Jim Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2007), 29–39.
第2章「ヒメミナリノトケイソウ――ダーウィンの温室のなかで」29–39頁
熱帯雨林は植物にとって楽園だが、光が不足しがちである。ここで植物が光を確保する有力な戦略は、巨大な樹木になるか、あるいはそのような樹木に巻き付くつる植物になるかである。トケイソウ(パッションフラワー)は後者の典型例であり、光を感知してその方向に急速に成長する。また、トケイソウの花は目立つ姿をしていて、昆虫やコウモリ、鳥類などを引き寄せて花粉を媒介させる。受粉した子房は膨らんでパッションフルーツとなり、鮮やかな色と甘い味で鳥類やオマキザルなどの霊長類を魅了し、種子を広くまき散らす。
霊長類を魅了するトケイソウの戦略は、1553年にシエサ・デ・レオン(Pedro Cieza de León, スペイン人のコンキスタドール)という名で知られるホモ・サピエンスが異国の花や果実についての記述を出版したときにも効力を発揮した。彼の記述は、他のホモ・サピエンスたちがトケイソウを世界中に広めるのを大いに助けたのである。
果実はもちろんだが、それ以上に花が人々を惹きつけた。1609年、マルタ騎士団のジャコモ・ボッシオ(Giacomo Bosio)はキリストの十字架に関する物語を集めていたときに、メキシコ生まれの修道士からトケイソウの花の絵を見せられて、それをキリストの受難(パッション)の象徴と解釈した。72本ある糸状の花冠はいばらの冠に、5本の雄蕊はキリストを叩いた鞭に、3つの心皮はキリストを磔にした釘に見立てられた。トケイソウの評判は、こうした宗教的含意を強調して単純化された絵によって広まった。
まもなく、ヨーロッパじゅうで栽培されるようになった。パリでは、1612年にトケイソウが咲いていた。イギリスには、植民地のバージニア州からトケイソウがもたらされた。清教徒革命の後、カトリック教徒たちは処刑されたチャールズ1世のことを「パッションフラワー」と呼ぶようになった。そのためか、チャールズ2世が即位してから、その庭師のジョン・トラデスカント(子)はトケイソウを普及させた。リンネはパッションフラワーをラテン語にしてPassifloraと名付けた。だが、トケイソウがイギリスで本格的に広く栽培されるのは、19世紀になってからであった。
蒸気・煙・ガラス(32–39頁)
1845年のガラス税撤廃は、イギリスでのトケイソウの普及につながった重要な契機であった。このときまで窓ガラスは手吹きでつくられていたが、それには高度な技術と時間が必要で、小さくて高価なガラスしかできなかった。ガラス税の撤廃はこの状況を大きく変え、大量生産への道を開いた。ジェイムズ・ハートレー(James Hartley)が1847年に特許を得た技術によって、大きく、強く、安いガラスが機械で製造されるようになった。
これ以前から、温室は次第に大きくなってきていた。大量生産された錬鉄の桟を用いて、チャッツワースの温室(Great Conservatory at Chatsworth)や、それを上回る大きさのキュー・ガーデンのヤシ栽培用温室(Palm House)が建造されていた。とはいえ、そういったものを建てられるのは政府かとてつもなく裕福な人ぐらいであった。しかし、ガラスが安価で手に入るようになったことで、温室も大量生産されるようになった。
工業化は、温室の大量生産を可能にするだけでなく、必要にもしていた。当時のイギリスの都市では、蒸気で動くたくさんの工場から排出される大量の煙が屋外での園芸をほとんど不可能にしていたのである。そんななか、1851年の万国博覧会でパクストンが設計した水晶宮は、ハイド・パークの古い樹木を中に呑み込んで建造された。これによって、ガラスの温室が植物を煙から守れるということがわかりやすく示された。パクストンはこの名声を利用して、もっと小さな組み立て式の温室の製造販売にも乗り出した。そして、トケイソウのような熱帯植物にとって、内部を温かく保つことができる温室の普及は重要であった。
温室を買えない人々にも、ミニチュア温室とでもいうべきウォードの箱(Wardian Case)があった。これが現れるまでは、生きた植物を船で輸送することは困難を伴った。ウォードの箱によって、イギリスに何千種類もの新しい植物が現れた。また、ウォードの箱は客間の飾り物として、持ち主の趣味や科学的関心を証明する役割を果たした。
ヴィクトリア期には、Gardeners’ Chronicleをはじめとするガーデニング雑誌も繁栄し、人々のガーデニングへの関心を高めていた。ウィリアム・ジャクソン・フッカーが引き継いだCurtis's Botanical Magazineでは、ブエノスアイレスに移住したスコットランド人園芸家のジョン・トゥイーディー(John Tweedie)を通して現地の植物が紹介され、フッカーはトケイソウの一種に命名をした。ガーデニング雑誌を通して販売されていたトケイソウの新種は当初高価であったが、ガーデニングブームによって需要が増え、急速に安くなっていた。
ダーウィンが乗船したビーグル号には、Bartholomew Sulivanという軍人も乗っていた。彼は、トケイソウの一種Passiflora onychimaを最初に採集し、リオデジャネイロからイギリスに送った人物であった。
ウミガメの頃
2023年10月8日
トケイソウがイギリスに普及するまで Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology, Ch. 2 前半
古代から初期近代までの生殖理論 Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology, Ch. 1 前半
第1章「クアッガとモートン卿の雌馬」前半(1–17ページ)
1820年、第16代モートン伯爵のジョージ・ダグラスは、友人のゴア・オウズリー卿に一頭の栗毛の雌馬を売った。オウズリーはその雌馬を黒いアラブ種の馬と交配させたのだが、驚いたことに、そうしてできた2頭の仔馬はどちらも色やたてがみがクアッガにとてもよく似ていた。クアッガはシマウマの一種で、1883年の8月12日に絶滅したことがわかっている動物である。なぜ馬の子供がクアッガのようなのか?
モートンは数年前、雄のクアッガを所持し飼いならそうとしていた。だが、他のシマウマと同じように、クアッガは気難しく頑固で、事実上飼いならせない動物である。南アフリカの人々も歴史上ついにシマウマを家畜化できず、シマウマの騎兵隊は組まれなかった。しかし、18世紀末から19世紀初頭にかけて、アフリカ大陸を植民地化しようとしていたヨーロッパ人たちは馬が睡眠病に感染することに苦労していた。モートンは、睡眠病に免疫があるシマウマを馬と交配させることで、アフリカに適した雑種を生み出そうとしていた。
モートンは雄のクアッガを栗毛の雌馬と交配させ、中間的な性質をもつ雑種の仔が生まれたが、性格が思わしくなかったのか、その後は交配を繰り返さなかった。そして、モートンがオウズリーに売ったのは、クアッガと交配した栗毛の雌馬であった。モートンらにはまるで、クアッガがこの雌馬に「クアッガ性」を刻印して永久的に変えてしまい、それがのちの仔に影響したかのように思われた。
モートンは友人で王立協会会長のウイリアム・ウォラストンにこれを知らせ、『フィロソフィカル・トランザクションズ』に報告を書くことになった。雄が交配した雌ののちの子供に影響を与えるという考えはそれまで迷信の類とみなされていたが、ここに科学的事実となったのである。
50年後のダーウィンでさえ、これを間違いのない事実とみなし、遺伝の理論をつくるにあたって解決しなければならない難問のひとつとして捉えていた。モートン卿の説明は現代では馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、当時までの生殖に関する考えを知れば、それが道理にかなっていたことを理解できる。
レスボス島の港(4–10頁)
キリストが生まれるより350年近く前に生物の体系的研究を始めたアリストテレスは、毎朝レスボス島の港に来て、漁獲物のなかから見慣れない魚を探していたであろう。
世界を理解するために自然を観察するというアリストテレスの方法は、今では当たり前に思えるが、アリストテレスの師匠であったプラトンからすれば異端であった。プラトンの教えでは、誰も真の三角形を見たことがないように、イデアはいくら現実の事物を見ても捉えられないものである。数限りない種類の異なる魚のカタログをつくっても、真の魚性は解明できないはずであった。だが、アリストテレスにとって、違いを分析することは、どんな原因がその違いを生じさせているかを理解するための鍵であった。
アリストテレスは世界のあらゆる事柄で四原因の探究を進めたが、とりわけ生物の生殖に関心を向けた。アリストテレスにとって生殖は、プラトンが間違っていること、質料なしに形相はないことの証拠であり、種の形相を保っているのも生殖であった。
もちろん、アリストテレスの説は古代ギリシアで唯一の考えではなかった。タレスから始まったギリシアの哲学では、やがて四元素で自然現象が説明されるようになったが、生物の説明は難しく、生殖はその最たるものであった。
ヒポクラテスは、四元素に対応する四体液によって生物に特有の性質を説明した。しかし、体液説は生物がどのように機能するかを説明することはできても、生物がどこから来たのかを説明することはできなかった。ヒポクラテス主義の伝統では、『生殖について』(The Seed)および『子供の自然性について』(The Nature of the Child)と呼ばれる二つの論文 がこの問題を扱い、男性と女性の両方が子に何らかの種子あるいは液体を提供するとした。男性の種子は精液に含まれており、四体液の最も強力な成分を組み合わせたものである。精液は体のすべての器官から抽出されるので、種子は各器官の本質を運んでいる。男性の精液は脊髄に集められて睾丸に運ばれる。女性にもこれに相当するものがあるというが、曖昧にされている。男性と女性の種子が結合したとき、父母の影響力の差によって、子供の性別や、子供が父母のどちらに似るのかが決定される 。
ギリシアの医者たちは妊娠中に月経が止まっていることを認識しており、胚を成長させるのに血液が使われていると想定したが、子供がどのようにして形になっていくのかを明確にできなかった。
ヒポクラテス派の教えは1000年間以上にわたって影響力を保ったが、アリストテレスは、それが動物の諸部分の組織化を説明できていないことに不満を覚えていた。アリストテレス自身の理論では、雄と雌の寄与を異なる種類のものと考える。それによると、雄の精液は血液に由来しており、血液は心臓や眼、脳などといった各器官のプネウマ(精気、気息)を運んでいる。そこで、各器官のプネウマは精液に抽出されて、子供に渡される。雌の寄与は経血だけであるが、これは精液に類似したもので、各器官の形相のようなものを運んでいる。これによって、アリストテレスは母親の性質が子供に受け継がれることを説明していた。それにもかかわらず、アリストテレスは雌の寄与を雄の寄与より重要でないものとみなしており、母親は主に栄養だけに寄与する一方で、父親は性格や行動といった高次の能力に寄与するとした。
アリストテレスによれば、子の性別を決定するのは精液の熱の量である。女性は男性より生来的に冷えているので、年老いた両親(若いときより熱が冷めている)や、涼しい南風が吹いているときに性交をした両親からは、女の子が生まれやすいという。また、父母からの子供への寄与はさまざまな能力に分かれており、両親は性交の最中、知らず知らずのうちに、どちらが子供のそれぞれの能力に主要な寄与をするかという競争をしている。しかし、この戦いが能力を害してしまう場合もあり、その場合は奇形となったり、片親の祖先の形質が現れたりする。
発生(世代)から発生(世代)へ(10–17頁)
レスボス島を去ったアリストテレスは、マケドニアの王子アレクサンドロスの家庭教師となった。代々、王子は父親の王位と富、血筋とさまざまな能力や特質を相続(inherit)することになっていた(生物学的な意味での遺伝(inheritance)という概念は、財産の継承に関わる法律や慣習や伝統から借用されている)。ここで、もし王の徳が肩書きと同じように容易く受け継がれるなら、なぜ王子の教育に偉大な哲学者を雇わなければならないのかという疑問が生じる。学んで支配者になることができるなら、王家の血に特別なものは何もないのではないだろうか。
王位を奪うことに成功した者たちは、当然ながら、血統ではなく強さこそが王に必須の性質だと主張する傾向があった。王家に生まれた者たちはぜいたくに育ち、戦う必要もないため、弱虫になるというのだ。王子を教育するという決定は、尊さを授けるのは血筋ではなく環境や経験だという考えに暗黙の支持を与えるものと解釈されかねなかった。
プラトンの『国家』は適切な繁殖を重視しており、劣った人々は子供を産むべきではなく、優れた人々が多くの子供を産むべきだと論じている。しかし、その一方でプラトンは、支配者の魂をもっており金の種族に入るべき人が低い階級(銅の種族)に生まれることもあると認識していた。
では結局、血統と教育のどちらの方がより大きな影響を与えるのだろうか。この問題は、世代交代にかかる時間の長さゆえに解決するのが難しかった。人々はアリストテレスが採った方法に倣い、動植物に注目して環境と遺伝の関係を解明しようとした。
ソクラテスの弟子の一人であったクセノポンは、猟犬による狩猟について書いた論文のなかで、良い犬だけを交配すべきだと述べている。だが、クセノポンは両親や祖先の成績よりも、妊娠時における両親の健康状態に関心を向けており、このことは人間の場合を論じたプラトンの場合と共通している。
アリストテレスも、ウマを中心に動物の交配について論じている。のちの古典的な著者たちもウマやその他の動物の交配を議論しているが、交配と環境の相対的な寄与についての合意はなかった。交配する動物の選抜を強調する者もいれば、雌牛を飢えさせ雄牛を肥えさせることを勧めるなど、交配の際の条件を気にかける者もいた。一方、生殖に関するアリストテレスやヒポクラテスの理論は実践的な指針を提供しなかったので、どちらもあまり関心を払われなかった。
ヨーロッパ人たちが古典を再発見すると、アリストテレスの理論やヒポクラテスの理論は新たな注目を集めるようになった。初めのうちは、古代人の知恵を疑うことはなされなかったが、16~17世紀に状況が変わっていく。自然哲学者たちは古代人の知恵よりも自分たちの観察と実験に頼り、より経験的な方法で自然に迫るようになった。ボイルと彼の空気ポンプは新しい実験的自然哲学の時代の到来を告げ、新しいアプローチを宣伝する王立協会が設立された。
17世紀より前には、実践的育種家たちは哲学者たちの理論に関心を払っていなかったし、哲学者たちも育種家たちの観察を無視していた。しかし、実験によって確かめられた実践知を強調する新しい自然哲学はこの壁を徐々に壊しはじめた。ウマの生産者などが、「発生(generation)」(遺伝と胚発生の両方を指す言葉 )に関する哲学者の文章を読むようになった。しかし、遺伝がどのように働くかについてはほとんど何も知られていなかったので、自然哲学者たちは胚発生に焦点を当てていた。
ハーヴィは新しいスタイルによる研究を行った典型的な人物であり、もし長生きしていたら間違いなく王立協会に入っていただろう。ハーヴィは血液循環の研究でよく知られているが、新しい実験哲学を発生の理解に適用した『動物発生論』(1651)という著作も書いている 。ハーヴィは、従来の説に反して妊娠した動物の子宮内で経血と精液が混ざっていないことを示した。また、鳥類や爬虫類の卵は実際に産まれるよりずっと前から存在していることも解剖で示し、それを卵子(ovum)と名付けた。そして、精液がこの卵子を刺激して発達させるのだと推測したが、子宮内に精液の痕跡を見つけられなかったので、精液の霊的な発散物が胚発生を引き起こすのだと考えた。
しかし、ハーヴィの著作を読んだ人の多くは、新しく生まれた生き物の形がどこから来るのかと疑問に思った。ハーヴィは、神が直接すべての胚発生に介入していると想定せざるをえなかったが、これは当時普及しつつあった機械論的宇宙観とはうまく調和しなかった。ニュートンが論じたように、もし神が諸惑星を後から介入せずとも回り続けることができるようにデザインできたなら、助けを受けずに成長する胚も考案できただろうと考えられる 。そこでハーヴィの批判者たちは、器官や構造は卵子のなかに元々存在していて、精液はそれを発達させるにすぎないのだと唱えた。
元々は形をもたない卵子が次第に一定の形になっていくというハーヴィの理論は、後成説(epigenesis)として知られるようになった。ハーヴィの考えは、発表されたときにはすでに古めかしいものであった。ハーヴィはアリストテレスを批判していたにもかかわらず、その考えはよく似ていたので、同時代の機械論者からは古風なアリストテレス主義者とみなされた。
後成説の批判者たちは、胚は卵子に前もって形成されているという前成説(preformationism)を唱えた。この説では、形をもたない胚に有機的構造を与える力が不要となり、霊魂がいつどのように人間の胚に入るのかという問題も解決される。創造が行われたのはたった一回だけ、神がイヴを創造したときであり、すべての人類はイヴのもつ卵子のなかにマトリョーシカのように包み込まれていた。この説は不合理に思われるかもしれないが、当時はアダムとイヴから数百世代しか経っていないと考えられていたのであり、また顕微鏡によって小さな世界が明らかになったばかりであったことも重要な影響を及ぼしていた。
ハーヴィの死(1657)から10年以内に、新しい顕微鏡によって哺乳類の卵巣中の卵胞が特定できるようになった。これによって雌が胚を生み出すということが広く認められ、雄の役割はトリガーでしかなくなった。しかし、顕微鏡の第一人者であったレーウェンフックがさまざまな動物の精液中を泳ぐ微小な生き物を見つけたので、精液が単なる液体ではないことが明らかになった。前成主義者たちは、レーウェンフックのような精子論者と卵子論者に分裂した。発生学者たちはこれらの理論の検証のため、胚や卵子や構造を研究しはじめた。一方で、遺伝はますます無視されるようになった。
前成説が間違っているという証拠は、自分の顔を鏡で見るだけで得られたはずである。誰もが母親の耳や父親の鼻など、両方の親の影響を映し出しているからだ 。しかし、この議論によって前成説を否定する試みは少なかった。また、前成主義者たちは、母親の想像が胚を形づくるとか、母親の栄養が精子を改変するといった説で反論した。のちにクアッガの謎の解決案として出てくる説明にも、こうした説の反響が残っている。
種のすべての個体が世界のはじまりのときに創造され、最初の母親あるいは父親のなかに包み込まれていたという前成説の考えは、それぞれの種は神の心のなかにある不変の本質を体現しているという信念を伴っていた。それゆえ、前成主義者たちは生物の変異性を発生の理解に至る道とは考えず、むしろ変異を、神によって創造された原型からの恐ろしい逸脱として見る傾向があった。
生物が主役の生物学史 Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology, Preface and acknowledgements
序文と謝辞(IX–XIIページ)
過去200年における生物学の発展は目覚ましいが、これはショウジョウバエやモルモット、トウモロコシなどといった生物が、遺伝という生命の最大の謎の一つを解明する手助けをしてくれたおかげである。
こうした生物たちを検討することで、我々がどのようにしてここまで来たかについての異なった理解や、我々がどこへ行くのかについての新しい考え方がもたらされるだろう。偉大な科学者ではなく生物たちの物語を描くことで、科学を可能にしてきたさまざまな種類の仕事を理解することができる。実験に使う生物を準備するには数ヶ月あるいは数年もの時間がかかることがある。科学は、輝かしい洞察を得ることであるのと同じぐらい、資金集めや細かい計画立案でもある。単独で働いていた科学者はきわめて少なく、ほとんどがさまざまな仕方で、同僚や競争相手、先生や生徒、技師や助手、そして何より先行者に頼っていた。
生物学史は我々に、科学がどのようにして作動するのか、そして生物の多様性や複雑性、本性についてどのような答えを出すのかを理解させてくれる。この本で注目する生物を選ぶにあたって、著者はこの物語に貢献したすべての生物を挙げようとしたわけではなく、むしろ、ショウジョウバエのような有名なものからマツヨイグサのように今ではその役割がほとんど忘れ去られてしまったものまでを取り混ぜるようにした。また、いくつかの重要な生物を割愛せざるをえなかったが、それでも生物学研究の多様性と、生物学が過去200年のあいだにどれだけ変化したかがわかるだろう。
ロバート・コーラーの『ハエの王たち――ショウジョウバエ遺伝学と実験的生活』(Lords of the Fly: Drosophila Genetics and the Experimental Life)は、遺伝学者たちではなくショウジョウバエを主役とした。コーラーは「ハエに従う」ことで、これまで歴史家たちに見過ごされてきた問題を検討することができた。
フランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールやミッシェル・カロンのアイデアに刺激を受け、コーラーだけでなく、近年の科学史家たちは生物に注意を向けている。この本ではそうしたアプローチを活用して、生物学の歴史、特に遺伝と遺伝学の歴史を描いた。
2023年6月20日
現代の創造論者たちを切り離す Rudwick, Earth’s Deep History, Appendix
※ 現代の世界に進化論や地質学を攻撃する創造論的な立場の人々がいることは、宗教と科学の対立という伝統的な科学史理解の構図を乗り越えようとするラドウィックにとってのアキレス腱である。ラドウィックは、現代の創造論を伝統的な聖書解釈や19世紀までの宗教的な地質学者たちから切り離すことで、自説への反論を予め封じようとしていると考えられる。
補遺「理解力の足りない創造論者たち」(309~315ページ)
① 歴史をたどるこの本では、現在の科学的知識について要約を提供するようなことはしてこなかった。しかし、現在の状況には歴史的な見解を必要とするひとつの奇妙な特徴があるので、ここに付録として記述しておくことにする。すなわち、ここ数十年間のアメリカにおける「創造論」として知られる運動のことである。創造論は、今では科学者と呼ばれている人々が過去3~4世紀のあいだに練り上げてきた地球と生命の歴史に関する解釈を、ほとんどすべての面で拒否している。進化と、進化論の含意とみなされている事柄を拒否しているだけでなく、地球についての科学が18世紀に脱した「若い地球」のアイデアを再発明している。
② この本で見てきたように、17世紀の年代学者たちは世界史の年表を構築するための情報源のひとつとして聖書を用いてきたし、創世記にある二つの創造物語はアダムやその子孫に対して神が直接的に明かした事柄の記録なのだと考えていた。しかし、聖書の他の部分は、神から霊感を受けてはいるものの、人間によって書かれた多種多様なテキストの集積なのだと認識されていた。教父時代から、聖書を解釈する際にはいろいろなレベルがあることが認められており、文字通りに理解する解釈はあくまでもそのひとつにすぎなかった。また、「適応の原理」は、聖書に記された言葉が、そのテキストのもともとの聴衆の能力に適応したものであることを認めていた。より後の時代になると、聖書の主な目的は受肉や贖罪といった概念の土台となる歴史的出来事を記すことであって、科学を教えることではなかったということが認められた。
③ 聖書解釈学の長い伝統に照らせば、19世紀末から20世紀初頭にアメリカのプロテスタントで起こった聖書直解主義の再興は、キリスト教世界にとって驚きの出来事であった。特に、そこで提起された聖書の絶対的「無誤性」は、びっくりするような新機軸である。しかし、この新しい直解主義は、あらゆる超越性を断念しキリスト教を単なる「社会福音」に過ぎないものに還元してしまった超自由主義の運動に対する反動として理解できる。「原理主義」の語源となった小冊子『ザ・ファンダメンタルズ』(1910–15)は、超自由主義神学に対抗してキリスト教の基本的教義を述べ直したものであり、科学的な考えを標的としていたわけではなかった。だが、第一次世界大戦後に政治家のウィリアム・ジェニングス・ブライアンが率いた運動は、戦争の残虐性や戦後の社会問題を進化論の無神論的含意のせいにした。
④ 以上がテネシー州で1925年に行われたスコープス裁判の背景となった。ブライアンの姿勢は、その後の数十年にわたってアメリカのプロテスタントの原理主義運動を鼓吹した。この潮流の背後には、南の北に対する敵意、すでに根をおろしたプロテスタントの外来のカトリックに対する敵意、保守的な田舎社会の都市文化に対する敵意、教育水準が高くない人々のエリートに対する敵意といった、アメリカに特有の要因があった。さらに、公教育で何が教えられるのかという問題にとって決定的な、アメリカの政教分離原則も要因となった。
⑤ 進化の概念、特にダーウィニズムは、人間の起源と本性に関する主張に適用されたことで原理主義の主要な標的となった。アドベンチストのジョージ・マクレディ・プライスは、地球と生命の歴史は数千年前に起こった創造の六日間とそれに続く世界規模の洪水(2世紀前のウッドワードの説によく似ている)によって説明できるとして『新しい地質学』(1925)などを出版した。科学者たちからの非難を受けながらも、プライスらは1940年代に洪水地質学会を組織した。
⑥ 原理主義者のジョン・ウィットコムとヘンリー・モリスが著した『創世記の洪水』(1961)は、若い地球説に基づく創造論をアドベンチストの外に広げ、創造研究協会の設立(1963)につながった。1970年代になると、地球の古さを否定できる科学的根拠を追い求めるという従来通りの方針を続ける人々のほかに、公教育において創造論が進化論と同じ時間を割かれるべきだという主張を展開する人々が現れた。後者はやがて「創造科学」を名乗り、自らがひとつの科学であるように装った。
⑦ 1990年代には、かつてペイリーが論じたような自然神学の議論を復活させることで創造論を科学と見せかける「インテリジェント・デザイン」説の運動が現れた。
⑧ 多種多様な形で現れてきた創造論はきわめてアメリカ的な運動であって、他の国々の科学者はアメリカの科学者から創造論者たちの活動について聞かされるとき非常に驚くのである。イギリスを含む他の国々では、創造論者の運動はもともときわめて弱いものにすぎなかった。だが、20世紀後半になって、創造論はアメリカの原理主義者たちの資金援助によって他の国々にも輸出された。21世紀初頭にはユダヤ教やイスラム教にも広がりはじめた。これらの運動には、離婚、中絶、同性愛、フェミニズムなどにも激しい敵意を向けていることが共通しており、政治的イデオロギーと強く結びついてきたことが明らかである。
⑨ 結局のところ、若い地球説は地球平面説と同類のものであって、人類の科学的達成から見れば奇異な余興にすぎない。悲しいことに、創造論者たちは完全に理解力が足りないのである。
2023年5月6日
19世紀の地質学の諸相 Rudwick, Earth’s Deep History, Ch. 9 前半
Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 207–224.
第9章「波乱万丈な悠久なる歴史」前半(207~224ページ)
周辺化される「地質学と創世記」(207ページ~)
① 19世紀後半には、創世記の記述に基づいて、地球が非常に古いという地質学者たちの意見に反対し続ける宗教的な人々もいたが、知的議論に対してはほとんど影響力をもたなかった。代表的な地質学者たちのなかに宗教的な人々がいることは認識されており、このことは地質学と宗教的実践が両立可能だという感覚を普及させていた。
② 聖書を「文字通り」に読むという考えは、二つの方面から弱体化させられていた。18世紀の啓蒙思想で発展した、聖書を歴史的に解釈する手法と、19世紀初頭のロマン主義で強まった、聖書の文学性を強調する傾向である。
③ ノアの洪水は、もともと第二紀の岩層とそこに含まれる化石すべての原因とみなされていたが、やがて洪積層の堆積物だけの原因とみなされるようになっていった。さらに、これが更新世の氷河作用の痕跡だと解釈されるようになると、今度は局地的な出来事にすぎなかったとみなされるようになった。こうした解釈の変化は、創世記の歴史化だといえる。氾濫が世界規模だったというときの「世界」とは、当時この物語の受け取り手であった人々に知られていた限りでの世界だと解釈されるようになった。それでも、物語の宗教的な意味はほとんど変わらなかった。
④ 歴史化された洪水の解釈は、19世紀後半にメソポタミアの楔形文字が解読されたことで強化された。1872年に、楔形文字の専門家ジョージ・スミスは、ニネベで発掘された粘土板【図9.1】に創世記の物語に似た洪水に関する記述があったと報告した。このことから、聖書の洪水は全地球的なものではなくメソポタミアに限定された地域的なものであったこと、聖書の記述にはユダヤ人の思想に基づく宗教的な解釈が加わっていることが強く意識されるようになった。
⑤ 19世紀には、一部の主要な地質学者を含む多様な論者が、方向性をもつ「前進的」な地球の歴史を創世記の「六日間」と対応させ、両者を調和させた。一方、創世記の「一日」が非常に長い期間を意味するという譲歩を嫌う論者は、地質学的歴史の全体を創造の後、「六日間」の前に挿入しようとした。いずれにせよ、19世紀後半には、地質学と創世記が両立不可能だという主張は退潮した。
⑥ 19世紀のうちに、地質学と創世記は平和的に分離していった。多くの地質学者は、自分たちの科学が自分たちの信仰を傷つけているとは感じていなかった。その一方で、社会的・政治的背景から、イギリスでは19世紀初頭に、アメリカでは19世紀末に聖書直解主義が流行した。
⑦ しかし、19世紀においては、地質学的知識は自然が神によってデザインされているという信念を強固にしているという感覚のほうが普及していた。この種類の自然神学は、バックランドの明白なキリスト教的有神論だけでなく、ライエルの暗黙的な理神論をも特徴づけていた。この感覚を脅かしたのは、「デザイン論証」を弱体化させたダーウィンの自然選択説である。その影響は、キリスト教信仰の知的擁護が歴史的出来事よりも自然神学に依存していたイングランドなどの国々で強く現れた。
地球の歴史の全体像(212ページ~)
① 19世紀には、若い「洪積世」の堆積物と第一紀の岩石が多くの謎を残していた一方で、その中間にあたる第二紀と漸移紀の岩層に関しては知識が大きく進歩した。こうして明らかになってきた悠久なる過去には、奇妙さと普通さの両面があった。
② 恐竜や三葉虫をはじめとする過去の絶滅した生物の奇妙さは、大衆に対する科学の宣伝に役立った。1851年の第1回万国博覧会のために建築された水晶宮がロンドン郊外に移設された際には、リチャード・オーウェンの指揮のもとで恐竜たちの実物大模型がつくられた。【図9.2】
③ それと同じ頃、地質学者たちのもとには悠久なる過去の環境が意外にも普通のものであったことを示す証拠が集まっていた。こういった証拠はライエルの議論にとって有利な材料であったが、その多くはバックランドのような激変論者によって発見されていた。
④ 地質学者が悠久なる過去を飼いならすようになったことを示す重要なしるしは、同じ地質時代でもまったく異なる種類の岩石が堆積するということの認識である。キュヴィエとブロンニャールは、パリ盆地の同じ層のなかで、厚い砂岩によって取って代わられている場所がいくつかあることに気付いていた。コンスタン・プレヴォーはこれに対し、淡水と海水の境界線が連続的に動いていて、それによって一時的なラグーンが生まれる環境を想定することで説明を与えた。【図9.3】
⑤ さらに、スイスの地質学者アマンズ・グレスリーは、フランスとスイスの国境にあるジュラ山脈の地質を調査したとき、明らかに同じ時代でも場所によって異なる種類の岩石と化石ができていることに気付き、これらを異なる「相」と呼んだ。この相という概念の誕生は、層序学が完全に歴史的な形式に転換したことを象徴している。このアイデアはデヴォン紀大論争にも解決案を提供した。すなわち、デヴォン紀に形成された岩石のなかでも、旧赤色砂岩はおそらく淡水で、他の部分は海底で堆積したのだろうという。
地質学がグローバル化する(216ページ~)
① デヴォン紀大論争は、数年のうちにイギリスから北西ヨーロッパ全域、そしてロシアのウラル、ニューヨーク州、北アメリカのかなたへと広まった。これは19世紀における地質学の範囲の拡大を示す例である。西洋の商業や植民地化の拡大とともに、世界中から地質学的知識が集まるようになり、地質学者たちに地球史の一般化に対する自信を与えた。
② オーストリアの地質学者エドアルト・ジュースの仕事はその一例である。ジュースは山脈の起源という伝統的な問題に挑み、エリ・ド・ボーモンと同じように、地球内部が徐々に冷えて縮小することによって地殻がくしゃくしゃになるのだと考えた。【図9.4】
③ しかし、ジュースは造山運動について、エリ・ド・ボーモンが主張したほど急激に起こる必要はないと考えた。人間にとっては認識できないほどゆっくりしたペースであっても、地質学的なタイムスケールでは激変的な現象になりえるからである。ジュースはライエルの極端にゆっくりした「静止主義」的立場を批判したが、実際にはライエルと同じぐらい地球史の長さを考慮していた。ライエルと激変論者たちの論争は、もはや時代遅れとなっていたのである。
④ ジュースは勇敢にも、自身の大著をメソポタミアの楔形文字による記録の検討から始めている。また、ヨーロッパにおける大規模な造山運動の段階として、デヴォン紀以前のカレドニア造山運動、ペルム紀以前のヘルシニア造山運動、新生代のアルプス造山運動を区別した。これらは、大西洋の反対側で起こっていた造山運動と時期的に一致するという。こうした議論は、層序学と化石記録によって提供されてきた歴史を補完して豊かにするものであった。
⑤ 層序学を地球史のアーカイブにするという仕事を熟成させたのは、ウィリアム・スミスの甥であり非公式の弟子でもあったジョン・フィリップスである。フィリップスは古生物学者であり、オックスフォードのバックランドのポジションを得た。
⑥ フィリップスは1841年に、化石記録の全体を古生代、中生代、新生代の3つに分割することを提案し、すぐに世界中の地質学者たちに受け入れられた。これは古代、中世、近代という人間の歴史の区分とアナロジーの関係にある。
⑦ フィリップスは1860年、ロンドン地質学会での会長演説で、すでに知られている化石記録は「地球上の生命」の歴史が「前進的」だと解釈するのに十分だと論じ、「つまり、地球は歴史をもつ」と要約した。これは、ダーウィンが前年の『種の起源』で、化石記録は不完全であって自説を否定する根拠にはならないと論じたことへの応答であった。
⑧ この問題に関して、19世紀のあいだ地質学者たちの意見はバラバラであった。一方の極には、化石記録の不完全さゆえに突然の変化があったように見えるのだと主張し続けたライエルがいた。この主張は、調査が進めばその見かけ上の不連続性は埋まっていくということを暗示しており、実際にそうなった部分もあった。しかし、古生代・中生代・新生代を分ける不連続性のようにそうならなかった部分もあり、例外的な出来事があったことが示唆された。
⑨ アルシド・ドルビニをはじめとするフランスの地質学者たちは、このような激変主義的解釈をとった。一方、イギリスの地質学者たちはライエルに強く影響され、激変的出来事による説明を避けようとし続けた。
⑩ 19世紀のすべての地質学者は、「現在は過去への鍵」という現在主義の原則を採用していた。この手法は拡張され、ある過去がさらに古い過去への鍵として用いられることもあった。
⑪ 氷河堆積物に関する調査は、現在の世界とはまったく異なる気候があったことを示唆していたが、それはだんだんと冷えていく地球という考えには沿わなかった。1870年代、インドで調査をしていた地質学者たちは、アフリカ、オーストリア、インドがかつて単一の陸塊だったと示唆した。ジュースがこれを支持して「ゴンドワナ大陸」と名付けると、この考えは広く受け入れられた。19世紀後半にはこのように、問題も証拠もグローバル化したことで、地球の歴史がさらに波乱万丈なものとなっていったのである。
層序学から地球史へ Rudwick, Earth’s Deep History, Ch. 6 後半
Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 140–154.
第6章「アダム以前の世界」後半(140–154ページ)
新しい「層序学」(140頁~)
① 特定の岩層に含まれる化石に基づいて当時の生命と環境を復元していくには、その岩層が全体の積み重なりのなかで、すなわち地球の歴史のなかで、どの位置を占めるのかを知ることが重要であった。
② 当時、このようなゲオグノジーの知識はだんだんと増えていた。キュヴィエやブロンニャールだけでなく、イギリスの鉱物測量技師ウィリアム・スミスも、貝類のような普通の化石の実践的価値に気付いた。前者の二人がパリ盆地の地図作りを始める数年前から、スミスはイングランドとウェールズのゲオグノジー的地図(geognostic map) の制作を始めていたが、完成させて発表したのは前者の4年後となる1815年だった。そのため、どちらが先だったといえるのかをめぐる愛国的論争が繰り広げられてきたが、実際には18世紀のうちから先行者がいた(130頁第2段落参照)。
③ スミスの地図は前者よりもずっと広い範囲の、より多くの岩層を独力で調査したという点で巨大な達成であった。しかし、スミスの地図は(無知な現代の英雄伝説語りが言うようには)世界を変えなかったし、地質学の世界すら変えなかった。スミスの地図は、キュヴィエとブロンニャールの地図と同じく、ゲオグノジー的地図に留まっていたからである。スミスは「特徴的化石」を用いて三次元構造における岩層の「順序」を示したが、地球やイングランドの歴史を復元しようとはしなかった。実際、彼が名付けた「層序学(stratigraphy)」という学問名は、「地層(strata)」を単に記述するという意図を反映している。
④ 層序学は、19世紀初頭の多くの地質学者にとって最も主要な仕事となった。彼らの出版物で最もありふれていたのは、特定の地域における岩層の詳細な記述である。これはたいてい地質図を、さらにはしばしば断面図を伴っていて、この組み合わせは地殻の三次元構造を心の眼で見ることを可能にした。また、場所によって岩石の種類が違っていても、化石によって岩層を対応付けられることが認められた。しかし、それでもこれは層序学、あるいは化石によって豊かになったゲオグノジーに留まっていて、地球史の復元ではなかった。
⑤ 層序学の概要を示すものとして最も影響力があったのは、コニベア(1787–1856)が大部分を編集した『イングランドおよびウェールズの地質学概説』(1822)である。コニベアはハイエナの巣穴に入るバックランドの戯画(124頁)を描いた人物で、地球史を復元できる可能性によく気付いていた。しかし、コニベアの本は層序学的な目標に沿ったもので、スミスの業績に強く依拠して、岩層を上から下へと進む順番(地球の歴史とは逆)で石炭系まで記述した。この本によって、少なくとも二次岩層に関しては、どこの地質学者たちもブリテン島の地質を標準的な参照先とするようになった。
⑥ 次の20年間にわたって二次岩層の各部分に対する名付けが進み、一番上から順に「白亜系 Cretaceous」、「ジュラ系 Jurassic」、「三畳系 Triassic」(新赤色砂岩 New Red Sandstoneを含む)、「ペルム系 Permian」、「石炭系 Carboniferous」(最下部に旧赤色砂岩 Old Red Sandstoneを含む)と名付けられた。
⑦ これらの二次岩層は化石の出ない一次岩層の上に直接乗っていることもあったが、地域によっては粘板岩などの岩石の上にあり、この層をヴェルナーは一次岩層と二次岩層のあいだという意味で「漸移岩層 Transition」と呼んでいた。1830年代に特定の地域では漸移岩層からも多くの化石が出ることがわかり、ロンドンの地質学者ロデリック・マーチソン(1792–1871)が「シルル系 Silurian」を、ケンブリッジ大学のアダム・セジウィック(1785–1873)がその下の「カンブリア系 Cambrian」を名付けた。カンブリア系の化石は少なく、シルル系との明確な区別がつかなかったため、マーチソンとセジウィックのあいだで論争が起こり、ずっと後になってあいだに「オルドビス系 Ordovician」が挿入された。
⑧ 一方、「デヴォン系 Devonian」をめぐっては大論争が繰り広げられた。この論争が解決されたのは、ヨーロッパじゅうの地質学者たちが、旧赤色砂岩は例外的に他の地域のまったく異なった化石を伴うまったく異なった性質の岩層と同じ時代にできたということを認めたときであった。デヴォン系は石炭系とシルル系のあいだに挿入され、石炭系は以前より狭く定義されるようになった。
⑨ これらの命名は典型的な岩石の種類や地域に由来しており、層序学的(あるいはゲオグノジー的)な基準に基づいていた。それぞれは、特有の化石を含む特有の岩層のグループである「系」として知られるようになった。デヴォン紀大論争が落ち着くと、その構造上の順序が疑われることはなくなった。
地球の長期的な歴史を描く(144頁~)
① しかし間もなく、「系」を構成する岩層が堆積した時代、すなわち「紀」にも同じ名前が使われるようになった。それ自体としては非歴史的な層序学の実践が、地球史の復元のための枠組みを提供したのである。1836年にバックランドが地質学の成果を一般向けに要約したとき、彼の説明は過去20年間の国際的な層序学研究に基づいていた。
※ バックランド『自然神学との関連で考察された地質学と鉱物学』(1836年、ブリッジウォーター論集第6編)
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.222598/page/n3/mode/2up
② バックランドは、この新しい層序学によって地球の生命の歴史を描くことができた。現代に近い時代から見ていくと、洪積世は巨大な哺乳類の時代であるがその多くは現生種に似ているのに対して、第三紀の哺乳類はより遠ざかっていることがわかった。
③ 第二紀の大部分は爬虫類の時代であったこともいよいよ明らかになった。「イギリスのキュヴィエ」と称されたリチャード・オーウェン(1804–92)は、絶滅した爬虫類の一群に「恐竜類 dinosauria」と名付けた。
④ 同じジュラ紀の岩層には、非常に小さい哺乳類の化石も含まれていた。「原始的」な種類の哺乳類の発見は、四足動物の歴史が「進歩的」であるという感覚を強めた。
⑤ 第二紀のうち古い時期の石炭紀およびデヴォン紀の岩層からは爬虫類も四足動物も見つからず、魚類ばかりであった。スイスの若いナチュラリスト、ルイ・アガシ(1807–73)は、『魚類化石の研究』(1833–43)で魚類の化石を詳細に記述し、キュヴィエの業績を補完した。アガシは、石炭紀およびデヴォン紀の魚類の化石はどれも絶滅したか、少なくともその後希少になった種類だと主張した。シルル紀の岩層からは魚類の化石も見つからず、その時代の海には脊椎動物がいなかったという疑いが強まった。
⑥ 現生生物とははっきり異なる奇妙な形態をした三葉虫は、シルル紀やデヴォン紀の岩層に多く、石炭紀を経てペルム紀で途絶えていたので、それらの時代を特徴づける化石となった。
⑦ 脊椎動物と同じように、植物もまた代わる代わる現れていた。ブロンニャールの息子アドルフ(1801–76)は、アガシと同様にキュヴィエを模倣して『化石植物の[自然]史』(1828–37)を著した。最も古い植物化石は石炭の層に多く含まれていた隠花植物であった。第二紀のより新しい岩層になると裸子植物が現れ、第三紀になってようやく被子植物が現れていた。
【図6.5】
バックランド『自然神学との関連で考察された地質学と鉱物学』(1836年、ブリッジウォーター論集第6編)に描かれた、典型的な地殻の断面図。上から沖積層(Alluvium)、洪積層(Diluvium)、三次岩層、二次岩層、漸移岩層、一次岩層。それぞれの層に英語、フランス語、ドイツ語が併記されている。人間のいる「現代の世界」は沖積世によって表されているが、地球の歴史に比べて非常に短い期間にすぎないと認識されていたことがわかる。
【図6.6】
同じ本に描かれた、第二紀の動植物。多くがデ・ラ・ビーチの『太古のドーセット』(1830、139頁)にも描かれている。
【図6.7】
ブロンニャールの本に描かれた三葉虫。三葉虫は明らかに複雑な動物で、ラマルクの転成説あるいは進化論から予期される最初期の生命の形態とは大きく違っていた。
【図6.8】
アウグスト・ゴルトフスの『ドイツの化石』(1826–44)に描かれた石炭紀の森。植物は現生のシダ、トクサ、ヒカゲノカズラなどに近い隠花植物だが、背の高い樹木に成長している。葉の化石が幹につながった状態で見つかることは少ないため、どの葉がどの幹に対応しているのかがわからなかった。そこで、この絵は樹木の上部を描かずに、地面に落ちた葉を描いている。
ゆっくりと冷えていく地球(150頁~)
① 動植物の化石記録は明らかに直線的で定向的な歴史を示していた。どちらの歴史も「進歩的」で、だんだんと「高等」な種類が現れてくるものと解釈できた。この方向性はどのように理解すればいいのだろうか。
② ひとつの手掛かりは、早い時期の動植物の多くが熱帯性のように見えることであった。
③ アドルフ・ブロンニャールは数々のそのような証拠を、地球は白熱状態から徐々に冷えてきたという、物理学者のジョゼフ・フーリエと地質学者のルイ・コルディエが示唆していた考えに結びつけた。これは半世紀前にビュフォンが唱えていた説ではあるが、今度は暗黙のうちにタイムスケールがずっと大きくなり、ラプラスの星雲説に結びつけることができた。何より、フーリエによる最新の物理学と、コルディエによる鉱山の温度測定に裏付けられていた。この説では、化石記録があるところで途絶えている理由も説明することができた。
④ アドルフ・ブロンニャールはこの地球冷却説を拡張して、石炭紀に樹木のシダや巨大なトクサが栄えていたのは、かつての大気には光合成に必要な「炭酸」(二酸化炭素)が今よりずっと豊富に含まれていたからではないかと考えた。そして、この環境は逆に、十分な量の酸素を必要とする哺乳類のような「高等」な動物が現れるのを遅らせていたのではないかとも考えた。この見方では、固体地球や生命だけでなく、大気までが固有の悠久なる歴史をもつことになる。このようなスケールの大きい理論は、地質学者たちに地球をひとつの惑星として再考させることにつながった。これは19世紀の初め頃には、過度に思弁的であるか地質学の領域を逸脱するものとして一般的に拒絶されていたタイプの考え方であった。
⑤ 逆説的にも、だんだんと冷える地球というモデルは、地球史のまったく漸進的でない性質まで説明することができた。フランスの地質学者エリ・ド・ボーモンは、地球が冷えるにつれて地球の核が縮んでいき、それが時折特大の地震のような形で地殻をねじ曲げる激変を起こすのだと考えた。
⑥ 19世紀の半ばまでに、このような種類の地球史の復元はヨーロッパのほとんどの地質学者に採用され、ロシアや北米にも広がった。彼らは、地球が定向的な変化を経てきたこと、それがおそらくは地球の冷却によって引き起こされてきたことを認めていた。それに応じて、環境に適応した動植物たちが出現あるいは消滅し、「高等」な種類は「下等」な種類より後に現れてきたと考えられた。そして、おそらくは地球内部からの自然的な原因によって、時折の激変が起こってきたとみなされていた。しかし、このような地質学者たちの安らかな合意は、少なくとも三つの方向から妨げられることになる。これが次章のトピックである。
【図6.9】デ・ラ・ビーチの『理論地質学』(1834)の口絵。デ・ラ・ビーチは地球の歴史を、それがゆっくり冷えてきたという考えに基づいて解釈していた。
2022年9月25日
人間の歴史とのアナロジー Rudwick, Earth’s Deep History, Ch. 4 後半
Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 92–102.
第4章「時間と歴史を拡大する」後半
ナチュラルヒストリーとヒストリーオブネイチャー
① デマレ(Nicolas Desmarest, 1725–1815)は、古物研究家によるヘルクラネウム(ヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイとともに埋まった古代ローマの町)の発掘と、自分自身によるオーベルニュの死火山の研究をアナロジーで捉えた。このような人間の歴史とのアナロジーをさらに展開させたのは、中央高地の死火山の近くで主任司祭をしていたジロー・スラヴィ(Jean-Louis Giraud-Soulavie, 1752–1813)である 。スラヴィがパリに移ってから著した7巻本の『南フランスのナチュラルヒストリー』(1780–84)は、伝統的な記述的スタイルのナチュラルヒストリーに留まっておらず、自然それ自体の歴史を復元するというアイデアに満ちた著作となっている。スラヴィは「自然のアーキビスト」を自認し、火山の「物質的年代学」によって「物質世界の年鑑」を編纂しているのだと主張した。
② デマレやスラヴィは、かつてのステノやフックよりもはるかに徹底的に、年代学や古物研究家の手法や概念を、人間の世界から自然界へ、短い時間から悠久の時間へと、意図的に移した。当時、考古学の新しい発見が相次ぎ、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(1776–88)のような著作が現れていたことは偶然ではない。実際、スラヴィはのちにアンシャン・レジーム下のフランス政治の歴史研究に移っている。デマレやスラヴィの姿勢はすぐには他のナチュラリストたちに受け継がれなかったが、長い目で見ると彼らのアナロジーが地球史を復元するための決定的な戦略となったのである。
③ スラヴィは火山岩だけでなく、第二紀の3つの層(現代でいうジュラ紀、白亜紀、中新世)も記述し、それらの層は特有の化石の組によって地域を超えて認識できることにも気付いていた。たとえば、アンモナイトやベレムナイト は第二紀層の古い部分に見られるが、新しい部分(現代でいう新生代)には見られないというようなことである。そこでスラヴィは、地層に含まれている化石の順序が生命の歴史の一部を記録しているのだと主張した。だが、他のナチュラリストたちは、化石の違いが反映しているのは堆積が起こった場所の環境条件の変化だと考えていた。古い地層は深海で堆積したもので、そのとき化石になったのは今でも深海で生きている甲殻類だというのである。
④ 当時、深海のことはまだよくわかっていなかったので、これは十分にあり得る考え方だった。実際、化石としてのみ知られていたウミユリ(図4.8)が、カリブ海で偶然にも測鉛線に引っかかって生きた形で発見されたこともあった。
⑤ 化石の生物が今もどこかで生きて繁栄しているという可能性がある以上、一地方の地層は局地的な変化の記録としては認められても、地球規模の生命の歴史を示すものとみなすことはできなかった。地球の歴史のなかではずっと同じ種類の動植物が生き続けているのかもしれないのである。ハットンの安定したシステムではなくドリュックの一方向的な歴史観が説得力を持つためには、昔の世界が今の世界とは別物であると示される必要があった。そしてそのためには、海の生物ではなく、人目を引くような巨大な陸上動物の化石が望ましかった。
⑥ 18世紀末に、ヨーロッパで見つかる巨大な骨や歯の化石が注目を集めたのは、これが理由である。これらは従来、無教養な人々によってノアの洪水以前の巨人だとみなされていたが、やがて人間ではなく主にゾウのものであることが示唆された。そこでまずは、ハンニバルがローマとの戦争のために北アフリカから連れてきたゾウだという可能性が考えられたが、骨がヨーロッパじゅうで、さらにはシベリアや北アメリカでも見つかったため、巨大な津波によってアフリカやアジアの熱帯から他の地域に流された等の可能性に関心が向けられた(シベリアでは、現地の人々に「マンモス」という名前で呼ばれていた)。
⑦ しかし、一部の化石が既知のどの種にも属さないことがわかると、一部のナチュラリストたちはそれを絶滅が起こったことの決定的証拠とみなした。ビュフォンは、ゾウのような牙とカバのような歯を持つ「オハイオの動物」(図4.9の右側、のちに「マストドン」と名付けられる)について、現在の熱帯よりも暑い環境に適応していたために地球が冷えるにつれて全滅したのではないかと考えた。一方、アメリカ合衆国第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは、「オハイオの動物」が今でも生きていると考え、ルイスとクラークの探検隊にそれを見つけ出すよう指示していた。種の完全な絶滅が自然界において一般的であることが認められるためには、これ以外にも複数の事例が必要であった。
【図4.7】フランスのナチュラリスト、ド・ラマノン(Robert de Lamanon)が1782年に発表した、パリ北部にかつて存在したと推測される湖の地図。この地域の第二紀層に含まれる石膏の堆積物を、湖の蒸発残留物と解釈した。
地球のタイムスケールを推測する
① しかし、化石や岩石の標本を観察するだけでは、それらが長大なタイムスケールを示唆していると理解するのは難しかった。地球に長大な歴史が存在する可能性に最も説得力を感じていたのは、野外で自ら岩層の積み重なりのスケールや火山の大きさを目にしていたナチュラリストたちであった。だが、時間に関する彼らの疑念は、暗示的で非数量的な形をとり続けた。これは教会からの批判を恐れたためではなく、時間を測る信頼可能な手段が存在しないためであった。それでも、非公刊の史料を見ていくと、18世紀後半までに彼らの多くが少なくとも数十万年、あるいは数百万年以上の時間が地層や火山の形成に必要だと考えていたことがわかる。たとえばヴェルナーは、彼がよく知っていた岩山の形成に約100万年を考えていたようである。
② 18世紀後半までに、非常に長いタイムスケールを要求するフィールドからの証拠はナチュラリストたちにとって十分なものになっていた。タイムスケールを明示的に提示したビュフォンは、その時間の長さにではなく、疑わしい推測に基づいていることを批判された。ハットンも、長さではなく永遠性を批判された。ドリュックは「現在の世界」以外のどの時代についても長さを数字で書かず言葉で表した。この時代以降の科学の歴史で、フィールド調査の経験を持つ人々が、地球のタイムスケールが記録に残る人間の歴史よりはるかに大きいということを疑ったことはない(その一方で、一般の人々の意見はまったく違っていた)。こういった変化が起こったのは19世紀初頭の地質学あるいはダーウィンの進化論が現れてからだというのは誤解である。
③ キリスト教の信者を自認する学者たちも、非宗教的な人々と同じく、このタイムスケールを問題視しなかった。聖書学者たちは創世記のdayという言葉の曖昧さを認識していたし、自然界からの証拠がもたらされるよりずっと昔から、それが普通の1日を意味するかどうか疑っていた。それゆえ、聖書の権威や宗教的意味に影響を与えずに、数千年よりずっと長い時間を想定することは十分可能であった。だからこそ、18世紀後半に長いタイムスケールを論じた人々も教会の権威者にほとんど批判されなかったのである。宗教的に肝心だったのは、この宇宙は永遠であって創造されたものではないと主張する人々に抗して、この宇宙が有限で創造されたものであるということを支持しているかどうかであった。そして、これはもちろん、科学的観察によって解決することのできない哲学的・神学的問題であった。そのような問題において、自分たちを攻撃にさらされた少数派だと感じていたのは、懐疑論者ではなく宗教的な人々の側だった。たとえばドリュックは、自分が啓蒙主義の理神論者や無神論者からキリスト教の有神論を守っていると感じていた。
④ それゆえ、ドリュックのようなキリスト教的な学者にとって、かつては想像できなかったようなタイムスケールを認めることは容易かった。彼らはまた、テクスト解釈の歴史的手法が聖書に用いられはじめていることに気付いていた。18世紀における聖書批評の発展は諸刃の剣であって、伝統的な宗教的信念を掘り崩すのにも用いられたが、テクストの意味をより深く理解し現代の宗教的実践とつなげるためにも用いられた。それゆえ、創造の物語は地球全体について考える上でのインスピレーションの源であり続けた。
⑤ 結論として、単なる地球のタイムスケールの拡大(悠久なる時間)よりもずっと重要だったのは、その拡大された時間のなかで復元される地球史の性質(悠久なる歴史)であった。創造の物語は、岩や化石や山や火山を地球の歴史の証拠と考えることに関して学者たちを前適応させた。創世記には、繰り返しではない出来事の偶発的な連なりの物語が記されていた。人間が現れる前の5日間は長く引き伸ばされ、単なる序曲から全体のなかで最も長い部分になった。
⑥ しかし、18世紀の終わりの時点で、このドラマの詳細はいまだ不明瞭であった。過去の地球が現在とどれだけ違うのか、特に、生命が真の歴史を持っているのかどうかはまったく明らかでなかった。人間以前の過去について、確信をもって詳細に知り得るのかもわからなかった。これが、19世紀初頭に取り組まれ続けることになる根本的な問題であり、次章の主題である。
2022年6月25日
四つ目の革命 Rudwick, Earth’s Deep History, Introduction
Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 1–8.
イントロダクション
かつてフロイトは、三つの大きな革命が自然のなかの人間の位置に関する我々の感覚を変容させてきたと主張した。地球を宇宙の中心から追いやったコペルニクスの革命、人間を神の特別な被造物から単なる類人猿に降格させたとされるダーウィンの革命、そして無意識の深みを暴くことによって理性的存在としての人間という感覚を転覆させたフロイト自身の革命である。
しかし、私の友人である故スティーヴン・ジェイ・グールドが指摘したように、このリストにはこれら三つと同じぐらいの重要性を持つ四つ目の革命が漏れ落ちている。それは、他の三つのように一人の有名人に紐づけることは難しいが、コペルニクスの革命が空間のスケールを大幅に拡大させたのと同じように、地球のタイムスケール、ひいては宇宙のタイムスケールを大幅に拡大させた革命である。それ以前には、西洋の多くの人々は、この世界がほんの数千年前に始まったということを当たり前に信じていた。この革命の後では、地球のタイムスケールが少なくとも数百万年に上るということが同じくらい当たり前になった。
しかし、このタイムスケールの拡大をあまりに強調することは、この革命のさらに二つの重要な特徴をぼやけさせてしまう。
第一に、人類の位置の根本的な変化である。伝統的な理解における「若い地球」は、ほぼ完全に人間のいる地球であった。アダムから将来の終末に至るまで、人間のドラマが繰り広げられるのである。それに対して、地質学者たちによって発見された「古い地球」は、ほとんど人間のいない地球となった。
第二に、自然がそれ自体の歴史を持っているということが明らかになった。地球に人間のいない時代が、人間の歴史と同じぐらいに波瀾万丈であり「歴史」と呼ぶに十分な出来事の連続であったことがわかったのである。
よって本書は、悠久なる時間(deep time)の発見というよりも、地球の悠久なる歴史(Earth’s deep history)とそのなかの人間の位置の再構成について解説した本である。
四つ目の革命は、主に二つの理由で無視されてきた。
第一に、ダーウィンの進化論の序曲にすぎないと捉えられてきたことである。たしかに、地球の悠久なる歴史の認識は生物の多様性の説明に必要であるが、四つ目の革命は地球上のすべてのものに関わっており、動植物だけでなく岩石や鉱物、山や火山や地震、大陸や海洋や大気も含むのであって、独立の革命とみなすに値する。
第二に、宗教の対する科学の勝利のエピソードのひとつにすぎないとみなされてきたことである。しかし、歴史家たちは、科学と宗教の永続的な対立というステレオタイプをすでに放棄している。本書では、地球の悠久なる歴史という新しく現れた感覚が、それよりずっと短い歴史の古い概念と、非常に興味深い仕方で関連していたことを示したい。「若い地球」を復活させようとする現代の創造論者たちは、物語のクライマックスではなく奇異な余興にすぎない。
四つ目の革命の核心は自然それ自体が歴史を持つことの認識であるということを認めれば、タイムスケールの量的な拡大は二次的な問題になる。より重要なのは、自然の歴史性という感覚の起源である。自然の歴史のモデルになったのは人間の歴史であり、それは惑星の運行などと違って予測不能であり偶然的であると認識されている。この歴史性の感覚が自然の領域に移入され、新しい自然の理解を生み出したのである。17~19世紀の西洋文化において自然の歴史性の主な源となったのは、ユダヤ・キリスト教の聖書に包含された歴史の感覚であった。聖書のテクストは地球の悠久なる歴史の発見を妨害したのではなく、むしろ促進した(読者を前適応させた)のである。
地球の悠久なる歴史の発見は、我々に対してこの世界に関する広汎な示唆を与えた点で重要である。それまで自然の研究者たちは、不変の自然法則を解明すればするほど人間が自然をコントロールできるようになると考えていた。しかし、地球は、初期条件と不変の法則が与えられれば過去から未来までを完全に決定できるような仕方でプログラムされていなかった。地球の悠久なる歴史は自然の法則をトップダウンで適用しても再構成できず、歴史的証拠をボトムアップで集めることによってしか再構成できない。地球の悠久なる歴史は天体の運行のように正確に予測できるものではなく、人間の歴史のような予測不能な偶然性を持つことが明らかになった。この偶然性は、地球の将来における人間の役割をめぐる現在の論争においても重要である。
自然が固有の歴史性を持つという感覚を最初に発展させたのは地質学であった。それを、もともと地質学者であったダーウィンをはじめとする生物学者たちや、天文学者たちが後から共有するようになったのである。それゆえ、この本の物語はひとつの科学をはるかに超える重要性を持つ。
この本は私自身の研究だけでなく、多くの国の多くの歴史家による最近の研究に基づいている。ポピュラーサイエンスの本やテレビの科学番組、それに自分たちの科学の歴史について語る科学者たちは、こうした最近の研究をあまりにも無視して、誰が「~~の父」であるなどといったような使い古された神話に留まってきた。
この本を書くにあたって詳細を削ぎ落とさなければならなかった事柄はたくさんある。本書はまた、ヨーロッパの科学者(と自分たち自身を呼ぶようになる人々)に焦点を絞っている。男性が主な登場人物になっているのは、かつての歴史的現実を反映している。
フンボルトの庭園論 Humboldt, Kosmos, vol. 2., pp. 95-103
Alexander von Humboldt, Kosmos: Entwurf einer physischen Weltbeschreibung, Zweiter Band (Stuttgart, Cotta: 1845-62), 95-103.
フンボルト『コスモス』第2巻、パート1
III 熱帯植物の栽培――植物の外見の対照や組み合わせ――植物の外観と性質によって誘発される印象
版画による生産数の増加や最近の石版画の進歩があるとはいえ、風景画が心にもたらす影響は、温室や庭園にある外来の植物の光景がもたらす影響ほど力強くはない。私は若い頃にベルリンの植物園で巨大なリュウケツジュやヤシを目にして、遠く離れた地への旅を切望する想いを植え付けられた。
風景画は大きさや形態を魔法のように操ることができるので、実際に植物を栽培して配置するよりも、より豊かで完全な自然のイメージを提供することができる。農園や庭園では、絵画のように海や陸の壮大な現象を凝縮することはできない。しかし、その代わりに、現実が細部のいたるところで感覚に働きかけてくる。それによって、完璧な絵画以上の幻想が与えられるのである。ただし、栽培することによって、本来の自然の性質の一部は覆い隠されてしまう。
植物の形や対照的構成は自然研究の対象であるだけでなく、造園にとっても非常に重要な意味を持つ。歴史的には、造園は中央アジアと南アジアに起源を持つ。イランでもデロス島でもセイロンでも、樹木は自然崇拝の対象となった。
東アジアの国々でも、何かしらの植物が聖なる対象とみなされて特別な注意が払われており、庭園には自然に対する想いが最も強く多様に表れている。中国の庭園はイギリス式庭園に近いものだったようだ。古代の文筆家Lieu-tscheu[柳宗元のこと?]は、我々が庭に何を求めるのかを考察している。前世紀半ばに清の乾隆帝が奉天と祖先の墓を称えて詠んだ詩には、自由な自然に対する感嘆が表現されている。司馬光も1086年頃に、庭園に関する詩を作っていた。当時ドイツでは、詩は粗暴な聖職者の手に握られており、祖国の言葉で作られることもなかった。
その500年前から、中国、東インド、日本の人々は多様な植物の形に親しんでいた。これには仏教が関係している。寺や僧院、墓地は庭園に囲まれ、外来の植物で装飾されていた。中国、朝鮮、日本には早くからインド産の植物が普及していた。シーボルトは、遠く離れた仏教国で植物相の混合が見られることに注意を促した最初の人物である。
ヨーロッパの文明化の最も貴重な果実の一つは、外来の植物の栽培と展示、風景画、文章の力などによって、普段触れなくなった自然や異国の自然に接することがどこでもできるようになったということであろう。
2020年12月20日
ダーウィンはロマン主義者ではない Ruse, “The Romantic Conception of Robert J. Richards”
「ロバート・J・リチャーズのロマン主義的概念」
Michael Ruse, “The Romantic Conception of Robert J. Richards,” Journal of the History of Biology 37 (2004): 3–23.
ロバート・J・リチャーズは、今日における最も立派で創造的で刺激的な、進化生物学の歴史家である。彼の『生命のロマン主義的概念――ゲーテの時代における科学と哲学』は、ドイツ思想と生物学のこれまでに知られていなかった関係を明らかにした。しかし、ダーウィンの進化論の起源は19世紀の初めに栄えたドイツのロマン主義的生物学にあるという彼の主張は完全に間違っており、ダーウィンは典型的なイングランド人だったという伝統的な解釈のほうが正しい。本論文ではそのことを論じる。
■ ロマン主義者ダーウィン(4–9ページ)
まずはリチャーズの主張を見ていこう。リチャーズが、ダーウィンは「ロマン主義者」だったと言うのはどういう意味か? まず、自然は生命に富んでいて、すべてが全体にとっての部分となっており、すべてが共通の目標に向かっている、超有機体のようなものだという考え方である。ロマン主義者たちは、存在するもの全体がひとつのものであり、神のあらわれであると考えたスピノザの哲学を好んだ。世界がひとつの生き物ならば、そのなかにはつながりや深い調和が存在するはずである。そして、すべては根底にある諸観念の上に成り立っているので、世界には同じパターンが繰り返されている。だから、ロマン主義者にとって生物や無生物の重要な特徴は、そのデザインが実利にかなっていることではなく、相同関係を示していることであった。また、生命は突き上げられるように頂上へと向かうものであって、人間という頂へと発展する。個体の発生は生物の発展史(それが物理的に連続した過程であるとは限らないが)の一場面となっており、両者のあいだには平行関係が存在する。ロマン主義者の立場は反還元主義的で、生命をメカニズムや機械とみなす考え方とは無縁である。
リチャーズによれば、ダーウィンはフンボルトやリチャード・オーウェンなどから影響を受け、ロマン主義の立場に到達していたという。たしかに『ビーグル号航海記』には、自然はそれ自体が生きていて内在的な価値を持っているという見方が表れており、文体もフンボルトの著作をモデルとして書かれていることは間違いない。だがリチャーズは、有名な最終段落を引用しながら、『種の起源』にもロマン主義の思想があらわれていると論じる。さらに、ダーウィンにとって選択は機械論的な力ではなく、ロマン主義者にとっての神である自然それ自体の、目標へと向かう働きなのだという。原型の理論も『種の起源』に深い影響を与えていて、ダーウィンが生物の祖先は複数の種類が存在すると考えていたのはその証拠である。そして、人間の道徳性は利己主義に由来するという功利主義者たちの意見に反対し、群選択によって進化した利他性に駆り立てられて利他的行動をするのだと主張した点でも、ダーウィンはロマン主義的であったという。
■ 中流階級のイングランド人ダーウィン(9–13ページ)
これに対立する標準的な立場は、リチャーズの主張をまるごと否定しようとするものではない。ダーウィンはさまざまな方面からの影響を受けて、それらを万華鏡が映す像のようにまとめ上げた人物である。たしかに、ダーウィンの思考にはロマン主義的な要素もある。しかしながら、ダーウィンの思考には他の要素も多くあり、真の功績をもたらしたのはイギリス的な要素であった。
ダーウィンの功績を二つに分けると、第一は進化という事実(すべての生物は自然的過程によって少数の形態から発展してきた)であり、第二は進化の原因、すなわち生存闘争によって引き起こされる自然選択である。
前者に関していえば、ダーウィンは祖父エラズマスの『ズーノミア』やエディンバラの解剖学者ロバート・グラントとの交流から、進化という考えを知っていた。ビーグル号での航海中には、ライエルの『地質学原理』第2巻を通して、ラマルクの進化論についての知識を得ていた。ダーウィンは英国教会の有神論者として育てられたが、おそらくはエラズマスやライエルの影響もあって、やがて理神論者に転向した。妻となったエマを含むダーウィンの母方の家族も、ユニテリアン派であり理神論者であった。
後者に関していえば、ダーウィンはニュートン主義者になろうとしていたのであって、ジョン・ハーシェルやヒューウェルを通して、自然現象は真の原因であるvera causaによって説明されなければならないという認識を得ていた。人為選択に注目できたことはイギリスにおける農業革命と関係していたし、生存闘争の概念はマルサスから得ていた。
どちらについても、重要な役割を果たしていたのはイギリスに由来する要素だったのである。
■ 決着をつける(14–22ページ)
二つの立場のうち、ロマン主義説ではなくイギリス説が正しいといえる理由はたくさんある。
第一に、ダーウィンの最大の功績であるところの、適応を説明するメカニズムとしての自然選択説の由来は、ロマン主義説では説明できない。ゲーテ、フンボルト、オーウェンなどのダーウィン以前のロマン主義者は自然選択説に関係していないし、ヘッケルのようなダーウィン以降のロマン主義者も自然選択説との関わりは薄い。
第二に、ダーウィンの世界は奇跡を起こすキリスト教の神の世界ではなく、ロマン主義者の世界だったというリチャーズの主張について。この主張は正しいが、ダーウィンの世界は同時に、イギリス的な理神論者の世界でもあった。
第三に、ダーウィンの文体は、彼が読んでいたイギリスの自然神学者の文体によく似ており、ロマン主義を持ち出す必要はない。
第四に、ダーウィンは機械論と無縁だったとリチャーズはいうが、『ランの受粉』によく表れているように、ダーウィンは生物界を、目的を持ってデザインされた機械のように見ていた。これはウィリアム・ペイリーの視点に近い。
第五に、相同関係について。ダーウィンがオーウェンを通して、ロマン主義思想の相同関係に対する注目に影響を受けたというのは正しい。しかし、エラズマス・ダーウィンやジョフロア・サン=ティレールからの影響もあり、ドイツからだけの影響とはいえない。その上、ダーウィンにとって相同関係は進化の結果として説明されるものであって、議論の出発点ではなかった。
第六に、発生学について。リチャーズが、このアイデアのロマン主義的起源と、ダーウィンにとっての重要性に注意を向けたことは正しい。しかし、『種の起源』における発生学的説明は、むしろイギリスの動物飼育者たちとの交流に多くを負っている。
第七に、進歩について。リチャーズが、ダーウィンは進歩主義者であったことを強調しているのは称賛に値する。しかし、進歩主義は祖父エラズマスをはじめ、ダーウィンの家族にも共有されていた。そしてダーウィンは、生物が必然的に進歩するというような考え方からは距離を置こうとしていた。『種の起源』の第3版で本格的に進歩の問題に取り組んだときには、自然選択が器官の分化や専門化が進んだ生物に有利に働くという理屈で進歩を説明した。
第八に、ロマン主義的な生命観に特徴的な、器官の完全化という観念について。リチャーズは、ダーウィンが眼のような器官の完全性を信じていたと言うが、実際のところ、『種の起源』の頃にはすでに、眼でさえも完全ではないという相対主義的な考えに移行していた。
第九に、生命の起源について。もしダーウィンが本当にいくつかの基本的な原型があると考えていたのなら、他の誰にも劣らずキュヴィエが影響していたはずだ。また、後にダーウィンは手紙のなかで、最初の生命を出現させた物理学的・化学的過程について推測しているが、こうした議論はゲーテらに由来しない。
第十に、人間について。ダーウィンは『人間の由来』で、人間の特徴をつくり出した主要なメカニズムは性選択だと論じており、これは個体選択の典型であって、全体論的なメカニズムではない。リチャーズの説が正しければ、ダーウィンは世界には価値が染み渡っていると考えていたはずだが、実際にはダーウィンは自然から単純に道徳性を演繹しなかった。また、ダーウィンは個体選択が標準であると考えて、社会主義者として群選択を好んだウォレスと論争していた。そして、ダーウィンは倫理が道徳的情操によって決定されると考えていた点で18世紀のイギリス的伝統に従っており、もしダーウィンが功利主義に反対していたとしても、イギリスの道徳哲学による影響を先に考えるべきである。
以上、十点も挙げれば十分だろう。ダーウィンがイギリスの英雄たちのヴァルハラであるウェストミンスター寺院に埋葬されたのは、なんとも適切なことではないか。