2023年5月6日

19世紀の地質学の諸相 Rudwick, Earth’s Deep History, Ch. 9 前半

Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 207–224.

第9章「波乱万丈な悠久なる歴史」前半(207~224ページ)


周辺化される「地質学と創世記」(207ページ~)

① 19世紀後半には、創世記の記述に基づいて、地球が非常に古いという地質学者たちの意見に反対し続ける宗教的な人々もいたが、知的議論に対してはほとんど影響力をもたなかった。代表的な地質学者たちのなかに宗教的な人々がいることは認識されており、このことは地質学と宗教的実践が両立可能だという感覚を普及させていた。

② 聖書を「文字通り」に読むという考えは、二つの方面から弱体化させられていた。18世紀の啓蒙思想で発展した、聖書を歴史的に解釈する手法と、19世紀初頭のロマン主義で強まった、聖書の文学性を強調する傾向である。

③ ノアの洪水は、もともと第二紀の岩層とそこに含まれる化石すべての原因とみなされていたが、やがて洪積層の堆積物だけの原因とみなされるようになっていった。さらに、これが更新世の氷河作用の痕跡だと解釈されるようになると、今度は局地的な出来事にすぎなかったとみなされるようになった。こうした解釈の変化は、創世記の歴史化だといえる。氾濫が世界規模だったというときの「世界」とは、当時この物語の受け取り手であった人々に知られていた限りでの世界だと解釈されるようになった。それでも、物語の宗教的な意味はほとんど変わらなかった。

④ 歴史化された洪水の解釈は、19世紀後半にメソポタミアの楔形文字が解読されたことで強化された。1872年に、楔形文字の専門家ジョージ・スミスは、ニネベで発掘された粘土板【図9.1】に創世記の物語に似た洪水に関する記述があったと報告した。このことから、聖書の洪水は全地球的なものではなくメソポタミアに限定された地域的なものであったこと、聖書の記述にはユダヤ人の思想に基づく宗教的な解釈が加わっていることが強く意識されるようになった。

⑤ 19世紀には、一部の主要な地質学者を含む多様な論者が、方向性をもつ「前進的」な地球の歴史を創世記の「六日間」と対応させ、両者を調和させた。一方、創世記の「一日」が非常に長い期間を意味するという譲歩を嫌う論者は、地質学的歴史の全体を創造の後、「六日間」の前に挿入しようとした。いずれにせよ、19世紀後半には、地質学と創世記が両立不可能だという主張は退潮した

⑥ 19世紀のうちに、地質学と創世記は平和的に分離していった。多くの地質学者は、自分たちの科学が自分たちの信仰を傷つけているとは感じていなかった。その一方で、社会的・政治的背景から、イギリスでは19世紀初頭に、アメリカでは19世紀末に聖書直解主義が流行した。

⑦ しかし、19世紀においては、地質学的知識は自然が神によってデザインされているという信念を強固にしているという感覚のほうが普及していた。この種類の自然神学は、バックランドの明白なキリスト教的有神論だけでなく、ライエルの暗黙的な理神論をも特徴づけていた。この感覚を脅かしたのは、「デザイン論証」を弱体化させたダーウィンの自然選択説である。その影響は、キリスト教信仰の知的擁護が歴史的出来事よりも自然神学に依存していたイングランドなどの国々で強く現れた。


地球の歴史の全体像(212ページ~)

① 19世紀には、若い「洪積世」の堆積物と第一紀の岩石が多くの謎を残していた一方で、その中間にあたる第二紀と漸移紀の岩層に関しては知識が大きく進歩した。こうして明らかになってきた悠久なる過去には、奇妙さと普通さの両面があった

② 恐竜や三葉虫をはじめとする過去の絶滅した生物の奇妙さは、大衆に対する科学の宣伝に役立った。1851年の第1回万国博覧会のために建築された水晶宮がロンドン郊外に移設された際には、リチャード・オーウェンの指揮のもとで恐竜たちの実物大模型がつくられた。【図9.2】

③ それと同じ頃、地質学者たちのもとには悠久なる過去の環境が意外にも普通のものであったことを示す証拠が集まっていた。こういった証拠はライエルの議論にとって有利な材料であったが、その多くはバックランドのような激変論者によって発見されていた。

④ 地質学者が悠久なる過去を飼いならすようになったことを示す重要なしるしは、同じ地質時代でもまったく異なる種類の岩石が堆積するということの認識である。キュヴィエとブロンニャールは、パリ盆地の同じ層のなかで、厚い砂岩によって取って代わられている場所がいくつかあることに気付いていた。コンスタン・プレヴォーはこれに対し、淡水と海水の境界線が連続的に動いていて、それによって一時的なラグーンが生まれる環境を想定することで説明を与えた。【図9.3】

⑤ さらに、スイスの地質学者アマンズ・グレスリーは、フランスとスイスの国境にあるジュラ山脈の地質を調査したとき、明らかに同じ時代でも場所によって異なる種類の岩石と化石ができていることに気付き、これらを異なる「」と呼んだ。この相という概念の誕生は、層序学が完全に歴史的な形式に転換したことを象徴している。このアイデアはデヴォン紀大論争にも解決案を提供した。すなわち、デヴォン紀に形成された岩石のなかでも、旧赤色砂岩はおそらく淡水で、他の部分は海底で堆積したのだろうという。


地質学がグローバル化する(216ページ~)


① デヴォン紀大論争は、数年のうちにイギリスから北西ヨーロッパ全域、そしてロシアのウラル、ニューヨーク州、北アメリカのかなたへと広まった。これは19世紀における地質学の範囲の拡大を示す例である。西洋の商業や植民地化の拡大とともに、世界中から地質学的知識が集まるようになり、地質学者たちに地球史の一般化に対する自信を与えた。

② オーストリアの地質学者エドアルト・ジュースの仕事はその一例である。ジュースは山脈の起源という伝統的な問題に挑み、エリ・ド・ボーモンと同じように、地球内部が徐々に冷えて縮小することによって地殻がくしゃくしゃになるのだと考えた。【図9.4】

③ しかし、ジュースは造山運動について、エリ・ド・ボーモンが主張したほど急激に起こる必要はないと考えた。人間にとっては認識できないほどゆっくりしたペースであっても、地質学的なタイムスケールでは激変的な現象になりえるからである。ジュースはライエルの極端にゆっくりした「静止主義」的立場を批判したが、実際にはライエルと同じぐらい地球史の長さを考慮していた。ライエルと激変論者たちの論争は、もはや時代遅れとなっていたのである。

④ ジュースは勇敢にも、自身の大著をメソポタミアの楔形文字による記録の検討から始めている。また、ヨーロッパにおける大規模な造山運動の段階として、デヴォン紀以前のカレドニア造山運動、ペルム紀以前のヘルシニア造山運動、新生代のアルプス造山運動を区別した。これらは、大西洋の反対側で起こっていた造山運動と時期的に一致するという。こうした議論は、層序学と化石記録によって提供されてきた歴史を補完して豊かにするものであった。

⑤ 層序学を地球史のアーカイブにするという仕事を熟成させたのは、ウィリアム・スミスの甥であり非公式の弟子でもあったジョン・フィリップスである。フィリップスは古生物学者であり、オックスフォードのバックランドのポジションを得た。

⑥ フィリップスは1841年に、化石記録の全体を古生代、中生代、新生代の3つに分割することを提案し、すぐに世界中の地質学者たちに受け入れられた。これは古代、中世、近代という人間の歴史の区分とアナロジーの関係にある。

⑦ フィリップスは1860年、ロンドン地質学会での会長演説で、すでに知られている化石記録は「地球上の生命」の歴史が「前進的」だと解釈するのに十分だと論じ、「つまり、地球は歴史をもつ」と要約した。これは、ダーウィンが前年の『種の起源』で、化石記録は不完全であって自説を否定する根拠にはならないと論じたことへの応答であった。

⑧ この問題に関して、19世紀のあいだ地質学者たちの意見はバラバラであった。一方の極には、化石記録の不完全さゆえに突然の変化があったように見えるのだと主張し続けたライエルがいた。この主張は、調査が進めばその見かけ上の不連続性は埋まっていくということを暗示しており、実際にそうなった部分もあった。しかし、古生代・中生代・新生代を分ける不連続性のようにそうならなかった部分もあり、例外的な出来事があったことが示唆された。

⑨ アルシド・ドルビニをはじめとするフランスの地質学者たちは、このような激変主義的解釈をとった。一方、イギリスの地質学者たちはライエルに強く影響され、激変的出来事による説明を避けようとし続けた。

⑩ 19世紀のすべての地質学者は、「現在は過去への鍵」という現在主義の原則を採用していた。この手法は拡張され、ある過去がさらに古い過去への鍵として用いられることもあった。

⑪ 氷河堆積物に関する調査は、現在の世界とはまったく異なる気候があったことを示唆していたが、それはだんだんと冷えていく地球という考えには沿わなかった。1870年代、インドで調査をしていた地質学者たちは、アフリカ、オーストリア、インドがかつて単一の陸塊だったと示唆した。ジュースがこれを支持して「ゴンドワナ大陸」と名付けると、この考えは広く受け入れられた。19世紀後半にはこのように、問題も証拠もグローバル化したことで、地球の歴史がさらに波乱万丈なものとなっていったのである。

層序学から地球史へ Rudwick, Earth’s Deep History, Ch. 6 後半

Martin J. S. Rudwick, Earth’s Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (Chicago: University of Chicago Press, 2014), 140–154.

第6章「アダム以前の世界」後半(140–154ページ)

新しい「層序学」(140頁~)

① 特定の岩層に含まれる化石に基づいて当時の生命と環境を復元していくには、その岩層が全体の積み重なりのなかで、すなわち地球の歴史のなかで、どの位置を占めるのかを知ることが重要であった。

② 当時、このようなゲオグノジーの知識はだんだんと増えていた。キュヴィエやブロンニャールだけでなく、イギリスの鉱物測量技師ウィリアム・スミスも、貝類のような普通の化石の実践的価値に気付いた。前者の二人がパリ盆地の地図作りを始める数年前から、スミスはイングランドとウェールズのゲオグノジー的地図(geognostic map) の制作を始めていたが、完成させて発表したのは前者の4年後となる1815年だった。そのため、どちらが先だったといえるのかをめぐる愛国的論争が繰り広げられてきたが、実際には18世紀のうちから先行者がいた(130頁第2段落参照)。

③ スミスの地図は前者よりもずっと広い範囲の、より多くの岩層を独力で調査したという点で巨大な達成であった。しかし、スミスの地図は(無知な現代の英雄伝説語りが言うようには)世界を変えなかったし、地質学の世界すら変えなかった。スミスの地図は、キュヴィエとブロンニャールの地図と同じく、ゲオグノジー的地図に留まっていたからである。スミスは「特徴的化石」を用いて三次元構造における岩層の「順序」を示したが、地球やイングランドの歴史を復元しようとはしなかった。実際、彼が名付けた「層序学(stratigraphy)」という学問名は、「地層(strata)」を単に記述するという意図を反映している。

④ 層序学は、19世紀初頭の多くの地質学者にとって最も主要な仕事となった。彼らの出版物で最もありふれていたのは、特定の地域における岩層の詳細な記述である。これはたいてい地質図を、さらにはしばしば断面図を伴っていて、この組み合わせは地殻の三次元構造を心の眼で見ることを可能にした。また、場所によって岩石の種類が違っていても、化石によって岩層を対応付けられることが認められた。しかし、それでもこれは層序学、あるいは化石によって豊かになったゲオグノジーに留まっていて、地球史の復元ではなかった

⑤ 層序学の概要を示すものとして最も影響力があったのは、コニベア(1787–1856)が大部分を編集した『イングランドおよびウェールズの地質学概説』(1822)である。コニベアはハイエナの巣穴に入るバックランドの戯画(124頁)を描いた人物で、地球史を復元できる可能性によく気付いていた。しかし、コニベアの本は層序学的な目標に沿ったもので、スミスの業績に強く依拠して、岩層を上から下へと進む順番(地球の歴史とは逆)で石炭系まで記述した。この本によって、少なくとも二次岩層に関しては、どこの地質学者たちもブリテン島の地質を標準的な参照先とするようになった

⑥ 次の20年間にわたって二次岩層の各部分に対する名付けが進み、一番上から順に「白亜系 Cretaceous」、「ジュラ系 Jurassic」、「三畳系 Triassic」(新赤色砂岩 New Red Sandstoneを含む)、「ペルム系 Permian」、「石炭系 Carboniferous」(最下部に旧赤色砂岩 Old Red Sandstoneを含む)と名付けられた。

⑦ これらの二次岩層は化石の出ない一次岩層の上に直接乗っていることもあったが、地域によっては粘板岩などの岩石の上にあり、この層をヴェルナーは一次岩層と二次岩層のあいだという意味で「漸移岩層 Transition」と呼んでいた。1830年代に特定の地域では漸移岩層からも多くの化石が出ることがわかり、ロンドンの地質学者ロデリック・マーチソン(1792–1871)が「シルル系 Silurian」を、ケンブリッジ大学のアダム・セジウィック(1785–1873)がその下の「カンブリア系 Cambrian」を名付けた。カンブリア系の化石は少なく、シルル系との明確な区別がつかなかったため、マーチソンとセジウィックのあいだで論争が起こり、ずっと後になってあいだに「オルドビス系 Ordovician」が挿入された。

⑧ 一方、「デヴォン系 Devonian」をめぐっては大論争が繰り広げられた。この論争が解決されたのは、ヨーロッパじゅうの地質学者たちが、旧赤色砂岩は例外的に他の地域のまったく異なった化石を伴うまったく異なった性質の岩層と同じ時代にできたということを認めたときであった。デヴォン系は石炭系とシルル系のあいだに挿入され、石炭系は以前より狭く定義されるようになった。

⑨ これらの命名は典型的な岩石の種類や地域に由来しており、層序学的(あるいはゲオグノジー的)な基準に基づいていた。それぞれは、特有の化石を含む特有の岩層のグループである「系」として知られるようになった。デヴォン紀大論争が落ち着くと、その構造上の順序が疑われることはなくなった。


地球の長期的な歴史を描く(144頁~)

① しかし間もなく、「系」を構成する岩層が堆積した時代、すなわち「紀」にも同じ名前が使われるようになった。それ自体としては非歴史的な層序学の実践が、地球史の復元のための枠組みを提供したのである。1836年にバックランドが地質学の成果を一般向けに要約したとき、彼の説明は過去20年間の国際的な層序学研究に基づいていた。

※ バックランド『自然神学との関連で考察された地質学と鉱物学』(1836年、ブリッジウォーター論集第6編)
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.222598/page/n3/mode/2up

② バックランドは、この新しい層序学によって地球の生命の歴史を描くことができた。現代に近い時代から見ていくと、洪積世は巨大な哺乳類の時代であるがその多くは現生種に似ているのに対して、第三紀の哺乳類はより遠ざかっていることがわかった。

③ 第二紀の大部分は爬虫類の時代であったこともいよいよ明らかになった。「イギリスのキュヴィエ」と称されたリチャード・オーウェン(1804–92)は、絶滅した爬虫類の一群に「恐竜類 dinosauria」と名付けた。

④ 同じジュラ紀の岩層には、非常に小さい哺乳類の化石も含まれていた。「原始的」な種類の哺乳類の発見は、四足動物の歴史が「進歩的」であるという感覚を強めた

⑤ 第二紀のうち古い時期の石炭紀およびデヴォン紀の岩層からは爬虫類も四足動物も見つからず、魚類ばかりであった。スイスの若いナチュラリスト、ルイ・アガシ(1807–73)は、『魚類化石の研究』(1833–43)で魚類の化石を詳細に記述し、キュヴィエの業績を補完した。アガシは、石炭紀およびデヴォン紀の魚類の化石はどれも絶滅したか、少なくともその後希少になった種類だと主張した。シルル紀の岩層からは魚類の化石も見つからず、その時代の海には脊椎動物がいなかったという疑いが強まった。

⑥ 現生生物とははっきり異なる奇妙な形態をした三葉虫は、シルル紀やデヴォン紀の岩層に多く、石炭紀を経てペルム紀で途絶えていたので、それらの時代を特徴づける化石となった。

⑦ 脊椎動物と同じように、植物もまた代わる代わる現れていた。ブロンニャールの息子アドルフ(1801–76)は、アガシと同様にキュヴィエを模倣して『化石植物の[自然]史』(1828–37)を著した。最も古い植物化石は石炭の層に多く含まれていた隠花植物であった。第二紀のより新しい岩層になると裸子植物が現れ、第三紀になってようやく被子植物が現れていた。

【図6.5】
バックランド『自然神学との関連で考察された地質学と鉱物学』(1836年、ブリッジウォーター論集第6編)に描かれた、典型的な地殻の断面図。上から沖積層(Alluvium)、洪積層(Diluvium)、三次岩層、二次岩層、漸移岩層、一次岩層。それぞれの層に英語、フランス語、ドイツ語が併記されている。人間のいる「現代の世界」は沖積世によって表されているが、地球の歴史に比べて非常に短い期間にすぎないと認識されていたことがわかる。

【図6.6】
同じ本に描かれた、第二紀の動植物。多くがデ・ラ・ビーチの『太古のドーセット』(1830、139頁)にも描かれている。

【図6.7】
ブロンニャールの本に描かれた三葉虫。三葉虫は明らかに複雑な動物で、ラマルクの転成説あるいは進化論から予期される最初期の生命の形態とは大きく違っていた。

【図6.8】
アウグスト・ゴルトフスの『ドイツの化石』(1826–44)に描かれた石炭紀の森。植物は現生のシダ、トクサ、ヒカゲノカズラなどに近い隠花植物だが、背の高い樹木に成長している。葉の化石が幹につながった状態で見つかることは少ないため、どの葉がどの幹に対応しているのかがわからなかった。そこで、この絵は樹木の上部を描かずに、地面に落ちた葉を描いている。


ゆっくりと冷えていく地球(150頁~)

① 動植物の化石記録は明らかに直線的で定向的な歴史を示していた。どちらの歴史も「進歩的」で、だんだんと「高等」な種類が現れてくるものと解釈できた。この方向性はどのように理解すればいいのだろうか。

② ひとつの手掛かりは、早い時期の動植物の多くが熱帯性のように見えることであった。

③ アドルフ・ブロンニャールは数々のそのような証拠を、地球は白熱状態から徐々に冷えてきたという、物理学者のジョゼフ・フーリエと地質学者のルイ・コルディエが示唆していた考えに結びつけた。これは半世紀前にビュフォンが唱えていた説ではあるが、今度は暗黙のうちにタイムスケールがずっと大きくなり、ラプラスの星雲説に結びつけることができた。何より、フーリエによる最新の物理学と、コルディエによる鉱山の温度測定に裏付けられていた。この説では、化石記録があるところで途絶えている理由も説明することができた。

④ アドルフ・ブロンニャールはこの地球冷却説を拡張して、石炭紀に樹木のシダや巨大なトクサが栄えていたのは、かつての大気には光合成に必要な「炭酸」(二酸化炭素)が今よりずっと豊富に含まれていたからではないかと考えた。そして、この環境は逆に、十分な量の酸素を必要とする哺乳類のような「高等」な動物が現れるのを遅らせていたのではないかとも考えた。この見方では、固体地球や生命だけでなく、大気までが固有の悠久なる歴史をもつことになる。このようなスケールの大きい理論は、地質学者たちに地球をひとつの惑星として再考させることにつながった。これは19世紀の初め頃には、過度に思弁的であるか地質学の領域を逸脱するものとして一般的に拒絶されていたタイプの考え方であった。

⑤ 逆説的にも、だんだんと冷える地球というモデルは、地球史のまったく漸進的でない性質まで説明することができた。フランスの地質学者エリ・ド・ボーモンは、地球が冷えるにつれて地球の核が縮んでいき、それが時折特大の地震のような形で地殻をねじ曲げる激変を起こすのだと考えた。

⑥ 19世紀の半ばまでに、このような種類の地球史の復元はヨーロッパのほとんどの地質学者に採用され、ロシアや北米にも広がった。彼らは、地球が定向的な変化を経てきたこと、それがおそらくは地球の冷却によって引き起こされてきたことを認めていた。それに応じて、環境に適応した動植物たちが出現あるいは消滅し、「高等」な種類は「下等」な種類より後に現れてきたと考えられた。そして、おそらくは地球内部からの自然的な原因によって、時折の激変が起こってきたとみなされていた。しかし、このような地質学者たちの安らかな合意は、少なくとも三つの方向から妨げられることになる。これが次章のトピックである。

【図6.9】デ・ラ・ビーチの『理論地質学』(1834)の口絵。デ・ラ・ビーチは地球の歴史を、それがゆっくり冷えてきたという考えに基づいて解釈していた。