2015年3月5日

ダーウィン150周年に寄せて Smocovitis, “Where Are We?”

『種の起源』出版150周年を記念する論集に、スモコヴィティスが寄せた論考です。

Vassiliki Betty Smocovitis, ““Where Are We?” Historical Reflections on Evolutionary Biology in the Twentieth Century,” in Michael A. Bell, Douglas J. Futuyma, Walter F. Eanes, and Jeffrey S. Levinton, eds., Evolution Since Darwin: The First 150 Years (Sunderland, MA: Sinauer Associates 2010): 49–58.

 この文章では、主に20世紀後半の進化生物学について論じる。というのも、20世紀に至るまでの進化思想の歴史については、科学史家たちがすでに深い理解を得ているからである。ボウラー『進化思想の歴史』(2009)やガヨン『ダーウィニズムの生存闘争――遺伝と自然選択説』(1998)はその例だといえる。いまだ十分な調査がされていないのは、進化生物学というディシプリン自体の歴史なのである。
 1959年、ダーウィンの『種の起源』出版から100周年を記念して、コールド・スプリング・ハーバーで遺伝学者Milislav Demerecが主催するシンポジウムが開催された。遺伝学者を中心に200名近い生物学者が招かれたこのシンポジウムのテーマは「20世紀の遺伝学とダーウィニズム」で、進化理解に対する遺伝学の貢献が強調された。だがマイアは、開会講演で遺伝学的手法の限界を指摘した。同じ1959年には、シカゴ大学で文化人類学者Sol Taxが主催する100周年記念イベントも開催されていたが、こちらでは人類学者の貢献と、諸ディシプリンの統合に焦点が当てられた。「生命の起源」「生命の進化」「生物としての人間」「心の進化」「社会的・文化的進化」と題された五つのパネルディスカッションは、自然選択による進化を中心に諸ディシプリンが統合されるという世界観を象徴していた。
 『遺伝学と種の起源』『体系学と種の起源』『進化の速度と様式』『植物の変異と進化』といったコロンビア生物学シリーズの著作は、現代的総合を決定づけたものとして一般的に称賛されている。だが、これらの著作自体、先行研究の成果を総合した側面が強いことは忘れられがちである。たとえばJ・クラウセン、D・ケック、W・ハイジーは表現型を遺伝型から区別する実験的洞察を提供し、変異の起源と維持を解明し、自然選択の働きを明らかにし、ネオ・ラマルキズムを排除した。E・B・バブコックらは初めて一つの生物グループの系統関係を包括的に解明し、遺伝学・細胞学・体系学・生物地理学・化石史の洞察や手法を利用した。ドイツの体系学者レンシュも見過ごされがちな人物の一人である。『進化論の新しい諸問題』(1947)が英訳されたのは総合の後だったが、彼の仕事はマイアらの種分化研究に決定的な洞察を与えていた。英国におけるハクスリーの努力も正当に評価されていない。彼が編集した『新しい体系学』(1940)は、遺伝学や生態学、実験的アプローチを体系学のような古典的分野に組み込もうとしたもので、ドブジャンスキーやマイアが生物学的種概念を確立するのを助けた。総合の鍵となった人々(マイアのいう「構築者」たち)は殆どが米国か英国で活動していたが、ドブジャンスキーやマイアを含め、貢献者は世界中から来ていた。
 自然選択による進化についてのコンセンサスによって、1930年代中頃から1940年代中頃にかけて数々の組織的活動が活発化していた。特にマイアの熱心な活動はSSEの設立に結実し、シンプソンがその初代会長となった。1947年、プリンストン大学で行われた会議は、この新しいディシプリンが公式に認められる最初の機会となった。Glenn L. Jepsenとシンプソン、マイアによって編集されたこの会議のプロシーディングス『遺伝学・古生物学・進化』(1949)も、新しいディシプリンの重要な参考文献となった。マラーはこの中で、進化の諸ディシプリンの集合を宣言している。①進化的変化のメカニズムとしての自然選択の最重要性、②小さな個体変異のレベルに働く変化の漸進性、③小進化と大進化のプロセスの連続性、がこのディシプリンの基礎的教義となった。鳥類学者や植物学者、体系学者というよりも進化生物学者として自らを定義する人々が増え、この分野に入る若い研究者も増えた。さらにダーウィン100周年は人々の注目を集め、1959年を機にSSEの会員は急増している。
 だが進化生物学は、スプートニク・ショック以降の時代に深刻な危機を経験することになる。分子生物学の急速な台頭によって、それ以外の生物学分野の資金が奪われるようになり、マイア、シンプソン、ドブジャンスキーのような生物中心の生物学者たちとのあいだに衝突が生じた。マイア、シンプソン、E・O・ウィルソンらが居たハーバード大学にはジェームズ・ワトソンやジョージ・ワルドも居り、その対立の深さはウィルソンが自叙伝で「分子戦争」と題した一章を設けるほどだった。マイアやドブジャンスキーは進化生物学に対する援助の継続を求めて奔走し、ドブジャンスキーの有名なフレーズ “Nothing in biology makes sense except in the light of evolution” もその中で生まれた(1964年)。
 進化生物学は他にも、反進化論の原理主義者たちをはじめとする外部からの襲撃を受けてきたが、変化によく適応し、生き延びることができている。生命の多様性の理解は自然選択による進化を通して可能になるという、1859年のダーウィンの約束を果たす科学を成熟させてきたことを、われわれは祝うことができるだろう。

2015年3月4日

総合に関する二つのテーゼと、ハクスリーのいう進化の多様性 Beatty, “Julian Huxley and the Evolutionary Synthesis”

ハクスリーに関する論集に収録された論文ですが、一つ前のプロヴァインの論文を受ける形で書かれています。 そちらのまとめ記事は以下のリンクから参照できます。

■ 進化論の総合なんてなかった Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life”
http://nakaogyo.blogspot.jp/2015/03/provine-progress-in-evolution-and.html


John Beatty, “Julian Huxley and the Evolutionary Synthesis,” in C. Kenneth Waters and Albert Van Helden, eds., Julian Huxley: Biologist and Statesman of Science (Houston: Rice University Press, 1992): 181–189.

 プロヴァインの論文には、総合に関する二つのテーゼが登場している。一つ目はグールドが提唱した、いわゆる「総合説の硬直化」である。総合の当初、自然選択は進化的変化にとって特別に重要な原動力とはみなされておらず、他の原動力、特に遺伝的浮動も重要視されていた。だが40年代後半以降、遺伝的浮動による進化の事例が自然選択によって再解釈されるようになり、自然選択が進化的変化にとって唯一の原動力とみなされるようになった。二つ目は、ボウラーの『ダーウィニズムの凋落』(1983)によって認められるようになり、プロヴァインによって強力に支持されている、いわゆる「進化論の収縮」である。「総合」という言葉は多くの理論が集結したことを想像させるが、実際には総合説は様々な種類のラマルキズムや定向進化説など、多くの理論を拒絶した。総合説は、真剣に検討され得る進化の様式の数を大幅に減らしたのである。以上のように、「硬直化」は総合の当初における理論の複数性を、「収縮」は総合以前における理論の複数性を強調している。この論文では、ハクスリーの視点を検討することによって、以上の二つのテーゼに対しては慎重にならなければならないことを示す。
 ハクスリーが『進化――現代的総合(ETMS)』(1942)を書いたとき、進化遺伝学の一般法則はすでにフィッシャー、ライト、ホールデンらによって定式化されていた。彼らのモデルは、ある種の進化の様式を否定する一方で、まだ多くの進化の様式に可能性を認めていた。実際の進化がどのような様式のものであるかは、まだ示されていなかった。そこで進化生物学に残された仕事は、集団遺伝学の理論と両立する様々な様式の進化を説明し、それらの相対的重要性を明らかにすることであった。ETMSやドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』(1937)はこのような問題意識のもとで書かれている。1900年代と1910年代における進化理論の多様性は、いまや新しい、集団遺伝学の理論と両立する進化の様式の多様性に道を譲ったのである。ハクスリーはETMSにおいて、異なるグループの生物が異なる形の進化をするということや、選択にも様々な形があるということなど、進化の多様性に関する主張を繰り返した。
 このように様々な形の進化を認め、それらを一般化することの困難さを強調したのがETMSだったとすると、それは「総合」の名に値するのだろうか? 集団遺伝学や体系学、古生物学といった各分野の「つじつまが合っている」ことを示しただけなら、「総合」とは呼べないのではないか? それゆえプロヴァインは、ハクスリーは総合者というより編集者(compiler)だったのだと評価した。しかし筆者の考えでは、ハクスリーは各分野の「つじつまが合っている」ことだけではなく、それらが「相互に照らし合う」ことも示すことによって生物学の統合を目指したのである。たとえば遺伝的システムの進化を論じる第4章では、進化が遺伝学を解明し、遺伝学が進化を解明している。
 ETMSは1963年に再出版されたが、短いイントロダクションが追加された以外に書き直しはされなかったので、ハクスリーのなかで「硬直化」がどれくらい進んでいたか、はっきりとはしない。しかし、選択の重要性について、60年代のフォードやマイアのように極端な立場はとっていなかったように思われる。総合に際しては様々な進化の様式が否定されたが、それでもなお多くの様式が検討され続けていたのであって、われわれは「収縮」や「硬直化」といったテーゼによってその多様性を見えなくしてしまうことには気をつけなければならない。
 なお、ハクスリーにおける「進化の多様性」は、彼の「進歩主義者」としての立場とも関係している。彼の考えでは、様々な進化があるなかで、進歩を導く進化はごく一部の形の自然選択によるものに限られている。それゆえ、人間が進歩を続けるためには人間自身による介入が必要となる。「進化の多様性」を訴えるハクスリーの立場は、彼の優生学的視点を支えるものだったのである。

2015年3月3日

進化論の総合なんてなかった Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life”

 科学史家のプロヴァインは、『理論集団遺伝学の起源』(1971)を著し、また『進化論の総合――生物学の統合についての視点』(1980)をマイアと共に編集するなど、進化論の総合に関する歴史研究の第一人者として知られてきました。しかし1988年頃からプロヴァインは主張を転換し、進化論の総合なんてなかったという主旨のことを言うようになります。今回紹介する論文は、ジュリアン・ハクスリーに関する論集に収録された一本ですが、そのようなプロヴァインの新しい主張がはっきりと示されています。

William B. Provine, “Progress in Evolution and Meaning in Life,” in C. Kenneth Waters and Albert Van Helden, eds., Julian Huxley: Biologist and Statesman of Science (Houston: Rice University Press, 1992): 165–180.

 T・H・ハクスリーが進化のプロセスを非道徳的なものとみなし、倫理の基盤にしようとは考えなかったのと異なり、その孫のJ・ハクスリー(以下ハクスリー)は進化を、人間存在に希望や意味を与える進歩的な過程とみなした。特に1910年代前半には、進化を目的のあるものとみなしていたようである。『進化――現代的総合』(1942)の最終章「進化的進歩」では進化的進歩を、生物学的効率や環境のコントロール、環境に対する非依存性、機能効率、内部調整といった言葉で定義した。ハクスリーの考えでは、更なる進歩の可能性を秘めているのは人間だけである。この本では、進化に目的があることは否定している。

 ここで「進化論の総合」ということについて考え直してみたい。総合に関わった生物学者たちのほとんどが、総合に対する自分の貢献が過小評価されていると訴えている(マイア、ライト、ハクスリー、シンプソン、ウォディントン、ステビンズ、ドブジャンスキー、フィッシャー、フォード、ゴールドシュミット、ダーリントン、マラー、レンシュ、チモフェーエフ゠レソフスキー)。エルドリッジ、グールド、木村ら若い世代の進化学者の議論を見ても、総合に関する見解の不一致は著しい。しかし、とにかく「1930年代から1940年代にかけて進化生物学に何か重要なことがあった」という点では誰もが一致している。
 進化論の総合が何ではなかったかを考えてみると、第一に、それは総合と呼べるようなものではなかった。メンデル遺伝と遺伝子頻度を変化させる様々な要因との総合は確かにあったが、それを成し遂げたフィッシャー、ホールデン、ライト、ホグベン、チェトヴェリコフらは実際の進化のプロセスについて激しく論争していた。この真の総合の後に行われたことは、分野間の障壁を取り除き、コンセンサスを偽造することであり、ごまかしに満ちていた。マイアや哲学者のDudley Shapereらはこれを総合として特徴づけようとしたのである。第二に、総合は新しい発見や概念や理論によって特徴づけられるものではなかった。フィッシャーの自然選択の基礎理論、ライトの平衡推移理論や適応度地形、マイアの創始者効果、ウォディントンの後成的地形(epigenetic landscape)、マラーのラチェットなどは、それを中心に総合が形成されたと言えるようなものではない。第三に、総合は自然界における進化のメカニズムについての合意によって特徴づけられるものでもなかった。実際の進化において、どのようなメカニズムが重要かについての論争は尽きなかったのである。
 総合について考え直す上でヒントとなるのが、フランスの生物学者ドラージュ(Yves Delage)の事例である。ドラージュのL’Hérédité et les Grands Problèmes de la Biologie Générale(1894)は、さまざまな遺伝理論についての分析をまとめた大著であり、好評を博した。そこで1903年に第二版が出版されたのだが、これはその後の遺伝学者たちからまるっきり無視されることになった。メンデルの再発見(1900)により、数々の遺伝理論(たとえばドラージュが51ページ分を割いた、ネーゲリのイデオプラズム理論)がその価値を失い、ドラージュの本はいきなり時代遅れになってしまったのである。一方、こういった数々の遺伝理論はそれぞれ、自然選択以外の何らかの進化メカニズムについての理論と結びついていたのだが、それらはメンデルの再発見を生き延びた。自然選択に対する拒絶の背景には、非目的的で日和見主義的なメカニズムに対する嫌悪があった。
 総合は、このようにして過剰に存在した進化メカニズムについての理論の大量絶滅であり、進化のプロセスに関係する変数の大規模な切り落としであった。集団のサイズや構造、遺伝的浮動、ヘテロ接合性の度合、突然変異率、移動率などについて論争することはあっても、それらが重要になり得るという認識では一致しており、目的論的な力は働いていないという認識でも一致していた。それは「進化論の総合」というより、「進化論の収縮(evolutionary constriction)」と呼ぶべき出来事であった。1940年代後半から50年代にかけて進化生物学が選択主義者的解釈に「硬直化」したというグールドの説には賛成できる。それは進化論の収縮の更なる収縮といってもいいだろうし、進化論の収縮の硬直化といってもいいだろう。

 ハクスリーの『進化――現代的総合』は、この「進化論の収縮」説の完璧な例である。それは収縮された変数のセットについての議論であったが、それらを消化し総合する議論ではなかった。ハクスリーを悩ませた課題は、目的なしに進歩を説明することであった。祖父のT・H・ハクスリーは進化が倫理の基盤にならないと論じたとき、ユダヤ・キリスト教の伝統に立ち返ったが、J・ハクスリーはすでにユダヤ・キリスト教の伝統を見限っていた。
 このように考えてみると、ハクスリーがテイヤール(Teilhard de Chardin)の『現象としての人間』(1955、英訳1959)を擁護した理由がわかる。テイヤールの目的論的な進化観はほとんどの進化生物学者には馬鹿馬鹿しいものとして映り、シンプソンらはこの本をこき下ろした。しかしハクスリーと、信仰心の厚い人物であったドブジャンスキーがテイヤールを擁護した。ハクスリーとドブジャンスキーは、進化に目的など無いことを知りつつも、進化が人生に(目的を有する進化が提供していたような)意味を与えてくれることを望んでいた。進化に目的があった時代、そこには本当の進歩があり得たが、進化論の収縮がその望みを終わらせたのである。