2018年12月31日

伊藤圭介『泰西本草名疏』の多言語性 Fukuoka, The Premise of Fidelity, Ch. 2

Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan (Stanford: Stanford University Press, 2012), pp. 53–78.
Ch. 2 “Ways of Conceptualizing the Real: Scripts, Names, and Materia Medica

 
 日本語の「写真」という言葉は、現代ではphotographを意味するものとなっているが、かつては少し異なった意味をもっていた。この言葉は、江戸時代後期に尾張で活動した本草学研究会の嘗百社において、表現が対象物の真に迫っていることを意味する概念として発展し、彼らの本草学研究の基本的な価値観を表すようになっていた。この本では、嘗百社が迫真性についてどう考え、どのように「写真」概念を形成してきたのかを歴史的に追うことで、認識論的な写真史を描き出したい。
 第2章では、嘗百社のメンバーであった伊藤圭介がリンネ式植物命名法を初めて日本に紹介した『泰西本草名疏』(1829)の検討を通して、本草学における翻訳の問題に目を向ける。フーコーによれば、博物学の出現は単に自然界に対する興味関心が人々に芽生えたことによって生じたのではなく、言葉と物の結びつき方に関する一つのエピステーメーの形成に深く関係していた。博物学は言語と切っても切り離せない関係にあり、それゆえに複数の異なる言語の併存に対して本草学者たちがどのように取り組んだのかという問題は本質的に重要である。日本の本草学史は、日本か西洋か、封建的か近代的か、などといった二分法的観点から探究されることが多かったが、ここでは本草学をそうした二分法を超えたところにある複層的で多言語的な知の競技場として見てみたい。
 江戸時代の本草学は、李時珍『本草綱目』(1596)の翻訳から始まった。はじめは中国の本草学がそのまま日本にも適用できることが前提とされていたが、やがてそれを疑う学者たちが現れた。貝原益軒の『大和本草』(1709)は、日本の植物相は中国と異なっているため『本草綱目』の知識はそのままでは必ずしも有効ではないという認識に立ち、自らの経験や知識によって権威ある書物の知識を疑うことを可能にした。これに触発されて、尾張では松平君山の『本草正譌』(1776)や、嘗百社の創立者である水谷豊文の『物品識名』(1809)など、尾張の植物と中国の書物のあいだにある隔たりを埋めようとする著作が続々と現れた。豊文と伊藤圭介は、本草学の知識と実践に安定した基礎を設けるため、リンネ式の分類体系を取り入れることにした。
 圭介は『泰西本草名疏』において、リンネの体系を取り入れる理由を、個々の植物の「真」を探究して患者の治療に活かすためだとしている。圭介の態度は、江戸で活動していた宇田川榕菴の『菩多尼訶経』(1822)と対照的である。榕菴は、リンネの体系に解釈や修正を加えることなくそのまま導入することを目標としていたのに対して、圭介は名称の混乱を解決する手段としてリンネの体系を用いていた。
 『泰西本草名疏』は、大部分の内容をツンベルクの『フロラ・ヤポニカ』(1784)に負っているが、形態や地域などに関する記述を削除し、ラテン語・日本語・中国語の種名だけを記載した。配列はラテン語の種名のアルファベット順であり、このことによって同属内の種の近縁性が視覚的に読み取れるようになっている。ここでは、読者はラテン語の発音や意味を知っている必要はない。圭介はラテン語名を安定した名称として用いることで、名称の混乱を解きほぐしたのである。フーコーの研究はヨーロッパに限られていたが、ここではアルファベットのラテン語名が単に視覚的記号として用いられている、より強い事例を見出すことができる。

2018年9月18日

ジェントルマン科学人と職業科学者のあいだ Endersby, Imperial Nature, Introduction

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (Chicago: University of Chicago Press, 2008), pp. 1–30.


● イントロダクション

 ヴィクトリア朝(1837–1901)は、一般的に科学の職業化が進んだ時代として想像されている。工業化が進み、社会構造が変化し、進歩への傾倒が伝統への信頼にとって代わり、帝国が拡大し、科学が宗教に衝撃を与えた時代なのだから、大学で訓練を受けた科学者たちという新しい集団の台頭がその時代の象徴だというのはわかりやすいイメージだ。しかしこのような一面的な見方は、歴史家たちが近年明らかにしてきた、より豊かで複雑なストーリーを埋没させてしまう。英国で科学に携わっていた人々は、科学によってお金を得ることを立派なことだとはまったく思っていなかったので、職業的科学者の地位を積極的に目指していた人間は数少なかった。彼らは自分たちを私心のないジェントルマンだと思っていて、科学の職人だとは思っていなかったし、ましてやフランスの科学者たちがそうであったような政府の下僕だとも思っていなかった。彼らの多くは、愛好心のために科学をするということに誇りをもっていて、その点において自分たちは金銭のために職業として科学をしている人々よりもまさっていると考えていた。今日では、プロはアマチュアにまさっていると当然のように思われているが、当時はそのようなカテゴリーが定義され取り決められている最中だったのである。エリートである科学の実践者たちにとってのモデルは、知識の探求のために私財をなげうち、国王の友人兼アドバイザーとして帝国に貢献するも、政府の役職には就かずお金も受け取らなかったジョセフ・バンクスのような、18世紀のジェントルマンの理想を体現した人物であった。
 特別に大きな財産をもたなかったナチュラリストたちにとって、金銭的収入とジェントルマンの理想像は難しいジレンマであった。ナチュラリストたちは、帝国のあちこちから標本を集めてくれる協力者たちのネットワークに頼らなければならなかったが、彼らに十分な見返りを与えて懐柔するには名声も必要だったからである。
 本書ではジョセフ・ダルトン・フッカー(1817–1911)に焦点を当てるが、それは、ダーウィニズムの受容、帝国がもたらした帰結、科学専門職の出現という、ヴィクトリア期の科学に関する我々の理解で際立っている三つのテーマが彼の人生で中心的な位置を占めるからである。フッカーは1817年、グラスゴー大学の植物学教授やキューガーデンの園長を務めたウィリアム・ジャクソン・フッカーの子として生まれた。父の友人の力添えで海軍艦艇のエレベス号に乗船し、1839年から43年まで南極探検航海に参加した。帰国後、自ら収集した植物および植民地の協力者たちから入手した大量の標本をもとにして、南極大陸やニュージーランド、タスマニアの植物相について詳述したシリーズ本を刊行した。フッカーはこの業績で得た名声に後押しされてキューガーデンの副園長となることができ、1865年に父ウィリアムが死去するとこれを継いで園長に就任した。フッカーは、名声を損なうことなく職業的科学者の地位に就いた最初の人物の一人であるといえる。その一方、南極探検航海からの帰国後にはダーウィンとの文通も始まっており、『種の起源』出版後には公刊物で自然選択説を擁護した最初の人物となった。ただし、フッカーによる自然選択説の支持は今まで考えられてきたより複雑な問題であり、自然選択説のいくつかの含蓄から距離を置こうともしていた。
 本書では、先述した三つのような多様なテーマを結びつけて描き出すために、ナチュラリストの「実践」に注目する(本書では「実践」を、物質的なものを扱う仕事をする行動というような意味で用いる)。採集や分類といった日常的な実践を詳細に調べ上げることで、いかにしてそうした活動が科学の理論的考察に至るまでを形作ってきたかを示したい。とはいえ、科学の生産様式が科学的概念の内容を決定するという決定論を主張したいわけではない。そうではなく、実践に注目することで科学の性質についてのより良い理解を得られるということを示したいのである。

 科学は職業(profession)なのか、それとも天職(vocation)なのかという問いは、ジェントルマンとは生まれなのか、それとも育ちなのかという問いに内包されていた。科学を志そうとする人が描く将来像は、ジェントルマンのイメージによって形作られたのである。フッカーの父ウィリアムは、受け継いだ土地を売り払って醸造所に投資したが失敗し、ナチュラルヒストリーで生計を立てていくことになる。ウィリアムはグラスゴー大学に教授職を得たものの、こうした職は他にお金を得る手段のあるジェントルマンが務めることが前提となっていたため、給料はわずかなものであった。そのため、ウィリアムは教室の扉の前に立って学生から受講料を集めたり、Gardeners’ Chronicle などに一般向けの記事を書いたりして収入を得なければならなかった。

 フッカーは自分や他人を評すとき、しばしば「哲学的かどうか」という基準を用いた。この「哲学的」という言葉の含意は、ヴィクトリア期の科学界について理解するための鍵になるので、じっくり考えてみたい。
 1868年に友人へ送った手紙のなかで、フッカーは既存の本よりも「哲学的」な、英国の植物をまとめた本を書くと述べており、これは実際にthe Student’s Flora of the British Islands (1870) として出版された。フッカーは「哲学的」という言葉で何を言わんとしたのだろうか。この本はライバルの本と比べて、イラストが無いなどお堅い雰囲気があり、分類に関しては種をまとめる傾向があり、地理的分布を強調している。これらはフッカーのいう「哲学的」の構成要素だったはずだ。
 採集の方法もまた、「哲学的」の要件であった。すぐれた採集のためには、フッカーのいう「体系の哲学」に親しんでいなければならなかった。フッカーのような大都市の分類学者は、自分に代わって世界各地で実際に採集する人々を必要としていた。こうした人々に良い採集をさせるための一つの方策は、植物学の本などの贈り物をすることだったが、そうして技量が向上した採集者たちはフッカーに対してより多くを要求してくるようになるので、厄介な問題であった。彼らはしばしば新種を自分で命名したいと要望してきたが、フッカーはこの要望に十分応えられず、摩擦を生じさせていた。
 「哲学的」の背景には、植物学の地位を向上させようとしていたフッカーらの運動も関係していた。地理的分布の法則を掴めれば、その知識は大英帝国にとって大いに役立つので、植物学の地位向上が期待された。分類の基準を厳密なものにし、採集者たちの仕事を一貫した原則に従わせることも、植物学を物理科学に引けを取らない学問にするために重要な仕事であった。
 「哲学的」の意味を理解するためにもっと重要なのは、フッカーがどうやって生計を立てていたかに注目することである。キュー植物園で常勤の職を得た後、フッカーは「アマチュア」に対して少しの優越感を見せながらも、「プロフェッショナル」であることではなく「哲学的」であることを誇りとしていた。フッカーやその同時代人が使う「プロフェッショナル」という言葉にはネガティブな意味合いがあることを見逃してはならない。
 植物学を真剣に追究している人のことを、フッカーは「プロフェッショナル」ではなく「professed」と表現していた。これは「職業(profession)」というよりも「天職(vocation)」に近い意味合いの言葉で、給料を払われているという社会経済上の地位ではなく、個人の品性(character)を表しており、真理を追究する私心のない人間という印象を与えた。「プロフェッショナル」か「アマチュア」か、という区分は、フッカーが頼みとしている植民地の採集者たちや、ジョージ・ベンサムのような重要な人物を排除することになってしまうので、避けなければならなかった。また、植物学者が自分たちを「professed」と表現するのには、実用的な薬学から植物学を切り離すねらいもあった。
「哲学的」という言葉も、「professed」と同じような役割を果たした。フッカーにとって、自らをちゃんとした分類ができない“愚か者たち”から隔てているのは、自分は哲学的であって彼らは哲学的ではないということだった。
 ヴィクトリア期の科学における「プロフェッショナル」という言葉にひとつの定義を与えるのは不可能に思える。「プロフェッショナル」と表現された人々が、空いた時間をナチュラルヒストリーに費やす法律家や医師だったということもあるのだ。
フッカーを科学の職業化という文脈に位置づけるのであれば、彼がキャリア形成のなかで用いた組織を考慮に入れる必要がある。フッカーの戦略は、自身を組織に適応させつつ、組織自体を自分の目標にかなうように作り直していくというものであった。ダーウィニズムに対するはっきりしない態度も、キュー植物園ハーバリウムの創設者という立場に由来していた。
 ヴィクトリア期は、誰がジェントルマンなのか、ジェントルマンかそうでないかを決めるのは何なのか、ということが不確定になっていった時代でもあった。都市化が進み、ある人物がジェントルマンであるか否かは不明瞭になった。そこで礼儀正しさのような品性も、ジェントルマンであることを示す上で重要となり、「哲学的」であることの一要素となった。
 「プロフェッショナル」かどうかではなく「哲学的」かどうかで人が評価されるということ、つまり収入源ではなく実践や思想や振る舞いが基準になるということは、大きく変化する社会のなかで、様々な種類の人間が自らの道を切り開くために役立った。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実のあいだに、橋渡しをしようとしていたのである。

2018年4月13日

近代科学史に関する論文15本

引き続き、ジョンズ・ホプキンス大学の科学史・技術史学科に留学中です。
春学期に近代科学史の授業で読んだ論文や章の一部をまとめました。

Mary Terrall, “Representing the Earth’s Shape: The Polemics Surrounding Maupertuis’s Expedition to Lapland” (1992)
1730年代のパリでは地球の形状をめぐる論争があり、モーペルテュイらは地球が横長だと主張し、逆にジャック・カッシーニらは縦長だと主張した。この論争はしばしば、新たに台頭したニュートン主義と頑迷なデカルト主義の対立として説明される。しかし、実際の論争の中心となった論点はそのような宇宙論的な問題ではなく、むしろ測定装置の良さや観測の正確性、数学的な取扱いの適切さの問題であった。モーペルテュイは新しい数学的手法である微積分や英国製の装置を高く評価し、かつてジョヴァンニ・カッシーニによって築かれたパリの天文学者の権威に挑戦することになった。モーペルテュイはこの論争を利用して、アカデミーの外部で名を上げることに成功した。

I. Bernard Cohen, Benjamin Franklin’s Science, chs.1–2. (1990)
ニュートンの『プリンキピア』と『光学』は、前者はラテン語で後者は英語で書かれたことに象徴されるように、科学として異なる方向性をもち、別々のニュートン主義的伝統の土台を築いていた。『光学』は、定量的な実験科学の著作であるが、数学をほとんど用いないという特徴がある。フランクリンは『プリンキピア』を読みこなして理解する力をもっていなかったが、『光学』から大きな影響を受け、電気を一種類の流体として説明した。

Robert Fox, “The Rise and Fall of Laplacian Physics” (1974)
18世紀末から19世紀初頭、特にナポレオン皇帝時代の1805年から1815年にかけてのパリでは、ラプラスがその政治力を背景として牽引したプログラムが物理科学に強い影響力をもった。ラプラスの物理学では、熱、光、電気、磁気といった現象が、相互に引力や斥力を働かせる粒子から成る不可秤量流体というニュートン主義的な概念によって説明された。ラプラスのプログラムは、ラプラスとベルトレが中心となり、ビオやポアソンといったアルクイユ会のメンバーや、ゲイ=リュサックなどによって支えられた。しかし、徐々に説明がうまくいかない事柄が増え、フーリエ、フレネル、アンペールらによる対抗理論の提唱もあって、ナポレオン没落以降は衰退した。

Eugene Frankel, “J. B. Biot and the Mathematization of Experimental Physics in Napoleonic France” (1977)
ラプラスとベルトレのプログラムは、新しい器具や技術の使用によって実験物理学の定量化を進め、測定の正確性を向上させ、物理変数間の関係を代数学的に表現し、その結果を不可秤量流体の理論によって説明しようとするものであった。このプログラムのもとで、ジャン=バティスト・ビオは電気、磁気、音、光、熱など、様々な研究分野を転々とした。このプログラムの着想は主にラプラスとベルトレによるが、その着想を具体的な形にしたのはビオの貢献が大きい。

Lawrence M. Principe, “A Revolution Nobody Noticed? Changes in Early Eighteenth-Century Chymistry” (2007)
 これまで、化学史といえば18世紀であり、18世紀の化学といえばラヴォアジェであるという理解がまかり通ってきた。それゆえ18世紀の化学史は、ラヴォアジェによる「革命」を説明するために必要な話題ばかりが集中的に取り上げられてきた。ゲオルク・シュタールの化学のなかでフロギストン説だけが注目され、その他は捨て置かれているのはその一例である。ラヴォアジェ中心の化学史は、目的論的であり視野が狭いという問題がある。
 1675年頃から1725年頃のあいだに起きた変化は、1760年頃から1810年頃の化学革命に匹敵する急激かつ重要なもので、もう一つの革命ともいえる。ボイルとラヴォアジェのあいだの時代にはキミストリー(chymistry)に大きな発展はなかったかのような説明はおかしい。18世紀初頭には、金属変成の術(chrysopoeia)もしくは変成(transmutation)が真剣な研究の領域から排除され、化学やその実践者たちの地位や職業的性格が高まり、顕著な理論的な刷新があった。この時代のフランス科学アカデミーでは、スキャンダルなどによってキミストリーの社会的地位が危うくなっていたため、フォントネルやニコラ・レムリが中心となって金属変成を追放し、キミストリーを再生しようとしたのである。この時点をもって初めて、同義語であった「錬金術」と「化学」が、それぞれ現代的な異なる意味をもつようになった。
 フランス科学アカデミーに所属し、金属変成を熱心に研究していたヴィルヘルム・ホンブルグの研究を綿密に見ていくと、当時のキミストリーがきわめて理論的、体系的で、成熟していたことがよくわかる。我々は、わずかな理論的記述にばかり注目するのではなく、キミストリー最大の特徴である実践に注目し、そこに潜んでいる彼らの思考プロセスを明らかにする必要がある。
 よく普及しているストーリーとして、1675年頃から1725年頃までのあいだに、合理的なデカルト主義の化学がアリストテレス主義・パルケルスス主義の17世紀のキミストリーに取って代わり、さらにそこにニュートン主義の化学が取って代わったというものがある。しかし、重要な化学者のうちに本物のデカルト主義者はいなかった。しばしばデカルト主義者の例として言及されるレムリの化学にさえ、実際のところデカルトはあまり影響を及ぼしていない。また、ニュートンは18世紀の化学の本流を説明する上では不要な名前である。ニュートンの名前は宣伝のために用いられることはあったが、真の影響を及ぼしてはいなかった。デカルト主義とニュートン主義の対立は物理学に見られるが、化学ではほとんど見られない。

John Gascoigne, “Joseph Banks and the Expansion of Empire” (1998)
アメリカ独立革命からナポレオン戦争の終結までの時代の英国では、その帝国主義的政策を一手に担う省庁(植民地省)が存在せず、そのためにジョセフ・バンクスのような政府内に役職をもたない専門家が助言し関与する余地が生じた。バンクスは政府要人とのパイプを活かし、アフリカ協会やロンドン伝道協会といった団体を動かして探検を加速させ、植民地の農業改良に注力し、英国の帝国主義的拡大に寄与した。のちのイギリス第二帝国による植民地政策の性格は、実はこの時期に形成されていたのである。

John Gascoigne, “The Royal Society and the Emergence of Science as an Instrument of State Policy” (1999)
パリやベルリンのアカデミーとは異なり、ロンドンの王立協会は政府から資金援助や指示を受けておらず、その自主性や独立性を誇りとしていた。しかし実際には、王立協会のメンバーは政府中枢の重要人物たちと個人的関係や階級意識で繋がっており、政府に科学関係の助言を与えていた。特に、1778年にジョセフ・バンクスが王立協会の会長に就任してからは、その結びつきが一層強まった。このように非公式な方法で政府の仕事に携わることを可能にしていた寡頭制の政治体制は19世紀に強く批判されるようになり、王立協会はより正式な方法で国家の政策に関与するようになった。総力戦下の1916年になってようやく、政府内に科学を専門に扱う科学産業研究庁が組織された。哲学者と政治家が手を携えるフランシス・ベーコンの理想は、最終的に戦争によって実現したのだといえる。

Jim Endersby, Imperial Nature: Joseph Hooker and the Practices of Victorian Science (2010)
Introduction
ジョセフ・ダルトン・フッカーは、科学の担い手がジェントルマンから職業的科学者へと変わっていった時代の人物である。フッカーは自分や他人を評すとき、「プロフェッショナルかアマチュアか」ではなく「哲学的かどうか」という基準を用いた。科学は金銭のためではなく愛好心のためにするのだというジェントルマンの理想と、金銭的必要のために公の職に就かざるを得ないという現実の狭間にあったことの表れだと考えられる。
Ch. 10 “Governing” 
1865年にキュー植物園の園長に就任したフッカーには、収入を遺産やパトロンではなく政府に頼る立場でありながら、ジェントルマンを自認するというキメラ的性質があった。キュー植物園自体にも、公によって維持され運営されてきたものであるが、一方でフッカーの父ウィリアムが私的に築き上げてきたものでもあるというハイブリッド的性質があった。キュー植物園は午後の時間帯に一般の人々に開放されていたが、これはフッカーにとって、貧しい人々にも美しい空間を分け与えるというジェントルマンとしての務めであった。1870年代初頭、建設長官のアイルトン(Acton Smee Ayrton)がキュー植物園を一般向けの公園にして研究機能は大英博物館に移管させようとしたことで、キュー植物園の管理権を主張するフッカーやそれに同調したハクスリーやダーウィンらとのあいだにアイルトン論争が生じた。アイルトンは近代的な官僚制を適用して科学をプロフェッショナル化しようとしたのに対し、フッカーらはジェントルマンの科学を維持しようとする立場から抵抗したのである。

Bruce J. Hunt, “Doing Science in a Global Empire: Cable Telegraphy and Electrical Physics in Victorian Britain” (1997)
帝国の文脈は、地質学や植物学、動物学などといった自然史系の分野のみならず、電磁気学の形成にも深く関わった。19世紀後半の英国は、陸上のみならず大西洋海底にも電信ケーブルを敷設して、アメリカ、エジプト、インド、香港、オーストラリアに至るまで、世界中の植民地と英国を電信網で結んで「帝国の神経」とした。この電信網の敷設と運用に膨大な資金と人的資源が投入された結果、英国では電気に関わる単位や規格の標準化や、測定技術の発展が進んだ。また、電磁気現象を「場」の考え方を用いて定式化するファラデーのアプローチは当初支持されなかったが、海底電信ケーブルの問題を扱う上で都合が良いことがわかり、英国で独自の発展を遂げた。ドイツやフランスでは電磁気現象を粒子間の遠隔作用として捉えるアプローチが19世紀を通して支配的であったのに対し、英国では1850年代半ばから「場」のアプローチが台頭し、1860年代から80年代にかけてマクスウェルとその後継者たちによって理論が完成されたのである。マクスウェルの理論は、1888年にドイツのヘルツが電磁波の存在を実験的に示したことで確証されたが、同時に無線電信技術への道が開かれ、英国の情報優位が失われる結果につながったのは皮肉だといえる。

Robert Kargon, “Model and Analogy in Victorian Science: Maxwell’s Critique of the French Physicists” (1969)

19世紀初頭の物理学では、ニュートン主義の立場をとるラプラスやポアソンらの学派が、遠隔作用を働かせる粒子の存在を前提した上で、そこから演繹された現象を実験結果と比較する手法で物理現象の説明を進めていた。一方、実証主義者のフーリエやそれに追随したオームらは、原因ではなく法則のみを追求し、物理学を数学に還元しようとしていた。マクスウェルは、現象から出発しない前者の手法にも、物理的内実を欠いた後者の手法にも満足できず、別の手法として物理的アナロジーをつくる方向に進んだ。こうしてマクスウェルは、ファラデーの電気力線についての論文(1861–62)で有名な渦のモデルを提案したが、これを真の物理学理論だと考えていたわけではない。マクスウェルは、このようなアナロジーをつくることのメリットは、それが何も説明しないことにあると考えていた。渦のモデルが足掛かりとなって完成された論文「電磁場の動力学的理論」(1865)では、アナロジーは姿を消すことになった。

Robert M. Young, Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture, ch.4 “Darwin’s Metaphor: Does Nature Select?” (1985)
ダーウィンはライエルの斉一主義を継承したことで、生物が方向性をもって進化することを地史の定向性から類推することができなくなってしまった。ダーウィンが用いることができたアナロジーは自然選択と人為選択のあいだのそれであったが、このアナロジーによって自然を擬人化したことで、ダーウィンは多くの批判を引き受けることになった。

Robert Marc Friedman, The Politics of Excellence: Behind the Nobel Prize in Science, ch.7 “Einstein Must Never Get a Nobel Prize: Keeping Physics Safe for Sweden” (2001)
アインシュタインの相対性理論は、物理学に限らずそれまでの真・善・美の概念を破壊するものとされて様々な反対に遭った。ドイツでは、真のドイツ科学は実験に基づくと主張するレーナルトやシュタルクが、アインシュタインの理論を形而上学的なユダヤ科学として排撃する動きがあった。ノーベル賞の受賞も、スウェーデンの学術コミュニティ内部の論理によって遅れた。1919年の皆既日食の観測でアインシュタインは世界的な名声を得るに至ったが、1920年の選考では、相対性理論に対して否定的なアレニウスのレポートに賛同が集まり、また長く選考委員を務めてきたBernhard Hasselbergが病気で退職する予定であったため、彼の友人であったギヨームが選ばれた。1921年の選考では、32人の推薦者のうち14人がアインシュタインを推薦したが、王立科学アカデミーやウプサラ大学で権威を振るっていたアルヴァル・グルストランドが強く反対したことで保留となった。最終的には、病死したHasselbergに代わってノーベル物理学賞委員会に入ったCarl Wilhelm Oseenの努力によって、光電効果の法則の発見を授賞理由とすることで1922年にアインシュタインの受賞が決まった。

Robert H. Kargon, “Temple to Science: Cooperative Research and the Birth of the California Institute of Technology” (1977)
Robert H. Kargon, The Rise of Robert Millikan: Portrait of a Life in American Science, ch.4 “The Scientist in Action” (1982)

米国科学アカデミー(NAS)は1863年に創設されていたが、米国の科学研究を組織化するような役割は果たしていなかった。そこで、第一次世界大戦において科学が軍事的に重要となったことを背景として、ウィルソン山天文台を設立した天文学者のジョージ・ヘールの呼びかけのもと、学術・産業・教育・政府の各界から代表者を招いた全米研究評議会(NRC)が1916年に創設される。ヘールと、彼を助けた物理学者のロバート・ミリカン、化学者のアーサー・ノイズの三人は、天文学や物理学や化学といった異なる分野が垣根を越えて協力することが今後の科学にとってきわめて重要だという認識を共有しており、カリフォルニア工科大学(Caltech)をそのような場所に生まれ変わらせようとした。彼らは、科学研究が連邦政府によってコントロールされてしまうことを恐れていたので、NRCの人脈を活かして民間のパトロンを集め、1920年代におけるCaltechの躍進を実現した。しかし、世界恐慌や第二次世界大戦の時期になると民間のパトロンは不十分となり、連邦政府による介入が本格化していくことになった。

John W. Servos, “The Industrial Relations of Science: Chemical Engineering at MIT, 1900–1939.” (1980)

20世紀初頭、マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学者アーサー・ノイズは、学生たちに工学の実践よりも物理学の原則を教えることで、MITを単なる技術学校から基礎科学に基づいた大学へと改革しようとした。一方、同じくMITの化学者であったWilliam Hultz Walkerは、ドイツの化学産業が科学者たちと経営者たちの協力によって飛躍的発展を遂げたことを念頭に、応用科学を重視して産業界との直接的な結びつきを強化しようとした。ノイズは物理化学研究所を、Walkerは応用化学研究所を、それぞれMIT内に立ち上げてプロジェクトを進めていたが、第一次世界大戦が始まると、ドイツからの輸入が途絶えたことで米国の化学産業が急速に拡大し、状況はWalkerに有利となった。ノイズは辞職し、MITの化学は産業界から支援を受けて産業のための実践的な研究をするという、Walkerの路線を突き進んで発展していった。しかし、やがてMITの化学者たちは産業界に主導権を握られている状況に不満を覚えるようになり、また世界恐慌によって産業界がMITへの支援から手を引いたことで、学長のカール・コンプトンは産業界の下僕にはならない方針を打ち出し、MITはかつてノイズが構想した方向性に近づいていった。