2016年10月28日

キュヴィエの化石研究を支えた国際的協力関係 Rudwick, “Researches on Fossil Bones”

Martin J. S. Rudwick, “Researches on Fossil Bones: Georges Cuvier and the Collecting of International Allies,” in The New Science of Geology: Studies in the Earth Sciences in the Age of Revolution (Aldershot: Ashgate, 2004).

 パリの自然史博物館は、19世紀初頭の自然史研究において世界の中心地であった。この論文では、『四足動物の化石骨の研究』(1812)の完成に至るまでの頃のキュヴィエを例として、自然史博物館における日々の実践と国際的な交流がどのようなものであったかを分析する。

 キュヴィエはもともと現生の動物界の研究に邁進するつもりでいたが、自然史博物館の国際性が発揮された二つの出来事をきっかけに、化石の研究に集中するようになった。一つ目は、1789年にブエノスアイレスで発見された化石(キュヴィエはその動物を「メガテリウム」と名付けた)の版画がマドリードから送られてきたことであり、二つ目は、共和国軍がオランダで勝利して接収したコレクションのなかに、二つの異なるゾウの化石が含まれていたことだった。これらの化石の研究によってキュヴィエは、現世の種とは異なる絶滅した種が存在するという主張をするようになった。

 キュヴィエの研究は、ほとんどが屋内でなされていた。パリ盆地に関するブロンニャールとの共同研究でさえ、キュヴィエ自身はあまりフィールドワークに出かけなかったようである。

 動物学や植物学の場合と違って、化石は繁殖させることができず、それゆえに貴重であった。また、化石の複製を作る技術は十分発達しておらず、作ったとしても戦争中の状況では輸送のリスクが大きかった。その代わり、化石のスケッチは安全かつ安価に作り届けることができた。スケッチは、専門の画家が描く場合もあったが多くの場合ではナチュラリスト本人が描いていた。こうしたスケッチは、キュヴィエの国際的ネットワークにおいて通貨の役割を果たしていた。

 キュヴィエは1800年に、化石研究の国際的な協力を呼びかける声明を発表した。この声明を呼びかける前の時点では、キュヴィエにスケッチなどを送ってくれる情報提供者はパリの外には決して多くなかったが、声明の後には数が増え、地域的にも広がりを見せた。キュヴィエと情報提供者たちの関係は互恵的であり、彼らから送られてきたものがキュヴィエに多くの証拠を提供した一方で、情報提供者たちは広く行き渡ったキュヴィエの著作を通して名前を認知されることができた。

2016年10月23日

生気論と還元主義の間を行く目的論的機械論 Lenoir, The Strategy of Life, Preface & Introduction

Timothy Lenoir, The Strategy of Life: Teleology and Mechanics in 19th Century German Biology (Chicago: University of Chicago Press, 1982).

Preface

 本書が描き出すのは、19世紀初頭のドイツにおける、目的論的モデルと機械論的モデルの統合に基づくリサーチプログラムの発展の歴史である。ドイツの生物学における19世紀初頭は不毛な思弁的議論の時代であったとみなされがちであるが、本書ではその評価を覆したい。また同時に、目的論の支持者は生気論者であったとか、彼らは宗教的に動機付けられていたなどといった誤解を解きたい。目的論的な関係性は、生物の形態や機能の因果的機能を研究するための、思慮深い様式であった。

 本書の主題となる研究伝統は、諸生物の相互関係を説明する理論の構築も目標としており、フォン・ベーアらが型に制限された形での生物の発展モデルを築いた。フォン・ベーアは、哺乳類の卵子の発見などの業績だけが注目されがちであるが、生命科学に大胆なアイデアを提出し続けた人物であり、本書の主人公となる。

Introduction

 本書の主張は、19世紀前半のドイツにおける生物学の発展は、1790年代に打ち出されたアイデアとリサーチプログラムに導かれていたというものである。アイデアの明確な定式化はカントによってなされ、これがブルーメンバッハとその学生たちによって生物学に導入された。さらに、トレヴィラヌス、キールマイアー、メッケル、フォン・ベーア、ミュラー、ベルクマン、ロイカルトなどといった人物が続いた。こうした研究伝統は、これまで注目されてこなかった。それは第一に、目的論的説明とその発見的な効力を理解しようとする歴史家が少なかったためであり、第二に、ドイツの場合には生物学を発展させた推進力はロマン主義の自然哲学であると誤って考えられてきたためである。

 ダーウィンへの注目の強さも、ダーウィン以前における生物学のイメージを歪めてきた。ダーウィンは生物学の諸分野の統合に成功したが、その目標を達成するためのアプローチはそれ以外にも存在していた。だがイングランドにおけるダーウィンの同時代人たちの目的論は、宗教的な信念を擁護するものが主であり、ひどく貧弱であった。その一方、ドイツでは創造に依らない形での目的論が洗練されていたのだが、ダーウィンはそれを意識していなかった。そして歴史家も、ダーウィンの記述に追随してきてしまった。

 生物学の発展の歴史はしばしば、生命現象を物理学や化学の法則に還元することによる目的論の追放の過程として描かれてきた。だが、そのような理解は間違っている。生命現象を物理学や化学の法則に還元できないと考えることは、厳密に定量的な科学を行うことと矛盾しない。

 生物学における目的論は、生気論と還元主義の中間的な説明を提供するものであり、いくつかの形式に分類することができる。一つ目の立場(生気機械論)は、ニュートンの万有引力と類似した生命固有の力を想定するが、その力は生物を構成する物質の組織に依拠していると考える。これは生気論に比較的近い立場で、ブルーメンバッハやライルが採用した。二つ目の立場(機能主義)は、物理学的・化学的な力以外の力の存在を認めないが、特定の境界の内部では物理化学的な力の作用が秩序立てられると考える。この立場は、ベルナール、ベルクマン、ロイカルトらが採用した。以上の二つの立場と異なり、三つ目の立場は生命のない物質と生物体の二分法を認めず、宇宙全体が根本的に生物学的なのだと考える。物理学的な法則は、宇宙全体を司る生物学的法則(各部分は全体に従属する)が特定の制限下に置かれた場合に成立するものに過ぎない。このアリストテレス的な立場は、ヘーゲルによって採用された。

 19世紀の00年代にはドイツの生物学者たちは一つ目の立場を好んだが、40年代末までに二つ目の立場が有力となった。この移行は生理化学やエネルギー変換に関する理解の進展によるものであったが、その進展をもたらしたのは本書で論じる、カントに始まる目的論的機械論の研究伝統であった。


2016年10月10日

遺伝子概念の歴史と現在 Griffiths&Stotz, "Gene"

Paul E. Griffiths and Karola Stotz, “Gene,” in The Cambridge Companion to the Philosophy of Biology, eds. David L. Hull and Michael Ruse (Cambridge: Cambridge University Press, 2007).

第5章 遺伝子

 遺伝子という概念は、生物学の研究において様々な種類の需要に応えており、文脈によって多様に意味を変化させていることが指摘されている。それゆえ、遺伝子とは何か?という問いに答える唯一にして最良の方法は、この概念の多様性とその理由を描き出すことである。この章では、生命科学の需要に応じて遺伝子の概念が歴史的にどのように変化してきたかを描き出す。 

●    道具的遺伝子(pp. 85–87)

 遺伝学的研究の最初の30年間において、遺伝子は二重のアイデンティティをもっていた。
第一の観点[道具的遺伝子]からすると、遺伝子とはメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数であった。実際、初期のメンデル主義者たちは、メンデル的形質とその基である因子を区別していなかった(この区別は、1909年にヴィルヘルム・ヨハンセンが「表現型」と「遺伝子型」という術語を導入したことでようやく明確になった)。
 第二の観点[物質的遺伝子]からすると、遺伝子とは細胞の物質的な構成要素であって、それの親から子への伝達がメンデル的な遺伝パターンを因果的に説明するものであった。 
T・H・モーガンは1933年のノーベル賞受賞スピーチで、「遺伝学者のあいだでは、遺伝子とは何なのかということについて、言い換えれば、遺伝子は実在するのか純粋に想像上のものなのかということについて、コンセンサスはとれていない。なぜならば、遺伝学の実験のレベルにおいて、遺伝子が仮説上の単位であるか物質的な粒子であるかということは、まったく違いを生まないからである」と述べた。
 我々の見方では、遺伝子という概念はこれまでの歴史上、細胞学(のちには生化学)に基づく構造的概念[物質的遺伝子]と、生物のあいだ(のちにはDNA分子のあいだ)での交雑の結果に基づく機能的概念[道具的遺伝子]のあいだで弁証法的に揺れ動いてきた。

 古典遺伝学は単に遺伝の理論だけで構成されていたわけではなく、遺伝子解析という実験的な実践を伴っていたのだが、そのことによって遺伝子の概念には強い制約がかかっていた。
 一つの実例をみてみよう。遺伝学者のウィリアム・キャッスルがおこなったラットの交雑実験は、メンデル的因子の離散性や不変性に疑いを差し挟んだ。この実験では、対立遺伝子がほかの対立遺伝子によって「汚染」されているかのように見えたのである。この問題は結局、メンデル的な遺伝パターンに従う形質は単一の遺伝子によって決定されており、従わない形質は複数の遺伝子によって制御されているとみなすことで解決された[問題となったラットの変異は、複数の遺伝子が関与しているのだと解釈された]。
 同様にして、メンデル的な比率に従わない連続的な変異も、たくさんの仮説的な遺伝子が関与しているものとして理解された。
 道具的遺伝子は、定義からして、メンデル化の単位[あらゆる形質の遺伝を、メンデル的な遺伝パターンに従うように分解し、遺伝子解析を可能にする単位]なのである。 

●    物質的遺伝子(pp. 87–89)

 一方、モーガン学派は遺伝の染色体説を確立し、遺伝子は染色体上に一列に並んでいるものであると考えた。彼らは、メンデル的な遺伝パターンからの様々な逸脱(遺伝的連鎖など)を、染色体の動きという観点から説明することができた。しかし彼らの多くはこうした達成にもかかわらず、遺伝子の物質的な性質に関心をもたなかった。その理由は、一つにはそれが遺伝子解析で追究できる問題ではなかったからであり、もう一つにはそれは遺伝子解析にとって必要のない問題だったからである。

 だが、モーガンの弟子の一人であったH・J・マラーは、そのような道具的遺伝子の概念に満足しなかった。マラーはまず、遺伝子が果たしている機能から考えて、自己触媒作用ができること(自己の複製)、他の物質の化学反応においても触媒となること(表現型への寄与)、変異性をもつこと、の3つが遺伝子の条件であると考えた。マラーは遺伝子の物質的性質を研究するプログラムを立ち上げ、1927年にX線照射によって遺伝子の突然変異を誘発できることを発見し、これによって初めて遺伝子の物理的なサイズを推定した。
 マラーのアプローチは、遺伝子が表現型にもたらしている効果を無視している。表現型との関係は、かつては遺伝子の定義を成していたために疑問を投げかけることが不可能な性質であったが、こうして検証可能で否定もでき得る性質になったのである。

 さらに、戦間期にあらわれてきた生化学が、遺伝子の物質的性質を次第に解明した。この時期の生化学の中心的テーマは生物学的特異性であり、1930年代中頃以降には分子間の相互作用を立体配座の観点から理解しはじめていた。特異性の概念は、遺伝子とその産物の関係にも適用されるようになった。
 細胞の活動が分子の特異性によって説明されるのであれば、表現型に対する遺伝子の効果は特異性をもった生体分子によって媒介されると考えるのが自然である。こうして1941年には、「一遺伝子一酵素説」が誕生した。3年後には、オズワルド・エイヴリーが遺伝子はDNAでできていることを示した。
 1940年代には、物理学に習熟した科学者たちが生物学に流入してきたことで、研究アプローチに変化が起こった。このことが、1950年代から70年代における分子的な遺伝子概念の普及に道を開いた。 

●    遺伝子なしでやる?(pp. 90–91)

 遺伝学者リチャード・ゴールドシュミットが1940年代から50年代に引き起こした論争も、古典的な遺伝子概念について洞察を深めるための材料になる。
 当時モーガン学派によって、染色体上における遺伝子の相対的な位置の変化が表現型に変化をもたらす「位置効果」が知られるようになっていた。現代では「突然変異」を、染色体の塩基配列におけるあらゆる遺伝性の変化として定義するが、古典遺伝学では、表現型の遺伝的な違いとして現れる個々の遺伝子の内在的な性質の変化として定義していたので、位置効果は突然変異ではないとみなされた。ゴールドシュミットは、染色体のなかで遺伝子と対応するような構造的部分が区切られているという証拠はないのだから、突然変異と位置効果の違いは単に染色体の構造変化が小さいか大きいかの違いに過ぎないのではないかと論じた。
 またゴールドシュミットは、機能の単位に対応するような特有の構造的部分は染色体上に存在しないだろうと考え、遺伝子を否定した。つまり、物質的遺伝子は道具的遺伝子に対応しなければならないと考えた結果、遺伝子はないという結論に至ったのである。同時代の多くの学者たちは、彼の議論を受け入れなかった。彼らは、ゆくゆくは機能の単位に対応するような構造的部分が見つかるだろうと考えたのである。 

●    「新古典的」遺伝学と分子遺伝子(pp. 91–92)

 遺伝暗号が解読された1960年代初頭には、「古典的」遺伝子から「新古典的」遺伝子(古典的分子遺伝子ともいう)への大転換があった。新しい分子遺伝子の概念は、遺伝子が突然変異や遺伝的組換えの基礎的単位ではないことを認識した点において古典的遺伝子の概念と一線を画している。
 こうした変化は、染色体地図がより詳細になったことによって生まれた。たとえばシーモア・ベンザーは、1954年から61年にかけてのバクテリオファージを用いた研究で、同じ遺伝子のなかでの異なる突然変異の位置を特定したり、組換えが単一の遺伝子のなかでも起こることを示したりしたのである。これは、遺伝子を一体的で粒子的なものとみなす考え方に対して懐疑的であったゴールドシュミットの立場を裏付けるものであった。
 ベンザーは、組換えの単位をrecon、突然変異の単位をmuton、遺伝的機能の単位をcistronと呼んで区別した。しかし結局、reconとmutonは1塩基になってしまい、分子生物学ではcistronが遺伝子であると認識されるようになった。cistronからは単一のRNA鎖が転写され、一つのタンパク質に対応しているという点で、一遺伝子一酵素説の教義を裏付けていたからである。

●    古典的分子遺伝子概念に対する難問(pp. 93–97)

 1960年代には、タンパク質に翻訳されない機能性RNAをコードしている遺伝子があることがわかった。しかしこの問題は、分子遺伝子の定義を、特定のポリペプチド鎖に直接対応する塩基配列ではなく、特定の遺伝子産物の構造を決定する塩基配列とすることによって解決できる。古典的分子遺伝子の概念は、物質的遺伝子と道具的遺伝子を統合するものであるように思われた。
問題としては、コード領域と隣接しない調節領域は、コード領域とは別個のメンデル的因子であるにもかかわらず、分子遺伝子としては一つにまとめられてしまうということがあった。それでも古典的分子遺伝子の概念は、きわめて成功していたといえる。

 だが、1970年代からは別の問題が起こった。遺伝子のような役割を果たす塩基配列は、お互いに重なっている場合があることがわかったのである(ときには一方が他方のなかに完全に含まれている場合もある)。染色体の物理的構造とその産物の関係は、一対一ではなく多対多になっていた。結局のところ、最終的な遺伝子産物の構造には転写された塩基配列がそのまま反映されているわけではなく、転写後の様々なプロセスによって複雑な変更を受けている。たとえばトランススプライシングの過程では、独立に転写された複数のpre-mRNAが加工されて最終的なmRNAが完成しているのである。フレームシフトによる翻訳や、逆方向に読む翻訳が何らかの役割を果たしている場合もある。DNAと遺伝子産物の関係は、1960年代に考えられていたよりもずっと間接的なものに過ぎなかったのである。 

●    現代的遺伝子(pp. 97–99)

 我々は、「遺伝子とは何か?」という問いに関して、少なくとも3つの答えがあると考える。それは、伝統的遺伝子(道具的遺伝子)、ポストゲノム分子遺伝子、そして「唯名論的遺伝子」である。

●    伝統的遺伝子(p. 99)

 生物学者たちにとって、生物間やDNA分子間でのハイブリダイゼーションに基づく遺伝子解析は今でも重要な手法であり続けている。このような目的にとっては、遺伝子は表現型の遺伝パターンによって定義される媒介変数のままであって、物質的単位として定義しようとすることで生じる困難はひとまず無視することができる。 

●    ポストゲノム分子遺伝子(pp. 99–100)

 ポストゲノム分子遺伝子は、目標となる遺伝子産物分子の、DNAのなかに見出だせるイメージなのだが、このイメージは断片化されたり歪められたりしているため、機能的ゲノミクスが全過程を明らかにするまで識別できないと考える。この概念は、遺伝子と分子のあいだの直線的な対応関係という、それらを特定し操作しようとする生物学者にとって重要なものを守る点でメリットがある。物質的には一義的な定義を与えられなくても、目標となる分子の生産を支えるDNA要素を知ることの有用性は変わらないのである。

●    唯名論的遺伝子(pp. 100–101)

 遺伝子として注釈付けられ、それが科学者共同体によって受け入れられた配列が、遺伝子なのだと考えることができる。ただし、科学者共同体は必ずしも明確な判断基準をもっているわけではない。科学の現場において遺伝子は、典型的な遺伝子にどれだけ似ているか、言い換えれば、様々な「遺伝子っぽい」特徴(プロモーターをもっているか、機能的に多様すぎない転写をもっているか、など)をどれくらい備えているかという観点から判定されている。 

●    結論(pp. 101–102)

 遺伝子は、表現型から観察できるメンデル的な遺伝パターンによって定義される媒介変数として登場し、次に仮説上の物質的単位というアイデンティティも獲得した。両者間の弁証法は最終的に「新古典的遺伝子(古典的分子遺伝子)」の概念に行き着いた。しかしその後は研究の進展によって、遺伝子を適切かつ構造的に定義することは果たして可能なのかという疑いが持ち上がった。現在採用できるだろう遺伝子の捉え方としては、伝統的遺伝子、ポストゲノム分子遺伝子、唯名論的遺伝子の3つがある。