2016年3月26日

「特異性」から「情報」へ Kay, Who Wrote the Book of Life?, 第2章前半

Lily E. Kay, Who Wrote the Book of Life?: A History of the Genetic Code (Stanford: Stanford Univeristy Press, 2000), pp. 38–55.


第2章「特異性の空間:情報の時代以前における分子生物学の言説」

【38-1】1971年、物理学出身の生物学者マックス・デルブリュックは、DNAの原理を発見したのはアリストテレスだという真面目なジョークで聴衆を沸かせていた。アリストテレスが論じた不動の動者は、自らは変化することなく働きかけて発達を促すという点でちょうどDNAに通じるのだという。

【38-2】アリストテレスの時代錯誤性を語ったこの議論は、皮肉にも別の時代錯誤性を浮き彫りにしている。20世紀後半に属する約20年間の分子生物学が、20世紀前半における遺伝の重要概念をまったく塗り替えてしまったという、より直近の断絶である。

【39-1】1940年代を通してデルブリュックを含めた分子生物学者たちは、ファージの感染、増殖、突然変異、組換え、抵抗といった現象を生物学的・物理化学的な言葉で説明し、情報の転送について言及することはなかった。

【39-2】1950年代の分子生物学において、「情報」や「暗号」といった言葉はクォーテーションマーク付きで現れたが、50年代末までにマークは消えた。情報という言説的フレームワークの外で遺伝的なメカニズムや生物について考えることはできなくなった。

【39-3】だが情報という隠喩は何を意味するのか? どのような特徴が、情報の時代以前の分子生物学の言説を際立たせているのか?

【39-4】この章では1940年代の分子生物学を検討し、特に知識と権力が結合していた場として、戦間期におけるロックフェラー財団による分子生命科学への支援に注目する。この調査は最終的に、生物学的特異性という概念の中心性を際立たせることになる。

【40-1】カンギレムは生命の概念化の歴史における不連続性(生気としての生命、メカニズムとしての生命、組織としての生命、情報としての生命)に焦点を当てた。そしてフーコーは、19世紀に生命についての科学が現れた際における組織化の言説の重要性について詳しく論じた。比較解剖学が自然史に挑み、可視的な形態に代わって隠された組織化が鍵となった。フランソワ・ジャコブがカンギレムとフーコーを参照して論じたように、生物と無生物を分けるのは組織化の有無であった。生物学的組織化の概念は、20世紀中頃に至るまで生命科学に指針を与え、その後は生命のコンピュータープログラムという想像物に組み込まれた。

【41-1】組織化の言説において「特異性」は、生化学・免疫学・遺伝学・生理学・発生学・分類学・進化といった生命諸科学を貫く主題であった。「特異性」の概念は、後に「情報」に置き換えられていくことになる。この二つの概念には互換性があるが、同じというわけではない。特異性は分子の三次元構造と実験的に決定された基準に基づいており、アリストテレスのいうところの質料因であるが、情報は一次元的なテープとして抽象化されるものであって実験的基準を欠いており、アリストテレスのいうところの形相である。組織化の言説と情報の言説はどうしても重ならない。遺伝と生命の物語はプログラム化されたコミュニケーションのシステムによって書き直されており、そこでは組織化の概念はアルゴリズムのなかに再定式化されている。

【41-2】ここではまず、20世紀前半の生命科学における「特異性」の空間を調査する。


● 組織化という「グランドデザイン」の内側

【42-1】フランソワ・ジャコブは、生物学には真の理論はほとんどなく、多くの一般化があるのだと考えた。特異性はそのような一般化の一つであり、20世紀前半の生命科学における主要な関心事であり統合的な主題であった。1930年代から40年代において分子生物学の出現に貢献した問題や実験的課題も、特異性の観点に基づいていた。遺伝子や酵素、抗体、細菌、ウイルスの組成や構造が判明する前でさえ、こうしたものの知識はそれらの機能的特異性に基づいて蓄積されていた。

【42-2】「情報」という言葉と同じように「特異性」もはじめは一般的な言葉であったが、20世紀初頭の免疫学において特定の専門的な意味や首尾一貫性を獲得した。元々は立体相補性(stereocomplementarity)という概念が、1890年代におけるパウル・エールリヒの側鎖説から、それを置き換える1920年代におけるカール・ラントシュタイナーの抗体合成の研究に至るまで、特異性を表現してきた。またこの概念は1894年にエミール・フィッシャーによって、鍵と鍵穴のモデルで表現された。

【43-1】発生学においては、細胞内相互作用の特異性が免疫学的な言葉で表現されてきた。発生学者のフランク・ラットレイ・リリーは1914年に、精子と卵は細胞の表面における立体相補性の反応によって結合するという説明を提唱した。生理学者のジャック・ロエブは、リリーの生物学的なモデルに反対した。ロエブは発生学を精密科学にしようという意図から、隠喩的な側鎖説の代わりに物理化学的な免疫学に基づいた機械論的説明を与えようとしていた。

【43-2】ロエブや同時代の生化学者たちにとって、種内や種間での生理学的な違いを決める特異性は、タンパク質の組成や構造の違いの問題に帰着するはずだった。生理学者のEdward ReichertやAmos Brownは、200種の哺乳類がもつヘモグロビンの結晶を調査することで、進化や分類の問題に切り込もうとしていた。

【44-1】1916年頃までに、ロエブは種や属の特異性の担い手は基本的にタンパク質であると確信していた。ロエブは遺伝学の崇拝者であったにも関わらず、種の決定に細胞核の構成要素が関与することは疑わしいと考えていた。そして、メンデル的な形質は個体や変種レベルの遺伝を決定することはあっても、属や種レベルの遺伝を決定するものではないと推測していた。

【44-2】遺伝学者のトマス・ハント・モーガンは、そうした区別を示すメンデル的研究は無いとして強く反対した。1920年代までに、遺伝子と形質のあいだに一対一の対応はないというコンセンサスが得られ、遺伝学における特異性の問題をさらに混乱させた。

【44-3】モーガンは遺伝子の物理的意味について語りたがらなかったが、ほとんどの同時代人と同様、遺伝子をタンパク質として想像していた。

【45-1】1930年代、ロックフェラー財団の後援によって米国の遺伝学が物理化学的な方向に向かうと、特異性はさらに重要な問題となった。財団は「人間の科学」という優生学的な意図を含んだ新しい課題を立ち上げ、科学に基づいた社会秩序の合理化を図った。財団の会長であった生理学者Max Masonとその後見人ウォーレン・ウィーバーのもとで、遺伝学は社会科学、医学、生物学をつなぐ鍵を握っているとみなされた。身体と集団のコントロールという生権力の枢軸の中心という位置であった。

【45-2】1933年から財団のアドバイザーを務めたモーガンの助言によって、新しく生理学的遺伝学の課題が設置され、特異性と遺伝子の動きの直接的関係性が深まっていった。特異性の概念は、免疫学から遺伝学に輸入された。財団のプログラムを背景に、遺伝子とその生産物は生物学的・化学的特異性の観点から概念化されるようになっていった。

【45-3】「情報」という言葉のように、「特異性」という言葉も隠喩的、発見法的な価値をもっていた。構造やメカニズムがわかっているのでなければ「特異性」は実際には説明になっていないのだが、実践的な価値があったのである。特異性は基本的に生物学的概念であり、生きた現象やプロセスを意味したので、形態から機能までを関係づけることができた。

【46-1】20世紀前半の生命科学者にとって、組織化は肉体を支配する隠れた行為者であり、生物や種の統一性、安定性、特異性を形作っているものであった。そして組織化は特異性に基づいていた。

【46-2】組織化、言い換えれば生命の階層的秩序は、職業の専門分化という考え方に基づいていた。近代工業社会によって、組織化や専門家は人間科学の言説となっていた。生物学的特異性は、組織化、分化、専門家、協力、安定性、コントロールといった、近代の社会技術的構築物の網の目のなかにある。

【47-1】ウォルター・キャノンの文章にも、生理学的プロセスと社会的プロセスを類比的に捉えたものがある。こうした言説が、20世紀中頃まで生物学的研究の対象を形成し、生体の表現を形作っていた。生命についての異なる表現は、第二次世界大戦後の政治体制から生まれてくることになる。そして組織化の問題はサイバネティクスのモデルや情報の言説のなかで再構成され、結局はグランドデザインや生物を分解することになる。 


● 第一動因:タンパク質と核酸

【48-1】身体の組織化や存続に関わる要素として、タンパク質は特権的な物質であると考えられていた。少なくとも1950年代前半まで、生物学的・化学的特異性を負っていたのはタンパク質であった。生命の物質的基盤をタンパク質に求める伝統は、トマス・ヘンリー・ハクスリーがそれを原形質(プロトプラズマ)に求めたことに遡る。20世紀前半における優生学や遺伝学の台頭によって、「ナショナル・プロトプラズマ」(優生学者ダベンポートの概念)は、生権力の管理において重要な場となった。

【48-2】1930年代までに酵素学の発展によって、原形質に集中させられていた生命の様々な特質は、それを構成するたくさんの酵素に分散させられた。結晶の成長と類比的に捉えられた「自己触媒作用」が、細胞の増殖や生物の成長など幅広い現象を説明する包括的な言葉として用いられた。生化学者ウェンデル・スタンリーがタバコモザイクウイルスを結晶化し、それを自己触媒的な特性をもつタンパク質として特徴づけた研究(1935)は、生命の酵素理論を証拠付けるものであり、ウイルス、酵素、遺伝子、抗体といったものが結局のところタンパク質であることを示すものとして理解された。

【48-3】組織化の言説におけるタンパク質の認識的・文化的重要性は、1930年代から1950年代前半におけるロックフェラー財団の分子生物学プログラムを支えるものであった。ウォーレン・ウィーバーは、タンパク質がほとんどあらゆる生命現象に関わっていることを根拠に、プログラムがタンパク質の研究を中心としていることを正当化した。

【49-1】分子生物学プログラムには、生体の組織化と国民(body politic)の組織化の双方を正当化する働きがあった。分子生物学の台頭には、戦間期における意味の体制のなかで生み出された社会技術的意味の安定化と、1930年代と40年代における特定の観念が体系的に配列された仕方を見てとることができる。組織化は、分子や身体のみならず、社会にも当てはまる概念だとみなされた。個人や集団の行動を合理化し、管理することが必要とされていたのである。その行動は、部分的には生物学的なものであった。そして生物学的組織化の議論は遺伝学的決定論と融合するようになっていった。このような言説の経済において、身体を表象する様式とそこに介入する方法はどちらも物質的だったのであって、第二次大戦以前の時代に「メッセージ」や「情報」や「テクスト」はなかったのである。

【49-2】分子生物学に対する重要な貢献者の一人は化学者のライナス・ポーリングであった。タンパク質の構造や免疫化学に関するポーリングの研究は、生殖においてタンパク質の特異性が中心的な役割を果たしており、将来的には出生や人口の管理による社会の合理化においても中心的な意味をもつことを示していた。ポーリングは水素結合がタンパク質の三次元構造を決定していると考え、またその構造が生物学的特異性を決めていると論じることで、立体相補性の概念を更新した。

【50-1】タンパク質の(アミノ酸の順序関係とは独立した)空間的折りたたみによって特異性を説明する考え方は、1940年代の分子生物学で一つの柱となった彼自身の免疫化学プログラムの基礎となっている。1940年にポーリングが生物物理学者マックス・デルブリュックと共に抗体形成を論じた論文では、相補性を特異性の述語(?)として、抗体形成のプロセスを酵素合成、ウイルス複製、遺伝子作用に接続した。彼らは、分子間の特異的な引力や酵素による分子の合成についての議論では相補性が第一に考慮されるべきだと論じた。全体の議論は遺伝、成長、細胞制御の鋳型としてのタンパク質の主要性・特異性にかかっていた。

【50-2】相補性を触媒作用の鋳型とみなす考え方は、ポーリングに始まったわけではない。たとえば1936年には遺伝学者J・B・S・ホールデンが、抗体と抗原の関係を、レコード盤とそのネガの関係に喩えていた。ポーリングとデルブリュックは、物理的メカニズムを示してそれを全ての生物学的現象に一般化することで、鋳型の概念を狭めると同時に広げたのである。

【51-1】こうした考え方は、ポーリングの抗体形成についての鋳型仮説にフレームワークを提供した。病理学者カール・ラントシュタイナーによる抗体の特異性理論と、ポーリング自身のタンパク質折りたたみモデルを組み合わせることで、ポーリングは抗体形成の大筋を説明することができた。指令説と呼ばれるこの理論は、1950年代中頃まで支持され続けた。

【51-2】それまでのあいだ、抗体形成の理論が分子生物学における特異性のイメージを規定していた。抗原は鋳型として、ポリペプチド鎖は可塑的な物質として捉えられた。

補足
・エールリヒの側鎖説(1897)
もともと様々な種類の側鎖(レセプター)が細胞表面に存在しており、ある側鎖が抗原に出会うと同じ種類の側鎖が大量に血液中に放出される。この側鎖が抗体として機能する。
・ラントシュタイナーの研究
人工的に作られた化学物質(抗原)にすら、抗体が生み出されることを示した。では、ほとんど無限の種類が現れる抗原に対して、どうやって特異的な抗体が作り出されているのか?
・ポーリングの鋳型説と指令説(1940)
抗体は抗原に出会うとそれに合わせて折りたたまれ、ほぼ無限の種類の抗体になる(抗原が鋳型として機能している)。
・バーネットのクローン選択説(1957)
抗体をレセプターとしてもつB細胞が多種類用意されていて、これが抗原に出会うとその種類のB細胞のクローンが増殖し、大量の抗体を産出する。抗体の多様性はいかにして確保されているのかが不明という点で、側鎖説と同じ難点があった。
・利根川進の研究
B細胞が遺伝的再構成を行って多様性を確保していることを明らかにした。

【51-3】遺伝学者のジョージ・ウェルズ・ビードルも、自身の研究プロジェクトを生物学的特異性の観点から概念化した。ビードルは1940年代前半に、遺伝子は酵素なのか、それとも遺伝子が酵素をつくるのかという問題に焦点を当てた。ビードルはエドワード・ローリー・タータムとの共同研究で、特定の酵素によって統制された一系統の化学反応が一つの遺伝子によって制御されていることを明らかにした(一遺伝子一酵素説)。

【52-1】ビードルにとって、遺伝的特異性はタンパク質の折りたたみに埋め込まれたものであり、メンデル遺伝学と生理学と行動を結びつける問題であった。ビードルは遺伝子が様々なタンパク質の特異性を制御しているのだと考えた。そして10年後には、遺伝的情報はDNAによって運ばれているという認識が受け入れられるようになった。DNAは、タンパク質の特異性を握っているのみならず、生物学的情報の創作者かつ唯一の担い手、すなわち第一動因の地位に登りつめたのである。

【52-2】しかし微生物遺伝学者ジョシュア・レーダーバーグが気づいたように、特異性を情報で置き換えることには問題もある。レーダーバーグは、遺伝子が酵素に特異性を刻印する鋳型の役割を果たすということが一遺伝子一酵素説の前提になっていると述べた上で、特異性の概念は構造と関係していることを指摘した。だがレーダーバーグも結局は情報の言説を採用した。

【53-1】情報という表現は、構造の問題を扱う分野においてはあまり魅力的ではなかったが、特異性という表現と違って物質の領域に縛りつけられることがなかった。

【53-2】特異性と組織化の言説から情報の言説への移行は、1950年代におけるジャック・モノーの研究においてとりわけ印象的である。モノーが焦点を当てた酵素的適応(ある物質が存在するときに限って特定の酵素が選択的に生産される現象)は20世紀初頭から知られていたが、遺伝学の問題となったのは1940年代中頃からであった。

【53-3】モノーが1947年に発表した論文「酵素的適応の現象および、その遺伝学と細胞分化の問題との関連」では、組織化の言説における生物学的特異性の中心性が浮き彫りにされている。

【54-1】モノーはここで、現在の生物学の発展における最大の特徴の一つが特異性の問題への注目であると述べ、同じゲノムをもつ細胞がいかにして異なる特異性をもつ分子を生み出すのかを説明しようとしていた。1940年代のモノーにとって、遺伝学は生物の成長や生物学的組織化の問題と不可分であった。

【54-2】モノーは「鋳型」という隠喩の固く脆いイメージを嫌う一方で、「プロトタイプ」や「マスターパターン」といった言葉を好み、より液体的で偶然的なイメージを追求した。遺伝的要因は分子構造の可能性の幅を決めるに過ぎず、環境的要因も影響するのだとモノーは考えていた。1940年代のモノーは、細胞を流動的なものとして、遺伝を相互作用的で変更可能、偶然的なものとして表現していた。だが1950年代中頃には、細胞を閉じたサイバネティックなシステムとして表現するようになり、言説的にも酵素的適応から酵素誘導への転換を始める。1950年代において細胞の現象は、遺伝的情報に完全に制御されているものとみなされるようになるのである。

【55-1】モノーの方針転換には、分子生物学におけるタンパク質から核酸へのパラダイムシフトが表れている。1930年代にも核酸が遺伝的複製やタンパク質合成を担っているのではないかという議論は現れていたが、タンパク質の研究に莫大な投資がなされるなかで、注目されることはなかった(特に米国では)。だが1944年にオズワルド・エイブリー、コリン・マクラウド、マクリン・マッカーティが、肺炎球菌の形質転換を起こしているのは核酸だと論じたことがターニングポイントとなった。


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