2016年12月16日

ライエルを皮肉るデ・ラ・ビーチの風刺画 Rudwick, “Caricature as a Source for the History of Science: De la Beche’s Anti-Lyellian Sketches of 1831”

Martin J. S. Rudwick, “Caricature as a Source for the History of Science: De la Beche’s Anti-Lyellian Sketches of 1831,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。

 風刺画を分析することの重要性は歴史学一般では広く認められてきたが、科学史家たちは十分な注意を払ってこなかった。

 この論文で取り上げるのは、地質学者デ・ラ・ビーチ(1796–1855)が描いた、“Awful Changes” と題された風刺画(図1)である。この風刺画は、バックランドの地質学講義を題材にしていると思われてきた。しかしこの解釈では、バックランドの講義風景を描いた絵のなかにもこの絵が写り込んでいるという事実をうまく説明できない。そこでこの論文では、この絵はバックランドではなくライエルに対する風刺であるという解釈を示したい。

 この解釈の根拠となるのは、デ・ラ・ビーチが自身のノートに描きためていたいくつかのラフスケッチ的な風刺画である。前後に描かれたスケッチなどから判断して、これらはライエルの『地質学原理』第1巻の出版から1年以内に描かれたと考えられる。これらのラフスケッチは、“Awful Changes” を他の地質学者たちに回すまえに、予備的にさまざまなテーマを試していたものだと推測される。

 図3~5のラフスケッチはいずれも、ライエルと思われる人物が他人に色眼鏡や眼帯をつけさせるというテーマで描かれており、ライエルによる地質の観察は理論的前提によって歪められていることを示唆している。図6~7は、ライエルが定向主義的な気候変動の解釈に反対して、大陸の配置が極めて長い時間をかけて変化してきたと主張していたことに対する風刺となっている。図8も、ライエルが地質学的説明のために長大な年月を持ち出すことへの皮肉となっている。図9は、ライエルが沖積層だけでなく洪積層をも現在因だけで説明しようとすることを風刺している。図10は、ロンドンの地質学会の様子を風刺的に描いたものと推測されるが、どのキャラクターが誰に当たるのか、解釈が難しい。そして図12は、“Awful Changes” の下描きとなっている。

 このような一連のラフスケッチの中から登場してきた “Awful Changes” は、ライエルの提唱する地史が循環的なモデルであったことに対する風刺であると考えられる。

2016年12月10日

ライエルはなぜキングス・カレッジの教授を辞めたのか Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33”

Martin J. S. Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。

 ライエルは1831年4月に、28年創立のキングス・カレッジ・ロンドンの地質学教授に就任し、32年と33年の夏に地質学の講義をもったが、33年の10月に早くも辞職してしまった。従来の解釈では、ライエルの辞職は彼の意見が宗教的に異端であったためだと推測されてきた。また、ライエルはこの職を得るとき、自分の意見を正直に述べなかったのだともいわれてきた。

 この論文では、以上のような解釈はライエルの宗教的立場や社会的態度に関する疑わしい想定から生じていることを示唆する。ライエルの活動を「科学 対 宗教」という対立の観点から捉える見解は、宗教から分離され科学に導かれる社会の実現を目指した19世紀後半の論者たちによって生み出された。このような見解は、科学者と社会の関係をきわめて単純化している上、科学の活動を支えた物質的土台の問題や、科学者が自らの考えを広める際の社会的責任の問題を無視している。このような時代遅れのヒストリオグラフィーが放棄されれば、ライエルの活動に関して謎だと思われてきた事柄もすっきり理解することができる。

 ライエルがキングス・カレッジの教授に就こうとした背景には、聴衆を獲得する狙いや経済的な事情があったと考えられる。ライエルは最初セジウィックに接近し、ロンドンの主教でありキングス・カレッジの評議員でもあったブロムフィールドへの推薦を得た。台頭著しい地質学を組み込む必要性が認識されていたことや、有望な若い地質学者としてライエルの名前が既に知られていたこともあって、この推薦は受け入れられた。

 ブロムフィールドらは、科学的議論を妨げようとしていなかった。ただ、教職にある人間が組織の基盤を攻撃しないかを正当に心配していたのである。ランダフの主教であったコプルストンは、評議会のメンバーとしてライエルに(1)人類は地質学的に最近の時代に創造されたか、(2)それより後に全地球的な洪水があったか、という2点を確認した。ライエルは一つ目の点に対しては、種の個別創造なしで済ませるラマルクの仮説を『地質学原理』の続きで明確に批判するつもりであること、また最近の時代における人類の創造と矛盾する証拠はないことを説明した。二つ目の点に対しては、洪水が全地球を覆ったとは考えないが、人間が住んでいた地域が局地的な洪水に遭ったのだろうと答えた。コプルストンは返事で、一つ目の点に関しては満足したが、二つ目の点に関してはライエルの見解が大学の聴衆に与える影響を懸念していると伝えた。しかし、コプルストンは神学的にはリベラルな立場の人物であり、聖書直解主義を遺憾に思っていた。コプルストンはあくまで、科学的研究によってはっきりと確立される前に、早まって信仰を危機に陥れるような変化を聴衆に強制してしまうことに関して責任を感じていたのである。言い換えればコプルストンは、科学者がその権威を利用して、科学自体から厳密には推論できない結論を容易く引き出してしまえることを認識していたのである。人種や知性に関する現代の論争に置き換えて考えれば、このような危機意識は常識的である。

 コプルストンに対するライエルの返答は、ライエルの伝記作家によって不誠実だと非難された。しかし、ライエルがキングス・カレッジでの講義を反キリスト教的な議論に用いようとしたという証拠はない。バックランドの友人であり擁護者であったコニベアが、ライエルに対する留保を取り消すようにコプルストンに求めたことも、もしこの問題を地質学と創世記の対立として捉えれば不可解となる。結局、コプルストンは留保を撤回し、ライエルは正式に教授となった。

 しかし、ライエルは講義が始まる前から既に辞職を考え始めていた。ライエルが関心をもっていたのは主にお金と名声であり、教授としての仕事それ自体ではなかった。ライエルの講義は32年の5月に始まったが、初回の出席者は80名と、期待したよりも少なかった。初回の講義は大成功であったが、受講料を払ってそれ以降の講義に出席する人の数は少なく、ライエルは再び辞職を考え始めた。

 もともとキングス・カレッジでは女性も講義に出席できることになっており、ライエルは当初この方針に反対していた。だが、当時地質学は上流階級・中産階級の女性のあいだで人気があり、出席者のうちで女性が占める割合は高かったので、ライエルにとっては重要な収入源になった。しかしキングス・カレッジの評議会は、女性の参加はアカデミックでないという理由で、女性の出席を認めない方針に転換した。収入が減ってしまったライエルはこれに反発し、辞職の意向を固めた。後任には、ジョン・フィリップスが就いた。

 33年には、キングス・カレッジでの講義と同時期に王立研究所でも講義をもっていた。こちらは女性の出席も認められており、200名以上の出席者がいたが、受講料が安かったためにやはり収入は少なかった。

 ライエルは王立研究所の講義でも、聖書と真っ向から対立するような題材は扱わなかった。また、講義の時期に亡くなったキュヴィエについても、ライエルはその業績を称えている。

 ライエルのノートからは、各講義のために入念な準備をしていたことがわかる。ライエルが辞職したのは、講義のために必要となる時間に対して、得られる収入が割に合わないと感じたからであって、それゆえ『地質学原理』の新しい版が出て収入に目途がついた時点で辞職したのである。

2016年11月25日

動的分類系に関する早田文藏のドイツ語論文 Hayata, “Über das „Dynamische System” der Pflanzen”

Hayata Bunzô, “Über das „Dynamische System” der Pflanzen,” Berichte der Deutschen Botanischen Gesellschaft 49 (1931): 328–348.

1.序文
 この論文では、筆者が1921年の論文で発表した「動的分類系」を説明する。この分類系の基礎は、現在の分類学者たちが前提とするものとは本質的に異なっている。彼らが基礎とするのは、単一の最初の生物から無数の現生種が生じてきたと仮定し、その遺伝的つながりについて枝分かれ状の系統樹を想定するダーウィンの理論である。系統樹の構築は、現在の植物体系学において最も主要な目標となっている。それに対して筆者の仮定は、第一に祖先は現生種と同じくらい多数存在しているということであり、第二に祖先も子孫も互いに上下左右に網状の関係にあるということである。

2.植物の網状関係と跳躍的変化
 最初に、エングラーによる双子葉類の体系を概観してみよう。我々は、離弁花類に属する目を片側(たとえば左側)の列に並べ、合弁花類の目をもう一方の列に並べていく。左側の列のなかでも右側の列のなかでも、それぞれの目はお互いに確かな類似性を示しているのは確かである。しかし、冷静かつ中立的にこの体系をよく見ていると、左側の列にあるそれぞれの目が、同じ高さにある右側の列の目と密接な関係を示しているという思いがけない事実に気付くはずである。いわば織物の縦糸と横糸のように、双子葉類のさまざまな目は、鉛直方向だけでなく水平方向の関係も示しているのである。
 今度は、ディールスによるシダ植物門ウラボシ科の体系を見てみよう。ここでも、異なる分類群に分けられている属が、お互いに密接な関係を示している例を見つけることができる。クリスト(Konrad Hermann Heinrich Christ, 1833–1933)も、Nephrodiumのような形のシダがAlsophilaのような胞子嚢群をもっていたり、Alsophilaのような葉をした種がNephrodiumのような胞子嚢群をもっていたりすることを報告している。
 植物界のさまざまなグループのあいだの関係は、縦と横の両方に広がるという点で、メンデレーエフの周期表における化学元素間の関係を想起させる。もちろん、生物と非生物を比較することに対する批判はあるだろう。しかし、植物における近い属や目のあいだには一般的に、漸進的ではなく突然的・跳躍的な移行が見られる。この事実は、量子論によって説明されるような、化学結合において見出される関係によく似ている。こうした網状関係や段階的移行は、ダーウィンの理論によっては説明され得ない事実である。我々が見るのは漸進的変化ではなくむしろ偶然変異、系統樹的関係ではなくむしろ網状関係なのである。
 ここに挙げた事実を考えるためには、メンデルの法則に言及する必要があるだろう。それによると、種間の相違は因子(Gene)の関与の違いに由来する。2つの種を交配すれば、F1世代では雑種が得られるが、F2世代ではヘテロ接合体とホモ接合体に分離する。後者は、偶然変異の場合の例外を除いて、永続的で変わらない種のように見える。しかし、これらF2世代の個体はその由来についての特徴を何ら示さない。父方の種から生じたのか、母方の種から生じたのか、それとも直接に雑種から生じたのか、わからないのである。それゆえメンデルの法則が正しい限り、分類系の構築に際して必要とされる系統学的方法は欺瞞でしかない。体系学の基準は種の因子組成(因子型:Genotypus)でなければならない。言い換えれば、内的構成(innerer Bau)に関係する類似や相違が根拠でなければならない。たとえ、単一の祖先からいくつかの種が樹木状に枝分かれして生じたと考えても、その祖先自体がまた2つの祖先に由来しているヘテロ接合体である。木の根のように下っていくと、その祖先は、遠く離れた過去においてますます小さな根に裂かれていく。喩えるなら、体系学で採用される普通の系統樹は、地下の根系がなく地上の一つの幹といくつかの枝から成っているようなもので、そのような木は突風が吹けばひっくり返されてしまうに違いない。

3.動的分類系
 内的構成の類似と相違、言い換えれば因子の組成(Zusammensetzung)を植物の体系学に用いるならば、種の分類方法は多種多様であり得る。たとえば、白い花の因子をA、赤い花の因子をa、白い果実の因子をB、赤い果実の因子をb、白い種子の因子をC、赤い種子の因子をcとしたとき、他の因子を考慮に入れなければ、(1)ABC、(2)ABc、(3)Abc、(4)aBC、(5)abC、(6)AbC、(7)aBc、(8)abcという8つの種を分類する方法は3つある。花に注目して(1)(2)(3)(6)と(4)(5)(7)(8)という2つのグループに分ける方法、果実に注目して(1)(2)(4)(7)と(3)(5)(6)(8)に分ける方法、種子に注目して(1)(4)(5)(6)と(2)(3)(7)(8)に分ける方法である。
 筆者の意見では、自然分類とはこの3つの方法の統合であり、それによって完全な体系が得られる。筆者のこれまでの論文では、このようにして構築される分類系を「動的分類系」と呼んでいる。それに対して、これまでの体系学者たちが採用してきた分類系を「静的分類系」と呼んでいる。
 問題となる因子が限られており、それらの因子が3つ以下のグループに属し、[それぞれのグループ内で]因子が数学的に直線的な関係を築いている場合、自然分類は簡単な構造をとり、体系化は一つの方法だけで足りる。このような場合には、自然分類が静的分類系に似てくる。
 たとえば、3つの種の相違が花の色の因子に起因している場合、白い花の因子をa0、淡紅色の花の因子をa1、真っ赤な花の因子をa2とすると、色の度合の関係は直線上[x軸上]に表される(図1)。この場合には、このような静的分類系だけが可能である。
 次に、2つのグループの因子があり、それぞれのグループが3つの対立形質あるいは対立因子をもっている場合を考える。先ほどの例に登場した因子に加えて、白い果実の因子をb0、淡紅色の果実の因子をb1、真っ赤な果実の因子をb2とする。b0、b1、b2をy軸にとり、9つの種に関する平面上の静的分類系をつくることができる(図2)。
 さらに、3つ目のグループの因子としてc0、c1、c2を追加すると、これらをz軸にとって、27個の種に関する空間的な静的分類系をつくることができる(図3)。
 では、4つ目のグループの因子(d0、d1、d2)を追加した場合にはどうすればいいのか。aをx軸に、bをy軸に、cをz軸にとり、三次元の静的分類系をつくることはできるが、この場合dグループの因子が異なる3つの種が同じ点に集まることになる(図4)。同様に、a、b、dの組合せ、a、d、cの組合せ、d、b、cの組合せでも三次元の静的分類系をつくることができる(図5、6、7)。自然分類は、動的な感覚でこれら4つの静的分類系を総合することによって理解される。
 一般に、因子のグループの数をnとし、それぞれのグループにm個の因子が属しているとする。このとき、因子の異なる組合せの数はmのn乗となる。これらを一つの因子の有無で分けると、mのn-1乗個の組合せのグループが2つできる。因子a0に相当する形質をもっている種の数をs1、因子a0をもっていない種の数をt1とすると、m^n=s1+t1が成り立つ。同様に、因子b0についてはm^n=s2+t2の式が成り立つ。このような方法によるグループ化の仕方の数はm.nとなる。自然分類をNsとし、s1, s2, s3, … s(m.n)というグループ群をS、t1, t2, t3, … t(m.n)というグループ群をTとすると、Ns=(m.n×S)+(m.n×T)、またはNs=m.n×(S+T)という式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がm.n個のグループ群(S+T)で把握されるということを示している。また、+という記号も足し算を意味しているのではなく、グループ群Sとグループ群Tは一緒になってグループ化し直されるということを示している。
 すでに述べたように、因子のグループが4つ以上存在する場合には、そのうち3つのグループを選び出して空間的システムに整理することを繰り返し、それら全てを総合的に観ることで自然分類が表現される。3つの因子グループの選び方は、nC3=n/6(n-1)(n-2)通りであり、空間的に表現された部分システムをRsとすると、Ns=n/6(n-1)(n-2)×Rsという式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がn/6(n-1)(n-2)個の部分システムで把握されるということを示している。
 自然分類は動的な仕方でのみ把握できるという筆者の考えを目に見えるような形で表現するならば、図8のような装置で壁に映し出される投影像を想像してほしい。逆方向に回転する2枚の円盤によって映し出される像は動的分類系に相当する。一方、静的分類系は止まっている板の像に相当する。
 最後に、なぜ植物は網状の関係と段階的な相違を示すのかという問いに答えたい。

4.因子分配説(Partizipationstheorie)
 この理論は本来一つのものだが、便宜上、因子相互協力説(Kooprationstheorie)と因子相互分配説(Verteilungs- oder Anteiltheorie)の二つに分けることにする。Kooperationという言葉は、ある種を生みだす際における因子の共同作業を表現している。種や器官を形成するプロセスには、様々な因子が参加している[因子相互協力説]。一方で、異なる種や異なる器官にも、同一の種類(Arten)の因子が、異なる割合であれども関与している[因子相互分配説]。一方の面では、一つの種に対する様々な因子の関与を説く理論であり、もう一方の面では、同一の種類の因子に対する様々な種の関与を説く理論であるから、これを「因子分配説」と名付けたのである。ただし、筆者の理論における「因子」という概念は必ずしも遺伝学の因子概念と同じというわけではなく、より広い範囲の意味をもつ。
 詳細な説明に入る前に、正確ではないがわかりやすい視覚的な表現を示したい。普通の種概念では、種は一つの統一体として表現される。図9では、これを赤いボールや黄色いボールで表現した。しかし筆者の見解では、種は単一の統一体ではなく基本的な統一体のつながったもの(集合体)であり、単色のボールではなく、いくつかの異なるガラス玉の集まりのようなものである。図9の赤いボールは実は図10のような、赤いガラス玉が黄色いガラス玉に対して優勢であるようなガラス玉の集合体である。筆者は、それぞれの種はその本質的な要素においてはまったく同一であり、ただそれらの要素の割合と結合の種類が異なることによって区別されるのだと考えている。色のついたガラス玉、たとえば赤いガラス玉は減ることもあり、そのときはボールの見え方も変わってくる。構成要素が増えたり減ったりすれば、以前は異なっていた種が同じになったり、ある種から異なる新しい種が生じたりする。外観の違いは、構成要素の数量と割合や、それらの組成のされ方(Struktur)の違いに基づいている。構成要素の種類は基本的にすべての植物に共通であり、その意味においてすべての種は等しい。
 筆者の理論をより良く理解するために、読者には力の保存の法則を思い起こしてほしい。保存則によって、世界はその本質においては過去から未来まで同一である。見かけの現れだけが時と共に変化するのであって、本質においては世界には増加も減少もない。
 すべての個体は全体、すなわちこの世界と密接な関係にある。その関係の本質は、あらゆる方向へ向かう網の糸に似ている。これらの糸は、化学における親和力や物理学における引力や磁力とみなすことができる。部分を動かせば、必ず全体も動いてしまうのである。
 すべての個体および種は無数の因子、あるいはファクター(Faktoren)を中にもっている。一方では因子に由来する形質が現れるか潜在するかによって、また一方では支配的な因子の結合や分離によって、個体や種は様々な形態的な現れを示す。それゆえ、個体間の類似や種間の類似は、同一の種類の隠れた因子や支配的な因子の関与、および類似したグループ化に基づいている。
 さらに、因子は潜在状態から支配的状態に、もしくはその反対に移行することができる。個体に存在する全ての因子は、あるときには支配的であるがあるときには潜在している。また、状況に応じてその量や割合を変えることもあるかもしれない。個体や種は、このような因子の変化によって変化していく。しかし、新しい因子が創造されたり生み出されたりすることはないし、存在する因子が消滅することもない。今存在する因子は同一のまま、永遠の過去から無限の未来に至るまで存在し続ける。個体や種の現れは、非常に長い時のなかで変化していく。そうした変化は個体のなかで、あるいは別の個体との交配によって生じる。後者の場合、メンデルの法則に従うときもあれば従わないときもある。それでも、個体はその真の実在においては同一のままである。
 全ての個体や種は、普遍性と特殊性という二つの異なった観点から観察することができる。個体の普遍性は、同一の種類の因子がすべての個体に関与しているという事実から生じる。個体の特殊性は、見かけの現れの相違として現れるが、存在する因子の割合の相違や、因子の結合の相違に由来している。
 宇宙はいわば、無数のガラス玉を伴った果てしない網のようなものである。それぞれのガラス玉は、異なる色をもった網の目の上に存在している。それぞれのガラス玉は別のガラス玉の像を反射するので、観察者の位置に応じて異なった色合いを示すのである。しかしそれらは観察者の目に対する現れ方において異なっているだけであって、実際の存在においては全て常に同じ無色のガラス玉である。反射された無数の様々な色の像(観察者の位置によって見えるものも見えないものもある)を伴ったガラス玉のそれぞれはいわば個体あるいは種であり、各々のガラス玉の上に目に見える像はいわば筆者が語ってきたところの因子に相当する。
 ここまでで、個体もしくは種、および因子の、本質と現れについては分けて考察してきたが、しかし両者は一つにまとめてのみ考えられるのであって、互いに独立なものとしては理解できないというのが、筆者の理論の最も重要な点である。本質と現れは、決してお互いに別々に存在できるわけではない。実在のあるところには、そのために必然的に現れもある。本質と現れは結びついて一つになっている。一方は、もう一方なしでは理解され得ない。
 以上からわかるように、個体や種は単一の性質のものではなく様々な因子の様々な結合によって生じたものとみなされるという第一の理論は因子相互協力説と呼ばれる。そして、個体間や種間の特異性における類似は同一の種類の因子の関与に基づいているという第二の理論は因子相互分配説と呼ばれる。両方の理論が一緒になって因子分配説を形成する。
 因子分配説に従うと、全ての種類の植物は、祖先も子孫も、その本質においては同一である。そして、これだけ多くの異なった種類があるのは、種に含まれる因子が状況に調和するふさわしい一時的な現れと結合を示すためである。因子の割合の相違に基づく構造的(konstitutiv)な相違が、種の形態的な相違を示す。

【メモ】
因子分配説(英:the participation theory、独:die Partizipationstheorie)
因子相互協力説(英:the theory of the mutual participation of the gene、独:die Kooprationstheorie der Gene)
因子相互分配説(英;the theory of the mutual sharing of the gene、独:die Verteilungs- oder Anteiltheorie der Gene)

2016年11月2日

化石研究とジオグノシーの結合 Rudwick, Bursting the Limits of Time, Ch. 8

Martin J. S. Rudwick, Bursting the Limits of Time: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Revolution (Chicago: University of Chicago Press, 2005), pp. 417–469.

8章 地史に発展するジオグノシー

8.1 地球の「考古学」(1801–4)
キュヴィエのような化石の研究者たちは、地層に順序があるということを認識していないなど、ジオグノシー(geognosy)には疎かった。一方、ヴェルナーの追従者たちのジオグノシーは、地史を大理論から演繹するのではなく特定の地域の特定の岩石からボトムアップで研究するという新しい段階に突入していたが、こちらでは化石はあまり注目されなかった。屋内での化石標本研究と屋外での岩石累層の研究を結合したのは、地理的・社会的に分断された二つの新しい発展であった。第一の発展は、ゲッティンゲン大学のブルーメンバッハによる「考古学」の試みに始まる。ブルーメンバッハは、「知られているもの」「疑わしいもの」「知られていないもの」という化石の三区分を、三つの時代に対応するものとして読み替えた。ブルーメンバッハの学生であったシュロートハイムが、植物化石の研究でこの路線を引き継いだ。

8.2 地層の順序(1801–6)
第二の発展は英国で起こった。スミスは累層と化石の相関を発見した最初の人物ではないが、ある層に特有の化石という概念が極めて広い範囲の地域に通用すること、そしてそうした化石に基づいて累層を高い信頼性で区別できることを示した点で革新的であった。しかし、スミスはそれらの累層の形成を因果的に説明することにはあまり関心をもっていなかったし、ましてや歴史的な科学をつくっていたわけでもなかった。

8.3 地史のタイムスケール(1803–5)
1805年にキュヴィエは一般向けの講義を行い、その際に「地質学」の名称を採用した。キュヴィエの地質学にとって一つ目の脅威は、ナポレオンが教皇と和解したことによって宗教的伝統主義が再表面化したことであった。シャトーブリアンに代表される聖書直解主義は、長いタイムスケールを否定するものであった。二つ目の脅威は、ラマルクの定常モデルに代表される永遠主義であった。キュヴィエは講義のなかで、両者の中道を行く立場を主張した。

8.4 地史の新しい課題(1806–8)
「地質学」という言葉をド・リュックは地球理論(geotheory)の意味で用いていたが、この時期には、鉱物学的な記述の実践、自然地理学、ジオグノシー、地球物理学の因果的解釈、などといった領域の総合のようなものを意味するようになっていた。こうした変化は、キュヴィエの権威に裏打ちされていた。キュヴィエはまた、地史の9つの課題をリスト化して実りある研究の方向性を示した。また英国では、ロンドンに新しく創設された学会が「地質学会」と名付けられた。

キュヴィエの台頭 Rudwick, Bursting the Limits of Time, Ch. 7

Martin J. S. Rudwick, Bursting the Limits of Time: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Revolution (Chicago: University of Chicago Press, 2005), pp. 349–415.

7章 以前の世界に住んでいたものたち

7.1 学者界のマッシュルーム(1794–96)
ビュフォンやウィリアム・ハンターらが亡くなったことで化石骨の研究が停滞した1790年代に、キュヴィエは彗星のように現れた。特に、メガテリウムとマンモスについてのキュヴィエの2つの論文は文芸共和国じゅうで大評判となった。キュヴィエはこれらの化石骨の比較解剖学的研究を通して、「部分の相関」と「形質の従属」の法則や、それらが自然的類縁の決定を可能にすること、またこれらの化石骨が現生の種とは異なる絶滅した種であるということを主張した。キュヴィエは、現在の人間の世界と人間以前の世界をはっきり分ける二部構成的な地史モデルを採用した。

7.2 キュヴィエ、キャンペーンを開始する(1797)
すでに二部構成的地史モデルを提唱していた人物としてはドロミューやド・リュックがおり、キュヴィエは彼らからヒントを得ていたようである。1798年にキュヴィエは自然史学会で自身の研究プロジェクトを発表し、比較解剖学によって化石骨からその動物の姿や生活様式や生息環境を推測することができると主張した。だが反対意見も多かった。ラ・メトリは、化石と現生種の違いは、現生種のなかでの違い程度に過ぎないと論じた。フォジャは、化石の種はまだ見つかっていないだけでどこかで繁栄している(生きた化石)と主張した。

7.3 化石骨のナポレオン(1798–1800)
政治的混乱と戦争が続いたこの時代、ドロミューが英国に捕われるなど学術活動に対する影響はあったが、ヨーロッパの国々のあいだでの学者たちの交流は続いていた。キュヴィエは、学士院第一部の事務書記に就任したことでナポレオンを直接接触できる立場となり、影響力を強めた。キュヴィエは自説の証拠を増やすために、国際的なネットワークを形成して化石骨に関する情報の収集を強化した。

7.4 ラマルクの代案(1800–1802)
キュヴィエの議論に対する最大の異論は、年上の同僚であるラマルクによって唱えられた。ラマルクは、全ての生物は時の流れのなかで不可避的に変化するのであって、化石骨と現生種の違いは過去における絶滅の存在を意味しないと論じた。無生物から生物が自然に生まれるというラマルクの議論は、過去のどの時点においてもその時点に固有の特徴はないということを意味するため、地球や生命に関する真の意味での歴史の存在を否定するものであった。この立場はハットンに近い。一方キュヴィエは、ド・リュックやドロミューの考えを拡張し、以前の世界に住んでいた哺乳類は現生種とは明確に異なると主張することで、歴史の存在を示した。二人の真の対立点は、激変を認めるかどうかということよりも、むしろここにある。

7.5 化石の群れを増やす(1802–4)
ラマルクは現生種とは明確に異なる化石骨の証拠を次々と繰り出し、論敵であったフォジャを沈黙させた。以前、ド・リュックやドロミューは、以前の世界と現在の世界を分けた出来事とその年代の特定に注力したが、以前の世界が現在の世界とどのように異なるのかは曖昧なままだった。それとは対照的にキュヴィエは、以前の世界に住んでいた哺乳類たちを生き生きと描き出した。こうして、地球が歴史をもつことがはっきりしたのである。だが、そうした化石の動物相はまだ、地史のなかに統合されてはいなかった。

2016年10月28日

キュヴィエの化石研究を支えた国際的協力関係 Rudwick, “Researches on Fossil Bones”

Martin J. S. Rudwick, “Researches on Fossil Bones: Georges Cuvier and the Collecting of International Allies,” in The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution (Aldershot: Ashgate, 2004).

 パリの自然史博物館は、19世紀初頭の自然史研究において世界の中心地であった。この論文では、『四足動物の化石骨の研究』(1812)の完成に至るまでの頃のキュヴィエを例として、自然史博物館における日々の実践と国際的な交流がどのようなものであったかを分析する。

 キュヴィエはもともと現生の動物界の研究に邁進するつもりでいたが、自然史博物館の国際性が発揮された二つの出来事をきっかけに、化石の研究に集中するようになった。一つ目は、1789年にブエノスアイレスで発見された化石(キュヴィエはその動物を「メガテリウム」と名付けた)の版画がマドリードから送られてきたことであり、二つ目は、共和国軍がオランダで勝利して接収したコレクションのなかに、二つの異なるゾウの化石が含まれていたことだった。これらの化石の研究によってキュヴィエは、現世の種とは異なる絶滅した種が存在するという主張をするようになった。

 キュヴィエの研究は、ほとんどが屋内でなされていた。パリ盆地に関するブロンニャールとの共同研究でさえ、キュヴィエ自身はあまりフィールドワークに出かけなかったようである。

 動物学や植物学の場合と違って、化石は繁殖させることができず、それゆえに貴重であった。また、化石の複製を作る技術は十分発達しておらず、作ったとしても戦争中の状況では輸送のリスクが大きかった。その代わり、化石のスケッチは安全かつ安価に作り届けることができた。スケッチは、専門の画家が描く場合もあったが多くの場合ではナチュラリスト本人が描いていた。こうしたスケッチは、キュヴィエの国際的ネットワークにおいて通貨の役割を果たしていた。

 キュヴィエは1800年に、化石研究の国際的な協力を呼びかける声明を発表した。この声明を呼びかける前の時点では、キュヴィエにスケッチなどを送ってくれる情報提供者はパリの外には決して多くなかったが、声明の後には数が増え、地域的にも広がりを見せた。キュヴィエと情報提供者たちの関係は互恵的であり、彼らから送られてきたものがキュヴィエに多くの証拠を提供した一方で、情報提供者たちは広く行き渡ったキュヴィエの著作を通して名前を認知されることができた。

2016年10月23日

生気論と還元主義の間を行く目的論的機械論 Lenoir, The Strategy of Life, Preface & Introduction

Timothy Lenoir, The Strategy of Life: Teleology and Mechanics in 19th Century German Biology (Chicago: University of Chicago Press, 1982).

Preface

 本書が描き出すのは、19世紀初頭のドイツにおける、目的論的モデルと機械論的モデルの統合に基づくリサーチプログラムの発展の歴史である。ドイツの生物学における19世紀初頭は不毛な思弁的議論の時代であったとみなされがちであるが、本書ではその評価を覆したい。また同時に、目的論の支持者は生気論者であったとか、彼らは宗教的に動機付けられていたなどといった誤解を解きたい。目的論的な関係性は、生物の形態や機能の因果的機能を研究するための、思慮深い様式であった。

 本書の主題となる研究伝統は、諸生物の相互関係を説明する理論の構築も目標としており、フォン・ベーアらが型に制限された形での生物の発展モデルを築いた。フォン・ベーアは、哺乳類の卵子の発見などの業績だけが注目されがちであるが、生命科学に大胆なアイデアを提出し続けた人物であり、本書の主人公となる。

Introduction

 本書の主張は、19世紀前半のドイツにおける生物学の発展は、1790年代に打ち出されたアイデアとリサーチプログラムに導かれていたというものである。アイデアの明確な定式化はカントによってなされ、これがブルーメンバッハとその学生たちによって生物学に導入された。さらに、トレヴィラヌス、キールマイアー、メッケル、フォン・ベーア、ミュラー、ベルクマン、ロイカルトなどといった人物が続いた。こうした研究伝統は、これまで注目されてこなかった。それは第一に、目的論的説明とその発見的な効力を理解しようとする歴史家が少なかったためであり、第二に、ドイツの場合には生物学を発展させた推進力はロマン主義の自然哲学であると誤って考えられてきたためである。

 ダーウィンへの注目の強さも、ダーウィン以前における生物学のイメージを歪めてきた。ダーウィンは生物学の諸分野の統合に成功したが、その目標を達成するためのアプローチはそれ以外にも存在していた。だがイングランドにおけるダーウィンの同時代人たちの目的論は、宗教的な信念を擁護するものが主であり、ひどく貧弱であった。その一方、ドイツでは創造に依らない形での目的論が洗練されていたのだが、ダーウィンはそれを意識していなかった。そして歴史家も、ダーウィンの記述に追随してきてしまった。

 生物学の発展の歴史はしばしば、生命現象を物理学や化学の法則に還元することによる目的論の追放の過程として描かれてきた。だが、そのような理解は間違っている。生命現象を物理学や化学の法則に還元できないと考えることは、厳密に定量的な科学を行うことと矛盾しない。

 生物学における目的論は、生気論と還元主義の中間的な説明を提供するものであり、いくつかの形式に分類することができる。一つ目の立場(生気機械論)は、ニュートンの万有引力と類似した生命固有の力を想定するが、その力は生物を構成する物質の組織に依拠していると考える。これは生気論に比較的近い立場で、ブルーメンバッハやライルが採用した。二つ目の立場(機能主義)は、物理学的・化学的な力以外の力の存在を認めないが、特定の境界の内部では物理化学的な力の作用が秩序立てられると考える。この立場は、ベルナール、ベルクマン、ロイカルトらが採用した。以上の二つの立場と異なり、三つ目の立場は生命のない物質と生物体の二分法を認めず、宇宙全体が根本的に生物学的なのだと考える。物理学的な法則は、宇宙全体を司る生物学的法則(各部分は全体に従属する)が特定の制限下に置かれた場合に成立するものに過ぎない。このアリストテレス的な立場は、ヘーゲルによって採用された。

 19世紀の00年代にはドイツの生物学者たちは一つ目の立場を好んだが、40年代末までに二つ目の立場が有力となった。この移行は生理化学やエネルギー変換に関する理解の進展によるものであったが、その進展をもたらしたのは本書で論じる、カントに始まる目的論的機械論の研究伝統であった。


2016年10月10日

遺伝子概念の歴史と現在 Griffiths&Stotz, "Gene"

Paul E. Griffiths and Karola Stotz, “Gene,” in The Cambridge Companion to the Philosophy of Biology, eds. David L. Hull and Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2007).

第5章 遺伝子

 遺伝子という概念は、生物学の研究において様々な種類の需要に応えており、文脈によって多様に意味を変化させていることが指摘されている。それゆえ、遺伝子とは何か?という問いに答える唯一にして最良の方法は、この概念の多様性とその理由を描き出すことである。この章では、生命科学の需要に応じて遺伝子の概念が歴史的にどのように変化してきたかを描き出す。 

●    道具的遺伝子(pp. 85–87)

 遺伝学的研究の最初の30年間において、遺伝子は二重のアイデンティティをもっていた。
第一の観点[道具的遺伝子]からすると、遺伝子とはメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数であった。実際、初期のメンデル主義者たちは、メンデル的形質とその基である因子を区別していなかった(この区別は、1909年にヴィルヘルム・ヨハンセンが「表現型」と「遺伝子型」という術語を導入したことでようやく明確になった)。
 第二の観点[物質的遺伝子]からすると、遺伝子とは細胞の物質的な構成要素であって、それの親から子への伝達がメンデル的な遺伝パターンを因果的に説明するものであった。 
T・H・モーガンは1933年のノーベル賞受賞スピーチで、「遺伝学者のあいだでは、遺伝子とは何なのかということについて、言い換えれば、遺伝子は実在するのか純粋に想像上のものなのかということについて、コンセンサスはとれていない。なぜならば、遺伝学の実験のレベルにおいて、遺伝子が仮説上の単位であるか物質的な粒子であるかということは、まったく違いを生まないからである」と述べた。
 我々の見方では、遺伝子という概念はこれまでの歴史上、細胞学(のちには生化学)に基づく構造的概念[物質的遺伝子]と、生物のあいだ(のちにはDNA分子のあいだ)での交雑の結果に基づく機能的概念[道具的遺伝子]のあいだで弁証法的に揺れ動いてきた。

 古典遺伝学は単に遺伝の理論だけで構成されていたわけではなく、遺伝子解析という実験的な実践を伴っていたのだが、そのことによって遺伝子の概念には強い制約がかかっていた。
 一つの実例をみてみよう。遺伝学者のウィリアム・キャッスルがおこなったラットの交雑実験は、メンデル的因子の離散性や不変性に疑いを差し挟んだ。この実験では、対立遺伝子がほかの対立遺伝子によって「汚染」されているかのように見えたのである。この問題は結局、メンデル的な遺伝パターンに従う形質は単一の遺伝子によって決定されており、従わない形質は複数の遺伝子によって制御されているとみなすことで解決された[問題となったラットの変異は、複数の遺伝子が関与しているのだと解釈された]。
 同様にして、メンデル的な比率に従わない連続的な変異も、たくさんの仮説的な遺伝子が関与しているものとして理解された。
 道具的遺伝子は、定義からして、メンデル化の単位[あらゆる形質の遺伝を、メンデル的な遺伝パターンに従うように分解し、遺伝子解析を可能にする単位]なのである。 

●    物質的遺伝子(pp. 87–89)

 一方、モーガン学派は遺伝の染色体説を確立し、遺伝子は染色体上に一列に並んでいるものであると考えた。彼らは、メンデル的な遺伝パターンからの様々な逸脱(遺伝的連鎖など)を、染色体の動きという観点から説明することができた。しかし彼らの多くはこうした達成にもかかわらず、遺伝子の物質的な性質に関心をもたなかった。その理由は、一つにはそれが遺伝子解析で追究できる問題ではなかったからであり、もう一つにはそれは遺伝子解析にとって必要のない問題だったからである。

 だが、モーガンの弟子の一人であったH・J・マラーは、そのような道具的遺伝子の概念に満足しなかった。マラーはまず、遺伝子が果たしている機能から考えて、自己触媒作用ができること(自己の複製)、他の物質の化学反応においても触媒となること(表現型への寄与)、変異性をもつこと、の3つが遺伝子の条件であると考えた。マラーは遺伝子の物質的性質を研究するプログラムを立ち上げ、1927年にX線照射によって遺伝子の突然変異を誘発できることを発見し、これによって初めて遺伝子の物理的なサイズを推定した。
 マラーのアプローチは、遺伝子が表現型にもたらしている効果を無視している。表現型との関係は、かつては遺伝子の定義を成していたために疑問を投げかけることが不可能な性質であったが、こうして検証可能で否定もでき得る性質になったのである。

 さらに、戦間期にあらわれてきた生化学が、遺伝子の物質的性質を次第に解明した。この時期の生化学の中心的テーマは生物学的特異性であり、1930年代中頃以降には分子間の相互作用を立体配座の観点から理解しはじめていた。特異性の概念は、遺伝子とその産物の関係にも適用されるようになった。
 細胞の活動が分子の特異性によって説明されるのであれば、表現型に対する遺伝子の効果は特異性をもった生体分子によって媒介されると考えるのが自然である。こうして1941年には、「一遺伝子一酵素説」が誕生した。3年後には、オズワルド・エイヴリーが遺伝子はDNAでできていることを示した。
 1940年代には、物理学に習熟した科学者たちが生物学に流入してきたことで、研究アプローチに変化が起こった。このことが、1950年代から70年代における分子的な遺伝子概念の普及に道を開いた。 

●    遺伝子なしでやる?(pp. 90–91)

 遺伝学者リチャード・ゴールドシュミットが1940年代から50年代に引き起こした論争も、古典的な遺伝子概念について洞察を深めるための材料になる。
 当時モーガン学派によって、染色体上における遺伝子の相対的な位置の変化が表現型に変化をもたらす「位置効果」が知られるようになっていた。現代では「突然変異」を、染色体の塩基配列におけるあらゆる遺伝性の変化として定義するが、古典遺伝学では、表現型の遺伝的な違いとして現れる個々の遺伝子の内在的な性質の変化として定義していたので、位置効果は突然変異ではないとみなされた。ゴールドシュミットは、染色体のなかで遺伝子と対応するような構造的部分が区切られているという証拠はないのだから、突然変異と位置効果の違いは単に染色体の構造変化が小さいか大きいかの違いに過ぎないのではないかと論じた。
 またゴールドシュミットは、機能の単位に対応するような特有の構造的部分は染色体上に存在しないだろうと考え、遺伝子を否定した。つまり、物質的遺伝子は道具的遺伝子に対応しなければならないと考えた結果、遺伝子はないという結論に至ったのである。同時代の多くの学者たちは、彼の議論を受け入れなかった。彼らは、ゆくゆくは機能の単位に対応するような構造的部分が見つかるだろうと考えたのである。 

●    「新古典的」遺伝学と分子遺伝子(pp. 91–92)

 遺伝暗号が解読された1960年代初頭には、「古典的」遺伝子から「新古典的」遺伝子(古典的分子遺伝子ともいう)への大転換があった。新しい分子遺伝子の概念は、遺伝子が突然変異や遺伝的組換えの基礎的単位ではないことを認識した点において古典的遺伝子の概念と一線を画している。
 こうした変化は、染色体地図がより詳細になったことによって生まれた。たとえばシーモア・ベンザーは、1954年から61年にかけてのバクテリオファージを用いた研究で、同じ遺伝子のなかでの異なる突然変異の位置を特定したり、組換えが単一の遺伝子のなかでも起こることを示したりしたのである。これは、遺伝子を一体的で粒子的なものとみなす考え方に対して懐疑的であったゴールドシュミットの立場を裏付けるものであった。
 ベンザーは、組換えの単位をrecon、突然変異の単位をmuton、遺伝的機能の単位をcistronと呼んで区別した。しかし結局、reconとmutonは1塩基になってしまい、分子生物学ではcistronが遺伝子であると認識されるようになった。cistronからは単一のRNA鎖が転写され、一つのタンパク質に対応しているという点で、一遺伝子一酵素説の教義を裏付けていたからである。

●    古典的分子遺伝子概念に対する難問(pp. 93–97)

 1960年代には、タンパク質に翻訳されない機能性RNAをコードしている遺伝子があることがわかった。しかしこの問題は、分子遺伝子の定義を、特定のポリペプチド鎖に直接対応する塩基配列ではなく、特定の遺伝子産物の構造を決定する塩基配列とすることによって解決できる。古典的分子遺伝子の概念は、物質的遺伝子と道具的遺伝子を統合するものであるように思われた。
問題としては、コード領域と隣接しない調節領域は、コード領域とは別個のメンデル的因子であるにもかかわらず、分子遺伝子としては一つにまとめられてしまうということがあった。それでも古典的分子遺伝子の概念は、きわめて成功していたといえる。

 だが、1970年代からは別の問題が起こった。遺伝子のような役割を果たす塩基配列は、お互いに重なっている場合があることがわかったのである(ときには一方が他方のなかに完全に含まれている場合もある)。染色体の物理的構造とその産物の関係は、一対一ではなく多対多になっていた。結局のところ、最終的な遺伝子産物の構造には転写された塩基配列がそのまま反映されているわけではなく、転写後の様々なプロセスによって複雑な変更を受けている。たとえばトランススプライシングの過程では、独立に転写された複数のpre-mRNAが加工されて最終的なmRNAが完成しているのである。フレームシフトによる翻訳や、逆方向に読む翻訳が何らかの役割を果たしている場合もある。DNAと遺伝子産物の関係は、1960年代に考えられていたよりもずっと間接的なものに過ぎなかったのである。 

●    現代的遺伝子(pp. 97–99)

 我々は、「遺伝子とは何か?」という問いに関して、少なくとも3つの答えがあると考える。それは、伝統的遺伝子(道具的遺伝子)、ポストゲノム分子遺伝子、そして「唯名論的遺伝子」である。

●    伝統的遺伝子(p. 99)

 生物学者たちにとって、生物間やDNA分子間でのハイブリダイゼーションに基づく遺伝子解析は今でも重要な手法であり続けている。このような目的にとっては、遺伝子は表現型の遺伝パターンによって定義される媒介変数のままであって、物質的単位として定義しようとすることで生じる困難はひとまず無視することができる。 

●    ポストゲノム分子遺伝子(pp. 99–100)

 ポストゲノム分子遺伝子は、目標となる遺伝子産物分子の、DNAのなかに見出だせるイメージなのだが、このイメージは断片化されたり歪められたりしているため、機能的ゲノミクスが全過程を明らかにするまで識別できないと考える。この概念は、遺伝子と分子のあいだの直線的な対応関係という、それらを特定し操作しようとする生物学者にとって重要なものを守る点でメリットがある。物質的には一義的な定義を与えられなくても、目標となる分子の生産を支えるDNA要素を知ることの有用性は変わらないのである。

●    唯名論的遺伝子(pp. 100–101)

 遺伝子として注釈付けられ、それが科学者共同体によって受け入れられた配列が、遺伝子なのだと考えることができる。ただし、科学者共同体は必ずしも明確な判断基準をもっているわけではない。科学の現場において遺伝子は、典型的な遺伝子にどれだけ似ているか、言い換えれば、様々な「遺伝子っぽい」特徴(プロモーターをもっているか、機能的に多様すぎない転写をもっているか、など)をどれくらい備えているかという観点から判定されている。 

●    結論(pp. 101–102)

 遺伝子は、表現型から観察できるメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数として登場し、次に仮説上の物質的単位というアイデンティティも獲得した。両者間の弁証法は最終的に「新古典的遺伝子(古典的分子遺伝子)」の概念に行き着いた。しかしその後は研究の進展によって、遺伝子を適切かつ構造的に定義することは果たして可能なのかという疑いが持ち上がった。現在採用できるだろう遺伝子の捉え方としては、伝統的遺伝子、ポストゲノム分子遺伝子、唯名論的遺伝子の3つがある。


2016年9月27日

スコラ哲学における驚異 Daston&Park, Wonders and the Order of Nature, 第3章後半

Lorraine Daston and Katharine Park, Wonders and the Order of Nature, 1150–1750 (New York: Zone Books, 2001), pp. 120–133.


● 好奇心と異自然的(preternatural)なもの

 中世盛期におけるアリストテレスの注釈者たちは、自然の秩序についてどのような考え方をもっていたのだろうか? 議論の出発点となるのは、アリストテレスの『形而上学』における、「偶発的なものについての科学(スキエンティア、エピステーメー)は存在しない。というのも、すべての科学は、いつもそうであるものか、大部分においてそうであるものについてのものだからだ」という記述である。この記述に表れているように、アリストテレスもその注釈者たちも、決して破られることがない「法則(law)」が自然を支配しているとは考えていなかった。スコラ哲学者たちは「法則」という言葉を時折用いたが、それは「規則(rule)」という程度の意味であった。自然は何らかの標準形を目指しているが、たまには失敗して、6本指のような「偶発的な」産物を生むのだと考えられた。

 自然と奇跡の関係というテーマは、中世初期の哲学者たちにとっては、自然はすべて神の業による驚異であるというアウグスティヌスの考え方のために、大きな問題ではなかった。しかし12世紀初頭以降になると、バースのアデラードに代表されるラテン語の著者たちが、神の奇跡による介入を際立たせる自律的な自然の秩序という観念を発展させはじめる。たとえばトマス・アクィナスは、物理的出来事を3種類に分類した。1つ目は秩序に従う自然的な出来事であり、2つ目は6本指のような第二原因と偶然に基づく異自然的な出来事であり、3つ目は神によって直接的に(第二原因の介在なしで)実現される超自然的な出来事である。

 この区別には多くの問題があった。まず、自然的なものと異自然的なものの区別は難しかった。というのも、この境界は現象の珍しさによって決定されるが、珍しさは地理性の問題に依存していることが多かったからである(小人は西洋人にとっては異自然的な驚異だが、小人の土地では逆に西洋人こそが異自然的)。異自然的なものと超自然的なものの区別もやはり難しく、二つをまとめてしまった人たちもいた。アクィナスは、無知な人にとってのみ驚異的なのが異自然的なもので、全ての人にとって驚異的なのが超自然的なものなのだと説明した。

 学んだ人間と無知な人間の反応を比較するアクィナスの議論は、キリスト教の伝統における倫理的問題と関係している。アウグスティヌスは驚異の念を神の全能の前での謙虚さの適切な表現とみなす一方で、好奇心を色欲や高慢さに関係づけて酷評した。アウグスティヌスによれば、日食を予測する天文学者のような仕事は、創造に対して彼ら自身が驚異の念をもつことを阻む上に、人々が神に向けるべき驚異の念も天文学者が奪ってしまうという悪徳なのである。アウグスティヌスの議論は後世の著者たちに大きな影響を与えたため、アクィナスも因果的な知識を探究する学者として、異自然的なものや驚異の念に対するジレンマを抱えていた。この問題に対するアクィナスやアルベルトゥス・マグヌスの解決法は、好奇心と正しい探究を区別することであった。アクィナスの場合、好奇心は無目的なのに対して、篤学さ(studiousness)は知識それ自体への情熱であって価値があるのだと論じた。アルベルトゥスやアクィナスは驚異の力を認めつつも、アカデミックな哲学者としてそこから距離を置いたのである。14世紀には、驚異に関する記述は哲学的著者のテクストから概ね消失する。

 代表的な例外は、カタルーニャ人哲学者のラモン・リュイである。リュイの『驚異についての書』(1310)では、主人公フェリシュが世界を旅しながら自然現象の原因を学んでいく物語が描かれる。この作品は、後世に与えた影響は小さかったものの、自然哲学とアウグスティヌス的価値観、それにエリートの文学趣味を架橋した試みであった。


● 驚異を鎮める

 異自然的なものというカテゴリーは、観察者の経験や知識に依存するような不安定な基準によって定義されたため、雑多な現象の寄せ集めになってしまった。13~14世紀の哲学者たちは、自然的原因を追究することの重要性を認識する点では比較的一致していたが、具体的な原因に関してはそれぞれに異なる主張をしていたのである。この傾向は特に、アラビア語の哲学的文献が流入してきたことで強まった。

 アカデミックな著者の誰もが、手品師が巧みな手練によって錯覚を引き起こすことや、複数の自然的原因が組み合わさって偶発的な出来事を起こすことに言及した。また、天界が自然的物質に種的形相を与えることによって驚くべき性質を刻印することも一般的に認められており、磁鉄鉱の磁力やコバンザメの力強さなどが説明された。種的形相以外にも天界が特別な刻印をすることを論じる哲学者もおり、たとえばアルベルトゥスは、人間と動物の混血の誕生や、化石の存在などを説明するのにこれを用いていた。

 さらに、驚異の存在を人間や悪魔による直接的介入で説明する哲学者たちもいた。特に悪魔による説明はしばしば論争の火種となり、アクィナスは物質的な媒介なしで悪魔が影響を及ぼすことはできないと論じて反対した。ただし、このような個々の点での不一致はあったものの、大衆の迷信に反対するという点では、アリストテレスの注釈者たちのほとんどが一致していた。哲学者たちは驚異を原則的には自然的原因で説明し、神や悪魔の介入による説明は最小限にしようとしていた。

 しかし、自然的原因に基づく驚異の説明は、偶然的な効果や感知できない種的形相に依拠していたため、自然哲学の一部になることはできなかった。驚異の一般的なタイプについての説明はできても、個々の驚異の特性を説明する理論にはなっておらず、それらを知るには経験に頼るしかなかったからである。この問題は、哲学者たちが驚異を鎮める力に深刻な制約を課していた。それでも、アルベルトゥスやアクィナスといった中世盛期から後期のスコラ哲学者たちは、驚異を悪魔や超自然的なものではなく、自然的原因だけで説明しようとする点で一致していた。

 そうした試みのうちで最も包括的かつ体系的だったのが、フランスのシャルル5世の側近を務めたニコル・オレームの『驚異の原因』(1370)である。オレームはこの本で、占星術の体系全体を攻撃して種的形相の議論を拒否すると同時に、悪魔や神を持ち出す説明も拒否した。13世紀の先駆者たちと比較してオレームに特徴的だったのは、第一に自然的現象の多様性を強調したことであり、そうすることによってオレームは時折規則性から外れる驚異物が現れるのは驚くべきことではない(むしろほとんどの場合において破られない規則性のほうが驚きに値する)と論じた。第二に、オレームは人間が個々の驚異の原因を知り得る可能性についてやや楽観的であった。

 個々の出来事の原因について、より本格的な関心を抱いたのが同時代のイタリアにおける医学的な著者たちであった。彼らの貢献もあって、驚異の問題は自然哲学に統合されていくことになるのである。



2016年7月20日

新しいメンデル理解に関するメモ

山下孝介『メンデリズムの基礎――メンデルの<植物雑種に関する実験>ほか』裳華房、1972年。
Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.
L. A. Callender, “Gregor Mendel: An Opponent of Descent with Modification” History of Science 26 (1988): 41–75.
Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.


【1】メンデルに関する従来的理解

たとえば、平凡社『百科事典マイペディア』では、「メンデル」の項目は以下のように記述されている。

遺伝学の基礎を築いたオーストリアの生物学者。ブリュンの修道院の司祭や実科学校の代用 教員をするかたわら,修道院の庭でエンドウの遺伝を研究。遺伝現象の法則性と,形質を子孫に伝える遺伝物質の存在を明らかにした,いわゆるメンデルの法則を1865年に発表したが,その真価は1900年まで世に認められなかった。(1822-1884)

このように一般的な説では、メンデルは以下のような人物だったと考えられている。
・ エンドウの遺伝を研究した。
・ 「メンデルの法則」(優性の法則、分離の法則、独立の法則)を発表した。
・ 遺伝物質の存在を明らかにした。
・ 以上の業績によって遺伝学の基礎を築いた。
・ ただし、1900年までその業績は無視されていた(great neglect)。

しかしここ数十年のあいだに、こうした見方に意義を唱えたオルビー(1979)やカレンダー(1988)などの説が有力視されるようになった。現在のメンデル研究では、上の5点はどれも正しくないか、少なくとも適切とはいえないと考えるのが普通になっている。


【2】オルビー「非メンデル主義者・メンデル」(1979)

1.
メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのかコンスタントなのか? もしコンスタントならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。

2.
メンデルは、対立する形質のペアを決定するエレメント(あるいはファクター)のペアという観念をもっていなかった。Heimansが指摘したとおりで、メンデルは一つのエレメントが一つの形質に対応するという関係を想定していたわけではない。遺伝学における対立遺伝子に相当するような遺伝粒子は想定されていなかった。あくまで、エレメントの一つの種類と一つの形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。

・ メンデルは「生殖細胞の形成に際しては[中略]、相違のエレメントだけは相反する側へ分離される(it is only the differentiating ones which mutually separate themselves)」[山下訳では81頁] と書いている。もし本当にそうなら、同類のエレメントは受精のたびに増えてしまうわけで、これはメンデル遺伝学に反している。同類のエレメントのあいだでの分離を認めていなかったということは、メンデルは、限られた数の遺伝要素という観念をもっていなかったのである。

3.
メンデルの論文では受精についての細胞理論(cell theory of fertilization 花粉細胞の内容物が卵細胞と融合して接合子が形成される)が登場するが、メンデルはこれを、コンスタントな雑種と変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みとして用いていたのであって、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台として用いているわけではなかった[山下訳では80–81頁] 。

・ もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではない。


【3】カレンダー「グレゴール・メンデル――変化を伴う由来に対する反対者」(1988)

1.
通説に反して、メンデルは「分離の法則」を明確にしていない。

2.
通説に反して、メンデルは種の一般的固定性を受け入れていたが[山下訳では88頁?] 、限られた数の場合においてコンスタントな雑種の形成によって新種が生まれることを認めていた。

3.
通説に反して、メンデルがエンドウの後に行ったHieracium(ヤナギタンポポ属)の実験は、エンドウでの実験結果を確かめようとしたものではなかった。メンデルは実際には、コンスタントな雑種形態の存在を実証して、それらが新種の形成に果たす役割を示そうとしていた。

・ メンデルは「雑種の展開における根本的な差異は、種々の細胞エレメントの永久的または一時的な結合にあるとする試み」 [山下訳では82頁]と述べているように、変異する雑種では分離が起きるが、コンスタントな雑種では分離が起きないと考えていた。この区別こそがメンデルにとって重要だった。

4.
メンデルの思想は、洗練された形式の個別創造説であった。すなわち、マルサス的な生存闘争の概念と、リンネが提唱した個別創造説の修正版を組み合わせ、かつ創造主に対する言及を排除したものだった。これは、自然選択による変化を伴う由来としての進化の観念と対立する。

5.
Great Neglectは科学史家がつくりだしたものでしかない。メンデルは変化を伴う由来に対して反対していたし、ときどき他の論者の議論を間違って解釈していたので、当時真剣に議論されるほどの理論とはみなされなかったのである。


【4】ムーア「メンデルの業績の“再発見”」(2001)

メンデルの研究はなぜ発表当時注目されず、1900年以降になって重要な業績とみなされるようになったのか?

1.
メンデルの研究は当時の文脈において、革命的なものではなくむしろ典型的なものとして理解されていた。
・ メンデルの論文は、種形成や交雑に関する研究であって、遺伝についての研究ではなかった。
・ メンデルの論文は、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・ メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・ メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。

2.
メンデルの研究が有名になったのは、「再発見者」たちの先取権論争のせいである。
・ コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。



DNA言語学と情報理論的生命論 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第7章後半と結論

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 310–331.


● 存在論とアナロジーのあいだで : 生命の本のキメラ

【310-2】この議論はヤーコブソンを触発した。というのはこの議論が、生物学と言語学を結びつける特徴に焦点を当て、さらなる分野間研究を暗示していたからである。1969年9月には生物学の会議に参加し、「生命の言語と言語の生命」という講演で、言語それ自体が科学と人文学をつなぐくびきなのだと論じた。1970年の著書でも、言葉の暗号と遺伝暗号の同型性に基づいて、遺伝暗号は生物がもつ最古の言語なのだと指摘した。

【311-1】ヤーコブソンは、遺伝暗号のサブユニットは音素にたとえることができると考えた。情報を伝達する様々なシステムのうち、遺伝暗号と言葉の暗号だけが、意味を欠いた要素(音素)の使用に基づいているのだという。こうして音素という概念を脱音声化したことで、ヤーコブソンはアナロジーをさらに押し進めることができた。音素間関係が弁別的素性の二項対立に分解できるように、DNAの塩基配列でもAとT、GとCのペアが存在しているのだという。しかしここでは、弁別的素性と塩基は機能において異なっているという明白な問題が覆い隠されてしまった。

【312-1】ヤーコブソンは、言葉のメッセージと遺伝的メッセージのあいだには階層性の点でもアナロジーが成り立つと論じた。前者が字句単位から構文単位へ上っていくように、後者もコドンからシストロンやオペロンへ上っていくのである。句読点は、「隠喩的に」開始コドンや終止コドンに対応する。開始コドンが場所によって異なった意味をもつという新しい知見は、自然言語と同様に遺伝的メッセージも文脈依存性をもつことを示している。共直線性も、言葉と遺伝の言語で共通している。話者間でのコミュニケーションと違って遺伝暗号は一方向的に読まれているように思われるかもしれないが、フィードバック制御が対話的性質に対応しているのである。二つの情報システムのこうした共通の性質は、それぞれに安定性、種分化、無限の個性化をもたらしている。

【312-2】ヤーコブソンの考えでは、言語は人間性の普遍的な資質であるゆえに、こうした相同性は人間性にとって重要な意味をもっている。ヤーコブソンは、この同型性は単に類似した自然的制約に導かれた独立的発展なのか、それとも共通の現象の現れなのかと問い、後者の回答を好んでいた。こうしたアナロジーによって、遺伝暗号は宇宙原理とも言い得るような存在論的地位を得るようになった。

【313-1】一方ジャコブは、だんだんとこうしたアナロジーに対して慎重な姿勢をとるようになっていった。生物学は、元から存在する実在のものというよりも、あくまで生命のモデルや表現を扱っているのだとして、主張を弱めていったのである。1974年の記事では、生物学的な言語と社会的な言語の違いが大きいことを指摘して、ヤーコブソンに対して異議を唱えた。

【313-2】ジャコブは、プログラムや指示書や暗号といった言葉で遺伝を表現するのは、単に情報理論が台頭したこの時代特有の思想に過ぎないのか、それともより根本的な実在に根ざしているのかと考えた。その上で、言語には送り手と受け手がいるが、生物の遺伝にはそのような存在は見当たらないと指摘した。

【314-1】ジャコブによれば、共直線性や要素間の連結といった同型性も、二つのシステムの同一性を証拠付けるには不十分である。またジャコブは、言語学が遺伝的分析を手助けすることはあっても、遺伝学が言語学に貢献することはほぼ無いだろうと論じた。

【314-2】ジャコブは、生物学において説明のためのモデルが多くの役割を担ってきたことを認めつつ、しばしばそのモデルそのものをアイデンティティとみなしてしまう傾向があると指摘した。そして皮肉を込めてなのか、遺伝と言語の関係を掴みたいのであれば『易経』を研究すべきだと述べた。

● 遺伝暗号と『易経』 : 真面目な冗談?

【315-1】1969年頃、欧米で複数の人物が、完成された遺伝暗号と『易経』の類似性を指摘した。『易経』と遺伝的な「生命の本」は、どちらも4の3乗=64パターンで多様性を説明する。『易経』の爻には、1本につながった横棒の「陽」と、真ん中で2つに分断された横棒の「陰」があり、爻2本を重ねることで、組み合わせによって「太陽」「少陰」「少陽」「太陰」の四象となる。そして四象が3つ組み合わさることで、六十四卦が出来上がる[普通は八卦が2つ組み合わさったものと説明される?]。

【317-1】Gunther Stentは、遺伝暗号と易経の一致を驚くべきことだと述べた。Martin Schönbergerは、『易経』と「生命の本」の双方が普遍的な情報の流れを表現していると考え、共通の原理があるのではないかと推測した。

【318-1】モノーが『偶然と必然』で表現した世界観とは異なり、Schönbergerもヤーコブソンも、根本的な普遍性を見出そうとしていた。科学者たちはこうしたスピリチュアルな主張を見捨てることもできたであろうが、そうするとそれよりもずっと繋がりの弱いDNAと言語のアナロジーを保持したり存在論的に扱ったりすることは、ダブル・スタンダードに陥ってしまうのであった。

【318-2】このような存在論とアナロジーのあいだの緊張関係は、Françoise Bastideが提唱した「キメラ」の概念によって中和されるだろう。Bastideは、現代の生物学ではその対象が、自然に属する身体と文化に属する頭部のキメラのような存在として見られているのではないかと示唆する。「生命の本」も、自然と文化の産物であるキメラとして見られているのかもしれない。

【319-1】1950年代にサイバネティクスや情報的表現が言語学と分子生物学の両方に輸入されたことで、両者のあいだでアナロジーが駆り立てられた。そして両者が同時に脱物質化されたことで、言葉(DNA配列の情報)を自己組織化の起源、生命と進化の存在論的単位とみなさる可能性が出現したのである。この展望は1970年代に、コンピューター上で生命をシミュレーションしたマンフレート・アイゲンによって推進された。70年代には、ヤーコブソンの影響力が弱まるにつれて、チョムスキーのパラダイムに基づいてDNAの言語的性質が研究される傾向が強まったが、アナロジーから存在論への根拠の無い外挿だという批判は続いた。

● 言葉(世界)の進化

【319-2】アイゲンは1960年代初頭から生命科学に参入し、60年代末までには情報としての生命の起源を探るリサーチプログラムを打ち立てていた。物質の自己組織化、分子進化、DNA言語の始まりなどといった事柄を、情報ベースのゲーム理論として再構成された、ネオ・ダーウィニズムの進化に基づくアルゴリズムで研究しようとしていた。

【321-1】アイゲンは、生命の起源において核酸とタンパク質のどちらが先にあったのかという問題に囚われる必要はないと論じた。核酸とタンパク質の相互作用(ハイパーサイクル)から、動的で機能的な特性である意味論が生じたのである。アイゲンによれば、特定の条件下ではハイパーサイクルによって自己組織化、選択、進化といった機能的組織化が実現し、やがては環境を変えられるようになって前提条件を常に保つことになる。

【321-2】アイゲンは、このゲームにランダム性を導入していた。突然変異は、適切に選択されれば新たな情報の源となるのである。

【322-1】アイゲンがこのゲームで明らかにしたのは、ダーウィン的な選択は特定の前提条件の達成によって実現され、その前提条件はシステムの複雑性が一定程度まで達すれば不変になるということである。こうしてアイゲンは、特定の条件を維持しつつ自己進化する分子システムの可能性を示した。

【322-2】立法権を提供する核酸と、行政権を提供するタンパク質の組み合わせによって、自己増殖するハイパーサイクルが生まれ、選択が繰り返されるようになる。生命情報の誕生はまぐれというよりも、むしろ不可避的な出来事だったのである。

【323-1】70年代中頃までに、情報理論的分子ダーウィニズムは言語学的な様相も帯びるようになる。構造主義からチョムスキーのパラダイムへの移行とともに、多くの分子生物学者が新しいパラダイムのもとで遺伝的言語を探究するようになった。

【323-2】アイゲンは、生命は言葉なのか行為なのかという問題を避け、生命は両方であるはずだと考えた。立法権をもつ核酸と、行政権をもつタンパク質のあいだでのコミュニケーションというモデルにおいて、意味論はタンパク質のほうに割り振られた。

【324-1】しかし、DNAの統語論とタンパク質の意味論というアイゲンの区別は根付かなかった。必要とされたのはむしろ、遺伝の意味を探ることのほうであり、その必要性はヒトゲノム配列を解読する機運が生じたことで高まった。

【324-2】DNA言語学は科学的なムーブメントにまではならなかったが、分子生物学の一分野となった。ヤーコブソンやジャコブに触発されたJulio Collado-Videsはこの分野の擁護者として名前を挙げることができる。

【324-3】「生命の本」というキメラは、矛盾や不調和を内包しつつも、生権力の探求、ゲノムの支配、言葉のコントロールにおいて主要な象徴物となった。


結論

【326-1】読まれ編集されるのを待っている「生命の本」に書かれた情報というイメージは、科学的な生産性と文化的な推進力をもっていた。ゲノムの配列を決定しようという試みは、遺伝子、構造、機能のあいだに直線的な一致があるという見方に基づいている。しかし実際の関係には、可塑性、文脈依存性、偶然性があり、実際に現在、いくつもの研究室が複数の遺伝子や環境のネットワークを重視する方向性に向かいつつある。

【326-2】人間の病気に関しても関わっている遺伝子が一つだけというものは少ないということもあり、遺伝子治療が成功を収めるのはまだまだ先のことだろう。

【327-1】ヒトゲノム計画は、情報時代の生権力の展望だといえる。ゲノム的生権力は、身体や人口のコントロールといったものを越えて、言葉あるいはDNA配列のコントロールを通して、生命をコントロールするのである。

【327-2以降(本全体の要約)】ゲノムをテキスト的なもの、言語的なものとして捉える言説は1940年代末から現れ、50年代と60年代の遺伝暗号解読研究を通して発展した。それまでの生命科学において主要なテーマであった「特異性」は、新しい「情報」というテーマによって取って代わられた。もし遺伝暗号の問題が30年代に研究されていたら、その表現のされ方は大きく異なるものになっていたであろう。以上のことは、第二次世界大戦や冷戦の影響を受けた当時の科学文化の軍事的性質と密接に関係している。ジョージ・ガモフをはじめとするRNAタイクラブのメンバー(物理学者が中心であった)は、遺伝暗号解読の第一期(1953–61)に軍事的な暗号解読の手法を生命科学に持ち込み、問題の枠組みを規定した。彼らのアプローチは、タンパク質の合成過程をブラック・ボックスとみなし、DNAという入力とタンパク質という出力だけに基づいてその関係を探ろうとするものであった。こうした「情報」の言説は、50年代末にジャック・モノーやフランソワ・ジャコブといったパストゥール研究所の人々が酵素合成の遺伝的制御をサイバネティクス的な通信システムとして捉えた際にも重要な役割を果たした。彼らの研究によって、遺伝暗号の問題に対する生化学的な(分子遺伝学的でない)アプローチの道が拓かれた。マーシャル・ニーレンバーグとハインリッヒ・マタイがpoly-Uの合成RNAを用いてポリフェニルアラニンをつくったことが突破口となり、遺伝暗号解読は第二期(1961–67)に突入する。セベロ・オチョアらも加わり熾烈な解読競争が繰り広げられた末にコドン表が完成したが、第二期の研究もやはり第一期の概念的・言説的枠組みに導かれていた。DNAを普遍言語とみなす思想はこの頃までに広まっており、言語学者のロマーン・ヤーコブソンはDNA言語学を推進し、生物物理学者のマンフレート・アイゲンは情報を生命、進化、自然選択の存在論的単位とみなすに至った。

2016年7月8日

遺伝暗号解読、突破の局面 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第6章中盤

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 256–277.


● 「情報高分子」:文字、言葉、ナンセンス

【256-1】暗号解読問題が袋小路を突破したことで、それをめぐる競争は激しくなり、ニーレンバーグは少なくとも6つほどの他のグループと競合することになった。特に1961年の夏に、20人ほどの研究者を擁するセベロ・オチョアの研究室が全力で解読問題に取り組むと発表したことは、ニーレンバーグを動揺させた。オチョアは、ちょうど2年前にRNAの酵素合成研究でノーベル賞を受賞しており、NIHのグループと競合する必要はないように思われた。しかし、実はオチョアらもこれまでにタンパク質合成の研究を進めていたのであり、ニーレンバーグとマタイの報告を聞く前に、彼らと同様の実験を計画していたようである。

【257-1】オチョアはスペインの出身で、1929年にマドリード大学で医学の学位をとったあと、カイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・マイヤーホフのもとでポスドクとして生化学の研究をした。その後はマドリード大学で講師を務めたが、スペイン内戦が勃発したため、ドイツ、英国を経て米国に落ち着いた。1942年からはニューヨーク大学の医学部に移り、1954年には学科長に就任した。オチョアの研究は1960年頃まで、伝統的な代謝生化学の枠組みに収まっており、遺伝学的な概念や情報伝達のモデルとは無縁であった。

【259-1】1954年、パリからオチョアの研究室に来ていた生化学者Grunberg-Managoが、4種類の塩基のうち1種類しか含まないRNAのような産物を試験管内で生み出す酵素を特定した。ポリヌクレオチドホスホリラーゼと命名されたこの酵素は、生体内においてはRNAの合成に関わらないことが判明したが、生化学にとって重要な道具となった。

【259-2】オチョアは(少なくとも回想的には)、この酵素が遺伝暗号問題解決のための鍵だったと考えた。メッセンジャーRNAという新しい概念は、無細胞系で合成ポリヌクレオチド(人工的に合成されたヌクレオチド)をメッセンジャーとして使うことで遺伝暗号解読につなげる実験の可能性を示唆していたが、研究に取り掛かった頃にニーレンバーグに先を越された。

【260-1】1961年の10月、オチョアはLengyel、Speyerと共著で「合成ポリヌクレオチドとアミノ酸暗号」と題してシリーズ化された論文の第一弾を米国科学アカデミー紀要(PNAS)に投稿した。この論文では、ニーレンバーグとマタイの研究結果を確認した上で、大腸菌のトランスファーRNAを追加することでフェニルアラニンがタンパク質により多く取り込まれることが示された。この事実は、合成ポリヌクレオチドとメッセンジャーRNAは交換可能であることの保証になった。 さらにオチョアのグループは、(poly-Uの場合はフェニルアラニンだけが取り込まれるのに対して)poly-UCのようなポリヌクレオチドはフェニルアラニン、セリン、ロイシンを、poly-UAはフェニルアラニンとチロシンを、ポリペプチドに取り込むことを示した(図33)。

【260-2】オチョアらはライバルの存在を強く意識しており、論文は先取権を強調する調子で書かれていた。論文の注釈には、poly-UGやpoly-UACによって取り込まれるアミノ酸の種類が挙げられ、その結果は次の論文で報告することまでが予告されていた。

【261-1】3週間後に発表された第二弾では、poly-UC、poly-UA、poly-UG、poly-UAC、poly-UCG、poly-UAG(もちろん、これらを構成するヌクレオチドの順番はわかっておらず、ただ組成だけがわかっている)によって取り込まれるアミノ酸の種類が報告された。これらの結果によって、オチョアらは11種類のアミノ酸について、それぞれに対応する3文字の構成(順番まではわからない)を示した。たとえばシステインは「2U 1G」、ヒスチジンは「1U 1A 1C」、といった具合である(図34)。

【262-1】NIHでは、Gordon TomkinsやLeon Heppelのグループもニーレンバーグに協力し、団結して24時間体制での研究が進められていた。ニーレンバーグらの論文はオチョアらに3日遅れて1962年[1961年では?]11月24日に投稿されたが、オチョアらの論文に比べてずっと厳密な検証がなされていた。

【262-2】成果をより早く発表するために、12月4日にニーレンバーグのグループは[研究成果の迅速な普及を目標とする]Biochemical and Biophysical Research Communications誌に「遺伝暗号のリボヌクレオチド組成」と題した論文を投稿し、15のアミノ酸に対応する「遺伝暗号」を報告した(図35)。ここで彼らは他の人々と同様、このイディオムに固有の言語学的スリップに巻き込まれてしまう。「遺伝暗号」とは、アミノ酸によるタンパク質の暗号なのか、塩基によるDNA(RNA)の暗号なのか、両者の相関関係としての暗号なのか?

【262-3】この論文は、言説的・認識的転回において注目すべきものであり、生化学的表象から聖書的表象への移行を示している。ニーレンバーグたちは、ヌクレオチドを「遺伝暗号の文字」として、アミノ酸を「暗号の言葉」として再定義した。彼らはさらに、「暗号は理論的に仮定されたトリプレットで成り立っているのか」という未解決の問題の解決に乗り出した。

【263-1】ニーレンバーグたちは、シングレットとダブレットの可能性を否定し、トリプレットもしくはそれ以上であると考えた。彼らの用いる用語は、生化学で生まれたものではなく、Henry QuastlerやRNAタイクラブによって50年代に分子生物学に持ち込まれたものであった。

【263-2】明らかに、1961年の秋にニーレンバーグは、暗号に対する理論的アプローチの文献を読んでいる。特に先述の論文では、イチャスが1958年に発表した「タンパク質のテクスト」という記事が参照されている。この記事では、ヌクレオチドの配列がテクストを暗号化しているという見方や、イチャスやガモフ、クリックが検討していた暗号が説明されていた。

【264-1】こうした聖書的表象は、ニーレンバーグにとって単に修辞的な見せかけの役割を果たしたのではなく、実験の実践を形づくる概念的構造を形成していた。このことは、1961年秋におけるニーレンバーグの日誌からよくわかる。

【265-1】12月20日までに、オチョアのグループはニーレンバーグのグループにほとんど追いついた。対応する暗号が不明なままのアミノ酸はアラニン、アスパラギン酸、アスパラギン、グルタミン酸、グルタミン、メチオニンの6種類に絞られた。またこの日、「米国の研究者たちによって『遺伝暗号』が部分的に破られた」と題された記事がニューヨーク・タイムズに掲載された。この記事の掲載以降、遺伝暗号に関する報道が相次ぐようになった。

【266-1】12月30日には、クリック、Leslie Barnett、シドニー・ブレナー、R. J. Watts-Tobinによる「タンパク質の遺伝暗号の一般的性質」という記事がNature誌に掲載された。これは、バクテリオファージT4システムのrII領域にあるB遺伝子の研究を押し進めたものであった[177ページ参照]。

【266-2】この記事でクリックらは、遺伝暗号は3つ組の塩基の集まりであること、暗号は重複しないこと(図36)、塩基配列は定められた開始地点から読まれること(特別な「コンマ」は無い)、暗号は「縮退」するということ、を主張した。

【266-3】暗号の重複がないことは、タバコモザイクウイルスの亜硝酸変異体に関する次田晧とフレンケル=コンラートの研究によって示された。重複3つ組コードの場合であれば1塩基の置換で3つのアミノ酸が変化するはずだが、亜硝酸で処理した際に1つのアミノ酸しか変化しなかったのである。暗号が重複しないならばどのように正しい3つ組を選んでいるのかという問題について、クリックはかつてコンマフリーの暗号を考案したが、今や定まった開始地点があるというイチャスの古い解決法に戻ってきていた。

【267-1】クリックらは、どうして以上のような結論に至ったのか。彼らは、シーモア・ベンザーがつくったrII領域の遺伝子マッピングを活用した実験を行っていた。アクリジンで処理したバクテリオファージ(FC O変異体)は、塩基が一つ減って(もしくは一つ増えて)おり、大腸菌K株のもとでは生息できない(大腸菌B株のもとでは生息できる)。しかし、べつの「抑制」変異を起こせば、野生型のようにK株でもB株でも生息できるようになる。しかし抑制変異だけを起こした抑制変異体は、K株のもとで生息できない。つまり、もしFC O変異が塩基の欠失(-)であるとすれば、抑制変異は塩基の挿入(+)である(もしくはその逆である)。しかし、2つの-(もしくは2つの+)が揃った変異体はK株で生息できない。

【267-2】クリックのグループは、この遺伝子領域における約80の独立した変異体を用いた。それはすべて、FC O変異の抑制変異か、抑制変異の抑制変異か、抑制変異の抑制変異の抑制変異であった。複雑な遺伝的組換えの手法を用いて、クリックらは3つの-(もしくは3つの+)が揃った変異体をつくり、その遺伝子が機能していることを示した。このことからクリックらは、塩基の挿入もしくは欠失が「読み枠」の移動を引き起こしていると推論し、暗号は3つ組だと結論づけられたのである(図37)。

【268-1】クリックらの記事は、ニーレンバーグとマタイによる発見や、その後のニーレンバーグのグループやオチョアのグループによる研究をほとんど無視していた。クリックらケンブリッジ大学のグループをはじめとして分子遺伝学者たちは、生化学者たちによる符号化問題の乗っ取りに苛立っていた。彼らは生化学に触れずに、言い換えればブラックボックスを開けることなく、演繹的推論の力によって暗号を破ろうとしていた。これは、40年代にデルブリュックのファージグループから始まった文化だといえる。

【269-1】ニーレンバーグのグループやオチョアのグループが暗号を切り崩しはじめたことは、理論的な論文群に騒動を巻き起こした。NIHのRichard V. Eckは、重複コードのアイデアを蘇らせようとした。

【270-1】ニーレンバーグの相談にも乗っていたリボソームの専門家、リチャード・ロバーツは、すべての「言葉」に共通するウラシルを捨てることでトリプレットはダブレットにできると主張した。

【270-2】ゼネラル・エレクトリックの研究所に居たカール・ウーズは、わかっている事実の全てを包含する理論を築けるはずだと考え、縮退する暗号の枠組みを提唱した。

【270-3】ニーレンバーグは、どの暗号もウラシルを含んでいるという謎に向き合っていた。ニーレンバーグの新しい実験では、ウラシルを含まない暗号が発見された。しかし、ほとんど全てのアミノ酸が2つだけの塩基を含むポリヌクレオチドによって合成されたため、ロバーツの議論を支持することになった。

【271-1】1962年末にクリックはノーベル賞を受賞した。クリックは「遺伝暗号について」と題した受賞講演を行い、暗号単位における塩基の順序や、暗号単位のサイズ(トリプレットかダブレットか)、暗号を「読む」様式、暗号の普遍性、などの残された問題について論じた。クリックは、このときもなお暗号解読の指揮を執っていた。

【271-2】クリックは、「符号化問題における最近の興奮」と題したレビューで、暗号単位に「コドン」という名前をつけた(この言葉は実際にはブレナーがつくったようだ)。

【272-1】クリックは、ニーレンバーグとマタイの発見が符号化問題に対する生化学的アプローチに革命を起こしたことを認めたが、それでもニーレンバーグらやオチョアらの研究に対して批判的であった。クリックは理論的な仕事が暗号プロジェクトにとって不可欠だと考えていたが、悪い理論化が多いことを悲しんでいた。

【272-2】未解決とはいえ、符号化問題とその聖書的・情報的表象はタンパク質合成研究の概念的枠組みと物質的実践を再設定していた。生化学と分子生物学は、どちらも情報科学の分野とみなされるようになるにつれて、両者のあいだで融合が進んだ。ノーベル賞受賞者の生理学者セント=ジェルジ・アルベルトを祝うシンポジウムにおいて、オチョアはRNA合成の研究を情報の言葉で再構成した(3年前にはそれを代謝生化学のパラダイムのもとで進めていた)。

【273-1】シンポジウムでは、続けて生物物理学者John R. Plattが「遺伝情報の本のモデル――細胞と組織における伝達」と題した報告を行い、聖書的なアナロジーをさらに押し進めた。「生命の本」という隠喩は、生化学的な写本、印刷されたマニュアル、電子的なテクストを同時に想像させるものであった。

【274-1】生化学者たちが情報言説に移行したことは、1962年秋に225人の生命科学者が集まった「情報高分子についてのシンポジウム」でも目立っていた。かつて生化学と他の生命諸科学をつなげる主題であった化学的特異性は、情報伝達によって取って代わられた。

【274-2】生化学者であり生化学史家でもあるJoseph Frutonは、情報理論のメタファーが重要な発見を刺激してきたことを認めつつも、生化学における情報理論の重要性には疑問を呈してきた。だが、情報言説は分子生物学の原理のまわりに生化学を再構成したのである。

【275-1】同様に重要な言説的転回は、1962年末に開催された、生物学における情報についての国際会議にあらわれていた。この会議の目的は、情報に関わる生物学の様々な分野の研究者たちを一堂に集めることだとされていた。情報言説は、多様な解釈を許容する形式でモデルを生み出す隠喩として機能し、他の生命科学や社会科学の分野とコミュニティをつなげる役割を果たしていた。

【275-2】ニューヨーク・タイムズは、関連する研究成果を追いかけ解釈することによって、このような文化的つながりのなかで重要な機能を果たしていた。1962年1月の記事では、生物学が原子爆弾・水素爆弾よりもずっと重要な革命のときを迎えていると論じた。同時に、その知識が誤った形で用いられたときの危険性についても警鐘を鳴らした。

【276-1】ニューヨーク・タイムズはべつの記事において、遺伝暗号の研究が驚くべき速さで進んでいることに注目し、遺伝の秘密は今年中に解かれるだろうと書いた。またべつの記事では、遺伝暗号はすべての生物に普遍的であると書いた。

【276-2】普遍性が本当であれば、遺伝暗号は物理学の特権であった自然の普遍法則になる。そしてそれは、微生物で得られた研究成果が人間にも適用されることを意味する。だが、コドンの配列を決定し暗号の単位がトリプレットであることを生化学的に確かめるには、まだ時間が必要であった。2年間の静けさのあと、1963年から67年にかけて、Har Gobind Khoranaによって開発されたトリヌクレオチド合成法と、Lederとニーレンバーグによって考案された、トリヌクレオチドをリボソームに結合させる方法によって、辞書が決定されることになる。さらに、ブレナーらによってナンセンスコドンの終止コドンとしての機能が見つけられ、ニーレンバーグが暗号の普遍性を示すのである。

2016年6月6日

モノーとジャコブ、オペロン説への道程 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第5章前半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 193–214.


第5章 パストゥール人脈 : 酵素的サイバネティクス、情報提供遺伝子、メッセンジャーRNA

【193-1】1961年、コールド・スプリング・ハーバーでのシンポジウムでシドニー・ブレナーは、タンパク質合成と遺伝暗号の問題について、DNAが暗号の形式で情報を運び、塩基の特定の配列がアミノ酸配列を決定するという概観を示した。この指定がどのようになされるのかが、当時この分野における最大の問題となっていた。

【193-2】ブレナーが説明したように、この問題へのアプローチは大まかに二種類あった。一つは、生化学的機構を無視してタンパク質合成をブラックボックスとみなすアプローチであった。既知のアミノ酸配列から暗号を推論する方法や、ウイルスのRNAにおける突然変異生成を利用する方法などが試みられていた。

【194-1】もう一つは、タンパク質合成と酵素反応の生化学的機構を、その経路を追跡したり遮断したりして調査するアプローチであった。このアプローチは伝統的な生化学に依拠していたが、遺伝学的な道具立てや暗号理論も寄与していた。ハーバード大学のジェームズ・ワトソンらによるRNAの研究や、パストゥール研究所のジャック・モノーとフランソワ・ジャコブらによるオペロンの研究などがその代表例である。符号化問題は、第一のアプローチでは顕在的であり、第二のアプローチでは潜在的であった。

【194-2】二つのアプローチは1950年代の末までに合流した。交易圏(trading zone)のなかに共通した目標をもつ共同体を形成しており、物質的・言説的・社会的実践は重なっていた。分子遺伝学の対象やメカニズムについての表象は、今やますます情報言説のなかで構成されるようになった。情報の比喩が、生化学と分子生物学を結びつけていた。

【195-1】パストゥール研究所のグループは、分子生物学のディシプリンとしてのアイデンティティや制度的な形態を形作る上で主要な役割を果たし、情報言説の表現空間において一際目立つ場所となった。酵素合成を研究したモノーの研究室と、ジャコブがファージや細菌の遺伝学的研究を行っていたアンドレ・ルヴォフの研究室は、タンパク質合成の問題を解くためのいくつかの鍵を提供した。また彼らは、酵素誘導をサイバネティクスのモデルによって、ファージの複製を情報の流れという比喩によって説明したことで、分子生物学の言語的ソフトウェアに寄与した。

【195-2】本章では、パストゥール研究所における情報言説への移行を扱う。まず、酵素合成についての説明が、ラマルク的・目的論的な「酵素適応」から、ダーウィン的で偶然に基づく「酵素誘導」にパラダイムシフトしたことを論じる。次に、PaJaMa実験において遺伝学的な説明・実験と生化学的な説明・実験が融合したことを論じる。こうした研究では、酵素合成においては遺伝的なコントロールが一体的な調節システムのなかで作用することを示した。RNAの役割に関する発見が相次ぐ中で、パストゥール・チームはメッセンジャーRNAというアイデアに導かれた。最後に、メッセンジャーRNAが概念として改良され、また実験的に特定されたという、遺伝暗号研究史上のターニングポイントを論じる。

【195-3】続けて、新しい生命記号論が果たした役割を評価したい。情報言説は、パストゥール研究所でも解釈の枠組みを提供した。だがそれが初めて採用されたのは、PaJaMa実験が終わった1958年の夏のことであった。ジャコブとモノーは、このときから情報理論の比喩やサイバネティクスと電子工学のモデルを用いるようになった。

【196-1】1953年から58年までの間、モノーの任務は分子生物学から目的論的説明の痕跡を除去することだったのだが、彼はPaJaMa実験の解釈に基づいて実質的に立場を変更した。目標指向の負のフィードバックによるシステムというサイバネティクスのモデルは、「テレオノミー」という新しい生物学的概念を通じて認められた目的論(テレオロジー)を正当化した(生物の環境に対する無制限の適応を説明する目的論は、すでに存在する有限の遺伝的情報の作用によって適応を説明するテレオノミーに置き換えられた)。「情報伝達」の比喩は、構造遺伝子と調節遺伝子の違いを描写する上で鍵となる理解を提供した。こうした様々な発見や解釈は1960年に定式化されたオペロンモデルによって統合されたが、このモデルも調節する負のフィードバックにおける情報の流れという観点から概念化されていた。

【196-2】PaJaMa実験の結果はまた、細胞質に「メッセンジャー」が存在することを示唆していたため、研究者たちは競ってこれを捕らえようとした。最終的には1961年に、カリフォルニア工科大学のジャコブ、ブレナー、マシュー・メセルソンのチームと、ワトソンの研究室におけるフランソワ・グロスらのチームが、それぞれにメッセンジャーRNAを特定した。ここでも、メッセンジャーが情報言説によって意味づけられている。メッセンジャーはその形態によって特定の化学作用を指定するのである。情報は化学的特異性と細胞記憶の双方に対する提喩であり、形態と物質の交換における通貨であり、遺伝型の潜在状態と表現型の顕在状態をつないでいた。

【197-1】それゆえ、生命を細胞機構のサイバネティクスとして説明したモノー『偶然と必然』(1970)や、分子遺伝学的メカニズムをサイバネティクス的な通信と情報伝達のシステムとして再構成したジャコブ『生命の論理』(1976)は、かつての科学的経験の事後的な再構築ではなかったのである。こうした比喩やイメージやモデルは、実際に科学の現場において科学的想像力を支えていた。そしてその想像力は、共有された科学的経験、同時代の技術文化、そしてそれらの意味化の体制によって形作られていた。

● 目的因を追い払う

【197-2】DNAの構造が解明された1953年は、酵素適応から酵素誘導へのパラダイムシフトが起こった年であり、モノーがパストゥール研究所で細胞生化学部門の長になった年でもあった。こうした変化が、この後の数年間におけるパストゥール研究所での分子生物学の物質的・言説的・社会的次元を形作っていく。

【197-3】二重らせん論文の半年前に、モノーとその共同研究者たちは「酵素形成の術語」と題したノートをNature誌に掲載した。これは、酵素適応から酵素誘導へのパラダイムシフトに対応して、使用する術語の変更を提案するものであった。

【198-1】微生物の酵素的性質が培地によって変化するということ、つまり微生物が様々な環境に適応できるということは20世紀初頭からよく知られていた。1930年代中頃には、細菌酵素は特定の培地のときだけ形成される適応酵素と、培地によらずに形成される構成酵素に分けられた。1940年代初頭までには、新しい酵素活性が培地からの化学的刺激、もしくは遺伝的変異体の漸進的選択によって現れることが知られていた。1940年代末までには、酵素生合成における制御メカニズムの二重性(遺伝的・化学的)が重要な問題となっていた。

【199-1】モノーが1947年に発表したレビュー「酵素適応の現象とその遺伝的・細胞的分化の問題に対する意義」が示すように、この現象が重要であったのはそれが細胞質遺伝をめぐる論争と生物学的特異性の問題において中心的な位置を占めるからであった。当時、特異性は生命研究における統一的テーマであり、生命は複雑で、流動的で、偶然的要素を含むものだと考えられていた。このタンパク質パラダイムにおいて、酵素適応は遺伝子作用と抗体形成を支配するパターンに固有の分子的特異性のメカニズムを調査するための実験的ツールを提供していた。パストゥール研究所の科学文化も、このタンパク質パラダイムによって規定されていた。

【199-2】1950年にモノーは、細菌の培養状態を生理学的に一定に保つ技術を開発したが、同年にレオ・シラードとアーロン・ノーヴィクもよく似た技術(ケモスタット)を開発していた。この一致は、彼らが同じパラダイムや同じ実験システムによる要請を共有していたことから生じている。

【200-1】実際、モノーとシラードのあいだには深い交流があった。

【201-1】モノーは1953年までMel Cohnと共同研究をしていた。二人はこの年に大腸菌の酵素合成について包括的なレビューを書いたが、そこでは負のフィードバックという考え方はまだ登場しておらず、正のコントロールという観点からの概念化がなされていた。また彼らは、酵素誘導の力は酵素の誘導物質に対する作用とは関係がないことを立証した。ラクトースに似ているが異なっており代謝できない砂糖を含む培地で細菌を育てたところ、それらの細菌がβ-ガラクトシダーゼを生産するという現象が見つかったのである。

【201-2】モノーにとって、これらの発見は進化における進歩を強調するフランスのネオ・ラマルキズムに対する攻撃であり、生命の目的論的説明に対する挑戦を意味した。フランスでは生命力や目的因による説明が根強く残っていたが、モノーはこうした傾向を科学の発展の妨げだと考え、偶然を生物学的説明において中心的なものとして擁護しようとしていた。

【202-1】それゆえ1953年のレビューは、もちろん細菌の無益な適応というパラドックスに対する反応だったのだが、それだけではなく、目的論やルイセンコ主義に対する挑戦でもあった。モノーらは、適応という言葉がミスリーディングなのだと論じた。

【202-2】「酵素適応」を「酵素誘導」に置き換えたことで、生物学思想に根本的なゲシュタルト変換が起こった。ここから始まる5年間によって最終的に、生物は環境に影響されない情報プログラムとして表現されるようになるのである。皮肉なことに、この新しい表現は目的論をテレオノミーとして再活用する必要があった。

【202-3】この1953年には、モノー自身のリサーチプログラムを中心として組織された、細胞生化学部門がパストゥール研究所に誕生した。この出来事は、分野間の壁を越えてフランスの生物学を活性化しようというモノーの考えの反映でもあり、パストゥール研究所における生化学の現代化でもあった。モノーは、遺伝学者たちとの交流を通じて遺伝学にも深い理解をもっていた。

【203-1】モノーの現代的(あるいはアメリカ的)なやり方は、世界中から資金を調達してくるところにも表れていた。モノーは1950年代中頃から、政府が基礎研究に大きく投資する、米国をモデルとした現代化政策を推進していた。モノーの構想では、彼の細胞生化学部門は4つのグループに分かれるものの、同じ大腸菌を共通の手法で研究することによって協調していけると考えられていた。

【204-1】モノーはナチス占領下のフランスでレジスタンス活動を行ったり、一時期はフランス共産党に入っていたりした人物であり、政治に対して積極的であった。

【204-2】米国ではマッカーシズムの台頭もあったため、共産党に加入していたフランスの科学者が米国からの支援を受けるのには困難があった。1952年にモノーは米国からビザの発行を拒否されたため、Science誌上で米国の政策を批判した。

【205-1】さらには、Bulletin of Atomic Scientists誌上でローゼンバーグ裁判を痛烈に批判していた。

【205-2】国務省もロックフェラー財団も、モノーのこうした政治的活動をよく思っていなかった。1954年にコロンビア大学のジェサップ講義に招待されビザが発行されたときも、彼は要注意人物だとみなされていた。モノーは活動的生と観想的生を区別しきらない人物であり、フランスの生物学を再構築しようという熱意も、ド・ゴール政権下の時代にいっそう強まった。

【205-3】1953年から57年にかけて、モノーは微生物学者George Cohenと共同で、β-ガラクトシダーゼをもっているのにラクトースを利用できないという大腸菌の変異体(cryptics)を分析した。cryptics を含むLac-の変異体はジョシュア・レーダーバーグによって1948年以降に単離された。モノーは生理学の方面から、レーダーバーグは遺伝学の方面からこれを研究していた。

【206-1】モノーとCohenの研究によって、細胞膜を通してラクトースを集める物質(β-ガラクトシド透過酵素と呼ばれることになる)の存在が突き止められた。Crypticsはこの透過酵素をもっていなかったのである。さらにモノーとCohenは、β-ガラクトシダーゼに関して構成的である系統はβ-ガラクトシド透過酵素(パーミアーゼ)に関しても構成的であることを見出し、両方の酵素が遺伝的に関係していると推測した。

【206-2】1957年までにモノーの研究室は、変異体をy、z、iの3タイプに分類した。Cohenとモノーはこの分類から、透過酵素が外界と細胞内をつなぐ役割を果たしていると論じる。そして、透過酵素は細胞内酵素の機能だけでなく、結局は誘導された合成自体をコントロールしているのだという。

★ モノーらによる変異体の分類
y+  ラクトースの存在下で透過酵素を合成できる。
y-  ラクトースの存在下で透過酵素を合成できない。
z+  ラクトースの存在下でβ-ガラクトシダーゼを合成できる。
z-  ラクトースの存在下でβ-ガラクトシダーゼを合成できない。
i+  ラクトースが存在するときのみ、透過酵素やβ-ガラクトシダーゼを合成できる(誘導的)。
i-  ラクトースが存在しなくとも、透過酵素やβ-ガラクトシダーゼを合成できる(構成的)。

★ 補足 : ラクトースオペロンの構成要素(現代的説明)
lacY ・・・ β-ガラクトシド透過酵素をコードしている。
lacZ ・・・ β-ガラクトシダーゼをコードしている。
lacI ・・・ 常にリプレッサーを合成している。リプレッサーはオペレーターに結合してlacYやlacZの発現を抑制する。ラクトースがリプレッサーに結合すると、オペレーターに結合しなくなる。

【207-1】つまり、これらは意思決定をする合理的なシステムなのである。これらの制御メカニズムとそのつながりを理解することが、パストゥールグループの次の目標となった。この後の2年間でPaJaMa実験によって、バクテリオファージ遺伝学の技術と、負のフィードバックのモデルが合流し、こうした細胞のメカニズムをサイバネティクス的・情報的なシステムとして表現することになる。

● 情報、サイバネティクス、そして目的論の再発明

【207-2】透過酵素とβ-ガラクトシダーゼの合成における遺伝的コントロールの中心性が確実になるにつれ、酵素誘導の遺伝的分析の必要性も増してきたため、1956年にモノーはジャコブとの共同研究を開始した。当時、ジャコブが所属していたアンドレ・ルヴォフの研究室は、デルブリュックらのファージ研究ネットワーク(「ファージ教会」とあだ名された)とのヨーロッパにおける接触点になっており、細菌遺伝学の重要拠点であった。

【207-3】ジャコブはもともとパリ大学で医学を勉強していたが、大戦中に自由フランス軍に参加してアフリカやノルマンディーに従軍した。その後ルヴォフのもとで溶原菌(※1)の研究を行い、細菌がプロファージ(※2)の活動を阻害するメカニズムをもっていることを明らかにした。ジャコブは1954年頃までにエリ・ウォルマン(Élie Wollman)との共同研究を開始し、細菌の遺伝物質とプロファージの関係を解明しようとしていた。

【208-1】ジャコブとウォルマンは細菌の接合(※3)に関わる遺伝学的手法を発展させ、“オス”の溶原菌の染色体が接合によって“メス”の非溶原菌に入り込むとファージを発現させて溶菌を起こし得ることを示した(※4)。さらに1955年には、ミキサーを使って様々なタイミングで接合中の細菌を引き剥がすという手法によって、供与菌の遺伝子が受容菌に決まった順序で挿入されていることを確認した(※5)。これは俗に「スパゲッティ」実験とか「膣外射精」実験として知られることになった。

【209-1】ジャコブとウォルマンはこの実験手法を用いて、接合誘発(※6)のメカニズムを探った。さらにこの二人は、メスが接合後しばらくのあいだ二つの染色体断片を保持しており、一時的に二倍体の状態になっていることを示した。そして1957年に、酵素生合成の研究をしていたカリフォルニア大学バークレー校のアーサー・パーディーがモノーの研究室にやって来た。

【210-1】パーディーはこの頃まで、モノーやジャコブのグループと似た方向性で研究を行ってきていたが、彼らの仕事の速さにはついていけていなかった。

【211-1】パーディーは一般的な議論を構築したり、研究を効果的に宣伝したりすることには長けていなかった。たとえば、彼はハーバード大学のEdwin Umbargerと同様に負の酵素的フィードバックの現象を発見していたが、Umbargerがそれを機械の自動制御に喩えて注目を集めたのに対して、パーディーは単に「阻害」という従来通りの言葉を使って済ませてしまっていた。だがパーディーには、実験家としての高い能力があった。

【211-2】パーディーとモノーの研究室ではアプローチに違いもあったが、パーディーはすぐにそれを乗り越えてパストゥール研究所の生化学的方法を改良するまでに至った。これは異なる理論的コミットメントや物質的文化の間での交換がなされた交易圏の非常に良い例である。1957年の12月に、パーディー、ジャコブ、モノーはラクトースシステムの遺伝的コントロールを調査する一連の実験(PaJaMa実験)に乗り出した。それは、モノーによって分離された大腸菌を様々な組合せで接合させることで、遺伝子の位置や機能を調べてゲノム地図を作ろうとする一つの実験システムであった。こうして実験空間は再構成され、ゲノム地図の観点による酵素的機能の表現という新しい要素が加わった。

【212-1】2ヶ月以内に、ラクトースシステムの三つの主要な特徴がわかった。第一に、β-ガラクトシダーゼは遺伝子が細菌に入って2, 3分以内に最大速度で合成されることから、この合成は1時間以上を要する遺伝的組換え(※7)の結果ではなく、遺伝子から細胞質への直接的な化学的シグナルの結果だと考えられる。第二に、i遺伝子はy遺伝子やz遺伝子とは分かれている。第三に、意外にもi遺伝子の誘導性は構成性に対して遺伝的に優性である。このことは、構成性が正のコントロールによるものだというモノーとCohnの以前の仮説を覆すものであった。

【212-2】すべてのことが、酵素誘導に負のコントロールメカニズムがあることを示唆していた。つまり、i遺伝子は酵素生合成を阻害する何らかの物質を合成していたのである。

【213-1】1958年1月末にレオ・シラードがパストゥール研究所を訪れたことも「リプレッサー仮説」に有利に働いた。

【213-2】シラードはリプレッサー分子の存在に賛成し、それが何かしらの方法でβ-ガラクトシダーゼや透過酵素の合成を妨害しているのだと考えた。パーディーが1958年の7月にバークレー校に戻る前に、彼らの発見は短い報告の形で雑誌に掲載された。そして1959年により長い記事が載るときまでに、その発見はずっと大きな一般性や重要性を帯びるようになっていた。それは、ファージによる接合誘発のメカニズムと、細菌の酵素誘導のメカニズムとのあいだに、アナロジーが成り立つというジャコブの直感のためであった。

《注》
※1 「溶原菌」:ファージに感染したが溶菌せず、ファージのゲノムを自らの染色体に埋め込まれた状態になっている細菌のこと。
※2 「プロファージ」:溶原菌の染色体に埋め込まれているファージゲノムのこと。
※3 「接合」:ある細菌が別の細菌に自らの染色体の一部を送り込む現象。
※4 大腸菌には、接合に際してDNAの供与菌になるものと受容菌になるものがあり、前者がオス、後者がメスと呼ばれる。オスはF因子(性決定因子)と呼ばれるDNA断片をもっており、メスはもっていない。F因子は接合の際にメスに受け渡されるので、このときメスはオスになる。
※5 大腸菌の接合には90分ほどの時間がかかるので、タイミングを変えて接合を中断させることができる。
※6 「接合誘発」:接合によってオスのプロファージがメスに伝達されたとき、メスのなかでファージが発現、増殖して溶菌する現象。
※7 「遺伝的組換え」:細菌の場合、供与菌由来のDNA断片が受容菌の染色体の一部と組換わる現象を指す。

2016年4月30日

ガモフらによる初期の遺伝暗号解読研究 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第4章前半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 128–150.


第4章 聖書学的テクノロジー:1950年代における遺伝暗号

● ブラックチェンバー(黒い部屋):重複コードの台頭と衰退

【128-1】1950年代の遺伝暗号理論研究についての科学者たちの一般的な評価は、よくて「素朴で楽観的」、悪いと「不正確で無益」だったというものである。だが本章では、暗号研究者の広いネットワークや冷戦時代の文化的・軍事的文脈のなかに位置づけることで、この時期の研究の重要性を詳説する。特にフランシス・クリックの研究をこうした文脈に位置づけることで、遺伝暗号研究の歴史について従来とは異なる記述をしていく。これまでのクリック中心の物語では、他の人々の業績、特にロシア系移民の物理学者ジョージ・ガモフの業績が軽視されてきた。

【128-2】ガモフは、軍事に関係した戦後の物理学文化を遺伝と生命の表象に持ち込んだ。ガモフ自身による分子生物学研究は一時的なものであったが、遺伝暗号という想像上の対象を構成する強力な比喩的表現と言説的ソフトフェアを提供した。ガモフは、ウィーナー、シャノン、フォン・ノイマン、Henry Quastlerといった人々の研究を受け継ぎ、遺伝を暗号文による情報転送のプロセスとして想像した。

【129-1】すぐに、武器設計やオペレーションズ・リサーチ、暗号学に携わってきたような著名な物理学者、生物物理学者、物理化学者、数学者、通信エンジニア、コンピュータ分析者などが暗号解読研究に参加してきた。5年間のあいだに、ガモフらは情報理論、言語学、暗号学といった通信科学の比喩を持ち込んだのである。遺伝暗号解読者の一人であるカール・ウーズ(三ドメイン説で知られる)は、1961~67年におけるこの分野の劇的な進歩は、それ以前に築かれていた概念的枠組みのおかげだったと回想している。

【129-2】さらにこの頃、分子生物学に自らを情報科学として再設定させ、対象を電子的通信システムの観点から表現させる、知と権力の結合体が形成された。物理学的な課題、言語、態度、そして物理学者の名前を借用したことで、生物学はその性質や目標を再構成することになった。本章では、情報理論、暗号解析、言語学という三つの言説のあいだで平衡を保つ  聖書学的テクノロジーによって、古い遺伝的特異性の問題が再構成された過程を示す。

ダイヤモンド・コード


【131-1】元来ガモフは物理学者であるが、1940年代には生物学の分野で活発な活動を見せた。1946年の理論生物学ワシントン会議「生体の物理学」(p. 106)を組織したのもガモフである。DNAの二重らせん構造が発表された1953年の春までに、ガモフの科学啓蒙書『生命の国のトムキンス』は広く知られていた。

【131-2】ガモフはワトソンとクリックの論文を読んだあと、すぐに二人に手紙を書いた。その手紙には、4つの塩基にそれぞれ1、2、3、4の番号を割り振るとすれば、生物の各個体を長大な数値1つで表現することができ、組合せの数学と整数論で研究できるのではないかというアイデアが記されていた。また、海軍で暗号解読に当たっていた人々に、タンパク質を構成するアミノ酸の順序を送って相談してみたとも記している。

【132-1】ガモフが遺伝暗号解読に参入した1953年は、冷戦の緊張が高まって米国の科学に大きな影響を与えていた時期であった。科学は国家の安全保障における要とみなされ、特に物理学、数学、コンピュータ科学、暗号学などの分野では軍から莫大な予算が降りるようになっていた。

【133-1】暗号という手法の歴史は文明の歴史と同じくらいに古く、スパルタやローマ帝国でも用いられていた。暗号学はルネッサンス期にいくつもの手法的革新を経て、17世紀にはアントワーヌ・ロシニュルがルイ14世の王室暗号学者となったことで制度化された。18世紀には国家の暗号解読活動が「黒い部屋(Cabinet Noir)」と呼ばれる場所で行われるようになり、この言葉は後に政治的な暗号学を指すのに使われることになる。

【133-2】19世紀に電信線が敷設され腕木通信に置き換わると、商業の領域で暗号が盛んに用いられるようになった。しかし、人力による暗号化は作業量が膨大となり、しかも単なる頻度分析によって破られてしまうことから、第一次世界大戦を境に商業的暗号は衰退した。一方で政治的な領域では暗号が盛んになり、1920~30年代に暗号学は組織的にも機械的にも理論的にも大きな転換を迎える。

【133-3】英国では外務省の暗号解読機関が拡充され、1939年にブレッチリー・パークに設置された。チューリングなど優秀な数学者や物理学者が雇用されたこの機関は、1940年代において世界をリードする暗号解読の拠点であった。米国では、米国の黒い部屋として知られる組織がニューヨークに設置され、1920年代には暗号機や数学的手法が導入された。そして第二次世界大戦によって、暗号書記は機械化され、暗号解読は数学化され、暗号学は国家の最重要な知の源となった。1945年、黒い部屋は国家安全保障局(NSA)に従属する陸軍秘密保全庁(ASA)という組織となった。

【134-1】1940年代末から1950年代初頭にかけてシャノンが定式化した冗長性の概念が適用されたことで、暗号解読は新たな技術的レベルに到達した。冗長性は、1から相対エントロピーを引いた値として定義される。

【134-2】シャノンはこのアイデアを言語学と暗号解読に適用し、その両方に影響を与えた。冗長性は、メッセージでは実際に必要な情報以上のシンボルが伝達されているということを意味する。たいていの場合、冗長性が生じるのは言語学的な規則や制約が過剰なためである。冗長性が暗号解読に基礎を提供していることを指摘することで、シャノンの情報理論は暗号解読を難しくする方法や必要になる暗号文の量を示していた。

【135-1】こうした新しいアプローチは電子コンピュータの使用と結びつき、暗号解読は電子通信科学のなかで再構成された。1950年代になるとガモフらの遺伝暗号解読チームは、米海軍兵器局やロスアラモス科学研究所といった最先端の電子的暗号解読技術をもつ組織に助力を求めた。

【135-2】ガモフは1950年代において米国の科学的想像力を惹きつけており、名声は極めて高かった。ガモフは兵器局やロスアラモスを含む様々な機関においてコンサルタントを請け負っており、軍産学複合体を体現する人物であった。

【135-3】ガモフは米国のいくつもの大学や日本、インド、オーストラリアで特別研究員の地位をもっていた。トンプキンシリーズを含む20冊以上の科学啓蒙書を出版したほか、テレビなどのメディアにも頻繁に出演して全米を駆け回っていた。

【136-1】1953年、ガモフはNature誌に、遺伝暗号の問題に関する予備的な定式化の考察を送っている。生物の遺伝的特性は4種類の数字で書かれた長大な数値として表現でき、これが約20種類のアミノ酸によって形成される長いペプチド鎖を完全に決定する。ガモフはペプチド鎖を「20文字のアルファベットに基づく長い『言葉』」として表現しており、そのような「言葉」がどのようにして4種類の数字から翻訳されるのかを問題にしていた。

【136-2】ガモフが提案した解決案(いわゆる「ダイヤモンド・コード」)は、重複するトリプレットの暗号であった。重複するというのは、AGCTGAACTのような配列があったときに、AGC、GCT、CTG、TGA、……がそれぞれアミノ酸に対応することを意味する。このモデル(図11)では、DNAの二重らせん構造において外側にできるダイヤ形のくぼみが「鍵穴」となり、そこに入り込む「鍵」であるアミノ酸の種類を規定する。ダイヤ形のくぼみは周囲にある4つの塩基によって決まるが、塩基の相補性によって一つの軸には制限がかかるので、ダイヤ形はちょうど20種類存在することになる。これが20種類のアミノ酸に対応するとガモフは考えたのである。

【138-1】この考察をNature誌に送った日、ガモフは同じ図をポーリングにも送ったが、ポーリングはそれを高く評価しなかった。またクリックは1953年から54年にかけての冬に、当時用いることができたデータ(サンガーが発表したインスリンのアミノ酸配列)を使ってガモフのモデルを反証しようとしていた。この頃から、DNA鎖とペプチド鎖の共直線性や、生物界における暗号の普遍性は暗黙のうちに仮定されるようになった。

【138-2】米国科学アカデミーの会員に選出されたガモフは、自身のアイデアを拡張した論文「デオキシリボ核酸とタンパク質のあいだにあり得る数学的関係」をアカデミーの紀要(PNAS)に投稿したが、これは大不評であった。ガモフはこれを撤回して別の紀要に出し直したが、いずれにしてもこの論文は広く出回った。

【138-3】この論文において、ガモフはDNAとタンパク質の特異性の問題を、情報伝達や暗号解読や言語学などの観点から表現した。エミール・フィッシャーの「鍵と鍵穴」の説明を用いつつ、ガモフはテクストとしての生物という考え方を語った。アミノ酸の配列に固有なものとしての特異性という概念を、情報量とか、秘密の言語的通信としての遺伝といった新しい概念に結びつけたのである。

【138-4】重複は暗号解読にとって鍵となる性質であった。ガモフは、DNAとタンパク質のあいだに重複による数学的対応関係があるため、インスリンのアミノ酸配列データなどを用いることでダイヤモンド・コードの一部を解読できるはずだと考えていた。解読はうまくいかず、クリックによる批判も存在していたが、ガモフは楽観的であり自分は大まかには正しいはずだと考えていた。

【139-1】生命科学者がみなガモフのアイデアに反対していたわけではないようだ。生化学者シャルガフは、後には理論的解読や情報的比喩に反対することになるが、はじめはガモフの寄与を歓迎していた。ただし、DNAからタンパク質が直接合成されるという考え方よりも、DNAからRNAが、RNAからタンパク質が作られるという考え方を支持していた。

【139-2】ロシア生まれの生物学者マルティナス・イチャス(Martynas Yčas)は、ガモフのアイデアに魅了された。イチャスは1951年から56年にかけて米国陸軍に雇われて研究を行っており、ガモフと協力して遺伝暗号の解読を目指していた。56年からはニューヨーク州立大学で微生物学の教授となった。

【139-3】イチャスは、この問題に取り組む上では物理学者よりも不利であったが、生物学者としての能力によってそれを補っていた。ガモフとイチャスはお互いを補い合う関係にあった。

【140-1】イチャスは、ガモフがNature誌に考察を発表した後すぐから文通を始めていた。イチャスは、ダイヤモンド・コードではインスリンのアミノ酸配列を決定できないということを伝えた。ガモフは、ダイヤモンド・コードが単純すぎるということを認めるようになった。

【140-2】ガモフはイチャスによる批判を歓迎した。二人は共にロシア出身であり、軍事的パトロンに関する価値観も一致していた。

【140-3】世間のダイヤモンド・コードに対する反応は懐疑的であったが、ガモフはその形式的な図式がDNAではなくRNAに適用できる可能性も想定していた。ガモフは、この問題に取り組む上では電子コンピュータが必要だと考え、ロスアラモスのMANIACに目をつけた。ガモフは、週に一日を生物学に割くようになっていた。

【141-1】ダイヤモンドのモデルはうまくいかなかったにしても、ガモフとその図式は同僚たちを熱狂させ、多くの著名な物理学者が遺伝暗号の数学的性質の問題に取り組んだ。そこでガモフは、研究者たちのネットワークである「RNAタイクラブ」を設立した。

【141-2】ガモフや同僚たちは、遺伝暗号を敵の暗号に見立てていた。冷戦の軍事的想像力による指示の体制は、生命の表象を変えていたのである。そして遺伝的解読の言説は、電子的テクノロジーの領域で定式化されていた。

【141-3】RNAタイクラブには、ガモフとイチャスはもちろんのこと、ファインマン、シャルガフ、ワトソン、デルブリュック、クリックなどのメンバーが参加していた。20人のメンバーのうち、13人が物理科学者(化学者、物理学者、数学者など)であった。メンバーは20種類のアミノ酸に対応づけられており、それぞれがアルファベット3文字のコードネームをもっていた。

【142-1】ガモフとイチャスは年2回の会合の資金を陸軍から得ようとしていたが、結局は失敗に終わった。RNAタイクラブのメンバーは地理的にかなり分散していたが、それゆえに、遺伝暗号の問題とその言説的・運用的資源を拡散させ、遺伝と生命の表象を作り変える役割を果たした。

軍事的暗号? 論理学、統計学、言語学

【144-1】1954年5月までに、ガモフはダイヤモンド・コードが有り得ないということを受け入れ、新しい暗号を検討し始めた。二本鎖のDNAではなく一本鎖のRNAがタンパク質を合成しているということを踏まえて、ガモフやアレクサンダー・リッチ、ファインマン、レスリー・オーゲル(すべてRNAタイクラブのメンバー)は様々な暗号体系を模索した。そのすべてが、重複したトリプレットに基づく暗号であった。

【144-2】一つの案は「三角コード」と呼ばれるものであり、「コンパクト」と「ルーズ」という二つの種類があった。この暗号では、塩基の配列によって螺旋のなかに生まれる20種類の三角形が20種類のアミノ酸に対応する。
[三角形の各頂点が同じ塩基であるαタイプが4種類(×1)、2つの頂点だけが同じ塩基であるβタイプが12種類(×3)、3つの頂点がすべて異なる塩基であるγタイプが4種類(×6)、で計20種類となる。]
「コンパクト」ではすべてのアミノ酸がつながれてタンパク質になるが、「ルーズ」ではアミノ酸が一つ飛ばしでつながれて2つのタンパク質が合成される。「ルーズ」は「コンパクト」よりも制約が少ないため、暗号の解読は困難になると予想された。

【144-3】ファインマンとオーゲルは「メジャー・マイナー・コード」という重複トリプレットコードを考えていた。この暗号では、トリプレットの中心にある塩基が「メジャー」、その隣にある2つの塩基が「マイナー」として区別される。

【144-4】だがペプチド鎖のアミノ酸配列が明らかになるにつれ、メジャー・マイナー・コードも成り立たないことがわかってきた。そこで核物理学者のエドワード・テラーは、アミノ酸が2つの塩基と直前のアミノ酸によって決定されるというアイデアを発表した(ガモフはこれを「ロシア風呂コード」と呼んだ)。もしこのアイデアが正しいとすると、他よりも出現率の高いアミノ酸の並びがあるということになる。

【146-1】1954年の夏、ガモフはロスアラモスの理論物理学者ニコラス・メトロポリス(RNAタイクラブのメンバー)と協力して、MANIACで様々な重複コードを試験した。頻度分析を行うと共に、人工的な配列と実際の配列の違いが調査された。暗号の制約が強ければ強いほど、特定のアミノ酸の隣に来るアミノ酸の種類は少なくなるはずである。しかし結果としては、期待したような違いは見出だせなかった。

【147-1】結果から示唆されたのは、実際のタンパク質におけるアミノ酸配列は純粋なランダム配列であるということであった。しかしガモフとメトロポリスは、コードが重複しているという前提(もっといえば、これは言語の系統的操作すなわち暗号の問題であるという前提)を疑わず、手法の精度が不足しているせいだろうと考えた。

【147-2】RNAタイクラブの一員である、南アフリカ出身の生物学者シドニー・ブレナーは、1954年に初めて訪米してクラブのメンバーらと議論した。ブレナーはガモフの三角コードを否定し、コードは重複していないと論じた。

【148-1】この年の9月に、ガモフとイチャス、リッチは遺伝暗号の問題について包括的なレビュー論文を書くプロジェクトに取り掛かり、膨大な量の文献を調査した。だがこの論文が発表された1956年までに、そこで紹介された暗号はすべて反証されてしまった。

【148-2】レビュー論文に取り組む傍ら、ガモフはロバート・レドリーを巻き込むことで記号論理学の方面から遺伝暗号の問題に挑んでいた。レドリーは論理学的手法の応用範囲を広げる好機と捉え、重複コードを前提として問題に取り組もうとしたが、計算機を使っても到底終わらない量の計算が必要になってしまうことがわかった。

【149-1】他にも二つの解読方法が試みられた。一つ目は、核酸の構成とタンパク質の構成に相関関係を見出そうとする統計学的分析であった。二種類のウイルスで塩基の構成が異なればタンパク質の構成も異なるはずだという推測に基づいていたが、矛盾する結果が出てしまった。

【149-2】二つ目は、ブレナーがまとめたジペプチドのデータに基づく、やはり統計学的な方法であった。

【149-3】ガモフ、リッチ、イチャスのチームは、20種類のアミノ酸が隣り合う400種類の並び方それぞれについて、実験的に得られた割合(ブレナーのデータ)と、様々な想定される暗号から予測される割合を比較した。だが、前者はほとんどポアソン分布に従っていたのに対し、後者はポアソン分布から大きく外れていた。

【150-1】レビュー論文の原稿が完成した頃、イチャスはコードがおそらく重複していないということ、そして自分たちの試みが失敗であったということを認めるようになった。だが彼らの研究は「暗号化問題」を定義し、非重複コードの分析への道を開き、アミノ酸置換など解読のための有益なアプローチを示唆した。さらに、遺伝を通信システムとして表現する言説、記号論、比喩をつくりあげた。暗号は、情報の伝達を支配する聖書学的テクノロジーへの鍵であった。


2016年4月28日

「機械」と「自己組織化」による知識の移動 Davids, “On Machines, Self-Organization, and the Global Traveling of Knowledge, circa 1500–1900”

Karel Davids, “On Machines, Self-Organization, and the Global Traveling of Knowledge, circa 1500–1900,” Isis 106 (2015): 866–74.


 知識はなぜ、どのようにして、ある場所から別の場所に移っていくのだろうか。数年前にJames McClellanとFrançois Regourdは、かつてのフランスで国家によって支援された機関が専門家や専門知を取り込んで協働的に働くことで植民地の拡大や開発を支えた様子をひとつの「機械」に喩えることによって、この問いに対する一つの答えを示した。彼らの議論に対しては、初期近代の国家が目標のために人的資源を取り込む能力が過大評価されているという批判がなされた。だがそれでも、このメタファーを考えていくことには価値がある。この論考では、「機械」というメタファーを捨て去るのではなく修正して拡張し、「自己組織化」というメタファーと対峙させる。

 まずは「機械」のメタファーを修正・拡張したい。McClellanとRegourdはフランスの例を論じていたが、彼らが示した「植民地支配的機械」という描像はフランスだけに限らず、16世紀におけるスペイン・ハプスブルク朝や、18世紀以降の英国にも当てはめることができる。そしてこれらの例はどれも植民地経営と密接に関わっているのであるが、植民地とは直接の関わりをもたない「機械」も存在する。たとえば18世紀後半におけるブーガンヴィルらの航海は、国家に支援された機関が専門家や専門知を取り込んで知識を移動させた例ではあっても、植民地支配の外で行われているという点で、「植民地支配的機械」というより「帝国的機械」と呼ばれるべきだろう。さらに、ハドソン湾会社やオランダの東インド会社、イエズス会のように、極めて広い範囲に展開して知識を収集・伝達した「商業的機械」や「宗教的機械」も存在する。

 「機械」のメタファーを用いることによって、知識がどのようにして移動するのかということだけでなく、なぜ知識が移動するのかということも説明することができる。というのもこのメタファーは、知識の流れを支える機関やメカニズムを表現すると同時に、そのプロセスで原動力となっている要因(国家権力、利益の追求、魂を救済しようという欲望、など)も示すからである。つまり、ラトゥールのいうところの「蓄積のサイクル」がなぜ生じるのかを理解することができる。また、「機械」同士を比較したり、「機械」間のつながりやその変化を調べたりすることが可能になる。

 だがそれでも「機械」のメタファーだけでは、グローバルな知識の移動を説明するのに十分ではない。知識の流れを導く上からの力を表現する「機械」のメタファーは、下からの力を表現する「自己組織化」というもう一つのメタファーによって補完される必要があるだろう。「自己組織化」は、直接的で中心化されたコントロールによらない、多数の相互関係を通じたパターン形成を意味する。「自己組織化」は、帝国的・商業的・宗教的な「機械」の内側でも外側でも起こりえた。「機械」のメタファーが示唆するほど、実際には知識の流れに対する中央の機関によるコントロールは強くなかったのであり、「機械」の構成員は各々に外部の人々と情報交換をしていた。自己組織化された脱中心的なネットワークも存在していたのである。

 「機械」や「自己組織化」のメタファーは、ヨーロッパの外部にも見出だせる。徳川幕府における蘭学(ヨーロッパからの知識輸入)の発展はその一例で、初めは公的な支援に依らず、長崎の一部の人々が自発的にネットワークを形成して営んでいた(自己組織化)が、やがて幕府が支援に回り公的な組織のなかで営まれるようになったのである(機械)。

 以上、この論考で扱った例は1500年から1900年のあいだに収まっているが、1900年以降に視野を広げることも今後の研究にとって有益であろう。


【関連リンク】
知を編成するマシーンとしてのフランス McClellan and Regourd, "Colonial Machine" - オシテオサレテ
マシーンと自己組織のなかの知の移動 Davids, "On Machines" - オシテオサレテ


2016年4月12日

非メンデル主義者メンデル Olby, “Mendel No Mendelian?”

メンデルに関する従来的な理解が覆される転機となった1979年の論文です。

Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.


1.イントロダクション(pp. 53–62)

 この論文の目標は、メンデルに関するウィッグ史観的な解釈に代えて、19世紀中頃における生物学の文脈を意識した解釈を提案することである。従来の理解では、メンデルの論文は(遺伝学として知られる)遺伝に関する現代的理論の誕生を示す。メンデルは、ペアになったファクター(エレメント)の概念を導入することによって、分離の法則と形質の独立組合せの法則を提唱した。こうした法則が成り立つのは、生殖質の形成のあいだに分離のプロセスがあり、ペアの片方しか生殖質に入ることができないからだとメンデルは考えていたという。以上のようにメンデルのエレメントを古典遺伝学のアレルと同等のものだとみなす見方のせいで、メンデルの論文は、新種の源としての雑種に関する研究というよりも、雑種の研究によって明らかになった遺伝の法則に関する研究として捉えられてきた。1902年の時点でベイトソンは、もしメンデルの研究がダーウィンの手に渡っていたら歴史は変わっていただろうと述べていた。このような見方は、メンデルの最初の伝記を書いたフーゴー・イルチスに受け継がれた。

 本論文著者のこれまでの研究は、以下のような結論を出してきた。まず、受精についての細胞理論は、メンデル主義的理論を導かない。花粉細胞の内容物が胚珠と融合して接合子が形成されるという事実が、融合遺伝あるいは非融合遺伝を支持するわけではないからである。融合遺伝の理論は19世紀後半において広く受け入れられており、ネーゲリやヴァイスマンの議論にも表れていた。
 メンデルの理論は、ケールロイターやゲルトナーによる植物雑種研究の伝統に位置づけられる。ケールロイターは、前成説を打ち破り、植物界における有性生殖の存在を示し、「純粋」な種の一定不変性を示すために交雑を用いた。ゲルトナーも植物の性の存在と種の固定性を支持し、環境の作用で遺伝する変異が生み出されるという主張に反論したが、交雑がそのような変異を生み出すということには懐疑的であった。メンデルは、このような相反する説の対立に決着をつけるべく交雑実験を行っていた。
 著者のこうした議論は当時賛同されなかった。だが最近、進化における雑種の役割という文脈からメンデルを見ることについて、L. A. Callenderから強力な支持が得られた。Callenderによれば、メンデルは同一形質の子を産む一定不変な雑種によって新しい種が形成されるというリンネの仮説を擁護しようとしていたのである。

 コレンスは形質のペアがAnlagenのペアによって決定されるのだと考えたが、メンデルはそのような考え方をもっていなかった。J. Heimansはこのことを、メンデルが論文のなかでphaseolus multiflorusの花の色の遺伝を論じている部分と、論文で発表した結果をメンデルが再解釈しようとした手記に基づいて主張している。形質のペアというメンデルの概念は、相互に排他的なファクターのペアという概念を導いていなかったのである。


2.一定不変な形質と変異する形質(pp. 62–66)

 ではメンデルの達成とは何だったのか。Heimansによればメンデルは、分割不可能な実在としての全体論的な種のイメージに代えて、原子論的でモザイク的な種の概念を思い描き、それを実験的に示したのである。メンデルの根本的な構想は、別個の遺伝形質が独立にかつ変化することなく伝達されるということであった。ダーウィンや他の生物学者にとって、種の形質が分割不可能な実在であり、環境条件の影響によって可塑的に様々な方向性に変化するものだったのとは違っていた。

 メンデルが優性だとか潜在している(latent)とか一定不変だとか変異するとか言っていたのはあくまで形質のことであって、ファクターやエレメントのことではなかった。またメンデルは、生殖細胞形成の際の分離について、異なるエレメントだけがお互いに排他的なのだと書いている(もしそうだとすると、同類のエレメントの数は受精のたびに増えることになってしまう)。これは古典的なメンデル遺伝学と矛盾する記述であり、もしメンデルが対立する形質のペアを決定するエレメントのペアという概念をもっていたのであれば、同類のエレメントのあいだでの分離も認めていたはずである。メンデルが関心をもっていたのは、物質的なエレメントそれ自体ではなく数学的な法則性のほうであった。


結論(pp. 67–68)

(1) メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのか一定不変なのか? もし一定不変ならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。

(2) メンデルは、対立する形質のペアを決定するファクターやエレメントのペアという概念をもっていなかった。Heimansが分析したように、メンデルはエレメントと形質のあいだに一対一の関係を想定していたわけではない。あくまで、エレメントの種類と形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。

(3) メンデルは受精についての細胞理論を、一定不変で独立した形質があらゆる可能な組合せで組み合わさるという仮説を支持するために用いていた。細胞理論は、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台を提供しているわけではなかった。一定不変な雑種と、変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みだったのである。

 以上のことを踏まえれば、メンデルの論文が長いあいだ無視されていたというのは偽の問題にすぎないことがわかる。ダーウィンとメンデルのあいだで接触があれば19世紀に総合がなされていただろうという想像も間違っている。ダーウィンの概念的図式のなかに、一定不変な形質という要素はほぼなかったし、進化における交雑の役割についての見方もメンデルからは遠く隔たっていた。

 もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではないのである。


2016年4月4日

メンデルと「再発見」に関する新しい説明 Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work”

メンデルや「メンデルの再発見」に関して、生物の教科書に載っているような従来型の説明は40年ほど前からの科学史研究で大きく覆されています。この論文では、メンデルやその「再発見」に関する新しい研究の成果がまとめられています。


Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.

 従来メンデルは、遺伝の二つの法則(分離の法則と独立の法則)を発見した人物であり、それゆえ遺伝学の基礎をつくり、ダーウィン革命において欠けていたメカニズムの説明を提供した人物だと考えられてきた。そしてメンデルの研究が当初無視されたことについて、様々な理由が挙げられてきた。だが、それらとは異なる説明がある。第一に、メンデルの研究は当時の文脈において革命的というよりもむしろ典型的なものとして理解されていたという説明である(Olby, 1979)。そして第二に、メンデルの研究はその内容だけではなく、「再発見者」たちの先取権論争の結果として有名になったという説明である。


第一の説明について。

・メンデルの論文は種形成や交雑に関する研究であり、遺伝についての研究ではなかった。メンデルは、雑種の形成と変化を支配する一般的な法則を探究していたのである。
・メンデルは、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。メンデルが遺伝子の性質について説明したことはないし、形質のペアと遺伝のファクターのペアが等価であることを説明したこともない。その点において、メンデルはメンデル主義者ではない(Olby, 1979)。
・メンデルは、雑種の子孫のうちに同一形質の子を産む(breed true)ものとそうでないものがある理由を説明するのに、受精についての細胞理論を用いた。メンデルはこの理論を、遺伝子を位置づけるのに用いなかった。
・メンデルは「メルクマール」と「エレメント」という言葉を使い分けている。メルクマールは、見て認識できるような性質のこと、エレメントは、メルクマールを生み出していると考えられる未知の物質のことを指していた。エレメントという言葉は、論文の結論部で10回だけ登場する。
・メンデルは雑種をAaのように表現した最初の人物であり、このことからしてメンデルは雑種が二つの異なる形質をもっていることを知っていたように思われる。一方で、純粋繁殖の系統に対してはAやaのように一文字だけを用いていることから、メンデルはこの文字が何か物質的構造を表すとは考えていなかったのかもしれない。
・メンデルは、種間や変種間に明確な線引きをすることは不可能だと考えていた。メンデルにとって重要だったのは、実験材料が純粋繁殖の植物であることだった。
フーゴー・イルチスやチェルマク、コレンスといった人々は、20世紀初頭の時点で、メンデルの業績は雑種に関する研究であり、それが非直接的に遺伝についての理解を生み出したのだと考えていた。


第二の説明について。

 ド・フリース、コレンス、チェルマクの3人が独立にメンデルの業績を「再発見」したという説明は疑わしい。まずチェルマクは優性と劣性の性質を理解していなかったし、分離が3:1の比率を生み出すことについても議論しなかった。チェルマクの論文はメンデルの研究を確かめるものではあったが、解釈を発展させるような類のものではなかった。

 メンデルの論文を有名にしたのは、主としてド・フリースとコレンスのあいだでの先取権論争だった。19世紀末までに、ド・フリースは形質が独立した単位として遺伝しているのだと確信するようになっていた。1900年にド・フリースが発表した論文「雑種における分離の法則」は、activeとlatentの語に代わって優性と劣性の語が用いられるなど、様々な点でメンデルの論文によく似ていた。1900年以前において、ド・フリースはメンデル的な術語で思考していなかったし、3:1の比率を報告したこともなかった。むしろド・フリースは2:1や80:20の比率と報告していた実験結果を、1900年以降になるとデータはそのままなのにもかかわらず3:1の比率として解釈し直したのである。ド・フリースは1900年以降、1896年の時点でメンデルとは独立に分離の法則を発見していたと主張したが、それは疑わしい。ド・フリースは、1900年以前にメンデルの論文を知っていたが、それを十分理解するには至っていなかったのだとも考えられる。ド・フリースに限らず、「再発見者」の誰もが1900年以前にはメンデル的な解釈をしていなかった。

 3人の再発見者のなかで、コレンスだけがメンデルの論文を完全に理解していた。コレンスはメンデルの理論を、2つの遺伝単位によってそれぞれの形質が決定されるという理論として説明していた。また、異なる遺伝子ペアの独立性をはっきり述べたわけではなかったが、9:3:3:1の比率を発見していた。コレンスはAnlageという言葉を用いたが、これはメルクマールやエレメントとは異なり、不連続な決定子であって親から子へと移動していくものとして説明された。またAnlageは、形質そのものではなく形質を導く出来事のための信号だとされていた。コレンスは分離が減数分裂によるものであることや、Anlageのセットは細胞核のなかにあることを示唆していた(メンデルもド・フリースも、遺伝の単位が栄養細胞には2つあるが性細胞には1つしかないということに言及していない)。またコレンスは、形質のペアはAnlageのペアによって決定されるのだと示唆した最初の人物であった。

 コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。


2016年3月26日

「特異性」から「情報」へ Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第2章前半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 38–55.


第2章「特異性の空間:情報の時代以前における分子生物学の言説」

【38-1】1971年、物理学出身の生物学者マックス・デルブリュックは、DNAの原理を発見したのはアリストテレスだという真面目なジョークで聴衆を沸かせていた。アリストテレスが論じた不動の動者は、自らは変化することなく働きかけて発達を促すという点でちょうどDNAに通じるのだという。

【38-2】アリストテレスの時代錯誤性を語ったこの議論は、皮肉にも別の時代錯誤性を浮き彫りにしている。20世紀後半に属する約20年間の分子生物学が、20世紀前半における遺伝の重要概念をまったく塗り替えてしまったという、より直近の断絶である。

【39-1】1940年代を通してデルブリュックを含めた分子生物学者たちは、ファージの感染、増殖、突然変異、組換え、抵抗といった現象を生物学的・物理化学的な言葉で説明し、情報の転送について言及することはなかった。

【39-2】1950年代の分子生物学において、「情報」や「暗号」といった言葉はクォーテーションマーク付きで現れたが、50年代末までにマークは消えた。情報という言説的フレームワークの外で遺伝的なメカニズムや生物について考えることはできなくなった。

【39-3】だが情報という隠喩は何を意味するのか? どのような特徴が、情報の時代以前の分子生物学の言説を際立たせているのか?

【39-4】この章では1940年代の分子生物学を検討し、特に知識と権力が結合していた場として、戦間期におけるロックフェラー財団による分子生命科学への支援に注目する。この調査は最終的に、生物学的特異性という概念の中心性を際立たせることになる。

【40-1】カンギレムは生命の概念化の歴史における不連続性(生気としての生命、メカニズムとしての生命、組織としての生命、情報としての生命)に焦点を当てた。そしてフーコーは、19世紀に生命についての科学が現れた際における組織化の言説の重要性について詳しく論じた。比較解剖学が自然史に挑み、可視的な形態に代わって隠された組織化が鍵となった。フランソワ・ジャコブがカンギレムとフーコーを参照して論じたように、生物と無生物を分けるのは組織化の有無であった。生物学的組織化の概念は、20世紀中頃に至るまで生命科学に指針を与え、その後は生命のコンピュータープログラムという想像物に組み込まれた。

【41-1】組織化の言説において「特異性」は、生化学・免疫学・遺伝学・生理学・発生学・分類学・進化といった生命諸科学を貫く主題であった。「特異性」の概念は、後に「情報」に置き換えられていくことになる。この二つの概念には互換性があるが、同じというわけではない。特異性は分子の三次元構造と実験的に決定された基準に基づいており、アリストテレスのいうところの質料因であるが、情報は一次元的なテープとして抽象化されるものであって実験的基準を欠いており、アリストテレスのいうところの形相である。組織化の言説と情報の言説はどうしても重ならない。遺伝と生命の物語はプログラム化されたコミュニケーションのシステムによって書き直されており、そこでは組織化の概念はアルゴリズムのなかに再定式化されている。

【41-2】ここではまず、20世紀前半の生命科学における「特異性」の空間を調査する。


● 組織化という「グランドデザイン」の内側

【42-1】フランソワ・ジャコブは、生物学には真の理論はほとんどなく、多くの一般化があるのだと考えた。特異性はそのような一般化の一つであり、20世紀前半の生命科学における主要な関心事であり統合的な主題であった。1930年代から40年代において分子生物学の出現に貢献した問題や実験的課題も、特異性の観点に基づいていた。遺伝子や酵素、抗体、細菌、ウイルスの組成や構造が判明する前でさえ、こうしたものの知識はそれらの機能的特異性に基づいて蓄積されていた。

【42-2】「情報」という言葉と同じように「特異性」もはじめは一般的な言葉であったが、20世紀初頭の免疫学において特定の専門的な意味や首尾一貫性を獲得した。元々は立体相補性(stereocomplementarity)という概念が、1890年代におけるパウル・エールリヒの側鎖説から、それを置き換える1920年代におけるカール・ラントシュタイナーの抗体合成の研究に至るまで、特異性を表現してきた。またこの概念は1894年にエミール・フィッシャーによって、鍵と鍵穴のモデルで表現された。

【43-1】発生学においては、細胞内相互作用の特異性が免疫学的な言葉で表現されてきた。発生学者のフランク・ラットレイ・リリーは1914年に、精子と卵は細胞の表面における立体相補性の反応によって結合するという説明を提唱した。生理学者のジャック・ロエブは、リリーの生物学的なモデルに反対した。ロエブは発生学を精密科学にしようという意図から、隠喩的な側鎖説の代わりに物理化学的な免疫学に基づいた機械論的説明を与えようとしていた。

【43-2】ロエブや同時代の生化学者たちにとって、種内や種間での生理学的な違いを決める特異性は、タンパク質の組成や構造の違いの問題に帰着するはずだった。生理学者のEdward ReichertやAmos Brownは、200種の哺乳類がもつヘモグロビンの結晶を調査することで、進化や分類の問題に切り込もうとしていた。

【44-1】1916年頃までに、ロエブは種や属の特異性の担い手は基本的にタンパク質であると確信していた。ロエブは遺伝学の崇拝者であったにも関わらず、種の決定に細胞核の構成要素が関与することは疑わしいと考えていた。そして、メンデル的な形質は個体や変種レベルの遺伝を決定することはあっても、属や種レベルの遺伝を決定するものではないと推測していた。

【44-2】遺伝学者のトマス・ハント・モーガンは、そうした区別を示すメンデル的研究は無いとして強く反対した。1920年代までに、遺伝子と形質のあいだに一対一の対応はないというコンセンサスが得られ、遺伝学における特異性の問題をさらに混乱させた。

【44-3】モーガンは遺伝子の物理的意味について語りたがらなかったが、ほとんどの同時代人と同様、遺伝子をタンパク質として想像していた。

【45-1】1930年代、ロックフェラー財団の後援によって米国の遺伝学が物理化学的な方向に向かうと、特異性はさらに重要な問題となった。財団は「人間の科学」という優生学的な意図を含んだ新しい課題を立ち上げ、科学に基づいた社会秩序の合理化を図った。財団の会長であった生理学者Max Masonとその後見人ウォーレン・ウィーバーのもとで、遺伝学は社会科学、医学、生物学をつなぐ鍵を握っているとみなされた。身体と集団のコントロールという生権力の枢軸の中心という位置であった。

【45-2】1933年から財団のアドバイザーを務めたモーガンの助言によって、新しく生理学的遺伝学の課題が設置され、特異性と遺伝子の動きの直接的関係性が深まっていった。特異性の概念は、免疫学から遺伝学に輸入された。財団のプログラムを背景に、遺伝子とその生産物は生物学的・化学的特異性の観点から概念化されるようになっていった。

【45-3】「情報」という言葉のように、「特異性」という言葉も隠喩的、発見法的な価値をもっていた。構造やメカニズムがわかっているのでなければ「特異性」は実際には説明になっていないのだが、実践的な価値があったのである。特異性は基本的に生物学的概念であり、生きた現象やプロセスを意味したので、形態から機能までを関係づけることができた。

【46-1】20世紀前半の生命科学者にとって、組織化は肉体を支配する隠れた行為者であり、生物や種の統一性、安定性、特異性を形作っているものであった。そして組織化は特異性に基づいていた。

【46-2】組織化、言い換えれば生命の階層的秩序は、職業の専門分化という考え方に基づいていた。近代工業社会によって、組織化や専門家は人間科学の言説となっていた。生物学的特異性は、組織化、分化、専門家、協力、安定性、コントロールといった、近代の社会技術的構築物の網の目のなかにある。

【47-1】ウォルター・キャノンの文章にも、生理学的プロセスと社会的プロセスを類比的に捉えたものがある。こうした言説が、20世紀中頃まで生物学的研究の対象を形成し、生体の表現を形作っていた。生命についての異なる表現は、第二次世界大戦後の政治体制から生まれてくることになる。そして組織化の問題はサイバネティクスのモデルや情報の言説のなかで再構成され、結局はグランドデザインや生物を分解することになる。 


● 第一動因:タンパク質と核酸

【48-1】身体の組織化や存続に関わる要素として、タンパク質は特権的な物質であると考えられていた。少なくとも1950年代前半まで、生物学的・化学的特異性を負っていたのはタンパク質であった。生命の物質的基盤をタンパク質に求める伝統は、トマス・ヘンリー・ハクスリーがそれを原形質(プロトプラズマ)に求めたことに遡る。20世紀前半における優生学や遺伝学の台頭によって、「ナショナル・プロトプラズマ」(優生学者ダベンポートの概念)は、生権力の管理において重要な場となった。

【48-2】1930年代までに酵素学の発展によって、原形質に集中させられていた生命の様々な特質は、それを構成するたくさんの酵素に分散させられた。結晶の成長と類比的に捉えられた「自己触媒作用」が、細胞の増殖や生物の成長など幅広い現象を説明する包括的な言葉として用いられた。生化学者ウェンデル・スタンリーがタバコモザイクウイルスを結晶化し、それを自己触媒的な特性をもつタンパク質として特徴づけた研究(1935)は、生命の酵素理論を証拠付けるものであり、ウイルス、酵素、遺伝子、抗体といったものが結局のところタンパク質であることを示すものとして理解された。

【48-3】組織化の言説におけるタンパク質の認識的・文化的重要性は、1930年代から1950年代前半におけるロックフェラー財団の分子生物学プログラムを支えるものであった。ウォーレン・ウィーバーは、タンパク質がほとんどあらゆる生命現象に関わっていることを根拠に、プログラムがタンパク質の研究を中心としていることを正当化した。

【49-1】分子生物学プログラムには、生体の組織化と国民(body politic)の組織化の双方を正当化する働きがあった。分子生物学の台頭には、戦間期における意味の体制のなかで生み出された社会技術的意味の安定化と、1930年代と40年代における特定の観念が体系的に配列された仕方を見てとることができる。組織化は、分子や身体のみならず、社会にも当てはまる概念だとみなされた。個人や集団の行動を合理化し、管理することが必要とされていたのである。その行動は、部分的には生物学的なものであった。そして生物学的組織化の議論は遺伝学的決定論と融合するようになっていった。このような言説の経済において、身体を表象する様式とそこに介入する方法はどちらも物質的だったのであって、第二次大戦以前の時代に「メッセージ」や「情報」や「テクスト」はなかったのである。

【49-2】分子生物学に対する重要な貢献者の一人は化学者のライナス・ポーリングであった。タンパク質の構造や免疫化学に関するポーリングの研究は、生殖においてタンパク質の特異性が中心的な役割を果たしており、将来的には出生や人口の管理による社会の合理化においても中心的な意味をもつことを示していた。ポーリングは水素結合がタンパク質の三次元構造を決定していると考え、またその構造が生物学的特異性を決めていると論じることで、立体相補性の概念を更新した。

【50-1】タンパク質の(アミノ酸の順序関係とは独立した)空間的折りたたみによって特異性を説明する考え方は、1940年代の分子生物学で一つの柱となった彼自身の免疫化学プログラムの基礎となっている。1940年にポーリングが生物物理学者マックス・デルブリュックと共に抗体形成を論じた論文では、相補性を特異性の述語(?)として、抗体形成のプロセスを酵素合成、ウイルス複製、遺伝子作用に接続した。彼らは、分子間の特異的な引力や酵素による分子の合成についての議論では相補性が第一に考慮されるべきだと論じた。全体の議論は遺伝、成長、細胞制御の鋳型としてのタンパク質の主要性・特異性にかかっていた。

【50-2】相補性を触媒作用の鋳型とみなす考え方は、ポーリングに始まったわけではない。たとえば1936年には遺伝学者J・B・S・ホールデンが、抗体と抗原の関係を、レコード盤とそのネガの関係に喩えていた。ポーリングとデルブリュックは、物理的メカニズムを示してそれを全ての生物学的現象に一般化することで、鋳型の概念を狭めると同時に広げたのである。

【51-1】こうした考え方は、ポーリングの抗体形成についての鋳型仮説にフレームワークを提供した。病理学者カール・ラントシュタイナーによる抗体の特異性理論と、ポーリング自身のタンパク質折りたたみモデルを組み合わせることで、ポーリングは抗体形成の大筋を説明することができた。指令説と呼ばれるこの理論は、1950年代中頃まで支持され続けた。

【51-2】それまでのあいだ、抗体形成の理論が分子生物学における特異性のイメージを規定していた。抗原は鋳型として、ポリペプチド鎖は可塑的な物質として捉えられた。

補足
・エールリヒの側鎖説(1897)
もともと様々な種類の側鎖(レセプター)が細胞表面に存在しており、ある側鎖が抗原に出会うと同じ種類の側鎖が大量に血液中に放出される。この側鎖が抗体として機能する。
・ラントシュタイナーの研究
人工的に作られた化学物質(抗原)にすら、抗体が生み出されることを示した。では、ほとんど無限の種類が現れる抗原に対して、どうやって特異的な抗体が作り出されているのか?
・ポーリングの鋳型説と指令説(1940)
抗体は抗原に出会うとそれに合わせて折りたたまれ、ほぼ無限の種類の抗体になる(抗原が鋳型として機能している)。
・バーネットのクローン選択説(1957)
抗体をレセプターとしてもつB細胞が多種類用意されていて、これが抗原に出会うとその種類のB細胞のクローンが増殖し、大量の抗体を産出する。抗体の多様性はいかにして確保されているのかが不明という点で、側鎖説と同じ難点があった。
・利根川進の研究
B細胞が遺伝的再構成を行って多様性を確保していることを明らかにした。

【51-3】遺伝学者のジョージ・ウェルズ・ビードルも、自身の研究プロジェクトを生物学的特異性の観点から概念化した。ビードルは1940年代前半に、遺伝子は酵素なのか、それとも遺伝子が酵素をつくるのかという問題に焦点を当てた。ビードルはエドワード・ローリー・タータムとの共同研究で、特定の酵素によって統制された一系統の化学反応が一つの遺伝子によって制御されていることを明らかにした(一遺伝子一酵素説)。

【52-1】ビードルにとって、遺伝的特異性はタンパク質の折りたたみに埋め込まれたものであり、メンデル遺伝学と生理学と行動を結びつける問題であった。ビードルは遺伝子が様々なタンパク質の特異性を制御しているのだと考えた。そして10年後には、遺伝的情報はDNAによって運ばれているという認識が受け入れられるようになった。DNAは、タンパク質の特異性を握っているのみならず、生物学的情報の創作者かつ唯一の担い手、すなわち第一動因の地位に登りつめたのである。

【52-2】しかし微生物遺伝学者ジョシュア・レーダーバーグが気づいたように、特異性を情報で置き換えることには問題もある。レーダーバーグは、遺伝子が酵素に特異性を刻印する鋳型の役割を果たすということが一遺伝子一酵素説の前提になっていると述べた上で、特異性の概念は構造と関係していることを指摘した。だがレーダーバーグも結局は情報の言説を採用した。

【53-1】情報という表現は、構造の問題を扱う分野においてはあまり魅力的ではなかったが、特異性という表現と違って物質の領域に縛りつけられることがなかった。

【53-2】特異性と組織化の言説から情報の言説への移行は、1950年代におけるジャック・モノーの研究においてとりわけ印象的である。モノーが焦点を当てた酵素的適応(ある物質が存在するときに限って特定の酵素が選択的に生産される現象)は20世紀初頭から知られていたが、遺伝学の問題となったのは1940年代中頃からであった。

【53-3】モノーが1947年に発表した論文「酵素的適応の現象および、その遺伝学と細胞分化の問題との関連」では、組織化の言説における生物学的特異性の中心性が浮き彫りにされている。

【54-1】モノーはここで、現在の生物学の発展における最大の特徴の一つが特異性の問題への注目であると述べ、同じゲノムをもつ細胞がいかにして異なる特異性をもつ分子を生み出すのかを説明しようとしていた。1940年代のモノーにとって、遺伝学は生物の成長や生物学的組織化の問題と不可分であった。

【54-2】モノーは「鋳型」という隠喩の固く脆いイメージを嫌う一方で、「プロトタイプ」や「マスターパターン」といった言葉を好み、より液体的で偶然的なイメージを追求した。遺伝的要因は分子構造の可能性の幅を決めるに過ぎず、環境的要因も影響するのだとモノーは考えていた。1940年代のモノーは、細胞を流動的なものとして、遺伝を相互作用的で変更可能、偶然的なものとして表現していた。だが1950年代中頃には、細胞を閉じたサイバネティックなシステムとして表現するようになり、言説的にも酵素的適応から酵素誘導への転換を始める。1950年代において細胞の現象は、遺伝的情報に完全に制御されているものとみなされるようになるのである。

【55-1】モノーの方針転換には、分子生物学におけるタンパク質から核酸へのパラダイムシフトが表れている。1930年代にも核酸が遺伝的複製やタンパク質合成を担っているのではないかという議論は現れていたが、タンパク質の研究に莫大な投資がなされるなかで、注目されることはなかった(特に米国では)。だが1944年にオズワルド・エイブリー、コリン・マクラウド、マクリン・マッカーティが、肺炎球菌の形質転換を起こしているのは核酸だと論じたことがターニングポイントとなった。


2016年3月18日

分子生物学における隠喩の問題 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第1章後半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 19–37.


【19-1】『性の歴史』のなかでフーコーは、近代産業社会への移行を特徴づけることによって生権力の概念を説明している。近代以前の権力は「従わなければ殺す」「従うならば放っておく」というものであったが、近代の権力はより積極的に人々の生に介入する。生権力は、人々の身体を規律づけシステムに組み込もうとする権力と、人々の生殖や健康を管理しようとする権力という二つの極をもつ。

【19-2】生理学、解剖学、生化学、遺伝学といった身体に関する学問分野は前者の極を、進化論、統計学、保険数理、人口統計、出生・死亡記録などの人口管理に関する学問分野は後者の極を構成している。性は、この両極をつなぐ枢軸である。国家の様々な機関が生産の維持を保証するならば、生権力は言説的・物質的実践を供給する。

【19-3】情報の言説は、歴史的・文化的に状況づけられた表象のシステムであり、初めて出現した形式の生権力である。様々な物理的・生物学的・社会的現象が、この隠喩・モデル・アナロジー・記号論のシステムのなかで再描写された。私はまず、こうした隠喩の技術的特徴や科学的有用性を検討し、その後でディシプリン的・社会的な側面を見ていく。

【20-1】まず、情報理論は情報という概念を隠喩化している。もともと情報という言葉は知らせることを意味しており、統語論・意味論・語用論という人間のコミュニケーションの3階層構造を通して理解される概念だった。だが1920年代末から電信技術が発展すると、シンボルの統語論的配列だけを意味する概念として用いられるようになっていった。

【20-2】情報理論家は「情報」という言葉を隠喩的に用いて、そこから有意義なコミュニケーションという意味を奪っていった。ウィーバーが述べているように、情報理論における「情報」という言葉は日常的な用法とは大きく異なっている。シェイクスピアのソネットも、ランダムな文字の配列も、情報理論の観点からは等量なのである。

【21-1】さらに、情報は実在物ではない。電線は情報を、貨物列車が石炭を輸送するようには運ばない。ここでいう情報とは、コミュニケーションについての理論から学べるようなものではない。このような「情報」概念が、日常的な用法と混同されてしまう危険は早くから指摘されてきた。それゆえ情報理論は、生物学な意味の源としてのDNAテクストや「生命の本」といった概念を正当化しない。

【21-2】しかし情報理論もまた、言説的であって隠喩に根ざしている。情報理論は、非常に専門的で限定的で非人間的なプロセスを表現するために、従来の情報という概念を隠喩化したのである。けれど、そのような多義性や曖昧さによってもたらされた豊かさも魅力的であった。

【21-3】とはいえ、情報や情報理論が隠喩的な性質をもち、それが生物学的現象に適用されるのはべつに例外的な出来事ではない。そもそも、言語や隠喩が我々と自然や社会との関係性を形作るのはわかりきったことである。一部の学者たちは、我々が普段用いている概念体系は根本からして隠喩的な性質をもっているのだとさえいう。我々が用いる基礎的な概念のほとんどは、物理的あるいは文化的な経験に根ざしている。

【22-1】これまでの科学史や科学哲学において、モデルや隠喩についての議論は物質的な実践ではなく理論構築に焦点をあててきた。科学哲学者Mary Hesseは、科学における理論的説明が、説明されるべき現象の隠喩的な再描写であることを示した。たとえば、音は波の動き、気体は動き回る大量の粒子という隠喩によって説明された。情報理論の場合もそうであって、選択肢(?alternative)のランダムではない並びが「メッセージ」であり、そうした選択肢のセットが「アルファベット」であり、遺伝暗号におけるk文字(?)の言葉64種類のセットが「辞書」であることについては、この本の第4章で詳述するつもりだ。

【22-2】隠喩は一次システム(隠喩を借りる側)の特徴を強調したり隠したりする。一次システムは二次システム(隠喩を借りられる側)のフレームを通して見られることになるが、この転移が成功して定着すれば、時が経つにつれて二次システムも一次システムによって再形成されることになる。こうして生物学的特異性は情報的になり、結果的に情報、メッセージ、暗号といった概念も生物学的になっていった。

【23-1】1986年頃までに、隠喩についての研究は一つの産業に発展した。言語学者のMichael J. Reddyは一次的言語領域と二次的言語領域のあいだの双方向的な関係に焦点を当てた。

【23-2】Reddyは、情報理論において本来「メッセージ」は送られ得ないこと、「シグナル」はメッセージを含まないことを示した。さらに、日常言語が情報理論の拡張に対して与えた破壊的な影響はシャノンやウィーバーが名付けた言葉に端を発するということを論じた。彼らは選択肢のセットを「アルファベット」と呼び、それは彼らにとっては技術的な新語だったのだが、このような用語体系は情報理論が人間のコミュニケーションを論じるときには問題となった。

【23-3】Heinz von Foersterは、情報理論の起源に遡ってこのテーマを研究した。Foersterによれば、情報理論(それは本来「情報」理論ではないのだが)が「シグナル」と「情報」のような根本的に異なる概念を混同した理由は、この理論が戦時中に軍事的な文脈で発展したことに由来する。戦時中には、命令というただ一つの言語モードが圧倒的に多かったのだ。

【24-1】「情報」の問題は、生物学的現象に適用されたことで更に深まった。「情報」はここで隠喩の隠喩になってしまったのである。哲学者のRichard Boydは、サイバネティクスやコンピューターの隠喩が科学理論の構成要素になっていることを論じ、その例として認知心理学を分析したが、この分析はいくつかの言葉を置き換えれば分子生物学の場合にも適用できる。

【25-1】他の生物学的・社会的分野にも類似のアナロジーが見出だせる。免疫学者のバーネットは、1950年代末に免疫学的特異性を「暗号化された情報の転送」という観点から扱おうとした。内分泌学においても同様の試みがあった。

【25-2】こうしたアナロジーへの注目は、分子生物学においてコミュニケーションの隠喩が果たした役割を評価する上で役に立つ観点である。一方、分子生物学において情報理論を本来の数学的な形式で用いようとした試みは少なかった。放射線生物学者のHenry Quastlerは、1950年代にそうした数少ない試みをした人物の一人であり、情報を特異性の定量的尺度として用いようとした。

【25-3】Quastlerの研究は、その前提やデータが急速に時代遅れになったことや実験的課題を提供しなかったことのために世に埋もれていった(ただし生物学における数学的情報理論は消えたわけではなく、理論・コンピューター生物学の独立した一分野として生き残ってはいる)。

【26-1】こうした試みが失敗したあとも情報理論を分子生物学に適用しようとし続けたのが、情報言説、すなわち、「情報」「メッセージ」「テクスト」「暗号」「サイバネティック・システム」「プログラム」「命令」「アルファベット」「言葉」といった表現の体系であった。情報理論の観点からいえばこれはレトリックに過ぎないのだが、化学的・生物学特異性という100年来のアイデアに対する隠喩の役割を果たしており、また分子のテクスト(生命の本)としての妥当性を確認する役割も果たしていた。

【26-2】それゆえ、情報と言語の言説的実践は研究者たちの分析に関係がないわけではないし、単に解釈の問題なのでもない。言説的実践は生産的なモデル、アナロジー、解釈のフレームを供給していた。

【26-3】免疫学者のピーター・メダワーは1967年に、もし情報理論の術語が有用でなかったとしたらこのように流行ることはなかっただろうと論じていた。微生物学者のカール・ウーズも同年に、遺伝暗号研究の目覚ましい発展はそれが敷いた概念的フレームワークのために容易く吸収されたのだと論じていた。

【27-1】このような意見に誰もが同意していたわけではない。一般的に言って1960年代までの生化学者たちは、タンパク質や核酸の構成や構造といった静的側面の分析にとって、コミュニケーション的な比喩は無関係だと感じていた。カンギレムが論じたように、サイバネティクスのモデルは遺伝学など機能についての研究には有益だが、生化学など構造や構造の機能に対する関係についての研究ではそうでもなかった。

【27-2】生化学における情報的表現の浸透は複雑かつ不均等であった。フォン・ノイマンに影響を受けたSol Spiegelmanは1940年代末までに情報的・サイバネティクス的なモデルを導入したが、Heinz Fraenkel-Conratは1950年代中頃のタバコモザイクウイルスの研究においてそれを役立てることがなかった。だが1959年以降には彼も暗号や情報転送の観点から表現していくようになる。エルヴィン・シャルガフは1950年代中頃には情報転送の観点を採用していたが、1963年にはこれに対して辛辣な言い方をしている。

【27-3】生化学者であり生化学史家でもあるMarcel Florkinは、「情報とサイバネティクスの概念は生物に適用できる」というウィーナーの主張によって生み出された「分子生記号論(molecular biosemiotics)」を強く批判した。言語学は心理的実在などを扱うものであって、生化学に「言語」などの言葉を持ち込むべきではないと主張したのである。生化学者Joseph Frutonもこれに同意して、情報理論の数学は生物学的研究に適用されていないのに、その言葉だけが熱心に採用されていることを批判した。さらに後世の科学史家に対して、1950年代と60年代に分子生物学において情報理論が果たした役割を批判的に検討してほしいと要望した。

【28-1】まとめると、情報の概念とそれに関連したたくさんの比喩は、分子生物学に対して主として隠喩的に適用されたのだということができる。Quastlerの場合のように、テクニカルに適用された場合には科学的成果を伴わなかった。「暗号」などの概念は一貫性を欠いて用いられたが、分子生物学における運用上の有用性は疑いようもない。

【28-2】だがこれまで科学者や言語学者や哲学者たちは、情報の隠喩が果たした社会的・文化的な機能について分析してこなかった。隠喩がそうした機能をもつことについては、いくつもの研究がある。David Owen Edgeは、「生命の本」のような宗教的シンボルや、社会や身体や世界を機械として捉える見方が社会統制において中心的な役割を果たしてきたことを論じた。近年ではNancy Leys Stepanが、科学的な隠喩によって社会的価値観が刻印され裏付けられ循環していく様子を示した。

【29-1】だが、隠喩の持つ重要性の様々なレベルを最もよく捉えているのはJames J. Bonoの視点である。Bonoによれば、隠喩は複雑な科学の言説を他の社会的、政治的、宗教的、「文化的」な言説に位置づける。複雑な科学のテクストは、他の多数の言説との交差を通して自らを構成するのである。このことを踏まえると、1950年代において情報の隠喩は、新しく生まれた分子生物学のディシプリンとしての境界を定める(特に生化学の伝統から切り離す)役割を果たしていたと考えられる。フランシス・クリックは、「情報」が一方向的に流れるというセントラル・ドグマを提唱することで、分子生物学の縄張りを主張した。

【30-1】その頃までに、生化学者マーシャル・ニーレンバーグはタンパク質合成の研究で遺伝暗号を追跡し始めていた。生化学にとって、情報はデリダのいう危険な代補(supplement)であって、結局は生化学に方針転換を要求し分子生物学と融合させていくことになる。

【30-2】さらには、こうしたディシプリン間の問題を超えて、情報言説は共有された歴史的経験の影響を受けている。第二次世界大戦と冷戦の体験は、その足跡を科学や社会に残していたはずだ。戦後の技術文化の想像力によって、身体や集団のコントロールを超えた、生命を司る力が想像されたのである。

【30-3】ここから先では、「生命の本」と「自然の本」という隠喩について、古代から20世紀に至るまでの歴史を概観する。


● 遺伝暗号、生命の本、自然の本


【31-1】1960年代におけるゲノムの「生命の本」という表現は、自然的、永遠的、普遍的な書きもの(writing)としての「本」の象徴性と密接な関係にある。ユダヤ・キリスト教の歴史に長く息づいてきたこの隠喩は、プラトンが人間と世界の魂を永遠の書きものに喩えたことに由来する。「生命の本」は人間の魂の永遠性とロゴスを、「自然の本」は全ての生物と無生物の永遠性とロゴスを表現しているが、どちらの言葉においても「本」は創造の物質的記録の隠喩となっている。「自然の本」は特に13世紀以降、神学と自然哲学の境界設定とともに、聖書釈義として機能してきた。

【31-2】だがこの隠喩はいくつかの点でパラドックス的な性格をもっており、それゆえ大昔から議論の的となってきた。たとえば、初めに神とともに言葉があってその言葉が具現化したのだと言うが、シニフィエが存在しない段階でどうしてシニフィアンが考えられたのだろうか?という疑問がある。

【32-1】「自然の本」の意味は時代と共に変化してきており、移り変わるエピステーメーや文化的体験といった意味の体制のなかで再構成されてきた。それゆえ一枚岩ではなく、いくつもの断絶をもつ。

【32-2】古代ローマのルクレティウスは、異なる言葉が共通の文字を持つように、様々なものも共通の小さな元素を持っているのだと論じた。

【32-3】中世盛期(11~13世紀)には、「自然の本」は明確な意味をもつようになる。社会のなかで文章の重要性が増したことで、自然についての学問もそうした同時代のテクストに内在する論理と調和するようになった。自然は一冊の本として構成され、論理学、文法学、修辞学、神学といった中世の知の体系が自然の神秘を解き明かすのに動員された。

【33-1】1500年までに筆写文化の時代が終わり、印刷文化の時代が始まると、「自然の本」も印刷されたテクストになった。そして17世紀に近代科学が生まれると、「自然/生命の本」を読むことはそれを書くことと切り離せなくなった。ベーコン、デカルト、ガリレオ、ライプニッツ、ボネといった人々がこの本について論じた。

【33-2】カントは、「自然の本」が書かれている文字や言葉や言語について知ることが、知識を獲得するために十分ではないが必要な条件だと考えた。ゲーテも秘密の書きものという観点から自然を論じた。こうした想像力は19世紀まで続き、記憶の概念が生物学的・分子的な知識に結び付けられた。

【34-1】1950年代には、情報理論やコンピューターなどの普及によって、メッセージ、テクスト、言語といった概念が変質した。こうして、分子や生物をテクストとして、すなわち情報の保存・転送システムとして語ることが正当化されるようになった。後にヒトゲノム計画の提唱者となるシンスハイマーは、人間の染色体を「人間生命の本」だとみなした。しかしここには、意味論を欠いた情報概念というパラドックスの他にも、行為者性を欠いた言語学的意味というもう一つのパラドックスがあり、レヴィ=ストロースやボードリヤールはこの点を問題にした。遺伝暗号を自然的、永遠的、普遍的な書きものとして認証したのは、このような語の誤用だったといえる。

【34-2】もし知識についての客観主義的立場を疑えば、自然の書きものという見方はさらに不確かなものとなる。この、プラトン主義的で言語中心主義的な立場は、ゲノムを人間が現れる前から存在していて解読されるのを待っているような存在だとみなしている。この立場では言語は透明なものとみなされ、シニフィアンとシニフィエが正確に対応すると考えられている。だがこのような、言語を質量や空間や時間のように絶対的なものとみなす立場は、20世紀初頭にはすでに疑われるようになっていた。記号の意味はその文脈のなかで、他の記号との違いを通して決まるのである。意味や言葉は多義的なものであって、「生命の本」に普遍的で絶対的な読みがあるということは考えにくいということになる。

【35-1】デリダやポスト構造主義が言語「体系」の概念を不安定化させたように、生命科学者たちもオートポイエーシスの理論を通して生物学的システムを問題化してきた。そこでは、情報の意味は独立して予め定められているのではなく、システム内外の文脈に依拠して調節されるのだと考えられるようになった。

【35-2】言語中心主義的立場では、自然の書きものという見方の背後にある認識的前提や技術的要請が問われることがなかった。こうした問題は、エピステーメーとテクネーの弁証法や介入と表象の弁証法によって解き明かされるだろう。こうした弁証法は、表現や技術から独立したありのままの自然に接続することができるという客観主義的な立場に意義を申し立てる。エピステーメーとテクネーを絡みあったものとみなして古代ギリシャ以来の言語中心主義的伝統を排するならば、理論と実践、発見と介入、観察と現象の二分法はぼやけてくる。技術と理論はお互いにお互いを生み出すのである。

【36-1】この観点からすると、書くことはテクネーの側にある。それは意味化のプロセスであり、表現の技術だといえる。このデリダ的な観点からすると、書くのは書きもの(writing, エクリチュール)それ自体であり、行為者性のようなものをもっていることになる。科学者たちは情報の言説と聖書的技術を通して生物学的存在の記述・操作に手を出したことで、分子生物学の技術゠認識的出来事が起こる表現空間の一部となったのである。そこでは実験のデザインやデータの解釈、表現といった役者たちの自由は、常に言説的・物質的空間の影響を受けることになる。

【36-2】最後に、神のいない科学的宇宙において「生命の本」の著者は誰かという難問がある。1950年代以来の分子生物学は、有神論的・宗教的なアイコンであふれていた。こうした神的な生権力が、はじめは世俗的解釈を通して、その後で世俗的(再)創造を通して、ゲノムの「生命の本」の理解を可能にしたということは疑う余地がないだろう。

【36-3】Edward TrifonovとVolker Brendelはチョムスキー的なDNA言語学の先駆者であるが、彼らは分子生物学者を、生命を生み出した最初の言語の問題に取り組んでいる人々として表現した。言葉すなわちDNA配列は、神秘的な力を想起させ、分子生物学者を創造の営みに近づけていたのである。


2016年2月13日

訓練された判断 Daston and Galison, Objectivity, 第6章後半

Lorraine Daston and Peter Galison, Objectivity (New York: Zone Books, 2007), 346–361.

第6章 訓練された判断

3.判断の技法(アート)

 20世紀中頃に起こった変化を理解するために、外科の例をみてみよう。19世紀の中頃から末期にかけては、絵を用いるのであれば線も色も注意深く監視することを誓い、あるいはその必要をなくすために写真を用いる、そういった科学者が雪だるま式に増えていった。だが20世紀中頃には、判断を積極的に行使するやり方が用いられるようになる。外科医のIvan D. Baronofskyは『一般外科における予防措置の図版』(1968)において、彼のイラストレーターは最高の解釈者であり、単なるカメラの役割を果たしたのではなく、その絵を正当化する特徴を引き出したのだと述べた。19世紀において科学イラストレーターがカメラになぞらえられることは最高の名誉であったが、Baronofskyはそれを不名誉なことだと考えている。今や、解釈できることこそが重要となったのである。John L. Maddenの『外科における技術の図版』(1958)も、切り口から出血しなかったり留め具や結紮糸が外れなかったりすることを例に、絵が実際の手術場面と異なっていることの利点を強調した。Maddenは解剖学的なリアリズムを守るために、カメラによる機械的客観性を避け、解釈ができる医学画家を採用したのである。BaronofskyやMaddenの態度は、世紀の変わり目にJohannes Sobottaが木版画を非難したのとは対照的である。訓練された画家は、描写を有用にするような際立った特徴を抽出することができる。

 これは、機械的客観性はもちろんのこと、写実(truth-to-nature)とも違うものである。昔の「賢者」たちは、認識や分類や診断を手助けするために誇張や強調をすることはなかったし、器具によって生み出された人工物を排除しようとすることもなかった。彼らは、個々の現れの不完全さのために曖昧になってしまった真実を追い求めていたのである。一方、訓練された判断は、専門知識を教えるために物体や過程から意味を引き出し表象を通して伝えるものである。形而上学的な真実のための完全化(写実)と、操作上の成功のための強調(訓練された判断)は異なっている。

 対象となる物体自体が変化しない場合であっても、訓練された判断が必要とされた。たとえば月の表面を撮った写真は、光の加減などが刻一刻と変化するために見え方が定まらない。V. A. Firsoffは純粋に機械的な方法では月の表面を明確に捉えることができないと主張し、『月の図版』(1961)では絵を用いた(図6.8と図6.9)。

 表象が対象物と同形でない場合もある。たとえば、物理科学において大量の数値による表の代わりに、人口密度地図のような図が用いられる場合などである。このような図を作る場合にも、科学者が元々のデータを操作していることがあった。Robert Howardらは『太陽の磁場の図版』(1967)において天気図のような図(図6.10)を描いたが、これを作る際にはデータを「ならす」作業をしていた。

 Gerhart S. SchwarzとCharles R. Golthamerは1965年に、『人間頭蓋骨のレントゲン写真図版――正常変異と偽病変』を出版した。この図版の一つの目標は、専門家でも病気と間違えやすい正常変異や偽病変をレントゲン写真から見抜く術を教えることであった。この目標を達成するために彼らは専門の画家と協力し、レントゲン写真を元にしつつもその上に正常変異や偽病変の特徴を手描きしていく方法を採用した。当初二人は、できる限り「自然に」、レントゲン写真において実際に見えるままの正常変異や偽病変を描いていくのがよいと考えていた。しかしすぐに、「自然に」描いていたのでは多くの読者には伝わらないということに気付いた。彼らが伝えたかったものは、見えた通りに描いていては「自然」のなかに埋没していってしまうような類のものだったのである。そこで二人は、「自然に」描くのではなく「リアルに」描くことを目標として、正常変異や偽病変の特徴を強調して描いていった(図6.11)。ここでは、既に存在する写真に加工をするということがリアリズムであるという、リアリズムの再定義がなされている。

 「リアルさ」は、訓練された判断の活用によって現れてくる。対象を機械的に表象に転写することはたしかに「自然」であるだろうが、「自然」であることはもはや科学的欲望の唯一の対象ではなくなった。もちろん、自己を律する機械的客観性はなくなったわけではなく、生き残り続けた。だがともかく、20世紀中頃において、機械的客観性に基づかない新しい形の科学的表象が次々と現れるようになったのである。

4.実践と科学的自己

 「賢者から労働者、そして訓練された専門家へ」「熟考によるイメージから機械的なイメージ、そして解釈されたイメージへ」という図式は、イメージの認識論的歴史を著者=科学者の倫理的認識論につなげるものである。20世紀初頭には、それまでとは異なる科学的自己を養成する状況が生まれていた。

 ポアンカレは、科学における発見の道具として直観の役割を強調した人物である。ポアンカレは数学者を、論理や分析によって仕事をするシャルル・エルミートのような人々と、物理的思考や視覚的描写、即座の把握によって仕事をするジョセフ・ベルトランのような人々に分けることができると考えていた。前者の人々は世界との接触を避けるかのように仕事をするが、厳密さで優る分、客観性においては劣っているとポアンカレはいう。逆に後者の人々は、厳密さを欠いている。ポアンカレは、論理的直観と感覚的直観は異なる能力であり、二つのサーチライトのようなものだと考えていた。

 ポアンカレの同時代人には、無手順的で直観的な方法が(数学のみならず)科学にとって決定的だと考える人が次々と現れていた。たとえばフランスの数学者ジャック・アダマールは、生産的な数学的自己に欠かせない一部分として無意識を強調した。ここでいう無意識はフロイトのいうような明確に詳述できる無意識ではなく、心理学者ピエール・ジャネのいう無意識的被暗示性や、ゲシュタルト心理学者たちのいうパターン認識の無意識的基準に近いものであった。アダマールは、無意識的なパターン評価の例として人間の顔の識別を挙げていた。アダマールはポアンカレに賛同して、無意識的な自己には識別の能力や美的感覚があり、どうやって選びどうやって察知すればいいかを知っているのだと考えた。

 このような無意識的で直観的な科学的自己は、「労働者」のそれと異なるのみならず、「賢者」のそれとも異なっている。「訓練された専門家」の知識は、現実に対する特別なアクセス(「賢者」のような天才性)によるものではなく、ただ熟練によるものである。また、「解釈されたイメージ」は形而上学的なものではない。専門家の判断が示す図解は、現実世界の向こう側に潜む理想的な世界を示すものではなく、入門者に見方や知り方を教えるものである。

 画像を見る人についての想定も変化している。「熟考によるイメージ」も「機械的なイメージ」も、それぞれにそれを見る側の認識的な受動性を前提していた。だが「解釈されたイメージ」はより多くを要求する。作り手も読み手もより活動的になり、意識的な能力だけでなく無意識な能力をも働かせるようになったのである。

 完全に自然の側による客観的なイメージに対比される例としては、20世紀初頭に精神分析家ヘルマン・ロールシャッハが生み出したロールシャッハ・テスト(被験者にインクのしみを見せて、何を想像するかを答えさせる検査)が挙げられる。このインクのしみは世界とは関係なく「ランダム」に生み出されるものであり、被験者がそこに何を読み込むかが問題とされた。ロールシャッハは、人間の認識や感情は自然の敵だという古い考え方を拒否したのである。またロールシャッハは、ポアンカレと同様に認識(意識的論理)と感情(無意識的直観)を組合せることを重視していた。

 天文学者も医師も、哲学者も数学者も、20世紀初頭の科学者たちは科学的自己を再構成した。同時期に、心理学者たちは主観性の深層を測る方法を開発しようとしていた。20世紀の半ばまでに、客観性と主観性はもはや対立するものではなくなり、DNAの螺旋のように、科学の対象を理解するための相互補完的な存在となるのである。