2023年10月8日

トケイソウがイギリスに普及するまで Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology, Ch. 2 前半

Jim Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2007), 29–39.

第2章「ヒメミナリノトケイソウ――ダーウィンの温室のなかで」29–39頁

 熱帯雨林は植物にとって楽園だが、光が不足しがちである。ここで植物が光を確保する有力な戦略は、巨大な樹木になるか、あるいはそのような樹木に巻き付くつる植物になるかである。トケイソウ(パッションフラワー)は後者の典型例であり、光を感知してその方向に急速に成長する。また、トケイソウの花は目立つ姿をしていて、昆虫やコウモリ、鳥類などを引き寄せて花粉を媒介させる。受粉した子房は膨らんでパッションフルーツとなり、鮮やかな色と甘い味で鳥類やオマキザルなどの霊長類を魅了し、種子を広くまき散らす。
 霊長類を魅了するトケイソウの戦略は、1553年にシエサ・デ・レオン(Pedro Cieza de León, スペイン人のコンキスタドール)という名で知られるホモ・サピエンスが異国の花や果実についての記述を出版したときにも効力を発揮した。彼の記述は、他のホモ・サピエンスたちがトケイソウを世界中に広めるのを大いに助けたのである。
 果実はもちろんだが、それ以上に花が人々を惹きつけた。1609年、マルタ騎士団のジャコモ・ボッシオ(Giacomo Bosio)はキリストの十字架に関する物語を集めていたときに、メキシコ生まれの修道士からトケイソウの花の絵を見せられて、それをキリストの受難(パッション)の象徴と解釈した。72本ある糸状の花冠はいばらの冠に、5本の雄蕊はキリストを叩いた鞭に、3つの心皮はキリストを磔にした釘に見立てられた。トケイソウの評判は、こうした宗教的含意を強調して単純化された絵によって広まった。
 まもなく、ヨーロッパじゅうで栽培されるようになった。パリでは、1612年にトケイソウが咲いていた。イギリスには、植民地のバージニア州からトケイソウがもたらされた。清教徒革命の後、カトリック教徒たちは処刑されたチャールズ1世のことを「パッションフラワー」と呼ぶようになった。そのためか、チャールズ2世が即位してから、その庭師のジョン・トラデスカント(子)はトケイソウを普及させた。リンネはパッションフラワーをラテン語にしてPassifloraと名付けた。だが、トケイソウがイギリスで本格的に広く栽培されるのは、19世紀になってからであった。

蒸気・煙・ガラス(32–39頁)
 1845年のガラス税撤廃は、イギリスでのトケイソウの普及につながった重要な契機であった。このときまで窓ガラスは手吹きでつくられていたが、それには高度な技術と時間が必要で、小さくて高価なガラスしかできなかった。ガラス税の撤廃はこの状況を大きく変え、大量生産への道を開いた。ジェイムズ・ハートレー(James Hartley)が1847年に特許を得た技術によって、大きく、強く、安いガラスが機械で製造されるようになった。
 これ以前から、温室は次第に大きくなってきていた。大量生産された錬鉄の桟を用いて、チャッツワースの温室(Great Conservatory at Chatsworth)や、それを上回る大きさのキュー・ガーデンのヤシ栽培用温室(Palm House)が建造されていた。とはいえ、そういったものを建てられるのは政府かとてつもなく裕福な人ぐらいであった。しかし、ガラスが安価で手に入るようになったことで、温室も大量生産されるようになった。
 工業化は、温室の大量生産を可能にするだけでなく、必要にもしていた。当時のイギリスの都市では、蒸気で動くたくさんの工場から排出される大量の煙が屋外での園芸をほとんど不可能にしていたのである。そんななか、1851年の万国博覧会でパクストンが設計した水晶宮は、ハイド・パークの古い樹木を中に呑み込んで建造された。これによって、ガラスの温室が植物を煙から守れるということがわかりやすく示された。パクストンはこの名声を利用して、もっと小さな組み立て式の温室の製造販売にも乗り出した。そして、トケイソウのような熱帯植物にとって、内部を温かく保つことができる温室の普及は重要であった。
 温室を買えない人々にも、ミニチュア温室とでもいうべきウォードの箱(Wardian Case)があった。これが現れるまでは、生きた植物を船で輸送することは困難を伴った。ウォードの箱によって、イギリスに何千種類もの新しい植物が現れた。また、ウォードの箱は客間の飾り物として、持ち主の趣味や科学的関心を証明する役割を果たした。
 ヴィクトリア期には、Gardeners’ Chronicleをはじめとするガーデニング雑誌も繁栄し、人々のガーデニングへの関心を高めていた。ウィリアム・ジャクソン・フッカーが引き継いだCurtis's Botanical Magazineでは、ブエノスアイレスに移住したスコットランド人園芸家のジョン・トゥイーディー(John Tweedie)を通して現地の植物が紹介され、フッカーはトケイソウの一種に命名をした。ガーデニング雑誌を通して販売されていたトケイソウの新種は当初高価であったが、ガーデニングブームによって需要が増え、急速に安くなっていた。
 ダーウィンが乗船したビーグル号には、Bartholomew Sulivanという軍人も乗っていた。彼は、トケイソウの一種Passiflora onychimaを最初に採集し、リオデジャネイロからイギリスに送った人物であった。

古代から初期近代までの生殖理論 Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology, Ch. 1 前半

Jim Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2007), 1–17.

第1章「クアッガとモートン卿の雌馬」前半(1–17ページ)

 1820年、第16代モートン伯爵のジョージ・ダグラスは、友人のゴア・オウズリー卿に一頭の栗毛の雌馬を売った。オウズリーはその雌馬を黒いアラブ種の馬と交配させたのだが、驚いたことに、そうしてできた2頭の仔馬はどちらも色やたてがみがクアッガにとてもよく似ていた。クアッガはシマウマの一種で、1883年の8月12日に絶滅したことがわかっている動物である。なぜ馬の子供がクアッガのようなのか?
 モートンは数年前、雄のクアッガを所持し飼いならそうとしていた。だが、他のシマウマと同じように、クアッガは気難しく頑固で、事実上飼いならせない動物である。南アフリカの人々も歴史上ついにシマウマを家畜化できず、シマウマの騎兵隊は組まれなかった。しかし、18世紀末から19世紀初頭にかけて、アフリカ大陸を植民地化しようとしていたヨーロッパ人たちは馬が睡眠病に感染することに苦労していた。モートンは、睡眠病に免疫があるシマウマを馬と交配させることで、アフリカに適した雑種を生み出そうとしていた。
 モートンは雄のクアッガを栗毛の雌馬と交配させ、中間的な性質をもつ雑種の仔が生まれたが、性格が思わしくなかったのか、その後は交配を繰り返さなかった。そして、モートンがオウズリーに売ったのは、クアッガと交配した栗毛の雌馬であった。モートンらにはまるで、クアッガがこの雌馬に「クアッガ性」を刻印して永久的に変えてしまい、それがのちの仔に影響したかのように思われた。
 モートンは友人で王立協会会長のウイリアム・ウォラストンにこれを知らせ、『フィロソフィカル・トランザクションズ』に報告を書くことになった。雄が交配した雌ののちの子供に影響を与えるという考えはそれまで迷信の類とみなされていたが、ここに科学的事実となったのである。
 50年後のダーウィンでさえ、これを間違いのない事実とみなし、遺伝の理論をつくるにあたって解決しなければならない難問のひとつとして捉えていた。モートン卿の説明は現代では馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、当時までの生殖に関する考えを知れば、それが道理にかなっていたことを理解できる。

レスボス島の港(4–10頁)
 キリストが生まれるより350年近く前に生物の体系的研究を始めたアリストテレスは、毎朝レスボス島の港に来て、漁獲物のなかから見慣れない魚を探していたであろう。
 世界を理解するために自然を観察するというアリストテレスの方法は、今では当たり前に思えるが、アリストテレスの師匠であったプラトンからすれば異端であった。プラトンの教えでは、誰も真の三角形を見たことがないように、イデアはいくら現実の事物を見ても捉えられないものである。数限りない種類の異なる魚のカタログをつくっても、真の魚性は解明できないはずであった。だが、アリストテレスにとって、違いを分析することは、どんな原因がその違いを生じさせているかを理解するための鍵であった。
 アリストテレスは世界のあらゆる事柄で四原因の探究を進めたが、とりわけ生物の生殖に関心を向けた。アリストテレスにとって生殖は、プラトンが間違っていること、質料なしに形相はないことの証拠であり、種の形相を保っているのも生殖であった。
 もちろん、アリストテレスの説は古代ギリシアで唯一の考えではなかった。タレスから始まったギリシアの哲学では、やがて四元素で自然現象が説明されるようになったが、生物の説明は難しく、生殖はその最たるものであった。
 ヒポクラテスは、四元素に対応する四体液によって生物に特有の性質を説明した。しかし、体液説は生物がどのように機能するかを説明することはできても、生物がどこから来たのかを説明することはできなかった。ヒポクラテス主義の伝統では、『生殖について』(The Seed)および『子供の自然性について』(The Nature of the Child)と呼ばれる二つの論文 がこの問題を扱い、男性と女性の両方が子に何らかの種子あるいは液体を提供するとした。男性の種子は精液に含まれており、四体液の最も強力な成分を組み合わせたものである。精液は体のすべての器官から抽出されるので、種子は各器官の本質を運んでいる。男性の精液は脊髄に集められて睾丸に運ばれる。女性にもこれに相当するものがあるというが、曖昧にされている。男性と女性の種子が結合したとき、父母の影響力の差によって、子供の性別や、子供が父母のどちらに似るのかが決定される 。
 ギリシアの医者たちは妊娠中に月経が止まっていることを認識しており、胚を成長させるのに血液が使われていると想定したが、子供がどのようにして形になっていくのかを明確にできなかった。
 ヒポクラテス派の教えは1000年間以上にわたって影響力を保ったが、アリストテレスは、それが動物の諸部分の組織化を説明できていないことに不満を覚えていた。アリストテレス自身の理論では、雄と雌の寄与を異なる種類のものと考える。それによると、雄の精液は血液に由来しており、血液は心臓や眼、脳などといった各器官のプネウマ(精気、気息)を運んでいる。そこで、各器官のプネウマは精液に抽出されて、子供に渡される。雌の寄与は経血だけであるが、これは精液に類似したもので、各器官の形相のようなものを運んでいる。これによって、アリストテレスは母親の性質が子供に受け継がれることを説明していた。それにもかかわらず、アリストテレスは雌の寄与を雄の寄与より重要でないものとみなしており、母親は主に栄養だけに寄与する一方で、父親は性格や行動といった高次の能力に寄与するとした。
 アリストテレスによれば、子の性別を決定するのは精液の熱の量である。女性は男性より生来的に冷えているので、年老いた両親(若いときより熱が冷めている)や、涼しい南風が吹いているときに性交をした両親からは、女の子が生まれやすいという。また、父母からの子供への寄与はさまざまな能力に分かれており、両親は性交の最中、知らず知らずのうちに、どちらが子供のそれぞれの能力に主要な寄与をするかという競争をしている。しかし、この戦いが能力を害してしまう場合もあり、その場合は奇形となったり、片親の祖先の形質が現れたりする。

発生(世代)から発生(世代)へ(10–17頁)
 レスボス島を去ったアリストテレスは、マケドニアの王子アレクサンドロスの家庭教師となった。代々、王子は父親の王位と富、血筋とさまざまな能力や特質を相続(inherit)することになっていた(生物学的な意味での遺伝(inheritance)という概念は、財産の継承に関わる法律や慣習や伝統から借用されている)。ここで、もし王の徳が肩書きと同じように容易く受け継がれるなら、なぜ王子の教育に偉大な哲学者を雇わなければならないのかという疑問が生じる。学んで支配者になることができるなら、王家の血に特別なものは何もないのではないだろうか。
 王位を奪うことに成功した者たちは、当然ながら、血統ではなく強さこそが王に必須の性質だと主張する傾向があった。王家に生まれた者たちはぜいたくに育ち、戦う必要もないため、弱虫になるというのだ。王子を教育するという決定は、尊さを授けるのは血筋ではなく環境や経験だという考えに暗黙の支持を与えるものと解釈されかねなかった。
 プラトンの『国家』は適切な繁殖を重視しており、劣った人々は子供を産むべきではなく、優れた人々が多くの子供を産むべきだと論じている。しかし、その一方でプラトンは、支配者の魂をもっており金の種族に入るべき人が低い階級(銅の種族)に生まれることもあると認識していた。
 では結局、血統と教育のどちらの方がより大きな影響を与えるのだろうか。この問題は、世代交代にかかる時間の長さゆえに解決するのが難しかった。人々はアリストテレスが採った方法に倣い、動植物に注目して環境と遺伝の関係を解明しようとした。
 ソクラテスの弟子の一人であったクセノポンは、猟犬による狩猟について書いた論文のなかで、良い犬だけを交配すべきだと述べている。だが、クセノポンは両親や祖先の成績よりも、妊娠時における両親の健康状態に関心を向けており、このことは人間の場合を論じたプラトンの場合と共通している。
 アリストテレスも、ウマを中心に動物の交配について論じている。のちの古典的な著者たちもウマやその他の動物の交配を議論しているが、交配と環境の相対的な寄与についての合意はなかった。交配する動物の選抜を強調する者もいれば、雌牛を飢えさせ雄牛を肥えさせることを勧めるなど、交配の際の条件を気にかける者もいた。一方、生殖に関するアリストテレスやヒポクラテスの理論は実践的な指針を提供しなかったので、どちらもあまり関心を払われなかった。
 ヨーロッパ人たちが古典を再発見すると、アリストテレスの理論やヒポクラテスの理論は新たな注目を集めるようになった。初めのうちは、古代人の知恵を疑うことはなされなかったが、16~17世紀に状況が変わっていく。自然哲学者たちは古代人の知恵よりも自分たちの観察と実験に頼り、より経験的な方法で自然に迫るようになった。ボイルと彼の空気ポンプは新しい実験的自然哲学の時代の到来を告げ、新しいアプローチを宣伝する王立協会が設立された。
 17世紀より前には、実践的育種家たちは哲学者たちの理論に関心を払っていなかったし、哲学者たちも育種家たちの観察を無視していた。しかし、実験によって確かめられた実践知を強調する新しい自然哲学はこの壁を徐々に壊しはじめた。ウマの生産者などが、「発生(generation)」(遺伝と胚発生の両方を指す言葉 )に関する哲学者の文章を読むようになった。しかし、遺伝がどのように働くかについてはほとんど何も知られていなかったので、自然哲学者たちは胚発生に焦点を当てていた。
 ハーヴィは新しいスタイルによる研究を行った典型的な人物であり、もし長生きしていたら間違いなく王立協会に入っていただろう。ハーヴィは血液循環の研究でよく知られているが、新しい実験哲学を発生の理解に適用した『動物発生論』(1651)という著作も書いている 。ハーヴィは、従来の説に反して妊娠した動物の子宮内で経血と精液が混ざっていないことを示した。また、鳥類や爬虫類の卵は実際に産まれるよりずっと前から存在していることも解剖で示し、それを卵子(ovum)と名付けた。そして、精液がこの卵子を刺激して発達させるのだと推測したが、子宮内に精液の痕跡を見つけられなかったので、精液の霊的な発散物が胚発生を引き起こすのだと考えた。
 しかし、ハーヴィの著作を読んだ人の多くは、新しく生まれた生き物の形がどこから来るのかと疑問に思った。ハーヴィは、神が直接すべての胚発生に介入していると想定せざるをえなかったが、これは当時普及しつつあった機械論的宇宙観とはうまく調和しなかった。ニュートンが論じたように、もし神が諸惑星を後から介入せずとも回り続けることができるようにデザインできたなら、助けを受けずに成長する胚も考案できただろうと考えられる 。そこでハーヴィの批判者たちは、器官や構造は卵子のなかに元々存在していて、精液はそれを発達させるにすぎないのだと唱えた。
 元々は形をもたない卵子が次第に一定の形になっていくというハーヴィの理論は、後成説(epigenesis)として知られるようになった。ハーヴィの考えは、発表されたときにはすでに古めかしいものであった。ハーヴィはアリストテレスを批判していたにもかかわらず、その考えはよく似ていたので、同時代の機械論者からは古風なアリストテレス主義者とみなされた。
 後成説の批判者たちは、胚は卵子に前もって形成されているという前成説(preformationism)を唱えた。この説では、形をもたない胚に有機的構造を与える力が不要となり、霊魂がいつどのように人間の胚に入るのかという問題も解決される。創造が行われたのはたった一回だけ、神がイヴを創造したときであり、すべての人類はイヴのもつ卵子のなかにマトリョーシカのように包み込まれていた。この説は不合理に思われるかもしれないが、当時はアダムとイヴから数百世代しか経っていないと考えられていたのであり、また顕微鏡によって小さな世界が明らかになったばかりであったことも重要な影響を及ぼしていた。
 ハーヴィの死(1657)から10年以内に、新しい顕微鏡によって哺乳類の卵巣中の卵胞が特定できるようになった。これによって雌が胚を生み出すということが広く認められ、雄の役割はトリガーでしかなくなった。しかし、顕微鏡の第一人者であったレーウェンフックがさまざまな動物の精液中を泳ぐ微小な生き物を見つけたので、精液が単なる液体ではないことが明らかになった。前成主義者たちは、レーウェンフックのような精子論者と卵子論者に分裂した。発生学者たちはこれらの理論の検証のため、胚や卵子や構造を研究しはじめた。一方で、遺伝はますます無視されるようになった。
 前成説が間違っているという証拠は、自分の顔を鏡で見るだけで得られたはずである。誰もが母親の耳や父親の鼻など、両方の親の影響を映し出しているからだ 。しかし、この議論によって前成説を否定する試みは少なかった。また、前成主義者たちは、母親の想像が胚を形づくるとか、母親の栄養が精子を改変するといった説で反論した。のちにクアッガの謎の解決案として出てくる説明にも、こうした説の反響が残っている。
 種のすべての個体が世界のはじまりのときに創造され、最初の母親あるいは父親のなかに包み込まれていたという前成説の考えは、それぞれの種は神の心のなかにある不変の本質を体現しているという信念を伴っていた。それゆえ、前成主義者たちは生物の変異性を発生の理解に至る道とは考えず、むしろ変異を、神によって創造された原型からの恐ろしい逸脱として見る傾向があった。

生物が主役の生物学史 Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology, Preface and acknowledgements

Jim Endersby, A Guinea Pig’s History of Biology (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2007), IX–XII.

序文と謝辞(IX–XIIページ)

 過去200年における生物学の発展は目覚ましいが、これはショウジョウバエやモルモット、トウモロコシなどといった生物が、遺伝という生命の最大の謎の一つを解明する手助けをしてくれたおかげである。
 こうした生物たちを検討することで、我々がどのようにしてここまで来たかについての異なった理解や、我々がどこへ行くのかについての新しい考え方がもたらされるだろう。偉大な科学者ではなく生物たちの物語を描くことで、科学を可能にしてきたさまざまな種類の仕事を理解することができる。実験に使う生物を準備するには数ヶ月あるいは数年もの時間がかかることがある。科学は、輝かしい洞察を得ることであるのと同じぐらい、資金集めや細かい計画立案でもある。単独で働いていた科学者はきわめて少なく、ほとんどがさまざまな仕方で、同僚や競争相手、先生や生徒、技師や助手、そして何より先行者に頼っていた。
 生物学史は我々に、科学がどのようにして作動するのか、そして生物の多様性や複雑性、本性についてどのような答えを出すのかを理解させてくれる。この本で注目する生物を選ぶにあたって、著者はこの物語に貢献したすべての生物を挙げようとしたわけではなく、むしろ、ショウジョウバエのような有名なものからマツヨイグサのように今ではその役割がほとんど忘れ去られてしまったものまでを取り混ぜるようにした。また、いくつかの重要な生物を割愛せざるをえなかったが、それでも生物学研究の多様性と、生物学が過去200年のあいだにどれだけ変化したかがわかるだろう。
 ロバート・コーラーの『ハエの王たち――ショウジョウバエ遺伝学と実験的生活』(Lords of the Fly: Drosophila Genetics and the Experimental Life)は、遺伝学者たちではなくショウジョウバエを主役とした。コーラーは「ハエに従う」ことで、これまで歴史家たちに見過ごされてきた問題を検討することができた。
 フランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールやミッシェル・カロンのアイデアに刺激を受け、コーラーだけでなく、近年の科学史家たちは生物に注意を向けている。この本ではそうしたアプローチを活用して、生物学の歴史、特に遺伝と遺伝学の歴史を描いた。