Martin J. S. Rudwick, “Caricature as a Source for the History of Science: De la Beche’s Anti-Lyellian Sketches of 1831,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。
風刺画を分析することの重要性は歴史学一般では広く認められてきたが、科学史家たちは十分な注意を払ってこなかった。
この論文で取り上げるのは、地質学者デ・ラ・ビーチ(1796–1855)が描いた、“Awful
Changes”
と題された風刺画(図1)である。この風刺画は、バックランドの地質学講義を題材にしていると思われてきた。しかしこの解釈では、バックランドの講義風景を描いた絵のなかにもこの絵が写り込んでいるという事実をうまく説明できない。そこでこの論文では、この絵はバックランドではなくライエルに対する風刺であるという解釈を示したい。
この解釈の根拠となるのは、デ・ラ・ビーチが自身のノートに描きためていたいくつかのラフスケッチ的な風刺画である。前後に描かれたスケッチなどから判断して、これらはライエルの『地質学原理』第1巻の出版から1年以内に描かれたと考えられる。これらのラフスケッチは、“Awful
Changes” を他の地質学者たちに回すまえに、予備的にさまざまなテーマを試していたものだと推測される。
図3~5のラフスケッチはいずれも、ライエルと思われる人物が他人に色眼鏡や眼帯をつけさせるというテーマで描かれており、ライエルによる地質の観察は理論的前提によって歪められていることを示唆している。図6~7は、ライエルが定向主義的な気候変動の解釈に反対して、大陸の配置が極めて長い時間をかけて変化してきたと主張していたことに対する風刺となっている。図8も、ライエルが地質学的説明のために長大な年月を持ち出すことへの皮肉となっている。図9は、ライエルが沖積層だけでなく洪積層をも現在因だけで説明しようとすることを風刺している。図10は、ロンドンの地質学会の様子を風刺的に描いたものと推測されるが、どのキャラクターが誰に当たるのか、解釈が難しい。そして図12は、“Awful
Changes” の下描きとなっている。
このような一連のラフスケッチの中から登場してきた “Awful Changes” は、ライエルの提唱する地史が循環的なモデルであったことに対する風刺であると考えられる。
2016年12月16日
2016年12月10日
ライエルはなぜキングス・カレッジの教授を辞めたのか Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33”
Martin J. S. Rudwick, “Charles Lyell, F. R. S. (1797–1875) and His London Lectures on Geology 1832–33,” in Lyell and Darwin, Geologists: Studies in the Earth Sciences in the Age of Reform (Aldershot: Ashgate, 2005).
※ 1975年発表。
ライエルは1831年4月に、28年創立のキングス・カレッジ・ロンドンの地質学教授に就任し、32年と33年の夏に地質学の講義をもったが、33年の10月に早くも辞職してしまった。従来の解釈では、ライエルの辞職は彼の意見が宗教的に異端であったためだと推測されてきた。また、ライエルはこの職を得るとき、自分の意見を正直に述べなかったのだともいわれてきた。
この論文では、以上のような解釈はライエルの宗教的立場や社会的態度に関する疑わしい想定から生じていることを示唆する。ライエルの活動を「科学 対 宗教」という対立の観点から捉える見解は、宗教から分離され科学に導かれる社会の実現を目指した19世紀後半の論者たちによって生み出された。このような見解は、科学者と社会の関係をきわめて単純化している上、科学の活動を支えた物質的土台の問題や、科学者が自らの考えを広める際の社会的責任の問題を無視している。このような時代遅れのヒストリオグラフィーが放棄されれば、ライエルの活動に関して謎だと思われてきた事柄もすっきり理解することができる。
ライエルがキングス・カレッジの教授に就こうとした背景には、聴衆を獲得する狙いや経済的な事情があったと考えられる。ライエルは最初セジウィックに接近し、ロンドンの主教でありキングス・カレッジの評議員でもあったブロムフィールドへの推薦を得た。台頭著しい地質学を組み込む必要性が認識されていたことや、有望な若い地質学者としてライエルの名前が既に知られていたこともあって、この推薦は受け入れられた。
ブロムフィールドらは、科学的議論を妨げようとしていなかった。ただ、教職にある人間が組織の基盤を攻撃しないかを正当に心配していたのである。ランダフの主教であったコプルストンは、評議会のメンバーとしてライエルに(1)人類は地質学的に最近の時代に創造されたか、(2)それより後に全地球的な洪水があったか、という2点を確認した。ライエルは一つ目の点に対しては、種の個別創造なしで済ませるラマルクの仮説を『地質学原理』の続きで明確に批判するつもりであること、また最近の時代における人類の創造と矛盾する証拠はないことを説明した。二つ目の点に対しては、洪水が全地球を覆ったとは考えないが、人間が住んでいた地域が局地的な洪水に遭ったのだろうと答えた。コプルストンは返事で、一つ目の点に関しては満足したが、二つ目の点に関してはライエルの見解が大学の聴衆に与える影響を懸念していると伝えた。しかし、コプルストンは神学的にはリベラルな立場の人物であり、聖書直解主義を遺憾に思っていた。コプルストンはあくまで、科学的研究によってはっきりと確立される前に、早まって信仰を危機に陥れるような変化を聴衆に強制してしまうことに関して責任を感じていたのである。言い換えればコプルストンは、科学者がその権威を利用して、科学自体から厳密には推論できない結論を容易く引き出してしまえることを認識していたのである。人種や知性に関する現代の論争に置き換えて考えれば、このような危機意識は常識的である。
コプルストンに対するライエルの返答は、ライエルの伝記作家によって不誠実だと非難された。しかし、ライエルがキングス・カレッジでの講義を反キリスト教的な議論に用いようとしたという証拠はない。バックランドの友人であり擁護者であったコニベアが、ライエルに対する留保を取り消すようにコプルストンに求めたことも、もしこの問題を地質学と創世記の対立として捉えれば不可解となる。結局、コプルストンは留保を撤回し、ライエルは正式に教授となった。
しかし、ライエルは講義が始まる前から既に辞職を考え始めていた。ライエルが関心をもっていたのは主にお金と名声であり、教授としての仕事それ自体ではなかった。ライエルの講義は32年の5月に始まったが、初回の出席者は80名と、期待したよりも少なかった。初回の講義は大成功であったが、受講料を払ってそれ以降の講義に出席する人の数は少なく、ライエルは再び辞職を考え始めた。
もともとキングス・カレッジでは女性も講義に出席できることになっており、ライエルは当初この方針に反対していた。だが、当時地質学は上流階級・中産階級の女性のあいだで人気があり、出席者のうちで女性が占める割合は高かったので、ライエルにとっては重要な収入源になった。しかしキングス・カレッジの評議会は、女性の参加はアカデミックでないという理由で、女性の出席を認めない方針に転換した。収入が減ってしまったライエルはこれに反発し、辞職の意向を固めた。後任には、ジョン・フィリップスが就いた。
33年には、キングス・カレッジでの講義と同時期に王立研究所でも講義をもっていた。こちらは女性の出席も認められており、200名以上の出席者がいたが、受講料が安かったためにやはり収入は少なかった。
ライエルは王立研究所の講義でも、聖書と真っ向から対立するような題材は扱わなかった。また、講義の時期に亡くなったキュヴィエについても、ライエルはその業績を称えている。
ライエルのノートからは、各講義のために入念な準備をしていたことがわかる。ライエルが辞職したのは、講義のために必要となる時間に対して、得られる収入が割に合わないと感じたからであって、それゆえ『地質学原理』の新しい版が出て収入に目途がついた時点で辞職したのである。
※ 1975年発表。
ライエルは1831年4月に、28年創立のキングス・カレッジ・ロンドンの地質学教授に就任し、32年と33年の夏に地質学の講義をもったが、33年の10月に早くも辞職してしまった。従来の解釈では、ライエルの辞職は彼の意見が宗教的に異端であったためだと推測されてきた。また、ライエルはこの職を得るとき、自分の意見を正直に述べなかったのだともいわれてきた。
この論文では、以上のような解釈はライエルの宗教的立場や社会的態度に関する疑わしい想定から生じていることを示唆する。ライエルの活動を「科学 対 宗教」という対立の観点から捉える見解は、宗教から分離され科学に導かれる社会の実現を目指した19世紀後半の論者たちによって生み出された。このような見解は、科学者と社会の関係をきわめて単純化している上、科学の活動を支えた物質的土台の問題や、科学者が自らの考えを広める際の社会的責任の問題を無視している。このような時代遅れのヒストリオグラフィーが放棄されれば、ライエルの活動に関して謎だと思われてきた事柄もすっきり理解することができる。
ライエルがキングス・カレッジの教授に就こうとした背景には、聴衆を獲得する狙いや経済的な事情があったと考えられる。ライエルは最初セジウィックに接近し、ロンドンの主教でありキングス・カレッジの評議員でもあったブロムフィールドへの推薦を得た。台頭著しい地質学を組み込む必要性が認識されていたことや、有望な若い地質学者としてライエルの名前が既に知られていたこともあって、この推薦は受け入れられた。
ブロムフィールドらは、科学的議論を妨げようとしていなかった。ただ、教職にある人間が組織の基盤を攻撃しないかを正当に心配していたのである。ランダフの主教であったコプルストンは、評議会のメンバーとしてライエルに(1)人類は地質学的に最近の時代に創造されたか、(2)それより後に全地球的な洪水があったか、という2点を確認した。ライエルは一つ目の点に対しては、種の個別創造なしで済ませるラマルクの仮説を『地質学原理』の続きで明確に批判するつもりであること、また最近の時代における人類の創造と矛盾する証拠はないことを説明した。二つ目の点に対しては、洪水が全地球を覆ったとは考えないが、人間が住んでいた地域が局地的な洪水に遭ったのだろうと答えた。コプルストンは返事で、一つ目の点に関しては満足したが、二つ目の点に関してはライエルの見解が大学の聴衆に与える影響を懸念していると伝えた。しかし、コプルストンは神学的にはリベラルな立場の人物であり、聖書直解主義を遺憾に思っていた。コプルストンはあくまで、科学的研究によってはっきりと確立される前に、早まって信仰を危機に陥れるような変化を聴衆に強制してしまうことに関して責任を感じていたのである。言い換えればコプルストンは、科学者がその権威を利用して、科学自体から厳密には推論できない結論を容易く引き出してしまえることを認識していたのである。人種や知性に関する現代の論争に置き換えて考えれば、このような危機意識は常識的である。
コプルストンに対するライエルの返答は、ライエルの伝記作家によって不誠実だと非難された。しかし、ライエルがキングス・カレッジでの講義を反キリスト教的な議論に用いようとしたという証拠はない。バックランドの友人であり擁護者であったコニベアが、ライエルに対する留保を取り消すようにコプルストンに求めたことも、もしこの問題を地質学と創世記の対立として捉えれば不可解となる。結局、コプルストンは留保を撤回し、ライエルは正式に教授となった。
しかし、ライエルは講義が始まる前から既に辞職を考え始めていた。ライエルが関心をもっていたのは主にお金と名声であり、教授としての仕事それ自体ではなかった。ライエルの講義は32年の5月に始まったが、初回の出席者は80名と、期待したよりも少なかった。初回の講義は大成功であったが、受講料を払ってそれ以降の講義に出席する人の数は少なく、ライエルは再び辞職を考え始めた。
もともとキングス・カレッジでは女性も講義に出席できることになっており、ライエルは当初この方針に反対していた。だが、当時地質学は上流階級・中産階級の女性のあいだで人気があり、出席者のうちで女性が占める割合は高かったので、ライエルにとっては重要な収入源になった。しかしキングス・カレッジの評議会は、女性の参加はアカデミックでないという理由で、女性の出席を認めない方針に転換した。収入が減ってしまったライエルはこれに反発し、辞職の意向を固めた。後任には、ジョン・フィリップスが就いた。
33年には、キングス・カレッジでの講義と同時期に王立研究所でも講義をもっていた。こちらは女性の出席も認められており、200名以上の出席者がいたが、受講料が安かったためにやはり収入は少なかった。
ライエルは王立研究所の講義でも、聖書と真っ向から対立するような題材は扱わなかった。また、講義の時期に亡くなったキュヴィエについても、ライエルはその業績を称えている。
ライエルのノートからは、各講義のために入念な準備をしていたことがわかる。ライエルが辞職したのは、講義のために必要となる時間に対して、得られる収入が割に合わないと感じたからであって、それゆえ『地質学原理』の新しい版が出て収入に目途がついた時点で辞職したのである。
2016年11月25日
動的分類系に関する早田文藏のドイツ語論文 Hayata, “Über das „Dynamische System” der Pflanzen”
Hayata Bunzô, “Über das „Dynamische System” der Pflanzen,” Berichte der Deutschen Botanischen Gesellschaft 49 (1931): 328–348.
1.序文
この論文では、筆者が1921年の論文で発表した「動的分類系」を説明する。この分類系の基礎は、現在の分類学者たちが前提とするものとは本質的に異なっている。彼らが基礎とするのは、単一の最初の生物から無数の現生種が生じてきたと仮定し、その遺伝的つながりについて枝分かれ状の系統樹を想定するダーウィンの理論である。系統樹の構築は、現在の植物体系学において最も主要な目標となっている。それに対して筆者の仮定は、第一に祖先は現生種と同じくらい多数存在しているということであり、第二に祖先も子孫も互いに上下左右に網状の関係にあるということである。
2.植物の網状関係と跳躍的変化
最初に、エングラーによる双子葉類の体系を概観してみよう。我々は、離弁花類に属する目を片側(たとえば左側)の列に並べ、合弁花類の目をもう一方の列に並べていく。左側の列のなかでも右側の列のなかでも、それぞれの目はお互いに確かな類似性を示しているのは確かである。しかし、冷静かつ中立的にこの体系をよく見ていると、左側の列にあるそれぞれの目が、同じ高さにある右側の列の目と密接な関係を示しているという思いがけない事実に気付くはずである。いわば織物の縦糸と横糸のように、双子葉類のさまざまな目は、鉛直方向だけでなく水平方向の関係も示しているのである。
今度は、ディールスによるシダ植物門ウラボシ科の体系を見てみよう。ここでも、異なる分類群に分けられている属が、お互いに密接な関係を示している例を見つけることができる。クリスト(Konrad Hermann Heinrich Christ, 1833–1933)も、Nephrodiumのような形のシダがAlsophilaのような胞子嚢群をもっていたり、Alsophilaのような葉をした種がNephrodiumのような胞子嚢群をもっていたりすることを報告している。
植物界のさまざまなグループのあいだの関係は、縦と横の両方に広がるという点で、メンデレーエフの周期表における化学元素間の関係を想起させる。もちろん、生物と非生物を比較することに対する批判はあるだろう。しかし、植物における近い属や目のあいだには一般的に、漸進的ではなく突然的・跳躍的な移行が見られる。この事実は、量子論によって説明されるような、化学結合において見出される関係によく似ている。こうした網状関係や段階的移行は、ダーウィンの理論によっては説明され得ない事実である。我々が見るのは漸進的変化ではなくむしろ偶然変異、系統樹的関係ではなくむしろ網状関係なのである。
ここに挙げた事実を考えるためには、メンデルの法則に言及する必要があるだろう。それによると、種間の相違は因子(Gene)の関与の違いに由来する。2つの種を交配すれば、F1世代では雑種が得られるが、F2世代ではヘテロ接合体とホモ接合体に分離する。後者は、偶然変異の場合の例外を除いて、永続的で変わらない種のように見える。しかし、これらF2世代の個体はその由来についての特徴を何ら示さない。父方の種から生じたのか、母方の種から生じたのか、それとも直接に雑種から生じたのか、わからないのである。それゆえメンデルの法則が正しい限り、分類系の構築に際して必要とされる系統学的方法は欺瞞でしかない。体系学の基準は種の因子組成(因子型:Genotypus)でなければならない。言い換えれば、内的構成(innerer Bau)に関係する類似や相違が根拠でなければならない。たとえ、単一の祖先からいくつかの種が樹木状に枝分かれして生じたと考えても、その祖先自体がまた2つの祖先に由来しているヘテロ接合体である。木の根のように下っていくと、その祖先は、遠く離れた過去においてますます小さな根に裂かれていく。喩えるなら、体系学で採用される普通の系統樹は、地下の根系がなく地上の一つの幹といくつかの枝から成っているようなもので、そのような木は突風が吹けばひっくり返されてしまうに違いない。
3.動的分類系
内的構成の類似と相違、言い換えれば因子の組成(Zusammensetzung)を植物の体系学に用いるならば、種の分類方法は多種多様であり得る。たとえば、白い花の因子をA、赤い花の因子をa、白い果実の因子をB、赤い果実の因子をb、白い種子の因子をC、赤い種子の因子をcとしたとき、他の因子を考慮に入れなければ、(1)ABC、(2)ABc、(3)Abc、(4)aBC、(5)abC、(6)AbC、(7)aBc、(8)abcという8つの種を分類する方法は3つある。花に注目して(1)(2)(3)(6)と(4)(5)(7)(8)という2つのグループに分ける方法、果実に注目して(1)(2)(4)(7)と(3)(5)(6)(8)に分ける方法、種子に注目して(1)(4)(5)(6)と(2)(3)(7)(8)に分ける方法である。
筆者の意見では、自然分類とはこの3つの方法の統合であり、それによって完全な体系が得られる。筆者のこれまでの論文では、このようにして構築される分類系を「動的分類系」と呼んでいる。それに対して、これまでの体系学者たちが採用してきた分類系を「静的分類系」と呼んでいる。
問題となる因子が限られており、それらの因子が3つ以下のグループに属し、[それぞれのグループ内で]因子が数学的に直線的な関係を築いている場合、自然分類は簡単な構造をとり、体系化は一つの方法だけで足りる。このような場合には、自然分類が静的分類系に似てくる。
たとえば、3つの種の相違が花の色の因子に起因している場合、白い花の因子をa0、淡紅色の花の因子をa1、真っ赤な花の因子をa2とすると、色の度合の関係は直線上[x軸上]に表される(図1)。この場合には、このような静的分類系だけが可能である。
次に、2つのグループの因子があり、それぞれのグループが3つの対立形質あるいは対立因子をもっている場合を考える。先ほどの例に登場した因子に加えて、白い果実の因子をb0、淡紅色の果実の因子をb1、真っ赤な果実の因子をb2とする。b0、b1、b2をy軸にとり、9つの種に関する平面上の静的分類系をつくることができる(図2)。
さらに、3つ目のグループの因子としてc0、c1、c2を追加すると、これらをz軸にとって、27個の種に関する空間的な静的分類系をつくることができる(図3)。
では、4つ目のグループの因子(d0、d1、d2)を追加した場合にはどうすればいいのか。aをx軸に、bをy軸に、cをz軸にとり、三次元の静的分類系をつくることはできるが、この場合dグループの因子が異なる3つの種が同じ点に集まることになる(図4)。同様に、a、b、dの組合せ、a、d、cの組合せ、d、b、cの組合せでも三次元の静的分類系をつくることができる(図5、6、7)。自然分類は、動的な感覚でこれら4つの静的分類系を総合することによって理解される。
一般に、因子のグループの数をnとし、それぞれのグループにm個の因子が属しているとする。このとき、因子の異なる組合せの数はmのn乗となる。これらを一つの因子の有無で分けると、mのn-1乗個の組合せのグループが2つできる。因子a0に相当する形質をもっている種の数をs1、因子a0をもっていない種の数をt1とすると、m^n=s1+t1が成り立つ。同様に、因子b0についてはm^n=s2+t2の式が成り立つ。このような方法によるグループ化の仕方の数はm.nとなる。自然分類をNsとし、s1, s2, s3, … s(m.n)というグループ群をS、t1, t2, t3, … t(m.n)というグループ群をTとすると、Ns=(m.n×S)+(m.n×T)、またはNs=m.n×(S+T)という式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がm.n個のグループ群(S+T)で把握されるということを示している。また、+という記号も足し算を意味しているのではなく、グループ群Sとグループ群Tは一緒になってグループ化し直されるということを示している。
すでに述べたように、因子のグループが4つ以上存在する場合には、そのうち3つのグループを選び出して空間的システムに整理することを繰り返し、それら全てを総合的に観ることで自然分類が表現される。3つの因子グループの選び方は、nC3=n/6(n-1)(n-2)通りであり、空間的に表現された部分システムをRsとすると、Ns=n/6(n-1)(n-2)×Rsという式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がn/6(n-1)(n-2)個の部分システムで把握されるということを示している。
自然分類は動的な仕方でのみ把握できるという筆者の考えを目に見えるような形で表現するならば、図8のような装置で壁に映し出される投影像を想像してほしい。逆方向に回転する2枚の円盤によって映し出される像は動的分類系に相当する。一方、静的分類系は止まっている板の像に相当する。
最後に、なぜ植物は網状の関係と段階的な相違を示すのかという問いに答えたい。
4.因子分配説(Partizipationstheorie)
この理論は本来一つのものだが、便宜上、因子相互協力説(Kooprationstheorie)と因子相互分配説(Verteilungs- oder Anteiltheorie)の二つに分けることにする。Kooperationという言葉は、ある種を生みだす際における因子の共同作業を表現している。種や器官を形成するプロセスには、様々な因子が参加している[因子相互協力説]。一方で、異なる種や異なる器官にも、同一の種類(Arten)の因子が、異なる割合であれども関与している[因子相互分配説]。一方の面では、一つの種に対する様々な因子の関与を説く理論であり、もう一方の面では、同一の種類の因子に対する様々な種の関与を説く理論であるから、これを「因子分配説」と名付けたのである。ただし、筆者の理論における「因子」という概念は必ずしも遺伝学の因子概念と同じというわけではなく、より広い範囲の意味をもつ。
詳細な説明に入る前に、正確ではないがわかりやすい視覚的な表現を示したい。普通の種概念では、種は一つの統一体として表現される。図9では、これを赤いボールや黄色いボールで表現した。しかし筆者の見解では、種は単一の統一体ではなく基本的な統一体のつながったもの(集合体)であり、単色のボールではなく、いくつかの異なるガラス玉の集まりのようなものである。図9の赤いボールは実は図10のような、赤いガラス玉が黄色いガラス玉に対して優勢であるようなガラス玉の集合体である。筆者は、それぞれの種はその本質的な要素においてはまったく同一であり、ただそれらの要素の割合と結合の種類が異なることによって区別されるのだと考えている。色のついたガラス玉、たとえば赤いガラス玉は減ることもあり、そのときはボールの見え方も変わってくる。構成要素が増えたり減ったりすれば、以前は異なっていた種が同じになったり、ある種から異なる新しい種が生じたりする。外観の違いは、構成要素の数量と割合や、それらの組成のされ方(Struktur)の違いに基づいている。構成要素の種類は基本的にすべての植物に共通であり、その意味においてすべての種は等しい。
筆者の理論をより良く理解するために、読者には力の保存の法則を思い起こしてほしい。保存則によって、世界はその本質においては過去から未来まで同一である。見かけの現れだけが時と共に変化するのであって、本質においては世界には増加も減少もない。
すべての個体は全体、すなわちこの世界と密接な関係にある。その関係の本質は、あらゆる方向へ向かう網の糸に似ている。これらの糸は、化学における親和力や物理学における引力や磁力とみなすことができる。部分を動かせば、必ず全体も動いてしまうのである。
すべての個体および種は無数の因子、あるいはファクター(Faktoren)を中にもっている。一方では因子に由来する形質が現れるか潜在するかによって、また一方では支配的な因子の結合や分離によって、個体や種は様々な形態的な現れを示す。それゆえ、個体間の類似や種間の類似は、同一の種類の隠れた因子や支配的な因子の関与、および類似したグループ化に基づいている。
さらに、因子は潜在状態から支配的状態に、もしくはその反対に移行することができる。個体に存在する全ての因子は、あるときには支配的であるがあるときには潜在している。また、状況に応じてその量や割合を変えることもあるかもしれない。個体や種は、このような因子の変化によって変化していく。しかし、新しい因子が創造されたり生み出されたりすることはないし、存在する因子が消滅することもない。今存在する因子は同一のまま、永遠の過去から無限の未来に至るまで存在し続ける。個体や種の現れは、非常に長い時のなかで変化していく。そうした変化は個体のなかで、あるいは別の個体との交配によって生じる。後者の場合、メンデルの法則に従うときもあれば従わないときもある。それでも、個体はその真の実在においては同一のままである。
全ての個体や種は、普遍性と特殊性という二つの異なった観点から観察することができる。個体の普遍性は、同一の種類の因子がすべての個体に関与しているという事実から生じる。個体の特殊性は、見かけの現れの相違として現れるが、存在する因子の割合の相違や、因子の結合の相違に由来している。
宇宙はいわば、無数のガラス玉を伴った果てしない網のようなものである。それぞれのガラス玉は、異なる色をもった網の目の上に存在している。それぞれのガラス玉は別のガラス玉の像を反射するので、観察者の位置に応じて異なった色合いを示すのである。しかしそれらは観察者の目に対する現れ方において異なっているだけであって、実際の存在においては全て常に同じ無色のガラス玉である。反射された無数の様々な色の像(観察者の位置によって見えるものも見えないものもある)を伴ったガラス玉のそれぞれはいわば個体あるいは種であり、各々のガラス玉の上に目に見える像はいわば筆者が語ってきたところの因子に相当する。
ここまでで、個体もしくは種、および因子の、本質と現れについては分けて考察してきたが、しかし両者は一つにまとめてのみ考えられるのであって、互いに独立なものとしては理解できないというのが、筆者の理論の最も重要な点である。本質と現れは、決してお互いに別々に存在できるわけではない。実在のあるところには、そのために必然的に現れもある。本質と現れは結びついて一つになっている。一方は、もう一方なしでは理解され得ない。
以上からわかるように、個体や種は単一の性質のものではなく様々な因子の様々な結合によって生じたものとみなされるという第一の理論は因子相互協力説と呼ばれる。そして、個体間や種間の特異性における類似は同一の種類の因子の関与に基づいているという第二の理論は因子相互分配説と呼ばれる。両方の理論が一緒になって因子分配説を形成する。
因子分配説に従うと、全ての種類の植物は、祖先も子孫も、その本質においては同一である。そして、これだけ多くの異なった種類があるのは、種に含まれる因子が状況に調和するふさわしい一時的な現れと結合を示すためである。因子の割合の相違に基づく構造的(konstitutiv)な相違が、種の形態的な相違を示す。
【メモ】
因子分配説(英:the participation theory、独:die Partizipationstheorie)
因子相互協力説(英:the theory of the mutual participation of the gene、独:die Kooprationstheorie der Gene)
因子相互分配説(英;the theory of the mutual sharing of the gene、独:die Verteilungs- oder Anteiltheorie der Gene)
1.序文
この論文では、筆者が1921年の論文で発表した「動的分類系」を説明する。この分類系の基礎は、現在の分類学者たちが前提とするものとは本質的に異なっている。彼らが基礎とするのは、単一の最初の生物から無数の現生種が生じてきたと仮定し、その遺伝的つながりについて枝分かれ状の系統樹を想定するダーウィンの理論である。系統樹の構築は、現在の植物体系学において最も主要な目標となっている。それに対して筆者の仮定は、第一に祖先は現生種と同じくらい多数存在しているということであり、第二に祖先も子孫も互いに上下左右に網状の関係にあるということである。
2.植物の網状関係と跳躍的変化
最初に、エングラーによる双子葉類の体系を概観してみよう。我々は、離弁花類に属する目を片側(たとえば左側)の列に並べ、合弁花類の目をもう一方の列に並べていく。左側の列のなかでも右側の列のなかでも、それぞれの目はお互いに確かな類似性を示しているのは確かである。しかし、冷静かつ中立的にこの体系をよく見ていると、左側の列にあるそれぞれの目が、同じ高さにある右側の列の目と密接な関係を示しているという思いがけない事実に気付くはずである。いわば織物の縦糸と横糸のように、双子葉類のさまざまな目は、鉛直方向だけでなく水平方向の関係も示しているのである。
今度は、ディールスによるシダ植物門ウラボシ科の体系を見てみよう。ここでも、異なる分類群に分けられている属が、お互いに密接な関係を示している例を見つけることができる。クリスト(Konrad Hermann Heinrich Christ, 1833–1933)も、Nephrodiumのような形のシダがAlsophilaのような胞子嚢群をもっていたり、Alsophilaのような葉をした種がNephrodiumのような胞子嚢群をもっていたりすることを報告している。
植物界のさまざまなグループのあいだの関係は、縦と横の両方に広がるという点で、メンデレーエフの周期表における化学元素間の関係を想起させる。もちろん、生物と非生物を比較することに対する批判はあるだろう。しかし、植物における近い属や目のあいだには一般的に、漸進的ではなく突然的・跳躍的な移行が見られる。この事実は、量子論によって説明されるような、化学結合において見出される関係によく似ている。こうした網状関係や段階的移行は、ダーウィンの理論によっては説明され得ない事実である。我々が見るのは漸進的変化ではなくむしろ偶然変異、系統樹的関係ではなくむしろ網状関係なのである。
ここに挙げた事実を考えるためには、メンデルの法則に言及する必要があるだろう。それによると、種間の相違は因子(Gene)の関与の違いに由来する。2つの種を交配すれば、F1世代では雑種が得られるが、F2世代ではヘテロ接合体とホモ接合体に分離する。後者は、偶然変異の場合の例外を除いて、永続的で変わらない種のように見える。しかし、これらF2世代の個体はその由来についての特徴を何ら示さない。父方の種から生じたのか、母方の種から生じたのか、それとも直接に雑種から生じたのか、わからないのである。それゆえメンデルの法則が正しい限り、分類系の構築に際して必要とされる系統学的方法は欺瞞でしかない。体系学の基準は種の因子組成(因子型:Genotypus)でなければならない。言い換えれば、内的構成(innerer Bau)に関係する類似や相違が根拠でなければならない。たとえ、単一の祖先からいくつかの種が樹木状に枝分かれして生じたと考えても、その祖先自体がまた2つの祖先に由来しているヘテロ接合体である。木の根のように下っていくと、その祖先は、遠く離れた過去においてますます小さな根に裂かれていく。喩えるなら、体系学で採用される普通の系統樹は、地下の根系がなく地上の一つの幹といくつかの枝から成っているようなもので、そのような木は突風が吹けばひっくり返されてしまうに違いない。
3.動的分類系
内的構成の類似と相違、言い換えれば因子の組成(Zusammensetzung)を植物の体系学に用いるならば、種の分類方法は多種多様であり得る。たとえば、白い花の因子をA、赤い花の因子をa、白い果実の因子をB、赤い果実の因子をb、白い種子の因子をC、赤い種子の因子をcとしたとき、他の因子を考慮に入れなければ、(1)ABC、(2)ABc、(3)Abc、(4)aBC、(5)abC、(6)AbC、(7)aBc、(8)abcという8つの種を分類する方法は3つある。花に注目して(1)(2)(3)(6)と(4)(5)(7)(8)という2つのグループに分ける方法、果実に注目して(1)(2)(4)(7)と(3)(5)(6)(8)に分ける方法、種子に注目して(1)(4)(5)(6)と(2)(3)(7)(8)に分ける方法である。
筆者の意見では、自然分類とはこの3つの方法の統合であり、それによって完全な体系が得られる。筆者のこれまでの論文では、このようにして構築される分類系を「動的分類系」と呼んでいる。それに対して、これまでの体系学者たちが採用してきた分類系を「静的分類系」と呼んでいる。
問題となる因子が限られており、それらの因子が3つ以下のグループに属し、[それぞれのグループ内で]因子が数学的に直線的な関係を築いている場合、自然分類は簡単な構造をとり、体系化は一つの方法だけで足りる。このような場合には、自然分類が静的分類系に似てくる。
たとえば、3つの種の相違が花の色の因子に起因している場合、白い花の因子をa0、淡紅色の花の因子をa1、真っ赤な花の因子をa2とすると、色の度合の関係は直線上[x軸上]に表される(図1)。この場合には、このような静的分類系だけが可能である。
次に、2つのグループの因子があり、それぞれのグループが3つの対立形質あるいは対立因子をもっている場合を考える。先ほどの例に登場した因子に加えて、白い果実の因子をb0、淡紅色の果実の因子をb1、真っ赤な果実の因子をb2とする。b0、b1、b2をy軸にとり、9つの種に関する平面上の静的分類系をつくることができる(図2)。
さらに、3つ目のグループの因子としてc0、c1、c2を追加すると、これらをz軸にとって、27個の種に関する空間的な静的分類系をつくることができる(図3)。
では、4つ目のグループの因子(d0、d1、d2)を追加した場合にはどうすればいいのか。aをx軸に、bをy軸に、cをz軸にとり、三次元の静的分類系をつくることはできるが、この場合dグループの因子が異なる3つの種が同じ点に集まることになる(図4)。同様に、a、b、dの組合せ、a、d、cの組合せ、d、b、cの組合せでも三次元の静的分類系をつくることができる(図5、6、7)。自然分類は、動的な感覚でこれら4つの静的分類系を総合することによって理解される。
一般に、因子のグループの数をnとし、それぞれのグループにm個の因子が属しているとする。このとき、因子の異なる組合せの数はmのn乗となる。これらを一つの因子の有無で分けると、mのn-1乗個の組合せのグループが2つできる。因子a0に相当する形質をもっている種の数をs1、因子a0をもっていない種の数をt1とすると、m^n=s1+t1が成り立つ。同様に、因子b0についてはm^n=s2+t2の式が成り立つ。このような方法によるグループ化の仕方の数はm.nとなる。自然分類をNsとし、s1, s2, s3, … s(m.n)というグループ群をS、t1, t2, t3, … t(m.n)というグループ群をTとすると、Ns=(m.n×S)+(m.n×T)、またはNs=m.n×(S+T)という式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がm.n個のグループ群(S+T)で把握されるということを示している。また、+という記号も足し算を意味しているのではなく、グループ群Sとグループ群Tは一緒になってグループ化し直されるということを示している。
すでに述べたように、因子のグループが4つ以上存在する場合には、そのうち3つのグループを選び出して空間的システムに整理することを繰り返し、それら全てを総合的に観ることで自然分類が表現される。3つの因子グループの選び方は、nC3=n/6(n-1)(n-2)通りであり、空間的に表現された部分システムをRsとすると、Ns=n/6(n-1)(n-2)×Rsという式が成り立つ。ただしここで×の記号は掛け算を意味しているのではなく、自然分類がn/6(n-1)(n-2)個の部分システムで把握されるということを示している。
自然分類は動的な仕方でのみ把握できるという筆者の考えを目に見えるような形で表現するならば、図8のような装置で壁に映し出される投影像を想像してほしい。逆方向に回転する2枚の円盤によって映し出される像は動的分類系に相当する。一方、静的分類系は止まっている板の像に相当する。
最後に、なぜ植物は網状の関係と段階的な相違を示すのかという問いに答えたい。
4.因子分配説(Partizipationstheorie)
この理論は本来一つのものだが、便宜上、因子相互協力説(Kooprationstheorie)と因子相互分配説(Verteilungs- oder Anteiltheorie)の二つに分けることにする。Kooperationという言葉は、ある種を生みだす際における因子の共同作業を表現している。種や器官を形成するプロセスには、様々な因子が参加している[因子相互協力説]。一方で、異なる種や異なる器官にも、同一の種類(Arten)の因子が、異なる割合であれども関与している[因子相互分配説]。一方の面では、一つの種に対する様々な因子の関与を説く理論であり、もう一方の面では、同一の種類の因子に対する様々な種の関与を説く理論であるから、これを「因子分配説」と名付けたのである。ただし、筆者の理論における「因子」という概念は必ずしも遺伝学の因子概念と同じというわけではなく、より広い範囲の意味をもつ。
詳細な説明に入る前に、正確ではないがわかりやすい視覚的な表現を示したい。普通の種概念では、種は一つの統一体として表現される。図9では、これを赤いボールや黄色いボールで表現した。しかし筆者の見解では、種は単一の統一体ではなく基本的な統一体のつながったもの(集合体)であり、単色のボールではなく、いくつかの異なるガラス玉の集まりのようなものである。図9の赤いボールは実は図10のような、赤いガラス玉が黄色いガラス玉に対して優勢であるようなガラス玉の集合体である。筆者は、それぞれの種はその本質的な要素においてはまったく同一であり、ただそれらの要素の割合と結合の種類が異なることによって区別されるのだと考えている。色のついたガラス玉、たとえば赤いガラス玉は減ることもあり、そのときはボールの見え方も変わってくる。構成要素が増えたり減ったりすれば、以前は異なっていた種が同じになったり、ある種から異なる新しい種が生じたりする。外観の違いは、構成要素の数量と割合や、それらの組成のされ方(Struktur)の違いに基づいている。構成要素の種類は基本的にすべての植物に共通であり、その意味においてすべての種は等しい。
筆者の理論をより良く理解するために、読者には力の保存の法則を思い起こしてほしい。保存則によって、世界はその本質においては過去から未来まで同一である。見かけの現れだけが時と共に変化するのであって、本質においては世界には増加も減少もない。
すべての個体は全体、すなわちこの世界と密接な関係にある。その関係の本質は、あらゆる方向へ向かう網の糸に似ている。これらの糸は、化学における親和力や物理学における引力や磁力とみなすことができる。部分を動かせば、必ず全体も動いてしまうのである。
すべての個体および種は無数の因子、あるいはファクター(Faktoren)を中にもっている。一方では因子に由来する形質が現れるか潜在するかによって、また一方では支配的な因子の結合や分離によって、個体や種は様々な形態的な現れを示す。それゆえ、個体間の類似や種間の類似は、同一の種類の隠れた因子や支配的な因子の関与、および類似したグループ化に基づいている。
さらに、因子は潜在状態から支配的状態に、もしくはその反対に移行することができる。個体に存在する全ての因子は、あるときには支配的であるがあるときには潜在している。また、状況に応じてその量や割合を変えることもあるかもしれない。個体や種は、このような因子の変化によって変化していく。しかし、新しい因子が創造されたり生み出されたりすることはないし、存在する因子が消滅することもない。今存在する因子は同一のまま、永遠の過去から無限の未来に至るまで存在し続ける。個体や種の現れは、非常に長い時のなかで変化していく。そうした変化は個体のなかで、あるいは別の個体との交配によって生じる。後者の場合、メンデルの法則に従うときもあれば従わないときもある。それでも、個体はその真の実在においては同一のままである。
全ての個体や種は、普遍性と特殊性という二つの異なった観点から観察することができる。個体の普遍性は、同一の種類の因子がすべての個体に関与しているという事実から生じる。個体の特殊性は、見かけの現れの相違として現れるが、存在する因子の割合の相違や、因子の結合の相違に由来している。
宇宙はいわば、無数のガラス玉を伴った果てしない網のようなものである。それぞれのガラス玉は、異なる色をもった網の目の上に存在している。それぞれのガラス玉は別のガラス玉の像を反射するので、観察者の位置に応じて異なった色合いを示すのである。しかしそれらは観察者の目に対する現れ方において異なっているだけであって、実際の存在においては全て常に同じ無色のガラス玉である。反射された無数の様々な色の像(観察者の位置によって見えるものも見えないものもある)を伴ったガラス玉のそれぞれはいわば個体あるいは種であり、各々のガラス玉の上に目に見える像はいわば筆者が語ってきたところの因子に相当する。
ここまでで、個体もしくは種、および因子の、本質と現れについては分けて考察してきたが、しかし両者は一つにまとめてのみ考えられるのであって、互いに独立なものとしては理解できないというのが、筆者の理論の最も重要な点である。本質と現れは、決してお互いに別々に存在できるわけではない。実在のあるところには、そのために必然的に現れもある。本質と現れは結びついて一つになっている。一方は、もう一方なしでは理解され得ない。
以上からわかるように、個体や種は単一の性質のものではなく様々な因子の様々な結合によって生じたものとみなされるという第一の理論は因子相互協力説と呼ばれる。そして、個体間や種間の特異性における類似は同一の種類の因子の関与に基づいているという第二の理論は因子相互分配説と呼ばれる。両方の理論が一緒になって因子分配説を形成する。
因子分配説に従うと、全ての種類の植物は、祖先も子孫も、その本質においては同一である。そして、これだけ多くの異なった種類があるのは、種に含まれる因子が状況に調和するふさわしい一時的な現れと結合を示すためである。因子の割合の相違に基づく構造的(konstitutiv)な相違が、種の形態的な相違を示す。
【メモ】
因子分配説(英:the participation theory、独:die Partizipationstheorie)
因子相互協力説(英:the theory of the mutual participation of the gene、独:die Kooprationstheorie der Gene)
因子相互分配説(英;the theory of the mutual sharing of the gene、独:die Verteilungs- oder Anteiltheorie der Gene)
2016年11月2日
化石研究とジオグノシーの結合 Rudwick, Bursting the Limits of Time, Ch. 8
Martin J. S. Rudwick, Bursting the Limits of Time: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Revolution (Chicago: University of Chicago Press, 2005), pp. 417–469.
8章 地史に発展するジオグノシー
8.1 地球の「考古学」(1801–4)
キュヴィエのような化石の研究者たちは、地層に順序があるということを認識していないなど、ジオグノシー(geognosy)には疎かった。一方、ヴェルナーの追従者たちのジオグノシーは、地史を大理論から演繹するのではなく特定の地域の特定の岩石からボトムアップで研究するという新しい段階に突入していたが、こちらでは化石はあまり注目されなかった。屋内での化石標本研究と屋外での岩石累層の研究を結合したのは、地理的・社会的に分断された二つの新しい発展であった。第一の発展は、ゲッティンゲン大学のブルーメンバッハによる「考古学」の試みに始まる。ブルーメンバッハは、「知られているもの」「疑わしいもの」「知られていないもの」という化石の三区分を、三つの時代に対応するものとして読み替えた。ブルーメンバッハの学生であったシュロートハイムが、植物化石の研究でこの路線を引き継いだ。
8.2 地層の順序(1801–6)
第二の発展は英国で起こった。スミスは累層と化石の相関を発見した最初の人物ではないが、ある層に特有の化石という概念が極めて広い範囲の地域に通用すること、そしてそうした化石に基づいて累層を高い信頼性で区別できることを示した点で革新的であった。しかし、スミスはそれらの累層の形成を因果的に説明することにはあまり関心をもっていなかったし、ましてや歴史的な科学をつくっていたわけでもなかった。
8.3 地史のタイムスケール(1803–5)
1805年にキュヴィエは一般向けの講義を行い、その際に「地質学」の名称を採用した。キュヴィエの地質学にとって一つ目の脅威は、ナポレオンが教皇と和解したことによって宗教的伝統主義が再表面化したことであった。シャトーブリアンに代表される聖書直解主義は、長いタイムスケールを否定するものであった。二つ目の脅威は、ラマルクの定常モデルに代表される永遠主義であった。キュヴィエは講義のなかで、両者の中道を行く立場を主張した。
8.4 地史の新しい課題(1806–8)
「地質学」という言葉をド・リュックは地球理論(geotheory)の意味で用いていたが、この時期には、鉱物学的な記述の実践、自然地理学、ジオグノシー、地球物理学の因果的解釈、などといった領域の総合のようなものを意味するようになっていた。こうした変化は、キュヴィエの権威に裏打ちされていた。キュヴィエはまた、地史の9つの課題をリスト化して実りある研究の方向性を示した。また英国では、ロンドンに新しく創設された学会が「地質学会」と名付けられた。
8章 地史に発展するジオグノシー
8.1 地球の「考古学」(1801–4)
キュヴィエのような化石の研究者たちは、地層に順序があるということを認識していないなど、ジオグノシー(geognosy)には疎かった。一方、ヴェルナーの追従者たちのジオグノシーは、地史を大理論から演繹するのではなく特定の地域の特定の岩石からボトムアップで研究するという新しい段階に突入していたが、こちらでは化石はあまり注目されなかった。屋内での化石標本研究と屋外での岩石累層の研究を結合したのは、地理的・社会的に分断された二つの新しい発展であった。第一の発展は、ゲッティンゲン大学のブルーメンバッハによる「考古学」の試みに始まる。ブルーメンバッハは、「知られているもの」「疑わしいもの」「知られていないもの」という化石の三区分を、三つの時代に対応するものとして読み替えた。ブルーメンバッハの学生であったシュロートハイムが、植物化石の研究でこの路線を引き継いだ。
8.2 地層の順序(1801–6)
第二の発展は英国で起こった。スミスは累層と化石の相関を発見した最初の人物ではないが、ある層に特有の化石という概念が極めて広い範囲の地域に通用すること、そしてそうした化石に基づいて累層を高い信頼性で区別できることを示した点で革新的であった。しかし、スミスはそれらの累層の形成を因果的に説明することにはあまり関心をもっていなかったし、ましてや歴史的な科学をつくっていたわけでもなかった。
8.3 地史のタイムスケール(1803–5)
1805年にキュヴィエは一般向けの講義を行い、その際に「地質学」の名称を採用した。キュヴィエの地質学にとって一つ目の脅威は、ナポレオンが教皇と和解したことによって宗教的伝統主義が再表面化したことであった。シャトーブリアンに代表される聖書直解主義は、長いタイムスケールを否定するものであった。二つ目の脅威は、ラマルクの定常モデルに代表される永遠主義であった。キュヴィエは講義のなかで、両者の中道を行く立場を主張した。
8.4 地史の新しい課題(1806–8)
「地質学」という言葉をド・リュックは地球理論(geotheory)の意味で用いていたが、この時期には、鉱物学的な記述の実践、自然地理学、ジオグノシー、地球物理学の因果的解釈、などといった領域の総合のようなものを意味するようになっていた。こうした変化は、キュヴィエの権威に裏打ちされていた。キュヴィエはまた、地史の9つの課題をリスト化して実りある研究の方向性を示した。また英国では、ロンドンに新しく創設された学会が「地質学会」と名付けられた。
キュヴィエの台頭 Rudwick, Bursting the Limits of Time, Ch. 7
Martin J. S. Rudwick, Bursting the Limits of Time: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Revolution (Chicago: University of Chicago Press, 2005), pp. 349–415.
7章 以前の世界に住んでいたものたち
7.1 学者界のマッシュルーム(1794–96)
ビュフォンやウィリアム・ハンターらが亡くなったことで化石骨の研究が停滞した1790年代に、キュヴィエは彗星のように現れた。特に、メガテリウムとマンモスについてのキュヴィエの2つの論文は文芸共和国じゅうで大評判となった。キュヴィエはこれらの化石骨の比較解剖学的研究を通して、「部分の相関」と「形質の従属」の法則や、それらが自然的類縁の決定を可能にすること、またこれらの化石骨が現生の種とは異なる絶滅した種であるということを主張した。キュヴィエは、現在の人間の世界と人間以前の世界をはっきり分ける二部構成的な地史モデルを採用した。
7.2 キュヴィエ、キャンペーンを開始する(1797)
すでに二部構成的地史モデルを提唱していた人物としてはドロミューやド・リュックがおり、キュヴィエは彼らからヒントを得ていたようである。1798年にキュヴィエは自然史学会で自身の研究プロジェクトを発表し、比較解剖学によって化石骨からその動物の姿や生活様式や生息環境を推測することができると主張した。だが反対意見も多かった。ラ・メトリは、化石と現生種の違いは、現生種のなかでの違い程度に過ぎないと論じた。フォジャは、化石の種はまだ見つかっていないだけでどこかで繁栄している(生きた化石)と主張した。
7.3 化石骨のナポレオン(1798–1800)
政治的混乱と戦争が続いたこの時代、ドロミューが英国に捕われるなど学術活動に対する影響はあったが、ヨーロッパの国々のあいだでの学者たちの交流は続いていた。キュヴィエは、学士院第一部の事務書記に就任したことでナポレオンを直接接触できる立場となり、影響力を強めた。キュヴィエは自説の証拠を増やすために、国際的なネットワークを形成して化石骨に関する情報の収集を強化した。
7.4 ラマルクの代案(1800–1802)
キュヴィエの議論に対する最大の異論は、年上の同僚であるラマルクによって唱えられた。ラマルクは、全ての生物は時の流れのなかで不可避的に変化するのであって、化石骨と現生種の違いは過去における絶滅の存在を意味しないと論じた。無生物から生物が自然に生まれるというラマルクの議論は、過去のどの時点においてもその時点に固有の特徴はないということを意味するため、地球や生命に関する真の意味での歴史の存在を否定するものであった。この立場はハットンに近い。一方キュヴィエは、ド・リュックやドロミューの考えを拡張し、以前の世界に住んでいた哺乳類は現生種とは明確に異なると主張することで、歴史の存在を示した。二人の真の対立点は、激変を認めるかどうかということよりも、むしろここにある。
7.5 化石の群れを増やす(1802–4)
ラマルクは現生種とは明確に異なる化石骨の証拠を次々と繰り出し、論敵であったフォジャを沈黙させた。以前、ド・リュックやドロミューは、以前の世界と現在の世界を分けた出来事とその年代の特定に注力したが、以前の世界が現在の世界とどのように異なるのかは曖昧なままだった。それとは対照的にキュヴィエは、以前の世界に住んでいた哺乳類たちを生き生きと描き出した。こうして、地球が歴史をもつことがはっきりしたのである。だが、そうした化石の動物相はまだ、地史のなかに統合されてはいなかった。
7章 以前の世界に住んでいたものたち
7.1 学者界のマッシュルーム(1794–96)
ビュフォンやウィリアム・ハンターらが亡くなったことで化石骨の研究が停滞した1790年代に、キュヴィエは彗星のように現れた。特に、メガテリウムとマンモスについてのキュヴィエの2つの論文は文芸共和国じゅうで大評判となった。キュヴィエはこれらの化石骨の比較解剖学的研究を通して、「部分の相関」と「形質の従属」の法則や、それらが自然的類縁の決定を可能にすること、またこれらの化石骨が現生の種とは異なる絶滅した種であるということを主張した。キュヴィエは、現在の人間の世界と人間以前の世界をはっきり分ける二部構成的な地史モデルを採用した。
7.2 キュヴィエ、キャンペーンを開始する(1797)
すでに二部構成的地史モデルを提唱していた人物としてはドロミューやド・リュックがおり、キュヴィエは彼らからヒントを得ていたようである。1798年にキュヴィエは自然史学会で自身の研究プロジェクトを発表し、比較解剖学によって化石骨からその動物の姿や生活様式や生息環境を推測することができると主張した。だが反対意見も多かった。ラ・メトリは、化石と現生種の違いは、現生種のなかでの違い程度に過ぎないと論じた。フォジャは、化石の種はまだ見つかっていないだけでどこかで繁栄している(生きた化石)と主張した。
7.3 化石骨のナポレオン(1798–1800)
政治的混乱と戦争が続いたこの時代、ドロミューが英国に捕われるなど学術活動に対する影響はあったが、ヨーロッパの国々のあいだでの学者たちの交流は続いていた。キュヴィエは、学士院第一部の事務書記に就任したことでナポレオンを直接接触できる立場となり、影響力を強めた。キュヴィエは自説の証拠を増やすために、国際的なネットワークを形成して化石骨に関する情報の収集を強化した。
7.4 ラマルクの代案(1800–1802)
キュヴィエの議論に対する最大の異論は、年上の同僚であるラマルクによって唱えられた。ラマルクは、全ての生物は時の流れのなかで不可避的に変化するのであって、化石骨と現生種の違いは過去における絶滅の存在を意味しないと論じた。無生物から生物が自然に生まれるというラマルクの議論は、過去のどの時点においてもその時点に固有の特徴はないということを意味するため、地球や生命に関する真の意味での歴史の存在を否定するものであった。この立場はハットンに近い。一方キュヴィエは、ド・リュックやドロミューの考えを拡張し、以前の世界に住んでいた哺乳類は現生種とは明確に異なると主張することで、歴史の存在を示した。二人の真の対立点は、激変を認めるかどうかということよりも、むしろここにある。
7.5 化石の群れを増やす(1802–4)
ラマルクは現生種とは明確に異なる化石骨の証拠を次々と繰り出し、論敵であったフォジャを沈黙させた。以前、ド・リュックやドロミューは、以前の世界と現在の世界を分けた出来事とその年代の特定に注力したが、以前の世界が現在の世界とどのように異なるのかは曖昧なままだった。それとは対照的にキュヴィエは、以前の世界に住んでいた哺乳類たちを生き生きと描き出した。こうして、地球が歴史をもつことがはっきりしたのである。だが、そうした化石の動物相はまだ、地史のなかに統合されてはいなかった。
2016年10月28日
キュヴィエの化石研究を支えた国際的協力関係 Rudwick, “Researches on Fossil Bones”
Martin J. S. Rudwick, “Researches on Fossil Bones: Georges Cuvier and the Collecting of International Allies,” in The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution (Aldershot: Ashgate, 2004).
パリの自然史博物館は、19世紀初頭の自然史研究において世界の中心地であった。この論文では、『四足動物の化石骨の研究』(1812)の完成に至るまでの頃のキュヴィエを例として、自然史博物館における日々の実践と国際的な交流がどのようなものであったかを分析する。
キュヴィエはもともと現生の動物界の研究に邁進するつもりでいたが、自然史博物館の国際性が発揮された二つの出来事をきっかけに、化石の研究に集中するようになった。一つ目は、1789年にブエノスアイレスで発見された化石(キュヴィエはその動物を「メガテリウム」と名付けた)の版画がマドリードから送られてきたことであり、二つ目は、共和国軍がオランダで勝利して接収したコレクションのなかに、二つの異なるゾウの化石が含まれていたことだった。これらの化石の研究によってキュヴィエは、現世の種とは異なる絶滅した種が存在するという主張をするようになった。
キュヴィエの研究は、ほとんどが屋内でなされていた。パリ盆地に関するブロンニャールとの共同研究でさえ、キュヴィエ自身はあまりフィールドワークに出かけなかったようである。
動物学や植物学の場合と違って、化石は繁殖させることができず、それゆえに貴重であった。また、化石の複製を作る技術は十分発達しておらず、作ったとしても戦争中の状況では輸送のリスクが大きかった。その代わり、化石のスケッチは安全かつ安価に作り届けることができた。スケッチは、専門の画家が描く場合もあったが多くの場合ではナチュラリスト本人が描いていた。こうしたスケッチは、キュヴィエの国際的ネットワークにおいて通貨の役割を果たしていた。
キュヴィエは1800年に、化石研究の国際的な協力を呼びかける声明を発表した。この声明を呼びかける前の時点では、キュヴィエにスケッチなどを送ってくれる情報提供者はパリの外には決して多くなかったが、声明の後には数が増え、地域的にも広がりを見せた。キュヴィエと情報提供者たちの関係は互恵的であり、彼らから送られてきたものがキュヴィエに多くの証拠を提供した一方で、情報提供者たちは広く行き渡ったキュヴィエの著作を通して名前を認知されることができた。
パリの自然史博物館は、19世紀初頭の自然史研究において世界の中心地であった。この論文では、『四足動物の化石骨の研究』(1812)の完成に至るまでの頃のキュヴィエを例として、自然史博物館における日々の実践と国際的な交流がどのようなものであったかを分析する。
キュヴィエはもともと現生の動物界の研究に邁進するつもりでいたが、自然史博物館の国際性が発揮された二つの出来事をきっかけに、化石の研究に集中するようになった。一つ目は、1789年にブエノスアイレスで発見された化石(キュヴィエはその動物を「メガテリウム」と名付けた)の版画がマドリードから送られてきたことであり、二つ目は、共和国軍がオランダで勝利して接収したコレクションのなかに、二つの異なるゾウの化石が含まれていたことだった。これらの化石の研究によってキュヴィエは、現世の種とは異なる絶滅した種が存在するという主張をするようになった。
キュヴィエの研究は、ほとんどが屋内でなされていた。パリ盆地に関するブロンニャールとの共同研究でさえ、キュヴィエ自身はあまりフィールドワークに出かけなかったようである。
動物学や植物学の場合と違って、化石は繁殖させることができず、それゆえに貴重であった。また、化石の複製を作る技術は十分発達しておらず、作ったとしても戦争中の状況では輸送のリスクが大きかった。その代わり、化石のスケッチは安全かつ安価に作り届けることができた。スケッチは、専門の画家が描く場合もあったが多くの場合ではナチュラリスト本人が描いていた。こうしたスケッチは、キュヴィエの国際的ネットワークにおいて通貨の役割を果たしていた。
キュヴィエは1800年に、化石研究の国際的な協力を呼びかける声明を発表した。この声明を呼びかける前の時点では、キュヴィエにスケッチなどを送ってくれる情報提供者はパリの外には決して多くなかったが、声明の後には数が増え、地域的にも広がりを見せた。キュヴィエと情報提供者たちの関係は互恵的であり、彼らから送られてきたものがキュヴィエに多くの証拠を提供した一方で、情報提供者たちは広く行き渡ったキュヴィエの著作を通して名前を認知されることができた。
2016年10月23日
生気論と還元主義の間を行く目的論的機械論 Lenoir, The Strategy of Life, Preface & Introduction
Timothy Lenoir, The Strategy of Life: Teleology and Mechanics in 19th Century German Biology (Chicago: University of Chicago Press, 1982).
Preface
本書が描き出すのは、19世紀初頭のドイツにおける、目的論的モデルと機械論的モデルの統合に基づくリサーチプログラムの発展の歴史である。ドイツの生物学における19世紀初頭は不毛な思弁的議論の時代であったとみなされがちであるが、本書ではその評価を覆したい。また同時に、目的論の支持者は生気論者であったとか、彼らは宗教的に動機付けられていたなどといった誤解を解きたい。目的論的な関係性は、生物の形態や機能の因果的機能を研究するための、思慮深い様式であった。
本書の主題となる研究伝統は、諸生物の相互関係を説明する理論の構築も目標としており、フォン・ベーアらが型に制限された形での生物の発展モデルを築いた。フォン・ベーアは、哺乳類の卵子の発見などの業績だけが注目されがちであるが、生命科学に大胆なアイデアを提出し続けた人物であり、本書の主人公となる。
Introduction
本書の主張は、19世紀前半のドイツにおける生物学の発展は、1790年代に打ち出されたアイデアとリサーチプログラムに導かれていたというものである。アイデアの明確な定式化はカントによってなされ、これがブルーメンバッハとその学生たちによって生物学に導入された。さらに、トレヴィラヌス、キールマイアー、メッケル、フォン・ベーア、ミュラー、ベルクマン、ロイカルトなどといった人物が続いた。こうした研究伝統は、これまで注目されてこなかった。それは第一に、目的論的説明とその発見的な効力を理解しようとする歴史家が少なかったためであり、第二に、ドイツの場合には生物学を発展させた推進力はロマン主義の自然哲学であると誤って考えられてきたためである。
ダーウィンへの注目の強さも、ダーウィン以前における生物学のイメージを歪めてきた。ダーウィンは生物学の諸分野の統合に成功したが、その目標を達成するためのアプローチはそれ以外にも存在していた。だがイングランドにおけるダーウィンの同時代人たちの目的論は、宗教的な信念を擁護するものが主であり、ひどく貧弱であった。その一方、ドイツでは創造に依らない形での目的論が洗練されていたのだが、ダーウィンはそれを意識していなかった。そして歴史家も、ダーウィンの記述に追随してきてしまった。
生物学の発展の歴史はしばしば、生命現象を物理学や化学の法則に還元することによる目的論の追放の過程として描かれてきた。だが、そのような理解は間違っている。生命現象を物理学や化学の法則に還元できないと考えることは、厳密に定量的な科学を行うことと矛盾しない。
生物学における目的論は、生気論と還元主義の中間的な説明を提供するものであり、いくつかの形式に分類することができる。一つ目の立場(生気機械論)は、ニュートンの万有引力と類似した生命固有の力を想定するが、その力は生物を構成する物質の組織に依拠していると考える。これは生気論に比較的近い立場で、ブルーメンバッハやライルが採用した。二つ目の立場(機能主義)は、物理学的・化学的な力以外の力の存在を認めないが、特定の境界の内部では物理化学的な力の作用が秩序立てられると考える。この立場は、ベルナール、ベルクマン、ロイカルトらが採用した。以上の二つの立場と異なり、三つ目の立場は生命のない物質と生物体の二分法を認めず、宇宙全体が根本的に生物学的なのだと考える。物理学的な法則は、宇宙全体を司る生物学的法則(各部分は全体に従属する)が特定の制限下に置かれた場合に成立するものに過ぎない。このアリストテレス的な立場は、ヘーゲルによって採用された。
19世紀の00年代にはドイツの生物学者たちは一つ目の立場を好んだが、40年代末までに二つ目の立場が有力となった。この移行は生理化学やエネルギー変換に関する理解の進展によるものであったが、その進展をもたらしたのは本書で論じる、カントに始まる目的論的機械論の研究伝統であった。
Preface
本書が描き出すのは、19世紀初頭のドイツにおける、目的論的モデルと機械論的モデルの統合に基づくリサーチプログラムの発展の歴史である。ドイツの生物学における19世紀初頭は不毛な思弁的議論の時代であったとみなされがちであるが、本書ではその評価を覆したい。また同時に、目的論の支持者は生気論者であったとか、彼らは宗教的に動機付けられていたなどといった誤解を解きたい。目的論的な関係性は、生物の形態や機能の因果的機能を研究するための、思慮深い様式であった。
本書の主題となる研究伝統は、諸生物の相互関係を説明する理論の構築も目標としており、フォン・ベーアらが型に制限された形での生物の発展モデルを築いた。フォン・ベーアは、哺乳類の卵子の発見などの業績だけが注目されがちであるが、生命科学に大胆なアイデアを提出し続けた人物であり、本書の主人公となる。
Introduction
本書の主張は、19世紀前半のドイツにおける生物学の発展は、1790年代に打ち出されたアイデアとリサーチプログラムに導かれていたというものである。アイデアの明確な定式化はカントによってなされ、これがブルーメンバッハとその学生たちによって生物学に導入された。さらに、トレヴィラヌス、キールマイアー、メッケル、フォン・ベーア、ミュラー、ベルクマン、ロイカルトなどといった人物が続いた。こうした研究伝統は、これまで注目されてこなかった。それは第一に、目的論的説明とその発見的な効力を理解しようとする歴史家が少なかったためであり、第二に、ドイツの場合には生物学を発展させた推進力はロマン主義の自然哲学であると誤って考えられてきたためである。
ダーウィンへの注目の強さも、ダーウィン以前における生物学のイメージを歪めてきた。ダーウィンは生物学の諸分野の統合に成功したが、その目標を達成するためのアプローチはそれ以外にも存在していた。だがイングランドにおけるダーウィンの同時代人たちの目的論は、宗教的な信念を擁護するものが主であり、ひどく貧弱であった。その一方、ドイツでは創造に依らない形での目的論が洗練されていたのだが、ダーウィンはそれを意識していなかった。そして歴史家も、ダーウィンの記述に追随してきてしまった。
生物学の発展の歴史はしばしば、生命現象を物理学や化学の法則に還元することによる目的論の追放の過程として描かれてきた。だが、そのような理解は間違っている。生命現象を物理学や化学の法則に還元できないと考えることは、厳密に定量的な科学を行うことと矛盾しない。
生物学における目的論は、生気論と還元主義の中間的な説明を提供するものであり、いくつかの形式に分類することができる。一つ目の立場(生気機械論)は、ニュートンの万有引力と類似した生命固有の力を想定するが、その力は生物を構成する物質の組織に依拠していると考える。これは生気論に比較的近い立場で、ブルーメンバッハやライルが採用した。二つ目の立場(機能主義)は、物理学的・化学的な力以外の力の存在を認めないが、特定の境界の内部では物理化学的な力の作用が秩序立てられると考える。この立場は、ベルナール、ベルクマン、ロイカルトらが採用した。以上の二つの立場と異なり、三つ目の立場は生命のない物質と生物体の二分法を認めず、宇宙全体が根本的に生物学的なのだと考える。物理学的な法則は、宇宙全体を司る生物学的法則(各部分は全体に従属する)が特定の制限下に置かれた場合に成立するものに過ぎない。このアリストテレス的な立場は、ヘーゲルによって採用された。
19世紀の00年代にはドイツの生物学者たちは一つ目の立場を好んだが、40年代末までに二つ目の立場が有力となった。この移行は生理化学やエネルギー変換に関する理解の進展によるものであったが、その進展をもたらしたのは本書で論じる、カントに始まる目的論的機械論の研究伝統であった。
2016年10月10日
遺伝子概念の歴史と現在 Griffiths&Stotz, "Gene"
Paul E. Griffiths and Karola Stotz, “Gene,” in The Cambridge Companion to the Philosophy of Biology, eds. David L. Hull and Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2007).
第5章 遺伝子
遺伝子という概念は、生物学の研究において様々な種類の需要に応えており、文脈によって多様に意味を変化させていることが指摘されている。それゆえ、遺伝子とは何か?という問いに答える唯一にして最良の方法は、この概念の多様性とその理由を描き出すことである。この章では、生命科学の需要に応じて遺伝子の概念が歴史的にどのように変化してきたかを描き出す。
● 道具的遺伝子(pp. 85–87)
遺伝学的研究の最初の30年間において、遺伝子は二重のアイデンティティをもっていた。
第一の観点[道具的遺伝子]からすると、遺伝子とはメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数であった。実際、初期のメンデル主義者たちは、メンデル的形質とその基である因子を区別していなかった(この区別は、1909年にヴィルヘルム・ヨハンセンが「表現型」と「遺伝子型」という術語を導入したことでようやく明確になった)。
第二の観点[物質的遺伝子]からすると、遺伝子とは細胞の物質的な構成要素であって、それの親から子への伝達がメンデル的な遺伝パターンを因果的に説明するものであった。
T・H・モーガンは1933年のノーベル賞受賞スピーチで、「遺伝学者のあいだでは、遺伝子とは何なのかということについて、言い換えれば、遺伝子は実在するのか純粋に想像上のものなのかということについて、コンセンサスはとれていない。なぜならば、遺伝学の実験のレベルにおいて、遺伝子が仮説上の単位であるか物質的な粒子であるかということは、まったく違いを生まないからである」と述べた。
我々の見方では、遺伝子という概念はこれまでの歴史上、細胞学(のちには生化学)に基づく構造的概念[物質的遺伝子]と、生物のあいだ(のちにはDNA分子のあいだ)での交雑の結果に基づく機能的概念[道具的遺伝子]のあいだで弁証法的に揺れ動いてきた。
古典遺伝学は単に遺伝の理論だけで構成されていたわけではなく、遺伝子解析という実験的な実践を伴っていたのだが、そのことによって遺伝子の概念には強い制約がかかっていた。
一つの実例をみてみよう。遺伝学者のウィリアム・キャッスルがおこなったラットの交雑実験は、メンデル的因子の離散性や不変性に疑いを差し挟んだ。この実験では、対立遺伝子がほかの対立遺伝子によって「汚染」されているかのように見えたのである。この問題は結局、メンデル的な遺伝パターンに従う形質は単一の遺伝子によって決定されており、従わない形質は複数の遺伝子によって制御されているとみなすことで解決された[問題となったラットの変異は、複数の遺伝子が関与しているのだと解釈された]。
同様にして、メンデル的な比率に従わない連続的な変異も、たくさんの仮説的な遺伝子が関与しているものとして理解された。
道具的遺伝子は、定義からして、メンデル化の単位[あらゆる形質の遺伝を、メンデル的な遺伝パターンに従うように分解し、遺伝子解析を可能にする単位]なのである。
● 物質的遺伝子(pp. 87–89)
一方、モーガン学派は遺伝の染色体説を確立し、遺伝子は染色体上に一列に並んでいるものであると考えた。彼らは、メンデル的な遺伝パターンからの様々な逸脱(遺伝的連鎖など)を、染色体の動きという観点から説明することができた。しかし彼らの多くはこうした達成にもかかわらず、遺伝子の物質的な性質に関心をもたなかった。その理由は、一つにはそれが遺伝子解析で追究できる問題ではなかったからであり、もう一つにはそれは遺伝子解析にとって必要のない問題だったからである。
だが、モーガンの弟子の一人であったH・J・マラーは、そのような道具的遺伝子の概念に満足しなかった。マラーはまず、遺伝子が果たしている機能から考えて、自己触媒作用ができること(自己の複製)、他の物質の化学反応においても触媒となること(表現型への寄与)、変異性をもつこと、の3つが遺伝子の条件であると考えた。マラーは遺伝子の物質的性質を研究するプログラムを立ち上げ、1927年にX線照射によって遺伝子の突然変異を誘発できることを発見し、これによって初めて遺伝子の物理的なサイズを推定した。
マラーのアプローチは、遺伝子が表現型にもたらしている効果を無視している。表現型との関係は、かつては遺伝子の定義を成していたために疑問を投げかけることが不可能な性質であったが、こうして検証可能で否定もでき得る性質になったのである。
さらに、戦間期にあらわれてきた生化学が、遺伝子の物質的性質を次第に解明した。この時期の生化学の中心的テーマは生物学的特異性であり、1930年代中頃以降には分子間の相互作用を立体配座の観点から理解しはじめていた。特異性の概念は、遺伝子とその産物の関係にも適用されるようになった。
細胞の活動が分子の特異性によって説明されるのであれば、表現型に対する遺伝子の効果は特異性をもった生体分子によって媒介されると考えるのが自然である。こうして1941年には、「一遺伝子一酵素説」が誕生した。3年後には、オズワルド・エイヴリーが遺伝子はDNAでできていることを示した。
1940年代には、物理学に習熟した科学者たちが生物学に流入してきたことで、研究アプローチに変化が起こった。このことが、1950年代から70年代における分子的な遺伝子概念の普及に道を開いた。
● 遺伝子なしでやる?(pp. 90–91)
遺伝学者リチャード・ゴールドシュミットが1940年代から50年代に引き起こした論争も、古典的な遺伝子概念について洞察を深めるための材料になる。
当時モーガン学派によって、染色体上における遺伝子の相対的な位置の変化が表現型に変化をもたらす「位置効果」が知られるようになっていた。現代では「突然変異」を、染色体の塩基配列におけるあらゆる遺伝性の変化として定義するが、古典遺伝学では、表現型の遺伝的な違いとして現れる個々の遺伝子の内在的な性質の変化として定義していたので、位置効果は突然変異ではないとみなされた。ゴールドシュミットは、染色体のなかで遺伝子と対応するような構造的部分が区切られているという証拠はないのだから、突然変異と位置効果の違いは単に染色体の構造変化が小さいか大きいかの違いに過ぎないのではないかと論じた。
またゴールドシュミットは、機能の単位に対応するような特有の構造的部分は染色体上に存在しないだろうと考え、遺伝子を否定した。つまり、物質的遺伝子は道具的遺伝子に対応しなければならないと考えた結果、遺伝子はないという結論に至ったのである。同時代の多くの学者たちは、彼の議論を受け入れなかった。彼らは、ゆくゆくは機能の単位に対応するような構造的部分が見つかるだろうと考えたのである。
● 「新古典的」遺伝学と分子遺伝子(pp. 91–92)
遺伝暗号が解読された1960年代初頭には、「古典的」遺伝子から「新古典的」遺伝子(古典的分子遺伝子ともいう)への大転換があった。新しい分子遺伝子の概念は、遺伝子が突然変異や遺伝的組換えの基礎的単位ではないことを認識した点において古典的遺伝子の概念と一線を画している。
こうした変化は、染色体地図がより詳細になったことによって生まれた。たとえばシーモア・ベンザーは、1954年から61年にかけてのバクテリオファージを用いた研究で、同じ遺伝子のなかでの異なる突然変異の位置を特定したり、組換えが単一の遺伝子のなかでも起こることを示したりしたのである。これは、遺伝子を一体的で粒子的なものとみなす考え方に対して懐疑的であったゴールドシュミットの立場を裏付けるものであった。
ベンザーは、組換えの単位をrecon、突然変異の単位をmuton、遺伝的機能の単位をcistronと呼んで区別した。しかし結局、reconとmutonは1塩基になってしまい、分子生物学ではcistronが遺伝子であると認識されるようになった。cistronからは単一のRNA鎖が転写され、一つのタンパク質に対応しているという点で、一遺伝子一酵素説の教義を裏付けていたからである。
● 古典的分子遺伝子概念に対する難問(pp. 93–97)
1960年代には、タンパク質に翻訳されない機能性RNAをコードしている遺伝子があることがわかった。しかしこの問題は、分子遺伝子の定義を、特定のポリペプチド鎖に直接対応する塩基配列ではなく、特定の遺伝子産物の構造を決定する塩基配列とすることによって解決できる。古典的分子遺伝子の概念は、物質的遺伝子と道具的遺伝子を統合するものであるように思われた。
問題としては、コード領域と隣接しない調節領域は、コード領域とは別個のメンデル的因子であるにもかかわらず、分子遺伝子としては一つにまとめられてしまうということがあった。それでも古典的分子遺伝子の概念は、きわめて成功していたといえる。
だが、1970年代からは別の問題が起こった。遺伝子のような役割を果たす塩基配列は、お互いに重なっている場合があることがわかったのである(ときには一方が他方のなかに完全に含まれている場合もある)。染色体の物理的構造とその産物の関係は、一対一ではなく多対多になっていた。結局のところ、最終的な遺伝子産物の構造には転写された塩基配列がそのまま反映されているわけではなく、転写後の様々なプロセスによって複雑な変更を受けている。たとえばトランススプライシングの過程では、独立に転写された複数のpre-mRNAが加工されて最終的なmRNAが完成しているのである。フレームシフトによる翻訳や、逆方向に読む翻訳が何らかの役割を果たしている場合もある。DNAと遺伝子産物の関係は、1960年代に考えられていたよりもずっと間接的なものに過ぎなかったのである。
● 現代的遺伝子(pp. 97–99)
我々は、「遺伝子とは何か?」という問いに関して、少なくとも3つの答えがあると考える。それは、伝統的遺伝子(道具的遺伝子)、ポストゲノム分子遺伝子、そして「唯名論的遺伝子」である。
● 伝統的遺伝子(p. 99)
生物学者たちにとって、生物間やDNA分子間でのハイブリダイゼーションに基づく遺伝子解析は今でも重要な手法であり続けている。このような目的にとっては、遺伝子は表現型の遺伝パターンによって定義される媒介変数のままであって、物質的単位として定義しようとすることで生じる困難はひとまず無視することができる。
● ポストゲノム分子遺伝子(pp. 99–100)
ポストゲノム分子遺伝子は、目標となる遺伝子産物分子の、DNAのなかに見出だせるイメージなのだが、このイメージは断片化されたり歪められたりしているため、機能的ゲノミクスが全過程を明らかにするまで識別できないと考える。この概念は、遺伝子と分子のあいだの直線的な対応関係という、それらを特定し操作しようとする生物学者にとって重要なものを守る点でメリットがある。物質的には一義的な定義を与えられなくても、目標となる分子の生産を支えるDNA要素を知ることの有用性は変わらないのである。
● 唯名論的遺伝子(pp. 100–101)
遺伝子として注釈付けられ、それが科学者共同体によって受け入れられた配列が、遺伝子なのだと考えることができる。ただし、科学者共同体は必ずしも明確な判断基準をもっているわけではない。科学の現場において遺伝子は、典型的な遺伝子にどれだけ似ているか、言い換えれば、様々な「遺伝子っぽい」特徴(プロモーターをもっているか、機能的に多様すぎない転写をもっているか、など)をどれくらい備えているかという観点から判定されている。
● 結論(pp. 101–102)
遺伝子は、表現型から観察できるメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数として登場し、次に仮説上の物質的単位というアイデンティティも獲得した。両者間の弁証法は最終的に「新古典的遺伝子(古典的分子遺伝子)」の概念に行き着いた。しかしその後は研究の進展によって、遺伝子を適切かつ構造的に定義することは果たして可能なのかという疑いが持ち上がった。現在採用できるだろう遺伝子の捉え方としては、伝統的遺伝子、ポストゲノム分子遺伝子、唯名論的遺伝子の3つがある。
第5章 遺伝子
遺伝子という概念は、生物学の研究において様々な種類の需要に応えており、文脈によって多様に意味を変化させていることが指摘されている。それゆえ、遺伝子とは何か?という問いに答える唯一にして最良の方法は、この概念の多様性とその理由を描き出すことである。この章では、生命科学の需要に応じて遺伝子の概念が歴史的にどのように変化してきたかを描き出す。
● 道具的遺伝子(pp. 85–87)
遺伝学的研究の最初の30年間において、遺伝子は二重のアイデンティティをもっていた。
第一の観点[道具的遺伝子]からすると、遺伝子とはメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数であった。実際、初期のメンデル主義者たちは、メンデル的形質とその基である因子を区別していなかった(この区別は、1909年にヴィルヘルム・ヨハンセンが「表現型」と「遺伝子型」という術語を導入したことでようやく明確になった)。
第二の観点[物質的遺伝子]からすると、遺伝子とは細胞の物質的な構成要素であって、それの親から子への伝達がメンデル的な遺伝パターンを因果的に説明するものであった。
T・H・モーガンは1933年のノーベル賞受賞スピーチで、「遺伝学者のあいだでは、遺伝子とは何なのかということについて、言い換えれば、遺伝子は実在するのか純粋に想像上のものなのかということについて、コンセンサスはとれていない。なぜならば、遺伝学の実験のレベルにおいて、遺伝子が仮説上の単位であるか物質的な粒子であるかということは、まったく違いを生まないからである」と述べた。
我々の見方では、遺伝子という概念はこれまでの歴史上、細胞学(のちには生化学)に基づく構造的概念[物質的遺伝子]と、生物のあいだ(のちにはDNA分子のあいだ)での交雑の結果に基づく機能的概念[道具的遺伝子]のあいだで弁証法的に揺れ動いてきた。
古典遺伝学は単に遺伝の理論だけで構成されていたわけではなく、遺伝子解析という実験的な実践を伴っていたのだが、そのことによって遺伝子の概念には強い制約がかかっていた。
一つの実例をみてみよう。遺伝学者のウィリアム・キャッスルがおこなったラットの交雑実験は、メンデル的因子の離散性や不変性に疑いを差し挟んだ。この実験では、対立遺伝子がほかの対立遺伝子によって「汚染」されているかのように見えたのである。この問題は結局、メンデル的な遺伝パターンに従う形質は単一の遺伝子によって決定されており、従わない形質は複数の遺伝子によって制御されているとみなすことで解決された[問題となったラットの変異は、複数の遺伝子が関与しているのだと解釈された]。
同様にして、メンデル的な比率に従わない連続的な変異も、たくさんの仮説的な遺伝子が関与しているものとして理解された。
道具的遺伝子は、定義からして、メンデル化の単位[あらゆる形質の遺伝を、メンデル的な遺伝パターンに従うように分解し、遺伝子解析を可能にする単位]なのである。
● 物質的遺伝子(pp. 87–89)
一方、モーガン学派は遺伝の染色体説を確立し、遺伝子は染色体上に一列に並んでいるものであると考えた。彼らは、メンデル的な遺伝パターンからの様々な逸脱(遺伝的連鎖など)を、染色体の動きという観点から説明することができた。しかし彼らの多くはこうした達成にもかかわらず、遺伝子の物質的な性質に関心をもたなかった。その理由は、一つにはそれが遺伝子解析で追究できる問題ではなかったからであり、もう一つにはそれは遺伝子解析にとって必要のない問題だったからである。
だが、モーガンの弟子の一人であったH・J・マラーは、そのような道具的遺伝子の概念に満足しなかった。マラーはまず、遺伝子が果たしている機能から考えて、自己触媒作用ができること(自己の複製)、他の物質の化学反応においても触媒となること(表現型への寄与)、変異性をもつこと、の3つが遺伝子の条件であると考えた。マラーは遺伝子の物質的性質を研究するプログラムを立ち上げ、1927年にX線照射によって遺伝子の突然変異を誘発できることを発見し、これによって初めて遺伝子の物理的なサイズを推定した。
マラーのアプローチは、遺伝子が表現型にもたらしている効果を無視している。表現型との関係は、かつては遺伝子の定義を成していたために疑問を投げかけることが不可能な性質であったが、こうして検証可能で否定もでき得る性質になったのである。
さらに、戦間期にあらわれてきた生化学が、遺伝子の物質的性質を次第に解明した。この時期の生化学の中心的テーマは生物学的特異性であり、1930年代中頃以降には分子間の相互作用を立体配座の観点から理解しはじめていた。特異性の概念は、遺伝子とその産物の関係にも適用されるようになった。
細胞の活動が分子の特異性によって説明されるのであれば、表現型に対する遺伝子の効果は特異性をもった生体分子によって媒介されると考えるのが自然である。こうして1941年には、「一遺伝子一酵素説」が誕生した。3年後には、オズワルド・エイヴリーが遺伝子はDNAでできていることを示した。
1940年代には、物理学に習熟した科学者たちが生物学に流入してきたことで、研究アプローチに変化が起こった。このことが、1950年代から70年代における分子的な遺伝子概念の普及に道を開いた。
● 遺伝子なしでやる?(pp. 90–91)
遺伝学者リチャード・ゴールドシュミットが1940年代から50年代に引き起こした論争も、古典的な遺伝子概念について洞察を深めるための材料になる。
当時モーガン学派によって、染色体上における遺伝子の相対的な位置の変化が表現型に変化をもたらす「位置効果」が知られるようになっていた。現代では「突然変異」を、染色体の塩基配列におけるあらゆる遺伝性の変化として定義するが、古典遺伝学では、表現型の遺伝的な違いとして現れる個々の遺伝子の内在的な性質の変化として定義していたので、位置効果は突然変異ではないとみなされた。ゴールドシュミットは、染色体のなかで遺伝子と対応するような構造的部分が区切られているという証拠はないのだから、突然変異と位置効果の違いは単に染色体の構造変化が小さいか大きいかの違いに過ぎないのではないかと論じた。
またゴールドシュミットは、機能の単位に対応するような特有の構造的部分は染色体上に存在しないだろうと考え、遺伝子を否定した。つまり、物質的遺伝子は道具的遺伝子に対応しなければならないと考えた結果、遺伝子はないという結論に至ったのである。同時代の多くの学者たちは、彼の議論を受け入れなかった。彼らは、ゆくゆくは機能の単位に対応するような構造的部分が見つかるだろうと考えたのである。
● 「新古典的」遺伝学と分子遺伝子(pp. 91–92)
遺伝暗号が解読された1960年代初頭には、「古典的」遺伝子から「新古典的」遺伝子(古典的分子遺伝子ともいう)への大転換があった。新しい分子遺伝子の概念は、遺伝子が突然変異や遺伝的組換えの基礎的単位ではないことを認識した点において古典的遺伝子の概念と一線を画している。
こうした変化は、染色体地図がより詳細になったことによって生まれた。たとえばシーモア・ベンザーは、1954年から61年にかけてのバクテリオファージを用いた研究で、同じ遺伝子のなかでの異なる突然変異の位置を特定したり、組換えが単一の遺伝子のなかでも起こることを示したりしたのである。これは、遺伝子を一体的で粒子的なものとみなす考え方に対して懐疑的であったゴールドシュミットの立場を裏付けるものであった。
ベンザーは、組換えの単位をrecon、突然変異の単位をmuton、遺伝的機能の単位をcistronと呼んで区別した。しかし結局、reconとmutonは1塩基になってしまい、分子生物学ではcistronが遺伝子であると認識されるようになった。cistronからは単一のRNA鎖が転写され、一つのタンパク質に対応しているという点で、一遺伝子一酵素説の教義を裏付けていたからである。
● 古典的分子遺伝子概念に対する難問(pp. 93–97)
1960年代には、タンパク質に翻訳されない機能性RNAをコードしている遺伝子があることがわかった。しかしこの問題は、分子遺伝子の定義を、特定のポリペプチド鎖に直接対応する塩基配列ではなく、特定の遺伝子産物の構造を決定する塩基配列とすることによって解決できる。古典的分子遺伝子の概念は、物質的遺伝子と道具的遺伝子を統合するものであるように思われた。
問題としては、コード領域と隣接しない調節領域は、コード領域とは別個のメンデル的因子であるにもかかわらず、分子遺伝子としては一つにまとめられてしまうということがあった。それでも古典的分子遺伝子の概念は、きわめて成功していたといえる。
だが、1970年代からは別の問題が起こった。遺伝子のような役割を果たす塩基配列は、お互いに重なっている場合があることがわかったのである(ときには一方が他方のなかに完全に含まれている場合もある)。染色体の物理的構造とその産物の関係は、一対一ではなく多対多になっていた。結局のところ、最終的な遺伝子産物の構造には転写された塩基配列がそのまま反映されているわけではなく、転写後の様々なプロセスによって複雑な変更を受けている。たとえばトランススプライシングの過程では、独立に転写された複数のpre-mRNAが加工されて最終的なmRNAが完成しているのである。フレームシフトによる翻訳や、逆方向に読む翻訳が何らかの役割を果たしている場合もある。DNAと遺伝子産物の関係は、1960年代に考えられていたよりもずっと間接的なものに過ぎなかったのである。
● 現代的遺伝子(pp. 97–99)
我々は、「遺伝子とは何か?」という問いに関して、少なくとも3つの答えがあると考える。それは、伝統的遺伝子(道具的遺伝子)、ポストゲノム分子遺伝子、そして「唯名論的遺伝子」である。
● 伝統的遺伝子(p. 99)
生物学者たちにとって、生物間やDNA分子間でのハイブリダイゼーションに基づく遺伝子解析は今でも重要な手法であり続けている。このような目的にとっては、遺伝子は表現型の遺伝パターンによって定義される媒介変数のままであって、物質的単位として定義しようとすることで生じる困難はひとまず無視することができる。
● ポストゲノム分子遺伝子(pp. 99–100)
ポストゲノム分子遺伝子は、目標となる遺伝子産物分子の、DNAのなかに見出だせるイメージなのだが、このイメージは断片化されたり歪められたりしているため、機能的ゲノミクスが全過程を明らかにするまで識別できないと考える。この概念は、遺伝子と分子のあいだの直線的な対応関係という、それらを特定し操作しようとする生物学者にとって重要なものを守る点でメリットがある。物質的には一義的な定義を与えられなくても、目標となる分子の生産を支えるDNA要素を知ることの有用性は変わらないのである。
● 唯名論的遺伝子(pp. 100–101)
遺伝子として注釈付けられ、それが科学者共同体によって受け入れられた配列が、遺伝子なのだと考えることができる。ただし、科学者共同体は必ずしも明確な判断基準をもっているわけではない。科学の現場において遺伝子は、典型的な遺伝子にどれだけ似ているか、言い換えれば、様々な「遺伝子っぽい」特徴(プロモーターをもっているか、機能的に多様すぎない転写をもっているか、など)をどれくらい備えているかという観点から判定されている。
● 結論(pp. 101–102)
遺伝子は、表現型から観察できるメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数として登場し、次に仮説上の物質的単位というアイデンティティも獲得した。両者間の弁証法は最終的に「新古典的遺伝子(古典的分子遺伝子)」の概念に行き着いた。しかしその後は研究の進展によって、遺伝子を適切かつ構造的に定義することは果たして可能なのかという疑いが持ち上がった。現在採用できるだろう遺伝子の捉え方としては、伝統的遺伝子、ポストゲノム分子遺伝子、唯名論的遺伝子の3つがある。
2016年9月27日
スコラ哲学における驚異 Daston&Park, Wonders and the Order of Nature, 第3章後半
Lorraine Daston and Katharine Park, Wonders and the Order of Nature, 1150–1750 (New York: Zone Books, 2001), pp. 120–133.
● 好奇心と異自然的(preternatural)なもの
中世盛期におけるアリストテレスの注釈者たちは、自然の秩序についてどのような考え方をもっていたのだろうか? 議論の出発点となるのは、アリストテレスの『形而上学』における、「偶発的なものについての科学(スキエンティア、エピステーメー)は存在しない。というのも、すべての科学は、いつもそうであるものか、大部分においてそうであるものについてのものだからだ」という記述である。この記述に表れているように、アリストテレスもその注釈者たちも、決して破られることがない「法則(law)」が自然を支配しているとは考えていなかった。スコラ哲学者たちは「法則」という言葉を時折用いたが、それは「規則(rule)」という程度の意味であった。自然は何らかの標準形を目指しているが、たまには失敗して、6本指のような「偶発的な」産物を生むのだと考えられた。
自然と奇跡の関係というテーマは、中世初期の哲学者たちにとっては、自然はすべて神の業による驚異であるというアウグスティヌスの考え方のために、大きな問題ではなかった。しかし12世紀初頭以降になると、バースのアデラードに代表されるラテン語の著者たちが、神の奇跡による介入を際立たせる自律的な自然の秩序という観念を発展させはじめる。たとえばトマス・アクィナスは、物理的出来事を3種類に分類した。1つ目は秩序に従う自然的な出来事であり、2つ目は6本指のような第二原因と偶然に基づく異自然的な出来事であり、3つ目は神によって直接的に(第二原因の介在なしで)実現される超自然的な出来事である。
この区別には多くの問題があった。まず、自然的なものと異自然的なものの区別は難しかった。というのも、この境界は現象の珍しさによって決定されるが、珍しさは地理性の問題に依存していることが多かったからである(小人は西洋人にとっては異自然的な驚異だが、小人の土地では逆に西洋人こそが異自然的)。異自然的なものと超自然的なものの区別もやはり難しく、二つをまとめてしまった人たちもいた。アクィナスは、無知な人にとってのみ驚異的なのが異自然的なもので、全ての人にとって驚異的なのが超自然的なものなのだと説明した。
学んだ人間と無知な人間の反応を比較するアクィナスの議論は、キリスト教の伝統における倫理的問題と関係している。アウグスティヌスは驚異の念を神の全能の前での謙虚さの適切な表現とみなす一方で、好奇心を色欲や高慢さに関係づけて酷評した。アウグスティヌスによれば、日食を予測する天文学者のような仕事は、創造に対して彼ら自身が驚異の念をもつことを阻む上に、人々が神に向けるべき驚異の念も天文学者が奪ってしまうという悪徳なのである。アウグスティヌスの議論は後世の著者たちに大きな影響を与えたため、アクィナスも因果的な知識を探究する学者として、異自然的なものや驚異の念に対するジレンマを抱えていた。この問題に対するアクィナスやアルベルトゥス・マグヌスの解決法は、好奇心と正しい探究を区別することであった。アクィナスの場合、好奇心は無目的なのに対して、篤学さ(studiousness)は知識それ自体への情熱であって価値があるのだと論じた。アルベルトゥスやアクィナスは驚異の力を認めつつも、アカデミックな哲学者としてそこから距離を置いたのである。14世紀には、驚異に関する記述は哲学的著者のテクストから概ね消失する。
代表的な例外は、カタルーニャ人哲学者のラモン・リュイである。リュイの『驚異についての書』(1310)では、主人公フェリシュが世界を旅しながら自然現象の原因を学んでいく物語が描かれる。この作品は、後世に与えた影響は小さかったものの、自然哲学とアウグスティヌス的価値観、それにエリートの文学趣味を架橋した試みであった。
● 驚異を鎮める
異自然的なものというカテゴリーは、観察者の経験や知識に依存するような不安定な基準によって定義されたため、雑多な現象の寄せ集めになってしまった。13~14世紀の哲学者たちは、自然的原因を追究することの重要性を認識する点では比較的一致していたが、具体的な原因に関してはそれぞれに異なる主張をしていたのである。この傾向は特に、アラビア語の哲学的文献が流入してきたことで強まった。
アカデミックな著者の誰もが、手品師が巧みな手練によって錯覚を引き起こすことや、複数の自然的原因が組み合わさって偶発的な出来事を起こすことに言及した。また、天界が自然的物質に種的形相を与えることによって驚くべき性質を刻印することも一般的に認められており、磁鉄鉱の磁力やコバンザメの力強さなどが説明された。種的形相以外にも天界が特別な刻印をすることを論じる哲学者もおり、たとえばアルベルトゥスは、人間と動物の混血の誕生や、化石の存在などを説明するのにこれを用いていた。
さらに、驚異の存在を人間や悪魔による直接的介入で説明する哲学者たちもいた。特に悪魔による説明はしばしば論争の火種となり、アクィナスは物質的な媒介なしで悪魔が影響を及ぼすことはできないと論じて反対した。ただし、このような個々の点での不一致はあったものの、大衆の迷信に反対するという点では、アリストテレスの注釈者たちのほとんどが一致していた。哲学者たちは驚異を原則的には自然的原因で説明し、神や悪魔の介入による説明は最小限にしようとしていた。
しかし、自然的原因に基づく驚異の説明は、偶然的な効果や感知できない種的形相に依拠していたため、自然哲学の一部になることはできなかった。驚異の一般的なタイプについての説明はできても、個々の驚異の特性を説明する理論にはなっておらず、それらを知るには経験に頼るしかなかったからである。この問題は、哲学者たちが驚異を鎮める力に深刻な制約を課していた。それでも、アルベルトゥスやアクィナスといった中世盛期から後期のスコラ哲学者たちは、驚異を悪魔や超自然的なものではなく、自然的原因だけで説明しようとする点で一致していた。
そうした試みのうちで最も包括的かつ体系的だったのが、フランスのシャルル5世の側近を務めたニコル・オレームの『驚異の原因』(1370)である。オレームはこの本で、占星術の体系全体を攻撃して種的形相の議論を拒否すると同時に、悪魔や神を持ち出す説明も拒否した。13世紀の先駆者たちと比較してオレームに特徴的だったのは、第一に自然的現象の多様性を強調したことであり、そうすることによってオレームは時折規則性から外れる驚異物が現れるのは驚くべきことではない(むしろほとんどの場合において破られない規則性のほうが驚きに値する)と論じた。第二に、オレームは人間が個々の驚異の原因を知り得る可能性についてやや楽観的であった。
個々の出来事の原因について、より本格的な関心を抱いたのが同時代のイタリアにおける医学的な著者たちであった。彼らの貢献もあって、驚異の問題は自然哲学に統合されていくことになるのである。
● 好奇心と異自然的(preternatural)なもの
中世盛期におけるアリストテレスの注釈者たちは、自然の秩序についてどのような考え方をもっていたのだろうか? 議論の出発点となるのは、アリストテレスの『形而上学』における、「偶発的なものについての科学(スキエンティア、エピステーメー)は存在しない。というのも、すべての科学は、いつもそうであるものか、大部分においてそうであるものについてのものだからだ」という記述である。この記述に表れているように、アリストテレスもその注釈者たちも、決して破られることがない「法則(law)」が自然を支配しているとは考えていなかった。スコラ哲学者たちは「法則」という言葉を時折用いたが、それは「規則(rule)」という程度の意味であった。自然は何らかの標準形を目指しているが、たまには失敗して、6本指のような「偶発的な」産物を生むのだと考えられた。
自然と奇跡の関係というテーマは、中世初期の哲学者たちにとっては、自然はすべて神の業による驚異であるというアウグスティヌスの考え方のために、大きな問題ではなかった。しかし12世紀初頭以降になると、バースのアデラードに代表されるラテン語の著者たちが、神の奇跡による介入を際立たせる自律的な自然の秩序という観念を発展させはじめる。たとえばトマス・アクィナスは、物理的出来事を3種類に分類した。1つ目は秩序に従う自然的な出来事であり、2つ目は6本指のような第二原因と偶然に基づく異自然的な出来事であり、3つ目は神によって直接的に(第二原因の介在なしで)実現される超自然的な出来事である。
この区別には多くの問題があった。まず、自然的なものと異自然的なものの区別は難しかった。というのも、この境界は現象の珍しさによって決定されるが、珍しさは地理性の問題に依存していることが多かったからである(小人は西洋人にとっては異自然的な驚異だが、小人の土地では逆に西洋人こそが異自然的)。異自然的なものと超自然的なものの区別もやはり難しく、二つをまとめてしまった人たちもいた。アクィナスは、無知な人にとってのみ驚異的なのが異自然的なもので、全ての人にとって驚異的なのが超自然的なものなのだと説明した。
学んだ人間と無知な人間の反応を比較するアクィナスの議論は、キリスト教の伝統における倫理的問題と関係している。アウグスティヌスは驚異の念を神の全能の前での謙虚さの適切な表現とみなす一方で、好奇心を色欲や高慢さに関係づけて酷評した。アウグスティヌスによれば、日食を予測する天文学者のような仕事は、創造に対して彼ら自身が驚異の念をもつことを阻む上に、人々が神に向けるべき驚異の念も天文学者が奪ってしまうという悪徳なのである。アウグスティヌスの議論は後世の著者たちに大きな影響を与えたため、アクィナスも因果的な知識を探究する学者として、異自然的なものや驚異の念に対するジレンマを抱えていた。この問題に対するアクィナスやアルベルトゥス・マグヌスの解決法は、好奇心と正しい探究を区別することであった。アクィナスの場合、好奇心は無目的なのに対して、篤学さ(studiousness)は知識それ自体への情熱であって価値があるのだと論じた。アルベルトゥスやアクィナスは驚異の力を認めつつも、アカデミックな哲学者としてそこから距離を置いたのである。14世紀には、驚異に関する記述は哲学的著者のテクストから概ね消失する。
代表的な例外は、カタルーニャ人哲学者のラモン・リュイである。リュイの『驚異についての書』(1310)では、主人公フェリシュが世界を旅しながら自然現象の原因を学んでいく物語が描かれる。この作品は、後世に与えた影響は小さかったものの、自然哲学とアウグスティヌス的価値観、それにエリートの文学趣味を架橋した試みであった。
● 驚異を鎮める
異自然的なものというカテゴリーは、観察者の経験や知識に依存するような不安定な基準によって定義されたため、雑多な現象の寄せ集めになってしまった。13~14世紀の哲学者たちは、自然的原因を追究することの重要性を認識する点では比較的一致していたが、具体的な原因に関してはそれぞれに異なる主張をしていたのである。この傾向は特に、アラビア語の哲学的文献が流入してきたことで強まった。
アカデミックな著者の誰もが、手品師が巧みな手練によって錯覚を引き起こすことや、複数の自然的原因が組み合わさって偶発的な出来事を起こすことに言及した。また、天界が自然的物質に種的形相を与えることによって驚くべき性質を刻印することも一般的に認められており、磁鉄鉱の磁力やコバンザメの力強さなどが説明された。種的形相以外にも天界が特別な刻印をすることを論じる哲学者もおり、たとえばアルベルトゥスは、人間と動物の混血の誕生や、化石の存在などを説明するのにこれを用いていた。
さらに、驚異の存在を人間や悪魔による直接的介入で説明する哲学者たちもいた。特に悪魔による説明はしばしば論争の火種となり、アクィナスは物質的な媒介なしで悪魔が影響を及ぼすことはできないと論じて反対した。ただし、このような個々の点での不一致はあったものの、大衆の迷信に反対するという点では、アリストテレスの注釈者たちのほとんどが一致していた。哲学者たちは驚異を原則的には自然的原因で説明し、神や悪魔の介入による説明は最小限にしようとしていた。
しかし、自然的原因に基づく驚異の説明は、偶然的な効果や感知できない種的形相に依拠していたため、自然哲学の一部になることはできなかった。驚異の一般的なタイプについての説明はできても、個々の驚異の特性を説明する理論にはなっておらず、それらを知るには経験に頼るしかなかったからである。この問題は、哲学者たちが驚異を鎮める力に深刻な制約を課していた。それでも、アルベルトゥスやアクィナスといった中世盛期から後期のスコラ哲学者たちは、驚異を悪魔や超自然的なものではなく、自然的原因だけで説明しようとする点で一致していた。
そうした試みのうちで最も包括的かつ体系的だったのが、フランスのシャルル5世の側近を務めたニコル・オレームの『驚異の原因』(1370)である。オレームはこの本で、占星術の体系全体を攻撃して種的形相の議論を拒否すると同時に、悪魔や神を持ち出す説明も拒否した。13世紀の先駆者たちと比較してオレームに特徴的だったのは、第一に自然的現象の多様性を強調したことであり、そうすることによってオレームは時折規則性から外れる驚異物が現れるのは驚くべきことではない(むしろほとんどの場合において破られない規則性のほうが驚きに値する)と論じた。第二に、オレームは人間が個々の驚異の原因を知り得る可能性についてやや楽観的であった。
個々の出来事の原因について、より本格的な関心を抱いたのが同時代のイタリアにおける医学的な著者たちであった。彼らの貢献もあって、驚異の問題は自然哲学に統合されていくことになるのである。
2016年7月20日
新しいメンデル理解に関するメモ
山下孝介『メンデリズムの基礎――メンデルの<植物雑種に関する実験>ほか』裳華房、1972年。
Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.
L. A. Callender, “Gregor Mendel: An Opponent of Descent with Modification” History of Science 26 (1988): 41–75.
Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.
【1】メンデルに関する従来的理解
たとえば、平凡社『百科事典マイペディア』では、「メンデル」の項目は以下のように記述されている。
遺伝学の基礎を築いたオーストリアの生物学者。ブリュンの修道院の司祭や実科学校の代用 教員をするかたわら,修道院の庭でエンドウの遺伝を研究。遺伝現象の法則性と,形質を子孫に伝える遺伝物質の存在を明らかにした,いわゆるメンデルの法則を1865年に発表したが,その真価は1900年まで世に認められなかった。(1822-1884)
このように一般的な説では、メンデルは以下のような人物だったと考えられている。
・ エンドウの遺伝を研究した。
・ 「メンデルの法則」(優性の法則、分離の法則、独立の法則)を発表した。
・ 遺伝物質の存在を明らかにした。
・ 以上の業績によって遺伝学の基礎を築いた。
・ ただし、1900年までその業績は無視されていた(great neglect)。
しかしここ数十年のあいだに、こうした見方に意義を唱えたオルビー(1979)やカレンダー(1988)などの説が有力視されるようになった。現在のメンデル研究では、上の5点はどれも正しくないか、少なくとも適切とはいえないと考えるのが普通になっている。
【2】オルビー「非メンデル主義者・メンデル」(1979)
1.
メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのかコンスタントなのか? もしコンスタントならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。
2.
メンデルは、対立する形質のペアを決定するエレメント(あるいはファクター)のペアという観念をもっていなかった。Heimansが指摘したとおりで、メンデルは一つのエレメントが一つの形質に対応するという関係を想定していたわけではない。遺伝学における対立遺伝子に相当するような遺伝粒子は想定されていなかった。あくまで、エレメントの一つの種類と一つの形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。
・ メンデルは「生殖細胞の形成に際しては[中略]、相違のエレメントだけは相反する側へ分離される(it is only the differentiating ones which mutually separate themselves)」[山下訳では81頁] と書いている。もし本当にそうなら、同類のエレメントは受精のたびに増えてしまうわけで、これはメンデル遺伝学に反している。同類のエレメントのあいだでの分離を認めていなかったということは、メンデルは、限られた数の遺伝要素という観念をもっていなかったのである。
3.
メンデルの論文では受精についての細胞理論(cell theory of fertilization 花粉細胞の内容物が卵細胞と融合して接合子が形成される)が登場するが、メンデルはこれを、コンスタントな雑種と変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みとして用いていたのであって、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台として用いているわけではなかった[山下訳では80–81頁] 。
・ もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではない。
【3】カレンダー「グレゴール・メンデル――変化を伴う由来に対する反対者」(1988)
1.
通説に反して、メンデルは「分離の法則」を明確にしていない。
2.
通説に反して、メンデルは種の一般的固定性を受け入れていたが[山下訳では88頁?] 、限られた数の場合においてコンスタントな雑種の形成によって新種が生まれることを認めていた。
3.
通説に反して、メンデルがエンドウの後に行ったHieracium(ヤナギタンポポ属)の実験は、エンドウでの実験結果を確かめようとしたものではなかった。メンデルは実際には、コンスタントな雑種形態の存在を実証して、それらが新種の形成に果たす役割を示そうとしていた。
・ メンデルは「雑種の展開における根本的な差異は、種々の細胞エレメントの永久的または一時的な結合にあるとする試み」 [山下訳では82頁]と述べているように、変異する雑種では分離が起きるが、コンスタントな雑種では分離が起きないと考えていた。この区別こそがメンデルにとって重要だった。
4.
メンデルの思想は、洗練された形式の個別創造説であった。すなわち、マルサス的な生存闘争の概念と、リンネが提唱した個別創造説の修正版を組み合わせ、かつ創造主に対する言及を排除したものだった。これは、自然選択による変化を伴う由来としての進化の観念と対立する。
5.
Great Neglectは科学史家がつくりだしたものでしかない。メンデルは変化を伴う由来に対して反対していたし、ときどき他の論者の議論を間違って解釈していたので、当時真剣に議論されるほどの理論とはみなされなかったのである。
【4】ムーア「メンデルの業績の“再発見”」(2001)
メンデルの研究はなぜ発表当時注目されず、1900年以降になって重要な業績とみなされるようになったのか?
1.
メンデルの研究は当時の文脈において、革命的なものではなくむしろ典型的なものとして理解されていた。
・ メンデルの論文は、種形成や交雑に関する研究であって、遺伝についての研究ではなかった。
・ メンデルの論文は、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・ メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・ メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。
2.
メンデルの研究が有名になったのは、「再発見者」たちの先取権論争のせいである。
・ コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。
Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.
L. A. Callender, “Gregor Mendel: An Opponent of Descent with Modification” History of Science 26 (1988): 41–75.
Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.
【1】メンデルに関する従来的理解
たとえば、平凡社『百科事典マイペディア』では、「メンデル」の項目は以下のように記述されている。
遺伝学の基礎を築いたオーストリアの生物学者。ブリュンの修道院の司祭や実科学校の代用 教員をするかたわら,修道院の庭でエンドウの遺伝を研究。遺伝現象の法則性と,形質を子孫に伝える遺伝物質の存在を明らかにした,いわゆるメンデルの法則を1865年に発表したが,その真価は1900年まで世に認められなかった。(1822-1884)
このように一般的な説では、メンデルは以下のような人物だったと考えられている。
・ エンドウの遺伝を研究した。
・ 「メンデルの法則」(優性の法則、分離の法則、独立の法則)を発表した。
・ 遺伝物質の存在を明らかにした。
・ 以上の業績によって遺伝学の基礎を築いた。
・ ただし、1900年までその業績は無視されていた(great neglect)。
しかしここ数十年のあいだに、こうした見方に意義を唱えたオルビー(1979)やカレンダー(1988)などの説が有力視されるようになった。現在のメンデル研究では、上の5点はどれも正しくないか、少なくとも適切とはいえないと考えるのが普通になっている。
【2】オルビー「非メンデル主義者・メンデル」(1979)
1.
メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのかコンスタントなのか? もしコンスタントならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。
2.
メンデルは、対立する形質のペアを決定するエレメント(あるいはファクター)のペアという観念をもっていなかった。Heimansが指摘したとおりで、メンデルは一つのエレメントが一つの形質に対応するという関係を想定していたわけではない。遺伝学における対立遺伝子に相当するような遺伝粒子は想定されていなかった。あくまで、エレメントの一つの種類と一つの形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。
・ メンデルは「生殖細胞の形成に際しては[中略]、相違のエレメントだけは相反する側へ分離される(it is only the differentiating ones which mutually separate themselves)」[山下訳では81頁] と書いている。もし本当にそうなら、同類のエレメントは受精のたびに増えてしまうわけで、これはメンデル遺伝学に反している。同類のエレメントのあいだでの分離を認めていなかったということは、メンデルは、限られた数の遺伝要素という観念をもっていなかったのである。
3.
メンデルの論文では受精についての細胞理論(cell theory of fertilization 花粉細胞の内容物が卵細胞と融合して接合子が形成される)が登場するが、メンデルはこれを、コンスタントな雑種と変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みとして用いていたのであって、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台として用いているわけではなかった[山下訳では80–81頁] 。
・ もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではない。
【3】カレンダー「グレゴール・メンデル――変化を伴う由来に対する反対者」(1988)
1.
通説に反して、メンデルは「分離の法則」を明確にしていない。
2.
通説に反して、メンデルは種の一般的固定性を受け入れていたが[山下訳では88頁?] 、限られた数の場合においてコンスタントな雑種の形成によって新種が生まれることを認めていた。
3.
通説に反して、メンデルがエンドウの後に行ったHieracium(ヤナギタンポポ属)の実験は、エンドウでの実験結果を確かめようとしたものではなかった。メンデルは実際には、コンスタントな雑種形態の存在を実証して、それらが新種の形成に果たす役割を示そうとしていた。
・ メンデルは「雑種の展開における根本的な差異は、種々の細胞エレメントの永久的または一時的な結合にあるとする試み」 [山下訳では82頁]と述べているように、変異する雑種では分離が起きるが、コンスタントな雑種では分離が起きないと考えていた。この区別こそがメンデルにとって重要だった。
4.
メンデルの思想は、洗練された形式の個別創造説であった。すなわち、マルサス的な生存闘争の概念と、リンネが提唱した個別創造説の修正版を組み合わせ、かつ創造主に対する言及を排除したものだった。これは、自然選択による変化を伴う由来としての進化の観念と対立する。
5.
Great Neglectは科学史家がつくりだしたものでしかない。メンデルは変化を伴う由来に対して反対していたし、ときどき他の論者の議論を間違って解釈していたので、当時真剣に議論されるほどの理論とはみなされなかったのである。
【4】ムーア「メンデルの業績の“再発見”」(2001)
メンデルの研究はなぜ発表当時注目されず、1900年以降になって重要な業績とみなされるようになったのか?
1.
メンデルの研究は当時の文脈において、革命的なものではなくむしろ典型的なものとして理解されていた。
・ メンデルの論文は、種形成や交雑に関する研究であって、遺伝についての研究ではなかった。
・ メンデルの論文は、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・ メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・ メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。
2.
メンデルの研究が有名になったのは、「再発見者」たちの先取権論争のせいである。
・ コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。
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