2014年3月28日

マイアとアンダーソン、1941年の動物と植物の進化論 Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist”

Kim Kleinman, “Systematics and the Origin of Species from the Viewpoint of a Botanist: Edgar Anderson Prepares the 1941 Jesup Lectures with Ernst Mayr,” Journal of the History of Biology 46 (2012): 73–101.


 1941年にマイアとアンダーソンは、それぞれ動物分野と植物分野の立場を代表して共同でコロンビア大学のジェサップ講義を行った。この論文は、このときの二人の文通を調査し、彼らの視点を理解することでこの時期の進化論における中心的問題についての洞察を得るものである。

p. 75
 1936年のドブジャンスキーのジェサップ講義、および1937年の『遺伝学と種の起源』はメンデル遺伝学と進化のプロセスがどのように両立するかを示していた。ドブジャンスキーとコロンビア大学のL. C. Dunnは次の段階として、アンダーソンとマイアに「分類学の問題」あるいは「分類学(体系学)と種の起源」について議論するように依頼した。マイアはニューヨークの自然史博物館で働いていたので、ドブジャンスキーやDunnと定期的に共同研究することができた。マイアは彼らと議論した上で、その視点をアンダーソンと共有した。
 遺伝学者のアンダーソンはマイアより7歳年上で、経験も多く積んでいた。アンダーソンはBussey Institutionのエドワード・イーストのもとで博士号を取得したあと、1922年からミズーリ植物園に勤め、Iris(アヤメ属)で自然選択が働く変異の供給源としての雑種形成と突然変異の相対的重要性を検証していた。アンダーソンは、種間の相違は個体間の相違とは全く異なる階級のものであると考え、個体間の相違が自然選択などの影響で種間の相違を形作るという証拠はないと判断していた。突然変異から得られた変異の相違の蓄積では、種分化は説明できないと考えていたのである。続くTradescantia(ムラサキツユクサ属)の研究では、断片化、倍数性、雑種形成をそこで働いている進化プロセスとみなした。また、Karl Saxなどから細胞学の知見を仕入れていた。アンダーソンは分類学者と密接に関係した遺伝学者であり、フィールドワークを好みつつも、実験室における新しい技術も理解していた。そして、突然変異が種の相違をもたらすのかについては疑問を抱いていた。

p. 79
 マイアとアンダーソンは、当時の進化の問題について異なった評価と理解をしていた。1940年から41年の二人の文通を検討してみよう。
 マイアは、博物館の動物学者たちのように集団のサンプルを取らない伝統に反逆し、mass collectionの概念を推進しようとしていた。この動きに功がある植物学者として、マイアはイングランドのW. B. Turrill、ウィスコンシンのNorman Fassett、そしてアンダーソンの名前を挙げ、特にアンダーソンが集団の概念を植物学者たちに広めるのに最も貢献していると評している。アンダーソンは当時のマイアへの手紙で、分類学における集団研究の重要性に賛同している。マイアの返信では、動物と植物の分類学の不一致は採集方法の違いにあるのではないかと記している。
 二人は講義についての実践的な打ち合わせも始めていた。マイアはアンダーソンが書いたイントロダクションを高く評価し、講義の初回に位置づけようとする。アンダーソンもマイアの原稿に満足し、その英語を添削していた。アンダーソンのショウジョウバエ研究者たちの考えに反する異説についてもマイアは励ましていた。

p. 83
 1963年にマイアが『動物の種と進化』を出版したとき、マイアはより一般化して植物も含めるよう他の人々に勧められたが、それぞれの界がそれぞれの進化的特徴をもっていることを重要視して従わなかった。
 1940年にハクスリー編集の『新しい体系学』が出版されたとき、アンダーソンはその書評で批判を書いた。ドブジャンスキーはこの批判を厳しすぎると評し、マイアはアンダーソンにそれを伝えた上で自分もドブジャンスキーに同意すると述べた。アンダーソンはミズーリ植物園の同僚たちの意見を聞いて書評を書いていたが、そこではJens ClausenやDavid Keckなどのバイオシステマティストがほとんど引用されていないことが批難されていた。意識的に総合を成し遂げようとしていたマイアと異なり、アンダーソンはマイアのように政治的になる必要性を感じていなかった。また、J. S. L. Gilmourが書いた分類学の哲学的基礎に関する意見も割れ、マイアはGilmourが集団思考を欠いていることを強く批判したのに対し、アンダーソンはそれを認めつつも、アメリカの生物学者たちが特に読んで考えるべき議論をしていると擁護した。

p. 85
 生物学的種概念はマイアとアンダーソンの議論の中心にあった。マイアはドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』の最終章「自然単位としての種」のアイデアを拡張し、「実際的あるいは潜在的な自然交配集団のグループで、そのような他のグループから生殖的に隔離されているもの」という種の定義を『体系学と種の起源』で発表することになる。しかしアンダーソンとの文通で、マイアはこの種概念を生物一般に適用しようとすると困難に直面することに気付かされていた。アンダーソンはマイアへの手紙で、植物の種分化の複雑さを説明し、植物分類学者が脊椎動物分類学の概念を適用しようとしないのは生物学的な理由があるのだと推測した。マイアはこれに対し、鳥類や動物の体系学は植物の体系学に比べずっと単純な問題なのだろうと述べた。アンダーソンにとって、総合の前に為されるべき仕事はたくさんあり、総合の実現可能性は未決問題であった。

p. 87
 ドブジャンスキーはジェサップ講義と『遺伝学と種の起源』において、種の起源は小進化レベルの遺伝的変化で説明でき、大進化もその基礎のもとに説明できることを示した。マイアとアンダーソンが貢献できることは、種分化がどのように起きるか説明することだった。マイアはアンダーソンへの手紙で、ゴールドシュミットが地理的変異を通しての種分化を否定していることを批判している。マイアによれば、ゴールドシュミットは同所性と異所性のギャップを混同しており、同所性のギャップはbridgeless gapsであるという前提から、異所性の種間のギャップも含めてすべての種間のギャップはbridgeless gapsであるという推論をしてしまっているという。マイアは『体系学と種の起源』の第7章で、種概念と、隔離をもたらし維持するメカニズムとを結びつけた。
 一方アンダーソンはゴールドシュミットの『進化の物質的基礎』(1940)について、無批判ではないが好意的な見方をもっていた。アンダーソンはゴールドシュミットの正統的でない結論について、科学的かつ正当に確立されたとはいえないとしつつも、個人的には作業仮説として賛成だとも述べていた。ゴールドシュミットの方も、『進化の物質的基礎』でアンダーソンを10回、バブコックを9回と、数理集団遺伝学者たちよりも多く引用していた。ゴールドシュミットはアンダーソンの仕事をもとにして、Irisにおいて種内の変異は種間の変異をつくらないと論じた。アンダーソンはIrisについての最初の論文(1928)で「種間の相違は個体間の相違とはまったく異なる階級のものである」と述べていた。アンダーソンはマイアへの手紙でも、ゴールドシュミットが言うbridgeless gapsのような異なる階級の相違が種より上のレベルにあると考えているといい、そのようなカテゴリーは種のグループや、亜属や、属などにあたるだろうと述べた。マイアがゴールドシュミットを批判することで種分化や種概念についての考えを明確化したのに対し、アンダーソンにとってゴールドシュミットのアイデアは未解決の、議論途中の問題であった。

p. 90
 マイアが早い時期から講義の準備を入念に進めたのに対し、アンダーソンはそれほどでもなかった。ここには、ドブジャンスキーと同じようにジェサップ講義を用いようと考えていたマイアと、まだ大文字の進化が解き明かされそうにはないと考えていたアンダーソンの意識の差があった。マイアは講義で決定的なことを言おうとしていたのに対し、アンダーソンは示唆的なアイデアを試す場にしようとしていた。
 アンダーソンは聴衆がどのような人々でどのくらいの人数であるかを気にしていた。マイアは、ドブジャンスキーの講義を聴いたときの聴衆は大学院生と教員たちで、主にコロンビア大学だがそれ以外の組織からも来ていたと伝えた。また人数については50人を超えず25~30人くらいかもしれないと言い、聴衆が少ないことにいつも驚いていると述べた。

p. 92
 アンダーソンが実際にどのような講義を行ったかについては史料が少なく、わからない部分が多いが、植物の種分化の複雑性をテーマの一つにした可能性は高い。アンダーソンは1928年の論文で、幾千の遺伝子突然変異が積み重なって種間の相違になるというショウジョウバエ研究者たちの意見には同意せず、進化の要因としての雑種形成や遺伝子侵入や遺伝子連鎖の役割を検討していた。遺伝子突然変異は個体の相違を説明するには十分であるものの、種間の相違はそれだけで説明できないという立場である。1949年の『移入をきたす雑種形成』では進化のメカニズムとしての雑種形成の役割を論じており、このテーマは講義の内容にも入っていたと考えられる。この本ではアンダーソンは、遺伝子侵入による連鎖形質から来る変異性は、自然選択が働く対象として突然変異より潜在的に重要と結論づけている。
 アンダーソンは、壮大な理論的総合よりも、植物進化を形作る力を研究するための示唆的なアプローチを提供していた。アンダーソンがジェサップ講義の内容を本にまとめることを約束していながら結局果たさず、トウモロコシのプロジェクトを立ち上げ、移入をきたす雑種形成の研究を進めていったが、これも総合的・決定的なことを言おうとする研究ではなかった。アンダーソンの本が現れなかったことは、動物中心の総合は不完全で特に植物進化生物学を説明するには不適切だという判断を反映していた。
 アンダーソンはサンフランシスコ湾岸地帯のバイオシステマティストのグループにも関わり、進化の問題に取り組んでいた植物学者たちの中でも中心的な存在であった。しかしその彼が総合の鍵となる出来事であったジェサップ講義の際にとった立場は以上のように、安易に基本原理を打ち立てることに対して警戒するものであったのである。

2014年3月24日

ホールデンのホーリズム Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution”

Andy Hammond, “J. B. S. Haldane, Holism, and Synthesis in Evolution,” Descended from Darwin: Insights into the History of Evolutionary Studies, 1900–1970, ed. Joe Cain and Michael Ruse (Philadelphia: American Philosophical Society, 2009), 49–70.

 ホールデンは青年時代から、父親のジョン・スコット・ホールデン(以下J. S.)の影響を強く受けた。J. S. はヘーゲルやカントから得た新観念論的・反還元主義的原理の適用を推進した生理学者だった。しかしホールデンの第一次世界大戦での従軍経験は彼の思想を変化させるに十分なものだった。1930年までに、ホールデンは唯物論への共感を強めていた。新しい物理学や、弁証法的唯物論すなわちマルクス主義のホーリズム哲学を吸収し、ホールデンは1933年までに唯物論的な哲学的立場を築いていた。そのような立場の変化の中でも、ホールデンは生涯を通してホーリストであり続けた。

 当時、生気論は新観念論と、機械論は唯物論と関連していた。生気論の主唱者にはHans Driesch、Henri Bergson、E. S. Russell、そしてJ. S. などが居た。彼らが目的を見て取れる生命活動を強調していたのに対し、機械論者たちは生物学における生理化学的な法則を強調していた。ホールデンはこの論争を解決しようとしていた。彼は機械論者に賛成して、生体内のプロセスが物理学や化学の法則に従うのは驚くに値しないとしつつ、生気論者に賛成して、それらのプロセスは生物に特有の仕方で調整されているとした。生物についての真の問題は、heartとmechanismのどちらが第一であるかではなく、両者の関係性なのだという。ホールデンは、メカニズムと目的は「一つの原理に首尾一貫する」(カントはそれを「総合」と呼んだ)ことを示唆していた。
  1920年代のホールデンの生理学研究は父親の足跡を追い、その認識論を採用していた。つまり、生物を傷つけずそのままの状態で研究した。しかし一方で、J. S. の目的の強調に納得はしていなかった。目的とメカニズムとの組合せによってのみ、非還元的で首尾一貫した原理に至り、総合を生むことができるはずだった。

 1923年にホールデンはオックスフォードからケンブリッジ大学に向かい、ここでホールデンに深い影響を与えることになる指導教員のフレデリック・ホプキンズに出会う。ホプキンズのアプローチで中心的な概念は、動的平衡と組織化レベルであった。上位の組織化レベルはそのレベルに特徴的な性質をもつ。また、上位の組織化レベルの振る舞いは下位のレベルに影響する。全体と部分がお互いの性質を部分的に決定している。この見方では、唯物論的でありつつも、目的のある活動を生物全体の性質としていた。目的は、生物全体に特有のある物理化学的性質によっても、部分同士の物理化学的相互作用によっても定められる。このプロセスベースの非還元主義は、目的をメカニズムに従属させず、またメカニズムを目的に従属させることもなかった。このようなホプキンズの視点を通して、ホールデンは生化学の研究手法を学んだ。ホールデンの考えでは、生命に特徴的なものは構造や振る舞いの個々の詳細ではなく、それらが全体を自己調節し自己保存する仕方であった。
 1931年頃までに、ホールデンは遺伝子を生化学的機能によって分類していく。遺伝子は、より複雑で動的な発展プロセスの一部分となった。1932年の小論文では、酵素、遺伝子、環境の相互作用が生物の発達にどう影響するかを推測していた。ホールデンの科学的実践はホプキンズの動的平衡と組織化レベルの概念を受け入れたことで変化したのである。このような描像は、生物学のディシプリンを非還元主義的に総合する可能性を持っていた。

 生化学分野での仕事と同様に、ホールデンの遺伝学研究も唯物論からホーリズムの文脈に移っていた。ホールデンが1920年代に発表していた「自然選択と人為選択についての数学的理論」シリーズは遺伝子のビリヤード宇宙から成り立っており、還元主義的・唯物論的であった。1927年から1930年のあいだに、ホールデンはチェトヴェリコフに会い影響を受けていた。チェトヴェリコフのグループは既に生物測定学、自然史、遺伝学をダーウィニズムのフレームワークの中で結合させ、これは還元主義的な方向性を目指していなかった。「数学的理論」の続編は1930年に3本発表されるが、これらは集団に内部力学を持ち込んだものだった。そこでは、集団は準安定状態の集団や半ば隔離されたコミュニティの集まりとして扱われる。集団の内部構造は変化の可能性を持っており、環境の変化によってその可能性は実現する。このようなシステムベースのホーリスティックなモデルは、以前の5本の「数学的理論」とは異なっており、またこのような変化はホールデンの生化学分野での変化と同時期に起こっていた。またこれらの新しい論文では、ホールデンは動物学者G. P. Bidderのcataclasmsという観念を生態学的メカニズムの説明に用いていた。cataclasmsによって有益な遺伝子が変化したり、選択の方向が反転したりする。
 フィッシャーの集団遺伝学のアプローチは原子論的で、パンミクティックな集団内での自然選択を重んじる。この描像はフォードとの連携を通して得ていた。ライトはホーリストであったが、彼の集団遺伝学は生態学的側面を持たなかった。彼の適応度地形は理論に生態学的次元を付け加えているように見えたが、自然集団への適用可能性は限られていた。ホールデンの集団遺伝学は、ホーリスティックな視点と生態学的メカニズムを兼ね備えていた点でフィッシャーやライトと異なっていた。ホールデンはライトと同じように、フィッシャーのモデルの適用可能性は限られていると考えていたが、一方でライトとは異なり、実質的な生態学的メカニズムを持っていた。ここにはチェトヴェリコフの影響もあっただろう。マイアが数理集団遺伝学を「ビーン・バッグ遺伝学」と呼んだのは、ホールデンのアプローチに対しては当たらない。

 1930年代前半、ホールデンは弁証法的唯物論の研究にも取り組んでいた。
 1945年以降、ホールデンの仕事は遺伝学に大きく傾いていくが、それでも還元主義的プログラムを追求してはいなかった。1947年、プリンストンでの会議「遺伝学、古生物学、進化」でホールデンは進化のホーリスティックな理解の必要性を強調する。倫理や政治を生物学に還元してはならないとホールデンは述べた。1949年の「病気と進化」では、進化において病気がポジティブな役割を果たしてきたと示唆した。ホールデンの議論では、選択の単位としてグループが登場し、非還元主義的な組織化レベルを構成する。1956年の「生物学における時間」では様々なプロセスをそのタイムスケールによって分類する。この論文はジョゼフ・ニーダムの概念に負うところがあり、そのニーダムはマルクス主義ホーリズムに基づいていた。ホールデンはDNAやタンパク質などの細胞構成物質を生物全体の中の単なる「詳細」とみなし、この議論をフリードリヒ・エンゲルスのアイデアに結びつけた。ここには、生物と無生物のあいだに物質的な連続性を認めつつも、それを区別しようとするホールデンの試みがあった。

 生涯を通してホールデンはホーリストであり続けたといえる。彼の立場の変化は、ホーリズムから別のホーリズムへの変化であり、メカニズムだけで生物学全体の描像を描くことができると考えたことはなかった。彼は1930年代前半にホーリスティックなアプローチを生理学に持ち込み、生化学遺伝学では1931年頃に原子論的アプローチからホーリスティックな発展的アプローチに移行した。また彼は、集団遺伝学をメカニスティックなアプローチから、生態学的側面を含んだアプローチに拡張させたのである。こういった変化は部分的には、ホールデンの観念論的ホーリズムから唯物論的ホーリズム、そして弁証法的唯物論へと至った移行によるものである。

2014年3月23日

ドブジャンスキーとステビンズ Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky”

Vassiliki Betty Smocovitis, “Keeping up with Dobzhansky: G. Ledyard Stebbins, Jr., Plant Evolution, and the Evolutionary Synthesis,” History and Philosophy of the Life Sciences 28 (2006): 11–50.


 ステビンズの『植物の変異と進化』は(『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』や『進化のテンポとモード』に比べ)ドブジャンスキーの『遺伝学と種の起源』によく似ており、そのフレームワークを用いていた。特に、ドブジャンスキーの「生物学的種概念」(と後に呼ばれるようになる概念)はそこで強い存在感を放っていたといえる。この論文では、ステビンズがなぜドブジャンスキーに追従することを選んだのかを探ると同時に、二人と彼らをめぐる人々の関係を明らかにしていく。


 ステビンズは、1936年にドブジャンスキーに初めて会ったときは彼の研究に関心を持たなかった。しかしこのとき二人はよく似た状況にあり、どちらも正式な遺伝学の教育を受けたわけではないものの、遺伝学に興味を示し、進化プロセスを遺伝学や細胞学や体系学から明らかにしようとしていた。またドブジャンスキーは、クレピス属プロジェクトによく似た、自然集団の遺伝学(GNP)のプロジェクトを始めようとしていた。二人とも体系学を学んでおり、地理的分布に関心を持ち、一つではなく複数の生物グループを研究していた。またどちらも手が不器用で、古典的な体系学の手法に対する反感を抱いており、進化的系統を再現するために自然集団を理解しようとしていた。他の研究者たちの研究を熱心に読む読書家でもあった。つまり二人は会ったときから多くの共通点を持っており、若く活発なカリフォルニアの進化学者・遺伝学者の数が多くないことを考えれば、二人が親密になるのは時間の問題だったのである。

 ドブジャンスキーは同じくソ連から移住してきた遺伝学者のI. Michael Lernerと親交を深めていた。Lernerはバークレー校に赴いたあと、バブコックの教育助手をしていた大学院生のEverett R. Dempsterらと共に、Genetics Associatedという月一で議論をするグループをつくっていた。ステビンズはGenetics AssociatedでLernerと知り合い、彼を通してドブジャンスキーと再会した。クレピスの種分化パターンを解明しようとしていたステビンズにとって、不稔障壁の産物として形成される進化の段階として種を捉え直す考え方は興味深いものだった。バブコックとの共著論文で、ステビンズはクレピスの種形成と動物の進化の違いを強調するのではなく、類似性に焦点を当てた。

 ステビンズはドブジャンスキーの本に、植物の進化を理解する術を見出だすことができなかった。ステビンズは1939年に進化の講座を開くことを打診され、生徒たちと進化一般についての文献を読み始めた。ステビンズは数理集団遺伝学者たちやド・フリースやモーガン、A. F. Shull、チェトヴェリコフなどの研究を学んでいた。一方ドブジャンスキーは、共同研究者のUCLAのCarl Eplingとの関係もあって、植物進化についての理解を深めていた。そのため、『遺伝学と種の起源』の第二版は植物進化についての最近のデータを多く含むことになった。

 1930年代後半以降のサンフランシスコ湾岸地帯は、バイオシステマティストと呼ばれることになる研究者たちによって進化研究の中心地となっていた。ドブジャンスキーやEplingやミズーリ植物園のアンダーソンはここを頻繁におとずれていた。ドブジャンスキーは1940年にカリフォルニア工科大学からコロンビア大学に転勤となり、湾岸地帯の訪問は一時途絶えるが、結局その後も続いた。1944年の夏からステビンズはドブジャンスキーとさらに親密に関わるようになる。1944年までにステビンズはクレピス研究を終わらせ、戦争による圧力もあって飼料草の改良プロジェクトに入ったが、ここには自然の雑種形成の研究も含まれていた。ステビンズは1945年の夏にドブジャンスキーとマザー(Mather, California)を訪れたが、この訪問は1970年代まで続き、フォード、Hampton Carsonなども訪れることがあった。

 ドブジャンスキーは1953年に生涯で一本だけの単独での植物学論文を発表するが、そこでも進化観はショウジョウバエやライトの理論モデルから得られたものだったといえる。ドブジャンスキーの植物のある品種に関するEplingとの共同研究も、植物進化に対する関心というより進化の一般的パターンに対する関心から生じたものだった。ドブジャンスキーは植物に真の関心を持っていたとはいえず、植物の進化プロセスがショウジョウバエやライトの理論と矛盾するときには特にそうだった。彼は、包括的な進化理論のために植物研究を追っていたし、またショウジョウバエの生活史や自然史との関わりのために、植物の分布について知る必要があった。しかし、植物に特有と考えた現象に中心的な地位を与えることはほとんどなかった。

 1940年代前半、ドブジャンスキーの植物と動物の進化を調和させてほしいという催促に、ステビンズは反応した。ステビンズの進化の講義の構造は、『植物の変異と進化』のそれに近づいていた。この講義では、『遺伝学と種の起源』がますます中心的な位置を占めるようになっていた。その他には、『体系学と種の起源』や『進化――現代的総合』も中心的な教科書となっていた。ステビンズは遺伝学、体系学、植物地理学、古植物学など、幅広い植物科学の知見を有する数少ない研究者になっていた。また特に、進化一般の講義を担当したために動物の進化について幅広く読む機会を得ていた点は、アンダーソンやカーネギーチームも備えていない長所だった。ステビンズは、植物学と動物学を統合する、一般化可能で普遍的な進化理論を求めていた。Eplingは1940年以降、ショウジョウバエ研究を中心としており、植物進化の首尾一貫した理論をつくることはしなかった。またマイアが編集していた会報において、ステビンズは植物と動物の進化に関する議論で中心的な役割を果たした。

 ドブジャンスキーの勧めによって、コロンビア大学動物学科のL. C. Dunnは1946年の春に、その年の秋のジェサップ講義にステビンズを招待した。ステビンズは熱心に準備し、10月15日から11月26日にかけて、計6回の講義を行った。このあいだ、ドブジャンスキーはステビンズを自宅に宿泊させていた。ステビンズは本の最終稿に約2年かけ、1948年の末に完成し、1950年に出版された。ドブジャンスキーとステビンズの親密な交流はその後も続いた。1969年、ドブジャンスキーはロックフェラーでの予算削減等を受け、弟子のアヤラと共に、ステビンズのいるデイビス校へ移ることにした。ドブジャンスキーは1975年に亡くなった。ドブジャンスキーとアヤラ、James Valentine、ステビンズの共著による本『進化』は1977年に出版された。


 ドブジャンスキーとステビンズが、カリフォルニアという同じ土地の動物相と植物相をそれぞれ調査していたことは重要だったといえる。Eplingやカーネギーチームも含め、彼らにとって1940年代のマザーは自然の実験室であった。またドブジャンスキーとステビンズはリベラルな政治観や、生物学と人間の関わりについての見方を共有しており、1940年代後半から1950年代にかけて、二人は最も声の大きいルイセンコ学説の批判者だった。宗教的背景も異なった(ステビンズは監督教会からユニテリアン派に転向した自称「不可知論者」で、ドブジャンスキーは敬虔なロシア正教会のメンバー)が、どちらも1970年代には「科学的創造説」に対して進化を擁護した。

 ドブジャンスキーとEplingは1953年にショウジョウバエのデータの解釈を巡って決裂していたが、ドブジャンスキーとステビンズはまったく同じ領域を研究しようとはせず、それゆえたとえば遺伝子侵入の相対的重要性や進化一般における網状進化の影響力について意見が異なることがあっても、専門とする生物の違いによる意見の違いとして処理することができた。

 そして、どちらもフィールド志向の進化細胞生物学者であったことと、植物と昆虫がお互いに依存関係にあったことが二人を結びつけた。シンプソンやマイアは植物の進化にあまり関心を示さず、それはマイアを共同でジェサップ講義をしたアンダーソンが本を完成させられなかったことにも関係しているかもしれない。そのために1941年に動物と植物の進化を総合することができなかったことは、マイアが植物学は総合に参加するのが遅れたという認識につながっているかもしれない。しかし実際には、総合の時代に植物学者たちは積極的に総合のプロジェクトに参加していた。総合の植物学的業績が総合の最後の本になったのは、植物学者たちの「失敗」や不適当さが原因ではないのである。

 総合は様々な生物を専門とするたくさんの研究者たちを必要としていた。ステビンズがドブジャンスキーから大きな影響を受ける一方で、ドブジャンスキーは自身の理論の強力な検証をステビンズから得ていた。影響の方向は一方向ではなく、多方向的で、仕事の仕方や場所や人脈など様々な要素を含んでいた。そして、ドブジャンスキーとステビンズの相互作用の歴史は、科学が人間によってなされるもので、個人的な関わりが仕事に大きく影響することを確かめさせてくれるものである。

2014年3月20日

自然科学文化、人文学文化、科学対抗文化 Shamos, The Myth of Scientific Literacy, Ch. 5

Morris H. Shamos, The Myth of Scientific Literacy (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 1995), 101–127.


 一般大衆の科学リテラシーを実現する上での問題の一つが、学術におけるロールモデルとなっている多くの大学知識人たちが科学リテラシーへの熱意を欠いていることである。 
 
 世代を超えて燻り続けている「二つの文化(自然科学と人文学)」の論争を再検討してみよう。戦後の科学教育の再建の頃、数学者兼詩人のJacob Bronowskiと科学者兼作家のC. P. Snowという二人が活躍したが、どちらも科学教育の実践に目に見える影響を及ぼすことはできなかった。Bronowskiは1956年のエッセイで、オルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』(1932)やジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)で描かれたディストピアに触れて、科学がわかる専門家とわからない一般大衆に社会が分断されることの危険を説いた上で、1984年には誰もが科学的教養を身につけているように教育すべきだと主張した。しかし結果的にはBronowskiの予想は裏切られ、科学者たちが一般大衆を支配する時代はやって来ることはなく、逆に科学がわからない人たちに科学予算が決められるような状況が続いている。

 スノーは、知識人たちの世界が「二つの文化」に裂かれてしまっていることに警鐘を鳴らした。スノーは人文学者たちに、「熱力学第二法則について何を知っているか?」と問いかけた(のちに「分子生物学について何を知っているか?」に変えた)。さらにスノーはこれを、人文学における「シェイクスピアの作品を読んだことがあるか?」と同程度の質問だと述べた。当時スノーに対しては批判の嵐が巻き起こった。

 科学的教養を身につけていない人々は、科学やテクノロジーを現代社会に不可欠なものとして受け入れながらも、科学に対する消極的抵抗を見せる傾向がある。特に、大学の人文学者が科学を学ぼうとしない姿勢を見せがちであることは、文系の学生たちを科学から遠ざける結果をもたらしていると考えられる。同様に、理系の教員や学生も人文学を学ぼうとしない傾向にある。

 また、汚染や生態学的災害や軍事兵器などを生み出した責任が科学という営み全体にあると考え、明確に反科学の立場をとる人々もいる。これらの人々(①)や、反科学を公言していなくても実質的にそうなっている人々(②)、そして科学を作り変えたいと考える人々=ポストモダニスト(③)から成る、科学対抗文化(science counterculture)という三つ目の文化が勢いを増している。①や②の人々は、環境か、社会の幸福、特にヘルスケアに関する問題意識から出発している。③は科学の根本となる真実や理性的思考をひっくり返そうとする動きである。また、ニューエイジ運動にも反科学的な動きが多く含まれている。

 現代技術懐疑派(neo-Luddite、19世紀初頭英国のラッダイト運動に由来)を名乗るグループも現れている。彼らは科学やテクノロジーを有害であるとみなし、テクノロジーを使用者に理解できるレベルのものに置き換えようと主張する。たしかに、ルネッサンス以来の科学の進歩が目覚ましいからといって、それがすべて世界に対する恩恵であるとは言い切れないの。科学が人間的な価値や思考の自由を奪っていると説く論者もいる。ファイヤアーベントは科学を民主主義に対する脅威として特徴付け、一般大衆によって監督されなければならないと考えた。また、科学やテクノロジーを民主化することを重要視する論者たちも現れている。

 他にも反科学的な性格をもつグループは多く現れており、動物の権利運動はその一つである。動物保護運動が動物実験に対して責任や人道性だけを要求したのに対し、動物の権利運動は動物のそのような取り扱いを一切廃絶することを要求する。動物の権利運動の成長は、感情だけで考えるのではなく理性で考えることの重要性を生徒や一般大衆に納得させられなかった失敗例の一つだと言えるだろう。

 Jeremy Rifkinは、現代社会はテクノロジーの為すがままになっており、そのため新しい技術は疑いをもって見るべきであり、少しでもリスクがあれば放棄すべきだと主張している。現代技術懐疑派との重要な違いは、新しいテクノロジーの導入に対して極めて慎重であるものの、すでに存在するテクノロジーを廃止しようとはしない点である。しかしRifkinらの議論はしばしば誤った科学的前提に基づく。政治の舞台で十分に議論ができる、責任があって公平で科学を熟知している人物が求められている。

 大衆紙は疑似科学への警鐘を鳴らす役割を果たすことが期待される存在だが、その期待に応えていない。残念ながら、大衆は新聞に科学教育を求めていないのである。新聞を書く側の人間も、実は多くが「創造科学」を信用しているというアンケート結果が示すように、科学に興味をもっていない。しかし、マスメディアの科学に対する姿勢次第で、大人社会の科学リテラシーが変わる可能性は十分にあるのである。

植物版ショウジョウバエ「クレピス属」の研究プログラム Smocovitis, “The “Plant Drosophila””

Smocovitis, “The “Plant Drosophila”: E. B. Babcock, the Genus Crepis , and the Evolution of a Genetics Research Program at Berkeley, 1915–1947,” Historical Studies of the Natural Sciences 39 (2009): 300–355.


 1887年(この論文では1887年となっているが、1877年が正しいと思われる)に生まれたバブコックは、1901年から育種家Luther Burbankの指導を受けて育種家を目指した。1903年にド・フリースが渡米した際にはその講演を聞き、突然変異説に基づく進化と、遺伝学の知識に刺激を受けた。会衆派で信心深かったバブコックにとって進化は創造主の計画の証であり、植物・遺伝学・進化・宗教の繋がりは生涯を通して彼の研究動機であった。1905年に訓練課程の教師に農学教育を教える仕事に就いたが、1907年にカリフォルニア大学のCitrus Experiment Stationに就職し、雑種形成実験を行った。1908年にバークレー校に移った。

 1912年、バブコックは新設された遺伝学部の長に就任し、ますます遺伝学に傾倒するようになった。1918年にはRoy Elwood Clausenと共著でGenetics in Relation to Agricultureという教科書を出版した。モーガンのショウジョウバエプログラムに注目していたバブコックは、それを補強するデータを得るため、植物における“ショウジョウバエ”を探そうとし始めた。この植物は、染色体数が少なく、遺伝的変異が多く、扱いやすく、多くの子孫を残し、自家受精可能でかつ雑種形成も容易なものである必要があった。イーストの論文で染色体数が6本と書かれていたこともあり、バブコックはクレピス属(フタマタタンポポ属)をモデル生物に選んだ。クレピス属はまだ先行研究が少なかったが、形態学的変異に富み、旧世界から新世界まで広く分布し、一年生や二年生から多年生までの種を含み、多様な環境に生息するといった長所を有していた。

 バブコックの初期のクレピス属研究では、染色体数の決定や雑種形成実験がなされた。進化的な変化のプロセスとしては、遺伝子突然変異(モーガンやド・フリースが重視)と雑種形成(J. P. Lostyらが重視)の双方にバブコックは重要性を認め、またラマルク遺伝も否定しなかった。

 1920年代初頭、クレピスプロジェクトはいくつかの致命的な問題に行き当たる。いくつかの種が特殊な土壌等の生育環境を必要とすることや、ショウジョウバエのように遺伝子のマッピングをするのは難しいことなどが判明したのである。新たな種が見つかるにつれ、クレピス属の分類はまったくの混乱状態であることも明らかになった。バブコックは準備段階として、研究プログラムを体系学の方向に転換した。このときバブコックが頼りにしたバークレー校の同僚Harvey Monroe Hallは分類学の改革を訴えており、実験や系統学的視点を重視し、生態学・遺伝学・細胞学・生物地理学の知見を用いようとするなど、当時勃興しつつあったnew systematicsに近い立場をとっていた。バブコックやHallなどクレピス属の研究者たちは、バイオシステマティクスと呼ばれることになる1940年代の動きを1930年代にリードしており、その北カリフォルニアでの流行に貢献した。バブコックとその研究プログラムは「進化論の総合」に決定的な役割を果たしたといえる。バブコックは1934年には遺伝学者、体系学者、古生物学者たちを招いて進化について議論する会合を組織していたし、1943年にも湾岸地帯で重要な会合を開いていた。

 ショウジョウバエプログラムを補強・拡張しようとして始まったクレピスプログラムは、進化的・系統学的研究に転換していた。1928年には、バブコックはプログラムの目標を、クレピス属において作動している進化的プロセスの理解と定めた。バブコックは世界中を回ってクレピス属を収集していた。

 クレピスプログラムは徐々に巨大化し、資金的にも人数的にも大きなプロジェクトになっていった。バブコックは日常的な細胞学的研究・雑種形成実験には直接は関わらず、データを解釈し植物進化の全体像を描く役目を担っていた。バブコックはまた多くの研究者をバークレー校で雇い、あるいは招待していた。

 1930年にバブコックがMichael Navashinと共同で書いた論文では、進化的変化の根本的プロセスを点突然変異、染色体変化(数および形態)、種間雑種形成の三つに分けた。この時点ではどのプロセスが重要であるかを判断できなかったが、その後、バブコックはクレピス属における進化は点突然変異だけでは説明できないと考えるようになる。バブコックは非相同染色体間の相互転座によって染色体数が減少したのだと考えた。当時、フィッシャーやライトは遺伝子突然変異を好んでいたが、ホールデンは植物遺伝学の経験があったので染色体効果を評価していた。

 1934年、バブコックはクレピスプログラムを拡張し、クレピス属および近縁の属の地理的変異の研究に着手した。バブコックはさらなる資金援助を得る一方で、クレピス属の機縁の細胞学的・体系学的研究にあたるアシスタントとして、キク科の細胞遺伝学を研究していたステビンズを1935年に雇った。1930年代後半までに、ドブジャンスキーも湾岸地帯を頻繁に訪れるようになり、またドイツ出身の遺伝学者ゴールドシュミットもバークレー校の動物学科に着任した。

 クレピス属の進化メカニズムの問題を複雑にしていたのは、倍数性とアポミクシスと雑種形成であった。遺伝的システムのパターンは、地理的パターンと相関しているようにも思えた。

 1935年までに、複雑なストーリーを生み出すのに十分なデータが集まった。旧世界の種はn=3,4,5,6で雑種の不稔性が高いのに対し、北アメリカに固有の種はn=11で雑種形成が広範囲に及ぶ。バブコックは、n=11の種は旧世界のいくつかの種を起源とする異質倍数体ではないかと推測した。さらに新世界にも2つの大グループがあると考えた。1つは中西部から東部に分布し22本の染色体を持つグループ、もう1つは西武に分布し22本か44本の染色体数を持つグループであった。後者は葯が未発達であり、アポミクティックであると考えられた。クレピス属の分布パターンは、ステビンズが以前研究したPaeonia(ボタン属)のそれに似ているように思われた。そこでステビンズはバブコックに、北アメリカのクレピス属を一緒に研究させてもらえるよう頼み込んだ。採集のための旅行を行ったあと、染色体数を調べ、集団間で変異の分析をした。この研究の結果は最終的に、1938年の論文にまとめられた。ここでバブコックとステビンズは、無配偶子性複合体と倍数性複合体という新しい概念を作った。

 ステビンズとバブコックはクレピスのアメリカの種を2つのグループに分けた。1つ目はC. runcinataで、この種は4対の染色体をもつ種と7対の染色体をもつ種のあいだで雑種として生まれてから染色体変化を受けていないと考えた。C. runcinataはレンシュの言うところのRassenkreisすなわち多型種である。2つ目のグループは残りの9つの種から成る。これらは倍数性、アポミクシス、雑種形成などのプロセスの産物である。これらの種の有性型は形態的にそれぞれ大きく異なり、地理的に制限され、遺伝的に隔離されている。二倍体の雑種は無い代わりに倍数体が多いが、それらは二倍体と形質を共有していることが多いので、倍数体は二倍体に段階的に移行しているようにみえる。倍数体での分岐進化は静止しており、進化的変化は倍数性・アポミクシス・雑種形成を通して起こっている、とした。これらのプロセスによって、有性生殖する二倍体を中心として無配偶子性複合体が形成される。

 倍数性・アポミクシス・雑種形成による生態的利益は何かを考えるため、バブコックとステビンズは無配偶子性複合体の分布をC. runcinataと比較した。C. runcinataの分布は倍数体の種よりも広範囲で、また厳しい気温にも倍数体と同様に耐えたので、これらの基準では利益を説明できなかった。急速に変化する環境では生殖のスピードと成長力が重要になるので、それを与えるのが倍数性の有利さなのだろうとバブコックとステビンズは示唆した。しかしクレピスのケースはより複雑だった。バブコックとステビンズはheteroploid complexという術語を提唱した。heteroploid complexの進化的効果は、C. runcinataと比較することで明らかになった。heteroploid complexをもつ種では、多型種以上に多型がよく見られ、またその変異の分布も異なる(極端なタイプが分布の中心地に存在する)のである。また、アポミクシスの役割は、新しい変異体を固定することにあるのだと考えられた。heteroploid complexの構造の理解と、倍数性・アポミクシス・雑種形成の進化的効果の理解にもとづいて、バブコックとステビンズは無配偶子性複合体の分類法を考えた。

 1938年の論文は、植物の進化プロセスが哺乳類や鳥類や昆虫のそれと大きく異なることを示すものともいえ、進化の一般理論を探求する人々も関心を示した。ドブジャンスキーも植物遺伝学を気にするようになり、ステビンズやクラウゼンと交流した。1941年の『遺伝学と種の起源』の第二版では、クレピスや他の植物研究の内容が取り入れられた。ハクスリーも『進化――現代的総合』でクレピスプロジェクトと倍数性複合体の重要性を評価した。ハクスリーの記述はある誤解を含んでいたが、バブコックはそれでも喜んだ。

 バブコックはその後、進化のプロセスとして遺伝子突然変異を重視するようになっていった。1944年の記事では、古植物学の知見も用いてクレピス属の進化や地理的な移動の歴史を論じたが、ここでは「隔離」「分化」「適応」を進化の三大プロセスと位置づけ、そこで遺伝子突然変異や自然選択が果たす役割を強調している。クレピスプログラムははじめ農学の文脈で後押しされたこともあり、バブコックは農学や医療に対しての貢献を強調している。バブコックのクレピス研究プログラムの総まとめとなる論文は1947年に出版され、称賛を受けた。バブコックはその年に退職し、1954年に亡くなった。

 クレピス属は、モーガンらの仕事を補強するという当初の目的にはそぐわない生物だったが、代わりに進化や体系学の問題に接近した。植物界の進化の遺伝的基礎を理解するためには理想に近い生物だったといえるだろう。クレピス属はモーガンのショウジョウバエではなく、ドブジャンスキーのショウジョウバエに対応する生物だったのである。クレピス属そのものが研究対象となったという意味では、クレピス属はモデル生物とはいえない。クレピス属の研究は実験研究というよりも自然史的な推論を含んでおり、実験室や温室が実験研究の舞台となったのと同様に、自然環境が進化史の理解に重要な舞台を提供したのである。