2020年9月26日

ゲーテの形態学形成過程 Richards, The Romantic Conception Of Life, 第11章第4節

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 434–457.


形態学という科学(434457ページ)

 『植物のメタモルフォーゼ』を書いた頃から1790年代末にかけて、ゲーテは形態学という科学を構築し、その定義や方法、内容を固めた。同時代人たちは、ゲーテの理論をすぐに採用し、それは19世紀の生物学思想の一潮流になっていった。ヒューウェルによれば、ゲーテは、オーケン、メッケル、スピックス、ジョフロワ・サンティレール、キュヴィエといった解剖学者たちに広まっていった「型」の概念を最初に発展させた人物なのである。

 

■ 科学の方法(435440ページ)

 1790年代のゲーテは、形態学や光学に関係する方法論的問題に取り組んでいた。実験的・経験的科学に関する彼の一般的方法は、「客体と主体の仲介者としての実験」(1792)というエッセイによく示されている。このエッセイでゲーテは、人為的か自然的かにかかわらず、特定の条件のもとで繰り返すことができる観察をしようという意図が科学を特徴づけるのだと考えた(ゲーテは「Versuch」という言葉のなかに、プリズムがつくる色のスペクトルのような人為的現象の観察だけでなく、植物や動物の成長のような自然的現象の観察も含めている)。そして、科学的実践においては、他の観察者と協力し、経験的証拠を発表し、実験を何度も繰り返すことが重要なのだと論じた上で、ニュートンは少ない回数の実験だけを行い、元から自分の頭の中にあった理論を発表してしまったと批判している。ゲーテによれば、高いレベルの包括的な法則を発見するには、多くの経験的証拠を集め、それらを低いレベルから総合していくことが必要なのだという。一方、芸術的実践における美徳(想像力の発揮、人を楽しませようという願望、孤独な努力、唯一無二なものの作製、完成品だけを見せることなど)は、科学的実践においては悪徳になるのだという。

 以上からわかるように、このエッセイの時点では、カント的な発想はまだ支配的になっておらず、むしろスピノザ的・反ニュートン的な精神が支配的であった。ゲーテがカントの『判断力批判』のメッセージ(あるいはそのロマン主義的解釈)を重要視して、科学と芸術の区別を弱めたのは、シラーやシェリングとの交流を経てからのことである。それよりも、自然の過程は精神的な対応物を持っていて、それは注意深い実験的手順によって認識することができ、高いレベルの認識によって捉えることができるという、スピノザの一元論の影響がこの時点では強かったのである。


■ 動物原型の理論へと向かういくつかのエッセイ(440453ページ)

 『植物のメタモルフォーゼ』の出版後、ゲーテは動物に関心を向けた。彼は、後に「原型」と呼ぶことになる動的な型の概念を記述の土台にしようとしたが、それは比較動物学に役立つ単純なパターンというよりも、自然に内在し生物を存在させ成長させる動的な力になることを徐々に認識した。1790年から1797年にかけて、ゲーテはこの概念を洗練させるエッセイを5本書いている。

 

「動物の形態についてのエッセイ」(1790) 442–443ページ

 脊椎動物の骨格に関心を向けたエッセイ。ここでゲーテは、特定の種に焦点を絞る傾向があった同時代の他の解剖学者たちとも、すべての脊椎動物に共通する要素を抽出しようとする後のオーウェンらとも異なるアプローチをとった。さまざまな種類の脊椎動物によって示されているすべての部分を含む包括的な形態が原型だと考えたのである。この原型は、さまざまな種の観察と比較を通して得られるが、外的な眼では見ることができず、内的な眼によってのみ見ることができるとされた。しかし、ゲーテはこのエッセイを満足できる形に仕上げることができず、そのまま光学へと関心を移していった。

 

「骨の一般理論についてのエッセイ」(1794) 443–444ページ

 光学研究に対して人々から否定的な評価を受けたことに失望したゲーテは、再び脊椎動物の骨格の研究を始めた。このエッセイでは、顎間骨から始まり、頭の骨をひとつひとつ詳細に記述している。また、顎間骨から始める理由を説明する際、顎間骨がその動物の生態を反映しており、またその動物の全体の構造も反映しているという、のちのキュヴィエに通じる議論を展開している。

 

「比較の一般理論についてのエッセイ」(1794) 444–445ページ

 このエッセイには、カントの『判断力批判』やシラーとの議論の影響が見られる。生物は内的な目的論を示しているが、だからといって生物を外的な目的論(宇宙論的な意味での目的因)の一要素とみなすべきではないという、カントの提案の一側面をゲーテは強調する。そして、研究者は動植物の構造について、人間による使用や神によるメッセージのためにデザインされたと考えるのではなく、その生物全体の機能的組織体が存在理由になっていると考えるべきなのだと訴える。生物と環境の関係に意図を見出すのは間違いであり、環境は生物に影響を与え、その形態を特定の要求に対して順応させることによって、外的環境に対しての合目的性を与えるのである。一方で、生物には一般的な構造のパターンを与える「内的核」という力もあって、この内的なパターンを外的な力が個別化する。たとえば、アザラシは水の環境によって形成された体をしているが、その骨格は陸上の哺乳類と同じ一般的パターンを示している。この外的な環境の力を、ゲーテはラマルクや若い頃のダーウィンのように、直接的な効果と考えた。ゲーテは神に関わる目的論を自然の因果で置き換えたのである(もっとも、その因果が目的をもつ性質を保持してはいたが)。

 

「骨学に基づく比較解剖学への概括的序論の第一草案」(1795) 446–449ページ

 1794年のクリスマスの頃にイェーナにやって来たフンボルト兄弟と話したことが、ゲーテを再び形態学研究へと駆り立てた。この草案では、基本的に前の年に書いたことを繰り返して述べているが、原型というアイデア自体が検証されるべき仮説であるということが強調されるようになった。また、「内的核」に相当する概念として「形成衝動」が導入された。これはブルーメンバッハがつくった言葉であるが、ゲーテはフンボルトを通して知った可能性が高い。

 

「骨学に基づく比較解剖学への一般的序論の第一草案の最初の3章についての講義」(1795) 449–453ページ

 第一草案の最初の2章を書き直したものと、新しいアイデアを組み込んだ第3節から構成されている。実際に講演に用いられたことはないようである。

 第2節では原型理論のカント的な色彩を強めたが、ここでゲーテはカントの哲学を自分流にアレンジしている。カントにとって、原型のような目的論的概念は統制的(実質的に仮説的)であって、外的な自然を構成するものではなかった。真正な科学は機械論的でなくてはならないので、生物の概念は真正な科学では機能しないのである。ところがゲーテは、原型は自然が用いているものであって、統制的・仮説的概念ではないとする。生産的なアイデアは自然に宿っているというスピノザ主義がゲーテのなかに残っていて、新しいカント主義へと転回させたのである。

 第3節では、成長の種類によって原型を区別する新しい議論を展開している。ここでゲーテは、有機体と非有機体を区別した上で、葉という同一の器官が時間とともにメタモルフォーゼしていく植物(継時的メタモルフォーゼが支配的)と、さまざまな器官が同時に形成される動物(同時的メタモルフォーゼが支配的)を区別した。これは、植物は一部分から全体を生み出すことができるが動物はできないということを意味しており、植物は動物のような個体ではなく集合体であるとみなされた。ゲーテは、椎骨が脊椎動物の骨格全体のプランを基礎づけているとは主張しておらず、その点で、のちにすべての骨が椎骨の変形だと論じて植物と動物の区別を崩壊させたオーケンらとは異なる。

 

■ 科学としての形態学(453456ページ)

 形態学という言葉を出版物に載せた最初の人物はブルダッハ(1800年)であるが、ゲーテは同じ言葉を少なくとも4年以上前に生み出していた。ゲーテは形態学を、全体も部分も、逸脱も可能性も含めた形態の科学だと考えていた。また、成長の力についての学であるとも考えていた。


■ ゲーテの形態学的考察に関するまとめ(456457ページ)

 ゲーテは1797年までに原型に関する理論を定式化していたが、その成果が公になったのは、1817年から1824年にかけて出版された『形態学のために』においてであった。

 ゲーテの科学は良い科学だったのだろうか? 筆者は、良い科学とは、不変の真実の発見によってではなく、経験的に裏付けられた実りあるアイデアによって特徴づけられるものであり、その意味でゲーテの科学は良い科学であったと考える。もしゲーテが多方面で活躍せず科学だけに専念していたら、同時代の批評家たちから拒絶されることもなかったのではないだろうか。ゲーテの詩の才能は、彼の科学に対してかえって疑いを招いてしまったように思われるのである。

 さて、ゲーテはカントの認識論の基本を受け入れていたにもかかわらず、どうして自然が実際に用いているのと同じ原型についてのアイデアを持つことができると考えていたのだろうか? 次の節ではこの問題に答えたい。


2020年5月16日

シェリングは最初の進化論者なのか? Richards, The Romantic Conception Of Life, 第8章

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 289–306.


第8章「シェリングの動的進化主義」

 シェリングの観念論の核心にある有機的なもの(the organic)の概念は、ライル、キールマイヤー、ゲーテなどをシェリングの難解な哲学に惹きつける磁石の役割を果たした。シェリングのアイデア自体も、もともと彼ら(およびカント、フンボルト、ジョン・ブラウン、エラズマス・ダーウィンなど)の概念をヒントにして構築されたものであり、そのことは彼らにとって痛快であった。

 シェリングは1797年の夏に、哲学的文献に関するレビューのなかで、有機的なものという概念を簡潔に導入した。シェリングの主張では、人間の心は一連の表象を生み出していて、まさにその一続きを生み出す活動が自己を構成し、意識的な心を存在させる。人間の心は、このようにして自己を再生産する。自己再生産をするということは、人間の心は根本的に有機的な働きをするということである。我々の心がたえずそれ自身を有機化しようとするのであるから、客観的な世界(外界)もまた、有機化へと向かう普遍的な傾向をもつ。なまの(raw)物質を徐々に構造化していくのは、自然の普遍的な心である。有機化の形跡がほとんど見られないコケのようなものから、物質の束縛を打ち破ったように思われる最も貴い形態に至るまで、一つの同じ推進力が支配している。この推進力は、目的をもつ一つの同じ理念に従って動いており、一つの同じ原型、すなわち我々の心の純粋な形態を表現すべく無限に進んでいる。

 カントにとって有機性は、自然界を実際に支配している機械論的法則を研究者が発見するのを手助けする統制的概念でしかなかった。有機的なものの原理は、意図の概念を匿っているがゆえに、自然の構成的原理とするのは適さないとみなしたからである。一方、シェリングは、心をより深く掘り起こし、その土台になっている有機体の原理を発見した。この原理は、人間の心のみならず、現実世界をも生み出す働きをしている。そしてこの世界は生きていて、最も不活性に思える物質すらも生命をもって動いている。

 カントにとって、自然の必然性の世界と人間の自由の世界は両立不可能に見えながらも別々に存在するものであった。一方、シェリングは両者を立体的に結合させようとした。その際にシェリングは、ラマルクのともダーウィンのとも異なる、しかし彼らの歩みを容易にする進化論を生み出すことになったのである。


■ 生物学的な諸論文(291-292ページ)

 シェリングはレビューに続いて、生物学に関わる3本の論文を書いた。そこでは、有機的なものの概念が詳しく説明されている。第3章で述べたように、『世界霊について(Weltseele)』(1798)では、生物や非生物に関する最新の諸理論を調査し、外界の諸現象は極力(polar forces)に由来するという一般的原理がそれらの理論から帰納的に支持されると主張した。磁気や電気は、そのような正と負の力の例である。こうした反対の力は、究極的には自己意識の二つの根本的活動の表象として理解される。しかし、『自然哲学の体系の最初の草稿(Erster Entwurf)』(1799)では、演繹的な自然の体系を定式化しはじめ、実験的・理論的研究から帰納的に推論される原理は、演繹的な枠組みのなかに位置づけられるとした。この推定は、『草稿への序論(Einleitung)』(1799)においてきわめて明瞭になっており、ここでシェリングは「同一哲学」の最高地点に到達したといえる。


■ 同時代の生物学諸理論の批判的分析(292–294ページ)

 ライルは、生命力は他の自然力と同じように、特定の形式で結合した化学元素から生じるのだという機械論的理論を展開していた。しかしシェリングは、そのような結合が生まれること自体は説明できていないとして、ライルの説を否定した。シェリングはさらに、生命は動物性物質の性質や産物なのではなく、むしろその逆で動物性物質が生命の産物なのだと主張した。

 一方でブルーメンバッハは、他の自然力に加えて形成衝動の存在を仮定する生気論的理論を展開していた。シェリングは、そのような力を追加することは、科学の一般的体系化を損なうと考えていた。シェリングによれば、カントでさえ、『判断力批判』では生命力という安易なアイデアにもたれかかってしまっている。シェリングには、そのアイデアは、自然は自然法則に束縛されず自由に活動できると言ってしまっているように思われた。シェリングは、自然の組織化のプロセスは自然の原理によって説明することが可能なはずだと確信していた。

 シェリングの立場は、唯物論と生気論のある種の総合であった(この新しい総合を表現するのに、シェリングは形成衝動という言葉を用いたが、これは彼の立場がブルーメンバッハの立場と混同される結果を招いてしまった)。シェリングの考えでは、自然は(生命力の論者が言うように)単に法則なしに動くのでもないし、(化学的生理学者たちが言うように)単に法則に従って動くのでもない。自然は、法則性において無法則的であり、無法則性において法則的なのである。自然がこのような性質をもつのは、自然それ自体が究極的に有機的な自己意識に由来しており、それゆえに生物学だけでなく化学や物理学においても「有機体」が根本的な概念だからである。この条件下では、自然の活動の核心には自由があることになる。自然の活動は法則的であるが、その法則は自然の最も深い核心に由来しており、自然自身に自由に課せられた法則なのである。だから実は、カントの信奉者とみなされた人々の誰でもなく、シェリングだけが、本当の目的論的機械論(teleo-mechanism)による自然の理解を構築していたのである。


■ 動的に移り変わる力の均衡としての自然(294–298ページ)

 シェリングは生理学の実験的成果(フンボルトによる電気の研究など)に基づいて、植物や動物の世界のいたるところで均衡を保っている力を見出していた。力の均衡という考え方はキールマイヤーから得ていたが、シェリングは、この力を動的なものとして捉えていた。個体のなかでも、生物の世界全体のなかでも、力の動的な均衡が起こっている。さらには、生きていない物質でさえも、動的な緊張が保たれた力の均衡から生じている。ライルは生命現象を生きていない物質の性質に還元したが、シェリングは生きていない物質を不活発な生命の活動にまで持ち上げたのである。

 シェリングの自然哲学の根本的なアイデアは、自然は絶対者(the absolute)を達成しようと努めるということである。この衝動は、完全な表現を目指す自己意識の努力を反映している。それゆえ、自然は絶え間ない前進的な進化として捉えられることになる。シェリングがこの発展の過程を表現するのに選んだ言葉が「動的進化(dynamische Evolution)」であった。では、シェリングは、我々の言葉の意味で進化論者だったのだろうか?


■ 動的進化の理論(298–306ページ)

 1860~70年代にイェーナ大学の学芸学部長を務めたクーノ・フィッシャーは、友人のエルンスト・ヘッケルが、種の起源を考えたのはラマルクやダーウィンが最初だと言っていることについて戒めた。フィッシャーは、『世界霊について』の序文にある一節(298ページの引用部分)を指して、哲学的な観点から有機的発展の原理を明確に述べたのはシェリングが最初だと言った。この部分でシェリングは、長大な時間のなかでの有機体の漸進的発展について語っており、たしかに、自然の進化の概念を提示した最初の人物はシェリングであったように思われる。

 しかし、『世界霊について』から約1年後の『最初の草稿』においてシェリングは、何人かのナチュラリストが「すべての有機的構造の源を、一つの同じ原始的な有機的構造からの継続的で漸進的な発展として表現」しようとしていることについて否定的見解を述べた(299ページの引用部分)。この記述を根拠として、現代の歴史家たちは「シェリングはダーウィンの先駆者ではない」としてきた。しかし、そうだとするとシェリングはわずか1年のあいだに立場を完全に変えたということになり、大きな謎が残る。

 私の考えでは、シェリングは立場を変えていたわけではなかった。シェリングの念頭にあったのは、エラズマス・ダーウィンの『ズーノミア』である。『ズーノミア』第1巻のドイツ語訳はパート1とパート2に分けて出版されたが、シェリングは『世界霊について』を書いた時点ではパート1しか読んでおらず、その後でパート2を読んだようである。エラズマスはこのパート2にあたる部分で、神に生命と力を与えられた単純なフィラメントが、代を重ねるにつれて改良され発展してきたというアイデアを述べている。シェリングが問題だと感じて批判したのは、まさにこの、有機的構造の単一性を、形態の物理的伝達によって系図的に説明しようという着想であった。

 シェリングの考えでは、地球上には動的進化によっていくつもの異なる種が生じてきた。ただし、ここでいう「種」は、シェリングの包括的な種の概念であり、共通した性質を持っていることによって束ねられる還元的な種の概念とは異なる。シェリングの種は、その種の理念(ideal)の異なる側面を実現した変種の集合であり、たとえばハイエナも犬も狼も同じ種のなかに含まれるような概念である。そして、こうした種のそれぞれのなかで形態学的な変化があり、変種から別の変種が生まれるということが繰り返され、最終的にすべての変種によってその種のポテンシャルが現実化されることになる。種の出現それ自体も、時間とともにより高等な、より発展した形態の種が現れるようになる。そしてそれらの種もまた同様に、全体として、有機体の一般的理念を現実化していくことになる。無限の時間のなかで、種の集合体は、有機体それ自体の絶対的原型の完全な現実化に向かって進化していくのである。

 シェリングの考えでは、エラズマスのような理論では、有機的構造の単一性を説明できない。エラズマスのいうフィラメントのような、現実の原始的な有機体ひとつでは、有機体の原型を完全に具現化することはできないからである。シェリングの否定的見解は、このことに対して向けられていたのであった。シェリングの理論は、エラズマスやチャールズ・ダーウィンの進化論とは異なっているが、動的進化という進化の理論であったことは間違いない。

 シェリングはその後、この理論を発展させなかったが、かといって捨て去ったわけではなかった。実際、ゲーテへの手紙(1801年)のなかで、シェリングは自分の進化論がゲーテの形態学から生まれたものだと述べている。ゲーテもまた、種の転成の概念をシェリングに負っていると感じていた。

2020年1月17日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 6

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 6.

第6章「メンデル主義の出現」

 「メンデルの再発見」についての理解は見直しが進んでいる。Sternは、チェルマクが1900年の論文においてメンデルの法則を理解していなかったことを指摘した。Olby(1985)によれば、チェルマクは前メンデル主義的な遺伝概念のなかで、現在ではメンデル主義的現象とされるものを理解したのである。

 一方、コレンスが1890年代後半にダイズ雑種の調査で3:1の分離比に出会ったことは、広く認められている。コレンス自身は、細胞学の進歩のおかげでペアになった形質について考えることができたのだと述べており、ゴルトンやヴァイスマンの遺伝主義が、多くの世代を経ても変わらない形質に対しての注意を惹きつけたのだと思われる。しかしOlby(1985)は、ヴァイスマンがメンデル主義を拒否したことを指摘し、細胞学それ自体が助長したのは、ペアではなく多数の遺伝的単位というアイデアだったと示唆している。1900年までの一般的背景における変化が何であれ、ペアになった形質というメンデルの概念はなにかしら提供するものがあったのである。Olbyは、コレンスでさえメンデルの論文を読むまでは、実験結果の完全な重要性を正しく評価できていなかったと示唆している。実際、コレンスはド・フリースの最初の報告を読むまで、自分の論文の執筆はゆっくりとしか進めていなかった。形質のペアが複数の世代にわたってどのように振る舞うかに関するメンデルの分析は、どの再発見者によるものよりも優れており、最初の遺伝学者たちの考えを形作る上で決定的な役割を果たしたのである。コレンス自身は、メンデルの法則が普遍的に成り立つことを疑い続けていた。

 多くの研究が、ド・フリースが1900年の二つの論文で展開した解釈はメンデルの説明に大きく依存しており、ド・フリースは分離の現象を独立に発見してはいなかったことを主張している。Meijer(1985)によれば、ド・フリースはおそらく数年前にメンデルの論文を見ていたが理解できず、1900年に読み直してようやく、それが自身の実験結果を分析する新しい方法を提供していることに気付いたのである。1890年代におけるド・フリースの研究は変異の性質に関するもので、パンゲンの数の変化による変異と、新しい種類のパンゲンの出現による、種を形成する変異を区別していた。新しい形質が単位として形成されることを実証するために、ド・フリースはある種の一つの形質が交雑によって別の種に移動できることを示そうとしていた。ド・フリースは1900年にメンデルの術語を採用しはじめたが、その後すぐに放棄し、メンデルの法則は新しい形質の起源という問題に光を投げかけないので重要性は低いと論じるようになった。多くの生物学者は、不連続的な進化には不連続的な遺伝のモデルが必要だと感じていたので、ド・フリースの突然変異説はメンデル主義の運動を助けることになったが、ド・フリース自身は自分が発見した突然変異がメンデルの法則に従うとは考えていなかった。

 はじめ進化形態学者であったベイトソンは、『変異研究のための資料』(1894)でダーウィン主義の進化論を攻撃し、新しい形質は生物学的なプロセスによって生み出され、その生物にとって役に立つかどうかにかかわらず永続するのだと示唆した。変種を分け隔てる単位形質がどのように振る舞うのかを理解しようとして、ベイトソンは変種の交雑実験をおこなっていた。ベイトソンはメンデルの比率を認識してはいなかったが、諸形質を別個の単位として考える準備ができていたのである。妻による伝記によれば、ベイトソンはメンデルの論文をロンドンへの電車のなかで読み、王立園芸協会での講義に取り入れたのだというが、Olby(1987a)によれば、このときベイトソンが読んだのはド・フリースの最初の論文であり、メンデルの仕事についてはまだ知らなかった。ベイトソンのメンデル主義への転向は、その後の2年間で漸進的に進んだプロセスであった。
 1902年の『メンデルの遺伝原理』では、メンデルの論文を翻訳するとともに、その法則が普遍的に成り立つことを論じた。同じ年にallelomorphの語(のちにアレルalleleと略される)を生み出し、1905年には遺伝学geneticsの語を生み出した。そしてパネットらの追従者とともに、メンデル主義を適用できる現象を拡大する一連の実験をおこなった。しかし、ケンブリッジにおける立場は不安定で、結局はジョン・インズ園芸学研究所に移った(パネットはケンブリッジで最初の遺伝学教授となった)。Sapp(1987)は、遺伝学という新しい科学を確立しようとしたベイトソンの努力は、生物学の伝統的な領域の権威に対する挑戦であったと論じている。遺伝学を実験的科学として提示することで、他のバックグラウンドをもつ生物学者たちは遺伝の領域から締め出されることになった。生物測定学派との論争は、このような縄張り争いの産物であった。『遺伝学の問題』(1913)でもダーウィン主義への攻撃を継続したが、ド・フリースの突然変異説で提唱された種類の跳躍には疑いを抱くようになったことも示している。翌年の講演では、進化において真に新しい遺伝的形質が生み出されることはないと示唆した。新しい形質にみえるものは、それを覆い隠していた遺伝子が退行的突然変異によって破壊されたことによって生じているというのである。しかしベイトソンの追従者たちはそのような留保をつけず、パネットの『メンデル主義』(1907)は、跳躍的進化をもたらす新しい形質の源として突然変異を公然と支持した。

 一方、ピアソンとウェルダンはゴルトンの祖先遺伝の法則を擁護し続け、メンデル主義者の主張を否定していた。ピアソンは実証主義の哲学を採用していたので、遺伝に関して何らかのメカニズムを仮定するあらゆる試みに懐疑的であった。それに対してベイトソンは、より単純な帰納主義の方法論を採用していた。Coleman(1970)によれば、ベイトソンは「保守的な」哲学的立場とよばれていたものも採用していた。Mackenzie(1982)によれば、これはすべてを集団の観点から考えようとする生物測定学に対する疑念につながっていた。
 ベイトソンは、各々の形質のペアは細胞核のなかにあるペアになった粒子によって支配されているという説明を拒否していた。Coleman(1970)によれば、ベイトソンは唯物論の反対者であり、細胞全体に行き渡った波かなにかの物理的機能が遺伝情報の伝達を担っているのだという全体論的な見方を好んだのだという。また、成長する生物のなかで形質がどのように生み出されるかを遺伝の完全な理論が説明するという望みも捨てていなかった。

 フランスの生物学者たちは、ベルナールやパストゥールといった生理学者や微生物学者によって確立された概念的枠組みのなかでメンデル主義を評価し、新しい科学を確立しようとしなかった。それゆえ、フランスに重要な古典遺伝学者は現れなかったが、のちに分子生物学の出現に際して重要な役割を果たす学者たちが現れた。ドイツでは、メンデル主義の状況はフランスよりは良かったが、染色体説の受容にはつながらなかった。フランスとドイツの生物学者たちは、遺伝の完全な科学が形質の生産を説明するという希望を諦めず、細胞質が重要だと主張して染色体の強調を拒んだ。

 ヨハンゼンは、表現型と遺伝型の区別によって、生物学の独立した領域として遺伝学を確立するのに大きく寄与した。しかし、ヨハンゼンは当初、これらの術語を個体ではなく集団の観点から定義しており、その後意味が変化している。ヨハンゼンは自家受精する豆を用いていたため、メンデルの分離の現象にはあまり関心をもたなかった。固定された遺伝型としての純系というヨハンゼンの概念は、種は明確に定義された形態に基づくという古い類型学的な見方を反映しているように思われる。ヨハンゼンはベイトソンと同じく、遺伝子を染色体の物質的粒子とみなしたがらなかった。ヨハンゼンにとって、遺伝子は永遠に観察できないものであり、おそらくは生物全体のなかの安定したエネルギーの状態から成るものであった。ベイトソンとヨハンゼンはどちらも、メンデル主義を跳躍的進化に結びつけたが、遺伝的伝達を物質的粒子の観点から視覚化しようとしなかった。これは、19世紀の生物学と古典遺伝学の中間段階を代表している。

 次の段階となる染色体説との結びつきは、米国の生物学で特異に起こった出来事であった。米国では、生物測定学との論争は起こらなかった。ハーバードでは、ベイトソンに触発されたキャッスルが、ハツカネズミの白化が劣性形質として振る舞うことを示した。しかしキャッスルはすぐに、メンデル主義の単位形質は完全に別個ではなく、互いに混合することがあると論じた。同僚のイーストは、形質は必ずしも単位とみなせないが、それは単一の形質に対して複数のメンデル主義的ファクターが影響しているからだと論じた。しかしイーストも、遺伝子が一つの物質的存在に合致するという考えには抵抗した。イーストの見方では、遺伝子の概念は交配実験の結果を分析するのに使われる数学的で抽象的な概念にすぎないのである。
 モーガンはダーウィン主義を批判し、新しい形質は跳躍かド・フリース的な突然変異によって、有益かそうでないかにかかわらず確立されるものだと考えていた。また、1910年まではメンデル主義も批判し、染色体説も形質が生み出される発生のプロセスを無視している前成説だとして批判していた。

 ド・フリースなどの例外を除き、多くの初期のメンデル主義者は、予め形成されている遺伝粒子という概念に敵対的であった。また、モーガンなどの発生学者は、遺伝的伝達をそれ自体で研究する価値のある領野だとみなしていなかった。発生学と遺伝学の区分は現れはじめたばかりで、原理的に定義されていなかった。1910年頃に、染色体の振る舞いはメンデルの法則で説明される効果と並行関係にあるという認識を通して、この区分が明確化しはじめ、古典遺伝学の出現がはじまる。

2020年1月11日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 5

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 5.

第5章「メンデルの寄与」

 交雑実験は伝統的に、遺伝の法則ではなく種の起源の問題を解明するためになされていたという点を認識すると、メンデルの評価は変わってくる。もともと植物の交雑は、園芸家たちが新しい系統を確立するためにおこなっていた。しかし、後期のリンネが多くの種は交雑によって形成されたものだと推論してから、交雑の問題はより理論的な性格を帯びるようになった。リンネは1756年に、神が創造した種は植物の各属につき一つだけだと示唆している。それ以降、多くのナチュラリストが、種間の交雑ではまったく新しい形態を確立することはできないと示すことで、リンネの議論を否定しようとした。
 代表的な研究は、1760年代にケールロイターによっておこなわれた。ケールロイターは、自然は調和的にデザインされたシステムであり、新種の形成はそれを損なってしまうのでありえないと信じていた。ただし、子の形質は親の形質が融合したものだと考えていて、先在的な胚種の存在は否定していた。ケールロイターは、近縁な種の間での交雑はふつう地理的分離によって防止されているが、人為的に起こすことはできると考えた。しかし、そのような中間的雑種は不稔であり、新しい型を残すことはできないのだと示そうとした。そのためケールロイターは、この規則には例外があること、そして雑種第二代には相当大きな幅の変異があらわれることを発見して困惑した。
 続いて1820年代に、ゲルトナーが一連の交雑実験をおこなった。ケールロイターと同様、ゲルトナーはタバコ属で多くの交配をおこなったが、これは現在では、複雑な遺伝的構成をもっていてメンデルの法則を示すには不向きであることが知られている。ゲルトナーはしばしば優性や分離を観察したが、体系的な説明を与えることはできなかった。ゲルトナーは種の全体的形質が結合するものだと考えていて、遺伝を解明するために個々の形質を世代間で追跡することができるとは考えていなかった。

 近年では、Brannigan(1979)とOlby(1979)に始まったメンデルの再検討により、エンドウの交雑実験に関するメンデルの論文には20世紀におけるメンデル主義の重要概念が現れていなかったことが認められるようになった。Olbyは、メンデル主義における遺伝子の概念に相当する、一対の物質的粒子という概念をメンデルはもっていなかったことを論じた。Kalmus(1983)は、メンデルが一対の「形質」という概念で思考したのは、スコラ的・アリストテレス的な哲学を学んでいたことの反映だと示唆した。Olbyによれば、メンデルは交雑によって形質の新しい組合せが生まれるかもしれないと考え、形質はそれぞれ独立に伝達されるということを示そうとした。それゆえヤナギタンポポ属の交配実験で分離が生じなかったとき(これは現在ではアポミクシスの結果として説明される)、これを自分の見方を支持するより良い実例だとみなしたのだという。
 Callender(1988)は、メンデルが進化の一般的理論を支持していたという見立てが誤解の原因であり、メンデルは実際には進化主義の反対者であり、ケールロイターやゲルトナーからの攻撃に対して、交雑によって新種が生まれるというリンネの説を擁護しようとしていたのだと論じた。Callenderによれば、メンデルは交雑が二つのまったく異なる道筋で起こると考えていて、エンドウの実験ではvariableな雑種が、ヤナギタンポポの実験では潜在的に新種であるconstantな雑種ができたとみなしていた。メンデルはネーゲリのせいで嫌々ながらヤナギタンポポの研究をさせられたのではなく、逆に、ヤナギタンポポの交雑をより興味深い例であるとみなして自ら研究に乗り出したのだというのである。メンデルにとって、メンデルの法則は研究の副産物に過ぎず、それが普遍的な法則であるとも考えていなかった。

 19世紀の中頃は、発生の発展論的な見方が優勢であり、それが純粋な遺伝の研究を阻んでいた。しかしメンデルは、ダーウィンや他の進化論者たちとちがって、種の起源についてまったく異なる見方をもっていたがゆえに、成長の問題を無視することができたのである。

2020年1月10日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 4

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 4.

第4章「発生と遺伝における細胞」

 ヘッケルをはじめとする進化形態学者たちは、発生過程の初期段階を研究することで生命の歴史の初期段階を明らかにしようとしていた。しかし、1880年代までに反復説の魅力は低下しはじめ、発生学がそれ自体の研究領域として復活した。ヴィルヘルム・ルーは、カエルの卵割球の片方を針で壊す実験をおこない、成長が不完全になることを確認して、発生は卵に含まれる物質によって予め定められているのだと論じた。ルーはさらに、胚の細胞分裂では生殖物質がそれぞれの娘細胞に分配されていくのだという「モザイク」説を唱えた。ヴァイスマンの生殖質説も似たモデルを採用し、染色体に存在する物質によって生物の構造は予め定められているのだとした。現代的といわれるヴァイスマンのハードな遺伝の概念は、発生の理論と結びついていた。
 しかし、多くの生物学者は、胚の発生が遺伝によって予め定められた形質の開梱であるという理論に納得しなかった。ハンス・ドリーシュは、発生途中のウニ胚をバラバラにする実験で、それぞれの細胞が完全なウニに成長するのを確認した。そこでドリーシュは、生物の成長力はそれぞれの細胞に分配されているのではないし、成長が予め物質によって定められているわけでもないと論じた。彼らの理論は、ルーやヴァイスマンの新しい前成説に対立する後成説であった。この後成説は、独立した遺伝研究の出現に対して発展主義の伝統が障害となり続けていたことを示している。1900年までの時点では、交配実験ではなく実験発生学のほうが、生殖を理解するための有望な道筋であるとみなされていた。

 新しい生物をつくるのに必要な情報を伝達する物質の概念は、まずネーゲリの著作のなかに現れた。ネーゲリが「イディオプラズム」と呼んだこの物質は、「ミセル」と呼ばれる単位から成り、さまざまな形質に対応する「アンラーゲ」の集合であるとされた。
 1870年代までに、顕微鏡の改良や新しい染色技術の登場によって、細胞核への関心が高まった。70年代末から80年代初頭には、有糸分裂や減数分裂における染色体の動きが観察された。減数分裂についてのファン・ベネデンの業績を知ったヴァイスマンは、生殖質の伝達に関する自身の予想が染色体の動きと一致していることに気づき、「イド」と呼ばれる遺伝情報をもった物質的構造の単位が染色体に並んでいると論じた(イドはより小さな「デテルミナント」から成るとされた)。しかも、遺伝情報の単位は有性生殖によって結合したり組み換えられたりするが、融合することはないと考えた。さらに、変異は生殖質のなかで起こる変化によってのみ生じるものであるとして、ラマルク主義やパンゲン説を否定した。こうしてヴァイスマンの生殖質説は、ゴルトンのハードな遺伝の概念に相当するものになった。しかしヴァイスマンは、ラマルク主義やパンゲン説を否定し、記憶と遺伝の類比を破壊することが、反復説や、成長と遺伝を同じ研究分野のもとに統合することを退けることになると気付いていなかった。ヴァイスマンは、新しい伝統の先駆者というよりも、古い伝統の最後の代表者であった。それにもかかわらず、ヴァイスマンの生殖質説は、厳格な遺伝主義の見方が出現する舞台を用意したのである。

 ヴァイスマンの生殖質説の最後のバージョンに重要な影響を与えていたのが、ド・フリースの細胞内パンゲン説である。粒子が体じゅうを行き来するというダーウィンの考え方は受け入れられないが、遺伝の単位は細胞内に存在すると考えることでパンゲン説は救えると、ド・フリースは考えていた。しかし、ダーウィンにとっては重要であった、体の各部分からジェミュールが芽を出し、集まって細胞になるというアイデアは失われてしまった。ド・フリースのパンゲンは、原形質の物質的構造に記号化されている分離した単位であり、それぞれひとつの遺伝形質に対応している。パンゲンは細胞核に存在し、細胞分裂によってのみ増殖するが、細胞核から原形質に出て活動することができるとされた。デテルミナントの数をかなり多く想定したヴァイスマンは不連続的変異に特別な関心をもたなかったが、パンゲンの数を比較的少なく見積もったド・フリースは、交配実験によってパンゲンの伝達に関する洞察が得られるかもしれないと考え、「メンデルの再発見」につながった。

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 3

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 3.

第3章「進化と遺伝」

 標準的な進化論史・遺伝学史は、選択のメカニズムが機能するためには遺伝が融合的ではなく粒子的であることが必要になるという前提に基づき、遺伝学はダーウィンのジグソーパズルに残っていた最後の穴を埋めたピースだったのだとみなす。しかし、ダーウィン主義は融合遺伝のモデルでも機能する。ダーウィンの進化論の受容を阻んだ最大の障害は、遺伝学の欠如ではなく、進化論者たちが発展論的な理論のほうを好んだことであった。

 ダーウィンの理論が当初評判になったのは、皆が自然選択による進化を受け入れたからではなく、進化が起こることについての新しい一連の証拠と革新的な理論を提示して、発展主義の支持者たちを動かす触媒の役割を果たしたからであった。ダーウィンの主だった擁護者のなかにも、ハクスリーなど、選択のメカニズムにはほとんど関心を示さなかった者たちがいた。ヘッケルはさらに発展主義的なアプローチをとった。ラマルク主義の採用によって、反復説はよりもっともらしくなった。1870年代にはすでに、コープやハイアットなどの古生物学者が米国に新ラマルク主義の学派をつくっていた。1890年代には、反ダーウィン主義の運動が世界中に現れた。

 ダーウィンの理論は、胚は体の各部分でつくられた粒子に由来するという、かつての機械論の考え方である「出芽」モデルを保持していた。1850年代の細胞理論の発展にもかかわらず、ダーウィンはこの考え方を変えなかった。1860年代までに生物学者の多くは、新しい細胞はすでにある細胞の分裂によってのみ生まれるのだと認識し、そのような形で細胞が形成されるとは考えなくなっていたので、パンゲン説は強い批判を受けた。
 ウォレスや後の生物測定学派が示したように、融合遺伝は自然選択と両立可能であり、ジェンキンの自然選択説批判は完璧ではない。自然選択説の普及を阻んだのは発展論的な世界観であった。ダーウィンが同時代人たちに発展論的進化観を捨てさせることができなかったのは、部分的にはダーウィン自身が生殖の発展論的見方に頼っていたせいでもある。ダーウィンは、変異がランダムであることを十分に認識していたにもかかわらず、新しい形質の出現を個体の成長や生殖の過程における変化の結果とみなしていた。

 生殖や成長が生理学的なレベルでどのように起こるかという問題を脇に置き、発展論的世界観を破壊する道を開いたのはゴルトンである。ゴルトンはパンゲン説を信用せず、胚種は親によって作られるのではなく、変わらないまま世代間で受け継がれるのだと考えた。ゴルトンの祖先遺伝の法則は、親の形質は子のなかで融合するが胚種の物質自体は融合しないというもので、メンデル主義的な粒子遺伝の概念への中間地点にあたる。こうしてゴルトンは「氏か育ちか」論争における遺伝主義の立場を確立し、優生学運動を創始した。
 ゴルトンは、祖先遺伝によって逸脱的な形質はならされ、それぞれの種や品種はその元来の型を保つと考えた。選択では重要な変化をもたらすことはできず、進化は跳躍によってまったく新しい型が出現することによってのみ起こる。さらにゴルトンは、変異はさまざまな形質が遺伝され、有性生殖を通して組み換えられることで集団のなかで生じるのだとして、変異と遺伝を対立する力ではなく同じ現象の異なる側面として捉えた。このように、変異を集団の性質とみなす視点はダーウィンの選択説に含意されていたが、ダーウィンが変異の源を発生モデルに求め続けたことでぼやかされていたのである。ゴルトンのハードな遺伝の概念はラマルク主義や成長と進化の類比を排除し、変異は本質的にランダムだというダーウィンの主張を強化することになった。

2020年1月5日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 2

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 2.

第2章「ダーウィン以前の遺伝」


 子が親に似ることは古代からの関心事であったが、メンデル以前には遺伝を独立した研究分野とみなした人物はほとんどいなかった。ナチュラリストたちにとっては、新しい生物がどのようにして形成されるのかという問題こそが決定的に重要であり、遺伝の問題はその枠組みのなかで扱われたからである。

 この問題について、唯物論者たちはデカルトの機械論を土台として後成説を唱えたが、17世紀後半の顕微鏡研究はこれに否定的であった。しかも、後成説およびそれと関わりの深い自然発生説は、神の存在や自然の安定性を脅かす主張であった。それゆえ無神論者には支持されたが、機械論者でも保守派には危険視され、前成説(先在胚種説)が18世紀を通して優勢を保った。ボネは、個体のミニチュアである胚種が最初から入れ籠状になっているという前成説の理論を展開した。このとき、胚種は種を規定するのみであり、個体の形質は精液や子宮から吸収する栄養によって親から影響を受けるとされた。このように、前成論者でも個体の特性は遺伝すると考えるのが普通であった。一方、ニュートン主義者のモーペルテュイは、親の身体の各部分から来た粒子が集まって胚をつくるのだという理論を唱えて前成説に反対したが、その粒子が胚のなかの本来あるべき場所に向かう理由を説明するために、粒子に意思のようなものを認めざるを得なくなってしまった。似た理論を唱えたビュフォンは、これを避けるべく内的鋳型の概念を導入した。獲得形質の遺伝は、ラマルクによって導入されたわけではなく、発生に関する18世紀の典型的な議論であった。

 19世紀に入って、発生学の研究から二つの発展主義的な見解が現れた。まず、メッケルが1821年に、ヒトの胚は発生過程で動物のヒエラルキーを上昇するという並行法則を論じた。この議論は、地球史のなかで魚類、爬虫類、哺乳類というような出現の順序があるという古生物学の知見と結び付けられた。一方、フォン・ベーアは並行法則を否定して、成長は一般的構造から特殊な構造へと向かう特殊化の過程であると論じた。これらのアイデアが、ダーウィンの進化論が解釈される概念的フレームワークを形作った。多くのナチュラリストは前者の並行法則のほうを好んだ。反復説と獲得形質の遺伝は、どちらも記憶に類比される理論であり、互いに結び付けられて理解された。

2020年1月3日

Bowler, The Mendelian Revolution, Ch. 1

Peter J. Bowler, The Mendelian Revolution: The Emergence of Hereditarian Concepts in Modern Science and Society (London: Athlone Press, 1989), Ch. 1.

第1章「メンデル主義――発見か、発明か?」

 この本は、遺伝学の歴史についての一般的に普及している神話に対して挑戦する。
この挑戦は3つのレベルから成る。第一は、概念的なレベルである。メンデルの法則は、(a)世代間での形質の伝達は意義ある独立した研究領域を成す、(b)形質はそれぞれ別個の単位として扱える、という遺伝の理論的モデルのなかではじめて重要な発見となる。ダーウィンやその同時代人たちは、世代間での形質の伝達と、成長する生物のなかで形質が生まれる過程とを区別しない遺伝の発生モデルを受け入れていて、生殖と成長を統合された生物学的過程として扱っていたので、伝達に関する別個の研究領域というものは考えられなかった。この図式は、形質が変わらないまま世代間で伝達されるという考えもできなくしていた。それゆえ、メンデルの法則の受容は事実の発見ではなく、新しい概念図式の創造に依存していた。遺伝学は、遺伝それ自体についての新しいアイデアだけではなく、遺伝と他の生物学的現象との関係についての新しいアイデアの産物でもあった。

 この本の目的のひとつは、生物学における「メンデル革命」と呼べるものの絶対的な領域を強調することである。それ以前は、生殖と遺伝に関する発生的な見方によって、生物学者たちは進化が目的をもつ過程であると信じ続けることができた。ダーウィンは、進化が道徳的に有意味な目標へと不可避的に向かうという考えを取り除こうとしたができなかった。現代の生物学者たちが、進化は予め定められた目標に向かっていると考えないのは、大部分で、メンデル主義の到来と結びついた概念的革命の結果である。メンデルと同時代の生物学者たちが、30年以上後に明らかになる含意に気づけなかったのは当然のことである。今では、メンデルは新しい遺伝の理論を開拓しようとはしていなかったと考える遺伝学史家たちがいる。メンデルの本当の関心は、進化の代案としての種の交雑にあり、形質の遺伝における規則性の発見はその研究プログラムの副産物に過ぎなかった。

 第二は、職業的なレベルである。遺伝学の出現は、科学コミュニティーのなかで新しい研究領域を認めさせる社会的な活動の結果でもあった。古典遺伝学はアメリカで大きな制度的成功を収めたが、英国ではそこまで明確な領域にならず、ドイツではもっと弱く、フランスではほとんど全く存在しなかった。このような国ごとの違いからもわかるように、遺伝学は「当たり前」の研究領域ではなかった。

 第三は、イデオロギーのレベルである。新しい法則や理論は、単に発見されるのではなく、科学者たちや世間の文化的価値観を満足させるように発明される。メンデルの法則の再発見は、「遺伝主義的」な社会的ポリシーが政治の舞台に上がるのと時を同じくしていた。世紀の変わり目の頃、政治家や評論家たちが、人間の能力は遺伝によって厳格に決定されているから、環境の改善は意味がないと論じはじめていたのである。今日では、遺伝主義的な言説は「社会ダーウィニズム」の再来とみなされることが多く、これはメンデル主義ではなくダーウィン主義がそのような価値観の源であるという理解に基づいている。しかし、19世紀後半の古典的社会ダーウィニズムは、スペンサーの進化哲学の派生であり、スペンサーは必ずしも遺伝主義者ではなかった。スペンサーは、19世紀の他のほとんど誰もと同じように、それぞれの人種の知的・道徳的能力は定まっていると考えていたが、近代ヨーロッパ社会のなかでは、個人の達成が遺伝的性質に制限されるとは考えていなかった。スペンサーが無制限の競争を支持したのは、各々がつらい結果を逃れるために努力しようと駆り立てられることが目的であった。20世紀初頭の遺伝主義的なアイデアは、個人の達成レベルは遺伝によって決定された生物学的形質によって定まっているので努力を駆り立てることはできないという考え方であり、イデオロギーが転換したことを示している。

2019年10月27日

シェリングの自然哲学 Richards, The Romantic Conception Of Life, 第3章第2節

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 128–146.


第3章「シェリング――自然の詩」

第2節 自然哲学


● 自然哲学の基本的なもくろみ(128129ページ)

 シェリングは、1797年から19世紀はじめの数年間までのあいだ、自分の「自然哲学」を経験的な自然科学の代替物と考えたことはなかった。彼が自然哲学について書いた文章は、当時における最新の実験的研究への参照でいっぱいである。彼は自然哲学を、経験的発見からつくられた法則を体系化し、その体系をより高いレベルのア・プリオリな諸原理に基づかせるための枠組みとみなしていた。この点でシェリングの自然哲学には、物理学の基本法則の由来を先験的なカテゴリーに求めたカントに近い性質がある。しかし、シェリングは物理学の基本法則だけでなく、後期のカントが真正な科学から除外した化学・生物学・医学の法則をも、ア・プリオリな諸原理から引き出そうとした点で、カントの先に進もうとしたのである。

 19世紀中頃になると、経験科学者たちは自然哲学の一部の系統に対して敵対的になっていった。たとえばシュライデン(1804-1881)は、シェリングやヘーゲルがドグマ的で思索的なやり方で自然の事実や法則を演繹だけによって確立しようとした(と彼は考えた)ことを批判した。シュライデンにとって、自然科学の基礎は帰納的で実験的な事実の確定によって形作られるものだったのだ。フンボルト(1769-1859)は、はじめシェリングの自然哲学に熱中していたが、後にはシェリングの門下生にあたるネース・フォン・エーゼンベック(1776-1858)やカール・グスタフ・カルス(1789-1869)に対して用心深くなっていった。しかし、シェリング本人とは良好な友人関係を保ち続けていた。


● 『自然哲学の諸考察』(129137ページ)

 自然哲学に関するシェリングの最初の主要な業績『自然哲学の諸考察』(1797)は、第一部で、燃焼、光、気体、電気、磁気などの諸現象に関する最新の研究を検討している。シェリングはこうした帰納的な分析が、様々な自然現象は引力と斥力という二つの根源的な力の変形とみなせるという自らの物理学的仮説を支持するはずだと信じていた。第二部では、シェリングには二つのねらいがあった。一つ目は、外部からのみ力を受ける、小さくて不可分で受動的な原子というニュートン主義的な物質を仮定する理論では、自然科学の特別な現象を説明できないということを示すこと。二つ目は、ニュートン主義的なものよりも有望な、究極的には超越論的観念論によって正当化される見方をつくり出すということであった。

 シェリングは、引力と斥力の動的な平衡としての物質という概念を、カントに倣って先験的に演繹しようとした。彼の議論によると、我々が物体を経験することができるのは、我々に働く力の作用によってであって、力をもたない物体などというものは経験することができない。力をもたない物体は「物自体」であって、そのような受動的物質を想定する合理的な理由はない。受動的物質ではなく、むしろ、経験を説明するのに必要な力だけを想定するほうがいい。物質を引力と斥力の平衡から成るものとすれば、電気や磁気、化学的親和性などといった現象は、力だけから引き出すことができる。ニュートン主義的な機械論の物理学・化学は、同質な原子の外的関係によって異なる種類の物質を構成しなければならないという難題を抱えている。その一方で、力に基づく動的な化学は、引力と斥力の特定の不均衡の産物として、様々な物質を説明できる。

 シェリングは一方で、物質世界の経験可能性は物自体などという謎めいたものに依存しないというフィヒテ的な立場もとった。シェリングの考えでは、自然界も経験的な自我も同じように、心の二つの力の相互作用によって生じる。一つは外へ向かって拡大していく創造的で無限な力(無限的自我)であり、もう一つは制限し造形する力(絶対的自我)である。後者は前者に制限を課し、経験的自我はこの制限を感じ取る。この制限が、「非我」と解釈されるものである。つまり、感覚的直観それ自体が、直観される物質をつくるのである。このような議論によって、物理世界の経験は無限なる心のなかに封印された。自然のシステムは我々の心のシステムでもあるということになったのである。

 自然哲学の課題は、自然の様々な現象や関係がいかにしてその源である自我から生じるかを示すことであった。しかし、絶対的自我は自然だけでなく有限的な自己をも生むものである。それどころか、自然と経験的自己は、いわば相互に依存して発展するのである。というのは、外界を意識することで自己の意識が生じるからであり、現実世界の存在への信念は自己の存在への信念とともに発展するものだからである。このことから、二つの相互補完的な側面をもつ確信が支持される。第一に、自然は自分と同一である以上、自然の研究者は自然を理解し尽くすことができるはずだということ。第二に、自然は自己へといたる道を提供するだろうということ。深い森や異国の地に入っていくことが、自己の発見につながるだろうということである。

 『自然哲学の諸考察』の序文でシェリングは、西洋哲学の歴史を人間の精神的発展の歴史として解釈した。その歴史のなかで生じた心と物質の分岐、すなわち絶対的自我の断絶を修復するのが、自分の哲学の役目だと彼は考えた。

 シェリングは、カント主義者たちが物自体のせいにして済ませたような因果関係も、絶対的自我の自由な決定であることを示したかった。しかし、自然のさまざまな事実、たとえば花が受粉に昆虫を必要とすることや、哺乳類が血を浄化するのに腎臓を必要とすることなども、自我によって決まるのだろうか。シェリングの哲学に立ちはだかったのは、自然の究極的な事実性だったのである。


● 心と自然の有機体(137139ページ)

 シェリングは次に『世界霊について』(1798)で、有機体の概念に基づく自然哲学を展開した。カントは、有機体はその各部分が実現する目的(たとえば、心臓は腎臓に血を送り、腎臓は血液を浄化する)という観点から理解できるとしていた。また、各部分の機能は、全体のデザインという観点から理解されなければならないとしていた。シェリングはこれを受けて、このような目的論的構造が生物を特徴づけていることを論じ、フンボルト、ブルーメンバッハ、キールマイアー、ライルがいずれも生物に関して目的論的構造の概念に頼っていることを指摘した。さらに、ラヴォアジエらをはじめとした物理学や化学の最近の研究は、非生物の世界を理解するのにも有機体の概念が必要であることを示唆していると論じた。カントは、有機体的構造は知性によるものだとした上で、発見的手法として神の働きを想定していたが、シェリングは、そのような有機体的構造が自然に遍在していることは、心の有機体的なあり方によってのみ説明できると考えた。 


● 実験科学のア・プリオリな性質(140–145ページ)

 シェリングは1799年に発表した『自然哲学の体系の最初の構想』と『自然哲学の体系構想への序論』において、超越論哲学を最上位に置いたフィヒテの考え方をはっきりと捨て去り、「同一哲学」へと向かった。いまやシェリングは、自然哲学が独立した学問として確立できることを示したいと考えるようになった。そのために彼は、自然哲学は経験科学に取って代わるものではないこと、自然科学の核心は実験であること、世界に関するあらゆる知識は初めに経験から得るしかないことを確認した。

 それでもなお、シェリングは、経験的に獲得された知識を演繹的な体系に投げ入れることができると信じていた。これは、我々の知識が有機的で体系的な総体(フンボルトが後に採用する言葉でいえば「コスモス」)を見せる世界を反映するという想定のもとで可能となる。彼は、自然哲学によって自然科学が、神学や超越論哲学から独立した客観的かつ自律的な学問になることを示そうとした。

 自然哲学が自律的に確立されるということは、世界で起きるあらゆることは自然の力によって説明されなければならないということである。そこでシェリングは、自我を支配する原理であったものを、自然の根本的構造に作り変えた。以前に彼は、絶対的自我と無限的自我を区別したが、これを自然に移し替えて、生産力としての自然と生産物としての自然という、非我の二つの面を区別したのである。前者は自然の主体的な面であり、後者は客体的な面である。こうしてシェリングは、自然の根本的な力を、自我の相反する動きからではなく、自然それ自体の弁証法的な過程から生じるものとして扱うようになったのである。

 しかし、自然哲学に対するこのような新しいアプローチのなかですら、シェリングは超越論的議論に頼ることなしには自然の原理を確立できなかった。自然の原理は、我々の意識的経験の状態であるということが仮定されたのである。彼は、自然哲学が独立性を失わないように、自我に関する体系的な議論を避けながらも、その一方で、超越論的哲学が提供する究極的土台に言及しないわけにはいかなかった。彼はまだ、自然の概念を形成する過程のなかでもがいていたのである。

 シェリングは、自然の無限の生産力を、unendliche Evolutionと表現した。Evolutionという単語は、発生学から借用されたもので、前成説を意味していた。彼は、生物の本質的なイデアあるいは原型はすでに存在していて、その経験的現実化が時間的発展を要求すると考えたのである。シェリングは現実の進化を提案していたし、種の変化にこの単語を適用した最初の論者であったように思われる。11章で見るように、シェリングとゲーテは進化について共通の考えをもっていた。


● 自然哲学の個人的要因(145–146ページ)

 シェリングの自然哲学の源は、カントやスピノザやフィヒテに求めることもできるし、実験的な自然科学研究に求めることもできる。彼が、自然の生産力が反対の制限する力を克服して実現に至ることに関連して動物の性について書いた箇所は、シュレーゲル兄弟らのサークルに参加したことの影響を受けている可能性がある。彼は当初、性を矛盾と混乱に満ちたものと捉えていたが、後により肯定的に見るようになった。このことはカロリーネの存在と関係していたのではないか。


2019年9月15日

シュライアマハーの宗教論 Richards, The Romantic Conception Of Life, 第2章第7節

Robert J. Richards, The Romantic Conception Of Life: Science And Philosophy In The Age Of Goethe (Chicago: University of Chicago Press, 2002), pp. 94–105.


第2章「初期のロマン主義運動」
第7節 フリードリヒ・シュライアマハー:宗教の詩学と性愛学

 フリードリヒ・シュレーゲルが深く関わり大きな影響を受けたもう一人の人物が、シュライアマハーであった。シュライアマハーは1768年にブレスラウ(ポーランド)で改革派牧師の息子として生まれ、ヘルンフート兄弟団の学校で教育を受けたが、ゲーテやカントを好んで読んだ結果として宗教的に異端の思想を抱くようになっていった。ハレ大学で神学を学んだ後、家庭教師などの仕事を経て、1796年からベルリンにあるシャリテ慈善病院の牧師として働き始めた。ここでシュライアマハーは、ユダヤ人医師のマルクス・ヘルツの妻であったヘンリエッテ・ヘルツと深い関係を結ぶようになった。

 同時期に、シュライアマハーはシュレーゲルとも出会った。二人は意気投合し、2年間にわたって共同生活を送った。シュレーゲルに文章を書くように促されたシュライアマハーは、1799年に代表作のひとつである『宗教論』を匿名で発表した。この本はすぐに多くの人に読まれて、シェリングは冷笑的であったが、シュレーゲルをはじめ多くの人々が評価して、ロマン主義の潮流の一部となっていった。

 この本でシュライアマハーは、芸術と愛によって陶冶される直観と感情こそが宗教の本質であり、無限なる存在に対する絶対依存の感情を解き放つものだと論じた。これは、カントに反対して、宗教への衝動を道徳やカントのいう幸福から区別するものでもあった。シュライアマハーの考えでは、性愛は宗教を基礎づける直観を受容するための準備をする。有限な存在である人間が、カントの引いた境界線を超えて無限なる「宇宙」に至る手段が、愛と詩であった。

 シュライアマハーの議論では、宗教の教義はその直観を呼び起こすのに役立つかもしれないが、それ以上の役割は持たないことになった。『キリスト教信仰』(1821–22)では、神学の諸説はある種の感情(無限者に対する絶対依存)を比喩的に表現したものに過ぎないと論じた。このようにして科学と宗教を調和させるシュライアマハーの解決策は、19世紀の多くの科学者に受け入れられた。