Martin J. S. Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。
ライエルは1831年4月に、28年創立のキングス・カレッジ・ロンドンの地質学教授に就任し、32年と33年の夏に地質学の講義をもったが、33年の10月に早くも辞職してしまった。従来の解釈では、ライエルの辞職は彼の意見が宗教的に異端であったためだと推測されてきた。また、ライエルはこの職を得るとき、自分の意見を正直に述べなかったのだともいわれてきた。
この論文では、以上のような解釈はライエルの宗教的立場や社会的態度に関する疑わしい想定から生じていることを示唆する。ライエルの活動を「科学 対 宗教」という対立の観点から捉える見解は、宗教から分離され科学に導かれる社会の実現を目指した19世紀後半の論者たちによって生み出された。このような見解は、科学者と社会の関係をきわめて単純化している上、科学の活動を支えた物質的土台の問題や、科学者が自らの考えを広める際の社会的責任の問題を無視している。このような時代遅れのヒストリオグラフィーが放棄されれば、ライエルの活動に関して謎だと思われてきた事柄もすっきり理解することができる。
ライエルがキングス・カレッジの教授に就こうとした背景には、聴衆を獲得する狙いや経済的な事情があったと考えられる。ライエルは最初セジウィックに接近し、ロンドンの主教でありキングス・カレッジの評議員でもあったブロムフィールドへの推薦を得た。台頭著しい地質学を組み込む必要性が認識されていたことや、有望な若い地質学者としてライエルの名前が既に知られていたこともあって、この推薦は受け入れられた。
ブロムフィールドらは、科学的議論を妨げようとしていなかった。ただ、教職にある人間が組織の基盤を攻撃しないかを正当に心配していたのである。ランダフの主教であったコプルストンは、評議会のメンバーとしてライエルに(1)人類は地質学的に最近の時代に創造されたか、(2)それより後に全地球的な洪水があったか、という2点を確認した。ライエルは一つ目の点に対しては、種の個別創造なしで済ませるラマルクの仮説を『地質学原理』の続きで明確に批判するつもりであること、また最近の時代における人類の創造と矛盾する証拠はないことを説明した。二つ目の点に対しては、洪水が全地球を覆ったとは考えないが、人間が住んでいた地域が局地的な洪水に遭ったのだろうと答えた。コプルストンは返事で、一つ目の点に関しては満足したが、二つ目の点に関してはライエルの見解が大学の聴衆に与える影響を懸念していると伝えた。しかし、コプルストンは神学的にはリベラルな立場の人物であり、聖書直解主義を遺憾に思っていた。コプルストンはあくまで、科学的研究によってはっきりと確立される前に、早まって信仰を危機に陥れるような変化を聴衆に強制してしまうことに関して責任を感じていたのである。言い換えればコプルストンは、科学者がその権威を利用して、科学自体から厳密には推論できない結論を容易く引き出してしまえることを認識していたのである。人種や知性に関する現代の論争に置き換えて考えれば、このような危機意識は常識的である。
コプルストンに対するライエルの返答は、ライエルの伝記作家によって不誠実だと非難された。しかし、ライエルがキングス・カレッジでの講義を反キリスト教的な議論に用いようとしたという証拠はない。バックランドの友人であり擁護者であったコニベアが、ライエルに対する留保を取り消すようにコプルストンに求めたことも、もしこの問題を地質学と創世記の対立として捉えれば不可解となる。結局、コプルストンは留保を撤回し、ライエルは正式に教授となった。
しかし、ライエルは講義が始まる前から既に辞職を考え始めていた。ライエルが関心をもっていたのは主にお金と名声であり、教授としての仕事それ自体ではなかった。ライエルの講義は32年の5月に始まったが、初回の出席者は80名と、期待したよりも少なかった。初回の講義は大成功であったが、受講料を払ってそれ以降の講義に出席する人の数は少なく、ライエルは再び辞職を考え始めた。
もともとキングス・カレッジでは女性も講義に出席できることになっており、ライエルは当初この方針に反対していた。だが、当時地質学は上流階級・中産階級の女性のあいだで人気があり、出席者のうちで女性が占める割合は高かったので、ライエルにとっては重要な収入源になった。しかしキングス・カレッジの評議会は、女性の参加はアカデミックでないという理由で、女性の出席を認めない方針に転換した。収入が減ってしまったライエルはこれに反発し、辞職の意向を固めた。後任には、ジョン・フィリップスが就いた。
33年には、キングス・カレッジでの講義と同時期に王立研究所でも講義をもっていた。こちらは女性の出席も認められており、200名以上の出席者がいたが、受講料が安かったためにやはり収入は少なかった。
ライエルは王立研究所の講義でも、聖書と真っ向から対立するような題材は扱わなかった。また、講義の時期に亡くなったキュヴィエについても、ライエルはその業績を称えている。
ライエルのノートからは、各講義のために入念な準備をしていたことがわかる。ライエルが辞職したのは、講義のために必要となる時間に対して、得られる収入が割に合わないと感じたからであって、それゆえ『地質学原理』の新しい版が出て収入に目途がついた時点で辞職したのである。
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