今月30日に、東京大学駒場キャンパスにて生物学史研究会「進化の総合説再考」が開催されます。
http://www.ns.kogakuin.ac.jp/~ft12153/hisbio/meeting_j.htm
この研究会では、来日されるフロリダ大学の科学史家V. B. Smocovitis教授をお招きし講演していただくことになっています。また、その前座として拙いながら自分も研究発表をさせていただけることになりました。もしご参加いただける場合は、以下の登録フォームからご登録いただけると大変助かります。
https://docs.google.com/forms/d/1vkvLLh5xjPPmioLzSfiH5oBbLbVyfy6AktmHVlSA664/viewform?c=0&w=1
Smocovitis教授は進化論史、特に総合説の形成についての歴史研究を専門とされてきました。特に、進化の総合説について画期的なヒストリオグラフィーを提示された著書Unifying Biology(*1)が有名です。このヒストリオグラフィーでは進化論の総合は、「生物学の統合」、すなわち各々のディシプリンがバラバラに存在していた生物諸科学を統一して物理学に匹敵する学問にすることを目指したの動きのなかに位置づけられます。日本語では瀬戸口先生によるUnifying Biologyの紹介(*2)があり、この本の主要な論点が明確に整理されています。
Smocovitis教授は、総合説の形成に大きく貢献した植物学者G. Ledyard Stebbinsをテーマに博士論文を執筆されるなど、進化論の総合と植物学の関係を特に詳細に調査されてきました。植物学における総合説形成の概略については、去年出版されたThe Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thoughtに掲載された記事(*3)でもよくまとめられています。
また日本に関係して、米国の日系人遺伝学者Masuo Kodaniに注目し、戦時下に強制収容された日系人科学者たちが続けていた科学研究について調査された論文(*4)を発表されています。米国が広島に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)に参加したKodaniの活動についても研究されており、The Black Pearl: Masuo Kodani, Genetics in America, and the Japanese American Experienceと題した本を出版される予定のようです。来年1月にもこのテーマに関係する講演をされるようです。
http://www.uh.edu/ethicsinscience/Seminars/Vassiliki-Smocovitis.php
Smocovitis教授は論文の多くをご自身のウェブサイトにPDFで掲載されていますので、それらは以下のアドレスから見ることができます。
http://people.biology.ufl.edu/bsmocovi/Bettys_Website/Welcome.html
(*1)Smocovitis, Vassiliki Betty. Unifying Biology: The Evolutionary Synthesis and Evolutionary Biology. Princeton: Princeton University Press, 1996.
(*2)瀬戸口明久「生物学を統合する――進化の総合説をめぐる新しいヒストリオグラフィー」『生物学史研究』74(2005年)、97–100頁。
(*3)Smocovitis, Vassiliki Betty. “Botany and the Evolutionary Synthesis.” In The Cambridge Encyclopedia of Darwin and Evolutionary Thought, pp. 313–321. Edited by Michael Ruse. Cambridge: Cambridge University Press, 2013.
(*4)Smocovitis, Vassiliki Betty. “Genetics Behind Barbed Wire: Masuo Kodani, Émigré Geneticists, and Wartime Genetics Research at Manzanar Relocation Center, 1942-1945,” Genetics 187 (2011): 357–366.
2014年11月23日
2014年11月1日
ヒュー・ミラーにおける科学と詩 O’Connor, The Earth on Show, 第10章(前半)
Ralph O’Connor, The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856 (Chicago: University of Chicago Press, 2007), pp. 391-411.
第10章「ヒュー・ミラーと地質学ジオラマ」(前半)
ヒュー・ミラーとはいかなる人物か。ミラーは若い頃に様々な職業を経験しており、学校を退学したあと、石工、会計士を経て、スコットランド自由教会と関連していた新聞Witnessの編集者となった。彼は近現代史、民間伝承、古物研究、地質学など過去のことに興味を持っていたが、最大の野望は文学にあった。彼が1829年に出版した詩集はあまり反響を呼ばなかったが、ノンフィクションの分野(歴史、自叙伝、レポタージュ、地誌、宗教・政治に関わる論争、科学的読み物など)で才能を示した。現代では、ノンフィクションを文学とみなさない傾向もあって彼の名は忘れられがちだが、ミラーは当時の英国を代表する文人であった。
ミラーにとって、風景を人々の目の前に再現するのは文人の務めであった。この目的を果たすため、ミラーはしばしば、「われわれ(ミラーと読者)」がそこに居るかのような、想像上のガイドツアーを描いた。彼の文章は、マンテルやバックランド、ライエルはおろか、同時代の有名作家たちをも凌ぐほど文学的にレベルの高いものであり、中流階級の読書家たちを魅了していた。彼は科学や真実を詩のかたちで表現することに心血を注いでおり、またそのようなアプローチに自覚的であったために、ポピュラーサイエンスの中心的な仕事を成し遂げることができた。
1. 世界の古物の研究家たち
ミラーの地質学に関する文章で最初のものは、『北スコットランドの景色と伝説』(1835)の第4章であった。この章ではまず、読者はミラーの隣に立って、現在のクロマーティ湾の穏やかな風景を共に観察することになる。ミラーはわれわれに対し、「世界の古物の研究家(antiquaries of the world)」として調査をしようと呼びかける。このような記述によって、ミラーは地質学の崇高さを強調していたのである。
このあとのミラーの記述は、ディプティク(二つ折りの形になっている絵の形式)のようになっている。クロマーティ湾の同じ場所から見えた光景として、数年前の冬にミラーが目にした寒々しい光景と、太古の時代に熱帯性気候のもとで様々な生物が栄えていた光景が対比されているのである。さらに、この太古の光景が地震や噴火や波や隆起といった、それぞれの要因によって破壊されるさまが描かれる。この光景は、最初に描かれていた現代の明るく穏やかな光景と対比させられる。
ミラーは自然を描写するのに、人間社会や人工物に関わる比喩表現を用いて意味を吹き込む傾向があった。特にミラーが好んで用いたのは、演劇を想起させる比喩である。たとえば、「幕が上がる」という表現がよく用いられた。実際、ミラーは自然の過去を、連続的な物語というよりも不連続的な場面の集まりとして描いていた。たとえば、『オールド・レッド・サンドストーン』の最後の3章は自然の歴史を描いているが、このような傾向がよく表れている。また、“we are surrounded by …” といった表現はパノラマを想起させる。ミラーは1820年代にエディンバラに建てられたパノラマを訪れて、強い印象を受けていたのである。
2.創造のパノラマ
1840年代と50年代にミラーは、演出的な技法をさらに発展させていった。バス・ロック(Bass Rock)についての共著(1848年)に書いたエッセイでは、第一紀から現代に至るまでの様々な時代のジオラマを描くことによって、ベースロックの地史を紹介した。ベースロックの輪郭はキャンバスのような役割を果たし、その上に様々な時代の様子が描かれていった。過去に移動したり逆に現代に移動したりする際には、詩が効果的に引用され、新たな場面の「幕を上げる」役割を果たした。霧や暗闇もまた幕の役割を果たしており、場面を転換するのに用いられた。またミラーは、過去の場面でも現在形を用いることで(詩を引用する際にも過去形を現在形に直していた)、読者を過去の世界に引き込んでいた。
1850年代前半にミラーは、Edinburgh Philosophical Institutionで講義を行っていた。6つの講義の内容が『スコットランドの地質学』で紹介される予定だったが、ミラーが自殺してしまったため、結局は妻Lydiaによって編集された(『ポピュラージオロジーのスケッチブック』)。これらの講義でも、多くのジオラマやパノラマの描写が用いられていた。ミラーは詩を引用する際に大胆な改変を加えることで、地質学的ツアーにふさわしいイメージの詩に仕上げていた。描写されていた古生物学的内容は特別にオリジナルなものではなかったが、迫力ある場面を言葉だけで豊富に描いていた点でミラーは傑出していた。
当時、詩人のDavid Moirは、地質学が景色から詩的なものを奪っているという批判を展開していた。ミラーは講義のなかでこれに反対し、氷河期初期などの景色を描写した上で聴衆に訴えかけた。このような光景は、十分に詩的なものに満ちているではないかと。ミラーは、近代科学は想像力の活動と反するものではないという。本当に深い知性と想像力を兼ね備えた詩人が現れたならば、その詩人は粘土の層や貝殻の破片のなかに、平凡な詩人が大海原や大空に見出すよりももっと、示唆的で壮大なものを見出すだろうとミラーは述べた。
その次の講義でもミラーは、科学と詩は対立するというMoirの主張に反対する。ここでミラーが用いるのは、 “spot of time” という詩の手法(回想のなかの回想を辿ることを繰り返す手法)である。この手法によってミラーは自分の回想から出発し、次々と昔の場面に飛び移ってその時々のスコットランドのパノラマを描き、人類と地球の歴史を遡った。このなかでは、人類が登場している時期の場面でも自然の変化が描かれ、また人類が登場しない遠い過去の場面でも人間社会や人工物に関わる比喩が用いられている。ミラーが描いたこのツアーは、科学の世界(地史)と詩の世界(歴史)が連続的につながっていることを感じさせるものであった。
ミラーによれば、自然は「サイン」によって書かれた銘板のようなものである。それぞれのサインにはそれ自体の重要性があり、読まれたときには心のなかで詩の形になる。そして地質学はこのサインを解読するための鍵なのだという。ポピュラライザーは、このサインがどのようにして詩になるのかを説明するために、自分たちの心のなかで解釈的光景を広げていた。そしてこの想像はしばしば、演劇の形式をとっていたのである。
自然という銘板を地質学的・演劇的に読むことは、聖書を読むこととよく似ていた。ミラーにとってはどちらも、聖なる歴史と地史、つまり神の意図による神へと向かう進歩の演劇について知ることだったのである。
第10章「ヒュー・ミラーと地質学ジオラマ」(前半)
ヒュー・ミラーとはいかなる人物か。ミラーは若い頃に様々な職業を経験しており、学校を退学したあと、石工、会計士を経て、スコットランド自由教会と関連していた新聞Witnessの編集者となった。彼は近現代史、民間伝承、古物研究、地質学など過去のことに興味を持っていたが、最大の野望は文学にあった。彼が1829年に出版した詩集はあまり反響を呼ばなかったが、ノンフィクションの分野(歴史、自叙伝、レポタージュ、地誌、宗教・政治に関わる論争、科学的読み物など)で才能を示した。現代では、ノンフィクションを文学とみなさない傾向もあって彼の名は忘れられがちだが、ミラーは当時の英国を代表する文人であった。
ミラーにとって、風景を人々の目の前に再現するのは文人の務めであった。この目的を果たすため、ミラーはしばしば、「われわれ(ミラーと読者)」がそこに居るかのような、想像上のガイドツアーを描いた。彼の文章は、マンテルやバックランド、ライエルはおろか、同時代の有名作家たちをも凌ぐほど文学的にレベルの高いものであり、中流階級の読書家たちを魅了していた。彼は科学や真実を詩のかたちで表現することに心血を注いでおり、またそのようなアプローチに自覚的であったために、ポピュラーサイエンスの中心的な仕事を成し遂げることができた。
1. 世界の古物の研究家たち
ミラーの地質学に関する文章で最初のものは、『北スコットランドの景色と伝説』(1835)の第4章であった。この章ではまず、読者はミラーの隣に立って、現在のクロマーティ湾の穏やかな風景を共に観察することになる。ミラーはわれわれに対し、「世界の古物の研究家(antiquaries of the world)」として調査をしようと呼びかける。このような記述によって、ミラーは地質学の崇高さを強調していたのである。
このあとのミラーの記述は、ディプティク(二つ折りの形になっている絵の形式)のようになっている。クロマーティ湾の同じ場所から見えた光景として、数年前の冬にミラーが目にした寒々しい光景と、太古の時代に熱帯性気候のもとで様々な生物が栄えていた光景が対比されているのである。さらに、この太古の光景が地震や噴火や波や隆起といった、それぞれの要因によって破壊されるさまが描かれる。この光景は、最初に描かれていた現代の明るく穏やかな光景と対比させられる。
ミラーは自然を描写するのに、人間社会や人工物に関わる比喩表現を用いて意味を吹き込む傾向があった。特にミラーが好んで用いたのは、演劇を想起させる比喩である。たとえば、「幕が上がる」という表現がよく用いられた。実際、ミラーは自然の過去を、連続的な物語というよりも不連続的な場面の集まりとして描いていた。たとえば、『オールド・レッド・サンドストーン』の最後の3章は自然の歴史を描いているが、このような傾向がよく表れている。また、“we are surrounded by …” といった表現はパノラマを想起させる。ミラーは1820年代にエディンバラに建てられたパノラマを訪れて、強い印象を受けていたのである。
2.創造のパノラマ
1840年代と50年代にミラーは、演出的な技法をさらに発展させていった。バス・ロック(Bass Rock)についての共著(1848年)に書いたエッセイでは、第一紀から現代に至るまでの様々な時代のジオラマを描くことによって、ベースロックの地史を紹介した。ベースロックの輪郭はキャンバスのような役割を果たし、その上に様々な時代の様子が描かれていった。過去に移動したり逆に現代に移動したりする際には、詩が効果的に引用され、新たな場面の「幕を上げる」役割を果たした。霧や暗闇もまた幕の役割を果たしており、場面を転換するのに用いられた。またミラーは、過去の場面でも現在形を用いることで(詩を引用する際にも過去形を現在形に直していた)、読者を過去の世界に引き込んでいた。
1850年代前半にミラーは、Edinburgh Philosophical Institutionで講義を行っていた。6つの講義の内容が『スコットランドの地質学』で紹介される予定だったが、ミラーが自殺してしまったため、結局は妻Lydiaによって編集された(『ポピュラージオロジーのスケッチブック』)。これらの講義でも、多くのジオラマやパノラマの描写が用いられていた。ミラーは詩を引用する際に大胆な改変を加えることで、地質学的ツアーにふさわしいイメージの詩に仕上げていた。描写されていた古生物学的内容は特別にオリジナルなものではなかったが、迫力ある場面を言葉だけで豊富に描いていた点でミラーは傑出していた。
当時、詩人のDavid Moirは、地質学が景色から詩的なものを奪っているという批判を展開していた。ミラーは講義のなかでこれに反対し、氷河期初期などの景色を描写した上で聴衆に訴えかけた。このような光景は、十分に詩的なものに満ちているではないかと。ミラーは、近代科学は想像力の活動と反するものではないという。本当に深い知性と想像力を兼ね備えた詩人が現れたならば、その詩人は粘土の層や貝殻の破片のなかに、平凡な詩人が大海原や大空に見出すよりももっと、示唆的で壮大なものを見出すだろうとミラーは述べた。
その次の講義でもミラーは、科学と詩は対立するというMoirの主張に反対する。ここでミラーが用いるのは、 “spot of time” という詩の手法(回想のなかの回想を辿ることを繰り返す手法)である。この手法によってミラーは自分の回想から出発し、次々と昔の場面に飛び移ってその時々のスコットランドのパノラマを描き、人類と地球の歴史を遡った。このなかでは、人類が登場している時期の場面でも自然の変化が描かれ、また人類が登場しない遠い過去の場面でも人間社会や人工物に関わる比喩が用いられている。ミラーが描いたこのツアーは、科学の世界(地史)と詩の世界(歴史)が連続的につながっていることを感じさせるものであった。
ミラーによれば、自然は「サイン」によって書かれた銘板のようなものである。それぞれのサインにはそれ自体の重要性があり、読まれたときには心のなかで詩の形になる。そして地質学はこのサインを解読するための鍵なのだという。ポピュラライザーは、このサインがどのようにして詩になるのかを説明するために、自分たちの心のなかで解釈的光景を広げていた。そしてこの想像はしばしば、演劇の形式をとっていたのである。
自然という銘板を地質学的・演劇的に読むことは、聖書を読むこととよく似ていた。ミラーにとってはどちらも、聖なる歴史と地史、つまり神の意図による神へと向かう進歩の演劇について知ることだったのである。
2014年10月2日
海洋力学と環境問題の接続 Hamblin, "Seeing the Oceans in the Shadow of Bergen Values" 【Isis, Focus:海洋】
Jacob Darwin Hamblin, "Seeing the Oceans in the Shadow of Bergen Values," Isis 105 (2014): 352–363.
米国の海洋学者レヴェル(Roger Revelle)は、大気中の二酸化炭素の継続的蓄積を示すことになったデータ測定の開始(1957年)に大きな役割を果たしたことで知られている。そこで歴史家たちは環境運動の観点からレヴェルに注目してきたが、骨折りに終わった。というのも、当時のレヴェルは地球環境を守ることに関心を持っていたのではなく、まったく別の問題を追究していたからである。レヴェルらの関心は、海洋力学dynamic oceanographyに基づいていた。海洋力学は、記述海洋学descriptive oceanographyと衝突した学問である。記述海洋学は、データを測定し地図を作って地球物理学的現象の因果関係を解明しようとする。一方、海洋力学はデータ収集を重視するところは同じだが、数学的モデルを構築しようとするところで異なっている。20世紀半ばは、海洋循環の数学的モデルをつくりだした海洋力学が台頭した時代だったのである。
だが海洋力学は、単に海流の問題を解決する道具だったのではなく、世界中の様々な分野の海洋学者たちに影響した一連の価値観を伴っていたのである。この論考では、これらの価値観を「ベルゲン価値観Bergen values」と呼ぶことにする。というのは、海洋力学者たちは彼ら自身の学問的ルーツがノルウェーのベルゲン地球物理研究所にあると考えていたからである。ベルゲン価値観では、数学的モデルの構築、徹底的なデータ収集、複数のディシプリンの総合、そして予測が重要とされる。
この論考は、さらなる歴史的研究を必要とするベルゲン価値観の三つの側面に焦点を当てる。第一に、海洋力学者たちは予測のできる科学的問いを立てることを重視し、他の人々の視点を時代遅れだとか非科学的だとして蔑んだが、このような立場の人々の台頭は幅広い海洋学の科学的問いにどのような影響を与えたのか? 第二に、海洋力学者たちが好んだ器具(温度、塩分濃度、潮流の方向、を測定するもの)は海を特定の仕方で解読可能にするものだったが、これは海洋学者たちが海を違った仕方で認識する能力を削ぐものだったのか? 第三に、ベルゲン価値観に基づく研究は莫大なデータを収集し、その多くは科学的問いを解決することに用いられることがないまま蓄積され、しかし今では環境史の研究者たちによって長期にわたる変化を調べるために用いられている。海洋力学者たちの伝統は、考えられていたよりも記述的だったのではないか?
ベルゲン価値観への幅広いリーチ
海洋力学は単に数学を奨励したのではなく、何が海洋学の名に値するかを再定義していた。このことはたとえば、アメリカ海軍士官で、かつて業績が高く評価されていたモーリィ(Matthew Fontaine Maury)の著しい名声低下によく表れている。記述的測定は海洋学とみなされなくなったのである。海洋学の意味を作り替えようとしていた人々が見習っていたのは、ビヤークネス(Vilhelm Bjerknes)のようなスカンディナヴィアの研究者たちであった。ビヤークネスは、水力学と熱力学を組み合わせて海洋と大気の大規模なシステムに適用していた。また気候学のように、海洋科学に属しながらベルゲン価値観を共有しない学問分野は軽蔑され、海洋力学的アプローチを持ち込む人々が台頭した。
1950年代までに、欧州と北米の多くの研究所が海洋力学を取り入れ、記述的な仕事を避けるようになっていた。ウッズホール海洋研究所とスクリップス海洋研究所という、米国の二つの主要な海洋研究所も20世紀半ばまでにベルゲン価値観にコミットしていた。ウッズホールは、スカンディナヴィアの研究者たちから影響を受けていた。またスクリップスでは、1936年にビヤークネスの弟子であったスベルドルプ(Harald U. Sverdrup)が所長に就任し、ベルゲン価値観を持ち込んだ。スベルドルプは研究所内での抵抗に遭ったが、所長を継いだレヴェルがベルゲン価値観を引き継いだ。レヴェルが打ち出した遠征は、それ自体海洋循環とは関係がないテーマの場合でも、ベルゲン価値観に深く影響されていた。
海洋を解読可能にする
科学者たちは、器具や地図や方程式を用いることによって海を「解読可能」にする。海洋学で用いられる器具には様々なものがあったが、海洋力学にとって最も基本的な器具は、深い位置の海水を採取するナンセンボトルと、潮流を測定するエクマン潮流計という、スカンディナヴィアで発明された二つの器具であった。これらの器具によって、温度、塩分濃度、潮流の方向と速度が測定された。
科学史家にとって難しいのは、これら海洋力学の基本的な測定項目のせいで、科学者たちが海を他の視点で見ることが難しくなっていたかどうかを見極めることである。例として、放射能測定の場合を考えてみよう。1954年にビキニ環礁で行われた水爆実験によって第五福竜丸が被曝したあと、日本の海洋学者たちは太平洋での放射能測定を始めた。人間によって海洋がどれくらい汚染されたかを調べようとしたのである。一方、米国の研究者たちはこれを無意味だとみなした。さらにレヴェルら数人の米国人研究者は、故意に放射能のあるデブリを撒くことで潮流を調べようとした。そのような文脈でしか、放射能を測定することの科学的な意義を見出せなかったのである。
レヴェルの二酸化炭素の測定もまた、炭素14の測定によって海洋循環を調べようとしたことに端を発していた。レヴェルは時間的な地球の変化ではなく、循環の問題を追究していたのである。しかし結果的に、レヴェルらの論文は地球温暖化という主張に関係することになった。
データ収集は科学ではない
海洋力学の研究は大量のデータを必要としており、海洋学を以前よりもっと記述的にしたともいえる。米国のストンメル(Henry Stommel)は、1957–58年の国際地球観測年(IGY)のあいだに世界中で行われた研究が、過去の記述海洋学のようであったことに失望したという。多くの科学者は理論を検証するというよりも、ただ単にデータを集めており、また多くのデータで規則的・継続的な収集がされていなかった。
ソ連の科学者たちはデータ収集を重視しており、特にすぐに印刷できる記述的なデータを好んでいた。ソ連の船には印刷機が積まれていたこともあったという。欧米の科学者たちはこれを嘲っており、IGYではデータセンターに世界中からデータが集められていた。海洋力学者たちはこういったデータが基本的問題を解決するのに不可欠なのだと考えていたが、実際には使われることのないデータが増え続けていた。衛星海洋学が登場してようやく、海洋学者たちはデータ収集の仕事から解き放たれることになった。
海洋力学の台頭は、かつてなかったほどの大量のデータの蓄積を残した。こういったデータは、環境史家などの研究にとって重要なものとなっている。モデルの構築を追究し、時間的変化を調べるという発想を持たなかった海洋力学が、結果的には時間的変化を研究するための材料を残したのである。
米国の海洋学者レヴェル(Roger Revelle)は、大気中の二酸化炭素の継続的蓄積を示すことになったデータ測定の開始(1957年)に大きな役割を果たしたことで知られている。そこで歴史家たちは環境運動の観点からレヴェルに注目してきたが、骨折りに終わった。というのも、当時のレヴェルは地球環境を守ることに関心を持っていたのではなく、まったく別の問題を追究していたからである。レヴェルらの関心は、海洋力学dynamic oceanographyに基づいていた。海洋力学は、記述海洋学descriptive oceanographyと衝突した学問である。記述海洋学は、データを測定し地図を作って地球物理学的現象の因果関係を解明しようとする。一方、海洋力学はデータ収集を重視するところは同じだが、数学的モデルを構築しようとするところで異なっている。20世紀半ばは、海洋循環の数学的モデルをつくりだした海洋力学が台頭した時代だったのである。
だが海洋力学は、単に海流の問題を解決する道具だったのではなく、世界中の様々な分野の海洋学者たちに影響した一連の価値観を伴っていたのである。この論考では、これらの価値観を「ベルゲン価値観Bergen values」と呼ぶことにする。というのは、海洋力学者たちは彼ら自身の学問的ルーツがノルウェーのベルゲン地球物理研究所にあると考えていたからである。ベルゲン価値観では、数学的モデルの構築、徹底的なデータ収集、複数のディシプリンの総合、そして予測が重要とされる。
この論考は、さらなる歴史的研究を必要とするベルゲン価値観の三つの側面に焦点を当てる。第一に、海洋力学者たちは予測のできる科学的問いを立てることを重視し、他の人々の視点を時代遅れだとか非科学的だとして蔑んだが、このような立場の人々の台頭は幅広い海洋学の科学的問いにどのような影響を与えたのか? 第二に、海洋力学者たちが好んだ器具(温度、塩分濃度、潮流の方向、を測定するもの)は海を特定の仕方で解読可能にするものだったが、これは海洋学者たちが海を違った仕方で認識する能力を削ぐものだったのか? 第三に、ベルゲン価値観に基づく研究は莫大なデータを収集し、その多くは科学的問いを解決することに用いられることがないまま蓄積され、しかし今では環境史の研究者たちによって長期にわたる変化を調べるために用いられている。海洋力学者たちの伝統は、考えられていたよりも記述的だったのではないか?
ベルゲン価値観への幅広いリーチ
海洋力学は単に数学を奨励したのではなく、何が海洋学の名に値するかを再定義していた。このことはたとえば、アメリカ海軍士官で、かつて業績が高く評価されていたモーリィ(Matthew Fontaine Maury)の著しい名声低下によく表れている。記述的測定は海洋学とみなされなくなったのである。海洋学の意味を作り替えようとしていた人々が見習っていたのは、ビヤークネス(Vilhelm Bjerknes)のようなスカンディナヴィアの研究者たちであった。ビヤークネスは、水力学と熱力学を組み合わせて海洋と大気の大規模なシステムに適用していた。また気候学のように、海洋科学に属しながらベルゲン価値観を共有しない学問分野は軽蔑され、海洋力学的アプローチを持ち込む人々が台頭した。
1950年代までに、欧州と北米の多くの研究所が海洋力学を取り入れ、記述的な仕事を避けるようになっていた。ウッズホール海洋研究所とスクリップス海洋研究所という、米国の二つの主要な海洋研究所も20世紀半ばまでにベルゲン価値観にコミットしていた。ウッズホールは、スカンディナヴィアの研究者たちから影響を受けていた。またスクリップスでは、1936年にビヤークネスの弟子であったスベルドルプ(Harald U. Sverdrup)が所長に就任し、ベルゲン価値観を持ち込んだ。スベルドルプは研究所内での抵抗に遭ったが、所長を継いだレヴェルがベルゲン価値観を引き継いだ。レヴェルが打ち出した遠征は、それ自体海洋循環とは関係がないテーマの場合でも、ベルゲン価値観に深く影響されていた。
海洋を解読可能にする
科学者たちは、器具や地図や方程式を用いることによって海を「解読可能」にする。海洋学で用いられる器具には様々なものがあったが、海洋力学にとって最も基本的な器具は、深い位置の海水を採取するナンセンボトルと、潮流を測定するエクマン潮流計という、スカンディナヴィアで発明された二つの器具であった。これらの器具によって、温度、塩分濃度、潮流の方向と速度が測定された。
科学史家にとって難しいのは、これら海洋力学の基本的な測定項目のせいで、科学者たちが海を他の視点で見ることが難しくなっていたかどうかを見極めることである。例として、放射能測定の場合を考えてみよう。1954年にビキニ環礁で行われた水爆実験によって第五福竜丸が被曝したあと、日本の海洋学者たちは太平洋での放射能測定を始めた。人間によって海洋がどれくらい汚染されたかを調べようとしたのである。一方、米国の研究者たちはこれを無意味だとみなした。さらにレヴェルら数人の米国人研究者は、故意に放射能のあるデブリを撒くことで潮流を調べようとした。そのような文脈でしか、放射能を測定することの科学的な意義を見出せなかったのである。
レヴェルの二酸化炭素の測定もまた、炭素14の測定によって海洋循環を調べようとしたことに端を発していた。レヴェルは時間的な地球の変化ではなく、循環の問題を追究していたのである。しかし結果的に、レヴェルらの論文は地球温暖化という主張に関係することになった。
データ収集は科学ではない
海洋力学の研究は大量のデータを必要としており、海洋学を以前よりもっと記述的にしたともいえる。米国のストンメル(Henry Stommel)は、1957–58年の国際地球観測年(IGY)のあいだに世界中で行われた研究が、過去の記述海洋学のようであったことに失望したという。多くの科学者は理論を検証するというよりも、ただ単にデータを集めており、また多くのデータで規則的・継続的な収集がされていなかった。
ソ連の科学者たちはデータ収集を重視しており、特にすぐに印刷できる記述的なデータを好んでいた。ソ連の船には印刷機が積まれていたこともあったという。欧米の科学者たちはこれを嘲っており、IGYではデータセンターに世界中からデータが集められていた。海洋力学者たちはこういったデータが基本的問題を解決するのに不可欠なのだと考えていたが、実際には使われることのないデータが増え続けていた。衛星海洋学が登場してようやく、海洋学者たちはデータ収集の仕事から解き放たれることになった。
海洋力学の台頭は、かつてなかったほどの大量のデータの蓄積を残した。こういったデータは、環境史家などの研究にとって重要なものとなっている。モデルの構築を追究し、時間的変化を調べるという発想を持たなかった海洋力学が、結果的には時間的変化を研究するための材料を残したのである。
2014年7月27日
神からのサインと気象学 Vermij, “A Science of Signs”
Rienk Vermij, “A Science of Signs. Aristotelian Meteorology in Reformation Germany,” Early Science and Medicine 15 (2010): 648–674.
ヒロ・ヒライ先生の集中講義で担当した論文です。
ヒロ・ヒライ先生の集中講義で担当した論文です。
坂本さんのブログも参考にしています。
オシテオサレテ: ルター派における気象現象と神のしるし Vermij, "A Science of Signs"
オシテオサレテ: ルター派における気象現象と神のしるし Vermij, "A Science of Signs"
0. イントロダクション
・ ルターの宗教改革に続く、ヴィッテンベルク大学のカリキュラム改革について。
・ 先行研究:ルターにとって、大学教育を支配してきたアリストテレス哲学は受け入れられないものだった。それゆえルターの神学改革は、自然哲学の総点検と密接に関連しながら進んだ。アリストテレス哲学は、ルター派のメランヒトンが考案した新しい解釈によって、ルターの宗教的原理に適応した。
・ では、ルターはなぜアリストテレスの自然学に反対したのか?
・ 先行研究:①
アリストテレス哲学における、「世界は永遠である」「人の霊魂は消滅する」といった主張が、聖書に反していたから
②
ルターは、道具的目的にかなう範囲では自然的説明を受け入れていたが、哲学は物事の本質について確かな説明をしないと考えていたから
・ どちらも十分な説明とは言い難い。アリストテレスの理論とキリスト教の教義の食い違いはずっと前から知られており、この頃までには一定の解決が見出されていた。しかも、ルターはアリストテレス哲学を、スコラ哲学ほどには拒絶していなかった。先行研究はこのことを説明できない。
・ 核心は別のところにある。16世紀の信心深い思想家は、えてして現代の神学者や哲学者が想像するのとは全く異なった考慮に導かれているものである。
・ それはアリストテレスの『気象論』である。ルターはこの本を、すべてのことが自然的要因で起きるという想定に基づいているという理由であざける記述を複数残している。これらの記述は、彼がなぜ自然学的説明を危険視したのかについての重要な手掛かりである。しかるに、現代の研究者はこれらの記述を無視してきた。
・ ルターが気にしていたのは、抽象的な原理ではなく、神からの「サイン」についての解釈だった。彗星、オーロラ、奇形児の誕生、自然災害、そういったものは当時、宗教的経験の重要な要素であった。これらのサインは、社会や自然の異常や、世界の終わりが近いことを示していると解釈された。そしてルターらの改革派にとって、神は天界からこれらのサインを通して現状のカトリック教会への不同意を表明しているはずだった。
・ この論文では、ヴィッテンベルク大学における自然哲学の改革が、大部分でサインへの関心に基づくものだったことを示す。
1. 気象学
・ アリストテレスは『気象論』のなかで、地球上の様々な現象を蒸気や太陽の影響などで説明していた。そして中世から初期近代の気象学は、つまるところ『気象論』を解釈する学問であった。アリストテレス哲学の受容が進むに伴って、神学者たちは徐々に、世界のすべての出来事を自然的要因で説明できると考えるようになっていった。
・ ルターの時代における気象学の伝統は、超自然的なサインが存在するという信念に直接的に反対するものとなっていた。気象学は、驚くべき現象を否定するのではなく、自然的要因で説明することによって脱神秘化していた。神が世界に積極的に干渉し続けていると信じるルターにとって、アリストテレス気象学は危険な研究分野であった。
2. 驚異の研究
・ 16世紀には、驚異的な出来事に関する記録を集め、昔ながらのパターンに基づいてその意味を解釈することがひとつの研究分野となっていた。
・ 特にルター派にとって、サインを知的な枠組みのなかに位置づけることは重要問題であった。メランヒトンの親友であった文献学者カメラリウスは、過去の彗星とその後の出来事についてのリストを作り、彗星は災害を知らせるものだと解釈した。メランヒトンの娘婿かつ友人であったヴィッテンベルク大学教授のポイツァーは、占いについての本を著した。ポイツァーは、自然に従うふつうの現象と、神や天使や悪魔などの高次の力による現象を区別した。たとえば最終章でポイツァーは、奇形などの逸脱は単なる自然の突然変異であるというアリストテレス流の考えを否定し、より高次の原因があるのだと主張している。また、別の章では流星について、意味をもたないものと、意味をもつ(差し迫った危機を示す)ものを区別している。
3. カリキュラムのなかの気象学
・ ヴィッテンベルク大学での自然哲学のカリキュラム改革において、気象学の改革ははじめから主要な位置を占めていた。
・ はじめのうちは、アリストテレスの本が用いられなくなった。代替としては、詩人ポンターノの詩や、古代ローマのプリニウスの博物誌が用いられた。プリニウスの著作が代替に選ばれたのは、幻影や前触れなど奇跡的出来事を多く登場させており、すべてのことを自然的要因から説明しようとしていなかったからだと考えられる。
・ 16世紀の中頃になると、アリストテレスに新しい解釈を加えることによって、アリストテレスの著作に基づいたカリキュラムを復活させるようになった。メランヒトンが1549年に出版した教科書では気象学はあまり論じられなかったが、その後べつの著者たちによる気象学を中心とした教科書が何冊も出版された。
・ ヴィッテンベルク大学のみならず、他のルター派の大学もそれぞれ気象学の教科書を出版していた。これらの教科書は全体構成や議論内容に関して互いによく似ており、また、ポンターノやプリニウスを頻繁に引用するなど、ヴィッテンベルク大学の伝統を引き継いだものであった。
・ これらの教科書はアリストテレスにならっていたが、一方で改革も行っていた。たとえば、アリストテレスの四原因説に関して、かつての『気象論』の解説書は目的因を入れ替えたり隠したりしていたのに対し、新しい教科書では目的因が非常に強調された。目的因はさらに、自然学的なものと神学的なものに分類されることもあった。
4. 神の行為?
・ ルター派の著者たちは、すべての現象が自然的要因から生じるわけではなく、神によって直接的に引き起こされることもあることを強調した。また、どの現象が自然的で、どの現象がそうでないかを論じた。
・ ルター派の教科書は、自然的要因では説明できない現象が観察されているということを強調し、神によるサインとして解釈した。たとえば、空に何らかのイメージがあらわれるという現象である。このような現象は、かつての気象学の解説書で扱われていなかったため、ルター派の著者たちが自由に解釈することができた。
・ それでも、ルター派の著者たちはスコラ学の伝統のなかにあり、過去に自然的な説明をした学者がいる場合にはそれを無視することはできなかった。たとえば、カエルや魚などの雨が降ってくるという現象では、自然的な説明が既に論じられてきていた。そこでルター派の著者たちは、自然的な説明と、神の意図による説明を併記することになった。
5. 結論
・ Leppinは、天界からのサインについて議論したルター派の人々は二つのグループに分かれることを示唆している。片方は自然的な説明を行い、神を自然から閉め出す哲学的・人文主義的な著者たちで、もう片方は、神が自然に干渉するのだと考える聖書重視の著者たちであるという。Leppinによれば、この状況は「世界観の競争」であった。
・ しかしこのような区別は擁護できない。二つの立場による矛盾は、著者たちのあいだというよりも、それぞれの著作のなか(あるいは著者個人の心のなか)にあった。
・ ヴィッテンベルク大学における自然哲学の改革は、自然主義的な哲学を反自然主義的な原理と調和させようとする試みであった。この難しい調和の試みでは、異種の出典や議論を都合よく取り集める、ごちゃまぜに近い手法が用いられており、議論の全体を首尾一貫させるには至らなかった。
2014年4月24日
伝記:エドガー・アンダーソン Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969)”
G. Ledyard Stebbins, “Edgar Anderson (1897–1969),” Biographical Memoirs of the National Academy of Sciences 49 (1978): 3–23.
アンダーソンは20世紀の植物科学に消えることのない印象を残した。集団における変異を記録する彼の手法は広く普及した。また、ボストンのハーバード大学アーノルド植物園およびセントルイスのミズーリ植物園のスタッフとして、植物を愛する様々な人々や庭師たちとの交流をもった。
ニューヨークに生まれ、ミシガンで育ったアンダーソンは16歳でミシガン農科大学に入学し、園芸学を専攻した。1919年にはボストンに向かい、ハーバード大学のバッセイ研究所の大学院生としてエドワード・イーストの下で働いた。アンダーソンはタバコの自家不和合性についての遺伝学を研究する一方で、田舎を歩いて野生の植物についても学んでいた。植物学者のDorothy Mooreと出会い、1923年に結婚した。
1922年に博士号を取得してハーバード大学を離れ、9年間をミズーリ植物園で過ごした。このあいだに、植物集団の変異を見て記録する独創的で効果的な手法を開発していた。またこの時期に、植物の属の複雑性と変異の大きさを意識するようになっていた。Iris versicolorについての研究で、この種が実際は2つの種から成り立っていることを発見し、片方がもう片方から進化してきた過程を分析しようとした。しかしどちらの種の中にも、もう片方の種に進化したと想像できる集団は見出だせなかった。そこでアンダーソンは片方の種がまったく別の種から、不稔で安定した何世代にも渡って同じ特徴を示す複二倍体を生み出す染色体倍加に続く雑種形成によって進化したのだと結論づけた。これは、植物の種が染色体倍加に続く(あるいは伴う)雑種形成によって進化できるのだということを示した最初の実証の一つだった。
別に調査していたAster anomalusはまったく異なる変異パターンを示しており、単一集団の中に種全体と同じほどの豊富な変異を保持していた。アンダーソンは実験によってこれらの変異の大部分が表現型の変化によるものであることを示したが、繁殖特性は豊富な遺伝子型変異を示し、しかも遺伝子型変異のわりには表現型変異が少なかった。さらに個体はヘテロ接合性が高く、自然受粉によるその子孫は種全体と同程度の幅の変異を示した。アンダーソンは自然集団における遺伝的変異の研究の先駆者であったといえる。
1929年から30年にかけて、特別研究員としてイングランドに向かい、主にホールデンに指導されつつ、ダーリントンの下で細胞学を、フィッシャーとともに統計学を学んだ。ホールデンに紹介されたPrimula sinensisの変異体について、Dorothea De Wintonと共に分析した。
1931年から35年までは、アーノルド植物園の樹木管理士としてハーバードに留まった。この時期、Karl Saxと共同で多くの重要な研究を行った。Saxはアンダーソンに、種の起源における染色体変異の重要性を気付かせていた。TradescentiaについてのSaxとの共同研究は、アンダーソンの2つの最大の貢献、すなわち遺伝子移入の概念と、 “hybridization of the habitat” の概念に導いた。
1935年にミズーリ植物園に戻ってからは、以降の人生をそこで過ごした。Tradescentiaの研究では、環境の物理的条件に関して集団の変異パターンを記録し、また2つの異なる種の同所的出現を記録した。異なる生体適応をもっている2つの種が中間的生息地なしに近くで成長するときはいつでも、2つの種ははっきりと隔たっている。しかし、もし中間的生息地があれば、しばしば見かけ上の雑種に占領される。もし中間的生息地が、元の2つの種のどちらかの生息地に特徴的なものに次第に変化すれば、見かけ上の戻し交配した植物が見つかる。さらに、部分的に異所性の種の場合、種Aの変異パターンは、それ自体が育った地域より、種Bと重なった地域において大きい。アンダーソンはこの現象を「移入をきたす雑種形成」と呼んだ。
Irisの研究に戻って、アンダーソンはミシシッピ川デルタ地帯の集団の複雑な変異パターンを分析した。ここでアンダーソンは、種間雑種は人間の活動で撹乱された生息地、特に元の種の物理的特徴の組合せが見られる場所において最も豊富であることを見出した。これらの新しい生息地を、 “hybridized habitats” と名付けた。
この研究は、アンダーソンの最も重要で広く引用された著作『移入をきたす雑種形成』の出版、および同じテーマでの論文一報につながった。さらに、1954年にステビンズと共に「進化の刺激としての雑種形成」という論文を発表した。
1939年、Paul MangelsdorfとRobert G. Reevesが発表したトウモロコシの起源に関する論文に刺激され、アンダーソンはトウモロコシの研究に踏み出す。この研究の中で散布図を用いる手法を洗練させており(pictorialized scatter diagram)、それは雑種の大群を分析する際に大いに有用なものだった。トウモロコシへの関心から、地理学者、人類学者、考古学者らと関わるようになり、分野横断的な研究も行った。こういった経験は1952年の『植物、人間、生命』の出版につながった。
1954年にミズーリ植物園の管理者となるが、仕事の多さのために1957年に辞職して教育と研究に戻った。しかし1960年代のあいだは病気に冒され、あまり創造的な仕事はできなかった。1969年に亡くなり、1972年のミズーリ植物園年代記で彼の特集が組まれた。またアンダーソンは1954年に、米国科学アカデミーに選ばれていた。
アンダーソンは現代の植物科学において、創造的で実りある考えを生み出す能力をもった人物であったが、ときどきばかげた仮説を発表してしまう失策もあった。彼は謙虚な人柄であり、若いうちにクエーカーの会員となった、生涯にわたって信仰心の厚い人物でもあった。野心的で攻撃的な一面もあり、知性的に劣っているとみなした科学者を蔑むこともあった一方で、知性と野心のある若い科学者には温かい人物であった。
アンダーソンは20世紀の植物科学に消えることのない印象を残した。集団における変異を記録する彼の手法は広く普及した。また、ボストンのハーバード大学アーノルド植物園およびセントルイスのミズーリ植物園のスタッフとして、植物を愛する様々な人々や庭師たちとの交流をもった。
ニューヨークに生まれ、ミシガンで育ったアンダーソンは16歳でミシガン農科大学に入学し、園芸学を専攻した。1919年にはボストンに向かい、ハーバード大学のバッセイ研究所の大学院生としてエドワード・イーストの下で働いた。アンダーソンはタバコの自家不和合性についての遺伝学を研究する一方で、田舎を歩いて野生の植物についても学んでいた。植物学者のDorothy Mooreと出会い、1923年に結婚した。
1922年に博士号を取得してハーバード大学を離れ、9年間をミズーリ植物園で過ごした。このあいだに、植物集団の変異を見て記録する独創的で効果的な手法を開発していた。またこの時期に、植物の属の複雑性と変異の大きさを意識するようになっていた。Iris versicolorについての研究で、この種が実際は2つの種から成り立っていることを発見し、片方がもう片方から進化してきた過程を分析しようとした。しかしどちらの種の中にも、もう片方の種に進化したと想像できる集団は見出だせなかった。そこでアンダーソンは片方の種がまったく別の種から、不稔で安定した何世代にも渡って同じ特徴を示す複二倍体を生み出す染色体倍加に続く雑種形成によって進化したのだと結論づけた。これは、植物の種が染色体倍加に続く(あるいは伴う)雑種形成によって進化できるのだということを示した最初の実証の一つだった。
別に調査していたAster anomalusはまったく異なる変異パターンを示しており、単一集団の中に種全体と同じほどの豊富な変異を保持していた。アンダーソンは実験によってこれらの変異の大部分が表現型の変化によるものであることを示したが、繁殖特性は豊富な遺伝子型変異を示し、しかも遺伝子型変異のわりには表現型変異が少なかった。さらに個体はヘテロ接合性が高く、自然受粉によるその子孫は種全体と同程度の幅の変異を示した。アンダーソンは自然集団における遺伝的変異の研究の先駆者であったといえる。
1929年から30年にかけて、特別研究員としてイングランドに向かい、主にホールデンに指導されつつ、ダーリントンの下で細胞学を、フィッシャーとともに統計学を学んだ。ホールデンに紹介されたPrimula sinensisの変異体について、Dorothea De Wintonと共に分析した。
1931年から35年までは、アーノルド植物園の樹木管理士としてハーバードに留まった。この時期、Karl Saxと共同で多くの重要な研究を行った。Saxはアンダーソンに、種の起源における染色体変異の重要性を気付かせていた。TradescentiaについてのSaxとの共同研究は、アンダーソンの2つの最大の貢献、すなわち遺伝子移入の概念と、 “hybridization of the habitat” の概念に導いた。
1935年にミズーリ植物園に戻ってからは、以降の人生をそこで過ごした。Tradescentiaの研究では、環境の物理的条件に関して集団の変異パターンを記録し、また2つの異なる種の同所的出現を記録した。異なる生体適応をもっている2つの種が中間的生息地なしに近くで成長するときはいつでも、2つの種ははっきりと隔たっている。しかし、もし中間的生息地があれば、しばしば見かけ上の雑種に占領される。もし中間的生息地が、元の2つの種のどちらかの生息地に特徴的なものに次第に変化すれば、見かけ上の戻し交配した植物が見つかる。さらに、部分的に異所性の種の場合、種Aの変異パターンは、それ自体が育った地域より、種Bと重なった地域において大きい。アンダーソンはこの現象を「移入をきたす雑種形成」と呼んだ。
Irisの研究に戻って、アンダーソンはミシシッピ川デルタ地帯の集団の複雑な変異パターンを分析した。ここでアンダーソンは、種間雑種は人間の活動で撹乱された生息地、特に元の種の物理的特徴の組合せが見られる場所において最も豊富であることを見出した。これらの新しい生息地を、 “hybridized habitats” と名付けた。
この研究は、アンダーソンの最も重要で広く引用された著作『移入をきたす雑種形成』の出版、および同じテーマでの論文一報につながった。さらに、1954年にステビンズと共に「進化の刺激としての雑種形成」という論文を発表した。
1939年、Paul MangelsdorfとRobert G. Reevesが発表したトウモロコシの起源に関する論文に刺激され、アンダーソンはトウモロコシの研究に踏み出す。この研究の中で散布図を用いる手法を洗練させており(pictorialized scatter diagram)、それは雑種の大群を分析する際に大いに有用なものだった。トウモロコシへの関心から、地理学者、人類学者、考古学者らと関わるようになり、分野横断的な研究も行った。こういった経験は1952年の『植物、人間、生命』の出版につながった。
1954年にミズーリ植物園の管理者となるが、仕事の多さのために1957年に辞職して教育と研究に戻った。しかし1960年代のあいだは病気に冒され、あまり創造的な仕事はできなかった。1969年に亡くなり、1972年のミズーリ植物園年代記で彼の特集が組まれた。またアンダーソンは1954年に、米国科学アカデミーに選ばれていた。
アンダーソンは現代の植物科学において、創造的で実りある考えを生み出す能力をもった人物であったが、ときどきばかげた仮説を発表してしまう失策もあった。彼は謙虚な人柄であり、若いうちにクエーカーの会員となった、生涯にわたって信仰心の厚い人物でもあった。野心的で攻撃的な一面もあり、知性的に劣っているとみなした科学者を蔑むこともあった一方で、知性と野心のある若い科学者には温かい人物であった。
2014年4月21日
熱帯農業科学を築いた者たち Prieto, “Islands of Knowledge” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】
Leida Fernandez Prieto, “Islands of Knowledge: Science and Agriculture in the History of Latin America and the Caribbean,” Isis 104 (2013): 788–797.
熱帯農産物の生産と輸出が活発化していた19世紀から20世紀前半における、ラテンアメリカおよびカリブ海の農業科学についての論考です。筆者によれば、これらの地域における農業科学の歴史は、「帝国主義」や「植民地科学」といった観点から、専ら「中心と周辺」のヒストリオグラフィーで研究されてきました。しかしこのような文脈の研究では、それぞれの土地において知識生産に携わっていた多様な主体(たとえばその土地の農業経営者、奴隷、エリート層、外来の学者など)が果たした役割や、それらの地域間のネットワークにおける様々な交換の重要性が見過ごされてきたと筆者はいいます。
そこでこの論考では、「商品史」「生物交換の研究」「知識交換の研究」という三つの研究分野が紹介されます。これらの研究を概観すると、それぞれの地域で多様な主体が科学的手順を創造し、採用し、適用していたこと、それらの地域間で重要な交換が様々になされていたこと、そしてこうした過程によって熱帯農業科学が形作られ普及していたことが明らかになります。筆者の比喩によれば、それらの諸地域は「知識の島々」だったのであり、島々のネットワークは「科学知識のグローバル諸島」を構成していたのです。このようにして、科学知識にたくさんの多様な中心的場所があって相互作用していたことを認識することで、われわれは「中心と周辺」のヒエラルキーを解体し、新しいヒストリオグラフィーへと進むことができるのです。
【1】
ラテンアメリカとカリブ海における科学と農業の接続は、帝国の拡大の文脈と、リベラルな国民国家の強固化の文脈で近年研究されてきた。これは、それら地域の輸出農産物(コーヒー、カカオ、ゴム、砂糖など)を、ヨーロッパの拡大と世界システムとしての資本主義の発展の鍵として捉えてきたためである。このような「中心と周辺」のヒストリオグラフィーにおける「植民地科学」や「帝国科学」といった術語を越えていくため、この論考では、「中心と周辺(帝国と植民地)」の境界を越える科学的・農学的知識を生み出し普及させた過程に、ラテンアメリカとカリブ海がどのように参加したかを調査する。
生産をする全ての地域は、「知識の島」として作用してきた。それぞれの島は、「伝統的」な実践と「近代的」な実践が合流する科学的手順を創造し、採用し、適用してきた。これらの島々のあいだの接続の多様性のおかげで、「科学知識のグローバル諸島」と呼べるものが構成されていた。そして、熱帯地方の特産物の生産と貿易が拡張していた19~20世紀は、これらの接続が拡張・深化した時代であり、新しい科学的・農学的知識の導入と採用が必要とされた時代であった。
この論考では特に、商品史、生物交換の研究、知識交換の研究という3つの分野を扱う。これらの方法論は、有用な分析枠組みを提供してくれるのである。
【2】商品史
商品史は熱帯地方の農業生産物を、社会経済的・政治的・文化的プロセスにおける主要因とみなし、商品の生産から販売までに生まれる複雑な社会文化的関係を特権化する。そのために、ラテンアメリカとカリブ海の地域は農学的・工業的な知識の単純な受け取り役ではないという考え方が強調される。特に有用なのは「帝国の商品」という題目のもとに集められた研究で、植民地世界でのローカルなプロセスと、その世界経済の発展への影響を分析している。
たとえば、19世紀中頃のキューバで、砂糖の生産を近代化するために土地所有者に雇われた工学者や専門家たちのグループが商品史で注目されている。これらの人々の多くは、地元の土地所有者たちの要請によって英国や米国、フランスから渡ってきた人々で、蒸気機関を設置し管理する知識や経験を持ち込んだ。しかし彼らの知識は直線的に普及したわけではなく、それは砂糖生産の管理者や奴隷をはじめとした地元の多様なアクターとの複雑な相互作用による、学習と交渉のプロセスであった。それらの主体がみな、工業的知識に貢献したことで、キューバは世界最大の砂糖生産地となれたのである。
他にも、アメリカ出身の農学者がキューバで育種技術を導入したり、熱帯作物の疫病研究を実施したりした際に、現地の植物学者や農学者の経験や専門的知識が土台になっていたことは、科学者も知識の伝播をする主体となりえたことを示している。オランダの植民地であったジャワ島の砂糖生産者がキューバで発展した栽培システムを取り入れていたことは、グローバルなレベルで農学的知識の拡散があったことを示している。
一般的に商品史は、社会的関係を生態学的関係以上に特権化するが、ラテンアメリカで農産物の輸出が増大していた時期の農業システムの同質化は、森林破壊や土壌の疲弊といった結果を招いていた。この問題に対して、ラテンアメリカやカリブ海の当局や地元のエリート層、農家、企業などの人々は新しい科学を必要とし、実験をしたり組織をつくったりしていた。科学者だけではなく、こういった地元の人々も環境変化に対応し科学の適用をしていたのである。
【3】生物交換
生物交換の研究は、帝国や植民地のあいだで植物や動物、病原菌などがどのように移動したかを強調してきた。特に、生態系の同質化や再構成が微生物の広まりに適した環境条件を生み出した道筋に焦点が当てられてきた。そして農業病害虫の抑制と撲滅の必要性のために、国境を超えてグローバルな農学的知識に到達するローカルな知識が生み出された。より一般的に言えば、カリブ海は「長い19世紀」に「“新”コロンブス交換」を経験していた。
種々の生態学的環境において農産物の生産システムが増大すると、「商品病」が蔓延るようになる。商品病は、政府や地元のエリート層による自由主義の開発戦略の結果としてラテンアメリカとカリブ海じゅうに現れた(このことを「自由主義の疫病」という)。そして発生した病気はそれ自体、新しい知識の生産と普及を招来した。たとえば、19世紀中頃にキューバとジャマイカのココナッツプランテーションで発生した病気はすぐにカリブ海じゅうで蔓延し、キューバ人、スペイン人、アメリカ人など様々な立場の人々によって研究されることになった。
温帯から熱帯(あるいはその逆)には広がらない知識があるということも、これらの病気の事例から明らかになる。ヨーロッパで開発された、作物の疫病に対抗するためのモデルは熱帯には適さず、ナチュラリストたちは現地で手段を開発しなければならなかった。その一方で、熱帯に属する地域どうしでは知識を共有することができた。
また、人間の開発によって地球上の様々な地域のあいだで作物の病気が移っていく一方で、それぞれの地域において病気に対抗するための研究がなされた。このような歴史に焦点を当てることで、地球上に農学的知識を生み出す中心的場所が多く存在したことを明らかにできる。
生物交換の研究はそのほかに、作物とともに伝達した知識に幅広い層の主体が関与していたことも示している。たとえば、奴隷たちがアフリカの伝統的実践を新世界で実践したことで植物学的知識を伝達したことはその一例である。
【4】知識交換
農学的知識の生産と普及の研究は、ラテンアメリカやカリブ海をグローバル・ヒストリーの議論の中に位置づけるのに用いることができる。そこで浮かび上がってくるのは、ラテンアメリカやカリブ海の「知識の島々」としての姿である。かつての歴史研究の多くはGeorge Basallaの伝播主義を前提としたものであったが、近年の歴史研究はこのパラダイムを突き崩し始めている。
20世紀初頭には熱帯の諸地域においてサトウキビの疫病が広まり、その疫病に対して抵抗力の強い改良品種が開発され諸地域に普及した。この事例研究のような、疫病と品種改良に関する歴史研究からは、ジャワ島、バルバドス島、サンタクルーズ諸島などを含む各地域が「知識の島々」として機能したことが理解できる。当時、品種改良等の研究は熱帯の各地域でなされており、得られた知識は世界中に広がるネットワークによって伝達されていた。
現在までの歴史研究では、土着の伝統的な知識が科学に貢献したことは注目されてきたが、土着でない人々によって生み出された知識は注目されてこなかった。ラテンアメリカやカリブ海において、外から移り住んだ人々が生み出した知識に関する研究の重要性が、まだ十分認知されていない。
ラテンアメリカの科学史の研究は、権力や政治の問題、農業の組織化の問題などを、「科学と帝国主義」「植民地科学と国家科学」といった観点から研究することに集中してきた。そしてその文脈では、特に米国やロックフェラー財団の果たした役割が注目されてきた。今後の研究では、もっと他の様々な主体による組織化が注目されなければならない。ラテンアメリカとカリブ海の農業科学の歴史は、単なる植民地主義と帝国主義の歴史ではないのである。
【5】
農学的な実践はすぐに広まり各地で採用されていくため、その実践の起源がどこにあったのかをよくわからなくさせてしまう。しかし我々は、知識には複数の多様な中心的場所が存在して相互作用していたことを認識し、「中心と周辺」のヒエラルキーを解体することができる。
熱帯農産物の生産と輸出が活発化していた19世紀から20世紀前半における、ラテンアメリカおよびカリブ海の農業科学についての論考です。筆者によれば、これらの地域における農業科学の歴史は、「帝国主義」や「植民地科学」といった観点から、専ら「中心と周辺」のヒストリオグラフィーで研究されてきました。しかしこのような文脈の研究では、それぞれの土地において知識生産に携わっていた多様な主体(たとえばその土地の農業経営者、奴隷、エリート層、外来の学者など)が果たした役割や、それらの地域間のネットワークにおける様々な交換の重要性が見過ごされてきたと筆者はいいます。
そこでこの論考では、「商品史」「生物交換の研究」「知識交換の研究」という三つの研究分野が紹介されます。これらの研究を概観すると、それぞれの地域で多様な主体が科学的手順を創造し、採用し、適用していたこと、それらの地域間で重要な交換が様々になされていたこと、そしてこうした過程によって熱帯農業科学が形作られ普及していたことが明らかになります。筆者の比喩によれば、それらの諸地域は「知識の島々」だったのであり、島々のネットワークは「科学知識のグローバル諸島」を構成していたのです。このようにして、科学知識にたくさんの多様な中心的場所があって相互作用していたことを認識することで、われわれは「中心と周辺」のヒエラルキーを解体し、新しいヒストリオグラフィーへと進むことができるのです。
(以上2段落は 4/24 に追記しました。)
【1】
ラテンアメリカとカリブ海における科学と農業の接続は、帝国の拡大の文脈と、リベラルな国民国家の強固化の文脈で近年研究されてきた。これは、それら地域の輸出農産物(コーヒー、カカオ、ゴム、砂糖など)を、ヨーロッパの拡大と世界システムとしての資本主義の発展の鍵として捉えてきたためである。このような「中心と周辺」のヒストリオグラフィーにおける「植民地科学」や「帝国科学」といった術語を越えていくため、この論考では、「中心と周辺(帝国と植民地)」の境界を越える科学的・農学的知識を生み出し普及させた過程に、ラテンアメリカとカリブ海がどのように参加したかを調査する。
生産をする全ての地域は、「知識の島」として作用してきた。それぞれの島は、「伝統的」な実践と「近代的」な実践が合流する科学的手順を創造し、採用し、適用してきた。これらの島々のあいだの接続の多様性のおかげで、「科学知識のグローバル諸島」と呼べるものが構成されていた。そして、熱帯地方の特産物の生産と貿易が拡張していた19~20世紀は、これらの接続が拡張・深化した時代であり、新しい科学的・農学的知識の導入と採用が必要とされた時代であった。
この論考では特に、商品史、生物交換の研究、知識交換の研究という3つの分野を扱う。これらの方法論は、有用な分析枠組みを提供してくれるのである。
【2】商品史
商品史は熱帯地方の農業生産物を、社会経済的・政治的・文化的プロセスにおける主要因とみなし、商品の生産から販売までに生まれる複雑な社会文化的関係を特権化する。そのために、ラテンアメリカとカリブ海の地域は農学的・工業的な知識の単純な受け取り役ではないという考え方が強調される。特に有用なのは「帝国の商品」という題目のもとに集められた研究で、植民地世界でのローカルなプロセスと、その世界経済の発展への影響を分析している。
たとえば、19世紀中頃のキューバで、砂糖の生産を近代化するために土地所有者に雇われた工学者や専門家たちのグループが商品史で注目されている。これらの人々の多くは、地元の土地所有者たちの要請によって英国や米国、フランスから渡ってきた人々で、蒸気機関を設置し管理する知識や経験を持ち込んだ。しかし彼らの知識は直線的に普及したわけではなく、それは砂糖生産の管理者や奴隷をはじめとした地元の多様なアクターとの複雑な相互作用による、学習と交渉のプロセスであった。それらの主体がみな、工業的知識に貢献したことで、キューバは世界最大の砂糖生産地となれたのである。
他にも、アメリカ出身の農学者がキューバで育種技術を導入したり、熱帯作物の疫病研究を実施したりした際に、現地の植物学者や農学者の経験や専門的知識が土台になっていたことは、科学者も知識の伝播をする主体となりえたことを示している。オランダの植民地であったジャワ島の砂糖生産者がキューバで発展した栽培システムを取り入れていたことは、グローバルなレベルで農学的知識の拡散があったことを示している。
一般的に商品史は、社会的関係を生態学的関係以上に特権化するが、ラテンアメリカで農産物の輸出が増大していた時期の農業システムの同質化は、森林破壊や土壌の疲弊といった結果を招いていた。この問題に対して、ラテンアメリカやカリブ海の当局や地元のエリート層、農家、企業などの人々は新しい科学を必要とし、実験をしたり組織をつくったりしていた。科学者だけではなく、こういった地元の人々も環境変化に対応し科学の適用をしていたのである。
【3】生物交換
生物交換の研究は、帝国や植民地のあいだで植物や動物、病原菌などがどのように移動したかを強調してきた。特に、生態系の同質化や再構成が微生物の広まりに適した環境条件を生み出した道筋に焦点が当てられてきた。そして農業病害虫の抑制と撲滅の必要性のために、国境を超えてグローバルな農学的知識に到達するローカルな知識が生み出された。より一般的に言えば、カリブ海は「長い19世紀」に「“新”コロンブス交換」を経験していた。
種々の生態学的環境において農産物の生産システムが増大すると、「商品病」が蔓延るようになる。商品病は、政府や地元のエリート層による自由主義の開発戦略の結果としてラテンアメリカとカリブ海じゅうに現れた(このことを「自由主義の疫病」という)。そして発生した病気はそれ自体、新しい知識の生産と普及を招来した。たとえば、19世紀中頃にキューバとジャマイカのココナッツプランテーションで発生した病気はすぐにカリブ海じゅうで蔓延し、キューバ人、スペイン人、アメリカ人など様々な立場の人々によって研究されることになった。
温帯から熱帯(あるいはその逆)には広がらない知識があるということも、これらの病気の事例から明らかになる。ヨーロッパで開発された、作物の疫病に対抗するためのモデルは熱帯には適さず、ナチュラリストたちは現地で手段を開発しなければならなかった。その一方で、熱帯に属する地域どうしでは知識を共有することができた。
また、人間の開発によって地球上の様々な地域のあいだで作物の病気が移っていく一方で、それぞれの地域において病気に対抗するための研究がなされた。このような歴史に焦点を当てることで、地球上に農学的知識を生み出す中心的場所が多く存在したことを明らかにできる。
生物交換の研究はそのほかに、作物とともに伝達した知識に幅広い層の主体が関与していたことも示している。たとえば、奴隷たちがアフリカの伝統的実践を新世界で実践したことで植物学的知識を伝達したことはその一例である。
【4】知識交換
農学的知識の生産と普及の研究は、ラテンアメリカやカリブ海をグローバル・ヒストリーの議論の中に位置づけるのに用いることができる。そこで浮かび上がってくるのは、ラテンアメリカやカリブ海の「知識の島々」としての姿である。かつての歴史研究の多くはGeorge Basallaの伝播主義を前提としたものであったが、近年の歴史研究はこのパラダイムを突き崩し始めている。
20世紀初頭には熱帯の諸地域においてサトウキビの疫病が広まり、その疫病に対して抵抗力の強い改良品種が開発され諸地域に普及した。この事例研究のような、疫病と品種改良に関する歴史研究からは、ジャワ島、バルバドス島、サンタクルーズ諸島などを含む各地域が「知識の島々」として機能したことが理解できる。当時、品種改良等の研究は熱帯の各地域でなされており、得られた知識は世界中に広がるネットワークによって伝達されていた。
現在までの歴史研究では、土着の伝統的な知識が科学に貢献したことは注目されてきたが、土着でない人々によって生み出された知識は注目されてこなかった。ラテンアメリカやカリブ海において、外から移り住んだ人々が生み出した知識に関する研究の重要性が、まだ十分認知されていない。
ラテンアメリカの科学史の研究は、権力や政治の問題、農業の組織化の問題などを、「科学と帝国主義」「植民地科学と国家科学」といった観点から研究することに集中してきた。そしてその文脈では、特に米国やロックフェラー財団の果たした役割が注目されてきた。今後の研究では、もっと他の様々な主体による組織化が注目されなければならない。ラテンアメリカとカリブ海の農業科学の歴史は、単なる植民地主義と帝国主義の歴史ではないのである。
【5】
農学的な実践はすぐに広まり各地で採用されていくため、その実践の起源がどこにあったのかをよくわからなくさせてしまう。しかし我々は、知識には複数の多様な中心的場所が存在して相互作用していたことを認識し、「中心と周辺」のヒエラルキーを解体することができる。
科学史のグローバルターン McCook, “Introduction” 【Isis, Focus:ラテンアメリカ】
Stuart McCook, “Introduction,” Isis 104 (2013): 773–776.
この特集の4つの論考は、近年の科学史におけるグローバルヒストリーの台頭(グローバルターン)が与える影響を、ラテンアメリカの科学の4つの分野について検討するものである。どの論考も、19世紀半ばから20世紀半ばまであたりの時代を扱っている。
ラテンアメリカは、グローバルヒストリーがどのように国史や地域史を豊かにできるかを探究するための実験室、モデルを提供できる。1500年以降、ラテンアメリカでは人口が激減し、また大量の移民が流入した。そのため19世紀中頃までには、「西洋/非西洋」「植民地開拓者/植民地開拓された側の者」「中心/周辺」などといった二項対立の概念は単純には適用できなくなっている。歴史家はしばしばlocal knowledgeとindigenous knowledgeを同一視するが、ラテンアメリカにおいてはindigenous knowledgeはlocal knowledgeの一種に過ぎないのであり、「クレオール科学」という概念はこの複雑性をよく捉えている。つまり、科学知識は多様なたくさんの層の人々によって共同でつくられたのである。
従来、ラテンアメリカの歴史家は国民国家を分析の要とし、グローバルは遠景としてしか扱わなかった。また古い世代のグローバルヒストリアンは、ラテンアメリカに歴史上の周辺的地位しか与えてこなかった。より近年のグローバルヒストリーは「中心と周辺」を括弧付きで許容している。グローバルな科学的知識は、中心から最も遠い「周辺」で生み出されることも有りえるのである。
ラテンアメリカの諸国は、他の地域の国々と比べて比較的早く独立することになったが、国民国家を築く過程で科学を必要とした。一方、エリート層は超国家的な科学のネットワークに国を参加させようとした。Duarteの論考は、国家のための科学と超国家的な科学のあいだの緊張関係を描いている。
当時、南の国々は“新”コロンビア交換などの似通った様式のグローバル化を経験したため、似通った問題を共有していた。Prietoの論考で扱われている、異なる地域の砂糖生産者たちが様々な交換をしていた事例などはその一例である。
新しいグローバルヒストリーは、グローバル化を称賛したり、権力の不公平の問題を覆い隠してしまったりする可能性がある。この問題に関して、Rodriguezの論考で “smart centering of Latin America” と呼ばれている議論が求められる。
ラテンアメリカの科学者たちはしばしば、知識生産における地元の非科学者たちの果たした役割を黙殺してきたし、同様に外国の科学者たちはラテンアメリカの科学者たちの役割を黙殺してきた。これらの沈黙は何を意味するだろうか。すべての科学知識は究極的にクレオールである、という可能性がこの問題から考えられる。
DuarteやEspinosaの論考では、 “following” という方法論が描かれている。これは何かが世界を動きまわるのを追いかけて、そのときに何が起こっているのかを分析するという手法である。この手法によって、知識の生産や伝達をする主体が何なのかを明らかにすることができ、また権力の問題にも接近できると考えられる。
これらの新しいアプローチはどれも、構造分析を単純にしたり明快にしたりしない。しかし単純なモデルや物語がないからといって、我々は置き去りにされてしまうわけではない。グローバルターンは我々を導く問題や方法論を提供してくれているのである。
この特集の4つの論考は、近年の科学史におけるグローバルヒストリーの台頭(グローバルターン)が与える影響を、ラテンアメリカの科学の4つの分野について検討するものである。どの論考も、19世紀半ばから20世紀半ばまであたりの時代を扱っている。
ラテンアメリカは、グローバルヒストリーがどのように国史や地域史を豊かにできるかを探究するための実験室、モデルを提供できる。1500年以降、ラテンアメリカでは人口が激減し、また大量の移民が流入した。そのため19世紀中頃までには、「西洋/非西洋」「植民地開拓者/植民地開拓された側の者」「中心/周辺」などといった二項対立の概念は単純には適用できなくなっている。歴史家はしばしばlocal knowledgeとindigenous knowledgeを同一視するが、ラテンアメリカにおいてはindigenous knowledgeはlocal knowledgeの一種に過ぎないのであり、「クレオール科学」という概念はこの複雑性をよく捉えている。つまり、科学知識は多様なたくさんの層の人々によって共同でつくられたのである。
従来、ラテンアメリカの歴史家は国民国家を分析の要とし、グローバルは遠景としてしか扱わなかった。また古い世代のグローバルヒストリアンは、ラテンアメリカに歴史上の周辺的地位しか与えてこなかった。より近年のグローバルヒストリーは「中心と周辺」を括弧付きで許容している。グローバルな科学的知識は、中心から最も遠い「周辺」で生み出されることも有りえるのである。
ラテンアメリカの諸国は、他の地域の国々と比べて比較的早く独立することになったが、国民国家を築く過程で科学を必要とした。一方、エリート層は超国家的な科学のネットワークに国を参加させようとした。Duarteの論考は、国家のための科学と超国家的な科学のあいだの緊張関係を描いている。
当時、南の国々は“新”コロンビア交換などの似通った様式のグローバル化を経験したため、似通った問題を共有していた。Prietoの論考で扱われている、異なる地域の砂糖生産者たちが様々な交換をしていた事例などはその一例である。
新しいグローバルヒストリーは、グローバル化を称賛したり、権力の不公平の問題を覆い隠してしまったりする可能性がある。この問題に関して、Rodriguezの論考で “smart centering of Latin America” と呼ばれている議論が求められる。
ラテンアメリカの科学者たちはしばしば、知識生産における地元の非科学者たちの果たした役割を黙殺してきたし、同様に外国の科学者たちはラテンアメリカの科学者たちの役割を黙殺してきた。これらの沈黙は何を意味するだろうか。すべての科学知識は究極的にクレオールである、という可能性がこの問題から考えられる。
DuarteやEspinosaの論考では、 “following” という方法論が描かれている。これは何かが世界を動きまわるのを追いかけて、そのときに何が起こっているのかを分析するという手法である。この手法によって、知識の生産や伝達をする主体が何なのかを明らかにすることができ、また権力の問題にも接近できると考えられる。
これらの新しいアプローチはどれも、構造分析を単純にしたり明快にしたりしない。しかし単純なモデルや物語がないからといって、我々は置き去りにされてしまうわけではない。グローバルターンは我々を導く問題や方法論を提供してくれているのである。
2014年4月11日
ライエルの文章、地質学者の「自由」 O’Connor, The Earth on Show, Ch. 4
Ralph O’Connor, The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856 (Chicago: University of Chicago Press, 2007), 163-187.
第4章 ライエル介入する
ライエルは、英国の科学に新しい概念(地球が非常に古いことなど)や新しい手法(現在因の過去への適用など)を持ち込んだことで今でも評価されている。しかし、これらの概念や手法は当時、多くの実践地質学者たちのあいだで暗黙のうちに用いられていた平凡なものなのであって、ライエルの本当の偉大さは莫大な科学的データを優雅で修辞法的に説得力のある文章で展開したことにこそある。
1. 取り戻された黙示録
人々の創世記への固執は、ライエルにとって科学のために取り除くべき障害であった。地質学における聖書の影響力は直解主義者たちの著述によって大きくなっており、ライエルは聖書と地質学的推論とのあいだの全ての接続(バックランドやコニベアの妥協的理論を含む)を否定する必要を感じていた。「クォータリー・レビュー」においてライエルは直解主義者たちを戯画化し、彼らの教条主義と、彼らによる地質学の侵害を強調した。また、直解主義者たちの説は哲学的情報が普及している国では支持されていない、などとする効果的な文句を法律家的な修辞法で書き立てた。ライエルは広い知識人層を自分の側に取り込もうとしていたのである。
ライエルは、ニュートン力学的な不変の法則を地質学に取り入れようとしていた。のちにヒューウェルが「斉一説論者」「激変説論者」という呼び名を付けたせいで誤解されがちだが、ライエルの「激変説論者」との対立は宇宙論的というより方法論的なものである。
しかし、ライエルの方法論は地球の歴史が極めて長いことを要求しており、ラドウィックが強調したように、「変わる必要があったのは彼らの科学的想像力だった」。地球の歴史は現在因で十分に説明できることを示すために、ライエルは現代の火山や激流の激しさを巧みに描いたり、第三紀の湖の穏やかな様子を描写した後にそれが火山活動によって破壊される様を黙示録的に描いたりした。また、古典的文化の保守的守護者であるウェルギリウスに付き従って地下世界を見たダンテ(どちらもダンテ『神曲』の登場人物)の話をしたり、「謎」「秘密」といった言葉を頻繁に使ったり、地質学者を時間を超越した知的支配をする超人間的な存在として描いたり、視覚に関わる言葉をたくさん使ったりすることで、ライエルは読者の想像力に強く訴えかけていた。
それでも、この「クォータリー・レビュー」の時代はまだ、直解主義者たちの側に勢いがあったのである。
2. 地質学原理
1830年に出版された『地質学原理』第1巻は、保守的な直解主義と革新的な転成主義を非哲学的であるとして排除し、地球史を語ることについての地質学者の権威を宣言することで、地質学を科学の地位に押し上げた。
地球の活動は今も活発であるということを強調するライエルは、人類の記録に残っている数々の地震や噴火、洪水などを、自らの経験も踏まえて一つずつ克明に描写した。ライエルはこれらの現象を壮大に描くことで、読者の大災害に対する欲求を満たし、激変説の支配力を弱めようとしていた。そしてこれらの世界中で起きた現象の数々を読み進めるうちに、読者の視点は全地球的レベルになり、歴史の流れを見下ろせるようになる。こうして地球を「変化の劇場」と思えるようになった読者は、個々の現象の蓄積に、世界を変える力を「感じる」ようになるのである。
このような視点の移行を可能にした方法は、バイロンから借用された。クライマックスとなる章は、バイロンの詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』からの引用で締め括られるが、この詩にはライエルと共通する俯瞰的な見方が含まれている。バイロンの詩のイメージは、個々の歴史的具体例から時の流れへと向かう想像力をライエルの読者に理解させる手助けをしていた。
しかし、バイロンの詩が大洋の永遠性を人間の儚さと対比する哀愁を含んでいたのに対し、ライエルの文章は知的支配の喜びに満ちた調子になっている。ライエルの思考実験(イタリア半島を沈めたり、北極海に陸地を出現させたりする)は徐々に過激になり、そこでのライエルの叙述は仮定法から命令法に移っていった。ライエルは俯瞰する視点で仮想世界を次々に展開させていき、その文章は詩のようになっている(声に出して読み上げてみればその詩的な美しさがわかるだろう)。そしてその最後でライエルは、気候が暖かくなったらイグアノドンなどの昔の生物が出てくるかもしれない、という想像を書いた。これは、下等な生物から高等な生物へと進む方向主義的な創造の歴史という考え方に反対して述べたのだったが、ライエルはこのとき、詩的な想像を巡らせる文章の調子で反直観的な仮説を書いてしまったのだった。
このせいで、ライエルはデ・ラ・ビーチの風刺画によって反撃を受けることになる。その風刺画にはバイロンのある詩の一節が記されており、このことはデ・ラ・ビーチが、ライエルの推論はロマンチックな想像力が過熱したものに過ぎないのではないかと考えていたことを示唆する。
「クォータリー・レビュー」の黙示録的な記述は、『地質学原理』では思考実験に入れ替えられている。ライエルは『地質学原理』のなかで、現代の世界や仮想世界については生き生きと描写しておきながら、なぜ古代の地球については同様の描写をしなかったのだろうか。それは、ライエルにとって地質学的推論の認識論的な力は、昔の世界を描くよりも、むしろ神の代わりとなって世界をつくってみせることで伝えられるものだったからかもしれない。
その力のショーは結局、地質学者の「自由」を強化することになる。地質学者の「自由」が神から与えられたものであるのは、ライエルの記述においては重要なことだった。パノラマ的な視点は地質学者を創世記から解放し、断片的に散りばめられた物語を再構成することを可能にするものだった。ライエルは『地質学原理』において、キュヴィエのいう「新しい秩序の古物収集家」としての地質学者の地位を強調していた。そしてライエルは『地質学原理』を、地質学者たちが地球を解読する仕事のための土台とみなしていた。ライエルは科学的知識を民主化したのではなく、新しい種類の科学的専門家を定義し推進したのである。そして地質学者の権威を宣伝することで、ライエルは新しい科学のための新しい大衆をつくり、大衆教育についての新しい考えを強化していた。
3. ライエルの大衆
『地質学原理』の初版は「クォータリー・レビュー」と同様、保守的で裕福な層をメインターゲットにして書かれたものだったが、ライエルは正しい自然の知識が下流階級の人々にも普及されるべきだと考えていた。そこで1834年に第3版として安い『地質学原理』が出版され、よく売れた。
ライエルの『地質学原理』に対する反応は、好意的なものが多かった。もちろん反対意見も相次いだが、ライエルが科学における哲学的議論の地位を変え、地質学において歴史的解釈と積極的想像力を復権させたことは一般的に認められていた。また、ライエルは新しい地質学の文化的権威と独立性を宣言したことでも重要な役割を果たしており、大衆は地質学者たちを壮大な航海に誘ってくれる信頼に値する人々とみなすようになっていた。1830年以降、地質学に関する通俗書が次々と出版された。バックランドはその代表的な著者の一人である。
地質学の大衆化の開花は、ライエルやバックランドの貢献をはじめ、出版産業の変化、層序学の専門家の需要の増大、ウィッグ党の教育理論、大学改革など、様々な要因が重なったことで発生した。ともかく、ここに地球史の著述の黄金時代が幕を開けたのである。
第4章 ライエル介入する
ライエルは、英国の科学に新しい概念(地球が非常に古いことなど)や新しい手法(現在因の過去への適用など)を持ち込んだことで今でも評価されている。しかし、これらの概念や手法は当時、多くの実践地質学者たちのあいだで暗黙のうちに用いられていた平凡なものなのであって、ライエルの本当の偉大さは莫大な科学的データを優雅で修辞法的に説得力のある文章で展開したことにこそある。
1. 取り戻された黙示録
人々の創世記への固執は、ライエルにとって科学のために取り除くべき障害であった。地質学における聖書の影響力は直解主義者たちの著述によって大きくなっており、ライエルは聖書と地質学的推論とのあいだの全ての接続(バックランドやコニベアの妥協的理論を含む)を否定する必要を感じていた。「クォータリー・レビュー」においてライエルは直解主義者たちを戯画化し、彼らの教条主義と、彼らによる地質学の侵害を強調した。また、直解主義者たちの説は哲学的情報が普及している国では支持されていない、などとする効果的な文句を法律家的な修辞法で書き立てた。ライエルは広い知識人層を自分の側に取り込もうとしていたのである。
ライエルは、ニュートン力学的な不変の法則を地質学に取り入れようとしていた。のちにヒューウェルが「斉一説論者」「激変説論者」という呼び名を付けたせいで誤解されがちだが、ライエルの「激変説論者」との対立は宇宙論的というより方法論的なものである。
しかし、ライエルの方法論は地球の歴史が極めて長いことを要求しており、ラドウィックが強調したように、「変わる必要があったのは彼らの科学的想像力だった」。地球の歴史は現在因で十分に説明できることを示すために、ライエルは現代の火山や激流の激しさを巧みに描いたり、第三紀の湖の穏やかな様子を描写した後にそれが火山活動によって破壊される様を黙示録的に描いたりした。また、古典的文化の保守的守護者であるウェルギリウスに付き従って地下世界を見たダンテ(どちらもダンテ『神曲』の登場人物)の話をしたり、「謎」「秘密」といった言葉を頻繁に使ったり、地質学者を時間を超越した知的支配をする超人間的な存在として描いたり、視覚に関わる言葉をたくさん使ったりすることで、ライエルは読者の想像力に強く訴えかけていた。
それでも、この「クォータリー・レビュー」の時代はまだ、直解主義者たちの側に勢いがあったのである。
2. 地質学原理
1830年に出版された『地質学原理』第1巻は、保守的な直解主義と革新的な転成主義を非哲学的であるとして排除し、地球史を語ることについての地質学者の権威を宣言することで、地質学を科学の地位に押し上げた。
地球の活動は今も活発であるということを強調するライエルは、人類の記録に残っている数々の地震や噴火、洪水などを、自らの経験も踏まえて一つずつ克明に描写した。ライエルはこれらの現象を壮大に描くことで、読者の大災害に対する欲求を満たし、激変説の支配力を弱めようとしていた。そしてこれらの世界中で起きた現象の数々を読み進めるうちに、読者の視点は全地球的レベルになり、歴史の流れを見下ろせるようになる。こうして地球を「変化の劇場」と思えるようになった読者は、個々の現象の蓄積に、世界を変える力を「感じる」ようになるのである。
このような視点の移行を可能にした方法は、バイロンから借用された。クライマックスとなる章は、バイロンの詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』からの引用で締め括られるが、この詩にはライエルと共通する俯瞰的な見方が含まれている。バイロンの詩のイメージは、個々の歴史的具体例から時の流れへと向かう想像力をライエルの読者に理解させる手助けをしていた。
しかし、バイロンの詩が大洋の永遠性を人間の儚さと対比する哀愁を含んでいたのに対し、ライエルの文章は知的支配の喜びに満ちた調子になっている。ライエルの思考実験(イタリア半島を沈めたり、北極海に陸地を出現させたりする)は徐々に過激になり、そこでのライエルの叙述は仮定法から命令法に移っていった。ライエルは俯瞰する視点で仮想世界を次々に展開させていき、その文章は詩のようになっている(声に出して読み上げてみればその詩的な美しさがわかるだろう)。そしてその最後でライエルは、気候が暖かくなったらイグアノドンなどの昔の生物が出てくるかもしれない、という想像を書いた。これは、下等な生物から高等な生物へと進む方向主義的な創造の歴史という考え方に反対して述べたのだったが、ライエルはこのとき、詩的な想像を巡らせる文章の調子で反直観的な仮説を書いてしまったのだった。
このせいで、ライエルはデ・ラ・ビーチの風刺画によって反撃を受けることになる。その風刺画にはバイロンのある詩の一節が記されており、このことはデ・ラ・ビーチが、ライエルの推論はロマンチックな想像力が過熱したものに過ぎないのではないかと考えていたことを示唆する。
「クォータリー・レビュー」の黙示録的な記述は、『地質学原理』では思考実験に入れ替えられている。ライエルは『地質学原理』のなかで、現代の世界や仮想世界については生き生きと描写しておきながら、なぜ古代の地球については同様の描写をしなかったのだろうか。それは、ライエルにとって地質学的推論の認識論的な力は、昔の世界を描くよりも、むしろ神の代わりとなって世界をつくってみせることで伝えられるものだったからかもしれない。
その力のショーは結局、地質学者の「自由」を強化することになる。地質学者の「自由」が神から与えられたものであるのは、ライエルの記述においては重要なことだった。パノラマ的な視点は地質学者を創世記から解放し、断片的に散りばめられた物語を再構成することを可能にするものだった。ライエルは『地質学原理』において、キュヴィエのいう「新しい秩序の古物収集家」としての地質学者の地位を強調していた。そしてライエルは『地質学原理』を、地質学者たちが地球を解読する仕事のための土台とみなしていた。ライエルは科学的知識を民主化したのではなく、新しい種類の科学的専門家を定義し推進したのである。そして地質学者の権威を宣伝することで、ライエルは新しい科学のための新しい大衆をつくり、大衆教育についての新しい考えを強化していた。
3. ライエルの大衆
『地質学原理』の初版は「クォータリー・レビュー」と同様、保守的で裕福な層をメインターゲットにして書かれたものだったが、ライエルは正しい自然の知識が下流階級の人々にも普及されるべきだと考えていた。そこで1834年に第3版として安い『地質学原理』が出版され、よく売れた。
ライエルの『地質学原理』に対する反応は、好意的なものが多かった。もちろん反対意見も相次いだが、ライエルが科学における哲学的議論の地位を変え、地質学において歴史的解釈と積極的想像力を復権させたことは一般的に認められていた。また、ライエルは新しい地質学の文化的権威と独立性を宣言したことでも重要な役割を果たしており、大衆は地質学者たちを壮大な航海に誘ってくれる信頼に値する人々とみなすようになっていた。1830年以降、地質学に関する通俗書が次々と出版された。バックランドはその代表的な著者の一人である。
地質学の大衆化の開花は、ライエルやバックランドの貢献をはじめ、出版産業の変化、層序学の専門家の需要の増大、ウィッグ党の教育理論、大学改革など、様々な要因が重なったことで発生した。ともかく、ここに地球史の著述の黄金時代が幕を開けたのである。
2014年4月8日
科学リテラシーの再定義 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Epilogue
Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 229–238.
この本の主目的は、一般的な考えでの科学リテラシーは一般教育の目標として実現できないということ、そして科学教育を大部分の生徒にとって意義あるものにするにはこの目標が再定義されなければならないということを示すことであった。従来の科学リテラシーは科学知識の獲得に焦点を当ててきたが、以下のような本当に必要とされている事柄に焦点が当て直されるべきである。
(a) 科学やテクノロジーの事業がどのように働くかについての意識をもつこと。
(b) 大衆に、科学とは何であるかについて知ってもらい満足してもらうこと。
(c) 大衆に、科学から何が予期されうるのか理解してもらうこと。
(d) 科学やテクノロジーの事業に関して、どうしたら大衆の意見によく耳が傾けられるか知ること。
また、テクノロジーは一般教育において、科学の派生物としてではなく、科学教育の出発点として捉えられるべきである。
従来、楽観的な教育者たちは科学教育が目標を達成できていないことを認めつつも、カリキュラムを改善することでその目標は達成できるとみなしてきた。しかしカリキュラムの改革だけでは解決にならない。一般教育の目標それ自体と、その目標を達成するための方法の両方を変えることが必要になっている。
そのために連邦政府にできることはなんだろうか? それは教育調査であり、学校に対する資金援助であり、教育の実験プログラムを認めることである。
教育を改善する一つの方法は公立学校の私立化だろう。アメリカの私立学校は全体の人数の1~2割程度であるものの、公立学校より少ない資金で高いレベルの教育をしている。私立学校は、公立学校で存在する問題に直面していないことで有利になっている面もあるが、機会を与えられさえすれば公立学校よりうまくやるように思える。私立化には課題はあるが、いずれも克服できない課題とはいえないだろう。
ところで、他の先進工業国と同様に、アメリカの科学は男性中心で進んできた。この状況は近年では多少改善されてきており、学士号取得者に占める女性の割合は、生命科学で約半分(15年前は30%だった)、数学で46%、化学やコンピュータ科学で37%となっている。一方、物理学や工学では15%に留まっている。女性が物理学や工学の進路を避ける傾向があるのは、数学的な事柄を扱うことに対して気が進まないからというよりも、自己像や、それらの分野に進むことで得られるキャリアについての受容の問題であろう。
アメリカで科学が一般教育に取り込まれて以来、「大衆のための科学」という高尚なテーマを主張することが繰り返され、それは今では「科学リテラシー」を求める声となっている。また、スペンサー、ハクスリー、ポアンカレ、デューイ、Bronowski、スノーといった人々は、誰もが科学に熟達すべきなのだと主張してきた。しかし歴史は、そのような目標の達成が不可能であることを示しており、我々はこの歴史から学ばなければならない。我々は「科学はなぜ全ての生徒に要求されるべきなのか」と「その科学とは何から成り立っているのか」を真剣に問わなければならないのである。
この本の主目的は、一般的な考えでの科学リテラシーは一般教育の目標として実現できないということ、そして科学教育を大部分の生徒にとって意義あるものにするにはこの目標が再定義されなければならないということを示すことであった。従来の科学リテラシーは科学知識の獲得に焦点を当ててきたが、以下のような本当に必要とされている事柄に焦点が当て直されるべきである。
(a) 科学やテクノロジーの事業がどのように働くかについての意識をもつこと。
(b) 大衆に、科学とは何であるかについて知ってもらい満足してもらうこと。
(c) 大衆に、科学から何が予期されうるのか理解してもらうこと。
(d) 科学やテクノロジーの事業に関して、どうしたら大衆の意見によく耳が傾けられるか知ること。
また、テクノロジーは一般教育において、科学の派生物としてではなく、科学教育の出発点として捉えられるべきである。
従来、楽観的な教育者たちは科学教育が目標を達成できていないことを認めつつも、カリキュラムを改善することでその目標は達成できるとみなしてきた。しかしカリキュラムの改革だけでは解決にならない。一般教育の目標それ自体と、その目標を達成するための方法の両方を変えることが必要になっている。
そのために連邦政府にできることはなんだろうか? それは教育調査であり、学校に対する資金援助であり、教育の実験プログラムを認めることである。
教育を改善する一つの方法は公立学校の私立化だろう。アメリカの私立学校は全体の人数の1~2割程度であるものの、公立学校より少ない資金で高いレベルの教育をしている。私立学校は、公立学校で存在する問題に直面していないことで有利になっている面もあるが、機会を与えられさえすれば公立学校よりうまくやるように思える。私立化には課題はあるが、いずれも克服できない課題とはいえないだろう。
ところで、他の先進工業国と同様に、アメリカの科学は男性中心で進んできた。この状況は近年では多少改善されてきており、学士号取得者に占める女性の割合は、生命科学で約半分(15年前は30%だった)、数学で46%、化学やコンピュータ科学で37%となっている。一方、物理学や工学では15%に留まっている。女性が物理学や工学の進路を避ける傾向があるのは、数学的な事柄を扱うことに対して気が進まないからというよりも、自己像や、それらの分野に進むことで得られるキャリアについての受容の問題であろう。
アメリカで科学が一般教育に取り込まれて以来、「大衆のための科学」という高尚なテーマを主張することが繰り返され、それは今では「科学リテラシー」を求める声となっている。また、スペンサー、ハクスリー、ポアンカレ、デューイ、Bronowski、スノーといった人々は、誰もが科学に熟達すべきなのだと主張してきた。しかし歴史は、そのような目標の達成が不可能であることを示しており、我々はこの歴史から学ばなければならない。我々は「科学はなぜ全ての生徒に要求されるべきなのか」と「その科学とは何から成り立っているのか」を真剣に問わなければならないのである。
2014年3月28日
マイアとアンダーソン、1941年の動物と植物の進化論 Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist”
Kim Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist: Edgar Anderson Prepares the 1941 Jesup Lectures with Ernst Mayr,” Journal of the History of Biology 46 (2012): 73–101.
1941年にマイアとアンダーソンは、それぞれ動物分野と植物分野の立場を代表して共同でコロンビア大学のジェサップ講義を行った。この論文は、このときの二人の文通を調査し、彼らの視点を理解することでこの時期の進化論における中心的問題についての洞察を得るものである。
p. 75
1936年のドブジャンスキーのジェサップ講義、および1937年の『遺伝学と種の起源』はメンデル遺伝学と進化のプロセスがどのように両立するかを示していた。ドブジャンスキーとコロンビア大学のL. C. Dunnは次の段階として、アンダーソンとマイアに「分類学の問題」あるいは「分類学(体系学)と種の起源」について議論するように依頼した。マイアはニューヨークの自然史博物館で働いていたので、ドブジャンスキーやDunnと定期的に共同研究することができた。マイアは彼らと議論した上で、その視点をアンダーソンと共有した。
遺伝学者のアンダーソンはマイアより7歳年上で、経験も多く積んでいた。アンダーソンはBussey Institutionのエドワード・イーストのもとで博士号を取得したあと、1922年からミズーリ植物園に勤め、Iris(アヤメ属)で自然選択が働く変異の供給源としての雑種形成と突然変異の相対的重要性を検証していた。アンダーソンは、種間の相違は個体間の相違とは全く異なる階級のものであると考え、個体間の相違が自然選択などの影響で種間の相違を形作るという証拠はないと判断していた。突然変異から得られた変異の相違の蓄積では、種分化は説明できないと考えていたのである。続くTradescantia(ムラサキツユクサ属)の研究では、断片化、倍数性、雑種形成をそこで働いている進化プロセスとみなした。また、Karl Saxなどから細胞学の知見を仕入れていた。アンダーソンは分類学者と密接に関係した遺伝学者であり、フィールドワークを好みつつも、実験室における新しい技術も理解していた。そして、突然変異が種の相違をもたらすのかについては疑問を抱いていた。
p. 79
マイアとアンダーソンは、当時の進化の問題について異なった評価と理解をしていた。1940年から41年の二人の文通を検討してみよう。
マイアは、博物館の動物学者たちのように集団のサンプルを取らない伝統に反逆し、mass collectionの概念を推進しようとしていた。この動きに功がある植物学者として、マイアはイングランドのW. B. Turrill、ウィスコンシンのNorman Fassett、そしてアンダーソンの名前を挙げ、特にアンダーソンが集団の概念を植物学者たちに広めるのに最も貢献していると評している。アンダーソンは当時のマイアへの手紙で、分類学における集団研究の重要性に賛同している。マイアの返信では、動物と植物の分類学の不一致は採集方法の違いにあるのではないかと記している。
二人は講義についての実践的な打ち合わせも始めていた。マイアはアンダーソンが書いたイントロダクションを高く評価し、講義の初回に位置づけようとする。アンダーソンもマイアの原稿に満足し、その英語を添削していた。アンダーソンのショウジョウバエ研究者たちの考えに反する異説についてもマイアは励ましていた。
p. 83
1963年にマイアが『動物の種と進化』を出版したとき、マイアはより一般化して植物も含めるよう他の人々に勧められたが、それぞれの界がそれぞれの進化的特徴をもっていることを重要視して従わなかった。
1940年にハクスリー編集の『新しい体系学』が出版されたとき、アンダーソンはその書評で批判を書いた。ドブジャンスキーはこの批判を厳しすぎると評し、マイアはアンダーソンにそれを伝えた上で自分もドブジャンスキーに同意すると述べた。アンダーソンはミズーリ植物園の同僚たちの意見を聞いて書評を書いていたが、そこではJens ClausenやDavid Keckなどのバイオシステマティストがほとんど引用されていないことが批難されていた。意識的に総合を成し遂げようとしていたマイアと異なり、アンダーソンはマイアのように政治的になる必要性を感じていなかった。また、J. S. L. Gilmourが書いた分類学の哲学的基礎に関する意見も割れ、マイアはGilmourが集団思考を欠いていることを強く批判したのに対し、アンダーソンはそれを認めつつも、アメリカの生物学者たちが特に読んで考えるべき議論をしていると擁護した。
p. 85
生物学的種概念はマイアとアンダーソンの議論の中心にあった。マイアはドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』の最終章「自然単位としての種」のアイデアを拡張し、「実際的あるいは潜在的な自然交配集団のグループで、そのような他のグループから生殖的に隔離されているもの」という種の定義を『体系学と種の起源』で発表することになる。しかしアンダーソンとの文通で、マイアはこの種概念を生物一般に適用しようとすると困難に直面することに気付かされていた。アンダーソンはマイアへの手紙で、植物の種分化の複雑さを説明し、植物分類学者が脊椎動物分類学の概念を適用しようとしないのは生物学的な理由があるのだと推測した。マイアはこれに対し、鳥類や動物の体系学は植物の体系学に比べずっと単純な問題なのだろうと述べた。アンダーソンにとって、総合の前に為されるべき仕事はたくさんあり、総合の実現可能性は未決問題であった。
p. 87
ドブジャンスキーはジェサップ講義と『遺伝学と種の起源』において、種の起源は小進化レベルの遺伝的変化で説明でき、大進化もその基礎のもとに説明できることを示した。マイアとアンダーソンが貢献できることは、種分化がどのように起きるか説明することだった。マイアはアンダーソンへの手紙で、ゴールドシュミットが地理的変異を通しての種分化を否定していることを批判している。マイアによれば、ゴールドシュミットは同所性と異所性のギャップを混同しており、同所性のギャップはbridgeless gapsであるという前提から、異所性の種間のギャップも含めてすべての種間のギャップはbridgeless gapsであるという推論をしてしまっているという。マイアは『体系学と種の起源』の第7章で、種概念と、隔離をもたらし維持するメカニズムとを結びつけた。
一方アンダーソンはゴールドシュミットの『進化の物質的基礎』(1940)について、無批判ではないが好意的な見方をもっていた。アンダーソンはゴールドシュミットの正統的でない結論について、科学的かつ正当に確立されたとはいえないとしつつも、個人的には作業仮説として賛成だとも述べていた。ゴールドシュミットの方も、『進化の物質的基礎』でアンダーソンを10回、バブコックを9回と、数理集団遺伝学者たちよりも多く引用していた。ゴールドシュミットはアンダーソンの仕事をもとにして、Irisにおいて種内の変異は種間の変異をつくらないと論じた。アンダーソンはIrisについての最初の論文(1928)で「種間の相違は個体間の相違とはまったく異なる階級のものである」と述べていた。アンダーソンはマイアへの手紙でも、ゴールドシュミットが言うbridgeless gapsのような異なる階級の相違が種より上のレベルにあると考えているといい、そのようなカテゴリーは種のグループや、亜属や、属などにあたるだろうと述べた。マイアがゴールドシュミットを批判することで種分化や種概念についての考えを明確化したのに対し、アンダーソンにとってゴールドシュミットのアイデアは未解決の、議論途中の問題であった。
p. 90
マイアが早い時期から講義の準備を入念に進めたのに対し、アンダーソンはそれほどでもなかった。ここには、ドブジャンスキーと同じようにジェサップ講義を用いようと考えていたマイアと、まだ大文字の進化が解き明かされそうにはないと考えていたアンダーソンの意識の差があった。マイアは講義で決定的なことを言おうとしていたのに対し、アンダーソンは示唆的なアイデアを試す場にしようとしていた。
アンダーソンは聴衆がどのような人々でどのくらいの人数であるかを気にしていた。マイアは、ドブジャンスキーの講義を聴いたときの聴衆は大学院生と教員たちで、主にコロンビア大学だがそれ以外の組織からも来ていたと伝えた。また人数については50人を超えず25~30人くらいかもしれないと言い、聴衆が少ないことにいつも驚いていると述べた。
p. 92
アンダーソンが実際にどのような講義を行ったかについては史料が少なく、わからない部分が多いが、植物の種分化の複雑性をテーマの一つにした可能性は高い。アンダーソンは1928年の論文で、幾千の遺伝子突然変異が積み重なって種間の相違になるというショウジョウバエ研究者たちの意見には同意せず、進化の要因としての雑種形成や遺伝子侵入や遺伝子連鎖の役割を検討していた。遺伝子突然変異は個体の相違を説明するには十分であるものの、種間の相違はそれだけで説明できないという立場である。1949年の『移入をきたす雑種形成』では進化のメカニズムとしての雑種形成の役割を論じており、このテーマは講義の内容にも入っていたと考えられる。この本ではアンダーソンは、遺伝子侵入による連鎖形質から来る変異性は、自然選択が働く対象として突然変異より潜在的に重要と結論づけている。
アンダーソンは、壮大な理論的総合よりも、植物進化を形作る力を研究するための示唆的なアプローチを提供していた。アンダーソンがジェサップ講義の内容を本にまとめることを約束していながら結局果たさず、トウモロコシのプロジェクトを立ち上げ、移入をきたす雑種形成の研究を進めていったが、これも総合的・決定的なことを言おうとする研究ではなかった。アンダーソンの本が現れなかったことは、動物中心の総合は不完全で特に植物進化生物学を説明するには不適切だという判断を反映していた。
アンダーソンはサンフランシスコ湾岸地帯のバイオシステマティストのグループにも関わり、進化の問題に取り組んでいた植物学者たちの中でも中心的な存在であった。しかしその彼が総合の鍵となる出来事であったジェサップ講義の際にとった立場は以上のように、安易に基本原理を打ち立てることに対して警戒するものであったのである。
1941年にマイアとアンダーソンは、それぞれ動物分野と植物分野の立場を代表して共同でコロンビア大学のジェサップ講義を行った。この論文は、このときの二人の文通を調査し、彼らの視点を理解することでこの時期の進化論における中心的問題についての洞察を得るものである。
p. 75
1936年のドブジャンスキーのジェサップ講義、および1937年の『遺伝学と種の起源』はメンデル遺伝学と進化のプロセスがどのように両立するかを示していた。ドブジャンスキーとコロンビア大学のL. C. Dunnは次の段階として、アンダーソンとマイアに「分類学の問題」あるいは「分類学(体系学)と種の起源」について議論するように依頼した。マイアはニューヨークの自然史博物館で働いていたので、ドブジャンスキーやDunnと定期的に共同研究することができた。マイアは彼らと議論した上で、その視点をアンダーソンと共有した。
遺伝学者のアンダーソンはマイアより7歳年上で、経験も多く積んでいた。アンダーソンはBussey Institutionのエドワード・イーストのもとで博士号を取得したあと、1922年からミズーリ植物園に勤め、Iris(アヤメ属)で自然選択が働く変異の供給源としての雑種形成と突然変異の相対的重要性を検証していた。アンダーソンは、種間の相違は個体間の相違とは全く異なる階級のものであると考え、個体間の相違が自然選択などの影響で種間の相違を形作るという証拠はないと判断していた。突然変異から得られた変異の相違の蓄積では、種分化は説明できないと考えていたのである。続くTradescantia(ムラサキツユクサ属)の研究では、断片化、倍数性、雑種形成をそこで働いている進化プロセスとみなした。また、Karl Saxなどから細胞学の知見を仕入れていた。アンダーソンは分類学者と密接に関係した遺伝学者であり、フィールドワークを好みつつも、実験室における新しい技術も理解していた。そして、突然変異が種の相違をもたらすのかについては疑問を抱いていた。
p. 79
マイアとアンダーソンは、当時の進化の問題について異なった評価と理解をしていた。1940年から41年の二人の文通を検討してみよう。
マイアは、博物館の動物学者たちのように集団のサンプルを取らない伝統に反逆し、mass collectionの概念を推進しようとしていた。この動きに功がある植物学者として、マイアはイングランドのW. B. Turrill、ウィスコンシンのNorman Fassett、そしてアンダーソンの名前を挙げ、特にアンダーソンが集団の概念を植物学者たちに広めるのに最も貢献していると評している。アンダーソンは当時のマイアへの手紙で、分類学における集団研究の重要性に賛同している。マイアの返信では、動物と植物の分類学の不一致は採集方法の違いにあるのではないかと記している。
二人は講義についての実践的な打ち合わせも始めていた。マイアはアンダーソンが書いたイントロダクションを高く評価し、講義の初回に位置づけようとする。アンダーソンもマイアの原稿に満足し、その英語を添削していた。アンダーソンのショウジョウバエ研究者たちの考えに反する異説についてもマイアは励ましていた。
p. 83
1963年にマイアが『動物の種と進化』を出版したとき、マイアはより一般化して植物も含めるよう他の人々に勧められたが、それぞれの界がそれぞれの進化的特徴をもっていることを重要視して従わなかった。
1940年にハクスリー編集の『新しい体系学』が出版されたとき、アンダーソンはその書評で批判を書いた。ドブジャンスキーはこの批判を厳しすぎると評し、マイアはアンダーソンにそれを伝えた上で自分もドブジャンスキーに同意すると述べた。アンダーソンはミズーリ植物園の同僚たちの意見を聞いて書評を書いていたが、そこではJens ClausenやDavid Keckなどのバイオシステマティストがほとんど引用されていないことが批難されていた。意識的に総合を成し遂げようとしていたマイアと異なり、アンダーソンはマイアのように政治的になる必要性を感じていなかった。また、J. S. L. Gilmourが書いた分類学の哲学的基礎に関する意見も割れ、マイアはGilmourが集団思考を欠いていることを強く批判したのに対し、アンダーソンはそれを認めつつも、アメリカの生物学者たちが特に読んで考えるべき議論をしていると擁護した。
p. 85
生物学的種概念はマイアとアンダーソンの議論の中心にあった。マイアはドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』の最終章「自然単位としての種」のアイデアを拡張し、「実際的あるいは潜在的な自然交配集団のグループで、そのような他のグループから生殖的に隔離されているもの」という種の定義を『体系学と種の起源』で発表することになる。しかしアンダーソンとの文通で、マイアはこの種概念を生物一般に適用しようとすると困難に直面することに気付かされていた。アンダーソンはマイアへの手紙で、植物の種分化の複雑さを説明し、植物分類学者が脊椎動物分類学の概念を適用しようとしないのは生物学的な理由があるのだと推測した。マイアはこれに対し、鳥類や動物の体系学は植物の体系学に比べずっと単純な問題なのだろうと述べた。アンダーソンにとって、総合の前に為されるべき仕事はたくさんあり、総合の実現可能性は未決問題であった。
p. 87
ドブジャンスキーはジェサップ講義と『遺伝学と種の起源』において、種の起源は小進化レベルの遺伝的変化で説明でき、大進化もその基礎のもとに説明できることを示した。マイアとアンダーソンが貢献できることは、種分化がどのように起きるか説明することだった。マイアはアンダーソンへの手紙で、ゴールドシュミットが地理的変異を通しての種分化を否定していることを批判している。マイアによれば、ゴールドシュミットは同所性と異所性のギャップを混同しており、同所性のギャップはbridgeless gapsであるという前提から、異所性の種間のギャップも含めてすべての種間のギャップはbridgeless gapsであるという推論をしてしまっているという。マイアは『体系学と種の起源』の第7章で、種概念と、隔離をもたらし維持するメカニズムとを結びつけた。
一方アンダーソンはゴールドシュミットの『進化の物質的基礎』(1940)について、無批判ではないが好意的な見方をもっていた。アンダーソンはゴールドシュミットの正統的でない結論について、科学的かつ正当に確立されたとはいえないとしつつも、個人的には作業仮説として賛成だとも述べていた。ゴールドシュミットの方も、『進化の物質的基礎』でアンダーソンを10回、バブコックを9回と、数理集団遺伝学者たちよりも多く引用していた。ゴールドシュミットはアンダーソンの仕事をもとにして、Irisにおいて種内の変異は種間の変異をつくらないと論じた。アンダーソンはIrisについての最初の論文(1928)で「種間の相違は個体間の相違とはまったく異なる階級のものである」と述べていた。アンダーソンはマイアへの手紙でも、ゴールドシュミットが言うbridgeless gapsのような異なる階級の相違が種より上のレベルにあると考えているといい、そのようなカテゴリーは種のグループや、亜属や、属などにあたるだろうと述べた。マイアがゴールドシュミットを批判することで種分化や種概念についての考えを明確化したのに対し、アンダーソンにとってゴールドシュミットのアイデアは未解決の、議論途中の問題であった。
p. 90
マイアが早い時期から講義の準備を入念に進めたのに対し、アンダーソンはそれほどでもなかった。ここには、ドブジャンスキーと同じようにジェサップ講義を用いようと考えていたマイアと、まだ大文字の進化が解き明かされそうにはないと考えていたアンダーソンの意識の差があった。マイアは講義で決定的なことを言おうとしていたのに対し、アンダーソンは示唆的なアイデアを試す場にしようとしていた。
アンダーソンは聴衆がどのような人々でどのくらいの人数であるかを気にしていた。マイアは、ドブジャンスキーの講義を聴いたときの聴衆は大学院生と教員たちで、主にコロンビア大学だがそれ以外の組織からも来ていたと伝えた。また人数については50人を超えず25~30人くらいかもしれないと言い、聴衆が少ないことにいつも驚いていると述べた。
p. 92
アンダーソンが実際にどのような講義を行ったかについては史料が少なく、わからない部分が多いが、植物の種分化の複雑性をテーマの一つにした可能性は高い。アンダーソンは1928年の論文で、幾千の遺伝子突然変異が積み重なって種間の相違になるというショウジョウバエ研究者たちの意見には同意せず、進化の要因としての雑種形成や遺伝子侵入や遺伝子連鎖の役割を検討していた。遺伝子突然変異は個体の相違を説明するには十分であるものの、種間の相違はそれだけで説明できないという立場である。1949年の『移入をきたす雑種形成』では進化のメカニズムとしての雑種形成の役割を論じており、このテーマは講義の内容にも入っていたと考えられる。この本ではアンダーソンは、遺伝子侵入による連鎖形質から来る変異性は、自然選択が働く対象として突然変異より潜在的に重要と結論づけている。
アンダーソンは、壮大な理論的総合よりも、植物進化を形作る力を研究するための示唆的なアプローチを提供していた。アンダーソンがジェサップ講義の内容を本にまとめることを約束していながら結局果たさず、トウモロコシのプロジェクトを立ち上げ、移入をきたす雑種形成の研究を進めていったが、これも総合的・決定的なことを言おうとする研究ではなかった。アンダーソンの本が現れなかったことは、動物中心の総合は不完全で特に植物進化生物学を説明するには不適切だという判断を反映していた。
アンダーソンはサンフランシスコ湾岸地帯のバイオシステマティストのグループにも関わり、進化の問題に取り組んでいた植物学者たちの中でも中心的な存在であった。しかしその彼が総合の鍵となる出来事であったジェサップ講義の際にとった立場は以上のように、安易に基本原理を打ち立てることに対して警戒するものであったのである。
登録:
投稿 (Atom)