Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 140–154.
第6章「アダム以前の世界」後半(140–154ページ)
新しい「層序学」(140頁~)
① 特定の岩層に含まれる化石に基づいて当時の生命と環境を復元していくには、その岩層が全体の積み重なりのなかで、すなわち地球の歴史のなかで、どの位置を占めるのかを知ることが重要であった。
② 当時、このようなゲオグノジーの知識はだんだんと増えていた。キュヴィエやブロンニャールだけでなく、イギリスの鉱物測量技師ウィリアム・スミスも、貝類のような普通の化石の実践的価値に気付いた。前者の二人がパリ盆地の地図作りを始める数年前から、スミスはイングランドとウェールズのゲオグノジー的地図(geognostic map) の制作を始めていたが、完成させて発表したのは前者の4年後となる1815年だった。そのため、どちらが先だったといえるのかをめぐる愛国的論争が繰り広げられてきたが、実際には18世紀のうちから先行者がいた(130頁第2段落参照)。
③ スミスの地図は前者よりもずっと広い範囲の、より多くの岩層を独力で調査したという点で巨大な達成であった。しかし、スミスの地図は(無知な現代の英雄伝説語りが言うようには)世界を変えなかったし、地質学の世界すら変えなかった。スミスの地図は、キュヴィエとブロンニャールの地図と同じく、ゲオグノジー的地図に留まっていたからである。スミスは「特徴的化石」を用いて三次元構造における岩層の「順序」を示したが、地球やイングランドの歴史を復元しようとはしなかった。実際、彼が名付けた「層序学(stratigraphy)」という学問名は、「地層(strata)」を単に記述するという意図を反映している。
④ 層序学は、19世紀初頭の多くの地質学者にとって最も主要な仕事となった。彼らの出版物で最もありふれていたのは、特定の地域における岩層の詳細な記述である。これはたいてい地質図を、さらにはしばしば断面図を伴っていて、この組み合わせは地殻の三次元構造を心の眼で見ることを可能にした。また、場所によって岩石の種類が違っていても、化石によって岩層を対応付けられることが認められた。しかし、それでもこれは層序学、あるいは化石によって豊かになったゲオグノジーに留まっていて、地球史の復元ではなかった。
⑤ 層序学の概要を示すものとして最も影響力があったのは、コニベア(1787–1856)が大部分を編集した『イングランドおよびウェールズの地質学概説』(1822)である。コニベアはハイエナの巣穴に入るバックランドの戯画(124頁)を描いた人物で、地球史を復元できる可能性によく気付いていた。しかし、コニベアの本は層序学的な目標に沿ったもので、スミスの業績に強く依拠して、岩層を上から下へと進む順番(地球の歴史とは逆)で石炭系まで記述した。この本によって、少なくとも二次岩層に関しては、どこの地質学者たちもブリテン島の地質を標準的な参照先とするようになった。
⑥ 次の20年間にわたって二次岩層の各部分に対する名付けが進み、一番上から順に「白亜系 Cretaceous」、「ジュラ系 Jurassic」、「三畳系 Triassic」(新赤色砂岩 New Red Sandstoneを含む)、「ペルム系 Permian」、「石炭系 Carboniferous」(最下部に旧赤色砂岩 Old Red Sandstoneを含む)と名付けられた。
⑦ これらの二次岩層は化石の出ない一次岩層の上に直接乗っていることもあったが、地域によっては粘板岩などの岩石の上にあり、この層をヴェルナーは一次岩層と二次岩層のあいだという意味で「漸移岩層 Transition」と呼んでいた。1830年代に特定の地域では漸移岩層からも多くの化石が出ることがわかり、ロンドンの地質学者ロデリック・マーチソン(1792–1871)が「シルル系 Silurian」を、ケンブリッジ大学のアダム・セジウィック(1785–1873)がその下の「カンブリア系 Cambrian」を名付けた。カンブリア系の化石は少なく、シルル系との明確な区別がつかなかったため、マーチソンとセジウィックのあいだで論争が起こり、ずっと後になってあいだに「オルドビス系 Ordovician」が挿入された。
⑧ 一方、「デヴォン系 Devonian」をめぐっては大論争が繰り広げられた。この論争が解決されたのは、ヨーロッパじゅうの地質学者たちが、旧赤色砂岩は例外的に他の地域のまったく異なった化石を伴うまったく異なった性質の岩層と同じ時代にできたということを認めたときであった。デヴォン系は石炭系とシルル系のあいだに挿入され、石炭系は以前より狭く定義されるようになった。
⑨ これらの命名は典型的な岩石の種類や地域に由来しており、層序学的(あるいはゲオグノジー的)な基準に基づいていた。それぞれは、特有の化石を含む特有の岩層のグループである「系」として知られるようになった。デヴォン紀大論争が落ち着くと、その構造上の順序が疑われることはなくなった。
地球の長期的な歴史を描く(144頁~)
① しかし間もなく、「系」を構成する岩層が堆積した時代、すなわち「紀」にも同じ名前が使われるようになった。それ自体としては非歴史的な層序学の実践が、地球史の復元のための枠組みを提供したのである。1836年にバックランドが地質学の成果を一般向けに要約したとき、彼の説明は過去20年間の国際的な層序学研究に基づいていた。
※ バックランド『自然神学との関連で考察された地質学と鉱物学』(1836年、ブリッジウォーター論集第6編)
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.222598/page/n3/mode/2up
② バックランドは、この新しい層序学によって地球の生命の歴史を描くことができた。現代に近い時代から見ていくと、洪積世は巨大な哺乳類の時代であるがその多くは現生種に似ているのに対して、第三紀の哺乳類はより遠ざかっていることがわかった。
③ 第二紀の大部分は爬虫類の時代であったこともいよいよ明らかになった。「イギリスのキュヴィエ」と称されたリチャード・オーウェン(1804–92)は、絶滅した爬虫類の一群に「恐竜類 dinosauria」と名付けた。
④ 同じジュラ紀の岩層には、非常に小さい哺乳類の化石も含まれていた。「原始的」な種類の哺乳類の発見は、四足動物の歴史が「進歩的」であるという感覚を強めた。
⑤ 第二紀のうち古い時期の石炭紀およびデヴォン紀の岩層からは爬虫類も四足動物も見つからず、魚類ばかりであった。スイスの若いナチュラリスト、ルイ・アガシ(1807–73)は、『魚類化石の研究』(1833–43)で魚類の化石を詳細に記述し、キュヴィエの業績を補完した。アガシは、石炭紀およびデヴォン紀の魚類の化石はどれも絶滅したか、少なくともその後希少になった種類だと主張した。シルル紀の岩層からは魚類の化石も見つからず、その時代の海には脊椎動物がいなかったという疑いが強まった。
⑥ 現生生物とははっきり異なる奇妙な形態をした三葉虫は、シルル紀やデヴォン紀の岩層に多く、石炭紀を経てペルム紀で途絶えていたので、それらの時代を特徴づける化石となった。
⑦ 脊椎動物と同じように、植物もまた代わる代わる現れていた。ブロンニャールの息子アドルフ(1801–76)は、アガシと同様にキュヴィエを模倣して『化石植物の[自然]史』(1828–37)を著した。最も古い植物化石は石炭の層に多く含まれていた隠花植物であった。第二紀のより新しい岩層になると裸子植物が現れ、第三紀になってようやく被子植物が現れていた。
【図6.5】
バックランド『自然神学との関連で考察された地質学と鉱物学』(1836年、ブリッジウォーター論集第6編)に描かれた、典型的な地殻の断面図。上から沖積層(Alluvium)、洪積層(Diluvium)、三次岩層、二次岩層、漸移岩層、一次岩層。それぞれの層に英語、フランス語、ドイツ語が併記されている。人間のいる「現代の世界」は沖積世によって表されているが、地球の歴史に比べて非常に短い期間にすぎないと認識されていたことがわかる。
【図6.6】
同じ本に描かれた、第二紀の動植物。多くがデ・ラ・ビーチの『太古のドーセット』(1830、139頁)にも描かれている。
【図6.7】
ブロンニャールの本に描かれた三葉虫。三葉虫は明らかに複雑な動物で、ラマルクの転成説あるいは進化論から予期される最初期の生命の形態とは大きく違っていた。
【図6.8】
アウグスト・ゴルトフスの『ドイツの化石』(1826–44)に描かれた石炭紀の森。植物は現生のシダ、トクサ、ヒカゲノカズラなどに近い隠花植物だが、背の高い樹木に成長している。葉の化石が幹につながった状態で見つかることは少ないため、どの葉がどの幹に対応しているのかがわからなかった。そこで、この絵は樹木の上部を描かずに、地面に落ちた葉を描いている。
ゆっくりと冷えていく地球(150頁~)
① 動植物の化石記録は明らかに直線的で定向的な歴史を示していた。どちらの歴史も「進歩的」で、だんだんと「高等」な種類が現れてくるものと解釈できた。この方向性はどのように理解すればいいのだろうか。
② ひとつの手掛かりは、早い時期の動植物の多くが熱帯性のように見えることであった。
③ アドルフ・ブロンニャールは数々のそのような証拠を、地球は白熱状態から徐々に冷えてきたという、物理学者のジョゼフ・フーリエと地質学者のルイ・コルディエが示唆していた考えに結びつけた。これは半世紀前にビュフォンが唱えていた説ではあるが、今度は暗黙のうちにタイムスケールがずっと大きくなり、ラプラスの星雲説に結びつけることができた。何より、フーリエによる最新の物理学と、コルディエによる鉱山の温度測定に裏付けられていた。この説では、化石記録があるところで途絶えている理由も説明することができた。
④ アドルフ・ブロンニャールはこの地球冷却説を拡張して、石炭紀に樹木のシダや巨大なトクサが栄えていたのは、かつての大気には光合成に必要な「炭酸」(二酸化炭素)が今よりずっと豊富に含まれていたからではないかと考えた。そして、この環境は逆に、十分な量の酸素を必要とする哺乳類のような「高等」な動物が現れるのを遅らせていたのではないかとも考えた。この見方では、固体地球や生命だけでなく、大気までが固有の悠久なる歴史をもつことになる。このようなスケールの大きい理論は、地質学者たちに地球をひとつの惑星として再考させることにつながった。これは19世紀の初め頃には、過度に思弁的であるか地質学の領域を逸脱するものとして一般的に拒絶されていたタイプの考え方であった。
⑤ 逆説的にも、だんだんと冷える地球というモデルは、地球史のまったく漸進的でない性質まで説明することができた。フランスの地質学者エリ・ド・ボーモンは、地球が冷えるにつれて地球の核が縮んでいき、それが時折特大の地震のような形で地殻をねじ曲げる激変を起こすのだと考えた。
⑥ 19世紀の半ばまでに、このような種類の地球史の復元はヨーロッパのほとんどの地質学者に採用され、ロシアや北米にも広がった。彼らは、地球が定向的な変化を経てきたこと、それがおそらくは地球の冷却によって引き起こされてきたことを認めていた。それに応じて、環境に適応した動植物たちが出現あるいは消滅し、「高等」な種類は「下等」な種類より後に現れてきたと考えられた。そして、おそらくは地球内部からの自然的な原因によって、時折の激変が起こってきたとみなされていた。しかし、このような地質学者たちの安らかな合意は、少なくとも三つの方向から妨げられることになる。これが次章のトピックである。
【図6.9】デ・ラ・ビーチの『理論地質学』(1834)の口絵。デ・ラ・ビーチは地球の歴史を、それがゆっくり冷えてきたという考えに基づいて解釈していた。
2023年5月6日
層序学から地球史へ Rudwick, Earth’s Deep History, Ch. 6 後半
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