論者もいる。ファイヤアーベントは科学を民主主義に対する脅威として特徴付け、一般大衆によって監督されなければならないと考えた。また、科学やテクノロジーを民主化することを重要視する論者たちも現れている。

 他にも反科学的な性格をもつグループは多く現れており、動物の権利運動はその一つである。動物保護運動が動物実験に対して責任や人道性だけを要求したのに対し、動物の権利運動は動物のそのような取り扱いを一切廃絶することを要求する。動物の権利運動の成長は、感情だけで考えるのではなく理性で考えることの重要性を生徒や一般大衆に納得させられなかった失敗例の一つだと言えるだろう。

 Jeremy Rifkinは、現代社会はテクノロジーの為すがままになっており、そのため新しい技術は疑いをもって見るべきであり、少しでもリスクがあれば放棄すべきだと主張している。現代技術懐疑派との重要な違いは、新しいテクノロジーの導入に対して極めて慎重であるものの、すでに存在するテクノロジーを廃止しようとはしない点である。しかしRifkinらの議論はしばしば誤った科学的前提に基づく。政治の舞台で十分に議論ができる、責任があって公平で科学を熟知している人物が求められている。

 大衆紙は疑似科学への警鐘を鳴らす役割を果たすことが期待される存在だが、その期待に応えていない。残念ながら、大衆は新聞に科学教育を求めていないのである。新聞を書く側の人間も、実は多くが「創造科学」を信用しているというアンケート結果が示すように、科学に興味をもっていない。しかし、マスメディアの科学に対する姿勢次第で、大人社会の科学リテラシーが変わる可能性は十分にあるのである。