引き続き、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
春学期に近代科学史の授業で読んだ論文や章の一部をまとめました。
Mary Terrall, “Representing the Earth’s Shape: The Polemics Surrounding Maupertuis’s Expedition to Lapland” (1992)
1730年代のパリでは地球の形状をめぐる論争があり、モーペルテュイらは地球が横長だと主張し、逆にジャック・カッシーニらは縦長だと主張した。この論争はしばしば、新たに台頭したニュートン主義と頑迷なデカルト主義の対立として説明される。しかし、実際の論争の中心となった論点はそのような宇宙論的な問題ではなく、むしろ測定装置の良さや観測の正確性、数学的な取扱いの適切さの問題であった。モーペルテュイは新しい数学的手法である微積分や英国製の装置を高く評価し、かつてジョヴァンニ・カッシーニによって築かれたパリの天文学者の権威に挑戦することになった。モーペルテュイはこの論争を利用して、アカデミーの外部で名を上げることに成功した。
I. Bernard Cohen, Benjamin Franklin’s Science, chs.1–2. (1990)
ニュートンの『プリンキピア』と『光学』は、前者はラテン語で後者は英語で書かれたことに象徴されるように、科学として異なる方向性をもち、別々のニュートン主義的伝統の土台を築いていた。『光学』は、定量的な実験科学の著作であるが、数学をほとんど用いないという特徴がある。フランクリンは『プリンキピア』を読みこなして理解する力をもっていなかったが、『光学』から大きな影響を受け、電気を一種類の流体として説明した。
Robert Fox, “The Rise and Fall of Laplacian Physics” (1974)
18世紀末から19世紀初頭、特にナポレオン皇帝時代の1805年から1815年にかけてのパリでは、ラプラスがその政治力を背景として牽引したプログラムが物理科学に強い影響力をもった。ラプラスの物理学では、熱、光、電気、磁気といった現象が、相互に引力や斥力を働かせる粒子から成る不可秤量流体というニュートン主義的な概念によって説明された。ラプラスのプログラムは、ラプラスとベルトレが中心となり、ビオやポアソンといったアルクイユ会のメンバーや、ゲイ=リュサックなどによって支えられた。しかし、徐々に説明がうまくいかない事柄が増え、フーリエ、フレネル、アンペールらによる対抗理論の提唱もあって、ナポレオン没落以降は衰退した。
Eugene Frankel, “J. B. Biot and the Mathematization of Experimental Physics in Napoleonic France” (1977)
ラプラスとベルトレのプログラムは、新しい器具や技術の使用によって実験物理学の定量化を進め、測定の正確性を向上させ、物理変数間の関係を代数学的に表現し、その結果を不可秤量流体の理論によって説明しようとするものであった。このプログラムのもとで、ジャン=バティスト・ビオは電気、磁気、音、光、熱など、様々な研究分野を転々とした。このプログラムの着想は主にラプラスとベルトレによるが、その着想を具体的な形にしたのはビオの貢献が大きい。
Lawrence M. Principe, “A Revolution Nobody Noticed? Changes in Early Eighteenth-Century Chymistry” (2007)
これまで、化学史といえば18世紀であり、18世紀の化学といえばラヴォアジェであるという理解がまかり通ってきた。それゆえ18世紀の化学史は、ラヴォアジェによる「革命」を説明するために必要な話題ばかりが集中的に取り上げられてきた。ゲオルク・シュタールの化学のなかでフロギストン説だけが注目され、その他は捨て置かれているのはその一例である。ラヴォアジェ中心の化学史は、目的論的であり視野が狭いという問題がある。
1675年頃から1725年頃のあいだに起きた変化は、1760年頃から1810年頃の化学革命に匹敵する急激かつ重要なもので、もう一つの革命ともいえる。ボイルとラヴォアジェのあいだの時代にはキミストリー(chymistry)に大きな発展はなかったかのような説明はおかしい。18世紀初頭には、金属変成の術(chrysopoeia)もしくは変成(transmutation)が真剣な研究の領域から排除され、化学やその実践者たちの地位や職業的性格が高まり、顕著な理論的な刷新があった。この時代のフランス科学アカデミーでは、スキャンダルなどによってキミストリーの社会的地位が危うくなっていたため、フォントネルやニコラ・レムリが中心となって金属変成を追放し、キミストリーを再生しようとしたのである。この時点をもって初めて、同義語であった「錬金術」と「化学」が、それぞれ現代的な異なる意味をもつようになった。
フランス科学アカデミーに所属し、金属変成を熱心に研究していたヴィルヘルム・ホンブルグの研究を綿密に見ていくと、当時のキミストリーがきわめて理論的、体系的で、成熟していたことがよくわかる。我々は、わずかな理論的記述にばかり注目するのではなく、キミストリー最大の特徴である実践に注目し、そこに潜んでいる彼らの思考プロセスを明らかにする必要がある。
よく普及しているストーリーとして、1675年頃から1725年頃までのあいだに、合理的なデカルト主義の化学がアリストテレス主義・パルケルスス主義の17世紀のキミストリーに取って代わり、さらにそこにニュートン主義の化学が取って代わったというものがある。しかし、重要な化学者のうちに本物のデカルト主義者はいなかった。しばしばデカルト主義者の例として言及されるレムリの化学にさえ、実際のところデカルトはあまり影響を及ぼしていない。また、ニュートンは18世紀の化学の本流を説明する上では不要な名前である。ニュートンの名前は宣伝のために用いられることはあったが、真の影響を及ぼしてはいなかった。デカルト主義とニュートン主義の対立は物理学に見られるが、化学ではほとんど見られない。
John Gascoigne, “Joseph Banks and the Expansion of Empire” (1998)
アメリカ独立革命からナポレオン戦争の終結までの時代の英国では、その帝国主義的政策を一手に担う省庁(植民地省)が存在せず、そのためにジョセフ・バンクスのような政府内に役職をもたない専門家が助言し関与する余地が生じた。バンクスは政府要人とのパイプを活かし、アフリカ協会やロンドン伝道協会といった団体を動かして探検を加速させ、植民地の農業改良に注力し、英国の帝国主義的拡大に寄与した。のちのイギリス第二帝国による植民地政策の性格は、実はこの時期に形成されていたのである。
John Gascoigne, “The Royal Society and the Emergence of Science as an Instrument of State Policy” (1999)
パリやベルリンのアカデミーとは異なり、ロンドンの王立協会は政府から資金援助や指示を受けておらず、その自主性や独立性を誇りとしていた。しかし実際には、王立協会のメンバーは政府中枢の重要人物たちと個人的関係や階級意識で繋がっており、政府に科学関係の助言を与えていた。特に、1778年にジョセフ・バンクスが王立協会の会長に就任してからは、その結びつきが一層強まった。このように非公式な方法で政府の仕事に携わることを可能にしていた寡頭制の政治体制は19世紀に強く批判されるようになり、王立協会はより正式な方法で国家の政策に関与するようになった。総力戦下の1916年になってようやく、政府内に科学を専門に扱う科学産業研究庁が組織された。哲学者と政治家が手を携えるフランシス・ベーコンの理想は、最終的に戦争によって実現したのだといえる。
Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (2010)
Introduction
ジョセフ・ダルトン・フッカーは、科学の担い手がジェントルマンから職業的科学者へと変わっていった時代の人物である。フッカーは自分や他人を評すとき、「プロフェッショナルかアマチュアか」ではなく「哲学的かどうか」という基準を用いた。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実の狭間にあったことの表れだと考えられる。
Ch. 10 “Governing”
1865年にキュー植物園の園長に就任したフッカーには、収入を遺産やパトロンではなく政府に頼る立場でありながら、ジェントルマンを自認するというキメラ的性質があった。キュー植物園自体にも、公によって維持され運営されてきたものであるが、一方でフッカーの父ウィリアムが私的に築き上げてきたものでもあるというハイブリッド的性質があった。キュー植物園は午後の時間帯に一般の人々に開放されていたが、これはフッカーにとって、貧しい人々にも美しい空間を分け与えるというジェントルマンとしての務めであった。1870年代初頭、建設長官のアイルトン(Acton Smee Ayrton)がキュー植物園を一般向けの公園にして研究機能は大英博物館に移管させようとしたことで、キュー植物園の管理権を主張するフッカーやそれに同調したハクスリーやダーウィンらとのあいだにアイルトン論争が生じた。アイルトンは近代的な官僚制を適用して科学をプロフェッショナル化しようとしたのに対し、フッカーらはジェントルマンの科学を維持しようとする立場から抵抗したのである。
Bruce J. Hunt, “Doing Science in a Global Empire: Cable Telegraphy and Electrical Physics in Victorian Britain” (1997)
帝国の文脈は、地質学や植物学、動物学などといった自然史系の分野のみならず、電磁気学の形成にも深く関わった。19世紀後半の英国は、陸上のみならず大西洋海底にも電信ケーブルを敷設して、アメリカ、エジプト、インド、香港、オーストラリアに至るまで、世界中の植民地と英国を電信網で結んで「帝国の神経」とした。この電信網の敷設と運用に膨大な資金と人的資源が投入された結果、英国では電気に関わる単位や規格の標準化や、測定技術の発展が進んだ。また、電磁気現象を「場」の考え方を用いて定式化するファラデーのアプローチは当初支持されなかったが、海底電信ケーブルの問題を扱う上で都合が良いことがわかり、英国で独自の発展を遂げた。ドイツやフランスでは電磁気現象を粒子間の遠隔作用として捉えるアプローチが19世紀を通して支配的であったのに対し、英国では1850年代半ばから「場」のアプローチが台頭し、1860年代から80年代にかけてマクスウェルとその後継者たちによって理論が完成されたのである。マクスウェルの理論は、1888年にドイツのヘルツが電磁波の存在を実験的に示したことで確証されたが、同時に無線電信技術への道が開かれ、英国の情報優位が失われる結果につながったのは皮肉だといえる。
Robert Kargon, “Model and Analogy in Victorian Science: Maxwell’s Critique of the French Physicists” (1969)
19世紀初頭の物理学では、ニュートン主義の立場をとるラプラスやポアソンらの学派が、遠隔作用を働かせる粒子の存在を前提した上で、そこから演繹された現象を実験結果と比較する手法で物理現象の説明を進めていた。一方、実証主義者のフーリエやそれに追随したオームらは、原因ではなく法則のみを追求し、物理学を数学に還元しようとしていた。マクスウェルは、現象から出発しない前者の手法にも、物理的内実を欠いた後者の手法にも満足できず、別の手法として物理的アナロジーをつくる方向に進んだ。こうしてマクスウェルは、ファラデーの電気力線についての論文(1861–62)で有名な渦のモデルを提案したが、これを真の物理学理論だと考えていたわけではない。マクスウェルは、このようなアナロジーをつくることのメリットは、それが何も説明しないことにあると考えていた。渦のモデルが足掛かりとなって完成された論文「電磁場の動力学的理論」(1865)では、アナロジーは姿を消すことになった。
Robert M. Young, Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture, ch.4 “Darwin’s Metaphor: Does Nature Select?” (1985)
ダーウィンはライエルの斉一主義を継承したことで、生物が方向性をもって進化することを地史の定向性から類推することができなくなってしまった。ダーウィンが用いることができたアナロジーは自然選択と人為選択のあいだのそれであったが、このアナロジーによって自然を擬人化したことで、ダーウィンは多くの批判を引き受けることになった。
Robert Marc Friedman, The Politics of Excellence: Behind the Nobel Prize in Science, ch.7 “Einstein Must Never Get a Nobel Prize: Keeping Physics Safe for Sweden” (2001)
アインシュタインの相対性理論は、物理学に限らずそれまでの真・善・美の概念を破壊するものとされて様々な反対に遭った。ドイツでは、真のドイツ科学は実験に基づくと主張するレーナルトやシュタルクが、アインシュタインの理論を形而上学的なユダヤ科学として排撃する動きがあった。ノーベル賞の受賞も、スウェーデンの学術コミュニティ内部の論理によって遅れた。1919年の皆既日食の観測でアインシュタインは世界的な名声を得るに至ったが、1920年の選考では、相対性理論に対して否定的なアレニウスのレポートに賛同が集まり、また長く選考委員を務めてきたBernhard Hasselbergが病気で退職する予定であったため、彼の友人であったギヨームが選ばれた。1921年の選考では、32人の推薦者のうち14人がアインシュタインを推薦したが、王立科学アカデミーやウプサラ大学で権威を振るっていたアルヴァル・グルストランドが強く反対したことで保留となった。最終的には、病死したHasselbergに代わってノーベル物理学賞委員会に入ったCarl Wilhelm Oseenの努力によって、光電効果の法則の発見を授賞理由とすることで1922年にアインシュタインの受賞が決まった。
Robert H. Kargon, “Temple to Science: Cooperative Research and the Birth of the California Institute of Technology” (1977)
Robert H. Kargon, The Rise of Robert Millikan: Portrait of a Life in American Science, ch.4 “The Scientist in Action” (1982)
米国科学アカデミー(NAS)は1863年に創設されていたが、米国の科学研究を組織化するような役割は果たしていなかった。そこで、第一次世界大戦において科学が軍事的に重要となったことを背景として、ウィルソン山天文台を設立した天文学者のジョージ・ヘールの呼びかけのもと、学術・産業・教育・政府の各界から代表者を招いた全米研究評議会(NRC)が1916年に創設される。ヘールと、彼を助けた物理学者のロバート・ミリカン、化学者のアーサー・ノイズの三人は、天文学や物理学や化学といった異なる分野が垣根を越えて協力することが今後の科学にとってきわめて重要だという認識を共有しており、カリフォルニア工科大学(Caltech)をそのような場所に生まれ変わらせようとした。彼らは、科学研究が連邦政府によってコントロールされてしまうことを恐れていたので、NRCの人脈を活かして民間のパトロンを集め、1920年代におけるCaltechの躍進を実現した。しかし、世界恐慌や第二次世界大戦の時期になると民間のパトロンは不十分となり、連邦政府による介入が本格化していくことになった。
John W. Servos, “The Industrial Relations of Science: Chemical Engineering at MIT, 1900–1939.” (1980)
20世紀初頭、マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学者アーサー・ノイズは、学生たちに工学の実践よりも物理学の原則を教えることで、MITを単なる技術学校から基礎科学に基づいた大学へと改革しようとした。一方、同じくMITの化学者であったWilliam Hultz Walkerは、ドイツの化学産業が科学者たちと経営者たちの協力によって飛躍的発展を遂げたことを念頭に、応用科学を重視して産業界との直接的な結びつきを強化しようとした。ノイズは物理化学研究所を、Walkerは応用化学研究所を、それぞれMIT内に立ち上げてプロジェクトを進めていたが、第一次世界大戦が始まると、ドイツからの輸入が途絶えたことで米国の化学産業が急速に拡大し、状況はWalkerに有利となった。ノイズは辞職し、MITの化学は産業界から支援を受けて産業のための実践的な研究をするという、Walkerの路線を突き進んで発展していった。しかし、やがてMITの化学者たちは産業界に主導権を握られている状況に不満を覚えるようになり、また世界恐慌によって産業界がMITへの支援から手を引いたことで、学長のカール・コンプトンは産業界の下僕にはならない方針を打ち出し、MITはかつてノイズが構想した方向性に近づいていった。
2018年4月13日
2017年12月21日
東アジアの科学史に関する論文15本
現在、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
こちらの秋学期に東アジア科学史の授業で読んだ論文や章のうち、特に印象に残った15本を簡単に紹介します。
Joseph Needham, Science and Civilization in China Vol. 3, “Mathematics and Science in China and the West” (1959)
ニーダム・クエスチョンの問いかけ。ルネサンス期のヨーロッパにおける数学化された自然科学の出現は、なぜ他の地域、特に中国では起こらなかったのか。ニーダム自身は、中国における官僚中心の社会構造とヨーロッパにおける重商主義の違いに注目している。
Qiong Zhang, “Demystifying Qi: The Politics of Cultural Translation and Interpretation in the Early Jesuit Mission to China” (1999)
16世紀末から17世紀初頭、明に渡ったマテオ・リッチらイエズス会の宣教師たちは、宋明理学(Neo-Confucianism)における自然の理論を否定して、代わりに西洋流の理論を普及させようとした。その際に彼らがとった戦略は、中国の古典を曲解して西洋流の理論に引きつけるのと同時に、当時の理論を古典から引き剥がすというものであった。翻訳は善良になされるとは限らず、mistranslationが目標だということも有り得る。
Peter Engelfriet, “The Chinese Euclid and its Chinese Context” (1993)
ユークリッド幾何学がどのように中国語に翻訳されたかを調査すれば、西洋と中国の根本的な文化の違いがわかるだろう……なんていう安直な考え方に対する戒め。現代の我々が当たり前に「西洋的なユークリッド幾何学の理解」だと思っているものは、西洋の数学史のなかでまったく当たり前ではなかった。我々が西洋の文化について抱いている暗黙の前提をまず疑う必要がある。
Yulia Frumer, “Before Words: Reading Western Astronomical Texts in Early Nineteenth-Century Japan” (2016)
オランダ語を読めない高橋至時(1764–1804)が、『ラランデ暦書』(ジェローム・ラランドが著したAstronomieのオランダ語訳)をどうやって理解して『ラランデ暦書管見』を書いたのか。図、表、記号、単位などが重要な役割を果たしていた。翻訳は必ずしも言語的な営みだとは限らない。
Shellen Xiao Wu, Empires of Coal: Fueling China’s Entry into the Modern World Order, 1860–1920, Ch. 3 “Lost and Found in Translation: Geology, Mining and the Search for Wealth and Power” (2015)
米国人宣教医のDaniel Jerome Mcgowanと中国人数学者の華蘅芳による『地質学原理』の中国語訳など、1870年代から80年代の中国における地質学関係著作の翻訳を調査。これらの翻訳は概して質に問題があり、地質学の知識を紹介することには失敗していたものの、科学や工業の文化を伝えることには成功していた。翻訳という営為を、静的な知識の言語間での移植というよりも、より広い文化の導入の一部として捉えようとする章。
Wayne Soon, “Science, Medicine, and Confucianism in the Making of China and Southeast Asia: Lim Boon Keng and the Overseas Chinese, 1897–1937” (2014)
シンガポールで生まれ、エディンバラで教育を受け、中国で科学や医学の教育普及に貢献した華人医師の林文慶(1869–1957)に注目する。西洋科学の中国への伝来は、欧米から日本を通して中国に伝わったというストーリーで説明されることが多い。だが、林文慶のように海外に居た中国系の人々が果たした役割も正しく評価する必要がある。
Fa-ti Fan, “Science in a Chinese Entrepôt: British Naturalists and Their Chinese Associates in Old Canton” (2003)
18世紀から19世紀初頭にかけての広東を、自然史研究のフィールドという観点から分析する。清の対外政策によって欧米諸国との交易は広東に限定されていたため、英国人(多くは東インド会社の所属)による中国自然史の研究は、コンタクトゾーンである広東の都市環境に強く依存することになった。市場、庭、職人、苗木屋、行商人、交易路などといった都市の構成要素や、そこでの日常生活、英国人と中国人の経済的・社会的な関わり方などに注目する必要がある。
Yulia Frumer, “Translating Time: Habits of Western-Style Timekeeping in Late Edo Japan” (2014)
江戸時代末期以降、日本人はどのようにして、西洋式の時計を読み、西洋式の時法を用いることができるようになったのか? もともと江戸時代の日本では、西洋由来の機械式時計が日本の時法に合うように作り変えられて用いられていた。こうした和時計を用いてきた経験と、そのなかで生まれていた様々な習慣が、西洋式の時計・時法の導入において重要な役割を果たした。この導入は、まったく新しい体系を突然に受け入れたのではなく、既存の習慣を徐々に改変していくプロセスであった。
Susan Burns, “The Body as Text: Confucianism, Reproduction, and Gender in Tokugawa Japan” (2002)
17世紀後半~18世紀前半の日本における妊娠や出産をめぐる言説の分析。儒教の宇宙論や倫理と連結した医学のもとで、出産がうまくいったかどうかは、女性が性的な欲望を抑えて貞淑な行いを貫くことができていたかどうかを判断できる根拠とみなされた。こうした言説は「妻」と「売春婦」の線引きを補強するとともに、女性の身体を(男性と異なり)家や国家に関連付けることに寄与した。背景には同時代の「生類憐れみの令」に代表される、自然な生殖を強調する新しい道徳秩序の構築があった。
Jin-kyung Park, “Husband Murder as the “Sickness” of Korea: Carceral Gynecology, Race, and Tradition in Colonial Korea, 1926–1932” (2013)
西洋諸国が「西洋と非西洋」「白人と非白人」という境界線で植民地における支配者と被支配者を画定できたのに対して、日本とその植民地は文化的にも人種的にも近縁で区別が難しく、そのことが日本の役人たちを不安にさせていた。そこで彼らは、植民地の人々を日本人から人種的・生物学的・文化的に区別する必要があった。朝鮮総督府に雇用されていた婦人科医の工藤武城(1879–?)は、1926年から1932年にかけて朝鮮の女性囚人66人を医学的に調査し、朝鮮人の女性には「本夫殺害」(夫殺し)という特有の民族病があると結論づけた。工藤の研究は、科学研究者としての日本と研究対象としての朝鮮という区別を定め、医学によってアジアの人々を救済するという日本の植民地支配のレトリックを支持するものであった。
Ian Jared Miller, The Nature of the Beasts: Empire and Exhibition at the Tokyo Imperial Zoo, Ch. 2 “The Dreamlife of Imperialism: Commerce, Conquest, and the Naturalization of Ecological Modernity” (2013)
20世紀初頭の上野動物園は、日本による帝国主義のプロジェクトを来園者に楽しく示す役割を担っていた。拡大する植民地の「野生」を見せることで、日本人の自然への渇望を生み出し、満たそうという狙いがあった。動物の展示方法は、来園者が動物の様子を近くから見ることができるように、かつ動物が捕らわれているということを来園者が意識しなくて済むように、工夫が凝らされていった。動物園はイデオロギーを自然として表現し、政策を娯楽として見せていた。
Greg Clancy, Earthquake Nation: The Cultural Politics of Japanese Seismicity, 1868–1930, Ch. 5 “A Great Earthquake” (2006)
1891年に起こった濃尾地震の被害を、お雇い外国人、地震学者、新聞社、版画家など、様々な立場の人々がどのように理解し、伝えたのか。それまでの地震と異なり、庶民に属する建築物のみならず、エリート層や国家に属する建築物である西洋建築や線路も大きな被害を受けたことは驚きをもって受け止められ、特に庶民に好まれる版画で強調された。一方、「世直し鯰」に象徴されるように、江戸時代において地震は幸運・不運を再分配する(被災者以外の低い身分の人々や大工などにとっては歓迎すべき)出来事として理解されていたが、濃尾地震においては義援金などを通じて被災者を助けようとする動きが広まり、天皇も存在感を示し、日清戦争に向けて国民国家の確立を準備する出来事となった(Earthquake Nationというタイトルに注目したい)。
Timothy S. George, Minamata: Pollution and the Struggle for Democracy in Postwar Japan, Ch. 3 “Discovering the Disease and Its Cause” (2001)
何が水俣病の真相究明を阻んだのか。経済成長を優先して漁民たちを犠牲にすることを選んだ政治家や役人たち、政府や企業の意向を受けた科学者たち、「中立」であろうとして両論併記を繰り返し、各々の科学者の背後で動いている勢力に対して注意を払わなかったメディア。
Brett L. Walker, Toxic Archipelago: A History of Industrial Disease in Japan, Ch. 4 “Engineering Pain in the Jinzū River Basin” (2010)
イタイイタイ病の環境史。戦争による鉛や亜鉛の需要の増加、採鉱技術の変化、高い技術をもつ鉱夫たちの植民地への流出、できるだけ多くの子どもを産ませようとした政府の方針、肌を日光から隠すことを女性たちに強いた美的感覚など、イタイイタイ病を引き起こした複雑な因果関係の網目を分析。“Engineering Pain”というタイトルにも注目したい章。
William M. Tsutsui, “Landscapes in the Dark Valley: Toward an Environmental History of Wartime Japan” (2004)
第二次世界大戦が日本の自然環境に与えた影響は、必ずしもそれほど悪いものだったとは言い切れず、むしろ良い面もあった。戦争が人間にとって破滅的で悲劇的だからといって、自然環境にとっても同じだと決めつけてはならない。人間中心主義批判とも読めそうな論文。
こちらの秋学期に東アジア科学史の授業で読んだ論文や章のうち、特に印象に残った15本を簡単に紹介します。
Joseph Needham, Science and Civilization in China Vol. 3, “Mathematics and Science in China and the West” (1959)
ニーダム・クエスチョンの問いかけ。ルネサンス期のヨーロッパにおける数学化された自然科学の出現は、なぜ他の地域、特に中国では起こらなかったのか。ニーダム自身は、中国における官僚中心の社会構造とヨーロッパにおける重商主義の違いに注目している。
Qiong Zhang, “Demystifying Qi: The Politics of Cultural Translation and Interpretation in the Early Jesuit Mission to China” (1999)
16世紀末から17世紀初頭、明に渡ったマテオ・リッチらイエズス会の宣教師たちは、宋明理学(Neo-Confucianism)における自然の理論を否定して、代わりに西洋流の理論を普及させようとした。その際に彼らがとった戦略は、中国の古典を曲解して西洋流の理論に引きつけるのと同時に、当時の理論を古典から引き剥がすというものであった。翻訳は善良になされるとは限らず、mistranslationが目標だということも有り得る。
Peter Engelfriet, “The Chinese Euclid and its Chinese Context” (1993)
ユークリッド幾何学がどのように中国語に翻訳されたかを調査すれば、西洋と中国の根本的な文化の違いがわかるだろう……なんていう安直な考え方に対する戒め。現代の我々が当たり前に「西洋的なユークリッド幾何学の理解」だと思っているものは、西洋の数学史のなかでまったく当たり前ではなかった。我々が西洋の文化について抱いている暗黙の前提をまず疑う必要がある。
Yulia Frumer, “Before Words: Reading Western Astronomical Texts in Early Nineteenth-Century Japan” (2016)
オランダ語を読めない高橋至時(1764–1804)が、『ラランデ暦書』(ジェローム・ラランドが著したAstronomieのオランダ語訳)をどうやって理解して『ラランデ暦書管見』を書いたのか。図、表、記号、単位などが重要な役割を果たしていた。翻訳は必ずしも言語的な営みだとは限らない。
Shellen Xiao Wu, Empires of Coal: Fueling China’s Entry into the Modern World Order, 1860–1920, Ch. 3 “Lost and Found in Translation: Geology, Mining and the Search for Wealth and Power” (2015)
米国人宣教医のDaniel Jerome Mcgowanと中国人数学者の華蘅芳による『地質学原理』の中国語訳など、1870年代から80年代の中国における地質学関係著作の翻訳を調査。これらの翻訳は概して質に問題があり、地質学の知識を紹介することには失敗していたものの、科学や工業の文化を伝えることには成功していた。翻訳という営為を、静的な知識の言語間での移植というよりも、より広い文化の導入の一部として捉えようとする章。
Wayne Soon, “Science, Medicine, and Confucianism in the Making of China and Southeast Asia: Lim Boon Keng and the Overseas Chinese, 1897–1937” (2014)
シンガポールで生まれ、エディンバラで教育を受け、中国で科学や医学の教育普及に貢献した華人医師の林文慶(1869–1957)に注目する。西洋科学の中国への伝来は、欧米から日本を通して中国に伝わったというストーリーで説明されることが多い。だが、林文慶のように海外に居た中国系の人々が果たした役割も正しく評価する必要がある。
Fa-ti Fan, “Science in a Chinese Entrepôt: British Naturalists and Their Chinese Associates in Old Canton” (2003)
18世紀から19世紀初頭にかけての広東を、自然史研究のフィールドという観点から分析する。清の対外政策によって欧米諸国との交易は広東に限定されていたため、英国人(多くは東インド会社の所属)による中国自然史の研究は、コンタクトゾーンである広東の都市環境に強く依存することになった。市場、庭、職人、苗木屋、行商人、交易路などといった都市の構成要素や、そこでの日常生活、英国人と中国人の経済的・社会的な関わり方などに注目する必要がある。
Yulia Frumer, “Translating Time: Habits of Western-Style Timekeeping in Late Edo Japan” (2014)
江戸時代末期以降、日本人はどのようにして、西洋式の時計を読み、西洋式の時法を用いることができるようになったのか? もともと江戸時代の日本では、西洋由来の機械式時計が日本の時法に合うように作り変えられて用いられていた。こうした和時計を用いてきた経験と、そのなかで生まれていた様々な習慣が、西洋式の時計・時法の導入において重要な役割を果たした。この導入は、まったく新しい体系を突然に受け入れたのではなく、既存の習慣を徐々に改変していくプロセスであった。
Susan Burns, “The Body as Text: Confucianism, Reproduction, and Gender in Tokugawa Japan” (2002)
17世紀後半~18世紀前半の日本における妊娠や出産をめぐる言説の分析。儒教の宇宙論や倫理と連結した医学のもとで、出産がうまくいったかどうかは、女性が性的な欲望を抑えて貞淑な行いを貫くことができていたかどうかを判断できる根拠とみなされた。こうした言説は「妻」と「売春婦」の線引きを補強するとともに、女性の身体を(男性と異なり)家や国家に関連付けることに寄与した。背景には同時代の「生類憐れみの令」に代表される、自然な生殖を強調する新しい道徳秩序の構築があった。
Jin-kyung Park, “Husband Murder as the “Sickness” of Korea: Carceral Gynecology, Race, and Tradition in Colonial Korea, 1926–1932” (2013)
西洋諸国が「西洋と非西洋」「白人と非白人」という境界線で植民地における支配者と被支配者を画定できたのに対して、日本とその植民地は文化的にも人種的にも近縁で区別が難しく、そのことが日本の役人たちを不安にさせていた。そこで彼らは、植民地の人々を日本人から人種的・生物学的・文化的に区別する必要があった。朝鮮総督府に雇用されていた婦人科医の工藤武城(1879–?)は、1926年から1932年にかけて朝鮮の女性囚人66人を医学的に調査し、朝鮮人の女性には「本夫殺害」(夫殺し)という特有の民族病があると結論づけた。工藤の研究は、科学研究者としての日本と研究対象としての朝鮮という区別を定め、医学によってアジアの人々を救済するという日本の植民地支配のレトリックを支持するものであった。
Ian Jared Miller, The Nature of the Beasts: Empire and Exhibition at the Tokyo Imperial Zoo, Ch. 2 “The Dreamlife of Imperialism: Commerce, Conquest, and the Naturalization of Ecological Modernity” (2013)
20世紀初頭の上野動物園は、日本による帝国主義のプロジェクトを来園者に楽しく示す役割を担っていた。拡大する植民地の「野生」を見せることで、日本人の自然への渇望を生み出し、満たそうという狙いがあった。動物の展示方法は、来園者が動物の様子を近くから見ることができるように、かつ動物が捕らわれているということを来園者が意識しなくて済むように、工夫が凝らされていった。動物園はイデオロギーを自然として表現し、政策を娯楽として見せていた。
Greg Clancy, Earthquake Nation: The Cultural Politics of Japanese Seismicity, 1868–1930, Ch. 5 “A Great Earthquake” (2006)
1891年に起こった濃尾地震の被害を、お雇い外国人、地震学者、新聞社、版画家など、様々な立場の人々がどのように理解し、伝えたのか。それまでの地震と異なり、庶民に属する建築物のみならず、エリート層や国家に属する建築物である西洋建築や線路も大きな被害を受けたことは驚きをもって受け止められ、特に庶民に好まれる版画で強調された。一方、「世直し鯰」に象徴されるように、江戸時代において地震は幸運・不運を再分配する(被災者以外の低い身分の人々や大工などにとっては歓迎すべき)出来事として理解されていたが、濃尾地震においては義援金などを通じて被災者を助けようとする動きが広まり、天皇も存在感を示し、日清戦争に向けて国民国家の確立を準備する出来事となった(Earthquake Nationというタイトルに注目したい)。
Timothy S. George, Minamata: Pollution and the Struggle for Democracy in Postwar Japan, Ch. 3 “Discovering the Disease and Its Cause” (2001)
何が水俣病の真相究明を阻んだのか。経済成長を優先して漁民たちを犠牲にすることを選んだ政治家や役人たち、政府や企業の意向を受けた科学者たち、「中立」であろうとして両論併記を繰り返し、各々の科学者の背後で動いている勢力に対して注意を払わなかったメディア。
Brett L. Walker, Toxic Archipelago: A History of Industrial Disease in Japan, Ch. 4 “Engineering Pain in the Jinzū River Basin” (2010)
イタイイタイ病の環境史。戦争による鉛や亜鉛の需要の増加、採鉱技術の変化、高い技術をもつ鉱夫たちの植民地への流出、できるだけ多くの子どもを産ませようとした政府の方針、肌を日光から隠すことを女性たちに強いた美的感覚など、イタイイタイ病を引き起こした複雑な因果関係の網目を分析。“Engineering Pain”というタイトルにも注目したい章。
William M. Tsutsui, “Landscapes in the Dark Valley: Toward an Environmental History of Wartime Japan” (2004)
第二次世界大戦が日本の自然環境に与えた影響は、必ずしもそれほど悪いものだったとは言い切れず、むしろ良い面もあった。戦争が人間にとって破滅的で悲劇的だからといって、自然環境にとっても同じだと決めつけてはならない。人間中心主義批判とも読めそうな論文。
2017年4月2日
驚異と好奇心 Daston&Park, Wonders and the Order of Nature, 第8章前半
Lorraine Daston and Katharine Park, Wonders and the Order of Nature, 1150–1750 (New York: Zone Books, 2001), pp. 303–316.
第8章 探究の情熱
1672年にニュートンがヘンリー・オルデンバーグに向けて書いた手紙には、プリズムを通した光の見え方に彼が驚異の念を抱き、それが好奇心につながったのだという経験が記されている。中世の自然哲学や道徳哲学においては驚異と好奇心は縁遠いものであったのだが、ニュートンや初期近代の人々にとって、驚異は好奇心をかき立てるものになっていた。だがこの後、18世紀前半までには、驚異と好奇心は再び分け隔てられていくのであった。
以上のような変化が起こったのと同時に、かつて素晴らしい哲学的情熱として称賛されていた驚異の念は、無知や無教養の印とみなされるようになった。驚異は、哲学的エリートの情熱というよりも、卑しい大衆の感情として理解されるようになったのである。また、かつて色欲(lust)や高慢(pride)として罵られた好奇心は、公平無私でひたむきなナチュラリストの象徴だと考えられるようになった。好奇心は、色欲や高慢というよりは、物欲(avarice)や強欲(greed)に近いものだとみなされるようになったのである。こうした変化は、自然哲学者たちの研究の対象や手法に影響を及ぼした。
本章では、驚異と好奇心に関する以上のような変化について論じる。最初に、17世紀に好奇心が色欲の類から強欲の類に変容し、それが好奇心の対象をも変えたことについて説明する。次に、17世紀半ばに驚異と好奇心が自然哲学的な探究の心理において合流したことを説明する。最後に、18世紀前半に驚異が主要な哲学的情熱の座から降格し、一方で好奇心は軽薄さの印から有徳さの証に昇格し、両者が分岐したことについて説明する。
● むさぼる好奇心
西洋の哲学的伝統において、驚異と好奇心はほとんど2000年にわたって中立もしくは反対の関係にあった。アリストテレスやその注釈者たちにおいて、驚異(thauma)は哲学的探究の始まりであったが、その探究は好奇心(periergia)とは無関係だった。第3章でみたように、アウグスティヌスは驚異を神に対する謙虚さの表現として称賛した一方で、好奇心は色欲や食欲に関連付けて酷評した。アウグスティヌスの議論は長きに渡って大きな影響力をもち続けたが、初期近代になると、旅行者や自然研究者のあいだで好奇心を好ましく見る向きも出てきた。
初期近代における好奇心は、アウグスティヌスにおける好奇心と大きく違っている。二つの重要な違いがあり、一つ目は色欲から強欲に移行したこと、二つ目は驚異と関連付けられたことである。
17世紀に好奇心を論じた人物で、アウグスティヌスに比肩しうる名声をもっていたのはホッブズである。ホッブズは、人間を野獣から区別するものは好奇心だと主張し、好奇心を擁護した。ホッブズは、色欲や食欲といった身体的な欲求は満たされれば止むのに対して、好奇心は止むことがないという違いを強調した。このような特徴付けは、好奇心を努力に結びつけた。マラン・メルセンヌも、学者の生活を好奇心に基づいた休みなき探究として捉えた。こうした理解は、好奇心を色欲や食欲というよりも物欲や強欲に接近させた。
初期近代の好奇心は、贅沢さと関係が深い。メルセンヌは、好奇心は日常生活に不要なものであると考えて、これを贅沢品とみなした。17世紀後半においては、特にフランスで、「好奇心をそそる」ということは「役に立つ」ということとまったく反対の意味だと考えられた。好奇心の無駄さは、アウグスティヌスの伝統では非難の対象であったが、今やその役に立たないということこそが、公平無私であるとして称賛されるようになった。
● 驚異と好奇心がむすびつく
17世紀半ばにおいて、新しいもの、珍しいもの、普通でないものへの愛着が、好奇心を驚異に結び付けた。だが、この時代の驚異は、アリストテレス的な自然哲学における驚異ではない。アリストテレスの驚異が普遍的なものに関心を向けていたのに対して、この時代の驚異は個物に関心を向けている。
17世紀の自然哲学者たちのなかで驚異と好奇心が結合したのには理由があった。驚異が注意を引き、好奇心がそれを固定するという役割分担があったのである。さまざまな燐光体についてのボイルの研究の例が示すように、この時代の自然哲学者たちは個物にこだわり、その詳細を大事にした。退屈になったり気が散ったりしても観察対象を見続けるためには、好奇心の働きが必要であった。好奇心が注意を引き続けることで、正確で厳密な調査ができた。
一方、真実を追究するという目標があっても、驚異の念なしでは対象に注意を向けることは困難であった。フックがどこにでもいるようなハエの観察に関心を抱くためには、顕微鏡でハエを拡大し、驚異を感じなければならなかった。好奇心を刺激するためには驚異が必要だったのである。だが、それと引き換えに観察の対象や方法は制限を受けることになった。
第8章 探究の情熱
1672年にニュートンがヘンリー・オルデンバーグに向けて書いた手紙には、プリズムを通した光の見え方に彼が驚異の念を抱き、それが好奇心につながったのだという経験が記されている。中世の自然哲学や道徳哲学においては驚異と好奇心は縁遠いものであったのだが、ニュートンや初期近代の人々にとって、驚異は好奇心をかき立てるものになっていた。だがこの後、18世紀前半までには、驚異と好奇心は再び分け隔てられていくのであった。
以上のような変化が起こったのと同時に、かつて素晴らしい哲学的情熱として称賛されていた驚異の念は、無知や無教養の印とみなされるようになった。驚異は、哲学的エリートの情熱というよりも、卑しい大衆の感情として理解されるようになったのである。また、かつて色欲(lust)や高慢(pride)として罵られた好奇心は、公平無私でひたむきなナチュラリストの象徴だと考えられるようになった。好奇心は、色欲や高慢というよりは、物欲(avarice)や強欲(greed)に近いものだとみなされるようになったのである。こうした変化は、自然哲学者たちの研究の対象や手法に影響を及ぼした。
本章では、驚異と好奇心に関する以上のような変化について論じる。最初に、17世紀に好奇心が色欲の類から強欲の類に変容し、それが好奇心の対象をも変えたことについて説明する。次に、17世紀半ばに驚異と好奇心が自然哲学的な探究の心理において合流したことを説明する。最後に、18世紀前半に驚異が主要な哲学的情熱の座から降格し、一方で好奇心は軽薄さの印から有徳さの証に昇格し、両者が分岐したことについて説明する。
● むさぼる好奇心
西洋の哲学的伝統において、驚異と好奇心はほとんど2000年にわたって中立もしくは反対の関係にあった。アリストテレスやその注釈者たちにおいて、驚異(thauma)は哲学的探究の始まりであったが、その探究は好奇心(periergia)とは無関係だった。第3章でみたように、アウグスティヌスは驚異を神に対する謙虚さの表現として称賛した一方で、好奇心は色欲や食欲に関連付けて酷評した。アウグスティヌスの議論は長きに渡って大きな影響力をもち続けたが、初期近代になると、旅行者や自然研究者のあいだで好奇心を好ましく見る向きも出てきた。
初期近代における好奇心は、アウグスティヌスにおける好奇心と大きく違っている。二つの重要な違いがあり、一つ目は色欲から強欲に移行したこと、二つ目は驚異と関連付けられたことである。
17世紀に好奇心を論じた人物で、アウグスティヌスに比肩しうる名声をもっていたのはホッブズである。ホッブズは、人間を野獣から区別するものは好奇心だと主張し、好奇心を擁護した。ホッブズは、色欲や食欲といった身体的な欲求は満たされれば止むのに対して、好奇心は止むことがないという違いを強調した。このような特徴付けは、好奇心を努力に結びつけた。マラン・メルセンヌも、学者の生活を好奇心に基づいた休みなき探究として捉えた。こうした理解は、好奇心を色欲や食欲というよりも物欲や強欲に接近させた。
初期近代の好奇心は、贅沢さと関係が深い。メルセンヌは、好奇心は日常生活に不要なものであると考えて、これを贅沢品とみなした。17世紀後半においては、特にフランスで、「好奇心をそそる」ということは「役に立つ」ということとまったく反対の意味だと考えられた。好奇心の無駄さは、アウグスティヌスの伝統では非難の対象であったが、今やその役に立たないということこそが、公平無私であるとして称賛されるようになった。
● 驚異と好奇心がむすびつく
17世紀半ばにおいて、新しいもの、珍しいもの、普通でないものへの愛着が、好奇心を驚異に結び付けた。だが、この時代の驚異は、アリストテレス的な自然哲学における驚異ではない。アリストテレスの驚異が普遍的なものに関心を向けていたのに対して、この時代の驚異は個物に関心を向けている。
17世紀の自然哲学者たちのなかで驚異と好奇心が結合したのには理由があった。驚異が注意を引き、好奇心がそれを固定するという役割分担があったのである。さまざまな燐光体についてのボイルの研究の例が示すように、この時代の自然哲学者たちは個物にこだわり、その詳細を大事にした。退屈になったり気が散ったりしても観察対象を見続けるためには、好奇心の働きが必要であった。好奇心が注意を引き続けることで、正確で厳密な調査ができた。
一方、真実を追究するという目標があっても、驚異の念なしでは対象に注意を向けることは困難であった。フックがどこにでもいるようなハエの観察に関心を抱くためには、顕微鏡でハエを拡大し、驚異を感じなければならなかった。好奇心を刺激するためには驚異が必要だったのである。だが、それと引き換えに観察の対象や方法は制限を受けることになった。
2017年3月23日
古代ギリシアの分割の哲学 Wilkins, Species: A History of the Idea, pp. 9–27.
John S. Wilkins, Species: A History of the Idea (Berkeley: University of California Press, 2009), pp. 9–27.
第1章 古典時代――分割による科学
受け入れられた見方では、種概念の歴史は生物学以前の歴史と生物学以降の歴史に分けられるということになっている。しかし実際には、二つの歴史はかなりオーバーラップしている。それゆえ、我々はむしろ、万物の分類に適用された種概念の歴史と、生物だけに適用された種概念の歴史というふうに分けて考えるべきである。実際、種概念を鉱物にも適用したリンネ(1707–1778)も、生物の場合には鉱物の場合とは少し異なる使用法をしていた。普遍的分類学のリサーチプログラムは、プラトンからロックに至る哲学的伝統であり、そこでは種は本質や定義によって区別されるカテゴリーであった。そして、自然史から生物学が発展したのに伴って、この普遍的分類学の伝統から生じた生物学的分類学のリサーチプログラムが発展していった。
術語と伝統
ラテン語のspecies、genusは古典ギリシャ語のeidos、genosの翻訳である。そのほか、重要な術語の対応表をp. 11に示した。しかし、これらの術語も歴史のなかで様々な異なった用い方をされてきたことを忘れてはならない。
プラトンのdiairesis
プラトンは『ソピステス』のなかで、魚釣り術(angling)を例に、diairesis(分割、二分法)として知られる分割の方法を示した(p. 14)。この分割の方法は明らかに恣意的なものである。なお、プラトンは、自然のものについての分類と人工的なものについての分類を区別していない。生物学にプラトンの直接的な影響があらわれるのは17世紀のことであるが、間接的にはもっと早くからあらわれていた。
アリストテレス――分割、genus、species
アリストテレスは、genos(genus、類)、eidos(species、種)、diaphora(differentia、種差)という概念を用いた。種は、類と種差によって定められる。このとき、種差は類の定義とは異なる事柄であり、ある類に属するすべての種はその類の定義を満たしている。これらの概念が用いられる対象は生物に限らなかった。
アリストテレスはプラトンの分割という考え方を拒絶したわけではなかったが、二分法的分類の問題点を指摘した。具体的には、否定による(privative)カテゴリーを拒否し、一つの類を三つ以上の種に分けることを受け入れた。
しばしば、アリストテレスの分類はすべて絶対的な定義や本質によってなされているといわれる。しかし実際には、生物の器官や特徴については過剰であったり不足していたりすることがあると認めている。また、生物については種差が類と同じ特徴になり得ることも認めている。
また、アリストテレスのgenosやeidosといった言葉の使い方は、論理学的な著作と生物を扱った著作で一貫していないともいわれてきた。これは、アリストテレスが生物学の文脈でeidosという言葉を用いたと考えるから一貫していないように見えるのである。実際には、アリストテレスは生物学的分類をつくろうとしていたのではなかった。『動物誌』においても、彼は一般的分類をつくっていたのであって、動物は彼がその方法を適用した一つの領域に過ぎなかった。
テオフラストスと自然種
最初の植物体系学者ともいえるテオフラストス(紀元前370–285)は、アレクサンドロス大王の征服地からギリシャにもたらされた大量の植物標本に対し、アリストテレスの分類の考え方を適用した。特に、植物の種類のそれぞれについて、その本質を解剖学的特徴に基づいて見つけようとした。
エピクロス主義と発生的概念
原子論者、特にルクレティウス(紀元前99–55)をはじめとするエピクロス主義者たちは、アリストテレス・プラトン的な伝統とは異なる説明をした。種を物質に押しつけられた型だとみなしたアリストテレスと違って、エピクロス主義者たちは物質の性質から生じた型だと考えた。アリストテレスが物質を柔軟なものとみなしたのに対し、エピクロス主義者たちは、物質はそれが形作るものを決定するとみなした。ここには、種の発生的概念(generative conception of species)のようなものが見出だせる。
第1章 古典時代――分割による科学
受け入れられた見方では、種概念の歴史は生物学以前の歴史と生物学以降の歴史に分けられるということになっている。しかし実際には、二つの歴史はかなりオーバーラップしている。それゆえ、我々はむしろ、万物の分類に適用された種概念の歴史と、生物だけに適用された種概念の歴史というふうに分けて考えるべきである。実際、種概念を鉱物にも適用したリンネ(1707–1778)も、生物の場合には鉱物の場合とは少し異なる使用法をしていた。普遍的分類学のリサーチプログラムは、プラトンからロックに至る哲学的伝統であり、そこでは種は本質や定義によって区別されるカテゴリーであった。そして、自然史から生物学が発展したのに伴って、この普遍的分類学の伝統から生じた生物学的分類学のリサーチプログラムが発展していった。
術語と伝統
ラテン語のspecies、genusは古典ギリシャ語のeidos、genosの翻訳である。そのほか、重要な術語の対応表をp. 11に示した。しかし、これらの術語も歴史のなかで様々な異なった用い方をされてきたことを忘れてはならない。
プラトンのdiairesis
プラトンは『ソピステス』のなかで、魚釣り術(angling)を例に、diairesis(分割、二分法)として知られる分割の方法を示した(p. 14)。この分割の方法は明らかに恣意的なものである。なお、プラトンは、自然のものについての分類と人工的なものについての分類を区別していない。生物学にプラトンの直接的な影響があらわれるのは17世紀のことであるが、間接的にはもっと早くからあらわれていた。
アリストテレス――分割、genus、species
アリストテレスは、genos(genus、類)、eidos(species、種)、diaphora(differentia、種差)という概念を用いた。種は、類と種差によって定められる。このとき、種差は類の定義とは異なる事柄であり、ある類に属するすべての種はその類の定義を満たしている。これらの概念が用いられる対象は生物に限らなかった。
アリストテレスはプラトンの分割という考え方を拒絶したわけではなかったが、二分法的分類の問題点を指摘した。具体的には、否定による(privative)カテゴリーを拒否し、一つの類を三つ以上の種に分けることを受け入れた。
しばしば、アリストテレスの分類はすべて絶対的な定義や本質によってなされているといわれる。しかし実際には、生物の器官や特徴については過剰であったり不足していたりすることがあると認めている。また、生物については種差が類と同じ特徴になり得ることも認めている。
また、アリストテレスのgenosやeidosといった言葉の使い方は、論理学的な著作と生物を扱った著作で一貫していないともいわれてきた。これは、アリストテレスが生物学の文脈でeidosという言葉を用いたと考えるから一貫していないように見えるのである。実際には、アリストテレスは生物学的分類をつくろうとしていたのではなかった。『動物誌』においても、彼は一般的分類をつくっていたのであって、動物は彼がその方法を適用した一つの領域に過ぎなかった。
テオフラストスと自然種
最初の植物体系学者ともいえるテオフラストス(紀元前370–285)は、アレクサンドロス大王の征服地からギリシャにもたらされた大量の植物標本に対し、アリストテレスの分類の考え方を適用した。特に、植物の種類のそれぞれについて、その本質を解剖学的特徴に基づいて見つけようとした。
エピクロス主義と発生的概念
原子論者、特にルクレティウス(紀元前99–55)をはじめとするエピクロス主義者たちは、アリストテレス・プラトン的な伝統とは異なる説明をした。種を物質に押しつけられた型だとみなしたアリストテレスと違って、エピクロス主義者たちは物質の性質から生じた型だと考えた。アリストテレスが物質を柔軟なものとみなしたのに対し、エピクロス主義者たちは、物質はそれが形作るものを決定するとみなした。ここには、種の発生的概念(generative conception of species)のようなものが見出だせる。
「ペイリーが生物の起源に関する問いを提起した」というのは神話
Adam R. Shapiro, “Myth 8: That William Paley Raised Scientific Questions about Biological Origins That Were Eventually Answered by Charles Darwin,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 67–73.
神話8「ウィリアム・ペイリーは、ゆくゆくはダーウィンが回答することになる、生物学的起源に関する科学的な問いを提起した」
リチャード・ドーキンスと、ID説の支持者であるマイケル・ベーエは、もちろん進化に関して全く反対の意見を持っているが、ダーウィンの『種の起源』(1859)がペイリーの『自然神学』(1802)を否定したということに関しては共通の理解を示している。ペイリーは複雑な構造をもつ生物の器官の起源を説明しようとして、創造主がいるという結論に至ったが、この議論はダーウィンによって異議を唱えられることになったというのである。
しかしこのような理解はいくつかのレベルで間違っている。まず、ペイリーの議論は生物学的な起源に関する科学的な議論ではなく、神学的な議論であった。そして、ダーウィンはペイリーの議論に納得しなかったものの、彼の目標はそれを否定することではなかった。
『自然神学』の冒頭でペイリーは、もしもある人が野原で石を見かけたら、その石はずっとそこにあったと考えるかもしれないという。ここでいう「ずっと」は、永遠にという意味である。ペイリーが『自然神学』を書いた当時、天文学者たちや地質学者たちは、宇宙には始まりもないし終わりもないという考え方を真剣に検討していた。また、この考え方は何世紀にもわたってキリスト教神学の議論の的であった。
ペイリーは次に、時計を見かけた場合に我々がどのように反応するかについて論じる。ここでも、その時計がどのようにして初めに現れたかが問題なのではなく、時計が今まさに目的を持っているということが問題となる。時計と同様に生物の諸器官も、自然法則を利用している(自然法則に適応している)ように見える。こうしたものが世界に適応しているというまさにそのことが、ペイリーにデザイナーの存在を結論づけさせたのである。
ペイリー自身は世界には始まりがあると考えていたが、それを当然の前提にはしたくなかった。そこで、永遠の世界にも適用できるような議論に留めたのである。
ペイリーの目標は、世界を目的で満たしたデザイナーの存在を単に示すということではなく、そのデザイナーがどのような存在であるかという神学的な問いに答えることであった。ペイリーによれば、自然法則はどこにでも同じ仕方で適用されるので、デザイナーは一人でありそのデザイナーは遍在する(すなわち神である)という。また、宇宙には不要な苦痛がなく、喜びの経験はそれ自体が目的となっているように思われるために、神は善なるものであるという。さらに、この世界は我々が研究によって神の証拠を探求できるようにできているので、神はすべての人々に自身を理解してほしいと望んでいるのだという。
自然では説明できないものの存在を示すことで神の存在を証明するという方法もあったが、ペイリーはそうしなかった。それは、そのような証明方法が私的な知識に訴えることを促し、聖書の解釈についての宗教的対立を正当化してしまうことを恐れていたからである。ペイリーは、自然の観察に基づく公的な知識こそが合意への最良の道だと考え、自然を神学の立脚点にしようとした。
ペイリーの考えでは、最良の社会とは、人々がそれぞれに神から与えられた、生まれながらの性向に従う保守的な社会であった。こうした性向は遺伝的であると考えられた。
ペイリーにとって、自然は神が道徳を示したものであった。生物の諸器官や、異なる生物種のあいだの関係性に訴えることで、ペイリーは神の道徳法則に関する主張をした。ペイリーは自然を説明するために神に訴えたのではなく、神を説明するために自然に訴えたのである。
1830年代にはすでに、ペイリーの議論の紹介のされ方は変わっていた。1836年に出版された『自然神学』の注釈版では、地質学的な知見からすると石が永遠に存在するということはもはや考えられないという注釈が付け加えられた。この時代の読者にとって、始まりの存在はすでに前提となっており、始まり以降にどのような変化が起こってきたのかがリアルな問題となっていた。
ダーウィンは、ペイリーの議論を種の起源に関する科学的議論とはみなさなかったし、それを否定しようともしなかった。『種の起源』のなかでペイリーに言及した唯一の箇所において、ダーウィンはペイリーに賛成している。この箇所でダーウィンは、不要な苦痛をもたらすための器官はないというペイリーの議論を参照して、自然選択が生物に対して悪よりもむしろ善をなすということを論じていた。
神話8「ウィリアム・ペイリーは、ゆくゆくはダーウィンが回答することになる、生物学的起源に関する科学的な問いを提起した」
リチャード・ドーキンスと、ID説の支持者であるマイケル・ベーエは、もちろん進化に関して全く反対の意見を持っているが、ダーウィンの『種の起源』(1859)がペイリーの『自然神学』(1802)を否定したということに関しては共通の理解を示している。ペイリーは複雑な構造をもつ生物の器官の起源を説明しようとして、創造主がいるという結論に至ったが、この議論はダーウィンによって異議を唱えられることになったというのである。
しかしこのような理解はいくつかのレベルで間違っている。まず、ペイリーの議論は生物学的な起源に関する科学的な議論ではなく、神学的な議論であった。そして、ダーウィンはペイリーの議論に納得しなかったものの、彼の目標はそれを否定することではなかった。
『自然神学』の冒頭でペイリーは、もしもある人が野原で石を見かけたら、その石はずっとそこにあったと考えるかもしれないという。ここでいう「ずっと」は、永遠にという意味である。ペイリーが『自然神学』を書いた当時、天文学者たちや地質学者たちは、宇宙には始まりもないし終わりもないという考え方を真剣に検討していた。また、この考え方は何世紀にもわたってキリスト教神学の議論の的であった。
ペイリーは次に、時計を見かけた場合に我々がどのように反応するかについて論じる。ここでも、その時計がどのようにして初めに現れたかが問題なのではなく、時計が今まさに目的を持っているということが問題となる。時計と同様に生物の諸器官も、自然法則を利用している(自然法則に適応している)ように見える。こうしたものが世界に適応しているというまさにそのことが、ペイリーにデザイナーの存在を結論づけさせたのである。
ペイリー自身は世界には始まりがあると考えていたが、それを当然の前提にはしたくなかった。そこで、永遠の世界にも適用できるような議論に留めたのである。
ペイリーの目標は、世界を目的で満たしたデザイナーの存在を単に示すということではなく、そのデザイナーがどのような存在であるかという神学的な問いに答えることであった。ペイリーによれば、自然法則はどこにでも同じ仕方で適用されるので、デザイナーは一人でありそのデザイナーは遍在する(すなわち神である)という。また、宇宙には不要な苦痛がなく、喜びの経験はそれ自体が目的となっているように思われるために、神は善なるものであるという。さらに、この世界は我々が研究によって神の証拠を探求できるようにできているので、神はすべての人々に自身を理解してほしいと望んでいるのだという。
自然では説明できないものの存在を示すことで神の存在を証明するという方法もあったが、ペイリーはそうしなかった。それは、そのような証明方法が私的な知識に訴えることを促し、聖書の解釈についての宗教的対立を正当化してしまうことを恐れていたからである。ペイリーは、自然の観察に基づく公的な知識こそが合意への最良の道だと考え、自然を神学の立脚点にしようとした。
ペイリーの考えでは、最良の社会とは、人々がそれぞれに神から与えられた、生まれながらの性向に従う保守的な社会であった。こうした性向は遺伝的であると考えられた。
ペイリーにとって、自然は神が道徳を示したものであった。生物の諸器官や、異なる生物種のあいだの関係性に訴えることで、ペイリーは神の道徳法則に関する主張をした。ペイリーは自然を説明するために神に訴えたのではなく、神を説明するために自然に訴えたのである。
1830年代にはすでに、ペイリーの議論の紹介のされ方は変わっていた。1836年に出版された『自然神学』の注釈版では、地質学的な知見からすると石が永遠に存在するということはもはや考えられないという注釈が付け加えられた。この時代の読者にとって、始まりの存在はすでに前提となっており、始まり以降にどのような変化が起こってきたのかがリアルな問題となっていた。
ダーウィンは、ペイリーの議論を種の起源に関する科学的議論とはみなさなかったし、それを否定しようともしなかった。『種の起源』のなかでペイリーに言及した唯一の箇所において、ダーウィンはペイリーに賛成している。この箇所でダーウィンは、不要な苦痛をもたらすための器官はないというペイリーの議論を参照して、自然選択が生物に対して悪よりもむしろ善をなすということを論じていた。
2017年3月4日
「進化=突然変異+自然選択」というのは神話 Depew, “Myth 20”
David J. Depew, “Myth 20: That Neo-Darwinism Defines Evolution as Random Mutation Plus Natural Selection,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 164–170.
神話20「ネオ・ダーウィニズムは進化を“ランダムな突然変異+自然選択”として定義する」
1940年代以来、専門的な進化研究は「ネオ・ダーウィニズム」(もしくは進化の現代的総合説)と呼ばれる原理によって導かれてきた。この原理は、メンデル遺伝学とダーウィンの自然選択が融合して生じている。それゆえ、ネオ・ダーウィニズムをランダムな遺伝的変異と自然選択として要約するのは自然であるように感じるかもしれない。しかし、これは適切な要約ではないのである。
歴史を振り返ってみるとこのことがよくわかる。ネオ・ダーウィニズムを生んだのは、生殖系列の要素だけが遺伝するということを示した発生学者のヴァイスマン(August Weismann, 1834–1914)であった。ネオ・ダーウィニズムはダーウィンと異なり、自然選択だけで生物の適応を説明する。1900年における「メンデルの再発見」は、このネオ・ダーウィニズムを支持しただろうと思われるかもしれないが、実際にはそうではなかった。ベイトソン、ド・フリース、ヨハンセンといった初期のメンデル主義者たちは、最初から適応的であるような一跳びの不連続的な突然変異を進化の創造力の源とみなした。だが、それに対してネオ・ダーウィニストたちは、そのような一跳びの突然変異は生物の適応性を破壊してしまうと反論した(これは正しい反論であった)。そのため、遺伝学が突然変異と自然選択の統合を支持するのには数十年がかかったのである。
では、進化の創造力はどこから来るのだろうか。実際には、自然選択は他の要因と組み合わさることで革新的な働きをするのである。遺伝子流動、遺伝的浮動、減数分裂における乗換え、そういった要因との組合せが重要となる。進化とは「突然変異+選択」であるといったような単純な図式化は、進化論に反対するID説論者などによってしばしば利用されるのである。
【コメント】
この章は、科学の歴史に関する議論というよりも、進化論批判に反論する目的で書かれた、科学そのものに関する議論という印象が強い。タイトルが現在形になっているのも、その内容を反映しているといえるだろう。
だが、総合説において「進化=突然変異+自然選択」という図式が乗り越えられたというのはたしかである。自分の研究に引きつけて言えば、ジュリアン・ハクスリーは、「総合説」を象徴する著作である『進化――現代的総合』(1942)において、突然変異と選択だけで進化を説明できるという議論を明確に否定し、「突然変異→組換え→選択」という図式で進化を規定している。進化は、突然変異が現れてそれが生存と繁殖に有利であれば集団内に広まる、という単純なプロセスの繰り返しなのではない。たしかに究極的な変異の源は突然変異であるが、それが生じたときからいきなり生存や繁殖に有利であるというようなことはほとんどない。だから重要なのは、生物の集団が常に豊富な変異を保持しているということであり、有性生殖を含むさまざまな遺伝的メカニズムや集団の流動などによって新しい遺伝子の組合せがつくられる動的な状態が保たれているということである。こうした組換えのプロセスによって新しい遺伝子の組合せが大量に試され、そのなかで生存や繁殖において有利となった組合せが、選択によって広まっていく。自然選択の素材は、組換えを通して提供されるのである。このような理解は20世紀半ば以降の進化学で普及していった。
しかし、1930年代の段階では総合説においても組換えの重要性がよく認識されていなかったということが、マイアによって指摘されている。たとえばドブジャンスキーは『遺伝学と種の起源』(1937)において、突然変異と組換えは二者択一である(それゆえ後者を排して前者を採用する)かのような書き方をしていた。
ではハクスリーは、先述のような理解をどこから得ていたのだろうか。「自然選択」の起源はダーウィンやウォレスに、「突然変異」の起源はド・フリースやモーガンに求めることができるであろうが、「組換え」の起源はどこに求められるのだろうか。ハクスリーが組換えの重要性を説いた『進化――現代的総合』の第4章において、理論的なバックボーンとなったのは、「遺伝的システム」という概念を活用した英国の細胞学者ダーリントンの議論であった。さらに歴史を遡れば、ダーリントンが影響を受けた人物の一人に、交雑説を唱えたオランダの植物学者ロッツィがいる。遺伝子の組合せの変化によって豊富な変異が生じるということに早くから気付いていたのは、ロッツィのようなメンデル主義者だったのではないだろうか。
神話20「ネオ・ダーウィニズムは進化を“ランダムな突然変異+自然選択”として定義する」
1940年代以来、専門的な進化研究は「ネオ・ダーウィニズム」(もしくは進化の現代的総合説)と呼ばれる原理によって導かれてきた。この原理は、メンデル遺伝学とダーウィンの自然選択が融合して生じている。それゆえ、ネオ・ダーウィニズムをランダムな遺伝的変異と自然選択として要約するのは自然であるように感じるかもしれない。しかし、これは適切な要約ではないのである。
歴史を振り返ってみるとこのことがよくわかる。ネオ・ダーウィニズムを生んだのは、生殖系列の要素だけが遺伝するということを示した発生学者のヴァイスマン(August Weismann, 1834–1914)であった。ネオ・ダーウィニズムはダーウィンと異なり、自然選択だけで生物の適応を説明する。1900年における「メンデルの再発見」は、このネオ・ダーウィニズムを支持しただろうと思われるかもしれないが、実際にはそうではなかった。ベイトソン、ド・フリース、ヨハンセンといった初期のメンデル主義者たちは、最初から適応的であるような一跳びの不連続的な突然変異を進化の創造力の源とみなした。だが、それに対してネオ・ダーウィニストたちは、そのような一跳びの突然変異は生物の適応性を破壊してしまうと反論した(これは正しい反論であった)。そのため、遺伝学が突然変異と自然選択の統合を支持するのには数十年がかかったのである。
では、進化の創造力はどこから来るのだろうか。実際には、自然選択は他の要因と組み合わさることで革新的な働きをするのである。遺伝子流動、遺伝的浮動、減数分裂における乗換え、そういった要因との組合せが重要となる。進化とは「突然変異+選択」であるといったような単純な図式化は、進化論に反対するID説論者などによってしばしば利用されるのである。
【コメント】
この章は、科学の歴史に関する議論というよりも、進化論批判に反論する目的で書かれた、科学そのものに関する議論という印象が強い。タイトルが現在形になっているのも、その内容を反映しているといえるだろう。
だが、総合説において「進化=突然変異+自然選択」という図式が乗り越えられたというのはたしかである。自分の研究に引きつけて言えば、ジュリアン・ハクスリーは、「総合説」を象徴する著作である『進化――現代的総合』(1942)において、突然変異と選択だけで進化を説明できるという議論を明確に否定し、「突然変異→組換え→選択」という図式で進化を規定している。進化は、突然変異が現れてそれが生存と繁殖に有利であれば集団内に広まる、という単純なプロセスの繰り返しなのではない。たしかに究極的な変異の源は突然変異であるが、それが生じたときからいきなり生存や繁殖に有利であるというようなことはほとんどない。だから重要なのは、生物の集団が常に豊富な変異を保持しているということであり、有性生殖を含むさまざまな遺伝的メカニズムや集団の流動などによって新しい遺伝子の組合せがつくられる動的な状態が保たれているということである。こうした組換えのプロセスによって新しい遺伝子の組合せが大量に試され、そのなかで生存や繁殖において有利となった組合せが、選択によって広まっていく。自然選択の素材は、組換えを通して提供されるのである。このような理解は20世紀半ば以降の進化学で普及していった。
しかし、1930年代の段階では総合説においても組換えの重要性がよく認識されていなかったということが、マイアによって指摘されている。たとえばドブジャンスキーは『遺伝学と種の起源』(1937)において、突然変異と組換えは二者択一である(それゆえ後者を排して前者を採用する)かのような書き方をしていた。
ではハクスリーは、先述のような理解をどこから得ていたのだろうか。「自然選択」の起源はダーウィンやウォレスに、「突然変異」の起源はド・フリースやモーガンに求めることができるであろうが、「組換え」の起源はどこに求められるのだろうか。ハクスリーが組換えの重要性を説いた『進化――現代的総合』の第4章において、理論的なバックボーンとなったのは、「遺伝的システム」という概念を活用した英国の細胞学者ダーリントンの議論であった。さらに歴史を遡れば、ダーリントンが影響を受けた人物の一人に、交雑説を唱えたオランダの植物学者ロッツィがいる。遺伝子の組合せの変化によって豊富な変異が生じるということに早くから気付いていたのは、ロッツィのようなメンデル主義者だったのではないだろうか。
2017年2月27日
「自然選択以外に種の起源の科学的説明はなかった」というのは神話 Rupke, “Myth 13”
Nicolaas Rupke, “Myth 13: That Darwinian Natural Selection Has Been “the Only Game in Town,”” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 103–111.
神話13「ダーウィンの自然選択は“唯一の選択肢”だった」
ドーキンスに代表される多くの論者たちが、宗教的な種の個別創造説を除けば、自然選択に基づくダーウィンの進化論が採用可能な唯一の選択肢であるかのような議論をしてきた。しかし、進化論をダーウィンの理論と同一視できるというのは神話である。この神話は、構造主義 structuralism(あるいは形態主義 formalism、筆者独自の概念?)の進化論の伝統を無視している。たとえば、この神話から生じている代表的な誤解として、オーエン(1804–1892, ロンドン自然史博物館の設立者)が創造論者だというよく広まった認識がある。実際には、オーエンはダーウィン主義者ではなかったが、進化論者ではあった。構造主義的進化論は、『種の起源』(1859)以前にも以後にも根強く存在した。
構造主義の進化論では、生命の起源や多様な形態の起源は、機械論的であり物理的もしくは化学的な力の作用に帰される。構造主義の伝統は18世紀後半に始まり、自然発生というプロセスを通じて、生命の進化の歴史と、地球・太陽系・銀河・元素の進化の歴史を接続する議論がなされた。宇宙の歴史は、自然法則にしたがう物質の複雑化の過程として描かれ、生命の起源や種の起源は分子的な力に駆動されたプロセスとして理解された。こうした考え方を示した代表的な著作として、フンボルト(1769–1859)の『コスモス』(1845–1862)や、チェンバース(1802–1871)の『創造の自然史の痕跡』(1844)がある。また、生物の形態を説明するのには結晶学が持ち出された。ヘッケル(1834–1919)に代表される学者たちは、生物の形態を数学的に説明できることに注目した。ほかにも、ブルーメンバッハ(1752–1840)やオーケン(1779–1851)、トレヴィラヌス(1776–1837)、ゲーテ(1749–1832)といった人々が構造主義者であった。
では、なぜ構造主義的進化論は忘れ去られて、ダーウィニズムが唯一の進化論であるという理解が浸透したのだろうか。その原因は、構造主義者のほとんどがドイツ人だったことにあると考えられる。ナチス時代には、ゲーテやフンボルトといったドイツのロマン主義や観念論がもてはやされた。第二次大戦後、構造主義的進化論はナチスのイメージと結び付いてしまったことで衰退した。逆に、ダーウィニズムは戦後のドイツにおいて、ナチスのイメージを拭うために好まれたのである。さらには、マイアの『生物学思想の発展』(1982)に代表される、ダーウィン産業の研究がダーウィニズムの存在感をより高めていった。
【コメント】
進化論史の全てがダーウィン(とその「先駆者」)から始まっているかのような歴史記述はおかしい、というのは真っ当な指摘だろう。進化論の歴史はしばしば、ダーウィンの時代には種の起源に関する理論は宗教的なものしか存在していなかったかのように説明されてきた。このような事態は、ダーウィン本人やダーウィンを英雄視した人々の言い分を鵜呑みにした英語圏中心のヒストリオグラフィーから生じている。英語圏の外に目を向ければ、同時代にもダーウィンとはまったく異なるタイプの非宗教的進化論が存在していた。「進化論=ダーウィン」という思い込みのために、交雑による新種の形成を実証しようとしていたメンデルさえもダーウィン主義者だと誤解されてきた。
しかし、本章における筆者の「構造主義(形態主義)的伝統」という概念が何を指しているのかは、いまいちよくわからなかった。この章で挙げられているような人々のあいだの影響関係も明らかにされていない。彼らをこの言葉で一括りにするのは果たして適切なのだろうか。
神話13「ダーウィンの自然選択は“唯一の選択肢”だった」
ドーキンスに代表される多くの論者たちが、宗教的な種の個別創造説を除けば、自然選択に基づくダーウィンの進化論が採用可能な唯一の選択肢であるかのような議論をしてきた。しかし、進化論をダーウィンの理論と同一視できるというのは神話である。この神話は、構造主義 structuralism(あるいは形態主義 formalism、筆者独自の概念?)の進化論の伝統を無視している。たとえば、この神話から生じている代表的な誤解として、オーエン(1804–1892, ロンドン自然史博物館の設立者)が創造論者だというよく広まった認識がある。実際には、オーエンはダーウィン主義者ではなかったが、進化論者ではあった。構造主義的進化論は、『種の起源』(1859)以前にも以後にも根強く存在した。
構造主義の進化論では、生命の起源や多様な形態の起源は、機械論的であり物理的もしくは化学的な力の作用に帰される。構造主義の伝統は18世紀後半に始まり、自然発生というプロセスを通じて、生命の進化の歴史と、地球・太陽系・銀河・元素の進化の歴史を接続する議論がなされた。宇宙の歴史は、自然法則にしたがう物質の複雑化の過程として描かれ、生命の起源や種の起源は分子的な力に駆動されたプロセスとして理解された。こうした考え方を示した代表的な著作として、フンボルト(1769–1859)の『コスモス』(1845–1862)や、チェンバース(1802–1871)の『創造の自然史の痕跡』(1844)がある。また、生物の形態を説明するのには結晶学が持ち出された。ヘッケル(1834–1919)に代表される学者たちは、生物の形態を数学的に説明できることに注目した。ほかにも、ブルーメンバッハ(1752–1840)やオーケン(1779–1851)、トレヴィラヌス(1776–1837)、ゲーテ(1749–1832)といった人々が構造主義者であった。
では、なぜ構造主義的進化論は忘れ去られて、ダーウィニズムが唯一の進化論であるという理解が浸透したのだろうか。その原因は、構造主義者のほとんどがドイツ人だったことにあると考えられる。ナチス時代には、ゲーテやフンボルトといったドイツのロマン主義や観念論がもてはやされた。第二次大戦後、構造主義的進化論はナチスのイメージと結び付いてしまったことで衰退した。逆に、ダーウィニズムは戦後のドイツにおいて、ナチスのイメージを拭うために好まれたのである。さらには、マイアの『生物学思想の発展』(1982)に代表される、ダーウィン産業の研究がダーウィニズムの存在感をより高めていった。
【コメント】
進化論史の全てがダーウィン(とその「先駆者」)から始まっているかのような歴史記述はおかしい、というのは真っ当な指摘だろう。進化論の歴史はしばしば、ダーウィンの時代には種の起源に関する理論は宗教的なものしか存在していなかったかのように説明されてきた。このような事態は、ダーウィン本人やダーウィンを英雄視した人々の言い分を鵜呑みにした英語圏中心のヒストリオグラフィーから生じている。英語圏の外に目を向ければ、同時代にもダーウィンとはまったく異なるタイプの非宗教的進化論が存在していた。「進化論=ダーウィン」という思い込みのために、交雑による新種の形成を実証しようとしていたメンデルさえもダーウィン主義者だと誤解されてきた。
しかし、本章における筆者の「構造主義(形態主義)的伝統」という概念が何を指しているのかは、いまいちよくわからなかった。この章で挙げられているような人々のあいだの影響関係も明らかにされていない。彼らをこの言葉で一括りにするのは果たして適切なのだろうか。
2017年2月16日
「ラマルクの進化論は主に用不用の遺伝」というのは神話 Burkhardt, “Myth 10”
Richard W. Burkhardt Jr., “Myth 10: That Lamarckian Evolution Relied Largely on Use and Disuse and That Darwin Rejected Lamarckian Mechanisms,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 80–87.
神話10「ラマルクの進化は主として用不用に基づいていた。また、ダーウィンはこのラマルクのメカニズムを拒絶した」
生物学の教科書においてラマルク(1744–1829)とダーウィン(1809–1882)の進化論が比較されるとき、ラマルクの理論において主要なメカニズムは獲得形質の遺伝(inheritance of acquired characters)であり、ダーウィンはこれを拒絶して代わりに自然選択を唱えたのであるかのように記述されている。しかし、これらは正しくない。獲得形質の遺伝、すなわち用不用の遺伝的影響は、ラマルクの理論における生物の変化の主要な要因ではなかったし、ダーウィンは用不用の影響の遺伝を固く信じていた。
ラマルクはパリ自然史博物館で無脊椎動物を担当する教授となり、それらを分類するうちに、外的形態よりも内部器官に注目するべきだと考えるようになった。そして内部器官によって区分した分類群は、複雑性が高まっていくひとつながりの系列として整理できることに気づいた。ラマルクは『無脊椎動物誌』(1801)において、多様な動物が存在することの「二つのまったく異なった原因」に言及する。「第一の主要な原因」は、動物を前進的に複雑化させる生命力であり、第二の原因は、多様な環境によって生じる用不用の違いであった。ラマルクは『動物哲学』(1809)において、第二の原因を二つの法則によって定式化しているが、これはしばしばラマルクの理論全体を表現したものとして誤解されている。
ラマルクは獲得形質の遺伝を自分が考えたとも主張していないし、それを実験的に示そうともしていない。用不用の遺伝という考え方は、ラマルクの時代においては当たり前のこととされていたのである。
ダーウィンは、進化の最も主要な要因は自然選択であると考えていたが、獲得形質の遺伝も副次的な要因として固く信じていた。たとえば、家禽化されたアヒルが野生のカモに比べて小さな羽と大きな足の骨をもっていることや、洞窟に住んでいる動物が視力をもっていないことは、用不用の遺伝に帰された。そしてダーウィンは、『家畜と栽培植物の変異』(1868)においてパンゲン説を提唱し、獲得形質の遺伝をもたらす具体的なメカニズムを説明した。だが、ダーウィンはいつもラマルクの理論から距離をとるようにしていた。ダーウィンが用不用の遺伝とラマルクの名前を結び付けたのは、用不用の遺伝では説明できないが自然選択であれば説明できる例を持ち出してラマルクを批判したときだけであった。
【コメント】
(1) ラマルクが用いていた言葉は「獲得形質の遺伝」ではなく「獲得物の転移」。「形質 character」および「遺伝 inheritance」という観念は、ラマルクの時代の生物学にはまだ明確な形で存在しなかった。ラマルクには「適応 adaptation」の概念もない。
(2) 表題の神話がいかにして生まれたのか、という問題はこの章でほとんど扱われていない。ヴァイスマン(1834–1914)が1880年代に生殖質連続説を唱えたことで、はじめて「獲得形質の遺伝」が問題となった(バルテルミ=マドール『ラマルクと進化論』第4章)。
(3) この章は用不用の遺伝の問題に焦点を絞っているが、よくいわれる「ラマルクが進化論の先駆者」という捉え方自体、神話めいたところがあるのではないか。ダーウィンの進化論とラマルクの変移説はまったく異なる。ダーウィンの進化論は(ラマルクよりもむしろ)キュヴィエ(1769–1832)に多くを負っているというフーコーの議論(「生物学史におけるキュヴィエの位置」、『思考集成III』収録)も示唆に富んでいる。
神話10「ラマルクの進化は主として用不用に基づいていた。また、ダーウィンはこのラマルクのメカニズムを拒絶した」
生物学の教科書においてラマルク(1744–1829)とダーウィン(1809–1882)の進化論が比較されるとき、ラマルクの理論において主要なメカニズムは獲得形質の遺伝(inheritance of acquired characters)であり、ダーウィンはこれを拒絶して代わりに自然選択を唱えたのであるかのように記述されている。しかし、これらは正しくない。獲得形質の遺伝、すなわち用不用の遺伝的影響は、ラマルクの理論における生物の変化の主要な要因ではなかったし、ダーウィンは用不用の影響の遺伝を固く信じていた。
ラマルクはパリ自然史博物館で無脊椎動物を担当する教授となり、それらを分類するうちに、外的形態よりも内部器官に注目するべきだと考えるようになった。そして内部器官によって区分した分類群は、複雑性が高まっていくひとつながりの系列として整理できることに気づいた。ラマルクは『無脊椎動物誌』(1801)において、多様な動物が存在することの「二つのまったく異なった原因」に言及する。「第一の主要な原因」は、動物を前進的に複雑化させる生命力であり、第二の原因は、多様な環境によって生じる用不用の違いであった。ラマルクは『動物哲学』(1809)において、第二の原因を二つの法則によって定式化しているが、これはしばしばラマルクの理論全体を表現したものとして誤解されている。
ラマルクは獲得形質の遺伝を自分が考えたとも主張していないし、それを実験的に示そうともしていない。用不用の遺伝という考え方は、ラマルクの時代においては当たり前のこととされていたのである。
ダーウィンは、進化の最も主要な要因は自然選択であると考えていたが、獲得形質の遺伝も副次的な要因として固く信じていた。たとえば、家禽化されたアヒルが野生のカモに比べて小さな羽と大きな足の骨をもっていることや、洞窟に住んでいる動物が視力をもっていないことは、用不用の遺伝に帰された。そしてダーウィンは、『家畜と栽培植物の変異』(1868)においてパンゲン説を提唱し、獲得形質の遺伝をもたらす具体的なメカニズムを説明した。だが、ダーウィンはいつもラマルクの理論から距離をとるようにしていた。ダーウィンが用不用の遺伝とラマルクの名前を結び付けたのは、用不用の遺伝では説明できないが自然選択であれば説明できる例を持ち出してラマルクを批判したときだけであった。
【コメント】
(1) ラマルクが用いていた言葉は「獲得形質の遺伝」ではなく「獲得物の転移」。「形質 character」および「遺伝 inheritance」という観念は、ラマルクの時代の生物学にはまだ明確な形で存在しなかった。ラマルクには「適応 adaptation」の概念もない。
(2) 表題の神話がいかにして生まれたのか、という問題はこの章でほとんど扱われていない。ヴァイスマン(1834–1914)が1880年代に生殖質連続説を唱えたことで、はじめて「獲得形質の遺伝」が問題となった(バルテルミ=マドール『ラマルクと進化論』第4章)。
(3) この章は用不用の遺伝の問題に焦点を絞っているが、よくいわれる「ラマルクが進化論の先駆者」という捉え方自体、神話めいたところがあるのではないか。ダーウィンの進化論とラマルクの変移説はまったく異なる。ダーウィンの進化論は(ラマルクよりもむしろ)キュヴィエ(1769–1832)に多くを負っているというフーコーの議論(「生物学史におけるキュヴィエの位置」、『思考集成III』収録)も示唆に富んでいる。
2017年2月14日
「激変主義者と斉一主義者の対立」というのは神話 Newell, “Myth 9”
Julie Newell, “Myth 9: That Nineteenth-Century Geologists Were Divided into Opposing Camps of Catastrophists and Uniformitarians,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 74–79.
神話9「19世紀の地質学者たちは、激変主義者と斉一主義者という対立する二つの陣営に分かれていた」
地質学における論争を説明する方法として、その論争の参加者たちを対立する二つの陣営に分けるやり方が好まれてきた。だがこのような方法ではしばしば、参加者たちの考え方が誤解されたり極度に単純化されたりしている。
18世紀におけるヴェルナー主義者とハットン主義者の対立という説明もその一例である。この説明では、前者はヴェルナー(Abraham Gottlob Werner, 1749–1817)の、岩層は海洋における沈殿物によって形成されたという主張に賛成し、後者はハットン(James Hutton, 1726–1797)の、岩層は地下の火によって形成されたという主張に賛成していたということになっている(水成説論者 Neptunists と火成説論者 Vulcanists)。だが、実際のヴェルナーやハットンの考え方はこのように単純化できるものではないし、ヴェルナー主義者やハットン主義者とみなされてきた人々は、実際には各理論における地層形成の説明よりも実践的有用性に興味をもっていた。
ハットンの中心的概念のうち、三つのものが後の地質学に深い影響を与えた。第一に、地質学的な変化は現在観察できるメカニズム(現在因 actual cause)で説明されなければならないという「現在主義 actualism」、第二に、地質学的説明は現在観察されるのと同じ速度の変化に限られるという「漸進主義 gradualism」、第三に、現在主義と漸進主義に基づいて地質学的記録を説明するのに必要となる膨大な長さの「時間」である。
これらの考え方はすべて、ライエル(Charles Lyell, 1797–1875)の『地質学原理』(1831)において中心的な役割を果たした。ライエルは、過去の地質学的変化はすべて、今日の世界で観察されるのと同じ種類かつ同じ度合のプロセスで説明されると主張した。ライエルはレトリックを駆使して、現在主義と漸進主義を「斉一性 uniformity」という概念に一体化させた。
1832年、『地質学原理』に対する書評でヒューウェル(William Whewell, 1794–1866)は「斉一主義者 uniformitalians」と「激変主義者 catastrophists」という分類を導入した。ここでは激変主義者は、地史のなかで地質学的変化が異なる速度で進んできたことを主張する人たち(=現在主義ではなく漸進主義の反対者)とされていた。現在主義そのものを否定する人はほとんどいなかったのである。一方、ライエルに好意的だったヒューウェルやコニベア(William Daniel Conybeare, 1787–1857)も、ライエルの漸進主義を批判していた。つまり実際のところ、「激変主義者」とみなされてきた人々と、「斉一主義者」とみなされてきた人々は、多くの点において一致した意見をもっていたのである。
斉一主義をライエルや「科学」と同一視し、激変主義を宗教的信仰に基づいた反ライエル的な立場とみなす見方は、ライエルの批判者たちを極度に単純化し、誤解している。実際の対立は、科学と宗教のあいだで起こっていたのではなかった。
【コメント】
付け加えていえば、ハットンやライエルの議論できわめて重要な要素として「定常主義」(=地史には方向性がない!)がある。ライエルの巧妙さは、定常主義(世界観に関する主張)と現在主義(科学的方法論に関する主張)をうまく組み合わせたところにある。筆者のいう漸進主義は、現在主義を地質学的プロセスの種類だけでなく度合にも適用したものであり、「強い現在主義」と捉えることもできる。ライエルの批判者たちは「方向主義(=地史には方向性がある!)」の立場をとっていて、ライエルの定常主義と強い現在主義をどちらも批判していた。
神話9「19世紀の地質学者たちは、激変主義者と斉一主義者という対立する二つの陣営に分かれていた」
地質学における論争を説明する方法として、その論争の参加者たちを対立する二つの陣営に分けるやり方が好まれてきた。だがこのような方法ではしばしば、参加者たちの考え方が誤解されたり極度に単純化されたりしている。
18世紀におけるヴェルナー主義者とハットン主義者の対立という説明もその一例である。この説明では、前者はヴェルナー(Abraham Gottlob Werner, 1749–1817)の、岩層は海洋における沈殿物によって形成されたという主張に賛成し、後者はハットン(James Hutton, 1726–1797)の、岩層は地下の火によって形成されたという主張に賛成していたということになっている(水成説論者 Neptunists と火成説論者 Vulcanists)。だが、実際のヴェルナーやハットンの考え方はこのように単純化できるものではないし、ヴェルナー主義者やハットン主義者とみなされてきた人々は、実際には各理論における地層形成の説明よりも実践的有用性に興味をもっていた。
ハットンの中心的概念のうち、三つのものが後の地質学に深い影響を与えた。第一に、地質学的な変化は現在観察できるメカニズム(現在因 actual cause)で説明されなければならないという「現在主義 actualism」、第二に、地質学的説明は現在観察されるのと同じ速度の変化に限られるという「漸進主義 gradualism」、第三に、現在主義と漸進主義に基づいて地質学的記録を説明するのに必要となる膨大な長さの「時間」である。
これらの考え方はすべて、ライエル(Charles Lyell, 1797–1875)の『地質学原理』(1831)において中心的な役割を果たした。ライエルは、過去の地質学的変化はすべて、今日の世界で観察されるのと同じ種類かつ同じ度合のプロセスで説明されると主張した。ライエルはレトリックを駆使して、現在主義と漸進主義を「斉一性 uniformity」という概念に一体化させた。
1832年、『地質学原理』に対する書評でヒューウェル(William Whewell, 1794–1866)は「斉一主義者 uniformitalians」と「激変主義者 catastrophists」という分類を導入した。ここでは激変主義者は、地史のなかで地質学的変化が異なる速度で進んできたことを主張する人たち(=現在主義ではなく漸進主義の反対者)とされていた。現在主義そのものを否定する人はほとんどいなかったのである。一方、ライエルに好意的だったヒューウェルやコニベア(William Daniel Conybeare, 1787–1857)も、ライエルの漸進主義を批判していた。つまり実際のところ、「激変主義者」とみなされてきた人々と、「斉一主義者」とみなされてきた人々は、多くの点において一致した意見をもっていたのである。
斉一主義をライエルや「科学」と同一視し、激変主義を宗教的信仰に基づいた反ライエル的な立場とみなす見方は、ライエルの批判者たちを極度に単純化し、誤解している。実際の対立は、科学と宗教のあいだで起こっていたのではなかった。
【コメント】
付け加えていえば、ハットンやライエルの議論できわめて重要な要素として「定常主義」(=地史には方向性がない!)がある。ライエルの巧妙さは、定常主義(世界観に関する主張)と現在主義(科学的方法論に関する主張)をうまく組み合わせたところにある。筆者のいう漸進主義は、現在主義を地質学的プロセスの種類だけでなく度合にも適用したものであり、「強い現在主義」と捉えることもできる。ライエルの批判者たちは「方向主義(=地史には方向性がある!)」の立場をとっていて、ライエルの定常主義と強い現在主義をどちらも批判していた。
「メンデルは孤独な遺伝学の先駆者」というのは神話 Kampourakis, “Myth 16”
Kostas Kampourakis, “Myth 16: That Gregor Mendel Was a Lonely Pioneer of Genetics, Being ahead of His Time,” in Newton’s Apple and Other Myths about Science, eds. Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis (Cambridge, MA: Harvard University Press), 129–138.
神話16「グレゴール・メンデルは時代を先取りした、孤独な遺伝学の先駆者だった」
現代の遺伝学の知識をもっている我々は、しばしばメンデルの論文に過剰なものを読み込んでしまう。メンデルは遺伝因子についてではなく、形質について表記しているという点に注意する必要がある。厳密に言えば、メンデルは「分離の法則」も「独立の法則」も発見していない。さらに言えば、遺伝が粒子的であることも発見していない。
メンデルは遺伝の一般理論ではなく、異種交雑で新種は生まれるのかという問題に取り組んでいた。当時、遺伝のメカニズムは生物学の中心的な問題の一つであり、ダーウィン、スペンサー、ゴルトン、ネーゲリ、ヴァイスマン、ド・フリースといった人々が取り組んでいたが、メンデルはこのようなグループの外部にいた。実際、メンデルの論文に「遺伝」という言葉は一度もあらわれていない。
1900年以降におけるメンデル論文の急速な受容は、新しい概念的枠組みが発見された結果である。ゴルトンとヴァイスマンがハードな遺伝という考え方をつくり上げており、また細胞学者たちが形質の発現に関係する粒子が細胞内にあるという見方を支持する証拠を提供していた。
メンデルを英雄視する見方は、実際の歴史を歪めているだけでなく、科学が一般的にどのようになされるかという理解をも歪めている。
また、メンデルの実験はブルノの農業的・社会経済的文脈と関係していた。科学的な問いは、理論的というよりも経済的・技術的な要求から生じることも多いのである。
神話16「グレゴール・メンデルは時代を先取りした、孤独な遺伝学の先駆者だった」
現代の遺伝学の知識をもっている我々は、しばしばメンデルの論文に過剰なものを読み込んでしまう。メンデルは遺伝因子についてではなく、形質について表記しているという点に注意する必要がある。厳密に言えば、メンデルは「分離の法則」も「独立の法則」も発見していない。さらに言えば、遺伝が粒子的であることも発見していない。
メンデルは遺伝の一般理論ではなく、異種交雑で新種は生まれるのかという問題に取り組んでいた。当時、遺伝のメカニズムは生物学の中心的な問題の一つであり、ダーウィン、スペンサー、ゴルトン、ネーゲリ、ヴァイスマン、ド・フリースといった人々が取り組んでいたが、メンデルはこのようなグループの外部にいた。実際、メンデルの論文に「遺伝」という言葉は一度もあらわれていない。
1900年以降におけるメンデル論文の急速な受容は、新しい概念的枠組みが発見された結果である。ゴルトンとヴァイスマンがハードな遺伝という考え方をつくり上げており、また細胞学者たちが形質の発現に関係する粒子が細胞内にあるという見方を支持する証拠を提供していた。
メンデルを英雄視する見方は、実際の歴史を歪めているだけでなく、科学が一般的にどのようになされるかという理解をも歪めている。
また、メンデルの実験はブルノの農業的・社会経済的文脈と関係していた。科学的な問いは、理論的というよりも経済的・技術的な要求から生じることも多いのである。
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