2016年7月20日

新しいメンデル理解に関するメモ

山下孝介『メンデリズムの基礎――メンデルの<植物雑種に関する実験>ほか』裳華房、1972年。
Robert Olby, “Mendel No Mendelian?” History of Science 17 (1979): 53–72.
L. A. Callender, “Gregor Mendel: An Opponent of Descent with Modification” History of Science 26 (1988): 41–75.
Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.


【1】メンデルに関する従来的理解

たとえば、平凡社『百科事典マイペディア』では、「メンデル」の項目は以下のように記述されている。

遺伝学の基礎を築いたオーストリアの生物学者。ブリュンの修道院の司祭や実科学校の代用 教員をするかたわら,修道院の庭でエンドウの遺伝を研究。遺伝現象の法則性と,形質を子孫に伝える遺伝物質の存在を明らかにした,いわゆるメンデルの法則を1865年に発表したが,その真価は1900年まで世に認められなかった。(1822-1884)

このように一般的な説では、メンデルは以下のような人物だったと考えられている。
・ エンドウの遺伝を研究した。
・ 「メンデルの法則」(優性の法則、分離の法則、独立の法則)を発表した。
・ 遺伝物質の存在を明らかにした。
・ 以上の業績によって遺伝学の基礎を築いた。
・ ただし、1900年までその業績は無視されていた(great neglect)。

しかしここ数十年のあいだに、こうした見方に意義を唱えたオルビー(1979)やカレンダー(1988)などの説が有力視されるようになった。現在のメンデル研究では、上の5点はどれも正しくないか、少なくとも適切とはいえないと考えるのが普通になっている。


【2】オルビー「非メンデル主義者・メンデル」(1979)

1.
メンデルにとって最大の関心は、新種の誕生に際して雑種が果たす役割であった。雑種は変異するのかコンスタントなのか? もしコンスタントならばそれは新種の誕生における第一段階となるのか? 遺伝の法則については、進化における雑種の役割についての分析に関係する限りでの関心をもっていたに過ぎない。

2.
メンデルは、対立する形質のペアを決定するエレメント(あるいはファクター)のペアという観念をもっていなかった。Heimansが指摘したとおりで、メンデルは一つのエレメントが一つの形質に対応するという関係を想定していたわけではない。遺伝学における対立遺伝子に相当するような遺伝粒子は想定されていなかった。あくまで、エレメントの一つの種類と一つの形質のあいだに関係を想定していたにすぎない。

・ メンデルは「生殖細胞の形成に際しては[中略]、相違のエレメントだけは相反する側へ分離される(it is only the differentiating ones which mutually separate themselves)」[山下訳では81頁] と書いている。もし本当にそうなら、同類のエレメントは受精のたびに増えてしまうわけで、これはメンデル遺伝学に反している。同類のエレメントのあいだでの分離を認めていなかったということは、メンデルは、限られた数の遺伝要素という観念をもっていなかったのである。

3.
メンデルの論文では受精についての細胞理論(cell theory of fertilization 花粉細胞の内容物が卵細胞と融合して接合子が形成される)が登場するが、メンデルはこれを、コンスタントな雑種と変異性をもつ雑種があることを説明するための概念的枠組みとして用いていたのであって、遺伝の決定子についての細胞学的理論の土台として用いているわけではなかった[山下訳では80–81頁] 。

・ もしメンデル主義者を、限られた数の遺伝要素(最も単純なケースでは一つの遺伝形質につき二つ)が存在し、そのうち一つだけが生殖細胞に入ることに同意する人として定義するならば、メンデルは明らかにメンデル主義者ではない。


【3】カレンダー「グレゴール・メンデル――変化を伴う由来に対する反対者」(1988)

1.
通説に反して、メンデルは「分離の法則」を明確にしていない。

2.
通説に反して、メンデルは種の一般的固定性を受け入れていたが[山下訳では88頁?] 、限られた数の場合においてコンスタントな雑種の形成によって新種が生まれることを認めていた。

3.
通説に反して、メンデルがエンドウの後に行ったHieracium(ヤナギタンポポ属)の実験は、エンドウでの実験結果を確かめようとしたものではなかった。メンデルは実際には、コンスタントな雑種形態の存在を実証して、それらが新種の形成に果たす役割を示そうとしていた。

・ メンデルは「雑種の展開における根本的な差異は、種々の細胞エレメントの永久的または一時的な結合にあるとする試み」 [山下訳では82頁]と述べているように、変異する雑種では分離が起きるが、コンスタントな雑種では分離が起きないと考えていた。この区別こそがメンデルにとって重要だった。

4.
メンデルの思想は、洗練された形式の個別創造説であった。すなわち、マルサス的な生存闘争の概念と、リンネが提唱した個別創造説の修正版を組み合わせ、かつ創造主に対する言及を排除したものだった。これは、自然選択による変化を伴う由来としての進化の観念と対立する。

5.
Great Neglectは科学史家がつくりだしたものでしかない。メンデルは変化を伴う由来に対して反対していたし、ときどき他の論者の議論を間違って解釈していたので、当時真剣に議論されるほどの理論とはみなされなかったのである。


【4】ムーア「メンデルの業績の“再発見”」(2001)

メンデルの研究はなぜ発表当時注目されず、1900年以降になって重要な業績とみなされるようになったのか?

1.
メンデルの研究は当時の文脈において、革命的なものではなくむしろ典型的なものとして理解されていた。
・ メンデルの論文は、種形成や交雑に関する研究であって、遺伝についての研究ではなかった。
・ メンデルの論文は、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・ メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・ メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。

2.
メンデルの研究が有名になったのは、「再発見者」たちの先取権論争のせいである。
・ コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。



DNA言語学と情報理論的生命論 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第7章後半と結論

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 310–331.


● 存在論とアナロジーのあいだで : 生命の本のキメラ

【310-2】この議論はヤーコブソンを触発した。というのはこの議論が、生物学と言語学を結びつける特徴に焦点を当て、さらなる分野間研究を暗示していたからである。1969年9月には生物学の会議に参加し、「生命の言語と言語の生命」という講演で、言語それ自体が科学と人文学をつなぐくびきなのだと論じた。1970年の著書でも、言葉の暗号と遺伝暗号の同型性に基づいて、遺伝暗号は生物がもつ最古の言語なのだと指摘した。

【311-1】ヤーコブソンは、遺伝暗号のサブユニットは音素にたとえることができると考えた。情報を伝達する様々なシステムのうち、遺伝暗号と言葉の暗号だけが、意味を欠いた要素(音素)の使用に基づいているのだという。こうして音素という概念を脱音声化したことで、ヤーコブソンはアナロジーをさらに押し進めることができた。音素間関係が弁別的素性の二項対立に分解できるように、DNAの塩基配列でもAとT、GとCのペアが存在しているのだという。しかしここでは、弁別的素性と塩基は機能において異なっているという明白な問題が覆い隠されてしまった。

【312-1】ヤーコブソンは、言葉のメッセージと遺伝的メッセージのあいだには階層性の点でもアナロジーが成り立つと論じた。前者が字句単位から構文単位へ上っていくように、後者もコドンからシストロンやオペロンへ上っていくのである。句読点は、「隠喩的に」開始コドンや終止コドンに対応する。開始コドンが場所によって異なった意味をもつという新しい知見は、自然言語と同様に遺伝的メッセージも文脈依存性をもつことを示している。共直線性も、言葉と遺伝の言語で共通している。話者間でのコミュニケーションと違って遺伝暗号は一方向的に読まれているように思われるかもしれないが、フィードバック制御が対話的性質に対応しているのである。二つの情報システムのこうした共通の性質は、それぞれに安定性、種分化、無限の個性化をもたらしている。

【312-2】ヤーコブソンの考えでは、言語は人間性の普遍的な資質であるゆえに、こうした相同性は人間性にとって重要な意味をもっている。ヤーコブソンは、この同型性は単に類似した自然的制約に導かれた独立的発展なのか、それとも共通の現象の現れなのかと問い、後者の回答を好んでいた。こうしたアナロジーによって、遺伝暗号は宇宙原理とも言い得るような存在論的地位を得るようになった。

【313-1】一方ジャコブは、だんだんとこうしたアナロジーに対して慎重な姿勢をとるようになっていった。生物学は、元から存在する実在のものというよりも、あくまで生命のモデルや表現を扱っているのだとして、主張を弱めていったのである。1974年の記事では、生物学的な言語と社会的な言語の違いが大きいことを指摘して、ヤーコブソンに対して異議を唱えた。

【313-2】ジャコブは、プログラムや指示書や暗号といった言葉で遺伝を表現するのは、単に情報理論が台頭したこの時代特有の思想に過ぎないのか、それともより根本的な実在に根ざしているのかと考えた。その上で、言語には送り手と受け手がいるが、生物の遺伝にはそのような存在は見当たらないと指摘した。

【314-1】ジャコブによれば、共直線性や要素間の連結といった同型性も、二つのシステムの同一性を証拠付けるには不十分である。またジャコブは、言語学が遺伝的分析を手助けすることはあっても、遺伝学が言語学に貢献することはほぼ無いだろうと論じた。

【314-2】ジャコブは、生物学において説明のためのモデルが多くの役割を担ってきたことを認めつつ、しばしばそのモデルそのものをアイデンティティとみなしてしまう傾向があると指摘した。そして皮肉を込めてなのか、遺伝と言語の関係を掴みたいのであれば『易経』を研究すべきだと述べた。

● 遺伝暗号と『易経』 : 真面目な冗談?

【315-1】1969年頃、欧米で複数の人物が、完成された遺伝暗号と『易経』の類似性を指摘した。『易経』と遺伝的な「生命の本」は、どちらも4の3乗=64パターンで多様性を説明する。『易経』の爻には、1本につながった横棒の「陽」と、真ん中で2つに分断された横棒の「陰」があり、爻2本を重ねることで、組み合わせによって「太陽」「少陰」「少陽」「太陰」の四象となる。そして四象が3つ組み合わさることで、六十四卦が出来上がる[普通は八卦が2つ組み合わさったものと説明される?]。

【317-1】Gunther Stentは、遺伝暗号と易経の一致を驚くべきことだと述べた。Martin Schönbergerは、『易経』と「生命の本」の双方が普遍的な情報の流れを表現していると考え、共通の原理があるのではないかと推測した。

【318-1】モノーが『偶然と必然』で表現した世界観とは異なり、Schönbergerもヤーコブソンも、根本的な普遍性を見出そうとしていた。科学者たちはこうしたスピリチュアルな主張を見捨てることもできたであろうが、そうするとそれよりもずっと繋がりの弱いDNAと言語のアナロジーを保持したり存在論的に扱ったりすることは、ダブル・スタンダードに陥ってしまうのであった。

【318-2】このような存在論とアナロジーのあいだの緊張関係は、Françoise Bastideが提唱した「キメラ」の概念によって中和されるだろう。Bastideは、現代の生物学ではその対象が、自然に属する身体と文化に属する頭部のキメラのような存在として見られているのではないかと示唆する。「生命の本」も、自然と文化の産物であるキメラとして見られているのかもしれない。

【319-1】1950年代にサイバネティクスや情報的表現が言語学と分子生物学の両方に輸入されたことで、両者のあいだでアナロジーが駆り立てられた。そして両者が同時に脱物質化されたことで、言葉(DNA配列の情報)を自己組織化の起源、生命と進化の存在論的単位とみなさる可能性が出現したのである。この展望は1970年代に、コンピューター上で生命をシミュレーションしたマンフレート・アイゲンによって推進された。70年代には、ヤーコブソンの影響力が弱まるにつれて、チョムスキーのパラダイムに基づいてDNAの言語的性質が研究される傾向が強まったが、アナロジーから存在論への根拠の無い外挿だという批判は続いた。

● 言葉(世界)の進化

【319-2】アイゲンは1960年代初頭から生命科学に参入し、60年代末までには情報としての生命の起源を探るリサーチプログラムを打ち立てていた。物質の自己組織化、分子進化、DNA言語の始まりなどといった事柄を、情報ベースのゲーム理論として再構成された、ネオ・ダーウィニズムの進化に基づくアルゴリズムで研究しようとしていた。

【321-1】アイゲンは、生命の起源において核酸とタンパク質のどちらが先にあったのかという問題に囚われる必要はないと論じた。核酸とタンパク質の相互作用(ハイパーサイクル)から、動的で機能的な特性である意味論が生じたのである。アイゲンによれば、特定の条件下ではハイパーサイクルによって自己組織化、選択、進化といった機能的組織化が実現し、やがては環境を変えられるようになって前提条件を常に保つことになる。

【321-2】アイゲンは、このゲームにランダム性を導入していた。突然変異は、適切に選択されれば新たな情報の源となるのである。

【322-1】アイゲンがこのゲームで明らかにしたのは、ダーウィン的な選択は特定の前提条件の達成によって実現され、その前提条件はシステムの複雑性が一定程度まで達すれば不変になるということである。こうしてアイゲンは、特定の条件を維持しつつ自己進化する分子システムの可能性を示した。

【322-2】立法権を提供する核酸と、行政権を提供するタンパク質の組み合わせによって、自己増殖するハイパーサイクルが生まれ、選択が繰り返されるようになる。生命情報の誕生はまぐれというよりも、むしろ不可避的な出来事だったのである。

【323-1】70年代中頃までに、情報理論的分子ダーウィニズムは言語学的な様相も帯びるようになる。構造主義からチョムスキーのパラダイムへの移行とともに、多くの分子生物学者が新しいパラダイムのもとで遺伝的言語を探究するようになった。

【323-2】アイゲンは、生命は言葉なのか行為なのかという問題を避け、生命は両方であるはずだと考えた。立法権をもつ核酸と、行政権をもつタンパク質のあいだでのコミュニケーションというモデルにおいて、意味論はタンパク質のほうに割り振られた。

【324-1】しかし、DNAの統語論とタンパク質の意味論というアイゲンの区別は根付かなかった。必要とされたのはむしろ、遺伝の意味を探ることのほうであり、その必要性はヒトゲノム配列を解読する機運が生じたことで高まった。

【324-2】DNA言語学は科学的なムーブメントにまではならなかったが、分子生物学の一分野となった。ヤーコブソンやジャコブに触発されたJulio Collado-Videsはこの分野の擁護者として名前を挙げることができる。

【324-3】「生命の本」というキメラは、矛盾や不調和を内包しつつも、生権力の探求、ゲノムの支配、言葉のコントロールにおいて主要な象徴物となった。


結論

【326-1】読まれ編集されるのを待っている「生命の本」に書かれた情報というイメージは、科学的な生産性と文化的な推進力をもっていた。ゲノムの配列を決定しようという試みは、遺伝子、構造、機能のあいだに直線的な一致があるという見方に基づいている。しかし実際の関係には、可塑性、文脈依存性、偶然性があり、実際に現在、いくつもの研究室が複数の遺伝子や環境のネットワークを重視する方向性に向かいつつある。

【326-2】人間の病気に関しても関わっている遺伝子が一つだけというものは少ないということもあり、遺伝子治療が成功を収めるのはまだまだ先のことだろう。

【327-1】ヒトゲノム計画は、情報時代の生権力の展望だといえる。ゲノム的生権力は、身体や人口のコントロールといったものを越えて、言葉あるいはDNA配列のコントロールを通して、生命をコントロールするのである。

【327-2以降(本全体の要約)】ゲノムをテキスト的なもの、言語的なものとして捉える言説は1940年代末から現れ、50年代と60年代の遺伝暗号解読研究を通して発展した。それまでの生命科学において主要なテーマであった「特異性」は、新しい「情報」というテーマによって取って代わられた。もし遺伝暗号の問題が30年代に研究されていたら、その表現のされ方は大きく異なるものになっていたであろう。以上のことは、第二次世界大戦や冷戦の影響を受けた当時の科学文化の軍事的性質と密接に関係している。ジョージ・ガモフをはじめとするRNAタイクラブのメンバー(物理学者が中心であった)は、遺伝暗号解読の第一期(1953–61)に軍事的な暗号解読の手法を生命科学に持ち込み、問題の枠組みを規定した。彼らのアプローチは、タンパク質の合成過程をブラック・ボックスとみなし、DNAという入力とタンパク質という出力だけに基づいてその関係を探ろうとするものであった。こうした「情報」の言説は、50年代末にジャック・モノーやフランソワ・ジャコブといったパストゥール研究所の人々が酵素合成の遺伝的制御をサイバネティクス的な通信システムとして捉えた際にも重要な役割を果たした。彼らの研究によって、遺伝暗号の問題に対する生化学的な(分子遺伝学的でない)アプローチの道が拓かれた。マーシャル・ニーレンバーグとハインリッヒ・マタイがpoly-Uの合成RNAを用いてポリフェニルアラニンをつくったことが突破口となり、遺伝暗号解読は第二期(1961–67)に突入する。セベロ・オチョアらも加わり熾烈な解読競争が繰り広げられた末にコドン表が完成したが、第二期の研究もやはり第一期の概念的・言説的枠組みに導かれていた。DNAを普遍言語とみなす思想はこの頃までに広まっており、言語学者のロマーン・ヤーコブソンはDNA言語学を推進し、生物物理学者のマンフレート・アイゲンは情報を生命、進化、自然選択の存在論的単位とみなすに至った。

2016年7月8日

遺伝暗号解読、突破の局面 Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第6章中盤

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 256–277.


● 「情報高分子」:文字、言葉、ナンセンス

【256-1】暗号解読問題が袋小路を突破したことで、それをめぐる競争は激しくなり、ニーレンバーグは少なくとも6つほどの他のグループと競合することになった。特に1961年の夏に、20人ほどの研究者を擁するセベロ・オチョアの研究室が全力で解読問題に取り組むと発表したことは、ニーレンバーグを動揺させた。オチョアは、ちょうど2年前にRNAの酵素合成研究でノーベル賞を受賞しており、NIHのグループと競合する必要はないように思われた。しかし、実はオチョアらもこれまでにタンパク質合成の研究を進めていたのであり、ニーレンバーグとマタイの報告を聞く前に、彼らと同様の実験を計画していたようである。

【257-1】オチョアはスペインの出身で、1929年にマドリード大学で医学の学位をとったあと、カイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・マイヤーホフのもとでポスドクとして生化学の研究をした。その後はマドリード大学で講師を務めたが、スペイン内戦が勃発したため、ドイツ、英国を経て米国に落ち着いた。1942年からはニューヨーク大学の医学部に移り、1954年には学科長に就任した。オチョアの研究は1960年頃まで、伝統的な代謝生化学の枠組みに収まっており、遺伝学的な概念や情報伝達のモデルとは無縁であった。

【259-1】1954年、パリからオチョアの研究室に来ていた生化学者Grunberg-Managoが、4種類の塩基のうち1種類しか含まないRNAのような産物を試験管内で生み出す酵素を特定した。ポリヌクレオチドホスホリラーゼと命名されたこの酵素は、生体内においてはRNAの合成に関わらないことが判明したが、生化学にとって重要な道具となった。

【259-2】オチョアは(少なくとも回想的には)、この酵素が遺伝暗号問題解決のための鍵だったと考えた。メッセンジャーRNAという新しい概念は、無細胞系で合成ポリヌクレオチド(人工的に合成されたヌクレオチド)をメッセンジャーとして使うことで遺伝暗号解読につなげる実験の可能性を示唆していたが、研究に取り掛かった頃にニーレンバーグに先を越された。

【260-1】1961年の10月、オチョアはLengyel、Speyerと共著で「合成ポリヌクレオチドとアミノ酸暗号」と題してシリーズ化された論文の第一弾を米国科学アカデミー紀要(PNAS)に投稿した。この論文では、ニーレンバーグとマタイの研究結果を確認した上で、大腸菌のトランスファーRNAを追加することでフェニルアラニンがタンパク質により多く取り込まれることが示された。この事実は、合成ポリヌクレオチドとメッセンジャーRNAは交換可能であることの保証になった。 さらにオチョアのグループは、(poly-Uの場合はフェニルアラニンだけが取り込まれるのに対して)poly-UCのようなポリヌクレオチドはフェニルアラニン、セリン、ロイシンを、poly-UAはフェニルアラニンとチロシンを、ポリペプチドに取り込むことを示した(図33)。

【260-2】オチョアらはライバルの存在を強く意識しており、論文は先取権を強調する調子で書かれていた。論文の注釈には、poly-UGやpoly-UACによって取り込まれるアミノ酸の種類が挙げられ、その結果は次の論文で報告することまでが予告されていた。

【261-1】3週間後に発表された第二弾では、poly-UC、poly-UA、poly-UG、poly-UAC、poly-UCG、poly-UAG(もちろん、これらを構成するヌクレオチドの順番はわかっておらず、ただ組成だけがわかっている)によって取り込まれるアミノ酸の種類が報告された。これらの結果によって、オチョアらは11種類のアミノ酸について、それぞれに対応する3文字の構成(順番まではわからない)を示した。たとえばシステインは「2U 1G」、ヒスチジンは「1U 1A 1C」、といった具合である(図34)。

【262-1】NIHでは、Gordon TomkinsやLeon Heppelのグループもニーレンバーグに協力し、団結して24時間体制での研究が進められていた。ニーレンバーグらの論文はオチョアらに3日遅れて1962年[1961年では?]11月24日に投稿されたが、オチョアらの論文に比べてずっと厳密な検証がなされていた。

【262-2】成果をより早く発表するために、12月4日にニーレンバーグのグループは[研究成果の迅速な普及を目標とする]Biochemical and Biophysical Research Communications誌に「遺伝暗号のリボヌクレオチド組成」と題した論文を投稿し、15のアミノ酸に対応する「遺伝暗号」を報告した(図35)。ここで彼らは他の人々と同様、このイディオムに固有の言語学的スリップに巻き込まれてしまう。「遺伝暗号」とは、アミノ酸によるタンパク質の暗号なのか、塩基によるDNA(RNA)の暗号なのか、両者の相関関係としての暗号なのか?

【262-3】この論文は、言説的・認識的転回において注目すべきものであり、生化学的表象から聖書的表象への移行を示している。ニーレンバーグたちは、ヌクレオチドを「遺伝暗号の文字」として、アミノ酸を「暗号の言葉」として再定義した。彼らはさらに、「暗号は理論的に仮定されたトリプレットで成り立っているのか」という未解決の問題の解決に乗り出した。

【263-1】ニーレンバーグたちは、シングレットとダブレットの可能性を否定し、トリプレットもしくはそれ以上であると考えた。彼らの用いる用語は、生化学で生まれたものではなく、Henry QuastlerやRNAタイクラブによって50年代に分子生物学に持ち込まれたものであった。

【263-2】明らかに、1961年の秋にニーレンバーグは、暗号に対する理論的アプローチの文献を読んでいる。特に先述の論文では、イチャスが1958年に発表した「タンパク質のテクスト」という記事が参照されている。この記事では、ヌクレオチドの配列がテクストを暗号化しているという見方や、イチャスやガモフ、クリックが検討していた暗号が説明されていた。

【264-1】こうした聖書的表象は、ニーレンバーグにとって単に修辞的な見せかけの役割を果たしたのではなく、実験の実践を形づくる概念的構造を形成していた。このことは、1961年秋におけるニーレンバーグの日誌からよくわかる。

【265-1】12月20日までに、オチョアのグループはニーレンバーグのグループにほとんど追いついた。対応する暗号が不明なままのアミノ酸はアラニン、アスパラギン酸、アスパラギン、グルタミン酸、グルタミン、メチオニンの6種類に絞られた。またこの日、「米国の研究者たちによって『遺伝暗号』が部分的に破られた」と題された記事がニューヨーク・タイムズに掲載された。この記事の掲載以降、遺伝暗号に関する報道が相次ぐようになった。

【266-1】12月30日には、クリック、Leslie Barnett、シドニー・ブレナー、R. J. Watts-Tobinによる「タンパク質の遺伝暗号の一般的性質」という記事がNature誌に掲載された。これは、バクテリオファージT4システムのrII領域にあるB遺伝子の研究を押し進めたものであった[177ページ参照]。

【266-2】この記事でクリックらは、遺伝暗号は3つ組の塩基の集まりであること、暗号は重複しないこと(図36)、塩基配列は定められた開始地点から読まれること(特別な「コンマ」は無い)、暗号は「縮退」するということ、を主張した。

【266-3】暗号の重複がないことは、タバコモザイクウイルスの亜硝酸変異体に関する次田晧とフレンケル=コンラートの研究によって示された。重複3つ組コードの場合であれば1塩基の置換で3つのアミノ酸が変化するはずだが、亜硝酸で処理した際に1つのアミノ酸しか変化しなかったのである。暗号が重複しないならばどのように正しい3つ組を選んでいるのかという問題について、クリックはかつてコンマフリーの暗号を考案したが、今や定まった開始地点があるというイチャスの古い解決法に戻ってきていた。

【267-1】クリックらは、どうして以上のような結論に至ったのか。彼らは、シーモア・ベンザーがつくったrII領域の遺伝子マッピングを活用した実験を行っていた。アクリジンで処理したバクテリオファージ(FC O変異体)は、塩基が一つ減って(もしくは一つ増えて)おり、大腸菌K株のもとでは生息できない(大腸菌B株のもとでは生息できる)。しかし、べつの「抑制」変異を起こせば、野生型のようにK株でもB株でも生息できるようになる。しかし抑制変異だけを起こした抑制変異体は、K株のもとで生息できない。つまり、もしFC O変異が塩基の欠失(-)であるとすれば、抑制変異は塩基の挿入(+)である(もしくはその逆である)。しかし、2つの-(もしくは2つの+)が揃った変異体はK株で生息できない。

【267-2】クリックのグループは、この遺伝子領域における約80の独立した変異体を用いた。それはすべて、FC O変異の抑制変異か、抑制変異の抑制変異か、抑制変異の抑制変異の抑制変異であった。複雑な遺伝的組換えの手法を用いて、クリックらは3つの-(もしくは3つの+)が揃った変異体をつくり、その遺伝子が機能していることを示した。このことからクリックらは、塩基の挿入もしくは欠失が「読み枠」の移動を引き起こしていると推論し、暗号は3つ組だと結論づけられたのである(図37)。

【268-1】クリックらの記事は、ニーレンバーグとマタイによる発見や、その後のニーレンバーグのグループやオチョアのグループによる研究をほとんど無視していた。クリックらケンブリッジ大学のグループをはじめとして分子遺伝学者たちは、生化学者たちによる符号化問題の乗っ取りに苛立っていた。彼らは生化学に触れずに、言い換えればブラックボックスを開けることなく、演繹的推論の力によって暗号を破ろうとしていた。これは、40年代にデルブリュックのファージグループから始まった文化だといえる。

【269-1】ニーレンバーグのグループやオチョアのグループが暗号を切り崩しはじめたことは、理論的な論文群に騒動を巻き起こした。NIHのRichard V. Eckは、重複コードのアイデアを蘇らせようとした。

【270-1】ニーレンバーグの相談にも乗っていたリボソームの専門家、リチャード・ロバーツは、すべての「言葉」に共通するウラシルを捨てることでトリプレットはダブレットにできると主張した。

【270-2】ゼネラル・エレクトリックの研究所に居たカール・ウーズは、わかっている事実の全てを包含する理論を築けるはずだと考え、縮退する暗号の枠組みを提唱した。

【270-3】ニーレンバーグは、どの暗号もウラシルを含んでいるという謎に向き合っていた。ニーレンバーグの新しい実験では、ウラシルを含まない暗号が発見された。しかし、ほとんど全てのアミノ酸が2つだけの塩基を含むポリヌクレオチドによって合成されたため、ロバーツの議論を支持することになった。

【271-1】1962年末にクリックはノーベル賞を受賞した。クリックは「遺伝暗号について」と題した受賞講演を行い、暗号単位における塩基の順序や、暗号単位のサイズ(トリプレットかダブレットか)、暗号を「読む」様式、暗号の普遍性、などの残された問題について論じた。クリックは、このときもなお暗号解読の指揮を執っていた。

【271-2】クリックは、「符号化問題における最近の興奮」と題したレビューで、暗号単位に「コドン」という名前をつけた(この言葉は実際にはブレナーがつくったようだ)。

【272-1】クリックは、ニーレンバーグとマタイの発見が符号化問題に対する生化学的アプローチに革命を起こしたことを認めたが、それでもニーレンバーグらやオチョアらの研究に対して批判的であった。クリックは理論的な仕事が暗号プロジェクトにとって不可欠だと考えていたが、悪い理論化が多いことを悲しんでいた。

【272-2】未解決とはいえ、符号化問題とその聖書的・情報的表象はタンパク質合成研究の概念的枠組みと物質的実践を再設定していた。生化学と分子生物学は、どちらも情報科学の分野とみなされるようになるにつれて、両者のあいだで融合が進んだ。ノーベル賞受賞者の生理学者セント=ジェルジ・アルベルトを祝うシンポジウムにおいて、オチョアはRNA合成の研究を情報の言葉で再構成した(3年前にはそれを代謝生化学のパラダイムのもとで進めていた)。

【273-1】シンポジウムでは、続けて生物物理学者John R. Plattが「遺伝情報の本のモデル――細胞と組織における伝達」と題した報告を行い、聖書的なアナロジーをさらに押し進めた。「生命の本」という隠喩は、生化学的な写本、印刷されたマニュアル、電子的なテクストを同時に想像させるものであった。

【274-1】生化学者たちが情報言説に移行したことは、1962年秋に225人の生命科学者が集まった「情報高分子についてのシンポジウム」でも目立っていた。かつて生化学と他の生命諸科学をつなげる主題であった化学的特異性は、情報伝達によって取って代わられた。

【274-2】生化学者であり生化学史家でもあるJoseph Frutonは、情報理論のメタファーが重要な発見を刺激してきたことを認めつつも、生化学における情報理論の重要性には疑問を呈してきた。だが、情報言説は分子生物学の原理のまわりに生化学を再構成したのである。

【275-1】同様に重要な言説的転回は、1962年末に開催された、生物学における情報についての国際会議にあらわれていた。この会議の目的は、情報に関わる生物学の様々な分野の研究者たちを一堂に集めることだとされていた。情報言説は、多様な解釈を許容する形式でモデルを生み出す隠喩として機能し、他の生命科学や社会科学の分野とコミュニティをつなげる役割を果たしていた。

【275-2】ニューヨーク・タイムズは、関連する研究成果を追いかけ解釈することによって、このような文化的つながりのなかで重要な機能を果たしていた。1962年1月の記事では、生物学が原子爆弾・水素爆弾よりもずっと重要な革命のときを迎えていると論じた。同時に、その知識が誤った形で用いられたときの危険性についても警鐘を鳴らした。

【276-1】ニューヨーク・タイムズはべつの記事において、遺伝暗号の研究が驚くべき速さで進んでいることに注目し、遺伝の秘密は今年中に解かれるだろうと書いた。またべつの記事では、遺伝暗号はすべての生物に普遍的であると書いた。

【276-2】普遍性が本当であれば、遺伝暗号は物理学の特権であった自然の普遍法則になる。そしてそれは、微生物で得られた研究成果が人間にも適用されることを意味する。だが、コドンの配列を決定し暗号の単位がトリプレットであることを生化学的に確かめるには、まだ時間が必要であった。2年間の静けさのあと、1963年から67年にかけて、Har Gobind Khoranaによって開発されたトリヌクレオチド合成法と、Lederとニーレンバーグによって考案された、トリヌクレオチドをリボソームに結合させる方法によって、辞書が決定されることになる。さらに、ブレナーらによってナンセンスコドンの終止コドンとしての機能が見つけられ、ニーレンバーグが暗号の普遍性を示すのである。