2016年4月4日

メンデルと「再発見」に関する新しい説明 Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work”

メンデルや「メンデルの再発見」に関して、生物の教科書に載っているような従来型の説明は40年ほど前からの科学史研究で大きく覆されています。この論文では、メンデルやその「再発見」に関する新しい研究の成果がまとめられています。


Randy Moore, “The “Rediscovery” of Mendel’s Work” Bioscene 27 (2001): 13–24.

 従来メンデルは、遺伝の二つの法則(分離の法則と独立の法則)を発見した人物であり、それゆえ遺伝学の基礎をつくり、ダーウィン革命において欠けていたメカニズムの説明を提供した人物だと考えられてきた。そしてメンデルの研究が当初無視されたことについて、様々な理由が挙げられてきた。だが、それらとは異なる説明がある。第一に、メンデルの研究は当時の文脈において革命的というよりもむしろ典型的なものとして理解されていたという説明である(Olby, 1979)。そして第二に、メンデルの研究はその内容だけではなく、「再発見者」たちの先取権論争の結果として有名になったという説明である。


第一の説明について。

・メンデルの論文は種形成や交雑に関する研究であり、遺伝についての研究ではなかった。メンデルは、雑種の形成と変化を支配する一般的な法則を探究していたのである。
・メンデルは、今では有名な9:3:3:1の比率について言及していない。
・メンデルの論文は、分離の法則などの「メンデルの法則」をはっきり述べてはいない。
・メンデルが粒子的な決定子の概念をもっていたという証拠はない。メンデルが遺伝子の性質について説明したことはないし、形質のペアと遺伝のファクターのペアが等価であることを説明したこともない。その点において、メンデルはメンデル主義者ではない(Olby, 1979)。
・メンデルは、雑種の子孫のうちに同一形質の子を産む(breed true)ものとそうでないものがある理由を説明するのに、受精についての細胞理論を用いた。メンデルはこの理論を、遺伝子を位置づけるのに用いなかった。
・メンデルは「メルクマール」と「エレメント」という言葉を使い分けている。メルクマールは、見て認識できるような性質のこと、エレメントは、メルクマールを生み出していると考えられる未知の物質のことを指していた。エレメントという言葉は、論文の結論部で10回だけ登場する。
・メンデルは雑種をAaのように表現した最初の人物であり、このことからしてメンデルは雑種が二つの異なる形質をもっていることを知っていたように思われる。一方で、純粋繁殖の系統に対してはAやaのように一文字だけを用いていることから、メンデルはこの文字が何か物質的構造を表すとは考えていなかったのかもしれない。
・メンデルは、種間や変種間に明確な線引きをすることは不可能だと考えていた。メンデルにとって重要だったのは、実験材料が純粋繁殖の植物であることだった。
フーゴー・イルチスやチェルマク、コレンスといった人々は、20世紀初頭の時点で、メンデルの業績は雑種に関する研究であり、それが非直接的に遺伝についての理解を生み出したのだと考えていた。


第二の説明について。

 ド・フリース、コレンス、チェルマクの3人が独立にメンデルの業績を「再発見」したという説明は疑わしい。まずチェルマクは優性と劣性の性質を理解していなかったし、分離が3:1の比率を生み出すことについても議論しなかった。チェルマクの論文はメンデルの研究を確かめるものではあったが、解釈を発展させるような類のものではなかった。

 メンデルの論文を有名にしたのは、主としてド・フリースとコレンスのあいだでの先取権論争だった。19世紀末までに、ド・フリースは形質が独立した単位として遺伝しているのだと確信するようになっていた。1900年にド・フリースが発表した論文「雑種における分離の法則」は、activeとlatentの語に代わって優性と劣性の語が用いられるなど、様々な点でメンデルの論文によく似ていた。1900年以前において、ド・フリースはメンデル的な術語で思考していなかったし、3:1の比率を報告したこともなかった。むしろド・フリースは2:1や80:20の比率と報告していた実験結果を、1900年以降になるとデータはそのままなのにもかかわらず3:1の比率として解釈し直したのである。ド・フリースは1900年以降、1896年の時点でメンデルとは独立に分離の法則を発見していたと主張したが、それは疑わしい。ド・フリースは、1900年以前にメンデルの論文を知っていたが、それを十分理解するには至っていなかったのだとも考えられる。ド・フリースに限らず、「再発見者」の誰もが1900年以前にはメンデル的な解釈をしていなかった。

 3人の再発見者のなかで、コレンスだけがメンデルの論文を完全に理解していた。コレンスはメンデルの理論を、2つの遺伝単位によってそれぞれの形質が決定されるという理論として説明していた。また、異なる遺伝子ペアの独立性をはっきり述べたわけではなかったが、9:3:3:1の比率を発見していた。コレンスはAnlageという言葉を用いたが、これはメルクマールやエレメントとは異なり、不連続な決定子であって親から子へと移動していくものとして説明された。またAnlageは、形質そのものではなく形質を導く出来事のための信号だとされていた。コレンスは分離が減数分裂によるものであることや、Anlageのセットは細胞核のなかにあることを示唆していた(メンデルもド・フリースも、遺伝の単位が栄養細胞には2つあるが性細胞には1つしかないということに言及していない)。またコレンスは、形質のペアはAnlageのペアによって決定されるのだと示唆した最初の人物であった。

 コレンスはド・フリースの論文を読んだときに、メンデルによる3:1の分離比の発見をド・フリースが隠そうとしているのだと感じた。そこでコレンスは、ド・フリースに発見の権利を譲ることを嫌い、メンデルを真の発見者として持ち上げる論文を急いで書いたのである。


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