2016年11月2日

化石研究とジオグノシーの結合 Rudwick, Bursting the Limits of Time, Ch. 8

Martin J. S. Rudwick, Bursting the Limits of Time: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Revolution (Chicago: University of Chicago Press, 2005), pp. 417–469.

8章 地史に発展するジオグノシー

8.1 地球の「考古学」(1801–4)
キュヴィエのような化石の研究者たちは、地層に順序があるということを認識していないなど、ジオグノシー(geognosy)には疎かった。一方、ヴェルナーの追従者たちのジオグノシーは、地史を大理論から演繹するのではなく特定の地域の特定の岩石からボトムアップで研究するという新しい段階に突入していたが、こちらでは化石はあまり注目されなかった。屋内での化石標本研究と屋外での岩石累層の研究を結合したのは、地理的・社会的に分断された二つの新しい発展であった。第一の発展は、ゲッティンゲン大学のブルーメンバッハによる「考古学」の試みに始まる。ブルーメンバッハは、「知られているもの」「疑わしいもの」「知られていないもの」という化石の三区分を、三つの時代に対応するものとして読み替えた。ブルーメンバッハの学生であったシュロートハイムが、植物化石の研究でこの路線を引き継いだ。

8.2 地層の順序(1801–6)
第二の発展は英国で起こった。スミスは累層と化石の相関を発見した最初の人物ではないが、ある層に特有の化石という概念が極めて広い範囲の地域に通用すること、そしてそうした化石に基づいて累層を高い信頼性で区別できることを示した点で革新的であった。しかし、スミスはそれらの累層の形成を因果的に説明することにはあまり関心をもっていなかったし、ましてや歴史的な科学をつくっていたわけでもなかった。

8.3 地史のタイムスケール(1803–5)
1805年にキュヴィエは一般向けの講義を行い、その際に「地質学」の名称を採用した。キュヴィエの地質学にとって一つ目の脅威は、ナポレオンが教皇と和解したことによって宗教的伝統主義が再表面化したことであった。シャトーブリアンに代表される聖書直解主義は、長いタイムスケールを否定するものであった。二つ目の脅威は、ラマルクの定常モデルに代表される永遠主義であった。キュヴィエは講義のなかで、両者の中道を行く立場を主張した。

8.4 地史の新しい課題(1806–8)
「地質学」という言葉をド・リュックは地球理論(geotheory)の意味で用いていたが、この時期には、鉱物学的な記述の実践、自然地理学、ジオグノシー、地球物理学の因果的解釈、などといった領域の総合のようなものを意味するようになっていた。こうした変化は、キュヴィエの権威に裏打ちされていた。キュヴィエはまた、地史の9つの課題をリスト化して実りある研究の方向性を示した。また英国では、ロンドンに新しく創設された学会が「地質学会」と名付けられた。

0 件のコメント:

コメントを投稿